アヴェスターにはこう書いている?
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安藤英治 聞き手、亀嶋庸一 編、今野元 訳 『回想のマックス・ウェーバー――同時代人の証言――』

ベーラウ夫人 革命は三十年と持たないという法則があると、以前はいつも言ったものでした。私の学校時代にもそう言っていたのを覚えています。ロシア人の場合は、それがまったく通用しないのです。

安藤 中国でも、もう十五年以上になりますね。

ベーラウ そのとおり。不気味ですね。中国人はみなうまくやっているのでしょうか?みんな赤い頬をして元気そうだと聞いていますが。飲み食いにも困らない。貧しい者はいない。そうなると、革命はどうも成功したとしか思えません。

安藤 そうですね。おそらくロシア革命とは全く異なるものなのかもしれません。

ベーラウ夫人 全く別物ね。

安藤 ひょっとするとロシア政府よりもずっと民主的なのかもしれません

ベーラウ 奇妙なことです。(p.29-30)


本書は安藤英治が『ウェーバー紀行』に著された1969年前後のドイツでの調査旅行(?)の際に、ウェーバーの同時代人たちに行ったインタビューを録音したテープを文字に起こしたものを中心とする史料である。『ウェーバー紀行』と併せて読むと非常に興味深く読める。

ここはウェーバーとは直接の関係はあまりない箇所だが、ロシア革命と中国における中華人民共和国の成立に関しての会話である。

当時西側の知識人たちの認識が示されており興味深い。安藤の左派知識人としての共産主義ないしマルクス主義への共感に基づく予断も一つの注目すべき要素だが、中国では50年代末に大躍進政策により数千万人の餓死者を出しており、この会話が行われていた当時は文化大革命の真っ最中であったことにも注目すべきである。いかに情報が隠されており、それによる幻想・虚像が蔓延っていたかがわかる。

そして、そうした現実は現代の社会においてもなくなったわけではない、という自戒を付け加えておきたい。(これは中国やロシアに関してのみ言っているわけではなく、日本の社会の内部でも当てはまるものがある、ということである。一応念のため。)



シュティッヒヴェー はい。この演習では、政治的対立について、正義と不正とについての議論をしていました。演習は終りまでいかなかったのです。彼は6月17日にはすでに亡くなりましたので。(p.55)


1920年のウェーバーの最後の演習について、その演習に参加した学生からの証言。ウェーバーはミュンヘン・レーテ革命を取り上げてこうした議論をしていたというが、正義と不正とについての議論に関連して、若しこの演習がもっと続いていれば、ウェーバーの「責任倫理と心情倫理」という問題などももっと掘り下げて論じられることになったかも知れない、などと思う。



シュティッヒヴェー ……(中略)……。思い出すのは、演習の第一日目に彼が机の上にシュナップスを置いて、「諸君、仕事は学のあるもののシュナップスである!(Meine Herren, Arbeit ist der Schnaps der Gebildenten!)」という洒落た文句で演習を開始したことです。

安藤 ?

シュティッヒヴェー シュナップスはアルコールですよね。コニャック、ウィスキー、それがシュナップスです。そこで、「仕事は学のあるもののシュナップスである」、つまり気分転換をしたい時には、シュナップスを飲みますよね?分かります?

安藤 ?

シュティッヒヴェー 「学のあるもの」とは知識人のことですよね。シュナップスなど飲まなくても、知識人は仕事によって気分転換ができるのだというわけですよ。(p.58-59)


確かにウェーバーらしいエピソードという感じがする。



筆者のみるところミッツマンは、ウェーバーを近代批判の先駆者として称揚する新たな「ウェーバー聖化」に先鞭をつけた功労者の一人である。(p.240)


今野元による解説より引用。

なるほど。言われてみれば、近代的な合理化によってウェーバーが病に冒され、それを相対化して回復していくという類のストーリーがこれ以後語られることになったように思われる。



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安藤英治 『ウェーバー紀行』

現在もハイデルベルクのネカールNeckar河畔に残っているかつてのマックス・ウェーバー邸はこの祖父が1847年に建てたものであるが、現在福音派の学生寮になっている四階建てのこの家は、私が訪問した10月には内部を改装中で、エレヴェイターまでつけられようとしていた。しかし外郭だけはほぼ往時の姿を残している。家はネカール河にかけられた旧大橋のほぼ袂といえるところで、有名な古城と丁度向い合って建てられている。ここは当時ネカール河畔のリヴィエラRivieraと呼ばれていたとマリアンネが『伝記』で紹介している最高級住宅街。もっとも、当時を知る人に数人会ったがネカール河畔のリヴィエラなる呼称を聞いたという人は一人もいなかったから、これはここの住人の私設用語だったかもしれない。現在、新らしい高級地が上の方に建られているそうであるが、この旧大橋対岸ツィーゲルホイザー・ラント街Ziegelhäuser Landstr.は依然として旧上流邸宅街としての風格を保っている。その中にあっても一、二を競うほどの立派な四階建てのこの家をみると、祖母エミーリエの出身家庭が当時としてどれだけ富裕であったか察しがつく。(p.68)


安藤英治がウェーバーのファレンシュタイン邸に行ったのは1969年のこと。余談だが、福音派の学生寮になっているという点については、私が2000年と2001年にこの地に行ったときはハイデルベルク大学の関連施設だったという記憶がある。中に入ることはしなかったが、内部は改装されエレベーターまでついているとは驚いた。



日本のことをよく知っているので驚く。ソニー、キャノンから新幹線まで知っているのにはびっくりした。テレビで日本のことはよく知っているという。中東戦争をどう思うと聞かれたので、なにぶん日本人には遠すぎるのでよく分らない事柄なのだというと、
「だってわれわれは日本のことをよく知っていますよ。距離はどちらから計っても同じでしょう。」
とやられてギャフンとした。このときはじめて、彼等がアラブの一家であることが分った。(p.237)


安藤の「ウェーバー紀行」の終わりにイスラエルに立ち寄った際、現地の人から歓待を受けたときのエピソード。

安藤について言えば、ウェーバーという既に亡くなった学者の生活については詳細に知りながら、当時の社会で起っている大きな問題(中東戦争)については見識を示せない、というあたりに、当時の日本の知識人のヨーロッパ中心主義と結びついたヨーロッパへ憧れとそれ以外の地域への無知・無関心が垣間見られる。

こうした日本側の世界の諸地域に対する無関心は現在に至るまであまり変わってないように思われる。



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A.O.ハーシュマン 『離脱・発言・忠誠――企業・組織・国家における衰退への反応――』(その3)

 メルドレージが指摘しているように、この時期の経験を通じてハーシュマンは、正統的なものであれケインズ的なものであれ、そしていかに善意に満ちたものであれ、「究極的処方箋」を外部から押しつけること、すなわち「経済学の反民主主義的利用」の危険性を認識したといえるであろう。狭く経済的な、あるいは経済学からの一方通行的な分析の危険性を察知し、実践と理論の間の双方向的(帰納的かつ演繹的)なプロセス、、経済学、政治学、その他の社会諸科学間の双方向的プロセスに基づき、実現されるべき変化の具体的可能性を研究することに専心するようになったのである。(p.198)


訳者補説より引用。

「経済学の反民主主義的利用」は、昨今、日本でもかなり強引に行われた(行われている)経験がある。

小泉政権時代の「構造改革」は、竹中平蔵らの「経済学」を強行して「小さな政府」を実現しようとする「市場原理主義」であったし、第二次安倍政権の現在、「アベノミクス」と呼ばれているものが動き始めたとき、日銀に対して自民党がどのような強硬な姿勢・手段をとって政策を変えさせたか、という一点をとっても、その政策が「リフレ派」の「経済学」の強制という面を持つことは周知の事実であろう。

こうしたことの結果、どういうことが起るのかに、われわれは想像力を働かせる必要がある。

例えば、最近話題になることが多くなった「ブラック企業」の跋扈という事態は、自民党による労働の規制緩和を本質的な原因として背景に持つものであることは、もっとよく認識されなければならないだろう。余談だが、国会で野党が「ブラック企業」を語るとき、自民党のとってきた政策との結びつきを強調して批判しながら、改善するための方策を提示することが望まれるだろう。

「アベノミクス」の結果については、例えば、金融面では数年後の資産バブルの崩壊の危険性や国債の利子率上昇による財政破綻(デフォルトの可能性も否定できないのではないか)といったことが懸念される。財政面では選挙目当ての公共事業の大盤振る舞いが行われたが、交通インフラ、土木系インフラなどのメンテナンスの問題にどれだけ対処しているのか、ということが問われることになるだろう。そして、成長戦略の関係になるのだろうか、「限定正社員」の導入という話は「ブラック企業」の更なる量的増大と悪質化のような問題を想定できるだろう。

数年後にこの記事を読み返すことがあった時、予想が外れていること、あるいは、何らかの軌道修正により危険が回避されていることを期待したい。




 <訳者補説>でも触れたが、本書におけるハーシュマンの眼目は、経済学と政治学の生産的対話にあった。しかしながら彼がのちに述べているように、だからこそ原著執筆時点における関心は、自由競争による効率化を説くだけの経済学者に対して「発言の可能性」を訴えることにあった。(p.208)


訳者あとがきより引用。

原著執筆時点(本書は1970年に出版されている)におけるハーシュマンの関心が自由競争による効率化を説くだけの経済学者に対して「発言の可能性」を訴えることにあったというが、この関心は現在の日本においても必要なものであると思う。その意味で、本書は全く古くなっていない。



正統的経済学の「緊張経済観」に対し「スラック経済観」の立場をとって「余剰」に対する見方を変えるとともに、「品質」を真正面から取り上げて、日常的に発生する「とりかえしのつく過失」(repairable lapses)からの回復過程に注目した。こうして、実験心理学の成果も取り入れながら、政治学など他分野に議論を開くきっかけをつくり、競争を回復メカニズムのなかの一つとして相対化する枠組みを提供しようとしたのである。(p.209)


こちらも訳者あとがきより引用。

本書の「とりかえしのつく過失」に着目した視点は非常に参考になった。いろいろなものを切り捨てていこうとすることが、昨今の政策論議の中に頻繁に見られるが、そうした議論に欠けているのは、この着眼点だからである。それによって「切り捨てること」自体を相対化することも必要だろう。



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A.O.ハーシュマン 『離脱・発言・忠誠――企業・組織・国家における衰退への反応――』(その2)

質、名声、その他望ましい特徴によって単一の尺度で組織をランクづけできるとすれば、その尺度の下位を占める組織は、上位の組織よりもはるかに忠誠、そして凝集力をもたらすイデオロギーを必要とするだろう。(p.90)


冷戦時代の東側諸国における共産主義やいわゆる発展途上国と呼ばれる国におけるナショナリズム、そして中東のイスラーム圏におけるイスラーム主義などはこうした凝集力を必要とする社会におけるイデオロギーと見ることができるだろう。

そして、ここ20年ほどの間に高まりを見せる日本における国家主義もまた同じである。安倍晋三や自民党の多くの議員、日本維新の会などに見られるような復古主義的であり、排外的であり、人権軽視と結びついた国家主義を受け入れる素地が社会の中にできつつある。彼らは常々「誇り」という言葉を口にするが、それは自らの所属する集団(日本という国家)が誇りを持つに値しない程度のものであるということを感じてしまうこと(世界の中で様々な尺度において、位置づけが低下しつつあることから生じている)からの逃避(拒絶)として叫ばれているものとして理解できると思われる。この不快な感覚を遠ざけたいと思うならば、自分たちが重要であると考える尺度において世界内での位置づけをあげるように努力することに集中するというのが正しい対処法である。いくら「誇り」を取り戻すなどと声高に叫んだところで、実際の地位向上への努力が伴わないならば、心の別の所で感じている感覚との齟齬が大きくなるだけであろう。)



忠誠が存在する場合、離脱に与えられていた性格は急変する。すなわち、機敏な顧客がよりよい買い物に走る合理的行動は、誉めたたえられるべきものから、今や、恥ずべき離反・逃亡・裏切りとされてしまう。(p.105)


興味深い論点。新自由主義的な政策論の中では、忠誠が位置づけられていないため、何かからの離脱が生じる場合、それはほとんど常にプラス側の評価を与えられる。しかし、現実の社会では必ずしもそうならないことがあり、その要因としてどのようなものがあるかということを理解しておくことは重要である。本書が示すように「忠誠」というものは、そうした要素のうちの非常に重要なもののひとつであると思われる。

この点は経済における新自由主義だけでなく、政治理論におけるリベラリズムにも当てはまるところがあると思われる。



 公共財という概念によって理解しやすくなるのは、ある製品、ある組織から本当に離脱することなど不可能な状況もあるという考え方である。……(中略)……。
 ……(中略)……。もし私がある組織、たとえば政党と意見を異にした場合、党員であることはやめられる。だが反対すべきその政党が活動している社会の一員をやめることは通常不可能である。また、もし私が外交政策の形成に参画し、結果的にそれに不満をもてば、政策を形成するその公職を辞することはできる。だが自分にはますますひどくなっているようにしか思えない外交政策を続ける国家の一市民として感じる不愉快な思いから逃れることはできない。(p.108-109)


非常に興味深い論点。新自由主義批判という観点からも有益な観点であるが、公職における責任の取り方などとの関連から考えても興味深い。



 下層階級から才能溢れるごく少数の者だけが社会的階梯を上昇していくことによって、上層階級による下層階級の支配は、階級の分断が固定化されいる場合よりも、はるかに確実となる。……(中略)……。
 実際問題としては、恵まれない集団、これまで抑圧されてきた集団が地位を向上させるには、個人的プロセスと集団的プロセスを組み合わせること、つまり離脱と発言を組み合わせることが必要となるであろう。(p.123)


前段に関して指摘すべき点は、いわゆる「ゆとり教育」の隠された目的の一つであった、あるいは少なくとも、それがもたらす客観的な効果はこうしたものであるだろう、ということである。

後段に関しては、離脱を個人的プロセス、発言を集団的プロセスとして捉えている点が興味を惹いた。確かに離脱というオプションは個人主義的な考え方や言動と親和性が高い。また、発言というオプションは、労働組合やデモなどにも見られるように集団的な行動との親和性が高い。逆に個人主義的に考えていくと離脱オプションが強調されやすくなり、集団主義的に考えていくと発言オプションが見えやすくなるのではないか。昨今の言論状況では離脱オプションが強調される傾向があることに鑑みれば、物事を考える際にあまり個人主義を基盤とする考え方ばかりに固執しない方が適切なバランスで物事に対処できる可能性が増すかもしれない。



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A.O.ハーシュマン 『離脱・発言・忠誠――企業・組織・国家における衰退への反応――』(その1)

競争に備わる活力増進機能を礼賛する人たちは、競争システムが人々をいつも最高の状態で働かせると信じ込んでおり、それに失敗することがあるなど認めたがらない。それでもある企業において、そうした失敗が生じたとすれば、その企業は死を招く病に冒されており市場という舞台から降りるしかない。その一方で、意気軒昂な新参者がそれにとって代わろうと手すぐね引いて待ちかまえているはずだ。事実上このように想定しているのである。ガルブレイスはこれをあざ笑い、「アメリカ経済を、年老いて落ちぶれたものが若くて元気のいいものに常にとって代わられている生物学的プロセスと見なす考え方」と述べた。こうした考え方だと、一時的で治すことが可能な過失、つまり本書でその重要性を強調している過失からの回復を、競争はどのように手助けするのかということを議論する余地は残されていない。(p.24)


市場原理主義とか市場万能主義などと言われたりする、新自由主義ないしリバタリアニズム的な経済観に対する批判。本書の枠組で言えば、こうした考え方はあまりにも離脱(exit)に偏った対応しか描いていない点で不十分である。本書ではこれに対して、発言(voice)を対置し、離脱と発言の組合せによって、企業や組織の衰退またはその回復を考えていく。その意味で、現代でも本書の主張は意義を失っていない。



すなわち、競争とは、競合する企業同士がそれぞれの顧客を互いに誘いだす結果をもたらすだけかもしれないこと、そして、誘いだすだけの結果に終わっているとすれば、競争、製品の多様化とは、それだけ無駄が多く、注意をはぐらかせるものだということである。特にこのことがあてはまるのは、競争状態になければ、消費者が経営陣により効果的な圧力をかけ、製品の改善を促すことができるような場合、あるいは「理想的な」製品の追求という無駄なことにエネルギーを費やさないですむ場合であろう。こう述べればすぐにわかるだろうが、競争的な政治体制もしばしば、まさにこうした形で描かれてきた。安定的な政党体制を有する社会に対するラジカルな批判者は、支配的な政党同士の競争が「実際には選択になっていない」と非難することが多かった。競争的な政党体制がない場合のほうが、市民が社会や政治の根本的変革(とりあえず、こうした変革は望ましいものとしておく)をうまく成し遂げられるのかどうか。このことは、もちろんいまだ決着のついていない問題である。だがそれでもやはり、競争的な政治体制には、さもなければ革命を助長しかねない状況を、支配政党に対する温和な不満の表明に巧妙に変えてしまう能力がかなりあると、ラジカルな批判者が指摘している点は正しい。(p.29)


日本ではこの20年間、「二大政党制」を目指す動きが続いてきた。最近はそれでも民意が反映されないと感じる人が多いのか「第三極」に期待する機運もある。しかし、現状では、第三極として現れている政党(特に「みんなの党」と「日本維新の会」)は政策の内容的には自民党の内部にあった派閥が独立しただけのようなものでしかない。みんなの党はリバタリアン的な考え方に立ち、経済的保守主義(いわゆる新自由主義)を推進しようとする経済右派であり、小泉構造改革と路線的にはかなり近い。日本維新の会は排外的ナショナリズム的な考え方に立ち、国家主義的な考え方(歴史修正主義など)の浸透と経済的には、経済的な強者の権益を保護する方向の自由化を支持する傾向が強い。第三極と言ってもこれでは単なる自民党の代替物でしかなく、まさに「実際には選択になっていない」。そして、人びとが代表されているという感覚を持ち得るような政党がないという状況の下で、どの政党(どの政治家)がリーダーとして――但し、自分の望むとおり(都合がよいよう)に!――導いてくれるのかを探し回るということが続いている(引用文で言うところの「無駄が多」い!)。このような似非代替案があることによって、(それによって注意がはぐらかされてしまい!)われわれは何を望んでいるのか、より重要な問題としては、何をすることがわれわれにとって望ましいのか、という問題については、まともな議論をすることが妨げられている

国会には、誰が善い政策を実行してくれるのかを探すのではなく、何が善い政策であるかを追求する場として機能してほしいものである。



 ここで、一方における経済学-離脱と他方における政治学-発言との間に興味深い類似点がみいだされるように思われる。経済学では、長い間、需要が弾力的であればあるほど(つまり、衰退が生じたときに離脱が即応すればするほど)、経済システムの機能は高まると考えられてきた。ちょうどこれと同じように、政治理論においては、民主主義が正しく機能するには、極力注意を怠らず、活発に動き、自らの要求を口にする人々が必要であるというのが、長い間、信条とされてきた。アメリカ合衆国では、このような信念は、投票行動・政治的行動に関する実証的研究によって揺るがされた。そうした研究によれば、一般市民の間には長期間にわたり、かなりの政治的無関心がはびこってきたことが明らかになったからである。民主的体制は、こうした無関心にもかかわらず、なお首尾よく生きのびるものらしいといことになり、市民による活発な政治行動と民主主義の安定性との関係は、かつて考えられていた以上にかなり複雑なものであることが明らかとなった。離脱の場合と同じように、機敏な市民と緩慢な市民が混ざりあっている状態、さらにいえば、状況への関与とそこからの撤退を交互に繰り返すことでさえ、実際には、全面的・永続的な行動主義や全面的な無関心よりも、よほど民主主義の働きを助けるものなのかもしれない。この点に関しロバート・ダールが強調した一つの理由は、以下のようなものである。すなわち、ほとんどの人々は、日ごろ自らのもつ政治的能力を十分には活用できていないのだが、だからこそ、自分の重大な権益が直接脅かされるときにはいつでも、通常は使われず蓄えられていた政治的な力、影響力を行使し、予想もされないような勢いでもって、そうした状況に反応できるということである。別の説明の仕方によれば、民主的な政治体制には、「一見矛盾しているようなものが混ざりあっていること」が必要とされる。つまり、一方で市民は、自らの考えを表明し、自ら欲するものを政治的エリートに知らせて、彼らがそれに応答できるにようにしなければならないが、他方、これらエリートには意思決定の権限が与えられていなければならない。こうして市民は、あるときは影響を与える存在でなければならないし、またあるときは他人の決定に従わなければならない存在でもある。(p.36-37)


民主主義は全市民の参加が理想であるとされるような種類の信条を民主主義に関する政治理論ではしばしば目にするが、特に政治学などを学びはじめた頃、強い違和感を懐いたことを思い出した。

しかし、21世紀初頭の日本の政治意識について思いを致すと、これとは逆のことが気になっている。すなわち、人びと(ないしはマスメディア)の政治への反応が過敏すぎるため民主主義が適切に機能できなくなっていると思われる。

さらに言えば、日本では政治的な判断を下すための基本的な社会科学的な訓練が学校教育でほとんどなされていないことも手伝って、ますます適正な政治的判断が阻害されていることも気になっている。

この状況を改善するためには、長期的には社会科学的な素養を高めるような教育改革が必要であり、マスメディアの報道をセンセーショナリズムから遠ざける方向で公共性を保つための制度を導入する必要があるように思われる。



 以上述べてきたように、離脱には、できるか否かのはっきりとした意思決定以外に何も必要ではないが、発言は、その本質上、常に新たな方向に進化していく一つの技芸(アート)である。こうしたことから、目の前に両方のオプションがある場合、離脱に有利に作用する大きなバイアスがかかってしまう。より安い費用、より大きな効果をみつけだすことができるかもしれないというのが、まさに発言の本質であるとしても、顧客・メンバーは、発言の費用・効果についての過去の経験に基づき意思決定をするのが普通だろう。したがって、離脱というもう一つの選択肢が存在していることが、発言という技芸の発達を委縮させる傾向を持つ可能性がある。(p.46)


既に引用した文章でも指摘されている論点だが、「離脱」という選択肢があることによって「発言」の機会が減るだけでなく、その質も向上しない傾向が生じ得るというのはかなり強調されてよい論点だと思う。



公企業の経営陣は、国家財政当局が見捨てるはずがないといつも信じきっているため、顧客が競争相手のほうに移ることによって生ずる収入の減少にはさほど敏感に反応しないが、反面、その提供するサービスが消費者にとって決定的に重要であり、かつ他に代替物がないために、それが悪化するとなると「大騒ぎする」目覚めた大衆の抗議には、敏感な反応を示すであろう。(p.51)


公企業や行政に対しては、「離脱」という選択肢がない(少ない)ために、寧ろ「発言」によるフィードバックメカニズムが働きやすい面がある。この点は「離脱(選択)」ばかりが強調され「発言」が省みられない世論の中で見落とされている点の一つである。



アメリカ合衆国のどこかの公立学校と私立学校を、ナイジェリアにおける鉄道とトラックの話に置き換えてみれば、かなり似かよった結果がでてくる。理由はいろいろあるだろうが、公立学校が何らかの意味で衰退すると想定しよう。そうすると、教育の質を重視する親たちの間で、わが子を私立学校にやろうとする人の数はますます多くなるだろう。こうした「離脱」が公立学校の改善に向け、何らかの刺激を生むことがあるかもしれない。だがここでも、改善への刺激はあったにしても、微々たるものにすぎない。もし私立学校という代替的選択肢がなかったなら、もっとも意欲的かつ断固たる覚悟で衰退に立ち向かうはずのメンバー・顧客を、公立学校は、それ以上に失ってしまうからである。(p.52)


教育のバウチャー制などによって学校を「選択」できるようにしよう、という議論への批判。

離脱を強調するだけでは、発言の機会も減り、その質も上がらない、というのがその反論の要点であろう。



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関秀志、桑原真人、大庭幸生、高橋昭夫 『新版 北海道の歴史 下 近代・現代編』(その3)

この頃、全国的な農業・農村救済対策として内務省による時局匡救政策がとられ、北海道にたいしても拓殖費財源として北海道農漁山村振興費が32~34年に1600万円支出されている。しかしこれも満州事変(1931年)いらいの国防予算増大の影響をうけて35年からは中止され、他方で日本の満州進出、台湾・朝鮮等経営の進展などがあって、北海道の拓殖事業の地位は低下しつつあったのである。(p.217)


北海道拓殖の地位低下と海外植民地への進出との関係は興味深い。もっと掘り下げて調べたい。



 大戦後の北海道産業の変遷を次表「産業別生産価額・同比率」によって見れば、全体としては一定水準を維持しているものの、分野・年代によっては極端な打撃の跡も見える。1919(大正8)年度は、来住人口、耕地面積、鉄道マイル数、移輸出入額などを含め、ほとんどの経済指標がピークに達した年であり、それだけにその後の激落ぶりが目立った。全体としてこれは戦争経済の揺り戻し現象ともいえよう。(p.220)


日清戦争のころから急激に移住者が増えたことは既に引用したが、日清・日露戦争の時期から第一次大戦までが北海道の経済が急激に伸長した時期にあたる。ただ、これはここで述べられているように、自力ないし地力によるというよりは、戦争という要因によって、ある意味では実力以上に底上げされたものであったという点は冷静に見ておく必要がある。



 明治末期に形成された北海道における工業の基本的構成は、一方に中央資本による大規模な化学工業(パルプ、製紙など)と金属工業(製鉄、製鋼、機械など)があり、他方に中小の中央及び地場資本による食品工業(醸造、製粉、製糖、乳製品など)と製材加工業が存在するという、二つの基軸構成によって説明されることが多い。20年から30年頃までの生産価額の比率は、食品工業30~35%、製材加工業6~7%、化学工業25~30%、金属工業10~20%であった。そのほかは紡織、セメント、電気等が数%ずつを占めていたのである。そして上記の基軸的業種における第一次大戦を契機とした大資本による独占支配の進行はきわだっていた。
 ……(中略)……。次に述べる北洋漁業の発展の結果、飛躍的に伸びた缶詰工業と製缶工業なども、この時代の工業成長の目玉といえよう。(p.224-225)


20世紀序盤の北海道の工業について簡潔にまとめられている。このように整理してみると、北海道の明治大正期からの伝統的な企業が次々と浮かんでくる。



 北洋漁業の最盛時39年の経営状況は、従業員4万2千人、使用船舶77万トン、缶詰工場57、冷凍工場5、冷蔵庫52、フィッシュミール工場6、生産額1億2千万円という巨大な規模に達した。従業員の大半は北海道、東北、北陸各地方の出稼ぎ者が占めたが、その労働条件は過酷であった。全体の4割以上を占めた北海道のほとんどが後志・檜山・渡島の三郡から出ているが、これは鰊漁業の衰退や凶漁の影響を受けた過剰人口の発生と関連している(『北海道漁業史』)。(p.226)


1939年というと昭和14年であり、鰊の漁獲高が急速に減っていった時期と言ってよいと思う。そこで半ば失業状態になった漁業労働力のある部分は北洋漁業で生計を立てるようになったということか。労働条件が過酷であったことは、小林多喜二の『蟹工船』などを読むとどの程度のものだったかの想像がつくように思う。



 一方民間でも、15(大正4)年に三菱鉱業、18年に三井鉱山、21年に住友本社などの大資本も続々と社有林経営を始めている。そしてこれらの動きは、大戦中の木材市況の好況と関連産業の拡大・発展にみあったものである。(p.226-227)


これは北海道の林業に関する叙述だが、私が想起したのは、台湾の烏来の歴史とのリンクであった。すなわち、台湾の烏来には1921年に三井合名会社が木材伐採のために入っており、1928年に木材や伐採のための機具などを運搬するために軌道が敷かれていたからである。ちなみに、この軌道は現在は観光用のトロッコで使用することができる。

北海道(最大の内国植民地)と台湾(最初の海外植民地)でほぼ同じ時期に本州大資本が進出して林業経営を行っていた。それぞれの地域で伐採した木材がどのように使われたのか、といったところまで興味が広がっていく。機会があればこうしたことまで調べてみたいと思う。



 流通商品を大本で取り扱う卸店は、もともと函館・小樽両港と札幌に集積し、西海岸地方は小樽の、東海岸地方は函館の商圏に属し、内陸部は札幌商圏と重なりつつ小樽商圏に属していた。明治後期から道東・道北各地の開拓が進み、旭川・帯広・釧路・北見・室蘭などの諸都市にも三大都市からの「のれん分け」という形での業者の進出が始まり、それは卸と小売りの分離を伴っていたのである。また、諸都市に大衆化をねらう百貨店(デパート)が成長するのもこの時期である。札幌の五番舘が12(明治45)年百貨店方式の販売を始めたのがデパートの最初といわれるが、同様の動きは小樽の大国屋その他にもあり、札幌を本店とし各地に支店を置く今井呉服店は16年に百貨店となり、以下、函館の棒二森屋の前身金森森屋、釧路の鶴屋、帯広の藤丸など地方都市に百貨店が出現し、32年に巨大な三越支店が札幌に進出した。これらは既存の小売商を圧迫したが、小売商側もさまざまな組織的対抗を行い防衛策をこうじた。(p.232-233)


卸の商圏も、江戸時代末期から明治期の流通体系を引き継いでいるところが見て取れて興味深い。札幌が内陸との繋がりを持っていたところも興味深い。小樽の商圏と重なっていたことは、小樽が札幌の外港であり、その意味ではワンセットだったということから見ても不思議なことではない。

北海道における百貨店の進出はちょうど大正から昭和の一桁あたりに進んだようだが、これは既に引用した通り、経済指標が1919年(大正8年)にピークを迎えていることと対応している。日本における最初の百貨店は1904年とされているから、首都・東京と辺境の地・北海道の違いが8年ほどしかないことになる。当時、いかに急速に百貨店が広まっていったかというのが見て取れるに思われる。

なお、小売商の組織的対抗のうち、もっとも重要なものは恐らく「商店街」の形成であるように思われる。「商店街」に関しては、新雅史の『商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道』がとっつきやすい上に興味深い考察を加えている。



 これまで見たように、第一次大戦をへて北海道の経済・産業は、成長と充実の段階に入ったが、昭和初期の不況によって一時は極端な疲弊状態に陥る。そこから回復し、順調に発展を遂げようという時に戦時の経済統制下に入ったため、一部の軍需産業の伸長や一時の軍需適応による繁栄部門を除けば、全体としては正常な発展の道をさまたげられ、戦争末期には、その弊害が全面的にあらわれることになる。(p.245)


とりあえず、20世紀序盤の大まかな流れはこのように理解することができる。



冬の交通・運搬用具としての橇、なかんずく馬橇の発達も特筆すべきもので、都市部・郡部をとわず多種類の馬橇が広く用いられた。昭和初期にその数は十万台を超えているから、自動車などと比較してその重要度が分かる。冬期の道路の本格的除雪や排雪が行われるようになるのはずっと後のことである。(p.248)


昭和初期の冬の交通機関としては馬橇が大きな位置を占めており、自動車の普及はもっと後だったという。今からは想像できない感じもするが、言われてみれば、自動車と言っても冬用のタイヤや寒冷地でもバッテリーが上がったりしないような仕様なども必要であり(現在も北海道で走っている自動車の多くは恐らく「寒冷地仕様」になっている)、当時の自動車にはそこまでの性能は期待できないだろうし、商業的に見ても、寒冷地でそれに見合うだけの需要があったとも思えないし、温暖な地域での需要さえまだまだ開発中といったところだったであろうと想像される。そう考えると、合点がいく気がする。



 不況に直面した巨大資本家や大地主は、北海道経済の植民地的性格に乗じて構造的変革をとげて危機を克服し、あるいはこの状況を利用して拡大を企て、または被害の回避につとめたのである。しかしそこには多くの矛盾があり、その爆発が第一次大戦後の労働争議や小作争議の頻発、失業者の大量発生、女性の身売り問題などの要因となったのである。昭和初期は、以上のような悪条件が一度に噴き出したような時期である。(p.249-250)


本書でもこれらについてはもう少し具体的には書かれているが、個別の問題を深く掘り下げていかないと、なかなか全体像がつかみにくい問題でもあるように思われる。



 言論統制の最大の事件は新聞(社)の統合である。国家総動員法に基づく勅令「新聞事業令」(41年12月)によって全国的に一県一社をめざす新聞統合がはじまった。34年、道内最盛期の日刊紙89の新聞社は、42年までには11社に整理されていた。42年3月、戸塚九一郎道庁長官は主な新聞7社(北海タイムス、小樽新聞、新函館、旭川新聞、室蘭日報、釧路新聞、根室新聞)の首脳を召集して、一、国家の要請により、全道各新聞社を解消して新たに一社を設立すること、二、これに反対し、独立して残存しようとしても理由のいかんによらずその存立は許さないこと、三、新聞の設立については関係者一同で自主的に協議すること、以上三カ条の統合方針を申し渡したのである。7社に十勝毎日新聞、北見新聞、旭川タイムス、根室新聞も加わった11社は、新しく題号を北海道新聞とする一社に統合され、北海道新聞社が誕生した。(p.269)


北海道新聞は現在では全国紙と比べるとリベラルな論調の新聞というイメージがあるが、こうした経緯があって設立されたものとは知らなかった。もっとも、こうした苦渋の歴史を持つからこそ、戦後の民主化が進展していく中で、リベラルな権力への批判精神の重要性を認識することができたという面があるのかもしれない。

国や道が示した3カ条の強権的な性格にも注目したい。現在でもつい2日ほど前に自民党が(参院選の公示に狙いを合わせてかどうかは知らないが)TBSに対して取材拒否をするなどという挙に出ているが、現在の日本の政党で最も報道の自由を侵害することを気にしない(言論統制の志向が強い)のは自民党である。

そして、その自民党は国民の権利を制限する志向と軍事力重視の志向とを持つ憲法改正案を提示していること、政権与党になっており、今回の参院選が終われば、以後3年間は国政選挙がなく、やりたい放題のことができることに対して十分想像力を働かせる必要があるだろう。



 住居は、戦前からのままだ。衣服も、それまでに買ったものがあった。婦人衣服の場合、モンペという戦時色の服装から解放され、カジュアルな服装でキモノ離れが進む。キモノと結びついた角巻きという雪国特有の風俗がだんだんと姿を消していく。(p.298)


これは第二次大戦終結直後に関する叙述だが、(少なくとも北海道の場合)和装から洋装への転換期はまさに第二次大戦終結にあったように思われる。先日、小樽市総合博物館で考現学に関する展示があったので見てきたが、そこでは昭和3年頃の市街ではまだ和装の人がかなりの割合で含まれていたことが写真や統計資料によって示されていた。「ハイカラな街」であったとして展示されていたが、私の感性からすると和装が想像以上に多く驚いたのを記憶している。そこで、洋装への転換はいつどのように行われたのか、という関心が出てきたのだが、本書の叙述を読んで、以上のような仮説に到達できた。



 歴史的に見ると、45(昭和20)年札幌は人口22万で、北海道内では屈指の都市であったが、まだ貫禄はなく本州他府県の都市と似たり寄ったりの変わりばえのしない“大いなる田舎”にすぎなかった。
 戦前、活気は函館に及ばず、商業活動は隣接の小樽の方が先輩格だった。
 しかし、ついに第二次大戦がそれを変えた。簡単に言えば中央の出先機関の進出を促す戦時中の統制経済によって函館、小樽が沈み、札幌が浮かんだ。戦時体制が強まると、小樽の対外・内国交易のドル箱であった樺太西海岸航路が米潜水艦の脅威にさらされて振るわず、函館も、応召などによる漁業者不足が「北洋」に響き、共に大きな打撃を受けた。36(昭和11)年札幌の人口が函館を抜き、北海道第一の都会となった。
 函館、小樽のマイナス要因の半面、札幌は統制経済を動かす行政機関や経済団体の東京―北海道ルートの結節点化がプラス要因となり、金融機関をはじめ、中央の会社や経済団体が「北海道の拠点」を置き始めた。
日銀は42(昭和17)年、札幌支店を設置する。(p.339-340)


従前の商業の結節点であった小樽は植民地的な位置づけにある樺太との中継が大きな意味をもっていたため、戦争により打撃を受けることになった(国内同士の流通より国境に近い場所の方が一般的には打撃を受けやすいと推察できる)。小樽よりは国内寄りの地域を商圏としていた函館も商業以外のもう一つの重要産業であった漁業の労働力を戦争のために持って行かれたことが経済的に響いた。

戦時中の統制経済の統制を行う機関が行政の中心地であった札幌に集中したことが、小樽や函館の没落に反比例して経済力が向上する要因となったということか。この札幌の興隆については、これまでも若干見知ってはいたが、その理由が十分理解できずにいたが、「東京-北海道ルートの結節点」となったという記述が、この問題に関しての私の理解を助けてくれた。もう少し具体的な事例を発見したら、その時点で再度考えを整理してみたい。




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関秀志、桑原真人、大庭幸生、高橋昭夫 『新版 北海道の歴史 下 近代・現代編』(その2)

 前項でも触れたように、1890年代の北海道では、政治的な無権利状態からの脱却をめざして北海道議会請願開設運動が繰り広げられている。同様の動きは沖縄県でもみられたが、これらは府県において明治10年台に高揚した自由民権運動の北海道版であり沖縄県版であった。この請願運動は、1889年11月の憲法発布と翌90年11月の帝国議会開会を直接の契機として活発化した。なぜなら北海道は、自治制の未施行を理由に「衆議院議員選挙法」の適用が除外され、帝国議会に地域代表議員を送り出すことができなかったからである。(p.102)


選挙権が内国植民地である北海道と沖縄には本土並みには与えられていなかったということは銘記されてよい。



 日清戦争を契機に北海道への移民が急増し、1897年3月に公布された「北海道国有未開地処分法」によって道内における拓殖の進展はめざましいものがあった。(p.102)


日清戦争と北海道への移民の急増の関係はどのようなものか?直接の関係があるのか、あるいは社会経済情勢の反映か?こういったところが知りたいのだが、よい資料が簡単には見つからない。



 この結果、1905年当時の道内には、北海道鉄道株式会社線・北海道炭礦鉄道株式会社線の私営鉄道二社と官設鉄道線とが並立することになった。営業マイルはそれぞれ159マイル、207マイル、230マイルで官設鉄道が最長だったが、営業面では炭礦鉄道が最も優位に立っていた。だが、官設鉄道は内陸地方の拓殖に極めて大きな役割を果たしており、また北海道鉄道会社線の全通によって、東京-青森-函館-小樽-札幌-旭川間の連帯運輸が可能となったのである。このように私鉄二社と官設鉄道は、それぞれに特徴のある鉄道だった。(p.146)


営業面で私鉄が優位なのは、営業的に成り立ちやすいところで運営しているからであろうし、炭礦鉄道が最も優位であるというのは貨物(特に石炭?)の運搬があるからだろう。

官設鉄道が内陸の拓殖に寄与したというのも、統治の問題と関わることから納得がいく。



 拓銀の設置目的は「北海道ノ拓殖事業ニ資本ヲ供給スル」(拓銀法第一条)ことにあり、本店は札幌に置かれた。拓銀の公称資本金は300万円、株式総数は6万株だったが、うち2万株(100万円)を政府が出資し、皇室も67株を保有した。残りは一般募集されたが、4万株の募集に対して約60万株、すなわち約15倍の申し込みがあり、同時期の台湾銀行の株式申し込みが約4倍程度にすぎなかったのとは好対照であった。これは、内国植民地としての北海道開拓に対する内地資本の期待感の表れであった。(p.152)


北海道拓殖銀行が設置された1900年頃の状況。私は北海道開拓と台湾の植民地統治との関係について関心をいだいているのだが、拓銀と台湾銀行との比較というのも、その中に位置づけられる面白いテーマであるように思われる。

なお、台湾銀行への申し込みがそれほど多くないことが述べられているが、これは1900年前後では日本による台湾の統治は十分安定していなかったことを反映していると思われる。



 函館・小樽での商業会議所設立の動きに影響され、札幌でも1896年2月5日、倶楽部内で商業会議所創設発起人会が開かれた。そして、会員資格となる直接営業税3円以上の納税者の調査を行ったところ、120人以上という事前の予想を大幅に下回って60人にも満たず、この時期の会議所設立の認可基準である100人に達していなかったことから、会議所の設立運動は見送られた。このことは商業として発展してきた函館や小樽に比べ、政治・行政機能に中心を置いて人為的に設立された都市・札幌の経済力の実態を示していた。(p.155)


興味深い事実。



 最後に札幌であるが、函館や小樽が前近代からの歴史を持つ都市であるのに対し、札幌はこうした歴史を欠いており、明治期になって人為的に作られた都市であった。札幌における開拓使の本府建設は、開拓使設置後の1869年11月から始まり、一時中断された後に70年12月から再開された。71年には市街の区画割りが行われたが、その特徴は、市街が防火帯としての大通りによって南北に二分され、北地区が本府・学校・病院・官舎・官営諸港上を中心とする官地、南地区が民地=商業地とされ、碁盤目状の構造であった。72年には、民地の南端に官設の薄野遊郭が設置された。このように、札幌本府は官民区分の構造に加えて薄野遊郭の設置、そして官地と民地の境界には土塁・壕が設置されるなど近世の封建都市としての特徴を受け継いでいた。しかし、地番表示などにはアメリカの植民都市の影響がみられることも事実である。(p.160)


札幌の都市計画については、このブログでも何度も触れたが、官設の薄野遊郭が置かれたことと土塁や壕が設置されていたこと、アメリカの植民都市空の影響もある点などについては、このブログでは提示していなかった情報なので付け加えておく。

遊郭が置かれた薄野は現在も有名な歓楽街として存在しつづけている点は興味深い。何らかの断絶があったのかそれとも一貫して歓楽街であり続けたのかといった歴史に興味を惹かれる。



90年の第一階衆議院議員選挙に立候補して落選した加藤は、欧米を視察するなかでアメリカの先住民族問題の存在を知り、このことが後にアイヌ保護法案提出の伏線となる。(p.173)


引用文中の加藤とは加藤政之助のことで、彼は1893年の衆議院でアイヌを「保護」すべきだという法案を最初に提出した人物。

アイヌの保護に関して、アメリカの先住民族問題が一つの伏線となっていたというのは興味深い。

ちなみに、これとほぼ同時期の1904~05年にドイツからマックス・ウェーバーがアメリカを訪問しているが、ウェーバーもアメリカの先住民などの問題について若干知る機会を得ている。当時のアメリカではかなり大きな問題だったと推察される。



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関秀志、桑原真人、大庭幸生、高橋昭夫 『新版 北海道の歴史 下 近代・現代編』(その1)

日本資本主義の発達には、資源の供給地・商品市場・民間資本投資の場としての植民地が求められたが、後進国だった当時の日本には海外植民地がなく、それに代わる「内国植民地」の役割が北海道に期待された。しかし、日清・日露両戦争(1894~95、1904-05)後、我が国はアジア諸国、台湾・樺太・朝鮮・満州に進出し、その植民地支配に力を注ぐようになる。内国植民地としての北海道の地位は低下し、さらに昭和期に入り日中・太平洋戦争時代になると、その役割を終えるに至った。(p.19)


海外植民地の獲得と内国植民地たる北海道の関係というのは、私としては管理興味がある問題なのだが、本書でもあまり詳しくは記述されていなかったと思われる。



 次に我が国の人口・社会問題とのかかわりで北海道の近代をみると、明治初期~中期には、明治維新に伴う失業が大きな政治・社会問題となり、士族授産と北海道開拓を結合した彼らの北海道移住が奨励され、それに国防目的が加わったのが士族屯田兵であった。また、明治中期以降は他府県農村における農民層の分解・地主制の成立過程で生みだされた大量の貧農の北海道移住が盛んとなり、北海道開拓の主力となった。(p.19-20)


移民の主体が士族屯田兵から貧農に変わっていったことは、北海道の歴史の展開を見ていく上で押さえておく必要がある基本的事項であると思われる。



旧来の蝦夷地・和人地の区別が撤廃されたため、旧蝦夷地に和人が進入し、アイヌ社会の崩壊が急速に進んだ。新しい移住者の多くは漁民で、その居住地域は主として海岸部であり、内陸部の農業移民の集落はまだ限られていた。(p.27)


1869(明治2)年の開拓使の設置から1886年の北海道庁の設置に至る時期の特徴についての説明より引用。

19世紀の間は北海道の主要産業は漁業であり、農業が主要産業となったのは20世紀になってからだったというのが、本書から理解した北海道産業の基本的な流れであった。士族屯田兵は内陸の開墾と開拓を行ったのだろうが、それはまだ産業的には十分な開花をしていなかったとしても、農業の発展はかなり長期間をかけて進んでいったのだろう



 市街区画は50間幅の後志通(今の大通)の広い緑地帯を基線として南北に分け、北を官庁街、南を商店・住宅街とし、南北に流れる創成川によって東西に分けた。60間四方が一区画で、東西、南北に11間幅道路を通し、その一区画を6間幅の中通りで二分した。このような街づくりは、奈良・京都などの古い都市を範としたものといわれ、72年には通りに、北海道の国郡名をつけた。それは住民に全道の国郡名を覚えさせるためだったといわれる。こうして、街は碁盤の目状に整然と区画され、道幅も広く、後の札幌市街発展の基礎が築かれたのである。なお、市街の町名が条丁目に改められたのは、81年6月のことである。
 札幌市街の景観は73年から著しく変わった。開拓使は次節でふれるとおり、前年から洋風建築の導入に力を入れ始め、この年には開拓使本庁舎・邏卒屯所(警察署)・病院・洋風官舎・西洋町長屋などが完成、その後も官舎・学校(札幌農学校・第一小学校)・官営工場・測候所・豊平館・博物場などが次々と姿を現し、少数ながらロシア式の丸太組み官舎・学校も造られた。こうして、大通以北はあたかもアメリカ西部の街のような景観を呈していたが、南の町屋街はそれとは対照的に、明治中期になっても、本州の伝統的な和風民家、商家が軒を連ねていた。(p.37-38)


札幌の市街地の展開も私の興味を惹くテーマの一つである。

開拓使は、公的な施設に洋風建築の導入に力を入れたことは現在残る歴史的建造物をみれば分かるが、それが一般に広がるまでには数十年の時間を要したことは押さえておいてよいだろう。公的施設が洋風建築として建ってから、民間の建築が建て替えの時期になってから取り入れられたということが見て取れる。また、明治後期には北海道の経済が著しく発展した時期にあたることもその大きな要因だろう。



 このようなケプロンの方針に基づいて、開拓使が実施した具体的事業については、次項以下で述べるが、1873(明治6)年ころからケプロンと黒田次官(74年長官)との意見の対立が目立つようになった。ケプロンの基礎事業重視、民営、自由主義に対し、黒田は国の財政事情などから収益を上げる事業を重視し、民間資本の不備から官営、保護主義の立場をとったことによるといわれている。
 開拓使が雇った外国人は78人に達した。国別では、当然のことながらアメリカ人が断然多く48人に達し、全体の約70%を占める。それ以外ではロシア5、イギリス・ドイツ各4、オランダ3、フランス1、中国13人で、中国人は通訳1、皮革・鞣皮工2人以外は農民である。アメリカ人の中では、ケプロンのほかウイリアム・S・クラーク(札幌農学校教頭)、ベンジャミン・S・ライマン(地質測量鉱山士長)などマサチューセッツ州出身者の活躍が目立つ。現在、北海道と同州が姉妹提携し交流を深めているのは、このような歴史的事情によるものである。(p.42-43)


ケプロンと黒田との路線の違いは、それぞれの立場や知りうる情報などに規定されていることが読み取れて興味深い。

また、マサチューセッツ州と北海道との関係の深さについての指摘があるが、単に「アメリカ」というだけでなく地域や人脈を考えながら見ていくとさらに興味深さが増してくるものがある。



 一方、住宅の改良については、官営の製材工場で生産した材木や柾を用いて、官庁・官舎・学校・屯田兵屋など公的な建造物の洋風化を図り、内部にはストーブを据え付けた。また、ロシアから3人の大工(ハムトフ、イワノフ、ノオパシン)と暖炉職人のモルジンを雇って、ロシア式の丸太組み官舎・学校・屯田兵屋などを建設したが、建築費が高い上にガラスなどの建築資材や大工が不足して、一般住宅には普及せず、屯田兵屋すら和風のものが大部分だった。この時代に導入されたアメリカ式の建築様式の影響を受けた一般住宅が姿を見せるのは、明治後期以降のことである。(p.53-54)


そのタイムラグについて認識することとその理由について考察することは興味深いテーマとなりうる。見本が提示されることと、それを模倣するための家屋の世代交代さらには経済的な豊かさの程度の違いが背景となっていることは容易に見て取れるが、それがどのように絡み合っていたのか解きほぐすことができればかなり興味深い研究となるのではないだろうか。



 漁村は古くから社会が成立していた道南地方と、漁業集落形成途上にあった道北・道東地方とでは大きな相違が見られた。新開地域の和人の定住集落は、まず近世の各場所の中心地だった運上屋や大きな番屋の所在地に成立し、市街地が形成され、そこに地方行政区域としての村が設定され、戸長役場や郡役所が置かれることが多かった。(p.74)


実地で違いを見較べてみたい。



なお、この地域の離島(焼尻・天売・利尻・礼文)は小樽との関係が深く、対岸の本島地区よりも早く集落が発達した。(p.74)


利尻や礼文との繋がりは漠然と感じることがあったが、小樽がかつての西蝦夷地の交易の中心的港になったことを考えるとこの繋がりははっきり見えてくるように思われる。



 中央道路以外の主な囚人道路には、市来知・月形間、月形・当別間、月形・増毛間、岩見沢・夕張間、標茶・厚岸間、標茶・釧路間、跡佐登硫黄山(現弟子屈町)・網走間、大津(現豊頃町)・伏古(現芽室町)間などがあり、この時期に開削された北海道の道路のおよそ半分は囚人道路だった。
 鉱山労働では幌内炭山の採炭労働と跡佐登硫黄山の硫黄の採掘・運搬がよく知られ、共に多数の死傷者、失明者を出した。特に幌内炭山は一時経営が空知集治監にゆだねられ、その後、北海道炭礦鉄道株式会社に払い下げられてからも94年まで囚人労働が続き、彼らの犠牲によって発展の基礎が築かれたのである。(p.92)


開拓使設置から北海道庁が設置されるまでの間頃についての説明。こういった負の歴史はよく知っておくべきであろう。



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