アヴェスターにはこう書いている?
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小熊英二 『社会を変えるには』(その2)

日本は終身雇用の社会だと言われましたが、実際に終身雇用が成立するほどの大企業で雇用されていた人は、1970年でも全労働力人口の一割あまりで、残りは中小企業や農林水産業、自営業などでした。(p.73)


ある社会に対するイメージとその社会の実態は大きく乖離していることがあるが、終身雇用社会という日本社会のイメージもまたそうしたものの一つである。



 1950年代前半の政権党である自由党(自民党の前身)の憲法調査会は、憲法九条の改正だけでなく、男女平等、言論・出版の自由、労働組合の権利などの見直しを検討課題としました。そのほか、天皇を元首にすること、県知事を選挙で選ぶのではなく戦前のように政府の任命制にすること、参議院は戦前と同様に政府推薦議員を含めて構成すること、なども検討していました。要するに、戦後改革は間違っている、できるだけ戦前の体制に戻そう、という趣旨でした。教育政策では、教育委員会を選挙ではなく戦前の任命制に戻す、愛国心教育を行なう、といったことが唱えられました。(p.88-89)


現在の自民党や日本維新の会がしようとしていることの大部分は、自民党の前身であった自由党が戦前回帰を志向して言っていたこととほとんど重なっていることが分かる。

安倍晋三が最初に政権についた時に強行採決で変えてしまった教育基本法は愛国心教育が盛り込まれているし、橋下徹などが教育委員会に対して攻撃を仕掛けていること、さらには参議院不要論もこうした一連の流れの中に位置づけてとらえる必要がある。



 こうした人びとは、広い意味で「民主主義を守る」という意識を持っていました。そこでいう「民主主義」というのは、漠然とした「戦前回帰」への反対であり、「戦争はごめんだ」という感情の表現でもありました。
 ですからその「民主主義」は、議会制民主主義だけのことではありませんでした。そこには、平和志向・男女平等・愛国心教育反対など、「民主主義」とは必ずしも不可分とはいえない事項も含まれていました。(p.89-90)


上で引用したような戦前回帰を志向する政党に対して反対してきた人々が共有していた意識が指摘されている。現在でも保守的な憲法改正を志向する勢力はしばしば「アメリカから押しつけられた」憲法などと言うが、ここで指摘されているような意識が存在しつづけてきたということは、すなわち、当時、日本国憲法を受容した日本の人々は、その憲法の理念に強く共鳴するような意識を広く深く共有していたのであり、「押しつけられた」などというのは実態とは異なっていたのである。



 そして二つ目の弱点は、戦後のある時期に成立した「民主主義」のワンセットに、あまりに頼りすぎたことです。戦争体験世代が社会から引退し、平和志向と民主主義と愛国心反対がなぜ結びついているのか理解できない、という世代が多くなってくると、支持が広がらなくなりました。
 またある意味で悲劇だったのは、必ずしもマルクス主義を信じていたわけでも、ましてや上意下達の前衛党組織が好きなわけでもない人が、平和志向だったり「民主主義」志向だったというだけで、共産党に入党したりしたことが多々あったことです。(p.94)


この指摘は、最近20年間ほどの社民党や共産党のような左派勢力の急速な衰退を考える上で非常に重要だと思われる。共産党や社民党はこうした点を考慮しつつ、現在の日本においてどのようなアピールをすれば彼らの理念が受け入れられるか考え直す必要があるように思われるし、私自身も考えてみたいと思う。



 また60年当時の首相の岸信介は、先ほど述べた改憲案を検討していた、自由党の憲法調査会の会長を務めていた人物でもありました。そのうえ岸は、日米開戦当時の商工大臣で、元A級戦犯でもありました。
 しかも、安保条約の批准のやり方が反感を買いました。日米交渉で改定が決まったあと、国会で批准しようとしたのですが、野党の反対が強いので、夜中に国会に警官隊を入れ、社会党の議員を強制的に追いだしたあと、自民党の議員だけで強行採決したのです。当時の報道によると、岸の側近以外は自民党議員の大半も採決を事前に知らされず、いきなり手を挙げさせられてしまったようです。
 当時はテレビが普及しはじめたころで、警官隊に社会党の議員が排除される様子もすべて報道されました。当然、これは民主主義の蹂躙だという批判がおきました。また岸は安保改定は第一歩で、最終的には改憲まで考えていたようです。そのため多くの人が「民主主義の危機」だと受けとめました。(p.110)


戦前回帰を志向していた憲法調査会の会長であり、戦前の体制を担いA級戦犯でもあった人物であり、国会で「暴力装置」を用いて「民主主義」を蹂躙する強行採決を行った、というのが安保条約の改定であった。

安倍晋三はこの岸信介の孫である。単に親族であるということからDNAでその気質を引き継いでいるなどと言うつもりはないが、身内にこうした人物がおり、その人物は恐らく一族の中で高く評価されてきたであろうことを考えると、親近感や共感を自然と感じながら育つような環境にいたであろうと推察することは不当ではあるまい。そして、先ほどのように自由党の憲法調査会が憲法を変えようとしていたこと、安倍晋三や自民党および日本維新の会のような超保守派が変えようとしている憲法案がそれと基本的なコンセプトにおいてほとんど一致していることは指摘できる。

国民の権利を現在よりも制限するような方向性が目指されていることは明白であり、それが実現した暁には、かつて岸信介が行なったような強権的な政治が容易に行えるようになっていくのであり、それはある意味では、日本の政治が現在の中国のような統治が行なわれるようになることを意味する。現在の中国のような政治環境の土地に永住したいと思う人以外は、安倍晋三や橋下徹などに代表されるような勢力に加担すべきではないだろう。



 こういうわけで、「私は集会とか、デモに背をむける人間だが、今度ばかりは越えさせられぬぎりぎりの一線を感じて立ち上がった」というような人が行動しました。当時この言葉を発したのは、若手作家や芸術家のグループである「若い日本の会」のメンバーだった、作家の石原慎太郎です(「朝日新聞」1960年5月31日)。(p.111)


安保条約改定の際の発言だが、この時は立ち上がった石原慎太郎も、現在では当時の岸信介と同じ方向で「立ち上がれ日本」とばかりに立ちあがってしまい、現在では「日本維新の会」で改憲の最右翼の勢力を形成している。彼が目指しているのは「太陽の党」などという失笑を買うような名前にも暗示されているように、かつての「大日本帝国の栄光」なのであろう。


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小熊英二 『社会を変えるには』(その1)

 そういうポスト工業化社会に日本社会が移行したのは、1990年代の半ば以降だったと思われます。……(中略)……。
 まず大きくみると、1970年代から80年代の日本は、今日の中国や東南アジアがそうであるように、先進国で衰退した製造業を肩代わりする新興国でした。当時の日本製品の強さの象徴は、いまでは他のアジア諸国が生産の中心になっている半導体でした。じつは1984年の日本の対米輸出の四分の一は、在日アメリカ系企業の輸出と、アメリカ企業向けの部品輸出、そしてOEM(他社のブランド製品を製造すること)契約による完成品の輸出でした。
 それを可能にしていたのは、冷戦という国際環境でした。(p.26-27)


ポスト工業化社会に関する議論は80年代頃日本でも盛んに行われていたと認識しており、漠然と70~80年代には日本もそうした社会になっていたかのように錯覚していたところがある。社会学が得意とする「暴露」をさらりとやっているあたりが良い感じである。(これ見よがしの暴露や暴露が自己目的になっているような理論が10年くらい前には多くあり、この類のものには食傷状態だったが、久しぶりに小気味よく眼を開かされた。)

冷戦という国際環境が日本の高度成長や産業競争力の大きな源泉であったことはそのとおりであり、冷戦終結後に日本の経済成長が伸び悩み続けているのは、そうした背景を失ったことが大きな原因となっていることはよく認識する必要があり、その前提から今後の経済運営の方略を考えるべきだろう。



 1980年代半ばの時点で、未婚女性、主婦、学生、高齢者などからなる「第二労働市場」とも呼ばれる層は、全雇用者の60~65パーセントを占め、この割合は主要先進国のなかでは最高でした。いわば石油ショック後の雇用格差は、日本ではおこらなかったのではなく、周辺化され目立たなかっただけだったといえます。(p.29)


この認識も重要であろう。中曽根内閣に象徴されるような新自由主義と新保守主義の路線が高い支持を得たことも、こうした社会状態が背景にあったと考えるべきであろうし、そうした政策がこの傾向をさらに加速するという悪循環をもたらしたわけである。



 あわせて、やはり80年代後半に始まった日米構造協議をきっかけとして、多くの規制緩和と自由化が行なわれました。
 たとえば1973年に制定された大店法(大規模小売店舗法)のもとでは、地元の商工会の合意がないと、大型店舗が出店できないことになっていました。これが日米構造協議で批判されて、1991年に改正(2000年に廃止)されます。そのあと、郊外大型店が急増して、商店街がさびれていきます。1991年から2009年までに、小売店の数は約三分の二に減りました
 経済の低迷にたいして、日本政府は公共事業を増やすことで対応しました。地方には公民館や大型道路がどんどんできましたが、大型道路を作れば作るほど、幹線沿いに大型郊外店が建ち、都市へ人は出て行って、かえって地方の衰退が進みました。(p.31)


この流れを思い返すたびに嘆かわしい気分になる。

最近ではそれぞれの地域ごとにいろいろな取り組みが行われているが、そうした動きの中から全体の流れを良い方向に向けていくようなブレイクスルーが起こることを期待したい。



 ソ連の体制は、戦争から始まっています。第一次世界大戦中におきた革命のあと、革命政権をつぶそうとする干渉戦争や内戦をのりきり、軍事力を強めるため、統制と計画経済が実行されました。「五ヵ年計画」といった計画経済は、ナチス・ドイツや、日本支配下の満州国も行なったもので、20世紀の戦時経済に特徴的なものです。
 そしてじつは、日本の道路や原発の建設も、よく似たかたちで行なわれてきました。……(中略)……。
 この計画にもとづいて、ほとんど計画経済のように、原発が作り続けられました。ただし日本の原発政策の特徴は、韓国やロシアのように国営公社が原発を作るのではない、政府の政策にもとづいて民間会社が原発を作る「国策民営」であることです。
 この体制の始まりも、第二次世界大戦からでした。1939年から1942年にかけて、軍需産業への電力供給を安定させるため、全国に412社あった電力会社が九社に統合されました。ここで各地域を一つの電力会社が独占的に分担する制度が作られ、現在まで続いています。この電力統制は、国有会社化ではなく、国策に民営会社を従わせる「国策民営」で行なわれました。
 ときに誤解されていますが、日本政府は公務員数から言っても、政府支出のGDPに占める比率からいっても、先進国のなかでは小さいほうです。日本政府の強さは、大きさではなくて、民間企業を従わせる指導権や許認可権の強さです。それによって財政支出は抑えているのに、存在感は大きいものがあります。地方公務員の数を減らしても、窓口サービスが悪くなるだけで、日本政府を弱めることにはなりません。
 たとえば日本のテレビ局は、総務省(かつては郵政省)の免許制なので、政府ににらまれると免許の更新ができなくなる可能性があります。そのため、政府批判を控える傾向があるとも言われます。そのかわり、既存のテレビ局は、新規参入業者を政府に抑えてもらい、競争を減らしてもらうメリットがあります。(p.42-44)


日本政府は政府の規模や財政規模の大きさではなく、指導権や許認可権の強さであるという指摘は鋭い。「国策民営」という用語も「民営化」によって政府の力を弱めることができない点をも含意しており有用だと思う。

また、ソ連の体制が戦争のために作られてきたものであるというのは、中国や北朝鮮の一党独裁体制も同じである。日本もある意味では同じような要素を持っていたことは興味深いものがあり、その際の方式として「民営」で行なった点が異なっていることが分かる。この違いは冷戦構造の形成を全体として見ていくとよく理解できそうに思う。

ちなみに、自分よりも弱い敵対者に対して強権的な態度をとる傾向をもつ安倍晋三が(2012年に)政権をとったことで、マスコミの政府批判がぱったりと止んだことは、(単に株価が上がったため様子を見ているということだけでなく)日本の政府の力をマスメディアはよく理解しているということだろう。




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ヴェルナー・ゾンバルト 『ユダヤ人と経済生活』

 アメリカの植民地経済の基礎ができた、あの激動の数世紀には(そしてこれによって近代資本主義も生まれた)、砂糖の製造が(もちろんブラジルにおける銀の生産と金と宝石の産出を除く)、全植民地の国民経済の背景であり、これによって間接的に母国の国民経済を育成した。(p.71)


砂糖の生産と植民地経済というテーマは日本にとっても台湾を植民地化した際に経験していることであることもあって、興味を惹かれる。

川北稔の『砂糖の世界史』を私はこうした問題に関心を持つ前に読んだので、今後読み直してみると面白いかもしれない。



 アダム・スミスは、いかなる点でも、後の時代の経済生活を、冷徹かつ明瞭に写しだす鏡である。アダム・スミスの壮大なる学問体系には有価証券、株式市場、それに証券取引に関する学説のための余地が一つも残されていないという事実ほど、当時の独特な国民経済の姿――完成された初期資本主義――を現在の国民経済と比較対照させて写しだすものはない。証券取引所に関して一言も言及していない国民経済の完成された一体系がこれだ!(p.160-161)


スミスの思想については、遅ればせながら読んでみたいと考えていたところだったためメモしておく。株式市場に関する学説の余地が残されていないというのは、恐らく言い過ぎではないかと推察されるが、当時の経済ではこうしたことに言及する(ほとんど)必要がなかったという史料的な意味も持ちうるという点ではゾンバルトの指摘は妥当であると思われる。



 わたしの知るかぎり(わたしが正確な知識をもっていないオランダではどうやらすでに17世紀には解禁されていたらしい)18世紀中期まで、初期資本主義時代の長期にわたって、許されなかったものの一つに、商業広告、わけても商品宣伝があった。
 商業広告は、オランダでは17世紀中期、イギリスでは17世紀末、フランスではこれよりずっと遅れてさかんになってきた。(p.197)


ゾンバルトの記述は恐らく歴史的事実としては誤っているのではないかと推察されるが(日本でも江戸時代には「引き札」などある程度発達した広告があったことなどから推測)、広告の歴史というのも興味があるテーマである。



 しかし、商業広告成立後もなお長い間、商業誇大宣伝、つまりある商店が他店を出し抜いて厚かましく特別な旨味があると指摘吹聴することは、当然排撃すべきものとされた。商売敵よりも安価であると宣伝することは、商人の卑しさの最たるものとして見なされた。
 「廉価販売」は、いかなる形にせよ、不法であるとされた。「隣人に迷惑をかけてまで売るといった、度を越した投げ売りは、なんら祝福をもたらさない」のである。(p.199)


こういった考え方が18世紀頃のヨーロッパでどの程度普及していたかは措くとしても、廉価販売は(それをカバーするほど大量に売らない限り)所得を減らす効果があることを考慮に入れれば、社会全体としての持続可能な経済を維持することに繋がりうる発想であったと言うことができる。但し、グローバル化の進展はこうした考え方に基づく経営の条件を崩すものである。



 だが公共生活から排除されたことは、その埋め合わせとして経済生活面でのユダヤ人の地位を向上させたに違いない。(p.274)


これと同様のことはウェーバーも言っていたが、どちらが先に書いたのかは興味がある。



 このノンポリ性によって、彼らはしばしば体制の変革が行なわれるフランスのような国でも、各種各様な王朝や政府につかえることができた。(p.275)


党派的な色彩が強すぎないことが長期的には政治との関係を維持することに繋がることがあるという考えはそれなりに参考に値する。



それは、そもそもヴェーバーがピューリタニズムに帰しているなにものかが、実はかなり以前に、しかも後世になるとその割合をもっと増やした形で、ユダヤ教によってすでに実施されてきたのではないかという疑問である。いやそればかりか、そもそもピューリタニズムと名づけられているものは、その本質的特徴においては、もともとユダヤ教ではないかという疑問が出てくる。(p.292)


本書は随所で述べられているように、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』に触発されて書かれたというが、どちらかというと、それに対する批判として書かれていると読める。すなわち、ウェーバーが資本主義の精神を禁欲的プロテスタンティズムに因果帰属させようとしているのに対して、ゾンバルトはそれをユダヤ教に見出すことで批判したと読める。これに対して、ウェーバーが『古代ユダヤ教』においてユダヤ教と資本主義との関係を述べているが、その際、本書からの影響や本書への批判などがどのように展開されているのか(あるいは、いないのか)、という点には若干興味を惹かれる。



彼らは政治的には個人主義者である。彼らの感覚に適合している体制は、すべての関係が、明瞭に記載された法関係に帰着させられる「立憲国家」である。彼らは生まれながら、「自由主義的」な世界観の代表者である。その思考圏内には血肉を備えた個性豊かな人々ではなく、もともと民族間の違いも定かでなく、それぞれ質的特徴をもたない量的単位の総計である抽象的国民しかいない、こうした抽象的国民は、権利、義務を主張する一つの巨大な人間集団をなしている。多くのユダヤ人自身が察知していないとしても――たとえ彼らが、おのれのきわめて明らかな特性を否定し、彼らとドイツ人や、イギリス人との間になんらの差違はないと主張したとしても――やはり、彼らは他者を生き生きとした人間としてではなく、法的主体、国民、あるいはその他の抽象的存在として見ている。(p.414)


ここで描出されている「自由主義」の特徴は、本書出版の約70年後にマイケル・サンデルが批判することになる「リベラリズム」の特徴とほとんど一致していることに興味を惹かれる。



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今野元 『マックス・ヴェーバー ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』(その2)

つまりヴェーバーの「官僚制」批判とは、自分自身の足で立ち、自分の言動に自分で責任を取ることのない「組織人間」に対する批判だったのである。……(中略)……。不思議なことにそういうヴェーバー自身が、実際にはツェドリッツ=トリュッチュラー、フーゲンベルク、アルトホフなど、官僚出身の政治家を次々と高く評価し、皮肉にも持論への反証を自ら列挙することになるのだが、それでも一般に「官僚」は機械の歯車であって生気がなく、「官僚制」は上司に従順で自己責任で決断できない人間だけを出世させる組織であるという印象を生涯維持し続けたのであった。
 今日でも官僚が政治家や報道機関、政治学者の攻撃対象となるのは日常茶飯事だが、そうした今日の官僚制批判とヴェーバーの「官僚制」批判とが必ずしも同一ではないということに、我々は留意しなければならない。今日の官僚制批判とは、官僚が実質的に強大な権力を掌握しながらデモクラシーの洗礼を受けていないことに対する懸念であり、官僚が安定した俸給や天下り先などの特権を享受していることに対する羨望であり、官僚が仕事上の不手際をしているのではないかという疑念であり、官僚が過去の前例や煩雑な手続きに固執することに対する軽蔑であり、選良集団としての官僚(特にその幹部候補生)に対する一般人の嫉妬である。ところがヴェーバーの「官僚制」批判は、この種の一般的な官僚制批判とは趣を異にするものであった。ヴェーバーは感情に流れやすいデモクラシーを牽制する機構としては官僚制を寧ろ好意的に見ており、国家の雇用者として俸給などが保障されている点では大学教官の彼自身も同じ特権保持者であり、仕事上の優秀さに関してはドイツの官僚は傑出していると確信しており、厳密な手続きは寧ろ合理化の産物として評価しており、若いころから令名が高く30歳で正教授となった彼にとって官僚人生が嫉妬すべきものであったとも思われない。ヴェーバーの「官僚制」批判とは、とにもかくにも独立自尊の人間を求める彼の内なる欲求の為せる業だったのである。(p.132-133)


ウェーバーの官僚制への批判も彼の「独立自尊の人間」を求める世界観(価値観)と結びついたものであったことはその通りであろう。

行政官僚制について言えば、組織として「個人の責任において仕事をしてはならない」ことを格率としているのだから、この組織に属して仕事をしている限りにおいては自らの判断で行う政策であっても、その個人だけには責任が帰属されないのは当然のこととしなければならない。

その意味で、ウェーバーが官僚出身の政治家を高く評価するとしても、それは本来は矛盾とはならないものである。ただ、「官僚組織に所属している人間=個人の責任で仕事をする能力がない人間」と捉える場合、矛盾となる(本書によればウェーバーはこうした印象を持ち続けたとされている)。しかし、「官僚組織に所属している人間=組織の中で仕事をしている限りにおいて個人の責任で仕事をすることが許されていない」ということでしかないのだから、組織外で仕事をする場合には、当然、「独立自尊の人間」でありうるのである。さらに付け加えるならば、「選良集団」に属することができた官僚などには、平均的に言って、ウェーバーが求めるような主体性を高度に身につけている人間が多いのではないか、というのが私の見立てであり、それはウェーバーが「持論への反証」を多く挙げていることとも合致すると思われる。

むしろ、私としては、ウェーバーの官僚制批判における感情に流されやすいデモクラシーに対する牽制としての意味合いは高く評価すべきものだと考えている。その意味で、「脱官僚」などという発想は、政府の持続的運営にとってマイナスになるだけであり、いかに官僚機構とうまく付き合っていくか、すなわち、政治と官僚の長所をいかにうまく組み合わせることが出来るか、ということこそが問題なのである。



 ヴェーバーの列強観は、国制権力政治論と比較政治文化論との二重構造になっている。国際権力政治論とはドイツの合従連衡についての戦略的思考であり、比較政治文化論とは各国家の政治的・文化的内情についての考察である。ヴェーバーは各国家の軍事力を、その国の人々の「文化」水準から推測する傾向にあった。ヴェーバーの見るところ「文化」の高い人間たちによって構成された国家の軍事力は強靭で、「文化」の低い人間たちによって構成された国家の軍事力は脆弱なのである。言うまでもなく双方の議論は、決して相互に無関係ではない。ヴェーバーはまず比較政治文化論によって各国家の軍事力を測定し、その成果をもとに国際権力政治論でドイツの同盟戦略について議論したのである。(p.234)


ウェーバーの政治評論を理解する上で参考になる指摘。

「知の巨人」と崇められてきたことさえあるウェーバーだが、素朴で素人的な政治観に立脚していると言える。そして、こうした素人っぽさとポーランド問題における一点集中的な関心に基づく議論とは相関しているものと考えられる。



ヴェーバー「デモクラシーにおいては、人民が自分の信頼する指導者を選ぶのです。そして選ばれたものが言うのです。『さあ口を噤め。そして言う通りにしろ。』人民及び政党はもはや彼に口を挟むことは許されません。」ルーデンドルフ「そんな『デモクラシー』なら、私としても好きになることが出来るのだが!」ヴェーバー「もし指導者が過ちを犯したら、のちい人民が彼を絞首台に送ることが出来るのです!」(p.320)


ここで率直に述べられているようなウェーバーのデモクラシー観には違和感を抱く人は多いのではないだろうか。

現代の日本では自分たちで決めるというのではなく、自分にとって都合の良い決定だけをしてくれるヒーローたるリーダーを求める風潮が強い。その意味で、ウェーバーが述べるようなデモクラシー観に対して批判をしておくことは無意味ではないように思われる。



 西欧派ドイツ・ナショナリストとしてのヴェーバーの分析の結論は、以前筆者が仮説として提示した「知性主義の逆説」という発想に集約される。政治的近代化とは、なおも残存する身分制の伝統や教会の権威といった旧体制の桎梏から人間たちを解放し、知的に覚醒した自由で自立した、本質的には平等な個人たちの共同生活に見合った政治制度を目指すという解放の過程である。しかし政治的近代化が予定しているような人間の知的覚醒は、その信奉者たちが予想しているのとは異なり、いつでも、どこでも、誰でも同じように達成できるものではないという現実がある。従ってそこにいつの間にか個人間、人間集団間に新たな序列が生まれ、そこに新たな支配従属関係が生じてしまうのである。また覚醒した個人や人間集団は、自我に目覚めてしばしば衝突し、その衝突を調整する仕組みは存在しないため、結局は何らかの序列を構築しないと共存が出来ず、それが構築できない場合には厳しい反目状態に陥ることがある。ヴェーバーがポーランド人、ロシヤ人、イタリア人、アイルランド人、カトリック教徒、(一部の)ユダヤ人に懐いた優越感、アングロ=サクソン圏の人々に対する劣等感や焦燥感、ドイツ国内におけるヴェーバー周辺の知的権威主義は、こうした「知性主義の逆説」の枠組で理解されるべきものである。(p.368)


本書の結論的な部分。

特定の一つの基準に基づいて物事を評価する場合、同様の序列関係は発生する。ウェーバーの場合は、知性主義的な人間観が基準となっていることが本書で提示されている。

ここからは「政治的近代化」が想定する個人には無理があるのではないか、という疑問が提起できると思われる。そして、これはリベラリズムやリバタリアニズムに対する批判につながるものであろう。




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今野元 『マックス・ヴェーバー ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』(その1)

何故ヴェーバーがそのように主張するようになったかと言えば、それは彼が自分とは相容れない年上の教師たちの講義に、とりわけベルリン大学におけるトライチュケの講義に違和感を懐き、これに一部の学生たちが熱狂するのを目にして、苦々しく思ったからに他ならない。しかし他者批判として生まれたヴェーバーの誡律は、大学教師であるヴェーバー自身にも、やがてはブーメランのように向かってくる。(p.109)


「職業としての学問」などで有名ないわゆる「講壇禁欲」の主張が生まれる際のウェーバーの体験に基づく動機。

ブーメランのように戻ってくるとしても、厳しい戒律を完全に遵守しきることの難しさを考えれば、完全に守れていないということを以て非難するには及ばないだろう。ただ、ウェーバー自身も完全には守れていないということを示しておくことは「聖マックス」信仰のような偶像化を進めないようにするためには必要であると思われる。



ちなみに我々は、ヴェーバーの政治論に二種類の異なる「文化」概念を見る。第一は、「ポーランド人は文化が低い」という場合の、人間の成熟度を図る普遍的基準としての「文化」であり、第二は、「ドイツ文化の独自性を守れ」という場合の、「ドイツ人」など特定の人間集団固有の営みとしての「文化」である。この就任講演にすでに萌芽が現れ、第一次世界戦争中の政治評論でより鮮明になるのだが、ヴェーバーはドイツ「文化」(第二の意味での「文化」)がイギリス、フランス、ロシヤなどの「文化」に伍して繁栄することを望んでおり、かつドイツ「文化」はポーランド「文化」やロシヤ「文化」よりも「文化」(第一の意味での「文化」)の面でより高いと考えていたのである。(p.112)


ウェーバーは、学問論としては一義的な定義で用語を使うよう要請するが、彼自身の政治評論ではそうした格率は完全には守られていなかったことが分かる。

なお、この引用文の指摘は、ウェーバーの政治論を読む際のガイドラインとして役立つと思われる。



 個々の人間の主体性が、その所属する階級の国内権力政治における主体性を支え、切磋琢磨する個々の階級の主体性が、その所属するドイツ国民国家の国際権力政治における主体性を支えるという議論こそ、ヴェーバーが1890年代の政治評論を通じて編み出したものであった。そしてこれがこのフライブルク講演によって明確にされたのである。この発想は、重点の置き方に変化があっても、基本的にはヴェーバーの政治的生涯を貫くものとなった。(p.113)


この指摘もウェーバーの政治論を読む際のガイドラインとして役立つ。ウェーバーの方法論的個人主義とも通じるものがある点にも興味が惹かれる。これをウェーバーの世界観として理解すると、方法論、宗教社会学、政治評論のいずれにも通底していることが容易に了解されるように思われる。



けれどもこの時期に発表されたヴェーバーの数少ない政治的発言の内容を見てみると、そこには彼の神経症前の基本方針とその情熱的口調とが、そのまま生きているのが看取できる。神経症がヴェーバーの人格を一変させたかのような「近代批判」的ヴェーバー解釈は、実証的に疑問の余地があり、とりわけ彼の政治的言動に関しては全くの誤解である。(p.117)


主に90年代以降に提出されたポストモダン的ないし近代批判者としてのウェーバーというウェーバー解釈には疑問の余地があるということは押さえておくべきと思われる。




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