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ロッシャー 『歴史的方法に據る国家経済学講義要綱』

 如何にして国富が最もよく促進されるかという問題は吾々にとっても一の主要問題たるを失はない。しかしそれは決して吾々の本来の目的をなすものではない。国家経済学は単なる貨殖術(クレマティーク)即ち富まんがための技法ではなく、人類を判断し人類を支配せんとすることに帰着する一の政治的科学である。吾々の目標は、諸国民が経済上、何を考へ欲し感じたか、何を努力し達成したか、何故に努力し、何故に達成したかの記述である。かかる記述はただ国民生活についての他の科学、殊に法律史・国家史及び文化史と密接に結びついてのみ可能である。(p.18)


ロッシャーによる「歴史的方法」についての説明の一部より。

経済のみを切り離して分析するような方法はとらないことを宣言し、政治的科学であることを明言している点は、専門分化が進んだ昨今の経済学が、現実には特定の政治的な立場からの政策立案を促進する媒体としての機能をはっきりとになっており、多くの経済学者もそうした政治的な立場に立ちながらも、それを明示することなく「科学」の名の下で中立や客観性を装う姿勢よりもはるかに害が少ないものであると思われる。

また、諸国民が、何を考え欲したか、何を達成したか、といったことを記述するという点に関して、本書では「文化」についてしばしば言及されており、高度な文化段階と低度の文化段階との生活様式が区別され、そうした文化段階と経済の発展段階が結びつけられて叙述されている。このあたりは現代の学問的な考え方や感覚からすると大いに違和感を感じるところではあるが、特定の生活上の行動様式と経済的活動との関連性についての分析がなされるならば、叙述された内容自体は意味を失わないかも知れない。



 之に反し海洋漁業は文化高まるにつれて進歩する。現代最も有力な商業国民は此の事業に重きを置くのが常である。鰊の漁業。捕鯨。此の二業は海員(Seelenleuten)の発達に対し重大な意義をもっている。(p.74)


鰊漁の歴史には多少関心があるのでメモしておく。



鉄道の軍事的意義。併し他面に於て外敵もまた、一度び運輸組織を占領するや、これを大に利用することができる。殊に国内に於ては内乱・陰謀が容易となる。下層階級に対してすら旅行が容易となるといふことは非常な民主化的なものを伴っている。(p.185)


鉄道の路線や自動車の道路も歴史を調べてみると、戦争を意識して経路が決められたものが少なからずある。「下層階級」の旅行が容易となることは「民主化的なもの」が伴っているというのは、なかなか興味深い指摘。



しかし若し吾々が国民の繁栄期といふものを正しく規定するならば、吾々の判断の上に一つの支点を見出すのである――即ち其れ以前に属するすべての制度を吾々は未だ充分ならざるものと見、其れ以後に属するすべての制度を既に退歩に向へるものと見る。(p.291)


ロッシャーの方法の特徴をよく示している箇所の一つ。

私は本書をマックス・ウェーバーの思想を理解するための資料の一つとして読んでみたという側面が大きいのだが、ロッシャーの方法論においては、繁栄に向けた一方的な発展だけでなく、そこから衰退へ向かうことをも初めから想定しているが、この発展と衰退のプロセスは、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』における、禁欲的プロテスタンティズムによる世俗内的禁欲の発展という見方と、その後の「鉄の檻(殻)」となり末人が跋扈するようになるという現代と将来へのペシミスティックな展望という展開とも似たところがあるように思われ興味深いものがある。

ちなみに、ロッシャーが経済的発展の段階と「文化」の高低とを結び付けて議論するところも、ウェーバーがポーランド論などで「文化」のレベルの維持を求める主張と多少重なるものが見て取れると思われる。



 かくてロッシァーの歴史的方法なるおのは所謂「進化法則」の把握をその核心とする。彼に従へば経済学の対象は国民経済の進化法則にある。読者は本書の随所に於て国民経済の進化法則といふ言葉及びその実際の適用に逢着するであらう。進化法則といふのは古代・中世・近世といふやうな年代分けとは直接関係がない。古代や中世に於ても、近代と同じ進化法則が繰り返されてゐるといふやうな説明が諸所に見受けられる。進化法則は国民の「繁栄=没落」といふ表現に於て、或は「低度=中度=高度」の文化段階といふ表現に於て把握される。ここに至って彼のいふ進化法則は多分に国民主義的有機観によって支持され、経済現象は他の法律・言語等の諸現象と一緒に国民全体のうちに包括されるものであり、国民の生起消長と運命を同じくするものであると見られる。さうしてかかる有機体の発展のうちに、或る制度が廃たれ他の制度が採られるといふ相対性が見出され、延いて国民興亡の教訓を汲みとらんとする政策論が出てくる。即ち複雑多様な国民の歴史的進行を観察することによって政策的判断の手がかりを摑まうとするわけである。(p.319)


訳者解説より。ロッシャーの方法をコンパクトにまとめており参考になる。

ロッシャーの「進化法則」は、古代・中世・近代といった歴史の時代区分とは一致せず、様々な時代と地域にある程度まで共通して適用できるものと考えられているとする説明からは、ウェーバーとの関係でいえば、彼がこういた「法則」を「経験的規則」であるとより適切に説明し直したことを想起した。



ロッシァーの下に学び彼にその主著を捧げたカール・メンガーは、その理論的立場から、ロッシァーの歴史法則を単なる外面的な法則であり、古典学派との折衷に過ぎないと見てゐる。歴史学派の内部からは、ロッシァーの歴史的観察に於ける歴史的なるものの把捉の企図の不充分が問題とされ、むしろ歴史的認識の論理的徹底といふ方向がクニースを経てマックス・ヴェバーによって進められた。(p.320)


訳者解説より。ロッシャーの方法に対するすぐ下の世代からの批判。外面的な法則でしかないという批判は、私もロッシャーの方法は記述されたものがどのようなメカニズムでそのようになっているのか、という説明が欠けていると感じており、この私の批判はメンガーの指摘と歴史学派による展開によって目指された方向と一致するように思われる。

(メンガーからの批判と歴史学派の応答はかみ合っていると思われる点が興味深い。また、本書は講義要綱なので、詳細な説明がなく何が講義の議題となったかという程度のことがメモされているに過ぎないから、ロッシャーにもある程度は因果関係などの論理的な記述もあったのかもしれないという点で私の違和感は今のところ印象論に過ぎないということは留保しておきたい。)




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今野元 『マックス・ヴェーバーとポーランド問題 ヴィルヘルム期ドイツ・ナショナリズム研究序説』(その2)

 ロシア自由主義者の活動を追跡する過程で、ヴェーバーはロシア帝国の少数民族の「文化的自治」という構想を知る。……(中略)……。
 ヴェーバーがこの「文化的自治」構想に注目したのは、多民族国家の統合維持の手法としてのそれに興味を抱いたからであった。彼がドイツのポーランド政策を「うまくいっていない[erfolglos]」とする傍ら、小ロシア(ウクライナ)のロシア化政策を「うまくいっている[erfolgreich]」と表現しているところに、彼の目指すものが少数民族への「文化的自治」付与そのものではなく、寧ろ国家的統合の維持であったことが滲み出ている。(p.162)


この指摘も「聖マックス信仰」からは出てこないものの一つだろう。ウェーバーのこうした権力政治一辺倒の政治観に対しては批判が必要だと考えている。これに関してはアダム・スミスの政治観との対比という事例を提供している鈴木俊彦の『ヴェーバー的方法の未来』からも先日示唆を受けたところである。



彼にとって、(戦争も含めて)凡そ闘争は人間の当然の営みであり、これを回避しようとする、あるいは回避できると思うのは政治の誤解に他ならない。……(中略)……。ドイツは実際に敗北したが、それは「罪」深いドイツが「罰」を受けた訳ではなく、またそもそも戦争という行為それ自体は何等非難に値するものではないというのが彼の信念であった。
 ……(中略)……。一方で西欧戦勝国に対してそもそも戦争を道徳的観点で評価すること自体を拒否しながら、他方でドイツの対ロシア戦を「よき」戦争と呼んで道徳的に肯定するところに、彼の戦争責任論における対西欧・対東方の「二枚舌」的性格が顕在化している。(p.206)


ウェーバーが「闘争」を志向ないし重視する点は従来から知られていたところだが、戦争をも道徳的に非難されるべきものではないとするような彼の考え方には、現代の日本での生活感覚としてはなかなか同感できないところがある。ウェーバーのこのあたりのナイーヴさがどこから来るのか、ということにも興味が惹かれる。

なお、二枚舌的な戦争責任論は、権力政治的な政治観からの帰結であろう。自国の権力の維持・拡大を中心に据える自己中心的な発想に立てば、その権力の維持増進に係わることであれば「善いこと」になり、そうでないものは「悪いこと」になるからであり、そこには善悪の明確な基準がないからである。例えば、世界大戦期のイギリスが中東地域に二枚舌三枚舌の外交を展開し、現代にいたるまでの混乱の種を撒いたことは周知のとおりであろう。



 1919年2月以降、ヴェーバーは「正義の政治のための作業共同体」(ハイデルベルク連合)に参画している。この団体は、来るべき講和交渉の中で、戦勝国側が道徳主義的攻勢を掛けて来ることを予想し、これに理論武装するという目的で、帝政期最後の帝国宰相マックス・フォン・バーデン大公子の周辺に結成されたものである。この団体は、1919年2月3日及び4日にハイデルベルクのヴェーバーの私邸で会合を開き、その事務局は同年6月までこのヴェーバー私邸にあった。このことから、彼がこの団体で重要な役割を果たしていたことが分かる。1919年3月から、彼は更にマックス大公子の要請で、ベルリンの外務省でのヴェルサイユでの講和交渉の準備会議にも参加する。そして同年5月にはヴェルサイユに赴き、ハンス・デルブリュック、マックス・モンジュラ伯爵、アルブレヒト・メンデルスゾーン・バルトルディとドイツの立場を擁護する『教授文書』に署名している。(p.206-207)


ウェーバーのヴェルサイユ条約とのかかわりなども非常に簡単にしか触れられていない解説書が多いので、私としてはよく分からない点の一つである。



一旦勃発した戦争が順調に進めば、平和主義的なリベラル・デモクラシー信奉者の議論は攻撃的なリベラル・デモクラシー信奉者の行動を押し留めるだけの迫力を失い、結局は戦争及びそれによって惹き起こされた状態に順応していくことになる。(p.221)


これと似たような現象はいろいろと起こりうるので参考になる考え方。



ロシア国籍のポーランド人農業労働者の排除は、あるいは独露関係の悪化にも繋がりかねない微妙な問題であったが、この点で当時のヴェーバーは著しく鈍感だったのである。(p.222)


確かに。



 人間の「文化」水準の差異を問題視する議論、いわば「文化」勾配論は、決して本論が問題にしている左派の専売特許だという訳ではない。蓋し「文化」勾配論は、何らかの政治思想から導き出された論理的帰結ではなく、人間の感覚的なところにその淵源を有しているからである。……(中略)……。「文化」勾配論に固執するかどうかということは、政治的党派よりも、人間同士の「文化」の違いを意識するような状況に置かれているかどうかに左右されるのではないかと思われる。
 とはいえこうした「文化」勾配論は、左派の発想と一面で親和性を有しているともいえる。というのも、左派が共同体の成員として想定(あるいは期待)している人間とは、知的に高度に洗練された「文化」人、即ち「個人」だからである。(p.223-224)


著者の言う「左派」とは「リベラル・デモクラシーの推進に積極的」ということであり、ナショナリズムへの加担とは別次元のものとして設定されている。そして、著者の言う「リベラル・デモクラシー」とは、ある共同体の存在を前提とし、その全成員に自由と平等とを保障した上で、その全成員の直接・間接の参加に基づいて共同体を運営していこうとする思考であるという(以上については、本書p.241の注(6)と注(11)を参照されたい)。

自由と平等を前提としたうえで全成員の参加によって共同体を運営しようとする発想と、差別的な発想との極めて強い親和性を持つ「文化」勾配論との親和性を指摘している点は参考になる。前者は自由に決定する権利が平等に与えられることを前提とし、その中で主体的に決定する個人が前提されているわけだが、実際にはそのような負荷に耐えながら生きているような人は稀であり、これを「文化」の高低によって解釈しようとする場合、両者が結びつくわけだ。非常に興味深い指摘である。

この議論で私が想起したのはマイケル・サンデルの「負荷なき自己」というリベラリズム批判である。ここには、リベラリズムは「負荷なき自己」を前提としてしまうことで、かえって道徳的な空白を作ってしまい、極端な道徳的主張に対して抵抗する力を持てずにいるという指摘が含まれていると思うが、本書の指摘するリベラル・デモクラシーと「文化」勾配論の親和性も、この議論と関連していると思われる。リベラル・デモクラシーを信奉する際、その共同体の大部分で共有されている美徳があり、そうした美徳は共同体によって異なりうることを明確に認識していれば、「文化」勾配論へと滑り落ちていくことに対して多少なりとも歯止めとなるだろう。

また、「文化」の高低について一つ私として明記しておきたいことは、ある共同体で共有されている「文化」があるとして、他の共同体の「文化」と比較して自らの「文化」が高いか低いかということを普遍的な尺度で測定し、一義的に(他にはあり得ないという仕方で)決定することはできないことは常識であるとしても、その共同体の内部における各成員の「文化」水準の相違ということであれば、ある明確な基準に基づいて議論しうるのではないか、ということである。なぜならば、その「文化」が(必ずしも全員に是認されていないとしても)共有されている(存在していることを了解されている)とするならば、その内部ではその「文化」内部での価値基準に基づいて差異を目的に対する序列として示しうる場合があるからである。



 さて本論で見てきたように、ヴェーバーはこういった人間の「文化」水準に殊更関心の強いドイツ人の一人であった。彼にとってリベラル・デモクラシーとは、結局政治におけるドイツ国民の人格陶冶の問題であり、民衆の意思の政治への反映の問題、あるいはそれによる民衆の生活条件向上の問題ではなかった。このような彼は、しばしば知的に未成熟と思われる人間に対し、痛烈な批判を投げかけたのである。読者はヴェーバーが、イタリア人やスペイン人、アイルランド人の民衆に批判的な視線を投げかけていたことを想起するだろう。あるいは、彼が西欧列強軍のアジア人・アフリカ人兵士を蛇蠍のように嫌っていたことを思い出すかもしれない。自立した人間になりきれていない人間に対する憤懣は、彼の人生を貫く一つの要素であった。毅然とした合理主義的な人間を強く志向する彼の傾向は、彼が他方でハイデルベルクでの「世俗内的禁欲」の続行を断念してイタリアの太陽の下で休息し、更にアスコナの「対抗文化」にすら興味の範囲を拡大させたにも係わらず、やはり彼の死まで明瞭に見て取れるものであり、それが彼の政治観に影響を与えていたのである。(p.225)


ウェーバーにとってはリベラル・デモクラシーは国民の人格陶冶の問題であったという。ウェーバーのデモクラシー観の記述には異論はないが、このようなデモクラシー観自体に対しては批判が可能であり、私にはそれが必要でもあると思われる。



自己が如何なる価値的立場に立っているかについて常に自覚的であれという彼の「価値自由」命題は、彼が個々の学者に自己の価値に外部の権威に依らず自分で責任を取ることを要求した、即ち主体性を確立することを要求したものであると解釈することが出来るであろう。(p.232)


価値自由論という社会科学的方法論と、個人の責任と主体性という倫理的な立場との親和関係は興味深いものがある。



 ヴェーバーが政治において一貫して闘争を称揚したことは疑いないが、この闘争は彼にとっては何か別の目的のための手段というよりも、寧ろ自己目的であったようである。換言すれば、彼は特定の結果を達成する手段として闘争を望んだというより、寧ろ活力ある人間たちが雄々しく格闘するという状態そのものを好んだということになる。(p.233)


ウェーバーという人物の魅力の重要な要素となっているのが、この「闘争」というモチーフだが、複数のものが闘争している状態というのは、一つのものに画一化されていないことでもあり、ウェーバーの多元論的な社会の理解の基礎ともなっていると思われる。



 自分は「文化」人であるという強い自覚から出発するヴェーバーは、自分と同じように「文化」的に行動していない(ように彼には見える)人間の存在をどうしても許容することが出来なかった。彼にはその生涯を通じて、自分が高く評価した人間には限りない親愛の情を示しつつも、自分が低く評価した人間に対してはその尊厳を否定するような物言いをして憚らない面があった。……(中略)……。
 このような状況認識に立つヴェーバーの信奉するリベラル・デモクラシー理念が、エリート主義的な色彩を強く帯びていたことは少しも驚くべきことではない。ヴェーバーは、ドイツの、あるいはロシアの官権国家に対する容赦ない敵対者であり、その局面において彼は誠実なリベラル・デモクラシー信奉者でいることができた。彼のロシア政治分析などを念頭に入れるとき、彼がリベラル・デモクラシーを単なるドイツ・ナショナリズム推進のための道具と考えていたという説は、余りに極論に過ぎるように思えてくる。とはいえヴェーバーはリベラル・デモクラシー論に関して、上の権威を見ている場合と下の民衆を見ている場合とではかなり別な表情を見せている。彼の政治観には、民衆に対する無条件の愛と信頼、民衆の意思が政治に反映されることがそれ自体として無条件によいことであるという道徳主義的な信念が欠如しており、その意味で確かにモムゼンのいうように「自然法的な」、つまりア・プリオリのリベラル・デモクラシー信奉者ではなかったのである。(p.234-235)


ウェーバーは「上の権威」が指導力をもって「下の民衆」を指導することを期待し、単にその権威を(君主の世襲や特定の身分のものだけが参画し、そこから選出されるようなものではなく)「下の民衆」が選挙という方法を通じて選ぶという手段的な意味で「デモクラシーの制度」を擁護したにすぎず、「下の民衆」の権利や自由を尊重するという「民主主義の理念」に従ってデモクラシーを推進しようとしていなかったということを理解しておくことは、彼の政治観への批判的な観点としては重要なことであると考える。



 以上の考察を踏まえて、本論が最後に提示するのは次の仮説である。
 ヴェーバーの政治的言動は、政治における人間の主体性確立の追求、いわば政治における人間の合理化の追求を一大テーマとしていた。この主体性確立への信念は、一方で「価値自由」論の提唱や官憲国家への抵抗といった、いわばドイツにおけるリベラル・デモクラシーの確立に貢献するような彼の側面を生み出す起源となった。しかしそれは他方で、主体性の確立度、いわば「文化」水準を基準とする彼のエリート主義的な人間理解にも基盤を提供することになった。ヴェーバーのポーランド論は、この後者の側面が極端な形で現れた結果生まれたものである。(p.237)


これは本書の結論的な部分だが、概ね妥当と思われるし、ウェーバーの発想の中心点から彼と同様に物事を見ようとする場合には特に参考になる見方であると思われる。

ただ、私なりにアレンジして仮説を立てなおすとすれば、むしろ、彼が生まれ育ってくる中で培われた、いわば感覚に根ざすものとしてエリート主義的人間理解が基盤にあり、それが主体性確立という形で、公共の言論空間の中でもある程度受け入れられやすい形で言語化され、リベラル・デモクラシー確立に繋がっていく主張を生み出す源泉ともなった、しかし、その元々の差別主義的な眼差しは公共の言説ではなく私的な言動の中ではよりあからさまに表現されており、公共の言論空間であってもポーランド論のような政治評論の場には現れることがあった、と理解した方が良いように思う。



 ヴェーバーは「近代主義者」か「近代批判者」かという二者択一は、ヴェーバー研究に混乱を招いてきた問題設定の一つである。我々は従来の研究を通じて、「マックス・ヴェーバーは、西欧近代の勃興に魅せられた。しかしそれだけでなく、これに恐怖をも抱いていた。」(Kocka, Das lange 19. Jahrhundert, S.152.)ということについて既に認識を深めてきた。「論争的一面性」(Detlev J.K.Peukert, Max Webers Diagnose der MOderne, Go(e)ttingen 1989,S.27.)の名の下に、ヴェーバーの一側面のみを恰もヴェーバーの思想の「本質」であるかのように誇張することは、もはは現段階では我々が為すべき課題ではなくなっている。(p.307)


同感である。



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今野元 『マックス・ヴェーバーとポーランド問題 ヴィルヘルム期ドイツ・ナショナリズム研究序説』(その1)

 けれども、ヴェーバーの言動における「左のナショナリズム」を分析するためには、実は有名な彼の「世界政策」論よりも、寧ろこれまで比較的知られていなかった彼のポーランド論に注目する必要がある。というのも、彼の「世界政策」論は終生観念論に留まり、その具体的内容が明らかになることは遂になかったからである。彼の文章をどれほど丹念に読んでも、一体彼が世界のどこを植民地として要求していたのか、どのような目的のためにどれほどの戦艦を建造すべきだと考えていたのか、という点を解明することはできない。彼がドイツ・ナショナリズムの論客として最も情熱を燃やしたのは、イギリス(あるいは更にフランス)への対抗意識を内包する「世界政策」論よりも、寧ろロシアやポーランドへの反発を内在させたポーランド論であった。青年期から晩年まで、ドイツ・ナショナリズムとは彼にとってドイツ対西欧の問題というよりも、寧ろドイツ対東方の問題だったのである。換言すれば、彼の政治的言動の中で「進歩的な国内政策」を最も明瞭に同伴していたのは、実は「強力な海外膨張政策」(「自由帝国主義[Liberalimperialismus])ではなく、東方の諸民族への西への侵出に対する抵抗(いわば「自由排外主義[Liberalxenophobie])とでも言うべきもの)だったということである。(p.6)


ウェーバーのナショナリズム(ドイツの「左のナショナリズム」一般?)の特質を考える上で非常に示唆的な指摘。



ポーランド論はヴェーバーが生涯情熱的に取り組んだ争点項目の一つであり、その展開を概略的にすら把握せずに構築したヴェーバーの「全体像」とは、即ち砂上の楼閣に他ならないからである。
 飽くまでヴェーバーのポーランド論に特化するという本論の方針は、あるいは問題設定が狭すぎるような印象を与えるのかもしれないが、これは従来のヴェーバー研究の実情に照らせばそれほど異常なものではない。「マックス・ヴェーバー研究」、「マックス・ヴェーバー入門」、「マックス・ヴェーバーの問題提起」を標榜する著作を発表し、ヴェーバーという人物の「本質」を描写する意志を示していても、個々の研究者が実際に考察している範囲は大抵の場合広大なヴェーバーの思索のごく一部に過ぎなかった。(p.15)


ウェーバーの「全体像」という件は、10年ほど前に勃発した(?)いわゆる羽入-折原論争が想起された。本書が出版される前年に羽入辰郎の『マックス・ヴェーバーの犯罪』が出版され、本書出版の翌月に折原浩の『ヴェーバー学のすすめ』が出ており、後者の下敷きとなった文章は当時からウェブ上(橋下努氏のhp)で公開されていたからである。

包括的にウェーバーの思想を扱うことを掲げていた研究も、実際の考察の範囲は基本的には狭い範囲に限定されていたという指摘は確かにその通りであり、本書が自らの研究の限界を明示しているのは価値自由の観点から見て妥当である。

ポーランド論というこれまであまり注目されてこなかった議論を把握することがウェーバー研究にとっても必要であることが本書を通してよく理解できた。ロシア革命論も以前読んだが、私の中ではウェーバーの広範な著作の中で今一つどのように位置づけてよいか整理できないでいたが、本書で示された枠組によってヒントを得たように思う。



 本論にとって、ヴェーバーとは学習の対象でも非難の対象でもなく、単なる分析の対象である。彼の政治的言動は、ここでは彼の論敵の政治的言動と同様に、ドイツ政治史の文脈に即して努めて即事的に評価される。つまり本論にとって、ヴェーバーは「教師」でも「反面教師」でもないということである。筆者はヴェーバーを学習の対象とする研究を決して否定するものではないし、筆者自身にもヴェーバーの著作を読んでいく中で自己の政治学的研究に積極的に援用したいと感じる発想を見出すことがしばしばある。だがいうまでもなく、学習としてのヴェーバー研究はヴェーバー研究の可能性の一つでしかないし、そもそも思想研究に分析対象を出来る限り好意的に(曰く「内在的に」)読むという努力義務がある訳でもない。これに対し、ヴェーバーを同時代の学問的・政治的資料と照らし合わせて批判的に検討し直すことは、どのような問題関心によるものであれヴェーバーという人物とその思想を理解しようとするときには欠かせない作業である。しかし、従来の特定のヴェーバー崇拝者に対する反発からとはいえ、ヴェーバーという人物を殊更に貶めるということが研究の目標そのものになりうるのかどうかは疑問である。指導的な研究者の間で、ヴェーバーへの個人的な愛情を告白する「聖マックス信仰」や、ヴェーバーへの憎悪を剥き出しした徹底的な粗探し、あるいは更に研究者同士の公私に渡る執拗な非難の応酬が常態化するならば、それが内容的に妥当なものであるかどうかに係わらず、学問上の議論を研究者同士の感情的な対立へと変容させ、周囲の研究者の委縮を招き、結果として研究の進展を妨げる危険性が生じるであろう。
 ヴェーバーの言動を即事的に解釈するためには、彼の言動だけを丹念に追跡するのではなく、これを相対化しなければならない。彼の文章だけをどれほど丁寧に読んでも、彼が意識的に、ないし無意識に言わなかったこと、彼が誤解していることは見えてこない。彼の同時代人の言動を参考にし、彼が直接、間接に受けた反応を考慮に入れて、初めて彼の言動の特徴が見えてくる。(p.15-16)


ここでは羽入-折原論争に対する筆者のスタンスや批判が表明されている。いずれも妥当だと思われるが、私の評価を加えて敷衍すると以下のようになる。

折原の側への批判としては、ウェーバーをもっと同時代の人々や状況の中に置き、相対化せよという主張となっているということ。羽入に対する批判としては、研究の目的ないし動機が誤っていることを示唆していること。論争に対しては、あのような感情的な形で論争を行うことは、周囲の研究者を委縮させる形で言論の自由な空間を狭めているという点で有害であると評価しうることである。

なお、ウェーバーを相対化する本書のスタンスに関しては、本書は大塚久雄やその少し下の世代までで行われていたようなウェーバーへの強い憧憬や崇拝から一線を画している点で新しい世代が現れてきたという点で望ましいものと考えている。



また「社会(構造)史」には、その「社会構造」なるものが厳密には実証的基盤のない「想像」の産物であるだけに、歴史家個人の価値的基盤(それはこれまでのところ事実上常に「ドイツ特有の道」論であった)が余りにも直截に表現されてしまうという問題がある。(p.17)


なるほど。興味深い指摘。



 以上見てきたように、社会政策学会ベルリン総会はヴェーバーがユンカーとの対決姿勢を明確に表明する最初の機会となった。この総会における彼の報告は、世界政策の提唱や、後年の学問論の予兆を含む1895年のフライブルク大学での正教授就任講演『国民国家と経済政策』が今日に至るまで大きな注目を集めてきたのに比べると、これまでそれほど注意が払われてこなかった。しかし、ドイツ・ナショナリストとしての彼の一生を描く際には、この1893年の報告は正教授就任講演と同程度に重要であるといってもよい。何故なら、それは今日知られている限り、大舞台における彼の最初の政治的演説だからであり、正教授就任講演のような一方的な意見表明ではなく、聴衆から直接反応が寄せられていたからである。(p.74-75)


1893年の社会政策学会での報告の重要性。本書のような観点に立たなければ発見できないような問題提起ではないかと思われる。ウェーバー研究に関しても、著者のように新しい世代の研究者が現れてきているようだが、新しい観点からこれまで見落とされてきた重要な問題について掘り起こしてもらえると読者としてはありがたい。



彼は人間の行動を説明する要因としての「人種」ないし遺伝的要素への期待は晩年まで明確に維持しつつも、これを十分な立証手続きも踏まないまま安易に使用する他人の「人種」論にははっきりと苛立ちを表明するようになっていくのである。(p.81)


少し前の世代のウェーバー研究者であれば、よりウェーバーを好意的に評価するようにしか書けなかっただろう。

私自身、ウェーバーという人物とその思想に大いに魅力を感じて読み続けてきた読者ではあり、読み始めた頃は、解説者たちの「聖マックス信仰」からも感化を受け、「ウェーバーすげぇ」とか思っていたが、いろいろと読み進め、ウェーバー以外のものも様々に学んでいくうちに、ウェーバー研究における「聖マックス信仰」には飽き足らないものを感じてきたので、本書のように一歩引いたスタンスでありながら、研究対象としてはウェーバーという人物やその思想・言動が重要性を持っていることを示しているような研究書が多く出てほしいと思う。



 また、そもそも「教壇禁欲」程度の工夫で学生の発想の自由が実際に担保されるのかどうかも疑わしい面がある。仮に教師の側が「教壇禁欲」を厳格に実践していたとしても、その教師が大学の外で特定の政治的価値を支持し、特定の政治的党派に加担していることが知られているならば、特にその教師を指導教官と仰いで研究しようとする学生は、日常それを意識しつつ研究せざるを得ないだろう。(p.129)


ウェーバーの「教壇禁欲(講壇預言の禁止)」に対する批判として的を射ている。これまでの「聖マックス信仰」の範囲内では、その崇高な理想としての側面ばかりが意識され、そうした崇高な理想を提示し、それを実践しようとしたウェーバーの卓越性が称揚されることが多く、そうした理想に倣うべきだという発想へと読者は導かれることになりがちだったように思う。

しかし、著者の指摘のように、教壇禁欲の原則を守ることと、その結果として発想の自由が十分守られることとは別のことである、ということは認識されてしかるべきだろう。

ただ、効果が十分でなかったり、場合によっては反対の効果を持ってしまうことがありうるとしても、それが目指していること、即ち、学生の思考を強制しないようにすること、という目的は(ほとんどの場合)間違いなく重要なこととして意識され、その目的を達する方向で言動がなされるべきであるとは思われ、こうしたことを意識させる古典的な表現ないし方法の一つとして「教壇禁欲」が銘記されることは望ましいように思われる。すなわち、「教壇禁欲」の教えは無意味ではない。



プロイセン東部州の農村を短期滞在や書物を通じてしか知らなかったヴェーバーとは異なり、それはヴェーゲナーにとって生活環境そのものであり、このことが彼の博士論文の主題選択にも繋がっていったものと思われる。(p.130-131)


本書では随所でウェーバーの生育環境が東方から遠かったことが指摘されているが、これがウェーバーのポーランド論が一面的で硬直的なものとなった背景の一つであるということであろう。

ちなみに、現代日本で中国に行ったことがない人の方が、中国に対して一方的で一面的なイメージで悪い印象を持っていることが多いように私には見受けられるが、それも同じようなことだと思われる。


以上、本書第一章までからメモする。


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リッケルト 『認識の対象』

 現代の哲学は、多くの人に依って論ぜられる様に、大体に於て認識論的傾向を帯びている。種々その基く所を異にしその主張する所を異にするに関らず、いづれも認識問題がその中軸たることを拒むことはできまい。而して認識問題が中心たる今の哲学界に於て、カント哲学がその重要なる流を形造っているのは自然の数と云わねばならぬ。これ新カント学派が今の哲学界に於て重きをなす所以である。(p.4)


西田幾多郎が大正5年に書いた本訳書の「序」より。

20世紀初頭の哲学の動向について、「認識論的傾向を帯びている」という点は100年経過した現在においてこの分野がほとんど顧みられることがないことと対照的である。

19世紀末から20世紀初頭には確かに様々な認識論的な傾向を帯びた哲学が現れていた。ここで述べられるような新カント派だけでなく、その後に現象学が興隆してきた。ベルクソンやプラグマティズムにも認識論的な要素がある。また、論理実証主義は認識論とは言わないかもしれないが、真理に対する関心が看取できる。

西欧諸国でこうした理論が発展した背景には、おそらく植民地の獲得などにより流通と消費が増大したことと呼応して生産すればするほど売れるという需給バランスとなっていたことから、様々な技術革新が誘発され、それを背景で支える自然科学の急速な展開があり、また、国民国家の統治や植民地支配と間接的に結びついた社会科学の発生があると思われる。こうした「諸科学」の展開を背景として、科学的な発見や科学的な真理に対する関心が高まったことが要因の一つであるように思われる。

実際、本書の著者リッケルトはマックス・ウェーバーの社会科学、特にその方法論の確立に対して影響を与えたとされている。



 さて種々なる主観概念が斯くの如く漸次その内容を逓減してゆくものと見れば、件の配列の最後に、汎ゆる内容に対立した意識として、唯その内容を意識するとしか言へないやうな主観が措定せらるるに相違ない。かかる主観にはもはや客観となり得る何ものも含まれず、其概念は常にただ一の限界概念としてのみ理解せられねばならない。(p.44)


こうした概念的な抽象化によって根源まで遡ろうとする方法は本書に特徴的なものである。フッサールやハイデガーなどの場合、現象として立ち現れるものを観察しようとする志向があるが、そうしたこと以上に概念操作に関心が向かっている点に注目したい。

リッケルトはこうして内容となり得ない主観概念を構成しようとし、それを「形式」的なものであると規定する。ここには内容と形式という対概念が前提されている。概念としてこうした対が不可能ではないだろう。ただ、リッケルトの方法論で見落とされているのは、この対概念が指示するような出来事が実際の認識の場に存在するかどうか、ということであると思われる。「概念を分析し、整理していくこと」と「現に生じていること」との間に相違がないのか、という点に対する検討が不足しており、それがリッケルトの認識論を「単なる観念操作」に過ぎないものにしている面があると思われる。



 故に吾々は、判断主観に対してはそれの則るべき対象として、ただ不許不のみを対立せしめる。この不許不は存在はしないが、しかも超時間的に妥当であり、そしてこの超越的妥当性は、それの是認があらゆる判断の預想なるのみならず汎ての疑問の前提でもあるといふ理由から、如何なる懐疑的論難の前にもびくともしない。(p.191-192)


本書のタイトルにもなっている「認識の対象」とは、このような「不許不」であるというのがリッケルとの主張であった。

ちなみに、「不許不」とはSollenの訳語であるらしい(p.134参照)。存在Seinと当為Sollenという対概念は頻繁に使われるが、その後者と同じ語である。

「そうでないことを許されない」という意味で強制的な性格をもって判断する主観の前に立ち現れるものであるが、主観を離れた実在とは異なるものであるとされているようである。先ほど、リッケルトの認識論は単なる観念操作という面があると批判したが、認識の対象が「不許不」であるという指摘によって言い表そうとしている核心部分には、実際に作動している認識の作用の中で実感されるものに(完全にとか十分にはとは言わないが)触れているところはあるように思われる。





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クリスタ・クリューガー 『マックス・ウェーバーと妻マリアンネ 結婚生活の光と影』(その2)

 春に一緒に旅行することを、マックスとマリアンネはもうしなくなった。マックスは毎年決まったように五月には一人で南に出かけていった。一方マリアンネの方は後に残って、結婚や婚姻法についての講演や論文などの仕事に縛られていた。その間、彼女の仕事をサポートできず、いかに彼女から離れていたかに、マックスは明らかに、たまたま気がついて驚くだけである。(p.207)


言われてみれば確かに第一次大戦が始まるまで毎年春に南に旅行している。ウェーバーの旅行については、あまり定例的な行事として捉えていなかったことに気付かされた。



マックス・ウェーバーの南の国々への偏愛は、その根を、ギムナジウム時代の人文主義的学校教育に持っている。古典古代を愛した者は、その舞台や遺跡をイタリアやギリシャに探し求めたのだ。ギリシャへの旅をウェーバーも計画したのだが、実行することはなかった。(p.211)


確かにウェーバーは少年期から古典古代に関する論文を書いていたこともあった。また、イタリアには何度も行っているがギリシャには行かなかったというのも、ローマ帝国などに関する論文は書いているがギリシャについての言及は相対的に少ないことと対応していると思われる。



もちろん、『トリスタン』を「愛の有限性の象徴と悲劇」と考えるミーナのおかげで、ウェーバー夫妻もワーグナー・オペラを聴く耳を持てるようになったのだった。(p.220)


正直、ミーナ・トープラ―という女性についてはノーマークだった。音楽社会学などとの関係でも一応注意を払ってよい人物かもしれない。



 この旅は、ウェーバーの最後の南欧紀行となった。数ヶ月後には、第一次世界大戦が勃発し、そしてもう、休養の旅、いくつかのエロス的夢や憧れなどは、その意味を失ってしまった。アスコナのアナーキスト、社会主義者、とりわけ平和主義者たちのユートピアが一瞬ギラギラした脚光を浴びたように見えた。しかしそういう政治的現実理解を欠くロマン主義的な世界改善や社会主義的革命および政治的な心情倫理へ向けられたウェーバーの警告は、先見の明のあることがやがて実証されることになる。(p.221)


第一次大戦はウェーバーの言動(勿論ウェーバーだけではないが)に様々なレベルで大きな影響を与えた。それがどのようなものだったのか見極めるのも興味深い作業かもしれない。



 迫りくる戦争勃発の脅威は、久しい前から叫ばれていた。だから今か今かと待つ緊張状態が終わることは、多くの人たちを、とりあえずホッとさせるものだった。80年以上の時を隔てた今、二度の世界大戦の後では、当時ドイツで――いや戦争に参加したすべての国々で――動員令が、いかにあまねく歓呼をもって迎えられたかは理解しがたいことだろう。圧倒的な共同体体験のなかで、これまで拡がっていた各種各様の利害関係や思想傾向間の対立が、いかに薄れていったことか。(p.222)


戦争が始まる前と始まった直後の社会の気分というものは、もっとよく知られてよい話である。



マリアンネ・ウェーバーの示唆するところでは、マックスが1916年に取りかかった古代ユダヤ教についての宗教社会学的な研究成果には、「多くの点で彼自身の運命」が映し出されている。例えば預言者たち、とりわけエレミアを始めとする災いを告げる預言者たちは、故郷の地が大国の脅威にさらされ、ユダヤ民族の故国が存亡の危機に立たされるような時には、いつもきまって出現するのだった。マックス・ウェーバーは、燃えるような情熱にもかかわらず、預言者たちが持つ「完全な内的自立性」と「即物性」について強調している。「それは……一個人のものではない。ヤーヴェのなす業、すべての荒々しい激情をも厳然と支配する情熱的な神の成し給う業」なのだ。
 たんに政治的な災禍という外的条件だけではなく、それ以上に前捕囚期の預言者たちの内的な状況が、ウェーバー自身の経験への或る対応物を提供している。「典型的な預言者は、一見したところ、不断の緊張状態にあり、鬱屈した物想いに沈んでいるように見える。そういう人間には、日常の取るに足らないことでも何か意味ありげに見えるので、心配の種の謎となりうるのである」(p.237)


ウェーバーの宗教社会学と政治論が並行しているのは、ウェーバーのカリスマ的指導者への共感や期待といったものが反映しているからであるように思われる。



他方、エロスの側からすれば、真の「情熱」は純粋にそれだけで美の典型であり、それを拒否することは冒涜を意味する。


 この最後の文章は、マックス・ウェーバーがエルゼ・ヤッフェから学んだことの受け売りである。エロス的愛はいかなる価値を持ちうるのかという彼の問いにエルゼは一言で答えていた。曰く、美、と。――恐らく、だからこそ「中間考察」の章は、それ以外には証明しがたいウェーバーのエルゼに対する充たされたエロス的関係を証しするものとして、繰り返しウェーバーの伝記的研究のなかで持ち出されてきたのだろう。(p.242-243)


エルゼとの関係が最も思想に反映している箇所。



どんな政治指導者でも、高度の資質を持った専門職のスタッフなしには政治は行えないし、権威と実行力を維持しようと思えば、政党官僚制の複雑な機械装置をうまく使いこなしコントロールできねばならない。(p.254)


官僚制を敵視する政治は必ず失敗する。この冷厳な事実を政治に携わる者ないし主権者たる者は理解しなければならない。このことを理解しない限り、現代日本の政治はいつまでたっても現実に存在する問題に適切に対処することはできないだろう。



 1933年以後はウェーバー・サークルも縮小され、学生たちは例外的な場合以外は所属することも稀になった。……(中略)……。それでも70人ぐらいの人たちが、このサークルに忠実であり続けた。……(中略)……。〔ナチスによる〕「国家公務員再生法」に基づいて大学の教職を追われた人々――マリアンネはそれを「繰り上げ定年退職者」と呼んでいるが――にとっては、それがまだ聴衆を前にして話のできる唯一の機会だったのだ。日曜茶話会は、自由な思考の、限られた庇護空間であって、抵抗の拠点ではない。1945年以降には、このサークルのメンバーたちはもう一度陽の当たる場に出ることになった。追放されていたリベラルな教養市民であり、政治的に悪い前歴のない彼らは、占領軍政府の信頼を得て、大学の再建に助言者として参加することになった。彼らはナチスの深淵を超えて、リベラルで「精神的な」ハイデルベルクの偉大な伝統に、もう一度橋渡しをしたのだ。彼らはハイデルベルク大学の学生たちの戦後第一世代の選り抜きの代表者たちを育成し、文字通り高齢の極みまで、少なくとも個々の学生たちとの出会いを大事にした。(p.272-273)


「自由な思考の庇護空間」は重要である。言論の自由が保証された社会とは、社会全体がこのような庇護空間である(べきだ)という事を意味する。

言論の自由のない社会(最近の日本の政治の保守化の進展をみると、次第にこうした社会に向かいつつあるように思われるが)では、私的なサークルであっても、こうした活動の存在には意義がある。直接に抵抗を意図するものである必要はないし、むしろそうではないからこそ存続できたという面があるのではないか、この点にも注目したい。




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クリスタ・クリューガー 『マックス・ウェーバーと妻マリアンネ 結婚生活の光と影』(その1)

世紀転換期までは、人文主義的なギムナジウムで行なわれる大学入学資格試験(アビトゥーア)が大学入学のための避けることのできない前提であった。その後やっと、実科ギムナジウムや古典語を必修としない実科高等学校の終了資格が大学入学の許可書として受理された。ギムナジウムの生徒たちは、教養市民あるいはかなり高位の官吏の階層のなかから、ほとんど他の階層を排除する形で入学してきた。授業の重点は古典古代の言語と作品と歴史であり、自然科学はほとんどなかった。これはすべての「唯物論的なもの」を軽蔑し低く評価するという一種の思い上がった精神にもとづいて、さらにドイツ人こそ伝来の文化価値のすべての擁護者であるとするナショナリズムによるものであった。このような市民層のものとしてのギムナジウムには、1848年の革命の失敗の後にもたらされた市民階層の諦念が刻み込まれている。(p.64)


19世紀後半のドイツの高等教育をめぐる状況として押さえておきたい。



 もっとも、1897年、結婚して四年目に、彼らに過去が再び追いついたように見えた。当時ハイデルベルクに住んでいたマックスとマリアンネは、ヘレーネ・ウェーバーに訪ねてきてくれるように招待した。しかし、ヘレーネはマックスたちが計画したように、一人では来ないで、父親のマックス・ウェーバーが彼らの意向に逆らってついてきたのである。家族には隠していた重い病気のために、彼は不安になり、興奮し、そのために妻なしに過ごすことができなかった。このような背景を知らなかった息子は、ヘレーネの意向を無視する父親の専制主義に対して激しく怒った。彼はついにあからさまに母親の味方をし、もしも父親がヘレーネに毎年数週間、一人でハイデルベルクへ彼女の子供たちの所に旅行することを許さないなら、父親とのあらゆる関係を断ち切ると脅かした。父のマックス・ウェーバーはそれを聞いて憤慨し、いたく感情を傷つけられ、息子の家を立ち去った。(p.71-72) 


ウェーバーの精神疾患の開始の契機になったと考えられている、父親との喧嘩について、比較的詳しく内容が書かれている。父も病気のためヘレーネなしには過ごすことができない状態だったということは、本書で初めて知った。



 1894年、マックス・ウェーバーが初めて招聘を受けて、フライブルク大学での国民経済学の講座を引き受けた際に、新婚早々の二人は転地してベルリンの両親と別居できることを、心も軽く期待に充ちて待ち受けている。ジークムンズホーフの自分たちの住居は、シャルロッテンブルクの両親の家からあまり離れてはいなかった。いわば、親の家の「蔭に立って」いた。ほとんど毎日のように、家族の使いの者がやって来て、若い所帯がきちんとやっているかを確かめたのである。今やとうとう、若いカップルは彼らの生活を自分たちの望みどおりに形づくることができるように思えた。
 マックス・ウェーバーにとって、リベラルなバーデンへの転地は格別に解放的に感じられた。それというのも、この転地によって、<啓蒙独裁者>アルトホフの干渉から逃れることができたからである。(p.80)


私は以前、ウェーバーの年譜を作成しながら、住所なども比較的細かいところまでチェックしたことがある。それを補完する情報が掲載されているのでメモしておく。



 グロックナーの『ハイデルベルクの絵本』は、20世紀の20年代の有名なハイデルベルクの知的生活がほとんど輝きを失った側面を、あれこれ文学的に手を加えて強調したという印象を与える。もしもウェーバーのこれらの逸話がウェーバーの発病の後、遠からぬ時期に書かれたのであるならば、それらはウェーバーの精神と身体能力を予感させるものとして読み取ることもできるかもしれない。
 若いウェーバー夫妻の自称するところでは、彼らは旧市街の単純朴訥な隣人をからかうために、夜分に酔っぱらった教授とその気の毒な妻の芝居を演じた。マックスは鞭で革の枕をびしびしと打って、マリアンネはそれに対して大声で悲鳴を上げたというのである。マックス・ウェーバーの白昼夢の物語になると、疑いはもっと濃いものになる。つまり、酒を飲み明かした夜の後では、時々奇妙な強迫観念に悩まされると言い張った、というのである。そんな時、彼は自分が大きな象、ジャンボーであると思い込む――それは夢のように美しい強迫観念であり、そうした際には、彼は動物園に住み、しかも一匹ではなくて、そこには「たくさんの女たちがいるんだ!もしもそんなに大きい鼻をもてたら、どんなに素晴らしいかと君たちは思わないのか!」(p.89-90)


『ハイデルベルクの絵本』なる本にはどんなことが書いてあるのだろう?ちょっと読んでみたくなったが、ざっと検索した限りでは邦訳はなさそうだ。



 1897年に彼はハイデルベルク大学からの招聘を受けて、母方の実家の住所に戻るが、この都市で彼は子供の頃にしばしば休暇を過ごしたし、学生としても二、三学期をここで学んだのだった。ハイデルベルクはリベラルな大学のうちでも最も有名であり、そこに招かれることは大きな名誉であった。(p.91)


こちらも年譜の補足資料としてメモ。



ヴォルフガング・モムゼンによって最近発見されたウェーバーの「性関係と結婚との発展と結婚における女性」と題した覚書きは、マックスが妻のために『原始的な性的結合と合法的な結婚』についての彼女の本の最初の章の構成の見取り図を書いたものと推測される。(p.123)


本書を読むまで知らなかった文書が取り上げられていたのでメモしておく。



ウェーバーは、1907年に新たに神経失調に脅かされているのを自覚して、七月の初めにハイデルベルクの神経医に助言を求めたが、その医師に彼は六月中に「病気の病理学的査定、発生、経過についての報告書」を書いていた(この報告書はウェーバーの遺品のなかにあったが、おそらくは医師に結局は渡さなかったのかもしれない。マリアンネはそれをヤスパースに提供したが、後に1933年に返してもらった。これらの記録文書がヤスパースの家宅捜査の際にナチスの手に落ちて、マックス・ウェーバーの死後の中傷に悪用されることを怖れたからである。その後、マリアンネ・ウェーバーはこの病気報告書を破棄してしまったが、それは彼女もまた安全な保管場所がどこにもないと信じたからであった)。(p.144)


この報告書のことも、いろいろな伝記的著述で言及はあるがあまりよくわからなかったもののひとつである。本書は他の文献よりは経過が分かるように書いてくれているのでメモしておく。



マックスは彼女に助言して、彼女抜きでヤッフェ夫妻と一緒にさらにヴェネチアに行く。ヴェネチアでは、マックスはエルゼと二人きりになろうとすれば、彼の習慣に全く反して、グリニャノでのように朝早く起きねばならない。そうすれば、彼女が彼女の夫と朝食で落ち合う前に、二人でゴンドラに乗れる短い時間がとれるのである。眠れぬ夜の後で十月の朝の七時前にカナール・グランデ[大運河]をゴンドラで行く者は、熱い感情ではなしにむしろ冷気と歯がガタガタ震えるのと戦わねばならない。このことだけからも、マックスとエルゼが1909年10月にヴェネチアで恋仲になったと推測する数人のウェーバー研究者たちの仮定に有利な証拠はほとんどない。(p.165)


エルゼとの関係については、古いウェーバー研究書ではほとんど触れられることがなかったこともあり、私もまだあまり深く理解ができていない分野だと感じている。本書はこのあたりについても他の文献よりは細かく記載されているので参考になる。



 ザリーンはウェーバーを、英雄的な孤立した一人の戦士として描いている。彼は容赦なく自分をすりへらし、学問のために自分の生命をも犠牲に捧げる。こういう肖像は誇張かもしれないが、ヴィルヘルム二世治下のドイツに広まっていた大学者を英雄視する風潮に見合ったものだ。……(中略)……。
 フリッツ・スターンは、しかし、ルドルフ・フィルヒョー、ローベルト・コッホ、パウル・エールリッヒのような偉大な自然科学者たちへの賛辞が、もう一つ別の特徴を持つことを強調している。それはすなわち「戦士」というメタファーである。闘争心、自分の生命をものともしない英雄的投入、たとえば、生命を脅かす優勢な流行病や悪疫との一騎打ちに打って出て、公共の福祉を守ろうとする勇気、そういう言い方があからさまに強調される。学問上の諸発見は部隊長の輝かしい戦果に当たるわけだ。学問的な独創性を記述するのに、軍事的メタファーを偏愛するこういう態度は、さまざまな帰納推理の余地を許す。それはヴィルヘルムのドイツ帝国における一般的な戦争気分を反映するものとも言えよう。また学問上の成果が国の勝利として記帳され、学問的功名心が国家間の権力闘争への貢献として取り込まれる状況を示すものとも言えよう。しかしそれはまた、この国における学問運営の構造と、それについての批判点とを示す状況証拠でもありうる。英雄的な先駆者やパイオニアは、定説や学派専門分野などの束縛から独立していなければならない。――そして学問的な新天地を開拓するためには、日々のアカデミックな義務の重荷から、解放されていなければならない。自由な空間という余地が必要なのだ。権威主義的に組織されたアカデミックな大学の体制は、しかしこういう自由な空間を、めったに彼らに与えはしないだろう。そういう理由からも、独創的な学者の孤立と単独行が強調されるのである。(p.195-198)


世紀転換期頃のドイツにおける学者を英雄視する風潮とその社会背景には興味を惹かれる。現在の日本では学者にはあまり権威がないが、政治家を英雄視しようとしており、英雄を求めようとする風潮と「戦争気分」との親和性の高さが気になるところではある。



1909年に、新設されたハイデルベルク科学アカデミーの会員に補選されそうになった時、とりあえず彼は断わる。(p.198)


年譜を補完する資料。



 この「ドイツ社会学会」の創立にあたって、ウェーバーは決定的な役割を果たしていたのだが、これは大学の外部に価値から自由な社会学の組織を作って、それを活用しようという、規模雄大なプロジェクトを実現しようとする彼の戦略の別の例だった。まずそのための方法論的基礎を固めた後で、彼は『社会科学および社会政策雑誌(アルヒーフ)』の共同編集責任者として、<自分自身のための>発表機関を開設し、さらに『社会経済学綱要』シリーズの計画と組織化をはかる。(p.199)


このあたりも意外と細かいことはわからないところかもしれない。学問的な業績だけでなく、その背後での活動の状況にまで目配りしながら一人の人間の活動として捉えてみる視点も必要と思われる。




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