アヴェスターにはこう書いている?
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池田健二 『スペイン・ロマネスクへの旅』

 サン・ペドロ・デ・ラ・ナーベは、現存するなかでもっとも魅力的な西ゴート様式の教会である。この教会を訪れることによって、旅人は、イスラム侵入以前のスペインに、個性的なキリスト教芸術がたしかに存在したことを知る。そして、その芸術はラテン的であるよりも、むしろシリア的、オリエント的であったことに気づくのである。しかし、この芸術がロマネスク芸術に直結することはない。(p.149)


西ゴートというと、なんとなく「ヨーロッパ」というイメージを持ちがちだが、やはり十字軍やロマネスクなどの時代よりも前にはこうした自己意識はほとんどなかったと考えた方がよいのだろう。

ロマネスク以前の教会堂については、私もあまり見たことがないので、こうしたものもいつか見てみたいものである。



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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

長沼孝、越田賢一郎、榎森進、田端宏、池田貴夫、三浦泰之 『新版 北海道の歴史 上 古代・中世・近世編』(その3)

 改めて言うまでもなく、このような「繁花」は、松前・蝦夷地から産出される豊かな海産物をもとにした活発な交易活動がその背景にある。寒冷な気候のために当時としては米作りが難しく、本州の多くの藩とは異なって農業生産に基盤を置かなかった松前藩にとって、他国との交易は領内の再生産活動のために必要不可欠であった。そのために、沖之口改め制度を整備し、松前和人地や蝦夷地を出入りする旅人や商船、海産物や生活必需品を厳しく統制して、役銭(税金)を課した。その拠点として位置付けられたのが松前三湊である。松前藩の城下町として政治経済の中心であった松前、西蝦夷地の漁業基地として交易活動で賑わった江差、幕府による蝦夷地直轄期には奉行所が置かれ、東蝦夷地からの海産物取引の中心地となった箱館、といったように、三湊それぞれの個性は異なっている。しかし、「繁花」の背景に交易活動があったという点では共通していた。(p.413-414)


三湊の個性の特徴づけが興味を惹く。箱館が東蝦夷地との関係が深く、江差が西蝦夷地との関係が深いことが見て取れる。函館は昭和時代になっても北洋漁業の基地として栄え続けたことを考えると、歴史の連続性が見えてくるようで興味深い。なお、西蝦夷地の中心的港湾は明治以降は小樽に移ると考えてよいだろう。



 このように活発に展開した交易活動を背景とする人や物の往来により、松前和人地には諸国からさまざまな文化がもたらされた。近江出身の大商人に由来する上方の文化、北陸地方出身の商人や船乗りなどに由来する北陸の文化、漁業稼ぎなどのために訪れた東北地方出身の人びとに由来する東北の文化など、これらがあいまって、松前三湊をはじめとする、松前和人地の文化が形成されたと言える。なお、幕末期の箱館には、開港にともなって欧米の影響を強く受けた文化も花開いている。(p.414)


松前和人地の文化についての叙述だが、明治に入ってからの北海道、特に(西部の?)沿岸部の文化の説明にもなりうるように思う。



 1854(嘉永7)年1月16日、ペリーは今度は七隻の艦隊を率いて江戸小柴沖に来航した。そして、再度の交渉の末、3月3日には前十二カ条から成る日米和親条約が締結された。この条約では、下田(現静岡県下田市)とともに箱館が開港地とされ、薪水、食料などの欠乏品の供給と遭難船員の救助などが決められた。箱館が選ばれた背景には、当時、日本の北方海域まで活動の場を広げていたアメリカ捕鯨船の存在があった。(p.434)


箱館(函館)が開港地として選ばれた背景は捕鯨船があった。ここでも北洋との繋がりが見える。



なお、幕府は、場所請負人からの運上金を蝦夷地経営の重要な財源の一つと位置付けていたために、アイヌへの不当な雇用労働を生む原因とされた場所請負制そのものについては、1858(安政5)年に「改革」を実施したイシカリ場所や、和人定住者の増加で次第に町場化したこともあって1865(元治2)年に「村並」としたヲタルナイ場所など一部を除いて、廃止しなかった。(p.474)


幕府はアイヌの生活より財政を優先させたと見ることができる。



なかでも幕府が重視したのは、「風俗」を「御国之髪容」に改めること、つまりは男性であれば月代を剃って髻を結い、髭を剃ることと、名前を和風に改めることであった(前掲『幕藩体制と蝦夷地』)。……(中略)……。
 この改俗について幕府は、例えば、先述した意見書に「古来より之仕来を改め」ることになるので「追々馴染付候様仕向」けることとあるように、比較的緩やかに進めていくことを意図していた。しかし、「場所」によっては、④のクスリ場所の事例にあったような、幕府役人による強制的で急進的な改俗が行われている。東蝦夷地ではクスリ、アツケシ、子モロ、西蝦夷地ではソウヤなど、ロシアに近い「場所」において顕著で、そこには、ロシアの脅威に対する領土確保の意図が込められていた(麓慎一「蝦夷地第二次直轄期のアイヌ政策」『北大史学』第38号)。つまり、万が一、ロシア側が蝦夷地を奪うために上陸しようとした時に、和風化されたアイヌの姿を見せることで<日本人>と思わせて上陸を諦めさせる、という狙いがあったのである。よりロシアに近いクナシリ島、エトロフ島でも同様の方針であったが、北蝦夷地(サハリン島)については、ロシアとの国境問題があり、樺太アイヌがロシアへなびくことへの危惧などから、強制的で急進的な改俗政策は進められなかったとされている(濱口裕介「幕末のアイヌ風俗改変政策と対ロシア問題」『洋学研究誌 一滴』第15号)。


風俗改変の急進度とロシアの危機の大きさとの関係は興味深い。




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長沼孝、越田賢一郎、榎森進、田端宏、池田貴夫、三浦泰之 『新版 北海道の歴史 上 古代・中世・近世編』(その2)

 アイヌ社会の交易は、先述の商場交易によって深刻な影響を受けた。アイヌ側から松前城下へ出向くことが許されず、蝦夷地の商場でまっていなければならない、という仕組みとされたからである。その商場を知行地としている知行主、あるいはその配下の者、交易の委託を受けている商人が渡来するのを待っていて、その特定の交易相手とのみ交易することになったのである。松前まで出向いて良い交易相手に出会って(あるいは良い相手を探して)交易するという機会はないことになる。
 和人が主導的になりやすい交易の状況ということになり、交易品の交換比率も和人の利益中心に定められやすくなる。(p.253)


1633年に幕府の巡見使が松前に来るようになると、それまでアイヌとの交易は松前の城下で行なわれていたが、それが難しくなったため商場交易を行なう体制へと改められた(本書のp.246参照)。鎖国体制に伴い、国境管理の問題が生じ、その影響がアイヌの社会にも及んだということだが、和人側の都合でアイヌの社会のあり方も大きな影響を与えたことが見て取れる。



 シャクシャインの戦いの前段では、アイヌ勢同士の激しい抗争がくりかえされていた。シャクシャインとオニビシの争いについては先に触れたが、同じ頃イシカリの大勢力ハウカセも東蝦夷地の「ヘニ黒立」と抗争していた(「寛文拾年蝦夷蜂起集書」)。それはアイヌ社会に強大な政治勢力が登場しつつあることを示しており、抗争の勝利者がより強大な政治勢力となっていくという過程がすすむとみることができる情勢であるが、実際はその過程の進行は困難であった。各地のアイヌ勢力は和人との交易を通して社会、経済を支持する度合いを強めていたからである。
 ……(中略)……。
 松前藩の困難も相当に大きかったのであるが、アイヌ側の対和人貿易への要望も強かったので、その困惑が大きいほどに松前藩側は「刃物ノ類、武道具ノ類」すべてを没収する(「快風丸蝦夷聞書」)とか、前述した起請文のように服従の規制を定めるとか、蝦夷地支配体制を固めていくことができたのであった。(p.261-264)


1669年のシャクシャインの戦いの後、2~3年間は交易が途絶した状態となってしまい、そのことがアイヌと松前の社会を苦しめたが、これは結果として松前藩によるアイヌに対する優位性の確保に資することになったわけである。



 こうして鮭漁だけでなく、蝦夷地の商場一般が請負制のかたちで経営されるようになってくるのである。
 享保年代(1716~1735)のはじめには、場所請負制のはじまりを示していると思われる史料がみられる。……(中略)……。
 こうした事情で商場交易の赤字経営が続くと、知行主は交易権のすべてを商人にまかせてしまって運上金を請け取るだけの立場となるというわけであった。商人は利益追求の商略を練って商場交易を担当し、運上金を上納し、そのうえ商人としての利益も確保できるような経営を行なわなければならないことになる。
 場所の請負化は、享保初年から二十年余を経た元文年代(1736~40)には、ほとんどの場所に広がっている。(p.275)


1720年代前後にはじまった場所請負は10数年のうちに蝦夷地全域に広がったという。かなり急速な展開だと思われる。この場所請負制度がその後の蝦夷地の経済を規定する大きな要因となり、政治的な変動とも相乗して北海道の歴史の展開を大きく規定していく要因となる。



 「鯡漁之大場所」のシクヅイシ場所は、鰊以外の産物がないので「運上下直(値)」――運上金は低額である、とされていたが(「蝦夷商賈聞書」)、その後、住吉屋西川伝右衛門の請負のもとで鮭漁がはじめられ(1758=宝暦8年)運上金三十両を上納するようになり、「秋味切囲御場所」(1770=明和8年より、運上金五十両)、「海鼠引御場所」(1772=安永元年より、運上金三両、御礼金二十三両)と、種々の漁をはじめていた。ヲショロ場所でも同じ住吉屋の請負のもとで「鱒御場所」(1741=寛保元年より運上金十五両)がはじめられている。(p.277)


場所請負制度のもとで18世紀後半頃にはそれまでの鰊漁だけでなく様々な漁業が各地で行なわれるようになっていった。

引用文は現在の小樽市に関する地域についての記述。現在でも「シクヅイシ場所」であった祝津地域には鰊漁に関する遺構が多く残っており、一見に値する。



キリスト教禁令との関係もあって新寺院の建立は厳しく禁止されていたのであるが、蝦夷地には特別な配慮が必要と思われていた。ロシアが北千島でキリスト教を広めていること、それへの対応として蝦夷地に仏教を広めておく必要が考えられ、蝦夷地に働く役人や商人、漁民たちの信仰・葬儀・供養のためにも仏教寺院が必要だったのである。1804(文化元)年、ウス――善光寺(浄土宗)・シャマニ――等澍院(天台宗)・アッケシ――国泰寺(五山派)の三寺院が建立され、翌年にはそれぞれの住職も赴任した。
 ……(中略)……。
 なお、檀家のない三カ寺には米100俵、金48両、扶持12人扶持が幕府から給されることになっており、蝦夷三官寺と呼ばれることもある。(p.346-347)


ロシアとの国境を巡る緊張関係から蝦夷三官寺が建てられたわけだが、かつての日本にも聖徳太子などの時代に朝鮮や大陸との関係から仏教が持ち込まれたことに始まり、琉球王国と仏教寺院との関係、北海道開拓の時代にも本願寺の進出など政治権力と宗教勢力の関係は、いつの時代にも見られるものであり、政治的な現象としても読み解く必要がある



 レザノフの長崎来航、その通商要求拒絶のあと、日露関係が険悪となると、幕府は、それまでは松前藩にまかせていた西蝦夷地、カラフトも上知、松前藩は陸奥の梁川へ転封させて蝦夷地全域を幕府が管理することとなったのだが、新たに上知した西蝦夷地、カラフトでは幕府直営の場所経営は行なうことなく、松前藩が採用していた場所請負人らによる請負制をそのまま継続した。対ロシア緊張感が高まるなかで、蝦夷地警備体制のための出費は大きく嵩むことになる。商人の資力に依存する請負制の方が幕府の財政負担が抑制できることは明らかだった。東蝦夷地でも1813(文化10)年からは請負制が採用されるようになる。(p.347)


ロシアの動きに対抗するため直轄化が必要だが、財政上の理由や恐らくはアイヌと商人の両者からの大きな反発という危険を回避するためにも場所請負制度の存続という選択肢が採られたのであろう。ただ、幕府の直轄化のもとで場所請負制度が量的にもそして(次の引用文で指摘するが)質的にも拡大したことは見逃せないところである。



 こうして、蝦夷地幕領化の時期を通して場所請負制度は次のような特徴を加えることとなったのである。
 ①場所請負制はエトロフ、カラフトという国境地帯へまで採用されるようになった。……(中略)……。
 ②大商人による広大な地域の一手請負が広がる。入札による請負人の選定で資力ある大商人の進出が一層目立つこととなった。……(中略)……。
 ……(中略)……。後年、流域のアイヌ人口の大部分が河口部分に集められ、中・上流域一帯の集落が壊滅的な打撃を受けている状況を松浦武四郎が報告するようになるが、それは、この年代にできてきた場所経営の条件によるところが大きかったのである。
 ③場所請負制は蝦夷地全域について松前奉行がすべて掌握して管理する体制であった。松前藩の商場知行制のもとで藩主直領の場所、各藩士の知行所の場所、それぞれが各場所ごとに藩主あるいは各藩士と請負人との関係で管理されていたのとは大きく異なる仕組である。……(中略)……。松前家が復領で松前・蝦夷地に戻って来たとき、もとの商場知行制はとらず、藩主のもとで全ての場所を管理する方法をとったことにもつながっている。(p.356-357)


入札によって請負人が決まることから、資力の大きな商人が一手に多数の場所を請け負うことができることになったというあたりは、市場化による「一人勝ち」の事例となっている。

また、③の特徴は、商場知行制の下での場所請負制という分散的なシステムだったものが中央集権的な管理体制へと移行したことを意味している。



ラクスマン来航後の日露交渉が、すぐに継続されていれば交易開始へ向かう可能性はあったと思われるが、ヨーロッパ、ロシアの政情からしてロシアの対日交渉は継続しなかった(前述)。その後、ロシアの北太平洋地域での活動が活発化して1799(寛政11)年には、この方面の植民地経営の独占的特権を持つ露米会社が発足、その経営の維持、発展のためには、広東、日本との交易関係が非常に重要だと思われていた。広東での毛皮交易が、アメリカ、イギリスの手で活発に行われ、ロシアも、内陸のキャフタで行われる対中国毛皮交易よりも有利な広東での活動をすすめたいところであった。北太平洋から広東へ向かう航路の途中にあたる日本への寄港、交易は強く望まれていた。ロシアの北太平洋植民地の経営は、諸物資補給、特に食料補給の困難に苦しんでおり、植民地周辺の地域との交易で食料を安定的に確保する必要にせまられていた。(p.358)


アメリカなどが中国との交易の中継地的な意味合いで日本との交易を求めていた面があることはしばしば耳にするところであるが、ロシアも同じ面を持っていたということはあまり指摘されないように思う。この叙述は非常に参考になった。



知行主は自分の知行地のうちで行われる藩主の権利のもとの鱒漁などへ冥加金、御礼金などの名で課金を行うことがあったので、知行主の知行地、場所請負人に対する支配、統制力の強さは、商場知行制のもとでは、かなり、大きかったのである。復領後の松前藩では、もとの知行主への知行地の宛行を行わなかった。蝦夷地全域を藩主の直領として、家臣への宛行は何石・何人扶持(主君から家臣に給与した俸禄)と称されたが、すべて現金での給与であった。知行石高百石について金二十両、一人扶持は金二両という換算であった。
 梁川への移封となっていた時期も、家臣への宛行は、石・扶持で表していたが、現金、現米での給与を行っていたのであり、藩主のもとへ全収納を集約して、そのうちから家臣への給与を行う宛行の形は、梁川時代から引き継いだものでもあった。
 蝦夷地全域を藩主直領として、全場所の請負契約を、藩主のもとで一括して管理する方法も幕領期に松前奉行のもとで実施されていた方法と同一のものである。
 このようにして藩主の、あるいは藩政の中枢にいる家老職の者などの権限は強化された。場所請負人への統制力は一元化されて、藩財政上に場所請負の大商人らの資力を利用する便宜も強化されることになる。復領にあたって驚くほど莫大な借金を伊達屋、栖原屋に強請することができる背景には、前述までのような体制強化が働いていたのである。(p.367-368)


二つ前の引用文で引いた場所請負制の変容について、やや詳しく説明されている。

幕領期を挟んで、松前藩の統治権力やその財政面での構造が大きく変わったことがわかる。この変容の一つの側面としては、商人と藩とのかかわりの深さが増していくことが指摘できる。この関係のなかで商人側の力が強くなっていくことになり、場所請負制の問題点が噴出していくという面もあったのではなかろうか。




テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

長沼孝、越田賢一郎、榎森進、田端宏、池田貴夫、三浦泰之 『新版 北海道の歴史 上 古代・中世・近世編』(その1)

なお、現代の北海道に生息しているナキウサギやヒグマは、マンモスゾウ同様に大陸からやってきた動物で、現在でも本州方面には分布していない。(p.44)


北海道がかつてサハリンを通じて大陸と陸続きであったことを示すもの。

現在でも北海道観光のお土産で「熊出没注意」などと書かれた商品があることが、これも旧石器時代からの歴史的関係がそこに現れていると考えるとなかなか感慨深いものがあるかも知れない。



渡島半島を中心とした道南は常に東北地方と密接な関係を保持し、逆に大陸との接点となっていた道北・道東では独自の文化伝統を保持するとともに、大陸文化の影響が考えられる遺物もみられる。道南と道東・道北の二つの文化圏の境界は道央の石狩低地帯付近で、時には両者が混在し、また時には片方が優勢という状況がみられる。この二つの文化圏の成立する要因は、単に地理的環境だけではなく、道南は東北地方と同様なブナやミズナラを中心とした落葉広葉樹林帯に属し、道東・道北は亜寒帯針葉樹を交えた針広混交林帯に属しているという気候環境の違いが大きく、それぞれの環境下における食糧となる動植物資源の相違も反映し、それぞれの自然環境に適応した生活文化を形成していたことがわかる。(p.57-58)


これは縄文時代に関する部分での記述だが、その後の歴史的展開も、ブローデル的な長期持続の観点から見ると同様の構造が近現代にまで続いていることが見て取れると思う。

渡島半島-本州(東北地方)、サハリン付近-大陸、千島列島-カムチャッカ方面という3つのルートが、島の外部との繋がりをもたらしてきたと見てよいだろう。



 七世紀には東アジアで大きな変動が起きた。中国で南北朝の分裂状態を統一した隋(581~618)とそれを継いだ唐(618~907)が覇を唱え、周辺各地に軍を送った。朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の三国時代が続いていたが、唐の遠征によって百済、高句麗が滅び、新羅の統一時代を迎えた。このような東アジア情勢に対し、畿内を中心とする倭国は危機感をいだき、国内体制の整備と対外政策の強化が図られた。七世紀中ごろの「大化改新」と呼ばれる政治改革もそのなかの一つであり、天皇を中心とし中国の律令制を取り入れた政治・軍事態勢、仏教を軸とした宗教統制、漢字の公用語としての採用など国家体制の強化が目指された。対外的には、百済を援助して唐・新羅と一時敵対関係となるが、遣唐使の派遣により唐への朝貢体制を保つことになった。八世紀初頭には大宝律令が制定され、「日本国」の成立をみることになる。
 この動きのなかで、大化改新以降、倭国の東北にある蝦夷(えみし)の経営が図られていく。『日本書紀』斉明天皇4~6(658~660)年に行われた阿倍比羅夫の北航も、北の情勢を把握するためととらえることができよう。七世紀中ごろから八世紀にかけて、現在の宮城県・秋田県・新潟県付近に倭国・日本国の前進基地として城柵が築かれ、郡が置かれた。また、福島県相馬市やいわき市では七世紀の大規模な鉄生産遺構群が見つかっており、倭国の北進を支える役割を果たした。八世紀になると太平洋側の陸奥国に多賀城(724年)、日本海側に秋田城(733年)が設置され、蝦夷経営の中心となっていった。
 これに呼応するかのように、東北北部でも七世紀の土師器が出土する集落が北上川中流域や八戸などで出現し、八世紀にかけて増加する。壁面にかまどをもつ竪穴住居により構成された集落が築かれるとともに、末期古墳が造成され、律令国家との関係によってもたらされた刀剣類、馬具、銙帯金具、和同開珎、玉類、須恵器などが副葬された。東北北部では、古墳時代後期(五世紀~六世紀)並行期には、弥生時代の伝統をひく竪穴住居跡は見つかっておらず、かまどを持つ竪穴住居は古墳とともに「倭国」から持ち込まれた、新たな文化要素であった。
 北海道においても八世紀には道南から道央にかけて、壁面にかまどをもつ竪穴住居により構成された集落が出現する。擦文前期の土器は、土師器の影響を受けて北大Ⅲ式土器までみられた文様がなくなり、口縁部や頸部に沈線をめぐらすだけになる。器形は、口縁部と胴部の境が明瞭で、口縁部が開く形態になる。また、土師器とともに須恵器が本州からもたらされ、九世紀前後には坏とともに大型の甕や壺が出土している。
 特筆すべきは、七世紀中ごろから豊富な鉄製品を副葬する土抗墓が道央に出現し、八世紀には末期古墳の系譜ととらえることのできる「北海道式古墳」が石狩低地帯に築かれたことである。(p.115-117)


長い引用になったが、隋唐帝国の成立による七世紀の東アジアの大変動は日本でも権力機構や交易体制の変化をもたらし、このことが東北地方を経由して北海道にまで影響が及んだわけである。こうして(それまでは続縄文時代として区分されている)北海道では擦文文化がこの大変動にともなって成立したということであろう。

こうした大きな流れの中で把握すると、個々の考古学的な事実や阿倍比羅夫のエピソードのようなものもより興味深く見えてくる。



 擦文土器の終焉は、北海道で一万年以上も続いた土器作りが行なわれなくなったことを意味するので、それを指標としてアイヌ文化期と区分している。(p.140)


なるほど。なお、本書ではアイヌ文化期は13世紀頃から江戸時代まで存続していたとされている。本州では鎌倉幕府から江戸幕府までの武家による政権が成立していた時代である。

ちなみに、擦文文化は七世紀の途中から12世紀末頃までと考えられており、飛鳥奈良時代から平安時代という「貴族の時代」と並行している。これらの変動にも東アジアや世界の秩序との関連が見えるようで興味深い。



 このように、サハリンに進出したアイヌは、1264(文永元)年から1307(徳治2)年に至るまでの44年間もモンゴル・元朝と戦い続けたのである。では、北海道のアイヌは、なぜ13世紀前期~半ば以降、サハリンに進出していったのであろうか。結論を先に言えば、『経世大典』「序禄」の記事に「骨嵬(グウェイ)」(アイヌ)が「打鷹人」(鷹を捕る人)を捕虜にしようとしているとの情報をギリヤークが元軍に伝えたとあることが端的に示しているように、サハリンとアムール川最下流域の奴兒干(ヌルガン)地域が「海東青」(鷹)の名産地であったこと(『元史』地理志)に加え、サハリンが鷲やテン・アザラシ・オットセイ等の鳥類・陸獣類・海獣類とアイヌの食料として重要な位置を占める鮭が多く捕れる地域であったこと等からして、この時期に日本社会側がアイヌ社会に求めた鷲羽・鷹・テン皮・アザラシ皮・オットセイ・干鮭等の捕獲・生産を目指して進出していったものと推察される。ところが、これらの諸産物の多くは、ギリヤークにとっても彼らの生活を支えるための重要な産物であった。そのため、サハリンに進出したアイヌとギリヤークとの間に産物の捕獲をめぐってトラブルが生じるに至ったのである。ところが、当時のギリヤークは、すでにモンゴル帝国の支配下に編入されていた。そのためギリヤークは、自己の生産・生活領域に侵入してくるアイヌを排除するため、彼らの支配者であるモンゴル帝国に「骨嵬」の征討を要請したのであった。それを大きな契機として、モンゴル・元朝は、1264(文永元)年移行、「骨嵬」征討を開始し、以後元朝による「骨嵬」征討は、事実上1307(徳治2)年まで続いたのである。(p.171-172)


アイヌがモンゴル帝国と戦っていたとは知らなかったので、この辺りを読んだときは少し驚いた。

和人側では鎌倉幕府が成立し、津軽安藤氏を介して「夷島」への進出が行なわれていたため、アイヌ側は交易の拡大などのためサハリンに活動領域を広げた。その結果、モンゴル帝国の支配下にあったギリヤークとの対立を生じた、ということのようである。

歴史のダイナミズムを読み解くのはやはり面白い。



 こうして蠣崎氏は、コシャマインの戦いと、その鎮圧を大きな契機とする他の館主層に対する政治的優位性の確保、上ノ国の勝山館から松前の大館への移転と夷島における「檜山」の下国安藤氏の「代官」たる地位の確保、そして、この「夷狄の商舶往還の法度」による「初期和人地」の創出と城下交易体制の確立などの諸段階を経て、夷島における唯一の現地支配者たる地位を確固たるものにしていった。そして、この蠣崎氏の夷島における支配権の確立が近世の松前藩を誕生させる大きな母体となったのである。しかし、この過程は、アイヌ民族の側からみれば、自己の生産と生活の場の一部が奪われ、日本社会との自由な交易を制限されていった過程でもあった。(p.225)


コシャマインの戦いによって、多くの館主が勢力を失ったため、他の館主より西側にいたため被害の小さかった蠣崎氏が唯一の現地支配者となり得たようなのだが、単に個人や集団の力量だけに帰属させられない様々な要因の絡み合いによって力の配置が変わっていくプロセスに興味を惹かれる。




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村井章介 『世界史のなかの戦国日本』

コシャマインの戦いののちにも、平時にはアイヌが館内に混住していた事実は、従来の「アイヌ対和人の戦い」という構図に大きな修正をせまるものといえる。(p.54)


アイヌと和人を過度に対立的に描く歴史叙述に対しては批判的な姿勢で見るのが妥当だろう。それは民族主義的な歴史観をあまりに強く引きずりすぎているように思われる。



 コシャマインの蜂起は、以後80年続くアイヌの攻勢の序曲にすぎなかった。……(中略)……。この間つねに軍事的にはアイヌ側が優勢で、和人側は謀略でピンチを切り抜けるしかなかった。(p.56)


確かにアイヌと和人の関係というと、現時点では和人が「勝利者」側に立っているということから勝利者史観の常でアイヌ側を低い位置において見てしまいがちである。しかし、アイヌを単に虐げられただけの、原始的で弱い集団であったとして客体化してしまうことには慎重であるべきだろう。アイヌ側の主体的な動きや、考え方などにSachlichに寄り添いながら歴史を見ていきたいものである。



 右の家康黒印状は、1592年以来の統一権力の北方政策を集約し、近世大名松前氏と松前藩の権力基盤を確立したものだった。その中核は、松前氏以外の者が松前氏の許可なくして松前・蝦夷島でアイヌと交易することを許さない、ということにある。これを幕府の外交体制としてみれば、対馬藩と朝鮮、薩摩藩と琉球の関係とならんで、境界地域で異国・異域との交通を管理するシステムの一環をなす。(p.62)


松前藩とアイヌとの交易は、薩摩や対馬と比べると何となく地味な感じがするが、これらと並列ないし関連付けながら理解していく方が理解が深まるようには思われる。私は、今後、北海道の歴史について少し知見を深めたいと思っているのだが、その際、この視点は重要であると思われる。



 翌1511年、アルブケルケの艦隊ははやくもマラッカ海峡を扼する交通の要衝マラッカにあらわれ、15世紀初頭以来明に朝貢を続け、南海貿易でさかえていたマラッカ王国を滅ぼした。ポルトガルはこの地に商館を置いて東方進出の拠点とした。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 この交易ネットワークは、ポルトガル人があらわれる以前からアジアに存在していたものであって、ポルトガル人は新参者としてそこに割りこんだにすぎない。ただ、それだけにネットワークの要に位置するマラッカがかれらの手に落ちたことの意味は大きかった。(p.117-119)


なるほど。単なる点と線で食い込んだだけにもかかわらず、相対的に大きな意味を持ち得た理由は、要衝を落としたことにあったということがわかる。そのために軍事力(新しい武器と政府のバックアップ)が背景の一つとなっていることには注目したい。



 当時の日本が一次産品である鉱物を供給する存在で、しかも海洋国家でない、という認識は、日本がアジア・ネットワークの東の辺境だったことを思い知らせてくれる。(p.121)


16世紀のポルトガル船が日本に来航した頃のこと。



ポルトガル船は1571年からは大村領の長崎に入港するようになり、国際貿易港湾都市としての長崎の歴史がここに始まった。
 1584年にはイスパニア船が平戸に来航し、松浦鎮信(隆信の子)を喜ばせた。鎮信はイスパニア船の帰航にさいし、イスパニア人を歓迎する意を述べたフィリピン総督あての手紙を託したが、イスパニアはポルトガルとの世界分割(デマルカシオン)にもとづいて日本貿易に消極的だったため、それ以上の進展はみられなかった。(p.159-160)


この引用文の前後で説明されている平戸と長崎の国際貿易港としての対抗関係は非常に興味深いものがあった。日本史においてポルトガルが来航するのに、スペインの影が薄いと思っていたのだが、両国の世界分割がその背景にあったというのはあまり考えたことがなかった。言われてみれば、という感じがした。



 1498年にバスコ=ダ=ガマがインドに到達して以来、東南アジア・東アジアに展開したポルトガルは、1557年に明朝からマカオ居住を許され、マラッカ・マカオ・長崎間に定期航路を開いた。これは日本銀が中国へ流れこむルートとなる。(p.169)


ポルトガルの植民地だったマカオもまた非常に興味深い都市だが、こんな時代からマラッカと長崎を結ぶ定期航路があったとは知らなかった。



たとえば、ヨーロッパ勢力まで参加している密貿易集団が、なぜ「倭寇」と呼ばれたのだろうか。
 この「倭」あるいは「倭人」とは、15~16世紀の東アジアのなかでもっとも国家的統合の弱体だった日本の西部辺境を根拠地としながら、朝鮮人や中国人をもふくみつつ登場した、いわば国境をまたぐ人間集団だ。かれらは、14世紀後半以来の明を中心とする冊封体制がゆるむにともなって、国家間あるいは公権力間の公的通交にとってかわって、この地域の人や物や技術の交流の主役になっていった。(p.186)


日本史で言うと室町時代から戦国時代にかけての時代だが、東アジアで最も国家的統合が弱体であり、先に引用しておいたように「アジア・ネットワークの辺境」であった日本に「倭寇」が根拠地を置くようになったというのは頷ける。この時代の東アジアのシステム内の関連性はなかなか複雑であるが興味を惹かれるものでもある。



 また窯業の分野でも、秀吉軍が朝鮮から連れてきた陶工が九州各地に磁器焼成技術をもたらし、17世紀前半には中国・景徳鎮の色絵磁器と肩を並べるほどの技術水準に到達する。明清交代の混乱による景徳鎮の一時的不振を埋めるように、有田焼(海外では積出し港の名をとって伊万里と呼ばれた)を中心とする北九州の磁器は、東南アジアやヨーロッパにまで販路を拡げた。(p.224)


なるほど。伊万里焼もまた、大航海時代後のグローバルな人・モノ・カネそして技術の移動を背景としているということか。興味深い。



しかし秀吉の朝鮮侵略戦争にともなう軍需物資の輸送には、各地の港町の有力海運業者が総動員され、結果として全国規模の有機的な物流システムを登場させた。これは中世にはなかった規模での物の動きであったにちがいない。
 この経験をひきつぐかたちで登場した本州を一周する東廻り・西廻り航路には、千石積クラスの大船が投入され、江戸時代における上方・江戸の二中心的物流構造を支えた。こうした海運の変貌は港町の盛衰に直結し、中世にさかえた港町であっても大船の繋留できない浅いところは没落を余儀なくされる。近世の海運が中世では想像もつかないほどの巨富の源泉であったことは、北陸の港町に残る北前船主の壮麗な屋敷が教えてくれる。
 以上に生産力拡大の例をいくつか示したが、それらはいずれも社会のなかから純経済的に自生してきたものとはいいがたい。戦国の権力分散状況を克服して中央集権的な支配システムを作り上げた統一権力が、さまざまな生産手段や技術力や労働力を有効に編成してはじめて、実現しえたものである。しかし逆に、かつてなく強大な統一権力の誕生を根底で支えたものが、この時期の生産力拡大であったことも事実である。
 統一権力の生成と生産力の拡大とは、どちらかが原因で他が結果だ、というような単純な関係ではなく、両者の働きがうまく相乗したところに、車の両輪のごとく走り始めたのである。そして双方のいずれにも、16~17世紀のアジアに生起した世界システムの変貌と、端緒的な資本主義世界経済との接触が決定的な作用をおよぼしていた。(p.224-226)


江戸時代の東廻り・西廻り航路ができる背景の一つに秀吉の朝鮮侵略戦争にともなう軍需物資の輸送があったというのは興味深い。

北前船主の邸宅の壮麗さも実際に見てみたいと思う。北海道にも北前船主が残した漁場建築群や住宅が若干残っており、私もそれらはある程度見たことがあるが、北前船主の本拠地である北陸にあるものは、北海道のような出先でのものとは比較にならないほど豪華なものだと聞いたことがあり、この目で見較べてみたいと思っている。

権力の集中化と生産力の拡大との相乗効果が再帰的ないし相補的なものであったという見方は重要だろう。「政治」や「経済」といったカテゴリーにとらわれずに両者の関係をみていく必要があると思う。



 現実の島津軍は、太閤検地の創出した直轄地からの年貢によってではなく、領内の武士たちの自力によって支えられていたことがわかる。そのような世界では、獲得した敵の首数が多いほど、期待される恩賞の額も多くなる。その結果、戦闘そのものの勝敗がはっきりした後も、ひたすら首取りに熱中することになる。……(中略)……。日本軍の朝鮮撤退を容易にしたという以上の意味はない泗川の戦いにおいて、首数や戦死者数があれほど膨大になった理由は、島津軍が中世的な「自立」の論理で行動したことにある。例の鼻削ぎも、倒した敵の数をもっとも簡便にカウントする方法として採用されたものだった。(p.264)


なるほど。



 従来は、単に琉球と島津とを敵対的に描き、なおかつ島津がつねに琉球の上位にあったとする“島津史観”が幅を利かせていた。しかしながら、手前味噌で恐縮だが、15・16世紀、琉球王国と交易相手先となった日本の勢力は、室町幕府→細川氏→大内氏→島津氏と変遷・重層化し(拙稿「撰銭令と列島内外の銭貨流通」」<『出土銭貨』9号、1998年>など参照)、さらに微細に見ていくと、16世紀前中期段階には、島津諸庶家や種子島氏、相良氏など、多種多様な通交主体が琉球側に臣従しつつ通交貿易を繰り広げていた(著者「古琉球をめぐる冊封関係と海域交流」<村井ほか編 『琉球からみた世界史』山川出版社、2011年>)。つまり、琉球王国が向き合っていたヤマトの勢力は、島津本宗家だけではなかったのである。そして驚くべきことに、琉球側は日本側諸勢力に対し、明確な優位を保つ時期さえあったのだという。(p.309)


橋本雄氏による解説より引用。

確かに、「島津史観」的な歴史観は、特に意識しないでいると「ヤマトの側」から歴史を見てしまいがちな日本の人々にとっては分かりやすい図式であり、陥らないように注意しなければならない考え方である。北海道におけるアイヌと和人との関係についても同様のことがここでも当てはまる。

日本に関する歴史の場合、特に、ヤマトの中央ないし最有力な権力者の側からの歴史観に容易に引きずり込まれてしまう傾向があるので特に注意が必要であると思う。他の地域に関する歴史以上に、日本が関わる歴史叙述を読む際には、こうした権力者側の視点や勝利者史観そしてエスノセントリズムには注意を要するように思う。



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