アヴェスターにはこう書いている?
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折原浩 『マックス・ウェーバー基礎研究序説』

 テンブルックのウェーバー解釈の鍵をなす概念「脱呪術化 Entzauberung」も、かれの仮定とは異なり、じつは<理解社会学のカテゴリー>に初出している(Kg,S.433, 林訳、22ページ)し、「1911~13年草稿」(WuG,S.308)にも現れている。(p.101)


ウェーバーの思想の展開や作品史を押さえるにあたってかなり重要なポイント。



「禁欲」はさらに、(俗世からの完全な離脱をともなう)「世俗拒否的weltablehnend禁欲」と、(俗世の秩序のただなかで、神の「道具」としての資格を証ししようとする)「世俗内的innerweltlich禁欲」とに二分されるが、ここでの呼称は、まだ、(<禁欲>そのものを<世俗拒否的>とみて、これを<世俗外的>と世俗内的>に二分する)<中間考察>の用語法にまでは整序されていない。ここ「宗教社会学」草稿では、ウェーバーは、<中間考察>の<世俗外的禁欲>(修道士の禁欲)だけを「世俗拒否的」と呼んでおり、<世俗拒否的>はむしろ「遁世的weltfüchtig」と同一方向にあると見られ、<世俗内的禁欲>のほうは、「世俗志向的weltzugewendet」でこそあれ、「世俗拒否的」ではない、と見ていたのである(つぎの(3)の論点に関連)。(p.230)


1911~13年草稿の「宗教社会学」と『世界宗教の経済倫理』の「中間考察」との間の禁欲に関する捉え方の相違の指摘。どうしても前者の論文は読みにくいので、(翻訳書では特に)こういった細かい概念の変遷を追うことは難しい。このあたりのことを自ら行うことができるかどうかがある意味専門家と素人とを分ける一つの境界線となると思われる。ただ、こうした指摘は翻訳で読む素人にも大いに参考になる。


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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

萱野稔人 インタビュー・編 藻谷浩介、河野龍太郎、小野善康 『金融緩和の罠』(その2)

河野 ……(前略)……。
 金融危機時の大量の流動性供給というのは、本来、金利を下げることで設備投資を刺激するというような発想で考えられた政策ではありません。繰り返しますが、危機時に無制限の流動性を供給し、金融システムを安定化させる、というのがもともとの考えなんです。いまは、危機時の流動性供給政策と、金利政策による景気刺激政策が混同されている。
 ところで、それらはまったく別ものだということを、はじめてはっきりと認識した人は誰かというと、19世紀半ばに『ロンバード街――金融市場の解説』という本を書いたウォルター・バジョットという人なんですね。
 ……(中略)……。
 昔は金融市場に流動性を供給する機関がなかったので、金融危機がすぐにおこりました。彼は、危機対策として最後の貸し手が必要だということをいっていいるんですね。「危機がおこったら無制限でお金を貸しなさい」と。つまり無制限の流動性の供給ですね。
 ところが、そのとき同時にもうひとつひじょうに重要なこともいっているんですよ。「担保をとって十分な金利を取りなさい」と。

―― 流動性の供給に際して金利を取るということですか。それは日本ではおこなわれていないことですよね。

河野 そうなんです。世界中のどの中央銀行もおこなっていません。バジョットがなぜそれが必要だといっているかというと、危機がおこったときに金利ゼロで資金を貸してしまうと、本当は資金を必要としない人も資金を取ってしまう。じつはこれが次なるバブルを引き起こす、ということです。(p.128-130)


なるほど。ゼロ金利がなぜよくないか、ということを明快に説明している。



河野 ……(前略)……。そもそも代議制民主主義というのは、産業革命がおこって、どんどん社会が豊かになっていくときに発達した、利益分配のためのシステムですよね。(p.131)


代議制民主主義の一つの見方として面白い考え方。

ただ、利益分配の「ための」システムであるかどうかは、そのような機能を果たしてきたという事実とは分けて考えなければならないようにも思う。



河野 私は、低成長を認めようが認めまいが、ぜひ政治家にも理解しておいてほしいことがあるのです。そもそも政府には恒常的・継続的に成長率を高める能力は残念ながらほとんどないということです。

―― それは、原理的に政府にはそういう能力がない、ということですか。あるいは日本政府にかぎってない、とか、いまの政府にはない、ということでしょうか。

河野 日本政府にかぎらず、多くの政府にはないでしょうね。政府が経済政策としておこなう財政政策や金融政策は、いまの日本でなにか本質的に経済を動かしていけるものであるかのようにあつかわれていますよね。
 しかし、こうした財政・金融政策はそれ自体で新しい付加価値をうみだすものではありません。財政・金融政策の本質とは、「財政政策は所得の前借りであり、金融政策は需要の前倒しである」ということなんです。(p.133-134)


参考になる。

ただ、帝国主義の時代などに企業と政府が結びついて特定の企業の利益を上げさせることはでき、そうした特定の者の利益のために政府が利用される傾向が強まっている、ということは併せて理解する必要があるだろう。




小野 そうです。つまり自分の生活を考えれば、デフレをすごく幸せに思う状態になっている。だって、ちょっとした公共料金の値上げだけですごい反発がありますよね。明らかにデフレのほうが好ましいという心理があるんです。一般の人びとの心理から、それにあわせようとする政府の政策まで、そういう面が強くなってしまった。だからすべてをそのまま維持するような構造へむかっている。それがすごくまずいんです。(p.187)


なるほど。確かにデフレを望む心理が強まっている。



小野 ……(前略)……。つまり、なにか成長戦略があるはずだといって、そのときのはやりの分野、話題の分野をはやしたてて、わーっと飛びつく。政権が変わるたびにだされる成長戦略ってみんなそれです。
 私はそんな発想で介護といったわけではありません。そもそも、介護ビジネスで昔の高度成長のような成長ができるなんて思ってもいない。
 では、なぜ私が介護と言うかというと、多くの人手が必要で大きな雇用効果を期待できるからです。成熟社会の成長戦略とは、余り気味の生産能力をどうやって少しでも国民の役に立つ仕事にまわすか、ということです(p.189)。


前段の「成長戦略」に対する批判はもっともと言う感じがする。アベノミクスの「第三の矢(成長戦略)」もこれと同じであろう。

成熟社会では、「供給過剰=需要不足」による不況が恒常化しやすく、それを改善するには需要側を強化することがポイントとなる。



―― ただ、増税は景気を悪化させる、という意見は根強いですよね。エコノミストや経済学者のなかにもそのように考える人は多い。たとえば、増税が景気を冷やした例として、1997年に橋本内閣が消費税を上げたときのことをあげる人は多いですよね。

小野 あのときの景気悪化は、じつは増税が原因じゃないんです。図3を見てください。あの時期に一気に景気が冷え込んだのは、政府が公共事業を減らした結果、建設労働者が大量に解雇されたからです。4年間でおよそ50万人も建設業の就業者が減っているでしょう。(p.202)


消費増税が97年不況の主因ではないというのは正しい。つい最近も内閣府と財務省が増税が主因ではなかったとする報告をしている。次はasahi.comの8/23の記事から引用。

内閣府の資料は、97年の増税直後の景気の落ち込みは増税前の「駆け込み」の反動が大きく、1世帯が生活に使えるお金の減少は月562円で、景気への影響は小さかったと分析。「(増税は)景気後退の『主因』とは考えられない」と明記し、その後のアジア通貨危機や日本の金融危機を不況の「主犯」とした。財務省の資料も、通貨危機後に景気後退が深刻化したと強調する統計をまとめた。





―― ……(前略)……。
 ベーシック・インカムとは、最低限生活ができるだけの現金を国民全員に一律に給付しましょうという政策です。その人が失業していようが、たくさんお金を稼いでいようが平等に現金を配るということですね。こうした案が少なからぬ人に支持されてしまう。私はここにも、お金がなによりも重要だという、人びとの現金志向を感じます。雇用を増やそうという政策よりも、現金をとにかく渡そうという政策に注目が集まってしまうわけですから。
 ……(中略)……。日本維新の会もベーシック・インカムを掲げていましたが、完全にあの政党はデフレ政党ですね。(p.212-213)

 
所得再分配があまり機能しなくなっているという問題意識のもとでベーシック・インカムへの注目が一部で高まってきたのは確かだろう。適切に制度設計されれば必ずしも全否定すべき政策ではないが、現状との相違の大きさから見て、実現は当面不可能だと考えている。

ただ、この政策に支持が高まること自体に、現金を欲しがる風潮が反映されている面があるという指摘はこれまで気づかなかった点であり、興味深い。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

萱野稔人 インタビュー・編 藻谷浩介、河野龍太郎、小野善康 『金融緩和の罠』(その1)

藻谷 順番にひもといていきたいのですが、なにより最大の問題は、金融緩和の始まった90年代後半以降の日本の景気低迷は貨幣供給量の不足が引き起こしているわけではないということです。足りないのはモノの需要です。いまの日本では貨幣を増やしてもモノの需要を増やすことはできません。(p.22)


妥当な指摘。この点に関して日本社会全体としてコンセンサスがとれるようになれば、経済政策もまともな方向に向かう可能性が増大するのだが。



藻谷 リフレ論はそもそも「供給されたお金はかならず消費にまわる」という前提に立って構築された理論ですから。「人はお金さえあれば無限になにかを買いつづける」というのが、とくに実地で証明された話ではないのですが、彼らの理論の基盤になっているのです。(p.22)


需要や消費については、従来の経済学のほとんどの理論が適切に説明することができていない。ある特定の種類の財を生産・供給する人は少数であり、その行為を理論化することは、その他大勢の消費者の行為を理論化するよりも相対的に容易であるという事情があるように思われる。



藻谷 ……(中略)……。1995年を境にして、生産年齢人口、つまりバリバリと働く現役世代の人口が減少し、同時に就業者数、これは一週間に一時間でも賃労働をした人のことで非正規労働者を含む数字ですが、これも減りはじめているのがわかります。
 ……(中略)……。
藻谷 ……(中略)……。
 セオリーベースで考えるマクロ経済学では、就業者数の増減は景気次第とされているわけですが、ファクトベースでみると、日本の雇用の増減は景気ではなく生産年齢人口の増減で決まっています。つまりは、65年前と15年前のどちらに生まれた人が多かったかで、いま働いている人の増減が定められてしまうわけです。
 ちなみに、日本の質漁者数は300万人台。失業率は4%台と、先進国のなかでも最低水準です、景気がものすごく良くなって失業率が2%まで下がったとしても、新たに職を得る人は200万人に満たず、2005~10年に減ったぶんを補うくらいにしかなりません。
 ところが足元の2010~15年には、日本史上最高の400万以上の生産年齢人口減少が新たに見込まれているのです。(p.23-26)


需要不足が不況の大きな要因であり、人口動態がそれを規定しているという議論は、非常に参考になる。近々、藻谷氏の『デフレの正体』を読んでみるつもりである。



藻谷 ……(中略)……。たとえ話で話を単純化するとこういうことです。仮に自動車しか生産していない国があるとしましょう。その国では車を運転する世代の人口が激減し、高齢者が激増している。当然、車は売れ残り、値崩れをおこし、みなさんがいう「デフレ」がおきた。そんな国で金融緩和をすると、自動車の売れ行きが回復し、価格が元にもどるでしょうか。運転する人の頭数が減っているのだから、やっぱり販売台数は減っていくでしょう。
 ……(中略)……。

―― 要するに、需要が縮小するのは現役人口減・高齢者増加という人口構造の変化によって生じた現象であって、貨幣現象ではないということですね。

藻谷 そう、そこなんですよ。この日本の経済状況を「デフレ」と呼んでしまうこと自体が、間違っているのです。
 私は貨幣現象であるデフレについて語っているのではなく、日本で「デフレ」と呼ばれているものがじつは、「主として現役世代を市場とする商品の供給過剰による値崩れ」という、ミクロ経済学上の現象であると一貫して指摘しているわけですが、そうであればこそ2010年に出した拙著の題名についても、『「デフレ」の正体』と、デフレに「 」をつけておくべきだったと反省しています。……(中略)……。
 そもそもファクトベースで考えれば、1990年代後半以降極端に値崩れしている商品の分野と、むしろ値上がりしている商品の分野と、日本には両方あることに気づくでしょう。後者の典型例がたとえばガソリンであり、ガソリンの二倍以上の単価で売られているペットボトルの水です。……(中略)……。
 すべての商品が値崩れしているわけではないということは、マクロ経済学のいう、物価が一律に下がっていく貨幣減少としてのデフレがおきているわけではないということなのです。(p.30-33)


分かりやすい説明。貨幣現象であれば金融緩和でも効果があるが、現役世代の減少=需要減少による値崩れが起きているのであれば、貨幣量を増やしたところで問題は解決しない、ということ。



藻谷 ……(前略)……。
 だから本当は、マネーゲームを加速させる金融緩和なんかよりも、株主資本主義のあり方を考え直すほうが、本質的な解決に近づくと思うんですけどね。
 実際にはマスコミ報道まで、目先の株価が上がれば正義、下がれば悪と、とても短期的な視点に立ってしまっています。現時点でのアベノミクス礼賛も根拠は足元で株が上がっていることだけですが、バブルを何度繰り返しても学ばない人は学ばないのだな、と感じてしまいます。

▼消費よりも貯蓄にむかう高齢者
――せめて株で得たお金を投資家たちが消費にまわしてくれればと思いますが、それもなさそうですね。

藻谷 個人投資家の多くは高齢富裕層なのです。彼らには、現役世代のようにモノを消費する理由も動機もないですからね。(p.48-49)


同感。

「アベノミクス」などと、表面上はもてはやされている経済政策も、選挙対策だった財政出動の反動としての緊縮財政が近々始まるだろうし、金融緩和の歪みは恐らく4~5年くらい後(2016~2018年)あたりに表面化して(マスコミでも問題として騒がれるようになる)のではないか、と見ている。その頃にこの記事を読み返したいと思う。(「拍手」を頂いたページはその都度自分でも「こんなのを読んだな、とか、こんなことを考えていたな」ということを振り返る意味でも読み直しているので、ちょうどよい頃合いに拍手を頂けるとありがたい。)



 そして、これからおきる最悪のシナリオは、円安がこのまま進み、仮に輸入燃料や原材料の価格上昇で平均値である物価だけをみればインフレになったとしても、内需が復活しないという展開です。つまり、原材料費と燃料費が上がるだけで賃金水準は上がらず、むしろ物価の上がったぶんだけ実質賃金が下がっていくことで、内需がさらに縮小するというシナリオですね。(p.55)


「アベノミクス」による金融緩和とともに円安になったのを見たとき、私の念頭に最初に浮かんだのは、このシナリオだった。安倍政権は財界に対して賃金を挙げるよう要請したり、厚労省に対しても最低賃金を引き上げるよう圧力をかけているようだが、恐らく、これは選挙後すぐの時期には賃金上昇したかに見える反応を若干引き出すことはできるかもしれない。しかし、その傾向が持続するとはとても思えない。

「成長戦略」という名前だけは良いことであるかのように聞こえても、内容を何も語っていない言葉によって、安倍晋三は賃上げを実現すると言い逃れをする場面が出てくるだろうが、現実に持続的な賃上げが続くと信じるような人は今の日本にはほとんどいないだろう。

このような「インフレ」による弊害が目に見えて実感されるようになるのは、数年かかるだろう。先の参院選で自民党に投票した人びとは、その時に騙されたと気づくわけだ。



藻谷 アメリカみたいに金融緩和をすれば日本も景気がよくなるのか、という質問に戻りましょうか。
 日本は既に1990年代の後半からゼロ金利政策をつづけています。とくに2001年から2006年まで、小泉政権とほぼ重なる時期には、当時史上空前の金融緩和がおこなわれましたよね。その時期には円安も進行し、輸出も2007年にはバブル期の二倍と史上最高水準を記録した。いざなぎ景気を上回る「戦後最長の景気拡大」が実現したわけですが、その当時でも日本の小売販売額は伸びなかったんですよ。

―― 当時の量的緩和の効果をどうとらえるかは、論者によって正反対ですね。

藻谷 当時政府内部にいたリフレ論者たちの言い分としては、「あそこで金融引き締めに走ったのが致命的だった。もうちょっと頑張って金融緩和をつづけていればかならず消費も増えたはずだ」というのです。
 彼らは数字を見ていません。金融緩和が本格化した2003年から2006年にかけて、日本人が個人として税務署に申告した課税対象所得額は14兆円も増え、バブル期の水準を大幅に上回ったのです。ところがそれでも消費は増えなかった。増加したのは高齢富裕層の所得だけだったからです。

―― 個人所得へのトリクルダウンはたしかにあった。ただし、流れた先は富裕層だったと。なるほど。
 でも、藻谷さん、どうして富裕層だったといえるんですか。

藻谷 勤労者の所得である雇用者報酬は2002年から減りつづけているのです。つまり働いていない層の不労所得が増えたということ以外に考えようがない。
 ちなみに全国で14兆円増えた個人所得のうち、3兆円はなんと、国内の高齢富裕層が集中していると推測される東京23区民の所得増加なんですね。ですがこの時期、東京都でも雇用者報酬の総額は減っています。


著者(インタビュアー)である萱野氏は、(恐らくリフレ論者たちへの皮肉を含めてではあろうが)トリクルダウンはあったと言っているが、お金が下層の方向へ流れないのであれば、トリクル「ダウン」とは言えないのではないか、とツッコミを入れたくなる。これこそ金融緩和は(地域的にも偏った)格差拡大政策だったということだろう。

なお、所得申告額が14兆円増えたという点について、私が思いつくことを一つ付け加えておくと、この期間中に(平成17年分から)公的年金等の控除額が縮小されたことにより、同じ額の公的年金を受給していても所得が多くなるようになっている。14兆円の中にはこれにより「所得」が増えた分も含まれるのではないか?(それともそのくらいのことは分かった上で調整した数字なのだろうか?)



藻谷 消費が増えなかったことについて、もう少し正確な議論をしておきましょう。商業統計によれば、2003年度と2006年度の比較では、日本の小売販売額は1.4兆円だけ増えました。これを金融緩和の効果だと述べたリフレ論者もいます。ですが商業統計は全数調査ですので、部門別の内訳がわかるのです。

―― 内訳がわかるんですね。どんな業種の売り上げがのびたのですか。

藻谷 この時期に売り上げが増えたのはなんといっても燃料小売業でした。燃料小売業の売り上げを両年とも除外すると、2003年度から2006年度にかけての日本の小売販売額は減少だったのです。
 ……(中略)……。いずれにせよ金融緩和で消費が回復したわけではなくて、ガソリン以外の消費はむしろ減っていた。(p.74-75)


これと同じことが今後数年でも起こるだろう。



藻谷 ……(前略)……。
 ただリフレ論の信者に、ある共通の属性があることは間違いないでしょう。それは「市場経済は政府当局が自在にコントロールできる」という一種の確信をもっていることで、だからこそ彼らは日銀がデフレもインフレも防げると信じるわけです。
 これを私は「近代経済学のマルクス経済学化」と呼んでいます。昔ならマルクス経済学に流れたような、少数の変数で複雑な現実を説明でき、コントロールできると信じる思考回路の人間が、旧ソ連の凋落以降、近代経済学のなかのそういう学派に流れているということなのではないでしょうか。


確かに、インフレターゲットなどの政策を初めて知った時に、私も前段と同じ考えを持ったのが想起された。



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佐藤宏 『「たくぎん」が死んだ日 その星霜百年の物語』

 当時、北海道拓殖銀行の樺太内支店は11カ店だった。
 資産規模は、預金が同行全体の15%強、貸出は10%弱、行員の数において228人に上り、同7%強にあたっていた。
 樺太地方の母店的機能をもった豊原支店の預金規模は、本店営業部に次ぎ、太泊支店も同行の十指に数えられる規模だった。このように大きなウェートを占め、大事な役割を果たしていた樺太店舗網を、敗戦とともに一気に失ったことは、同行にとっていかにも大きな損失であった。(p.38)


戦前から戦後間もなくのあたりまでの北海道の経済や社会を考えるにあたって、樺太との関係はやはり欠くことのできない要素であるように思われる。しかし、そのことについて書いている文献はあまり多くないのが残念である。



 当時の樺太は、日本にとって資源の国だった。石炭と木材。これがパルプ、製紙の原料となり「王子製紙」という国策会社等が繁盛し、銀行を必要とする条件だった。(p.51)


なるほど。



 『ジョン万次郎漂流記』は、井伏鱒二で広く知られるが、土佐人・中浜万次郎の実録をひもとくと意外な事実にぶつかる。それは、日本の開国を促したのは実は安政元年ペリー来航などではなく、鯨と、捕鯨船の船乗りたちであるということである。
 西海道や四国沖の太平洋岸は、早い時期からオランダ、イギリス、アメリカの捕鯨船が出没し、水や薪や食物を求めていた。彼らの一時情報が母国政府を動かしたのだった。
 ……(中略)……。
 とかく東京人の多くは、「東京」という位置からのみ物事を見て、理解しようとする困った癖がある。錯覚あるいは思い上がりがある。わが国の近世史において、鹿児島や南西諸島の一帯は、日本の端っこどころか、玄関口であったのではあるまいか。(p.130-131)


捕鯨と開国との関係は別の本でも読んだことがあるが、こうした動きが開国に繋がったという面は確かにあるが、それはペリー来航が開国を促したことを否定するものではないだろう。その点だけは本書の書き方は不適切であるように思われる。目新しい認識を強調するために正確さを犠牲にしてしまっている。

「東京人」による歴史や社会に対する認識のバイアスについては、ひとつ前のエントリーで私も軽く触れたが、著者が言わんとすることはよく理解できる。


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田端宏 編 『街道の日本史2 蝦夷地から北海道へ』(その2)

 開拓使長官をめぐる人事には、政府内部の北方政策に関する対立が反映していた。沢宣嘉を開拓使長官にしようとしたのは、丸山作楽という人物であった。丸山は、後に外務大丞として樺太に派遣される人物である。この丸山を支援していたのは副島種臣であり岩倉具視であった。一方、東久世を開拓使長官にしようとしたのは、大隈重信(大倉大輔)・伊藤博文(大蔵少輔)であった。そして、両者がこの人事を相談したのは木戸孝允であった。沢宣嘉を開拓使長官に押すグループは、ロシアに対して極めて強硬な態度で臨むことを要求していた。一方、東久世をそれに押すグループは、ロシアに対して宥和的な対応を求めていた。樺太をめぐる日本とロシアの紛争が発生していた明治初期にあってロシアに強硬な態度で臨む沢宣嘉が開拓使長官になることは、北方問題からロシアと極めて深刻な対立を醸成することになるのであった。
 この開拓使長官に東久世が就任したことでこの対立を回避することができたのであった。さらに、開拓次官に就任した黒田清隆もロシアとの対立を避ける方策を求める人物であった。黒田は、樺太の開発には消極的で、北海道から開拓を進める必要性を再三にわたって述べている。開拓使長官と次官はロシアとの対立を避け、北海道の開発に勢力を注ぐという点で一致していたのである。その具体的開発は、いわゆる「開拓使十年計画」として実現する。(p.84-86)


ロシアといたずらに対立するよりもまずは足元を固めるという方針が採られたといえようか。

ある意味では、結果として日露戦争では辛勝できたという面もある、とも言えるかもしれない。もしロシアとの戦争が明治初期だったら、まず勝算はなかっただろうから。

いずれにしても、明治期の政治状況には興味を惹かれるものがある。




 このように、北海道の分割分領政策は、維新に功労のあった諸藩への「賞典」という面と朝敵となって削封された諸藩の移住先という二つの側面を持っていたのである。(p.93)


明治維新の勝者と敗者がともに北海道の開拓に当ったわけだが、その後の彼らの展開がどうなったのか、少し気になる。「賞典」として北海道開拓をした地域が没落し、削封された藩からの移住者の地域が栄えるなどという逆転があったかどうか、など。



 明治十年代に、北海道に三つの集治監が置かれた。これらの集治監はそれぞれ、役割があてがわれていた。樺戸集治監は、開墾と土木労働を任っていた。空知集治監は幌内炭鉱の労働力として期待されていた。実際、空知集治監から幌内炭鉱へは、一日に500人の工夫と200人の人夫が送り込まれている(1890年)。釧路集治監は、跡佐登(あとさぬぷり)硫黄山の採掘を求められた。このように、集治監の設置場所は、北海道の開発と大きく関係していた。このような労働に加えて、さらなる重労働が囚人たちに求められることになる。(p.98)


なるほど。北海道以外の囚人の状況とも比較してみたい。



 最後に付言しておきたいのは、拓殖鉄道として出発した士幌線が、当時の国際環境、すなわち、観光ブームの世界的な展開の中で、国立公園内を通る観光鉄道として規定されたということである。(p.145)


ここで言う観光ブームの世界的な展開とは、第一次大戦後から1930年代頃までの外国人を対象とした観光ブームが起こったことを指す。

士幌線の区間にある大小の渓谷に路線を通すため、多くの橋梁が架設され、コンクリート・アーチ橋が建築史上初めて採用されたことが本書でも説明されていた。そして、この橋が産業遺産として現代に至っても地域の資源となっていることが指摘されている。

若干興味が出たので機会があれば見てみたい。



 米軍の本道空襲の主目標は、鉄鋼の街室蘭と港湾都市函館にあったらしく、その攻撃は徹底して行われた。中でも函館空襲は津軽海峡交通の遮断が目的とされ、14・15日ともに青函連絡船を中心とした攻撃が繰り返された。(p.145)


太平洋戦争末期の1945年7月14~15日の北海道空襲に関する説明。こういうところからも、交通の要衝や軍需と繋がりの深い都市というのは、攻撃の対象になりやすいことが見えてくる。(例えば、原爆が投下された広島も当時、軍需工場があった。)



 また、近代の函館の歴史をみたときに、大きな苦難となっているのがたび重なる大火である。1879(明治12)年の大火では多くの大寺院が類焼して移転を余儀なくされ、東本願寺は現在地に再建された。しかし亀井が生まれた年である1907年の大火で、前述の四つのキリスト教諸派の教会とともに、東本願寺もふたたび焼失した。再建にあたり東本願寺は当時例のない鉄筋コンクリート造りの本堂を建築し、1915(大正4)年に完成をみた。今も健在なこの建築には、新たな文化の受容と大火に翻弄された歴史という近代函館の一側面が象徴されているのである。(p.170)


明治期に関して言えば、大火というのは都市の形成にあたってかなり重要な意味をもっていたらしい。東本願寺の建築は黒い屋根の巨大な建築で、現在も元町周辺を散策する観光客の目を引く建築の一つであるが、ここも防火という観点から鉄筋コンクリート造を採用したようである。

また、鉄筋コンクリート造の建築として見た場合でも、大正4年に完成したというのは、かなり早い方であると思われ、北海道の地でこれが建てられていることにもやや興味がある。(北海道と台湾の比較という観点からも、当時(大正時代頃)日本の植民地となっていた台湾では鉄筋コンクリートが使われ始めるのが本土より早かったが、北海道という内国植民地でも同じように早期に(実験的に?)鉄筋コンクリートが使われることが多かったのだろうか?

なお、引用文中の「四つのキリスト教諸派の教会」とはカトリック元町教会、ハリストス正教会、聖公会、メソジスト教会であり、いずれも現在の元町周辺に教会堂がある。



 草創期の函館貿易における主要な輸出品は、昆布をはじめとする海産物であり、その多くは中国へ輸出されていた。函館での居留中国人商人による貿易は慶応期(1865~68)以降、非条約締結国民であったため欧米商人の雇用者の立場をかりて本格化する。以後明治期を通じ函館では、上海を中心とする対中国向けの昆布輸出が、居留中国商人の主導で行われた。彼ら海産物商は、1880年ころには同徳堂という組織を結成し、この同徳堂がおかれた場所に1910(明治43)年、函館中華会館が新築され現在にいたっている。ここに祀られている関帝廟は、明治30年代に上海より分霊を受けたものといい、居留中国人たちによる信仰が維持されてきた。同様の組織・施設が横浜・長崎にも見られるように、「道教の廟堂」は函館の開港地としての特質と、海産物を中心とした近代初期の函館貿易がもたらした文化であった。さらに北海道における産業や経済の発達史をみたとき、中国社会とのかかわりもまた見逃すことのできない要素のひとつとなっていたことを示しているのである。(p.170-171)


江戸後期から明治前半あたりに関しては、北海道に関する産業と流通を考える場合、海産物がかなり重要な意味をもっているようなのだが、ここでも昆布がカギとなっている。

この引用文には様々な興味深い論点が散りばめられているが、中国との貿易が重要な意味をもっていたということのほか、中国の商人たちは欧米商人の雇用者として関わっていたという部分も、神戸でも同じようなパターンで中国の商人が来ていた時期があったことを想起した(同時に、神戸華僑歴史博物館はなかなか充実した展示だったことを思い出す)。このように見ると、横浜、神戸、長崎には中華街があるのに、函館に中華街がないのが不思議に思えてくる。函館の場合、中国との関係の深さ(来ていた中国商人の数など)がそれほどでもなかったということが反映しているのだろうか?

函館中華会館も歴史的建造物として貴重なものであり、見てきたいという思いはあるのだが、内部を公開している時に見ることができていない。何とか次に行く時には見てきたいと思う。ちなみに、この建物も1907年の大火で焼失した会館をレンガ造で建て直したものであり、一つ前の引用文の論点とも関わる建築であることがわかる。



 明治なかばから大正期にかけての北海道への移民数の動向をみると、明治二十年代後半、明治四十年前後、そして大正なかば以降が三つのピークであり、総数でいえば東北地方からの移民がもっとも多かった。しかしやや詳細にみると、第一のピークの時期に多くの移民を送り出したのは北陸地方であり、第二のピーク以降東北からの移民の割合が急増する。これは明治初期から小作地率が高かった北陸地方に対し、東北地方では明治中期以降小作地率が急増したことが反映したと考えられる。ただ第二のピークの時期に北海道への移民が多かった地域を府県別にみると、第一位は富山県であった。(p.186)


北陸や東北の小作地率と北海道への移民の数とに関連があるというのは興味深い。

明治40年前後と大正半ば以降の時期に移民のピークがあったことには、日露戦争の後であることや第一次大戦後であることが関係しているように思われる。詳細は今は書くだけの余力がないため後日にしたい。



旧土人児童教育規定などには、アイヌ児童への教授のあり方として、「国語」の習熟の徹底、「簡易」な算術、「清潔」「秩序」や「忠君」「愛国」観念の修養をはかる修身などの方針が示されている。そこには特異な習慣をもち、数的観念・計画性・衛生観念などに劣るといった当時の「日本人」によって固定観念化されたアイヌ像が反映し、「別学」によって「日本人」として教育することで、アイヌを「保護」するという発想がうかがえる。それはまた文化の伝承・継承という視点を欠如させた、あるいは否定した教育内容であった。「日本」と「日本人」を意識せざるをえない社会的な仕組みが、知里をはじめアイヌの子供たちに対して設定されていたのである。(p.202)


戦前のアイヌに対する教育と植民地台湾における教育については比較して考察してみたいが、今はまだ語るだけの内容を身につけていないため、後日、試みたいと思う。



 書き残される歴史、それによって固定化されてゆく歴史像に対し、敗者、弱者の歴史は、語られる歴史、残されてゆく場を持たずに来て去ってゆく類の歴史である。誰かが拾い上げなければ浮かび上がることなく、何もなかったも同然になってしまう歴史でもある。
 幼いころから祖父の思い出語りを聞いて育った子母沢が光をあてたのは、そうした歴史であった。勝者の歴史の陰に、歴史のなかで表舞台に立たなかった人びとの側から見た歴史が同時に存在していることを、子母沢の作品はあらためて教えてくれる。(p.217)


明治25年生まれの作家・子母沢寛に関する叙述より。北海道のような「辺境」であればこそ、こうした視点から歴史を見ることができたという面もあったのかもしれない。

現在でも、東京から見た日本と、北海道や沖縄のような周辺的な地域から見た日本とでは、大きな隔たりがあるということを特に東京や大阪、名古屋のような大都市に住んでいる人には理解しておいて欲しいと思う。



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田端宏 編 『街道の日本史2 蝦夷地から北海道へ』(その1)

 欧米的な開拓のすすめ方は、技術的に先進的であったが、当時の日本の社会・経済的成熟度に適合的とは言えなかった。「政策全体としては失敗せざるをえなかった」(『新北海道史』第三巻)とされるのである。北海道開拓使は廃止され、それまでの方針も変更される。
 貧窮の士民を保護、移住させる政策は成果を挙げ得ない、道路を開削し、物産の流通を促進することで「資本ノ融通ヲ自由ナラシムル」、これが「拓地殖民ノ一大要務」(三県巡視復命書、1885年)である、とする考え方がとられるようになる。(p.18-19)


開拓使が短期間で廃止になった理由は、こうした政策の(官営から民営の方向への)方針転換にあったということらしい。



 樺太・千島交換条約(1875年)で日露間の国境問題が解決すると、北方の緊張は緩和されたが、明治20年代には、新しい国際情勢の影響が目立つようになる。
 ロシアの沿海州、樺太における開発事業は活発化してきており、シベリア鉄道の着工(1891年)は、ロシアの極東への影響力の強大化をおそれさせるものがあった。カナダ太平洋鉄道がアメリカ大陸を横断して開通(1886年)、イギリス、アメリカが計画するパナマ地峡のニカラグア運河計画が進行する情勢は太平洋側からの列強の接近に注意が必要という緊張感をあたえるものだった。(p.19)


こうした交通環境の変化は、北海道や日本というよりも欧米とその半植民地ないし植民地であった中国や東南アジアとの関係の中で理解するべきであるように思われるが、日本の側からの主観的な観測として脅威が増したと感じられるようになったというのは事実であろう。そして、それが北海道の開拓に関する議論にも影響を与えたというのは興味深い。帝国主義列強のアジア進出の中に日本の北海道開拓も位置づけられるべきものであり、この動きは、ある意味ではその後の海外植民地の獲得にもつながっていく流れとして理解することも不可能ではなかろう。



 18~19世紀の記録で知られるアイヌ農耕は次のようになる。
 ……(中略)……。
 非常に素朴な濃厚に退化したようにみえるのであるが、その理由は和人との関係の深化にあった。……(中略)……。
 金属器、繊維製品、酒、煙草などの需要も大きく、それに対応して提供するための商品生産の活動として狩猟、漁撈の発展が重要であり、農耕は、交易による農産物入手の途があるので、重要度を低くしていった、と考えられる。(p.34-35)


近世アイヌの生活は、周辺地域との間の交易によって成り立っており、そうした活発な交易活動の随伴現象としてアイヌの場合は農耕の重要度の低下があったという。日本の場合、どうしても農業生産力の高さがその地域の経済や文化の水準の高さを測る尺度という漠然とした観念が広く浸透しているため、近世アイヌのような生活スタイルに対しては不当に低く評価する傾向が出てしまうことに自覚的でありたいものである。



 安政年代、蝦夷地は幕府が直轄することとなり、蝦夷地への和人定住が奨励された。対ロシアの北方政策としての蝦夷地開発は定住する和人の手で本格化するだろうとの考えであった。村並とされたヲタルナイが定住者の増大で出産物が目立って増大してきた、という様子となっていたのである。このような幕府の開発方針のもとで、従来資源保護の意味で禁止されていた鯡の大網漁も許可され、出稼漁民のなかにも大網を持込んで操業するものも増えてきた。(p.48)


北方の脅威などを背景に幕府による蝦夷地直轄化が行われたということは、北海道や日本の歴史を学ぶと常に言われることだが、この和人定住の奨励という方向性と軌を一にして集落の規模(ヲタルナイの「村並」化)と生産の拡大があり、鰊の大網漁の許可もこの流れの中に位置づけられるというのは、本書による指摘で私にとっては初めて明確になったように思う。



 鯡積取の中遣船が大中遣船→間尺中遣船と大型化する過程は、場所請負人の松前・蝦夷地経済のなかでの位置を下げていく過程でもあった。西蝦夷地各場所での鯡漁獲量は幕末期では場所請負人の直営漁よりも、出稼漁民の自営漁によるものの方がはるかに大きくなっており、積取船の大型化はそのことを反映していた。(p.48)


幕末から明治初期の場所請負人は相当な人数の漁夫を雇い、大きな番屋を建てて経営を行っており、相当の財力があるという印象を持っていたが、本書の叙述は場所請負人の相対的な位置の低下を指摘しており、意外に感じた

場所請負人の経営が小さくなったのではなく、むしろ彼らの経営規模も大きくなったのだろうが、それ以上のペースで自営漁が増えたというだろうか?それとも多くの場所請負人の経営はそれほど思わしいものではなかったということか?




 北海道は、明治期、後進国であった日本がヨーロッパの諸産業を導入するための実験場としての役割を担わされていた。北海道がその実験場になることができたのも、このような幕末の諸産業の試みがあったからなのである。幕末における箱館奉行の諸産業の育成が、明治以降の西洋の近代農業を受け入れる地盤を形成していたのである。したがって採算面からのみ幕末の箱館奉行の活動を不成功であったと評価することはできない。(p.74)


確かに明治期に北海道の開拓は急速に進むが、幕末からの幕府直轄化とそれに伴う様々な調査などがあったからこそ実現しえたという面が多々ある。




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イブン・ハルドゥーン 『歴史序説 1』

 国家とか政府とかは、諸々の学問や技術という商品が運び込まれる世界の市場である。そこには誤った知識も姿を現わし、いろいろな物語や歴史的情報が持ち込まれる。この市場で売れるものであれば、どこでも売れるのが普通である。もしその国家が、専横や偏見、気弱さや卑劣さを避け、正しい道を辿り、決して横道に逸れないならば、その市場の商品はまさに純銀・純金のようなものである。しかし、利己心や遺恨に影響され、邪悪で不正直な売り手によって左右されると、その市場の商品はにせ金やまがいものとなる。明敏な批判者は、自分のまなこでもって判断し、自分で調査し、求められるべきものが何であるかを知らねばならない。(p.78)


政府の類が学問や技術という商品が運び込まれる市場であるというのは、興味深い捉え方。

アベノミクスが声高に叫ばれる昨今の状況について言えば、「リフレ派」の経済学という商品が運び込まれたということであろう。選挙前の人気取りのための大規模な財政出動とその場しのぎのための大規模な金融緩和という煙幕を撒いてはいるが、それでごまかしている間に社会を改善できるようなビジョンは提示できていないといのが実情であり、引用文の言葉を使えば、この商品は「にせ金やまがいもの」であるということを喝破しなければならない。

私の予想では、2018年前後1年程度の間には、この悪影響(例えば、金融面での何らかの危機、例えば金利の上昇や国債の価格などへの悪影響の本格化、また、悪性のインフレによる生活苦の「実感」が統計的事実として把握されるようになることなど)が大きな形で社会問題となるのではないかと考えている。ただ、その頃にはアベノミクスやその内容は忘れ去られており、悪影響の原因は別のものにすり替えられて議論される可能性もまた指摘しておきたい。




 良き支配とは、温厚さに由来する。もしも支配者が圧制的でつねに厳罰を科し、人々の欠点を暴露したりその罪を数えあげたりすることに熱心であれば、人民は支配者を恐れ、卑屈になり、支配者に対して偽りと策略と欺瞞によって身を守ろうとする。ついにはこれが人民の特性となり、彼らの良識と性格は堕落してしまう。(p.490-491)



現代日本の支配ないし統治の状況を見ると、確実に「悪しき支配」へと進んでいるといえよう。

後段の部分の記述は、冷戦時代の東側諸国の状況に当てはまると考えられるが、未来の日本もこうした方向に向かっているわけである。




支配者が少しでも明敏すぎると、人民の知らないことにも気が付き、また物事の結果を初めから予知することができるから、支配者は人民に能力以上の仕事を課すことがある。このことは人民の破滅を導くものである。マホメットは「汝らのなかでもっとも弱い者の足並みについて行け」と言われた。(p.491-492)


ある意味、ここでの「明敏すぎる」とは、十分に明敏ではない事を意味している。十分に明敏であれば、ムハンマドが指摘したような弱い者の足並みをも考えて支配や統治を行うことができるはずだからである。社会を統治する者はそれをシステム全体として捉え、それを良い方向へと作動させることを考えるべきであり、それができない者は統治の任に値しない

この引用文が批判している人の分かりやすい類型としては、新自由主義的な経済政策を支持する支配者を挙げることができる。現在の日本の社会全体としては需要不足であることが不況の原因であるのに、サプライサイドを強化することにしか関心を示さない類の経済政策を支持する人々はすべてこの例に当てはまる。彼らは社会を全体として見ていないのである。