アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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ゾンバルト 『ブルジョワ 近代経済人の精神史』

――そしてすべての経済活動の出発点は、人間の需要である。すなわち財貨に対する人間の自然の需要である。人間が消費するだけの財貨が生産されなければならない。支出する分だけ人間は収入を得なくてはならない。まずはじめに、支出がきまる。すると、それにしたがって収入が生まれる。私はこの種の経済実施の方式を支出経済と名づける。すべての前資本主義的ならびに前市民的経済は、この意味で支出経済である。(p.21)


前資本主義的な経済という限定は付しているにせよ、経済における需要の重要性を説いているあたりは、経済学の理論の多くがサプライサイドに大きく偏っていることを考えると重要な視座に立っていると言える。私のゾンバルトへの関心の一つもこの点にある。



 われわれは、広い意味で、次のものを企業と名づける。それは、実施するためには統一の意志のもとに多数の人々の協力を必要とする先見の明のある計画のあらゆる実現をさす。
 ……(中略)……。
 企業の領域は、人間活動一般の分野と同じように広い。したがってその概念はけっして経済的なるものに限定されない。経済的企業はむしろ企業一般の亜種であり、資本主義企業は経済的企業の亜種である。(p.80-81)


企業というと、どうしても経済的なものであるという先入観にとらわれてしまうが、このような、一般的な通念とは異なる独自の用語法によって、自明視しているものに対して自覚的になることができる場合がある。このことは読書の効用の一つでもあり、私としては久しぶりにこうした感覚を味わった。



しかし教会の組織の内部で、もっとも狭い本来の意味において、数多くの企業が発生した。修道院あるいは新しい司教区の設立は、中核では持綿紡績工場あるいは銀行の設立と同一過程をたどっている。(p.96)


修道院と近代資本主義との関係に着目する点ではウェーバーと共通している。



 商業(大商業)を営むということは、あのころ〔17世紀頃…引用者注〕では船舶を装備して武器でかため、戦士を募集してもろもろの土地を征服し、原住民を火縄銃とサーベルで打ち負かし、彼らの全財産を奪い、彼らを船に積み込み、母国の公けの競売場でもっとも高値をつけたものに売り渡すことであった。さらにそのひまひまをみて、チャンスさえあれば、外国船を捕獲することであった。商業とすべての植民地企業(それがヨーロッパ人の移住を目標としていないかぎり)を満たした精神は、したがって海賊の精神であったと私は考える。(p.111)


ウェーバーとの対比で言えば、ウェーバーは植民地支配などに関して語るところが非常に少ないということが浮かび上がってくる。



 金貸業においては、経済活動それ自体はすべての意味を失った。金銭の貸出活動は、肉体と精神の意味深い関与を完全に停止させた。これによってその価値は、活動自体をはなれ、成果のなかに置きかえられた。成果のみが、ただ意味をもっているのだ。
 ……(中略)……。
 金貸業においてはじめて、まったくはっきりと、おのれの汗を流すことなく、ひたすら経済的行為を通じて金銭を獲得する可能性が出現した。それにまったくはっきりと暴力行為をいささかも用いず、他国人をおのれのために働かせる可能性が現われた。(p.447)



金融というものの特徴をかなりよく捉えていると思われる。金融の持つ成果としての金銭を求める志向や一見暴力的ではない仕方で行なわれる強制などには敏感でありたいと思う。



 ともあれゾンバルトは、近代資本主義が発展し、高度資本主義となって大いに躍進したものの、第一次大戦の勃発をもってこれも終わりを告げたとみている。彼によれば、その後の後期資本主義は発展の飛躍性がなくなり、経済的弾力性を失い、人間でいえば老衰し肥満したありさまを示してきたという悲観的な見方をしている。この点、ファウスト的精神の消滅をもって西欧の没落のしるしとみたシュペングラーの所説と一致するところがある。両者にとっては二つの大戦の間にはさまれた時代は、まさに乏しき時代と映ったのであろう。それだけに、ますます創世期の近代資本主義の時代の精神をゾンバルトはたくましく躍動したものとして回顧している。(p.540)


訳者による解説より。

ゾンバルトもシュペングラーも当時のヨーロッパに対して悲観的な見方をしていたとされているが、この点は同時代人であるウェーバーとも共有している観念であると思われる。なお、ニーチェなどの思想もその背景の一つには、こうした悲観的な世界観があると思われる。



しかし、宗教と資本主義との関連についてはヴェーバーが明瞭な一元的な立場を示したのに対し、ゾンバルトはあまりにも多元的な立場をとり、それだけ弱点をさらけ出したといえないこともないであろう。(p.543)


ウェーバーの議論を「一元的な立場」と形容するのは適当ではないと思われる。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』だけを取り出して、それによって近代資本主義の唯一の起源を解き明かしたといった類の理解は不当だからである。訳者はそこまで極端な解釈をしていないとしても、叙述が特定の着眼点を「一面的に上昇」させているからといって、そのことは宗教と資本主義の関係を一元的に捉えていることを意味しないのである。

ただ、ゾンバルトの議論が多元的な立場をとっているがゆえに、そこに弱点が出ているというのは同意見である。私としては、個々の議論の論証の甘さやディレッタント的な世界観の投影などが目立つと見ている。血統や民族性などを前面に出して論証しようとしているあたりなどに、こうした弱点がはっきりと出ていると言えよう。

(付け加えると、ウェーバーも、民族性や血統のようなものの意味について、ゾンバルトと同じような意見や期待は持っていたようであるが、論文に不確かなことは書かないようにしていることが見て取れる。こうした禁欲的な姿勢で書かれていることがウェーバーの作品の方がより長い間、多くの人に読まれ続けた要因の一つだろう。)




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阿部彩 『子どもの貧困――日本の不公平を考える』

 つまり、子どもが貧困状態で育つことは、その子どものその時点での学力、成長、生活の質などに悪影響を与えるだけでなく、それはその子どもが一生背負っていかなければならない「不利」な条件として蓄積されるということである。そして、それは単に「低所得」になるというだけで表されるものにはとどまらないかもしれない。子ども期の貧困というのは、あとから解消できない「不利」なのである。(p.24-25)


15歳時点の貧困と現在の低い生活水準との間に、他の要素の影響を排除した後にも相関がみられたという調査結果からの結論。あとから解消できない不利を負わせないためにも、他の年齢層にも増して子どもの貧困はできるだけ発生を抑制することが望ましいと言える。



図1-6は、1995年時点において20歳から69歳であった男女の学歴を父親の学歴別にみてみたものである(同右)。これによると、父親が大卒である場合は、本人も大卒である割合が66%であるのに対し、父親が中卒である場合は14%しかない。あきらかに、親が高学歴であると、本人も高学歴となる可能性が高い。貧困の連鎖の観点からみると、父親が中卒である場合は、子どもも中卒である割合が三割、高卒が約五割であり、大卒となるのは14%である。父親が中卒であると、子どもも中卒となる確率が高く、大卒となる確率は大幅に低い。(p.26)


この種の分析は割と多く出ていると思うが、それでも一般に十分知られていない。階層の固定化が進んでいる現在においては、このことを広く知らせることは重要であると思われる。



 第一に、子どもの基本的な成長にかかわる医療、基本的衣食住、少なくとも義務教育、そしてほぼ普遍的になった高校教育(生活)のアクセスを、すべての子どもが享受するべきである。「格差」がある中でも、すべての子どもに与えられるべき最低限の生活がある。これが「貧困基準」である。本書の題名が「子どもの格差」ではなく、「子どもの貧困」である理由はここにある。これは、「機会の平等」といった比較の理念ではなく、「子どもの権利」の理念に基づくものである。
 第二に、たとえ「完全な平等」を達成することが不可能だとしても、それを「いたしかたがない」と許容するのではなく、少しでも、そうでなくなる方向に向かうように努力するのが社会の姿勢として必要ではないだろうか、ということである。(p.37)


本書の主張が宣言されている箇所であるが、まったく同意見である。

「機会の平等」というリバタリアン的な考え方をする人々がしばしば持ち出す理念が、相対的な比較に基づく理念にすぎない点を明示し、それに対して「子どもの権利」というカント的な権利理論に起源をもつ平等主義的なリベラリズムと共通する理念を打ち出しているところが新自由主義が流行する昨今の中ではポイントの一つであろう。



 この二つは、根本的に異なる概念のように見えるかもしれないが、実は、それほど離れてはいない。ある社会で、何が「絶対的貧困」であるかは、その社会に存在する人々の考えによって左右され、その社会の生活レベルをどうしても反映してしまうからである。これを説明するのに、筆者がよく使う例は「靴」である。いま、仮に、靴が買えず、裸足で学校に行かなければならない子どもが日本にいたとしよう。日本の一般市民のほとんどは、この子をみて「絶対的貧困」の状態にあると考えるであろう。しかし、もし、この子がアフリカの農村に住んでいるのであれば、その村の人々は、靴がないことを必ずしも「絶対的貧困」とは思わないかもしれない。つまり、「絶対的貧困」であっても、それを判断するには、その社会における「通常」と比較しているのであり、「相対的観点」を用いているのである。(p.43)


絶対的貧困と相対的貧困の概念にはそれほどの違いはないという。確かにその通りだろう。ただ、相対的貧困の方が統計を使って誰でも簡単に提示できる便利さがあるというのはあるかもしれないが、絶対的貧困の概念の方が最終的には重要になってくる。なぜならば、人びとの実感に訴えかけるのは、こちらの概念に関わっていると思われるからである。

本書の後半で展開される「相対的剥奪」の概念を用いた議論を重ねると、「相対的剥奪」の度合いが高いことが「絶対的貧困」であるということだと言えると思われる。そうだとすると、その剥奪されてはならないものは何か、ということが社会的な議論の対象とすべきところとなり、それらを誰もが欠くことがないような状態が目指すべき状態であるとして社会的に設定することができるようになる。



実際に、保育所を利用する世帯の年間所得の平均をみると、その多くは共働き世帯であるにもかかわらず、幼稚園を利用する世帯の年間所得に比べ約50万円も低い。特に異なるのは父親の所得であり、幼稚園を利用している世帯の父親と、認可保育所を利用している世帯の父親の間には平均して200万円の格差がある。ただし、おれはあくまでも平均値の話であって、認可保育所を利用している世帯は実際には高所得層と低所得層に二極化しており、特にその傾向は低年齢児に強い(大石2005)。(p.87)


このことには、自分の経験からしても納得できるところがある。私は幼稚園に通っていたが、小学校に入って1年ほど経過した頃に自分の実感として実際に次のようなことを述べたことがある。幼稚園から来ている児童はおしなべて学校の成績がよく、保育所から来た児童は勉強についていけていない子がおり、成績の良いものは少ない、と。当時はもちろん、その背景に何があるかということなど知る由もなかったが、子どもでも実感できるだけの違いがあったということは自分の中ではかなり印象深く残っている。



 2000年には、三位一体改革の一環として、それまで国から補助金が支払われてきた公立保育所の費用が、地方自治体の一般財源によって賄われることとなった。これにより、自治体においては保育費用が一気に増加し、結果として、多くの自治体が保育費削減のための民営化を推し進めている。(p.88)


このような類の安易な削減を許してはならないだろう。補助金や地方交付税を減らすという形で「改革」を行なうと、一見すると一般庶民にはあまり関係がないと錯覚してしまう傾向があるように思われ、その点には注意が必要である。現在で言えば、日本維新の会やみんなの党などが「統治機構改革」などと語っていることが、これに相当する。



しかし、タウンゼンドの発見は、ある一定の所得以下となると、剥奪の度合いが急激に増えることである。所得にはある「閾値」があって、それを超えて所得が落ちてしまうと、生活が坂道を転がっていくように困窮に陥っていくというものである。
 ……(中略)……。これでみると、日本における「閾値」はおおむね世帯所得が400万円から500万円のあたりに存在する。(p.202-203)


重要な知見。



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サリー・ウォード 『0~4歳 わが子の発達に合わせた 1日30分間 「語りかけ」育児』

少し解説めいたことを言いますと、最近の赤ちゃん研究は、子どもには、<自分の感情表出や声がきっかけになって、相手がそれにていねいに反応してくれる>という経験がたくさん必要であるということを明らかにしています。子どもが幼ければ幼いほどそうです。また、人だけでなくものの世界に対した場合もそうです。大人やものが子どもに応える環境になることが大事で、その逆はまずいというのです。……(中略)……。相手の指示が先にあって、それに自分が従わされるという関係のもとでの行為が増えると、子どもは、自分の存在が意味あるものと感じとることが難しくなるのです。(p.4)


だから、このベビートーク・プログラムでは赤ちゃんに言葉を発するように要求しないことが原則となっており、完全に話しかけに徹することが推奨されている、という。自己肯定観を育むには確かに理に適っているし、感覚的にも理解できる。

思想的には他者に強制をしないという点でリベラリズムの考え方と適合的であると言える。



 「教え込み」がこどもに与えるメッセージは、自分が何かを伝えようとしても受け入れてもらえない、ということです。(p.16)


何かを伝えようとする場合、子どもの興味・関心に沿って伝えていくことが重要であり、関心を持ってほしいものがある場合には、そのための環境を整えるなどして自然とその方向に誘うのが良いと思われる。



 聞くということは、聞きたい音だけに注意を集中させて、聞きたくない音は聞かないことを意味します。この能力は生まれたときから少しずつ発達して、完成までには長い時間がかかります。
 「聞く力」は、ほとんど注意を払われていませんが、一般に考えられているよりはるかに大切な分野です。ことばと知能の発達には欠かせないうえに、環境にとても左右されやすいのです。(p.27)


この点は本書を通じて繰り返し繰り返し主張される。子どもが注意力を発達させていく(注意力は知的能力と深く関係している)にあたっては、環境を整え、関わり方を適切に保つことがいかに重要であるか、参考になった。



 あるものや動きに注意を集中し続けるように、赤ちゃんに強制してはいけません。赤ちゃんの注意する力を育てるのに、強制ほどさまたげになるものはありません。……(中略)……。
 注意を向ける力が発達する初めの時期には、赤ちゃんが注意をそらしたあと無理に注意を戻そうとすれば、違うものに注意を移している赤ちゃんの集中力をだめにしてしまいます。(p.68-69)


これは3~6か月児とのかかわりについて述べているが、本書ではこのことは繰り返し説かれる。全く同感であるが、これを理解していない対応が大人にはいかに多いか、ということもこの点に注意を払って観察していると見えてくる。



 赤ちゃんが何に注意を向けているか、よく見てください。たとえば、赤ちゃんがお母さんを見たら、ふたりで遊び始めましょう。赤ちゃんが何か物を見たら、それを赤ちゃんに渡して、名前を言ってあげたり、ぴったりした音を付け加えてあげます。
 ……(中略)……。
 赤ちゃんの興味におとなが合わせていくこと。これが「語りかけ育児」全体を通しての大切な方法です。(p.76-77)


この点は非常に参考になるところ。何に注意を向けているか把握し、その興味に沿って対応していく。

自分が構いたい時にだけ(例えば自分はテレビを見ており、CMの間だけ)子どもの所にあやしに来て、自分がしたいように手足などを強制的に動かし、あやしたつもりになる、などということもよくありがちである。このような悪影響がある環境は、できるだけ避けてあげることが望ましいと思われる。



 もうおわかりと思いますが、「語りかけ育児」の大切な原則は、赤ちゃんを無理に集中させようとしないことです。必ず赤ちゃんに近づいて、顔の高さを同じにしましょう。赤ちゃんが手を伸ばせばすぐ届くところに、おもちゃやおもしろそうな物をたくさん置きましょう。赤ちゃんが自由に動き回れると、音と音源を結びつけるのがやさしくなるので、できるだけ部屋の中を赤ちゃんにとって危なくないようにしてください。
 ……(中略)……。さわってほしくない物を前もってできるだけ片づけておけば、あなたも赤ちゃんも気が楽というものです。(p.104-105)


この原則もリベラリズムの考え方と合致するので、私個人としては自然と受け入れやすい。

ただ、教養の低い層に属する人などは、こうした原則をそもそも身につけていない、それどころか知らない、ということがよくある。そうした人にこのような考え方を体得させようとすると、なかなか骨が折れる。貧困の再生産などの議論とこの問題は関わっている。



 音をまねて返してあげるのはとても役立ちます。……(中略)……。
 相手の言うことを聞くのは楽しいという大切なメッセージを、赤ちゃんは受け取っています。(p.107-108)


声を聞くのは楽しいというメッセージを与えることも、本書では繰り返し出てくる。声を聞くのが楽しいことは、話を聞くのが楽しいというところにも繋がりそうであるし、なるほどと思わされる。



テレビとビデオ
 まだ見せないでください。この大切な時期、赤ちゃんは学ぶことがたくさんあるのに、そのじゃまをするだけです。(p.121)


これは6~9か月児向けの所に記載されていることだが、テレビとビデオに関しても、本書は一貫してなるべく見せないようにするよう推奨している。開一夫『赤ちゃんの不思議』でも、日米の小児科学会が「二歳以下の子どもたちにテレビ映像を見せることは推奨できない」という提言を出していることが指摘されていたが、それとほぼ同様の内容となっている。(本書では1歳を過ぎたあたりから短時間見せることがあってもやむを得ないというようなスタンスのようだ。)



既製品の音の出るおもちゃ、特にコンピューター制御のものにはとてもかん高い音を出すものがあります。これは、赤ちゃんの耳にはよくありません。(p.149)


子育ての環境を整えるには、様々なことに注意しなければならない。子育てにおいては、善い環境を作るということが親の重要な役割であり使命である。



赤ちゃんにことばを言わせるために質問するのは、絶対やめてください。(p.154)


この指摘も本書では繰り返し出てくるが、質問することはある種の強制であるということはなかなか意識されないことであり、この点で誤った対応をする親は多いと思われる。その意味で非常に参考になる指摘である。



 これまでと同じように、赤ちゃんがおもしろいと思っているものについて話しましょう。質問や指示は絶対してはいけません。これは今なおいちばん大切なことで、「語りかけ育児」の原則のひとつです。質問は赤ちゃんにとって答えを探すという重荷になりますし、指示に従おうかどうしようかと悩まなければなりません。両方とも聞くことのじゃまになります。ことばを添えるだけにとどめておけば、赤ちゃんのやっていることをいちだんとおおしろくすることができるでしょう。(p.179-180)


1歳から1歳3か月まで。本書では同じことが何度も何度も繰り返される。これは実用書としてはなかなか効果的であると思う。また、一気に読み通す本というより、子どもの成長段階に合わせて読んでいくことを想定している本だということもこのような書き方になっている要因だろう。



 この時期、赤ちゃんの口からは、まるで魔法のような最初のことば(初語)が出てくるでしょう。だからといって、そのことばを「パパに言ってあげてごらん」「おばあちゃんに…」「おばさんに…」とやらせるのはやめてください。これは正常なコミュニケーションではありません。(p.188-189)


1歳から1歳3か月まで。

このような異常なことをやらせようとする者に心当たりがあるので、注意しておきたい。



 ただし、今後もずっと赤ちゃんペースというわけではありません。この時期を自分のペースで過ごせたこどもは、そのうちにおとなの指示にすばやく従えるようになります。(p.221)


赤ちゃんの全面的受容の時期から子どもの部分的受容の時期への移行があると私も考えているが、これに失敗した(気づくことすらできていなかった)事例を知っている。大きくなっても赤ちゃんと同じように扱われているため、自らを律することができない人間となり、大人からの指示があっても、いつまでもダラダラとした生活を続けるようになるというケースである。反面教師は人間関係上の距離が遠い場合には役立てることができるが、そうでないような身内に存在する場合は非常に大きな害悪をもたらすことになりそうである。



間違いを直しているように言っては、絶対にいけません。鉄則は「そうね」で始めることです。もし赤ちゃんが「ナナ」と言えば「そうね、バナナね。バナナがほしいの?」と言います。(p.229)


確かに、否定されて育った子どもは自己肯定観が育たない。



床と壁がおもちゃや絵で埋めつくされているのは刺激が強すぎて、こどもが集中できません。(p.258)


これは1歳8か月から2歳までの子供について書かれた部分ではあるが、学校に入った後にも全く同じように当てはまると思われる。



 いつも一緒に遊んでやれば、同じ経験を通して会話の内容が豊かになります。そういう会話はこどものことばを伸ばし、まわりの世界をわからせます。(p.299)


共通の経験や興味を持つことの大切さは、小さな時期以降にも効いてくるのではなかろうか。



おとなの都合で教え込もうとすればなかなか覚えてくれず、あなたにとってもこどもにとっても、いらいらの原因となるでしょう。
 私が診てきた中には、色や形の名前をたくさん言えたり、アルファベットを機械じかけの人形のように暗唱できるのに、それが何であり、どうするのかわかっていないこどもがたくさんいました。そういう子の親は自然な会話を抜きにして、ものの名前だけを教えこんだのです。(p.333)


これは2歳6か月から3歳までの子供についての記述だが、学校に入ってからも同じであると思われる。

例えば、私が知るケースで言えば、算数の計算式を見ればそこから正しく答えを出すことだけはできるが、文章を読んでそれを数式に直して計算するといったことができない(苦手な)子どもがいたが、これは数式の意味することを理解していないということであり、その原因は、計算の意味を教えることなく、単に答えを出して問題を終わらせることだけを(「終わらせる」と遊ぶことが許されたり、ご褒美がもらえるなどして)教えこまれたからであった。



お母さんが自分の目標を捨て、教え込むのではなくこどもの興味にそって話をしてやりはじめると、こどもはすっかりリラックスして学び始めました。(p.334)


親が自分の目標を子どもに押しつけることには弊害がある、ということ。そのためには、親が自分の目標を相対化することが望ましいだろう。



 「こどもには、たくさんことばをかけてあげよう」とはよく言われますが、実は、こどもの状態をじょうずに読み取ることこそ最初にすべきことである、という貴重な発見ももたらしてくれます。
 また、注意集中が育つための静かな環境の必要性、こどもの興味におとなが合わせていくことの大切さ、テレビやビデオ以前に身体を使って実際の人間と触れ合うことが大切である、といったサリーさんのSTとしての主張には、日本の私たちも、しっかり耳を傾ける必要があります。
 
じょうずにこどもに合わせてゆく具体的な方法を学びましょう。
 本文にくりかえし出てきますが、こどもは自分から育つ力を持っています。まわりのおとなにできるのは、その力が最大限まで伸びるように手助けすることです。
 そのためには、赤ちゃんのころから、視線の方向や声の出し方など、こどもの行動を注意深く観察し、その行動の底にある意味(興味や気持ちのありよう)を読み取り、こどもの気持ちに沿った対応をしてゆくことが大事です。(p.408-409)


本書の主要な主張を簡潔にまとめると、このようになると思われる。




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小熊英二 『社会を変えるには』(その6)

 まず現代社会では、中央制御室にあたるものはありません。だから、首相だけ替えても変わりません。
 その感覚の延長で、「首相でも替えてみるか」とばかりに支持率を乱高下させても、かえって不満がつのるだけです。既得権者をひきずりおろして君たちに分け前を与える、と宣言する僭主に期待しても、すぐに期待は裏切られるでしょう。「誰かが変えてくれる」という意識が、変わらない構造を生んでいるのです。買ったものに飽きて、新しいものを買い続けるように、新しい僭主に期待するしかなくなります。
 公務員を削れ、生活保護受給者を甘やかすな、競争原理を導入しろ、といった「新自由主義」はどうでしょうか。じつはそれは、自由主義経済学の思想家とよばれる、スミスやハイエクの思想とはあまり似ていません。それはむしろ、「自分はないがしろにされている」「他人のほうが恵まれている」「俺に分け前をよこせ」という叫びであるようです。
 第1章で述べたように、日本政府の強さは中央政府の指導力の強さで、国民一人あたりの公務員の数は先進諸国では少ないほうです。上のようなことを唱えても、望んだことは必ずしも実現せず、自分の首をしめるような結果になることが少なくありません。(p.438-439)


前段は湯浅誠も『ヒーローを待っていても世界は変わらない』でも述べており、このブログでも引用とコメントをつけた。

本書が湯浅の本より一歩踏み込んで示唆を与えてくれるのは、やはり再帰的近代化と絡めてこの問題を提示しているところであると思う。(ただし、本書の方が読み通したり理解するためにはより多くの知識や関心などを要するため、入門編としては湯浅の本の方が適しているようにも思う。)

新自由主義は本書が指摘するように「ないがしろにされている」という感覚を表現しているのは確かであると思われ、さらに付け加えると、その感覚に正当性の衣をまとわせる機能を果たしている点にも問題があると私は考える。



人間はたいてい、自分が個体論的な戦略論の対象にされると、不愉快になります。自分がお決まりの行動しかしない、操作可能な客体として扱われている、と感じるからです。逆にいうと、こういう戦略論は、味方にしたい人に適用するのは注意が必要です。相手を操作可能な客体として扱うと、相手もこちらを、操作可能な客体として扱っていいのだ、とみなします。(p.494-495)


なるほど。



 哲学や社会学では、「目的合理性」と「形式合理性」という区別をします。真理に到達するという「理」にかなっているのが「目的合理性」、そのための手段や道具としての論理性が「形式合理性」(道具的理性)と考えればいいかもしれません。(p.495)


これらの概念については、細かい概念規定に拘ると、いろいろと議論をする余地はあるかも知れないが、これは感覚的に理解しやすいという意味で面白い分け方かもしれない。



 盛りあがれば、「自己」を超えた「われわれ」が作れます。それができあがってくる感覚は楽しいものです。コンサートの一体感にも近いですが、平場の全員参加で作るところが違います。そういう盛りあがりがあると、社会を代表する効果が生まれ、人数の多さとは違う次元の説得力が生まれます。それが生まれれば、アピール性が増し、参加したくなる人が増えます。
 参加者みんなが生き生きとしていて、思わず参加したくなる「まつりごと」が、民主主義の原点です。自分たちが、自分個人を超えたものを「代表」していると思えるとき、それとつながっていると感じられるときは、人は生き生きとします。
 ……(中略)……。
 数よりも、そうしたことの方が大切です。「数が集まらない」「なぜ来てくれないんだ」「来なかったお前は裏切り者だ」とかいう感情が生まれるときは、楽しくないときです。ほんとうに楽しければ、「来ない人は損したね」となるはずです。
 そんなのは自己満足さ、この世はすべて自己満足さ、という人もいます。ほんとうに満足している人は、そいういうことは言いません。……(中略)……。
 それじたいが楽しいとき、目的であるときは、人間は他人に自慢したいとか、他人を貶めたいといった「結果」を求めません。受験勉強が典型ですが、ほんとうは楽しくなくてむなしい行為、アレントの言い方を借りれば「労働」をしながら生きているときに、他者と比べて自分の位置を測るとか、他者を貶めて優位に立つといった「結果」がほしくなるのです。(p.498-499)


「盛りあがる」ことで作られる「われわれ」はオートポイエティックなシステムであるように思われ、オートポイエーシスは再帰性が増大している社会に適合的なシステムであると思われる。しかし、これを分析しても、どうすれば「われわれ」が作れるかということの足しにはあまりならなさそうなところが私としては歯がゆい。これは運動の実戦のなかで作っていくしかないのだろう。




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小熊英二 『社会を変えるには』(その5)

 武士も町人も農民も、江戸時代の日本にはいたのですから、好みの材料を拾ってきて「歴史」を創るのは簡単です。江戸時代には町人の花だった桜が「武士道の象徴」にされたり、江戸湾岸の町人の地域料理だった寿司が「伝統的な日本食」になったり(冷蔵庫のない時代には内陸で寿司は食べていません)、めちゃくちゃな再編集もおこります。(p.384)


このあたりは「創られた伝統」という議論を知っている人にとっては既に周知のことではあるのだが、今なお一般には十分に理解されつくしていないトピックでもあるため、まだしばらくは言い続けていく必要があることでもあると思う。

このような「伝統」が創られていく歴史過程というのも、非常に面白いものなので、またいろいろなものを読んでみたいという思いはあるが、なかなか手が付けられないのが残念でもある。



 原理主義の弊害は、暴力と対話拒否です。対話に参加して自分が変化することができない人は、対話を拒否するか、その究極として暴力に走ります。
 ……(中略)……。
 相手はばかだ、というのも対話拒否の一種です。……(中略)……。再帰性が増大すればするほど、「ばかが多くなった」という人が増えてきます。
 政治で言えば、内輪に引きこもり、対話と公開を拒否します。
それでやっていけると思っているからというより、外の世界にかかわると面倒なので、引きこもったほうが楽だからです。内輪で決めたことを、力で押しつけるという形で、暴力も発生します。暴力が批判されると、今度はお金を配ります。(p.394-396)


安倍晋三の政治運営の手法は、まさにここに指摘されている通りのものである。

内輪で決めたことを力で押しつけるというやり方は、自分とそのシンパが主張する金融政策を実行するために、日銀の総裁を自分の思う通りに動く人間に変えようとしたときにも見たところである。日銀法の改正などをちらつかせて半ば強制的に日銀の金融政策を自らの支配下に置いたわけである。そもそも、第一次内閣の際にも、「お友達内閣」と揶揄されていたが、それは自分のシンパだけで周囲を固め、その内輪の意見だけを握った権力によって実現しようとしていたために起きた批判であったことは忘れてはならないだろう。そして、その結果として既に教育基本法は国家主義的な色彩が以前より濃いものに変えられてしまったのである。2012年に発足した第二次内閣においても安倍と同じ議連に所属する者を重用しているとされており、実質的には「お友達内閣」である点には変わりはないと思われる。

また、安倍が年来主張している憲法改正についても、必ずしも世論の支持を得ているわけではないが、それを力づくで実現するために憲法96条を変えて憲法を変えるためのハードルを下げようとしている。国民的な議論の結果として自分の意見が変わることがあっても共に創っていこうというのではなく、自分の内輪の意見を力づくで押しつける事を可能にし、かつその際の正当性を制度的に担保しようという魂胆であることは彼の年来の主張やこれまでの政治運営のやり方を見ていれば明白であると思われる。(憲法に関しては、アメリカ側からの懸念が示されたことによって安倍・政府・与党いずれもトーンが下がったことは銘記しておきたい。護憲派はアメリカと太いパイプを持つべきではないか?などともふと思ったりしたが、どうであろうか。)

2012年末の選挙の際には、自民党は確かに経済界から広く意見を聞いた。この点では一見すると人びとの聞く耳を持つかのように見えないこともない。しかし、それは引用文で言えばこうなる。すなわち、第一次内閣で「暴力が批判され」たので、「今度はお金を配ります」ということだ。そして、参院選前に大量の財政支出が現に行なわれている。これはその後の超緊縮財政の前の打ち上げ花火にすぎない。このことは選挙の前にはっきり書いておきたいと思う。このような安倍晋三の人気取りのために公的な資金を私物化されてしまうことに憤りを禁じ得ない



 再帰性が増大した社会の問題も、内在的に対処するしかない。具体的には、対話(問答法、弁証法)の促進です。もう「村」とか「労働者」とかいった従来の「われわれ」に、そのままのかたちで頼ることはできない。ならば対話を通しておたがいが変化し、新しい「われわれ」を作るしかないのです。(p.397)


このあたりのこと(新しい「われわれ」をつくること)は本書の最も重要なポイントなのだが、非常に参考になった点である。



 理想的には、患者が自分で予防や治療をする力をつけるまでエンパワーメントするのが、医者の役割となります。「教師の役割は、教師を必要としない人間を作ることだ」という言葉がありますが、それと似ています。(p.412)


親の役割というのも同じだろうな。



 現代日本で、「強いリーダー」を求める有権者に関連性がある志向は、「調整型」政治への嫌悪、公務員不信と政治不信、愛国心教育などだそうです。話合いによる調整より強いリーダー、という志向があるのは、従来の「調整型」政治が対話でも何でもなく、一部の利害関係者に根回しで「調整」したことを、それ以外の人間に押しつける、というだけのものだったからです。それを変えていかないと、政治不信とポピュリズムの悪循環を止められません。(p.417)


全くその通りだと思える指摘。

調整型の政治に「内輪での調整を押し付けるだけ」という従来のイメージしか持つことができない人にとっては、調整ということがいかに重要なのかを説いたとしてもなかなか支持は広がらない面があると思われる。きちんと人びとと対話をし、議論に多くの人が参加したという実感を持てる形で決定が下される、という調整型の政治が現れることが望まれる。政治の決定過程についての新しいモデルが提示され、それを多くの人がイメージできるようにすることができれば大きな転換になるように思う。



 たとえば、いまの日本では、「格差」という言葉がはやっています。しかし不思議なことに、年収10億円の大金持ちにはそれほど反感がむかわず、年収700万円くらいの公務員や正社員ばかりが恨まれます。これは、2011年に金融エリート街の占拠が広い支持を集めた、アメリカの状況とは異なります。
 こういう違いは、どこからくるのでしょうか。まず大きな前提として、「格差」というのは、「自分はないがしろにされている」という意識の表現でもある、という点をふまえる必要があると私は思います。
 ……(中略)……現代日本における「格差」は、現金収入の不公平の問題だけではないようです。
 貨幣経済が浸透し、ポスト工業化社会へ移行し、再帰性が増大した社会では、「ないがしろにされている」「居場所がない」「代表されていない」という感覚が、あらゆる人びとにつのります。
 ……(中略)……。
 第1章で述べたように、いまの日本社会は、1960年代から80年代に築かれた、日本型工業化社会が機能不全になり、多くの弊害を出しながらも、まだその構造が残っています。そのため、ある「既存の枠」に入れば、安定が手に入り、政治的にも意見を代表してもらえる、という通念があるようです。大企業正社員志向は、大学生の就職活動では、かえって強くなっているほどです。
 その通念が支配的であれば、そこから漏れた人にとって、「枠」に入っている人は、恨みの対象になります。そうであれば、正社員、公務員、生活保護受給者など、何らかの「枠」で保護されている人が恨まれやすくなります。じっさいに「格差」への批判は、こうした層に集中しがちであるようです。
 その反面、「枠」に入っていないのに、「実力」で高い収入を得ている人は、必ずしもそういう恨みの対象にはなりません。その「実力」というのが、親の資産で高い教育や人脈を与えられた結果であってもです。だから、年収10億の金持ちよりも、生活保護受給者が憎い、という構図が生まれると考えられます。
 そうだとすれば、現代日本語の「格差」というのは、単に収入や財産の差のことだけではなくて、「自分がないがしろにされている」という感覚の、日本社会の構造に即した表現でもあるといえます。(p.434-438)

 
「格差」という語が「自分はないがしろにされている」という感覚の表現でもあるという指摘は非常に重要と思われる。「格差」というより、公務員や生活保護受給者に対してのバッシングの説明となっている。公共事業の受益者も然り。いずれも財政支出を通じて収入を得ていることが共通であり、そこには暗黙の前提として「払った以上のものをもらっていない」と感じている疎外感が反映しているのだろう。

再帰性が増大していることがその背景にあるという指摘は、この問題に取り組むに際して非常に示唆に富むと思われる。この問題には今後も取り組んでみたい。





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小熊英二 『社会を変えるには』(その4)

近代経済学と近代自由民主主義の特徴の一つは、「数量」を重視することです。票をできるだけ集め、市場取引の量をできるだけ多くする。この発想の出現を説明する必要があります。(p.308)


なるほど。この数量重視の考え方は、リベラリズムに見られる普遍主義や抽象性などの特性とも通じる特徴である。

ちなみに、本書ではこの発想の出現はベンサムの功利主義に求められている。



 しかし恐慌のなかで、どこの政党にも「われわれが代表されていない」という思いを抱く失業者たち、わけても第一次世界大戦の帰還兵で「社会の余計者」あつかいされていた若者たちが、共産党とナチスを支持しました。(p.326)


支持された者を小泉純一郎や安倍晋三、さらに石原慎太郎と橋下徹などに置き換えれば21世紀の日本の状況とかなり共通している。現在の日本は当時のナチス政権成立前夜のような様相であると私には見える。



 19世紀後半の産業革命の最中には、ニュートン力学と電磁気学によって、世界が全部把握できると思われていた時期がありました。帝国主義の最盛期でもありましたから、ヨーロッパが理性の中心で、世界を支配できるという意識とも結びついていました。
 ところが1905年、当時26歳のアインシュタインが特殊相対性理論を唱えます。……(中略)……。この相対性理論の提唱と前後して、絵画における空間の描き方でも、遠近法とは違う描き方をする現代美術が台頭します。(p.337-338)


「物理学帝国主義」という言葉があるが、ある意味、この言葉で表されるような、古典物理学の考え方のそれ以外の知識=科学への浸透(現在はこれは既に過去のものとなったが)もまた、帝国主義的なヨーロッパ列強の世界進出という世相が背景にあったと考えることもできそうである。

物理学における相対性理論や不確定性原理と同じ時代に、絵画でも同じようにニュートン的な絶対空間を否定するような相対主義的な発想が前面に出てきたというのは、興味深い事実であり、私も以前から関心を寄せてきたところであった。探求したいと思っているテーマは多いのだが、なかなか手を付けられずにいるのだが…。



 たとえば、尖閣諸島問題は、いつから問題だったのでしょうか。領海や排他的経済水域が陸地から12海里とか200海里で決められるという取り決めができる前は重要度は低く、もっと昔はどうでもよい岩の塊でした。1978年の日中平和友好条約の際も、ほかに重要な項目があったので、棚上げされました。
 過去の経緯をふりかえれば、明治の琉球処分のあとの1880年に、日本政府はそれに抗議する清にたいして、琉球列島のうち宮古島・石垣島など南半分を譲ってもよい、と提案しています。日清戦争でこの提案はうやむやになりましたが、尖閣諸島も割譲する範囲に入っていたことはいうまでもありません。
 もちろん歴史上には、日本政府の主張に好都合な史実もあります。しかしそもそも「領土」を明確な国境線で区切るという発想がアジアに入ってきたのは19世紀以降ですから、それ以前の「史実」を作った人たちは、そういう発想で考えて動いていません。住民が住んでいなくて、税金がとれなければただの岩でした。そういう「史実」をお互いが拾ってきて争っても、水掛け論になりがちです。
 さらにいうと、1972年に沖縄の施政権が変換されたあとも、尖閣諸島のうち二つの島は米軍の射爆撃場になっていて、日本側は許可なく立ち入れません。2012年に東京都知事が尖閣諸島を買うと宣言したときも、この二つの島は除外されていました。また96年に日本の右翼団体が尖閣諸島の一つに灯台を建てたとき、もっとも抗議したのは台湾の漁業者組織でした。
 つまり尖閣問題というと日中問題のようにいわれますが、日米関係でもあり、日台関係でもあり、中台関係でもあります。これを「日中関係」として考えるのは、「現実」そのものではなく、ある偏りをもって構築された認識です。
 こうした問題を、いつからどんなふうに右翼団体がとりあげ、マスコミがとりあげ、世論調査でも問題だと思う人が増え、政治家が「国益」と意識するまでになったのか。もとからあったのではなく、関係のなかで「国益」が構成されてくると考えるわけです。
 そうした認識に立つと、問題の解決のしかたが変わります。……(中略)……。関係論的な考えに立つと、問題がどうやって構成されてきたかを調べ、相互の関係と認識を変えることによって、解決をはかるという道が見えてきます。(p.356-358)


関係論的な認識を領土問題の解決に適用するという発想はなかなか興味深い。確かに、時間をかけて相互の認識を変えていくということが領土問題解決を容易にする一つの道だろう。

焦らず時間をかけて、政府の現実の行動は控えめにしながら冷静に認識を変えていくことが重要であるように思われる。日本と中国との関係については、ここ20年くらいの日本の右傾化も酷いものだが、中国の歴史認識は日本の極右の歴史認識並みに「個体論的発想」に立っているため、問題の解決は容易ではないだろう。




 これを応用すると、「人間の能力」も、関係が物象化したものです。たとえば、家族がそろってニュースや芸術番組をみながら夕食をとり、時事問題や芸術について会話があるような家庭で育った子どもは、お笑い番組をみながら夕食をとる家庭で育った子どもより、自然と「能力」が高くなります。意識的に教育投資をしたとかいうことではなく、長いあいだの家庭の人間関係という目に見えないものが蓄積されて、「能力」となってこの世に現れるわけです。
 たいてい、前者は経済的にも豊かで、親の学歴も高い家庭が多いので、経済格差や学歴格差が子どもの代にまで受けつがれ、再生産されます。これをフランスの社会学者のピエール・ブルデューは、「文化資本」とよびました。
 人間もまた、この世に現れてくるときは、関係の物象化した姿となります。文化資本の高い子どもは、「成績のいい子ども」「教養や美的センスやアイデアのある子ども」「学習意欲のある子ども」としてこの世に現れます。それにたいし文化資本の低い子どもは、「成績も悪く教養もなく趣味も悪くやる気もない子ども」として現れます。箸の持ち方、字の筆跡、ちょっとした振る舞いにいたるまで、過去の家庭関係の蓄積、つまり「文化資本」が現れます。あとから意識的に直そうと思っても、なかなかうまくいきません。(p.359-360)


最近実感としてよくわかるのは、この「文化資本」が低い環境で育ってきた人々は、「文化資本」が高い状態にあるとはどういうことか、ということについての理解があまりないことが多い、ということである。例えば、その効用やそれ自体の価値といったことについて、それを実感して育ってきている人とはまったく違う反応を示すことが多いように思われる。



 外部から一方的に説教されても、人が動かないのは、説教する側が変化しないからです。変化しない相手には、人間はおもしろみや愛情を感じません。自分がかかわっていける足がかりがみえないか、一方的に支配されるか、崇拝するかの関係しか想像できないからです。あとはせいぜい、お金や利害をやりとりして、相手を手段として形式合理的に提携するしかありません。
 ……(中略)……。
 対話をして人が納得するのは、対話の前とあとで、おたがいが変化し、より高い次元に至ったと思えるときです。(p.370-371)


確かにその通りと思える。人を説得しようと思うときは、自分自身も相手から何かを得られるようにすることが大事だということにもなるのだろう。また、これをちょっと応用すると、仮にそうでない(学ぶことがないと思うような)場合であっても、そのように(何かを学んだかのように)振舞うことによって円滑に関係が回っていくということもあるかも知れない。

余談だが、小さな子どもの子育てが面白いのも、子どもが成長して変わっていくからであり、その変化に応じて養育者の側も関わり方を変えていく必要が生じ、関わり方が変わることで両者の関係も次第に成熟したものになっていく、というプロセスがあるから、という面があるのではなかろうか。



 近代的な経済学や政治学などは、主体の行動と選択の自由度が増せば、観測と情報収集にもとづいて合理的に行動できるようになり、世界は予測可能になって操作できるようになる、と考えてきました。合理的に選択行動する人が増えるなら、ホモ・エコノミクスに近い人が増えるわけですから、政策科学で社会を操作できる可能性も増すはずです。
 ところが全然、そうなっていない。なぜでしょうか。
 それは近代科学が、主体は理性を行使するが、客体はたんなる物体だ、という考え方をしていたからです。
 ……(中略)……。
 現代の社会で増大しているのは、自由の増大というよりも、こういう「作り作られてくる」という度合いです。ギデンズは、これを「再帰性の増大」とよびました。(p.380-381)


近代科学が理性的な主体とそれによって操作される対象という二分法的な考え方に立っていたというのは、確かにそのとおりであるように思われる。(もちろん、細部ではこれを相対化するような言辞はしばしばみられるが、論理の大筋として見た場合には、このような考え方がベースになっていると考えることができる。)

私がここで想起したのは、私が最近関心を寄せているウェーバーの政治思想において、彼が「指導者民主主義」を唱えていたことであった。ここには社会を指導するカリスマ的なリーダーとその命令を聴くだけの大衆という主体と客体の関係が持ち込まれている。

再帰性が増大した社会では、このようなモデルで社会を運営していくことは社会の状態との齟齬が大きくなり、結果として不満を増大させることに繋がるだろう。ただ、その不満を次のリーダーを求めることで解消しようとしているのが、ここ20年間の日本の政治の傾向であり、この数年でこの傾向は強まっているものである。再帰性の増大した現代においては、この種のリーダー待望論を批判することにはやはり意味がありそうに思われる。

なお、最近私はルーマンの社会システム理論にも取り組んでみたいと考えているのだが、80年代頃に彼の理論が流行した(支持・参照する者がある程度現れた)背景には、再帰性の増大という事態があったと理解すると腑に落ちるものがあった。



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小熊英二 『社会を変えるには』(その3)

 不正や暴力は、秩序の変動期で、新しいルールが定着していない時期におこりがちです。とくに人びとが共同体でまとまっていた状態から、「自由」になっていく状態に移り変わるとき、旧来の共同体にこだわると不正や暴力がおきます。(p.119)


同感である。



 家族でも政治でも労組でも、お金や暴力に頼るようになるのは、人びとが「自由」になってきつつあるのに、新しい関係に移ることを拒否して、旧来の関係をむりやり保とうとするからです。お金や暴力は、関係が希薄になってくるところに、関係の代役として入りこんでくるのです。(p.119)


確かに。お金や暴力=権力は、特に親密性に関係するような関係が弱まった時に働きやすい性質を持っているということであるように思われる。

余談だが、最近の私の関心から言うと、ルーマンのメディアの概念を使って整理してみると面白いかもしれない。



社会が上昇移動しているときは、若者の反抗は勝ちやすい。いまの日本のように下降移動しているときは、「きちんと就職しなさい」と説教する親に、「私はフリーターになる」と言って反抗するのは、ちょっと大変です。(p.133)


なるほど。

サブカルチャーで見ても、日本でフォークやロック(いずれも骨抜きにされる傾向はあったとはいえ権威や体制への反抗といったことをモチーフとしていた)が流行していたのは上昇移動していた(と感じられていた)時代であり、90年代以降のJ-POP(「オトナ」――即ち、かつての枠組から言えば「体制」側に分類されるであろう社会的な影響力の強い、名前のある人であり、具体的には小室哲也や秋元康のような人――が仕掛け人となって作られた、商品としての色彩の強い音楽)が遍く受け入れられるようになった時代は下降と停滞の時代であることにも相関があるかも知れない。



 しかし90年代後半ごろから、日本型工業化社会は、しだいに機能不全になっていきました。その表れの一つが、「支持政党なし」と答える「無党派」層、いわば従来の社会構造から漏れて「居場所がない」「代表されていない」と感じる人びとが増えてきたことです。(p.169)


なるほど。無党派層というのが自分たちの代表を持っていないと感じている人びとであるというのは、確かにそのとおりである。

私が本書から得た大きな収穫は、この「代表」という問題に気づかせてもらったことである。代表されていないと多くの人びとが感じていること、このこと自体が社会全体の不満を高めるし、不満があってもそれを表現されないことがさらに不満を高める。この不満がリーダー待望論にも繋がっている



 この「われわれの代表」という感覚が持たれているかどうかは、人びとを納得させられるか、正統性があるかに大きくかかわります。そのためには、「階級というわれわれ」や「州というわれわれ」といった、なんらかのまとまりがしっかりしていることが必要になってきます。意識や文化や生活様式のまとまりがあるからこそ、「彼はいかにもわれわれ労働者の代表らしい」とい納得も成りたつわけです。
 つまり代表というのは、単に「票を数多く集めた人」ではなくて、何らかの「われわれ」の代表なのです。(p
.192-193)


「われわれ」という意識と「代表」ということ、そして「正統性」の関連がハッキリ見えるようになったことが、私にとっては本書を読んだ大きな収穫だった。

代表する者が代表として認められるためには、代表される側のものがある程度のまとまりをもったものとして意識されている集団が必要であり、そのような集団を代表していると見なされていることが、正統性がある社会秩序の成立や正統性があると認められる決定の前提となっているわけである。



 そうなると、やはり重要なのは、議論が盛りあがることです。そうすると、参加している気持が高まり、「みんなで決めた」という気がしてくるのです。「みんな」ができあがった、といってもよい。「みんな」ができないと、その「みんな」に自分が入っている気がしないと、人間は納得しません。つまり盛りあがるというのは、「みんな」や「われわれ」を作るということなのです。(p.209-210)


このあたりはこうしてできあがる「われわれ」をオートポイエティックなシステムとして考えると分かりやすいように思われる。



 そう考えると、われわれはなぜ、日経平均株価やGDPや世論調査や政党支持率を、重要だと思うのでしょうか。日経平均株価が一般新聞の経済面以外に載りはじめたのは、1990年代末になってからです。GDPやGNPも、1950年代までは経済学者やエコノミストの専門用語でした。それ以前は、それらがそんなに重要なものだとは思われていませんでした。
 ……(中略)……。
 世論調査がマスコミをにぎわすようになったのは、2000年代になってRDDという調査手法ができて、ある程度信頼性の高い調査が簡単にできるようになってからです。しかしそれだけでは、それが重視される理由は説明できません。
 私が考えるには、そのころから人びとが「自由」になる度合いが強まり、国会の議席配置や首相の選ばれ方に、「民意」が現れなくなってきたと思う人が増えてきたからではないでしょうか。だから議席配置の代わりに、「民意」を可視化する手段として、世論調査が非常に重視されるようになってきたのではないかと思います。世論調査だけでなく、「マーケットの判定」もその一つかもしれません。
 もともと議席配置というのは、「民意」という目に見えないものを、この世に現す方法です。では世論調査や「マーケット」はどうでしょうか。これらの目に見えないものを、この世に現す方法が、統計という方法です。(p.233-234)


日経平均株価やGDPなどの経済指標や政治における世論調査や内閣支持率のようなものが重要だと考えられるようになってきたのは比較的最近のことだということ自体、興味深いが、そうした指標や世論調査などが重要だと考えられるようになった背景に人びとが「自由」になるという社会関係の変化があるという指摘には、なるほどと思わされた。



ルネサンスから17世紀までは、ヨーロッパは戦乱につぐ戦乱、宗教戦争と革命の時代になりました。……(中略)……。
 この時代は、人間の理性の幕開けであり、輝かしい時代だと、後年の歴史家からは神話化されました。しかし実際には、戦乱と下克上、グローバル化と技術革新で、それまでの秩序がめちゃくちゃになった時代です。そこから新しい考え方、近代的な考え方が出てきたといえばそのとおりですが、新しい考え方が出てくる時代は、たいてい不幸な時代です。人間は、深く考えないで生きていられれば、そのほうが幸福だったりします。
 そもそも、実験しなければわからないとか、自分を中心に世界を描くとかいうのは、非常に不幸な考え方です。もう何も信じられない、教会も聖書もあてにならない、信じられるのは自分の目だけだ、という考え方のどこが幸福でしょうか。会社も学校も政府もあてにならない、昔どおりにやっていたら没落する、自分で最新技術を手に入れて、自分を中心に考えて行動する人間だけが生き残れる、という時代です。(p.270-271)


中国の諸子百家が現れたのも確かに春秋戦国の時代であり、不幸な時代に新しい考え方が出てくるというのは、ある程度そういうところがあるかもしれない。モンゴルの大帝国が成立した頃などは、その勢力の及ぶ範囲内ではそれほど斬新な思想が現れなかったように見えることなどもこれと符合する。ただ、8~10世紀のアッバース朝におけるルネッサンスなど必ずしも一般的には当てはまらないところもあるようには思う。

いわゆる近代思想が不幸な考え方であるという指摘は、近代思想への批判を一言で分かりやすく言い当てている。




 ところで、自由主義と民主主義は、どこが違うのでしょうか。ごく簡単にいうと、自由主義は権力から自由になるのがいいという考え方。民主主義は、みんなで権力を作るのがいいという考え方です。
 ……(中略)……。権力を最小限にするのが自由主義の目的で、権力の内容はそれほど重視されないのです。王政にしろ民主政にしろ、権力は必要悪にすぎないものだから、小さければそれに越したことはない、という考え方です。
 ところが近代民主主義では、みんなで「われわれの権力」を作り、「われわれの意志」が反映されて運営されることが目的になります。「われわれの権力」になれば、よい権力ですから、大きくてもいい。(p.296-297)


自由主義と民主主義の性格を的確に表現しており参考になる。

現代の日本では自由主義の考え方が非常に強まり、民主主義が軽視されるようになってきている。私見では、民主主義と自由主義のバランスは、民主主義が主たるものとなり、自由主義は民主主義を補完するという位置づけが良いと考える。

「われわれの権力」をつくり、「よい権力」によって社会を統治する(すなわち民主主義)のが基本であるが、「われわれの判断」であっても誤ることはあり、また、いつのまにか「われわれ」が変質してしまうことも十分ありうることであるという前提に立って、社会を構成する個々人の権利を普遍的に擁護するために自由主義によって補完する、ということである。

その意味で、現在の日本では自由主義ではなく、民主主義の復権が望まれる



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