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マックス・ヴェーバー 『少年期ヴェーバー 古代・中世史論』
「ドイツ史の一般経過」より

ちなみに目を見張るのは、スペイン、イタリアのような、ドイツと並んで最も強大で、宗教改革に敵対的な姿勢をとったヨーロッパの諸国が、いかに没落していったかということである!唯一フランスだけが、状況が非常に恵まれていたために、辛うじて勢力を維持できたに過ぎなかった。ちなみに1870/71年には、フランス人ももはやルイ14世時代のフランス民族ではなく、ドイツ人ももはや1806年段階のそれではないということが証明されている。というのも、統一がドイツ人に力を与えたからである。これに対し我々は、宗教改革を助成した国々が、全て勃興していったのを目にする。つまりイギリス、オランダ、プロイセン、一時のスウェーデンやデンマークがそれである。(p.35)


後年の「倫理」論文の前半でも、このような宗派と経済状況との相違について着目して議論が運ばれる。少年期からこうした問題関心を持っていたということか?



解説より

 第一の連続性は、個人の主体性への飽くなき欲求である。毅然たる主体性への限りない憧憬は、ヴェーバーの知性主義的政治観の中核的要素である。しかもその敬意の対象は、必ずしもヴェーバーが属している自由主義、ナショナリズム、プロテスタンティズムの陣営内部に限定されるのではない。プロイセン・ユンカーを批判しながらビスマルクに憧憬し、平和主義を否定しながらフェルスターに敬意を払い、カトリシズムを警戒しながら傑出した中央党政治家は評価するという具合に、ヴェーバーは対立する陣営、異なる意見のものでも、その知的態度のみを形式的に捉えて評価するということがしばしばあったのである。(p.161-162)


知性主義的政治観というのは、例えば、責任倫理が目的と手段と結果との関係を冷静に判断することを前提としていることを考えると、なかなか的確な表現であるように思われる。

後半で述べられている異なる意見のものに対する評価のあり方は、まさにリベラリズム的な形式主義的思考と結びついている点で興味を惹かれる。



 第二の連続性は、ドイツ・ナショナリズムという精神的支柱の存在である。政治人ヴェーバーにとって、祖国ドイツの維持、発展は生涯の課題であった。1892年にポーランド人労働者の流入を危惧したヴェーバーが、同じ論理を1919年にも繰り返していることは知られており、またドイツ帝国期には小ドイツ主義的・君主制的ドイツを支持していたヴェーバーが、ヴァイマール共和国期には大ドイツ主義的・共和制的ドイツを支持するに至ったことも重要である。こうしたヴェーバーのドイツ・ナショナリズムは、すでにこの少年期論集にも現れている。(p.162-163)


ウェーバーの政治意識の変遷というのは、私の場合、あまり彼の政治論には深入りしてこなかったため、十分把握できていないところの一つだと思う。



若いヴェーバーが自由主義陣営の凋落を痛感し、彼の政治分析に憂鬱な雰囲気が漂い始めるのは、1884年の帝国議会議員選挙で父マックスが落選したころからであるように思われるのである。(p.165)


興味深い指摘。生活上の出来事と思想との関係は、ウェーバーの場合、マリアンネの伝記はやや彼女の解釈が強く入っているためか、突き止めにくくなっていたのではないかと感じている。訳者・今野元氏の書いたウェーバー伝は近々読む予定だが、楽しみである。




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マックス・ウェーバー 『国民国家と経済政策』

この調査から、自治体の住民の民族別を直接には知ることはできませんが、近似値的な確かさで満足するのなら、間接的にそれを推しはかることができます。間接的にというのは、宗派という媒介項によってということであって、われわれがいま考察を加えている両民族の混在地帯においては、宗派別が民族別と一致しているのです。(p.11)


データを分析する際に宗派を利用して社会層を抽出するというやり方は「倫理」論文を含む「世界宗教の経済倫理」などでも用いられている手法に通じるものであると思われる。



経済政策や社会政策の領域で現在おこなわれるすべての努力を考えてみると、そこから生まれる成果のうちで、そのほとんど全部といってよいほどのものは、いま生きている人間の手には入らないで、未来の世代のために役立つものなのです。われわれの事業に意味を失わせたくないのなら、その事業を未来のため、すなわちわれわれの子孫のための配慮としておこなうほかありません。(p.30-31)


最近(2012年末)の政権交代で自民党(安倍政権)がやっている政策は、この点に逆行するものであろう。目先の利益と見かけ上の景気の上昇(株価と円安)のために、将来に禍根を残すものと思われるからである。(ほとんどの評論家やメディアの解説等は、見かけ上の上昇であってもないよりは好ましいものと考え、それを崩さないようにと配慮しながら意見を述べているが、もっと真っ向から批判する人々が現れる必要がある。それこそメディアの責任であり有権者の責任ではないかと思う。



 これまで経済学においては、財貨の生産にかかわる技術的な問題と、財貨の分配すなわち「社会的正義」の問題とが、価値基準として、かわるがわる前面に押しだされてきました。また、この二つの問題を同じものだと考えるような、素朴な見方もありました。しかしながら、この二つの問題を越えて、つぎのような認識が、しかとは自覚されぬながらも、すべてのものを支配する力をもって、いく度も立ちあらわれました。それはなにかというと、人間に関する科学――経済学がそれです――がなによりもまず問題とするのは経済的・社会的な生活条件によって育てあげられる人間の質、という認識であります。この点で、われわれはある種の幻想に陥らぬように注意しなければなりません。
 経済学は説明し分析する科学としては国際的なものです。しかし、ひとたび価値判断をおこなうとなると、経済学は、われわれが自分自身のうちに見出すような人間性の刻印に、しかと結びつけられているのです。(p.31-32)


この点は、ウェーバーとは違った角度からマイケル・サンデルなどが取り上げている問題でもある。ウェーバーは、「国際的」と「価値判断」を対置していることからも見て取れるように、ナショナルな価値判断、すなわち彼の言う「国策」(ドイツ国民と国民国家との権力的価値関心)に基づいて経済学は価値判断を下すべきという様なスタンスであり、現代のわれわれからするとやや違和感のある主張となっている。ただ、生産力ないし生産性を高めることという課題と財の分配という課題に終始しがちであった経済学(社会科学)が、それとは異なる「人間の質」に関わる問題にコミットし、それを避けるべきではないという点では両者の主張には共通の要素を認めることができる。もっとも、「人間の質」なるものを「定まった国民性」などというような形而上学的な観念として捉えるのではなく、われわれの「善き生」(質の高い生)といった質を考慮していこうとする志向という点においてであるが。



たしかに地上の理想というものは、たとえわれわれにとって至高究極の理想であっても、有為無常のさだめを免れることはできません。しかし、未来のひとびとが、われわれの特質をみて、これこそ自分たちの祖先の特質だと認めるようになること、これは、われわれが望んで叶うことであります。われわれはわれわれの仕事と特質とによって、未来の世代の祖になりたいものです。(p.32)


ここはこの講演の中でも比較的有名なフレーズであろう。

多元的な価値とその歴史的相対性を認める相対主義的姿勢は後に言う「神々の闘争」と共通の見方である。この未来への志向は忘れずにいたい。



われわれがよく知っているとおり、われわれの世代の関心は、まさしく経済学を動かすような諸問題に向かって、思いがけぬほどに昂まってきています。あらゆる分野において、経済学的な考察方法が進出しています。(p.36)


経済学的考察方法があらゆる分野に進出しているというのは、まさにマイケル・サンデルが『それをお金で買いますか 市場主義の限界』によって問題としている状況である。19世紀末のグローバル化の時代と20世紀末以降の再グローバル化の時代とに共通する点として興味深い。



経済的な、あるいは「社会政策的な」理想というものが、なにか自立的なものとして存在するという考えは、まさしく誤りでありますが、それが見誤りだということは、経済学関係の文献を手にとって、評価の「独自の」基礎なるものを見つけだそうとすれば、もちろんすぐにハッキリすることです。それらの文献をみると、われわれが出会うのは、さまざまな価値基準が混沌としている状態であって、そこには、幸福主義的な性質の価値基準もあれば、倫理逓な性質の価値基準もあり、しかも、しばしばその二つが、ハッキリしないままに同じものとみなされている、といったありさまです。価値判断は、いたるところで、天真らんまんな仕方でおこなわれています。――経済的な諸現象の価値判断を断念するとすれば、それは実際、われわれに期待されている仕事そのものを放棄することになることは、申すまでもありません。しかしながら、現状においては、判断を下す当人が、自分の判断の究極にある主観的な核心を、すなわち、自分の観察した過程に対して一定の判断を下す源泉であるところの理想を、他人にも自分にもハッキリさせることが、普通にはおこなわれていないのでありまして、ほとんど例外だといってよいぐらいなのです。こんなふうであるのは、意識的な自己統御が欠けていて、判断のうちにふくまれた矛盾が、著者の意識にのぼっていないからなのです。(p.37-38)


後のwertfreiheitに通じる主張がすでにこの講演で行われている。この講演で物議を醸した国家主義に基づく権力的政治観の表明は、まさにこの方法の実践として行われていることが読み直してみてよく理解できた。いわゆる後期の仕事が始まる前に、ウェーバーがこれまでの歴史学派の仕事を検討していく中で、それへの批判として価値基準の明確化の必要性がウェーバーに自覚されていたということが見てとれた点は収穫であった。



もし、経済のイロハがわかっていたとしたら、ドイツの国旗があちこちの海岸にひるがえることが、ドイツの遠洋通商にとってどのくらい大きな意味をもつかを、かれらは理解したはずであります。
 ……(中略)……。しからば、一体どうして、イギリスやフランスのプロレタリアートの一部は、ドイツのプロレタリアートとはちがった性格をもつようになったのでしょうか。その理由を考えてみると、イギリス労働者階級の組織的な経済闘争が、かれら自身に対して、いちはやく経済的教育を施し終えた、ということだけではありません。主な理由は、やはり政治的な契機です。すなわち、世界的国家という地位の反響がそれであって、世界的国家という地位のために、国家はたえず偉大な権力政策的課題に直面させられ、ひとりひとりの国民が、日ごろから政治的訓練を受けるわけです。ところが、ドイツでは、ひとりひとりの国民が、政治的訓練を受けるなどということは、国境が脅かされたときに突如として起こる現象にすぎません。――われわれの発展の成否もまた、果たしてなんらかの偉大な政策があらわれて、偉大な政治的権力問題の意義を、いま一度、われわれの眼に焼きつけることができるかどうか、という点にかかっています。もしも、ドイツの統一が、ドイツの世界的権力政策の終りであって出発点ではないとするならば、ドイツの統一は、国民が過去の日に犯した若気のあやまちであり、そのために払った犠牲の大きさを考えると、むしろ、なくもがなの仕業であったこと、われわれはこのことをハッキリと知らなければなりません。(p.49-52)


「ドイツの国旗があちこちの海岸にひるがえる」ことを是とし、ドイツの統一は世界的権力政策の出発点であるべきだという判断は、まさに帝国主義・植民地主義の考え方であり、ウェーバーもまたそうした考え方に共感を持っていたことが明らかである。この点については私はウェーバーの考え方には与したくないと考えている。ドイツの統一ということの意義も、対外的な進出という意味だけではなく、諸外国からの干渉の排除、独立性(外部の政権に政治的支配されないこと)の担保という点で有意義であったという評価も可能であり、それは軽視すべきではないとも考える。

ただ、国民の政治的な教育が重要だとする見解には、賛同できる点もある。そして、良くも悪くも植民地を持ったり、対外的な紛争などと関係が深ければ深いほど、そうしたニュースに接することも多く、国際政治的な問題に対する関心も高まりやすいというプロセスは概ね妥当なものがある(報道がある程度の客観性や独立性を持っていれば)。日本の場合、植民地を持ったり他国を侵略した経験があるが、それが50年ほど冷戦という状況下で冷凍保存され、時間が経過してから問題が発生しているため、逆に問題が見えにくくなっているところがあり、こうした問題を客観的に評価するための訓練が求められると思う。



以下、訳者の解説より。

ウェーバーが本書において、政策的提言の背後にある主体の価値基準を明確にせよ、という主張を中心にして「倫理的経済学」の基本的理念に批判を加えていること、そしてそれが本書の一つの中心命題をなしている点に注目するならば、本書は『方法論論集』の冒頭に置かれてよいであろう。この面においては、本書は没価値性理論の出立点であり、『ロッシャーとクニース』にはじまる方法論的論考の礎石をなすといえよう。そして、ウェーバーの没価値性理論が強烈な主体的価値判断の要請と表裏をなしていること、『政治論集』と『方法論論集』との始点が、この同じ『就任講演』であることこそは、まことに意味深いと言わねばならない。さらに、また別の視覚からみると、本書は『東エルベ・ドイツの農業労働者の状態』(1892年)およびそれにつづく一連の農業関係論稿の最後に配することができる。なぜなら、本書の前半部が農業関係論稿を足場として書かれているだけでなく、農業関係論稿のなかには本書に述べられている政策的提言やドイツの状況に対する見解の萌芽とみられる叙述があり、ときには、本書におけるのと同じ語句・表現が見出されるからである。『就任講演』は、その成立過程からみると、農業関係論稿の発展としてとらえられ、『東エルベ農業労働者の状態における発展傾向』(1894年)のつぎに置かれることとなる。このように、本書がウェーバーの諸労作のさまざまの系列にふかいつながりをもち、そのいずれにもっとも重点をおくべきかに迷わされるのは、本書が多面的なウェーバーの労作のなかにあってひとつの結節点をなしているからである。(p.77-78)


同意見である。農業関係の論稿は邦訳も少なく、注目される度合いも低いので、今回の読み直しにあたってはあまりこの点には深く注意を止めなかったが、最初に読んだ時にはこの点に注意が向かっていたのを思い出した。今回はwertfreiheit(「没価値性理論」)との関連が特に目につき、その「強烈な主体的価値判断」の内容に注目して読み直してみた。



ただし、『ローマ農業史』は、ローマ帝政期における大農場経営の労働組織の変化(=発展傾向)の究明を一つの主要論点としており、『東エルベ・ドイツの農業労働者の状態』における研究視覚を準備することになったと考えられる。(p.79)


『ローマ農業史』は読んだことがないのだが、同一の著者の諸著作の問題意識の遷移などを追いながら読むというのは楽しい作業である。こうして一人の思想家の思想像を形成していくことが若いころには有益であると思われる。そのようにして身につけた考え方を――批判的に摂取したものを――足掛かりとして様々な分野に足を延ばすことができるだろう。私にとっては、ウェーバーこそ、そうした思想家であった。


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マックス・ウェーバー 『職業としての政治 職業としての学問』
日経BPクラシックス版(中山元 訳)の版で読み直してみたのでメモしておく。

政党の支持者たち、とくに政党の職員と「実業家」たちが、自分の支持する指導者が選ばれることで、役職や役得などの個人的な利益を求めようとするのは明らかなことです。ここで決定的に重要なのは、こうした人々が自分の個人的な利益を要求する相手は政党の指導者であって、個々の議員ではない(あるいは少なくとも個々の議員だけではない)ということです。とくに求められるのは、指導者の個性が、民衆政治家(デマゴーグ)的力量を発揮して、党の選挙闘争において票と議席を獲得できることであり、これによって権力を獲得し、支持者たちが望んだ金銭的な代償を獲得できる機会が大きくなることです。(p.80-81)


現代日本でもこうした状況に変わりはない。00年代以降、この傾向は非常に強まっている。

個々の政治家が支持されているのではなく、指導者が支持されているという点に関連して、思い出されることを述べると、日本維新の会のように、リバタリアン的な(新自由主義的な)橋下徹を中心とする大阪維新の会系列の勢力と、国家主義的な観念的極右の石原慎太郎により率いられる旧太陽の党系列の勢力が、政策や考え方が一致していない部分も多々あるにもかかわらず合併し、その結果として政策については何をしはじめるかわからないような政党ができあがっているにもかかわらず、無党派的な層に支持されているのも、橋下徹と石原慎太郎という指導者に対して大衆が持っている「イメージ」が大きな要因となっている。すなわち、彼らがカリスマ的なリーダーだと見なされているからである。こうした勢力と極右的な国家主義的政党となっている自民党が勢力を伸ばしていくと、数年後には後悔する人が増えることになるだろう。

もっとも、その頃には自分たちが自民党や日本維新の会に投票して権力を与えてしまったという後悔をすべきところを、そうした自己批判はせずに自民党や橋下徹または、彼らに敵対したとされる勢力が悪いと責任転嫁するだけのことだろうが。そろそろこの図式からは卒業して欲しいと思う。




国民投票的な指導者が政党を率いるようになると、その支持者たちは「魂を抜かれて」しまって、いわば精神的にプロレタリア化してしまうということです。……(中略)……。これは指導者に率いられた政党の<代価>なのです。
 結局のところ、道は二つしか残されていません。「マシン」を使った指導者のもとでの民主主義か、それとも指導者のいない民主主義かのどちらかなのです。第二の[指導者のいない民主主義の]道は、召命をうけていない「職業的な政治家」、指導者になるためには不可欠な内的なカリスマのない政治家に支配されることを意味します。この道は党内の反対派からは、「派閥」の支配と呼ばれることが多いものです。(p.109-110)


ポピュリストの言いなりになるだけの政治か、それとも派閥的な政治か、どちらかしかないというのは、多くの人にとって不愉快に思われるかもしれない。しかし、前者はデモクラシーの手続きに従ったことだとは言えるけれども、民主主義的な政治であるとは言えないはずである。もし、できるだけ多くの人の意見をとりいれながら政治が運営されるような民主的な政治が良いと考えるならば、派閥的な支配様式を甘受しなければならないだろう。

また、派閥というと悪いイメージが付着させられているが、社会の様々な利益を吸い上げる政治集団であるのは確かであり、また、国会議員が数百人のオーダーで存在する以上、一つの政党であってもその内部がランダムネットワークのように均等に人間関係が形成されるということなど経験的に言ってありうるはずもなく、人間同士のまとまりが複数できるのは当然なのだから、そうした派閥的な集団ができること自体を否定する発想自体が間違っているということを知らなければならない。



 政治家にとって何よりも重要な資質は三つあります――情熱と責任感と判断力です。情熱というのは、仕事にふさわしい情熱をもって、すなわち自分の「仕事」に、仕事を支配している神やデーモンに、情熱をもって献身できるという意味です。……(中略)……。
 それが、どれほど純粋な情熱であっても、たんなる情熱では十分ではないのは明らかなことです。情熱が「仕事」に役立つものとして、仕事への責任という形で、行動の決定的な指針となるのでなければ、政治家にふさわしいものではないのです。そしてそのためには、判断力が必要なのであって、これは政治家に決定的に必要な心的な特性です。この判断力とは、集中力と冷静さをもって現実をそのままうけいれることのできる能力、事物と人間から距離をおくことのできる能力のことです。
 「距離を失うこと」は、それだけでどの政治家にも致命的な欠陥です。……(中略)……。
 そしてあらゆる意味で、<距離への習熟>なしでは、魂を強靭な力で抑えつけることはできないのです。この力こそが情熱的な政治家の特徴であって、たんに「不毛に興奮した」政治的な素人との違いを作りだすものなのです。(p.114-116)


『職業としての政治』の中でもかなり有名な箇所。

情熱だけがあるような場合、彼は信条倫理的に行為しているのであって、責任倫理においては、判断力によって距離をとった上で客観的に行為の結果を予測し、そうした予測の上に立って得たい結果を成し遂げようとし、その結果に対しても責任を持つという責任倫理的な姿勢がなければならないというのがウェーバーの立場だろう。このように情熱、責任感、判断力の三つの資質は彼の信条倫理と責任倫理との対比を構成する要素として語られている点に注意が必要であり、これら三つの要素の中でも判断力という「距離をとる」能力をウェーバーは強調していることには留意が必要だろう。われわれが有権者として政治家の行為の道徳性や妥当性を判断する際にも、同様の基準で政治家に対して評価を下すことができることを考えれば、こうした基準は政治家以外の人間であっても持っていることが望ましいと思われる。

なお、こうした価値自由的な「距離への習熟」は相応の訓練を経なければ身につかないようなものであり、何もせずに身についているような態度とは異なったものであると言えよう。その点で、やはり一種の達人倫理に近いものであるということも同時に理解しておくことが望ましいと思われる。



 国民は、[敗戦によって自分たちの]利益が損ねれられることはうけいれるものですが、名誉が傷つけられることは、とくに[戦勝国が]権利があるかのようにもったいぶった言葉を語ることは、決してうけいれないものです。戦争が終わった時点で、[戦争の責任という問題は]少なくとも倫理的には葬られるべきであるにもかかわらず、数十年後に[敗戦の時に書かれた]文書が暴かれるごとに、人々の悲嘆と憎悪と憤怒が新たにされるのです。戦争の責任という問題が倫理的に葬られるためには、事実に即した姿勢と騎士道の精神が必要ですし、何よりも品位が必要なのです。それはいわゆる「倫理」によっては不可能なのであって、そこで「倫理」と呼ばれるものは実は双方の品位の欠如を示すにすぎないのです。
 政治家に必要なのは、この[倫理]問題にこだわることではなく、将来と将来への[みずからの]責任について考えることです。倫理問題は、過去における罪という不毛な問題にこだわりますが、これは政治的には解決することのできない性質のものなのです。政治的な罪というものがあるとすれば、それはこのような[過去における罪にこだわる]ことです。そして[過去における罪にこだわるならば]物質的な利害のために全体の問題が歪められるのは避けられないことだということも、見逃されてしまいます。戦勝国は罪を認めることで何らかの利益をみいだそうと希望するからです。卑しさ」があるとすれば、これこそが卑しさです。「自分の正当性を誇示する者」が「倫理」を手段として利用した場合には、このような結果になるものなのです。(p.123-124)


これは1910年代のドイツでの発言だが、確かに、戦争の責任の問題は、政治的に解決することができないとすれば、それにこだわることは政治的な罪であるというのは妥当な面を持っていると思われる。政治的な正義と倫理的な道義とは異なるのだとすれば、戦争責任や戦時中の犯罪があったとした場合、道義的には謝罪することが正しくても政治的には不正なことであるかもしれない

戦争の責任や戦時中の犯罪行為とされることなどは、被害者であると意識している側が良い意味で忘れたり、受け入れたりしない限り、加害者とされる側がどのように誤っても終わることはない。(このことは第二次大戦に関して中国が日本の南京大虐殺などに対してとっている態度と、日本がアメリカの原爆投下に対してとっている態度との違いを考えれは容易に了解できるだろう。)被害者側が加害者側から経済的あるいは軍事的な利益を引き出すために利用されるだけの結果になりかねない。この意味ではウェーバーの主張は概ね正しいように思われる。

犯罪があったという事実すら認めない態度やそれを悪くなかったかのように言う態度は論外だが、そうした事実があったことを双方で認めた上で、それについては事後的に政治の問題として倫理の仮面を被せて要求をしないという姿勢が重要であると思われる。現代日本においては、すでにそうした要求がなされているということに一つの問題があり、それにどう対処するべきかということはなかなか難しい問題を含んでいる。ウェーバーが言うように、政治の問題として過去の道徳的な罪を問うこと自体が政治的な罪であることを明確に示した上で、道義的な問題と政治的な問題とを切り分けて政治的には解決したという形式を条約等でとりながら、基本的には倫理問題は政治的には棚上げして先送りしながら、経済や文化などの面で「互恵関係」を深めていくという消極的な方法が安全な道なのかもしれない。



政治という仕事は、情熱と判断力の両方を使いながら、堅い板に力をこめて、ゆっくりと穴を開けていくような仕事です。世界のうちで不可能と思われることに取り組むことがなければ、いま可能と思われることも実現できないことはたしかですし、歴史が示す経験からも、それは確かなことです。しかしこれをなしうるのは、指導者でなければならないのであり、たんに指導者であるだけではなく、素朴な意味で英雄でなければならないのです。そして指導者でも英雄でもない人は、すべての希望が挫折しても耐えることのできる心の強靭さを、今すぐにそなえなければなりません。それでなければ、今可能であることさえ、実現できないでしょう。
 現実のうちで貢献しようとしているものと比較して、世界がどれほどに愚かで卑俗にみえたとしてもくじけることのない人、どんな事態に陥っても、「それでもわたりはやる」と断言できる人、そのような人だけが政治への「召命(ベルーフ)」[天職]をそなえているのです。(p.159-157)


政治は、情熱と判断力の両方を使いながら、堅い板に力をこめてゆっくりと穴をあけていくような仕事だという点はまさにそのとおりであると思う。それは自分とは意見の異なる人々の集団と討議し、意見や利害を調整するものだからである。

ウェーバーは英雄としての指導者を求めているが、私がこの部分を読んで想起したのは、湯浅誠の『ヒーローを待っていても世界は変わらない』の主張であった。彼も政治は堅い板にゆっくりと穴を穿っていく仕事であるという趣旨のことは言っているが、指導者によって突破するようなものではなく、地道に意見調整をしていくことの重要性を説いている。むしろ、民主主義とはそういうものであって、ウェーバーの言うような類の「強いリーダー」に依存していては、リーダーとその取り巻きの好きなように世の中を変えられてしまうだけになってしまうのではないか。

ちなみに、その際、ウェーバーのような責任をとりただしたところで、権力を握ってしまったリーダーがそうした個人的利害や趣味判断を犠牲にするだけの力を持つことはできまい。ウェーバーの言う「判断力」のような「距離をとる」力を身につけていれば、確かにある程度の歯止めにはなるだろう。しかし、そうした達人倫理的であり、相応の訓練を積んだ者にしか到達できないようなもの(判断力)を持ちながら、かつカリスマをも持ち合わせ、さらに皆にとって最も良い結果をもたらすような政策だけを遂行する、などという細すぎる隘路を歩くことを期待するとすれば、それこそナイーブというものだろう。

だから、ウェーバーが言うような強い意志や情熱を持つ人が政治への天職を持つのだというのはそうかもしれないが、狭い意味の政治家だけでなく、社会運動家や官僚など政治にかかわる様々な分野に政治への召命を受けた人びとが散在する必要があるのではないか。その際の政治家の資質をウェーバーを敷衍して言えば、自らの政治的な理想に対する情熱だけでなく、それについての利害対立を調整することに対しても同じだけの強い情熱を持つ人が望ましいのであり、そのためにも客観的な議論ができるためにも距離をとる能力である判断力が必要なのであり、その上で利害調整の結果決まった多くは中途半端な結論であっても、それに対して責任を放棄しないような人物が求められるのではなかろうか。そして、それは一人の政治家に求められるわけではなく、政治にかかわる多くの人に求められるものではあるが、一人がすべてを備えきっている必要は必ずしもなく、たとえ一人ひとりには欠けたところがあってもそれぞれの主張をする人々が組織的な運動を続けることによって、個人の欠点が可能な限り補われ、全体としてこうした美徳が発揮されるようなシステムが作動しているのが望ましい政治の状態なのではないかと思う。



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カール・レヴィット 『ウェーバーとマルクス』

責任倫理は、目的を貫徹する可能性とその結果との知識に関係づけられており、その知識は手段についての考慮によって媒介されているから、≪相対的≫倫理ではあっても≪絶対的≫倫理では決してない。責任の倫理を選ぶことによって、ひとは同時に合理性を、つまり目的に対する手段の合理性を選んだことになる。(p.52-53)


なるほど。責任倫理と目的合理性とが深くかかわりがあるということはあまり意識したことがなかったかもしれない。確かに、目的合理的な比較考量は責任倫理的な判断の必要条件であろう。しかし、責任倫理に基づいて下された判断が目的合理的行為になるとは必ずしも限らないという点は注意を要するかも知れない。目的に最も適う手段ではないと知りつつも、様々な要因を考慮に入れた結果として次善の策を自らの責任において引き受けるといった選択がありうるからである。



ウェーバーはいかなるときでも自分を全体として示したことはなく、つねに特定領域の成員としてのみ――何かきまった役割において、また何かきまった人間としてのみ――自分を示した……≪論文においては経済的個別科学者として、講壇に立っては大学教授として、演壇にのぼっては政党人として、内輪のグループに入っては宗教的人間として≫。しかしこのように生活領域を分立させること――その理論的表現が≪価値自由(ヴェルトフライハイト)≫である――にこそ、じつはウェーバーそのひとの個性が、その全体特質においてあらわされている。(p.68-69)


平野啓一郎が提唱している「分人」という考え方に近いところがあり興味を惹かれた。ある意味、専門分化が進み、コミュニケーションが様々な分野に及ぶ現代社会においては、統一的なパーソナリティを示しつづけようとすることではなく、それぞれの場に応じて最適な自己表現を模索・構築していくことが求められるように思われる。



こうして個人そのものも――ウェーバーによるとこの個人たることにこそ人間としての本質がかかっているのであるが――近代的専門人という現実の特殊的存在様式を越え、またはその外にある不可分的全体者としての個人を意味するのではない。個別化せる役割の中にそのつど身を投ずるとき、はじめて個人は一個の≪人間≫となる。この役割が何であるか、またその大小如何は問題ではない。(p.70)


『職業としての学問』などで述べられている「日々の仕事に献身せよ」という考え方はこうしたものであり、ウェーバーの思想の中で最も魅力的なものの一つであろう。

ただ、こうした精神貴族主義的とでも言うような平均的な人間には容易に到達できないような負荷をかけることを求める考え方は民主主義とは相性が悪い面がある、ということは理解しておいてよいと思われる。



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鈴木章俊 『ヴェーバー的方法の未来』(その2)

 われわれの推論では、権力政治家ヴェーバーも議会主義者ヴェーバーもともに真面目なものである。したがって、どちらか一方が他方の手段であったという解釈は、公平な解釈とは思えない。「アンビヴァレンス」という解釈は、両者が同時併存しているという事実の指摘を越えるものではなく、両者の相互連関にかんしては何も述べていない。二人のヴェーバーは、同次元において統一的に理解されなければならない。そのためには、ヴェーバーにおける権力政治家という「体質」と議会主義者という「傾向」とをいったん分けることが必要である。そのあと二者を統一する。いいかえれば、ヴェーバー思想を面積(体質)と接線(傾向)において解釈する。体質だけを問題とし、傾向を無視したり(、モムゼン)、傾向だけを問題とし、体質を無視したり(アブラモフスキー)してはならないと、われわれは主張する。
 ヴェーバー政治思想を接線の方向性(傾向)からみれば、病気をさかいにして、彼は明らかに右から左に、汎ドイツ主義から民主主義者に転向している。ヴェーバーは国民自由党の代議士であった父ヴェーバーよりもさらに右からキャリアをはじめ、病気まえには、公然と汎ドイツ主義を語る(『国民国家と経済政策』)。接線の角度は鈍化しているが、病気までは上昇的である。病気以後、彼ははじめて民主主義と真剣にとりくむのであり、かたむきもはじめて下降しはじめ、彼の政治思想はリベラルな傾向をもちはじめる。それはロシア革命論での官権国家批判によって開始され、第二帝制の似而非議会主義批判によって発展してゆく。だが、面積の総和(体質)としてみると、その体質はつねに保守領域にあり、権力政治家であることを放棄してはいない。傾きは、第一次大戦の勃発時には一時的ながら上昇傾向をしめすが(開戦時の発言などを想起せよ)、敗色濃厚になると今度はただちに下降する。そして、1920年に突然の死をむかえるのだが、体質の総和としては、彼はついにリベラル領域に足を踏み入れることはなかった。だが、方向だけは病気以後総じて、また真剣にそこへと定められていたといえよう(図-Ⅲを参照せよ)。
 彼は最後まで、自然的な民主主義者にはなれなかった。しかし、なろうとしていたと推察できる。つまり、ヴェーバー政治論とは、ドイツ帝国の国士として教育された人間が、民主化の道程を歩んできた軌跡であり、民主主義へのヴェーバーの心の旅路である。(p.235-237)


ウェーバーの政治思想を保守-リベラルという枠組のなかでどのように位置づけるかと考えた時、妥当な解釈であると思われる。これを手引きとしてウェーバーの政治思想を読み直してみたいと思う。

私の関心としてはコミュニタリアニズムとの関連も視野に入れながら、改めてウェーバーを位置づけなおしてみたいと考えている。



 正義は、道義とは異なり、強制力をともなう徳目である。それは異論の余地なきものでなければならない。たとえば、それは思想にかんするものであってはならない。それは、財産や生命の保護・保安にかんするものに限定されなければならない。それ以外のものに国家が、特定の正義感から干渉してはならない。正義とは、教導ではない。正義とは、防衛である。(p.238)


アダム・スミスの正義観について述べている箇所。正義とは教導ではなく防衛的なものであるという考え方は、基本的な人権の保障と正義をほぼ重なるものにする。リベラリズムに適合的な考え方であり、不当な要素を排除することには成功していると思う。しかし、コミュニタリアニズム的な観点から見ると、やや狭すぎると評価できるようにも思う。このあたりはまだ展開して考えるだけの蓄積がないため、もう少し考えてみたい。



刑罰の是認や軽重は、ホッブズ以来、公益という観点から基礎づけられる。しかし、スミスはこれを斥ける。なぜなら、公共の利益という論拠を認めることによって、その大義にもとづいて、時の権力が自由に、事物の自然に反した法をつくり出せるようになるからである。法が公益をつくり出せるという法思想は、法の自信過剰に転化し、その行く先は法万能主義、重罰主義であり、重国家主義である。(p.239)


ここもアダム・スミスの法思想に関する論述であるが、スミスが批判する公益によって刑罰の是認や軽重を決めるという発想や、その発想の延長にある法万能主義などは、現代日本で見てみると、自民党や日本維新の会などの極右政党の法律観とほぼ重なる。彼らが「憲法改正」を掲げている点も、法万能主義という偏った考え方が背景にある、これらは繋がり合っているという点は本書の指摘とも重なるところがあるだろう。彼



 スミスはこうして、法を、したがって統治の根拠を、万人の同館に基礎づけた。彼は絶対的正義や統治の効用理論の陥穽にはまることをまぬがれ、民主主義を自由主義に基礎づけえたのである。ヴェーバーに完全に欠如していたものは、この社会的同感の論理である。したがって、彼は民主主義を効用に基礎づけ、それを体現するものとしての指導者を必要とすることになり、その民主主義は指導者民主主義とならざるをえなかった。
 ……(中略)……。
 スミスとヴェーバーの政治思想を対比してわれわれが得た結論は、両者がともに自由主義および民主主義を追求したにもかかわらず、ヴェーバーはその人間観、方法観にもとづいて、それを極限形態で実現しようと試みたのにたいし、スミスはその人間観、方法観にもとづいて、それを、公平な社会的同感点において求心的に実現しようと試みたということである。この原因の一つは、両者の概念観のちがいにあった。ヴェーバーは自由主義を「理念型」として追求した。それは純粋であり、矛盾のないよう組み立てられてはいたが、どこにも存在しない「ユートピア」であった。また、彼の民主主義論はたしかに首尾一貫していたが、その特異な人間観ゆえ、人びとの自然的同感、支持から基礎づけうるものとは、はるかにかけ離れたものとなった。それは、ドイツの新興エリート層が強国ドイツを実現するための道具であった。それは、エリートが運営する指導者民主主義であった。いったん投票した指導者に、ホッブズが主張するように、運命まで預けることが、果たして民主主義といえるだろうか。指導者は国民意識の、その時点における納得点の代行人であり、雇われの身ではないのか。ヴェーバー政治思想によれば、そうではなかった。指導者とは、大衆に抗して自国の存在性を死守すべき責任あるカリスマであった。こうして、ヴェーバーの民主主義論は、その完成度の高さにもかかわらず、ドイツの拡大主義を阻止する政治思想とはなりえなかった。
 スミスの自由主義は、どこにも存在しないユートピアではなかった。それは、人間という種のなかに基盤をもつ自然から発生する。それは、力づくで実現すべきものではなく、ひとが無理な論理展開をやめ、平均的程度まで自己を抑制できるならば、そこへと収斂してゆく求心点であった。(p.240-242)


ウェーバーの指導者民主主義に対する興味深い批判。私は著者の意見に完全に同意するわけではないが、この指摘、特にウェーバーの人間観や方法論や理念型論に見られる貴族主義的な性格が政治論にも反映しているということを足掛かりの一つとしてウェーバーの政治論を再検討してみたいと思う。

また、選挙で選ばれた政治家に白紙委任のようにすべてを委ねるのは民主主義ではないという指摘も重要である。この点に関連して想起されるのが、またもや橋下徹である。彼の発言からは選挙で選ばれた者は、その者の考え方に従って何でもしてよいかのように勘違いしている節があるように思われるからである。(実際そうした「白紙委任されている」かのような発言がかつてあったはずである。)

ちなみに、ウェーバーの政治思想を検討しながら橋下徹の言動を見てみると、彼が権力を非常に愛好しているということが見えてくる。石原慎太郎と手を組んだことも、政策より権力取得、権力行使ということを重視する彼の基本的な発想が大きく作用していると考えるべきだろう。



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