アヴェスターにはこう書いている?
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鈴木章俊 『ヴェーバー的方法の未来』(その1)

 したがって、この議論をわれわれが日常使っている言葉でいいなおせば、後者の研究(価値解釈)の目標は対象を批評するものである。批評するとは、さまざまな可能な態度決定の着眼点を読者に追体験させるということである。

(p.74)

本書で参考になった点の一つは、ウェーバーの方法論における「価値分析」「価値解釈」「価値議論」といった(価値自由や理念型などと比べると)比較的マイナーな概念について、解釈の糸口を与えるような議論が展開されていることである。



とりわけ価値解釈は、人間精神の多様性を「理解」させ、それによって、自らの精神の感受性を高め、物事を評価し、批評する能力を高めることができる。価値議論は究極の公理へさかのぼる訓練をすることにより、価値判断の一貫性をテストする能力を研ぎ澄ますことができる。……(中略)……。われわれは文化意義や批評にかんする研究を、一種の“知的遊戯”とみなす傾向にあるが、それは間違いである。それらはやはり、人間存在の一側面を構成する実践的判断の能力を高めることに寄与しているのである。(p.86)


同感である。こうしたことは、まさに私自身もウェーバーの著作と取り組むことによって身につけてきたことであるという実感がある。

日本の高校までの教育課程において社会科学のこうした人間形成的な側面がまったく教育されていないことはやや残念であると思う。高校生くらいの時期に――正確に言うと、本当の問題は高校生というような時期ではなく、誰もが通過する場で教えを受ける機会を持つことである――こうしたことを入口まででも教えておくことができれば、長期的に見ると日本の人々の社会的問題に関する知的レベル(問題解決のための実践的判断力)はかなり上がるように思われるのだが。



『経済と社会』の類型化されたカズイスティークは、すべて、切れ切れの類型ではなく、何らかの対向する観点のあいだで連続していて、徐々に対立して、最後に一番するどく対立するように配列されている。ヴェーバーは、明らかにこのことを自覚し、方法的に使用している。だから、類型とは切れ目なく連続している現実を、あえて切り離し、人為的に固定化した概念である。この方法を理解しないがために、ヴェーバーの方法は、しばしばたんなる類型学であって、変化がとらえられないと誤解されるのである。(p.164-165)


ウェーバーの理念型の理解とその使い方(応用)のために有用な興味深い指摘。



というのも、システムという考え方は、社会の増大する複雑化に対処し、簡略化を図るため、必要に促されて出てきた発想法だからである。(p.169)


確かに、システム論を用いて理解することは、複雑な現実を比較的容易に理解しうるものである。



『論集』においては、「『精神』」は、唯物史観批判という論調を脱け出し、近代西欧社会の個性的成立史というヴェーバー的問題へ改訂された。この観点を明確にしたヴェーバー体系は、不思議なことに明らかに、単一の近代システムを前提するウォーラーステイン体系とみごとに重なり合うと思われる。(p.172)


1904~05年に発表された「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」は1920年の宗教社会学論集に収録される際の改訂で論点の変化があった。近代西欧社会の個性的成立史という問題の中に位置づけられた。ウォーラーステインの世界システム分析との共通性が生じたとする指摘は確かにそうした一面もないわけではないだろう。著者が言うほどの一致はないようにも思うが。



 家計とは、ウォーラーステインの用語に翻訳すれば、「世界帝国」となる。そこでの支配機構である貢納制も、ヴェーバーのいう家産制と正確に一致する。それは、ウォーラーステインが、家産制の完全な形態をすぐれた意味での世界帝国といい、その欠陥のある形態、つまり分権化した形態を封建制ということからもわかる。(p.186)


ウェーバーの言う「家計」はウォーラーステインの言う「世界帝国」と対応し、ウェーバーの「営利」がウォーラーステインの「世界経済」に対応するとの指摘。なるほど。本書から得た比較的大きな収穫の一つは、この対応関係が見えたことにある。

ただ、私見ではウェーバーの「家計」の方が、ウォーラーステインの「世界帝国」よりも外延が大きい概念であるように思われる。世界帝国が過去の歴史を振り返るとウェーバーの言う「家計」に該当しそうであり、興味深い指摘ではある。



 

ウォーラーステインは、近代資本主義が、世界帝国の特殊型としてのヨーロッパ封建制という独自なconjuncture(史的状況)から生れた、と考える。これは、ヴェーバーのいうKonstellation(史的布置)であり、彼もそのことを認めている。(p.204)


ウォーラーステインのconjunctureとウェーバーのKonstellationの概念には共通点があるということに気付いたのも、本書から得た収穫だった。ただ、これらはシステムの複雑な状態を指示する有用な概念であるという点では一致するが、ウォーラーステインのconjunctureはブローデルに由来するものであり、ブローデルの言う長期持続との関連から理解されるべき側面がある点には注意が必要であると思われる。その点から見ると、ウェーバーの概念の方が時間のスパンが短く、かつ、スタティックではないだろうか。



 その人間観にかんしては、ヴェーバーは「誠実」という観点から、ひとに純粋なるものを要求し、平均的発想法を排除し、極限的発想法を要求しようとする。ヴェーバーにとっては、中間的発想法は意味混濁であり、未分化状態と映じる。これにたいし、スミスは「同感」という観点から、病的な両極端を排除し、他人と自分とを接触させることによって、自分の感情を普遍的な共鳴点にまで、引き上げ、引き下げようと構想する。スミスにとっては、極限点は人間社会の崩壊の点であり、中点こそ統合の点である。(p.226-227)


本書から得た最大の収穫のひとつは、このアダム・スミスとの対比から繰り出されるウェーバーへの批判である。ウェーバーの思想の大きな魅力は、まさに本書で批判されている極限的発想法と深く関わっているからである。すなわち、ウェーバーを読み、彼の思想に意義を見出そうとする人々は彼の引き裂かれた両極端の対立闘争に意義を見出そうとする傾向にあるように思われる。実際、ウェーバーに見られるアンビヴァレンスや引き裂かれたものの闘争というモチーフには、確かに大きな魅力と認識上の意義がある。

しかし、この発想法と民主主義的な発想法には折り合いの悪さもあることなどを本書は指摘しており、ウェーバーの政治思想を相対化している。ウェーバーの政治思想をこれから本格的に検討してみたいと考えている私にとっては、なかなか有意義な橋頭堡を得た感がある。



 いいかえれば、ヴェーバーにおいては、現実は完全な混沌であり、そこから意味ある概念像を構築するには、なんらかの人為的な意志が必要となる。なぜなら、この混沌は無秩序であり、それを平均したり記述したりしても、われわれは有意味な概念を獲得しえないからである。混沌を処理するには、選択→誇張→理念型という人為の途しかありえない。ヴェーバーは、この現実観をその社会観に無意識に置き換えた。社会は、もともとこのようにアモルフであるがゆえ、唯一意味を担える「英雄的指導者」が、そこから本質的な要素を選び出し、それを強調することによってはじめて有意味な国民性が形成されると。したがって、これ以外の方法では、民主主義もただの衆愚政治に陥ってしまうのである。
 だが、現実はこのような全くのアトランダムの混沌であろうか。むしろ、一定のかたよりをもつような混沌と考えたほうがよいのではないか。さらに、このかたよりは、かなり長期にわたって不動であると仮定する。また、これを延長して、人間が別種の生物に移行しないかぎり、すなわち人間がホモ・サピエンスであるかぎり、このかたよりは不動であると仮定する。そしてこの状態を「自然」状態と定義する。自然をこのように定義したばあい、この認識は、自然主義的誤謬とは批判されないであろう。このように想定すれば、平均を構成するばあいも、まず両極端を排除し、かたよりを発見したうえで平均化すればよい。このばあいには、平均は単純平均ではなく、本質平均である。有意味な平均である。このイメージを政治観に投影したばあい、平均的大衆は思想なき愚民ではなくなる。彼らは有意味な星雲状態にある。それは、特定問題にかんするその時点での判断の集約点である。政治家の指導力も、それは教導力ではなく、このような意味での星雲状態を個々の惑星にまで形成する能力と解しうる。(p.229)


ウェーバーの「理念型」に関する理論と政治における「指導者民主主義」との並行関係について指摘し、それをスミスの「自然主義」的な発想から批判している。本書から得た収穫のうち、もっとも興味を惹かれた箇所の一つであった。

現代の日本の政治状況は、スミス的な平均化に関しては、両極端を排除せずに極端な主張が力を持ってしまっていること、また、星雲状の集約点があったとしても、それらを討議しながら合意形成していくような「面倒な」プロセスを忌避して「強い指導者」を求めてしまう点で多くの人びとの意見が一致してしまっていることを指摘できるだろう。ウェーバーによる政治像にやや近い、「非民主的なデモクラシー」(私は「民主主義」という用語は理念的なものとして用い、「デモクラシー」という用語を制度や組織的なものとして用いることにしている)となってしまっていると思われる。それを是正するためにもスミス的な考え方を明記することには意味があると考える。


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ブライアン・S・ターナー 『ウェーバーとイスラーム』

 宗教社会学の多くの重要な分野で、ウェーバーは「理解(フェアシュテーエンデ)」社会学として説明できるものを無視あるいは放棄したと私には思われる。……(中略)……。
 最後に、ウェーバーが実際に行なった(彼が行なっていると称するものとは区別された)説明には、この多元論的性格はないと論じることができよう。私はとりあえず、ウェーバーによる、とくにイスラームの説明には強い決定論的な要素があり、それは彼をしてマルクス固有の解説の図式にきわめて接近させるものだと示唆しておきたい。(p.8-9)


ウェーバーが理解社会学の方法を適用しなかったとされることの一つは、神的なものへの「祈り」を社会的行為として位置付けなかったことにあると著者は言う。しかし、そうした評価は私には不当であるように思われる。

ウェーバーが実際に行っている説明には多元論的性格がなく、決定論的であるという見方については、ある意味では妥当な批判である。ウェーバーの理論には、確かにオリエンタリズムとして性格づけられるような側面があることは否定できず、その中でのアジアの停滞性について、本書ではイスラーム社会を家産制的支配の下にある社会として捉えることで説明しているが、細かくみると必ずしも決定論として書かれていないとしても、そうした読解へ導くような傾向性があると思われる。少なくとも、そうした傾向性を持っていないと言い切れない。



 もしカリスマ的メッセージが聖なる現象の視覚と経験にもとづくとするならば、その際これらのメッセージは、カリスマ的指導者を支持する弟子たちにとってすでに親しみがあり、理解しうるような形で表現されなければならない。したがってカリスマ的運動とともに通常想起される「突破」という言葉は、誇大な表現であるにちがいない。カリスマは、すぐれて既知の事実と世界観(ヴェルトアンシャウウング)の再解釈の問題であると言わねばならない。(p.35)


「指導力のあるリーダー」がやたらともてはやされる時代にあっては、ウェーバーの「カリスマ」ないし「カリスマ的支配」の概念は振り返ってみる価値があると考えている。この引用文で示されているように、カリスマは通常思われているほど新奇なものではなく、多くの人びとが共通して抱く通念を触発できる程度は通俗的なものを持っている。この点(すなわち、カリスマは常に通俗的なものを持っていること)は何となく見落とされがちであると思われたため、記録しておく。



 ウェーバーの理論は、私たちが今やカリスマを社会的に周縁的(マージナル)な位置に出現するものとして考えるよりも、むしろ高度に伝統的で中心的な社会制度の内部に湧き出すものとして見るという点で修正を受ける。(p.37)


いわゆる辺境革命論に対する異論。



 18世紀末とひき続く19世紀において、トルコはヨーロッパとの間に古典的な中枢=衛星関係に入り、この関係において衛星国経済が未開発のままであったため、ヨーロッパ経済は発展しつづけたのである。ヨーロッパはトルコから原料を引き出し、それをヨーロッパで加工し、そしてトルコの国内製造業者を破滅させるような価格でその製品を売り戻すことができた。ふさわしい保護主義政策がないため、オスマン帝国はヨーロッパやある程度ロシアからの基本的加工商品や奢侈品の輸入にさらされていた。
 ヨーロッパ製品の導入は、1880年代のトルコ国内での鉄道建設、とりわけ1888年のウィーンとイスタンブールとを直接結ぶ鉄道の開設によって急激に増大する。鉄道の発展は、ほとんど外国人の手によってもたさられ、彼らが計画し、建設し、そして新しい業務を経営したのである。(p.202)


ヨーロッパの世界への進出、特に帝国主義・植民地主義的な進出は概ねどこでも同じようなパターンをとっている。



 一つのイスラーム批判として意味をもつウェーバー社会学には、19世紀およびそれ以前のイデオロギーにもとづく偏見のすべてが投影されている。ヨーロッパによる覇権が確立する以前の時代には、イスラームは、軍事的にも道徳的にも並々ならぬ脅威をキリスト教に与えていた。それは、イスラームがキリスト教信仰に取って代わる、強力かつ活発な勢力であったからである。イスラームの拡大を説明するため、キリスト教神学は、イスラームの成功の秘訣はムスリムの暴力、好色、詭計などの産物である、という論証を意図した弁明論を発展させた。
 イスラームとキリスト教との経済的、軍事的なバランスが変化してゆくに従い、イスラームは堕落しているとの中世理論も当然修正されてきたが、狂信と性欲というその基本的な主題は、今もって広く流布している。(p.213)


ヨーロッパにおけるイスラーム観は近代以前のイスラームの優勢という事実に対して、キリスト教会が弁明論として発展させた偏見に基づいている。その偏見がヨーロッパの勢力が優位になると、いわゆるオリエンタリズムの一部をなすようになった、ということか。中世から近代にかけてのヨーロッパにおけるイスラーム認識についてもう少し詳しく知りたいところである。



 イスラームのいわゆる「プロテスタンティズムの倫理」は、それゆえ受け売り(セカンド・ハンド)であった。イスラーム改革を担った主要な指導者たちは、ヨーロッパで教育を積んだ者か、ヨーロッパ的な伝統による分析法を継承するかのいずれかであった。パリこそが彼らの知的世界の拠点であった。タフターウィー、アフガーニー、アブドゥフらを初めとする多くの者が初めて間近に近代世界と接したのは、パリにおいてであった。また、近代世界を理解するために、彼らが規制の準拠枠を入手したのもこのパリであった。イスラーム改革の創始者たちは、ある意味においてルソー、コント、スペンサー、デュルケームらであった。(p.225-226)


イスラーム改革の指導者たちは、ヨーロッパのオリエンタリズム的な見方(アジア的停滞など)を西欧、特にパリで学んだという。確かにそうかもしれない。

余談だが、パリに「アラブ世界研究所」が設置されたのも、こうした歴史的な繋がりがあったことも背景にあるかも知れない。



偶然にも、呪術の園にわれわれは背を向けるようになったが、しかし依然としてわれわれは自由と幸福とを結びつける見通しを欠いている、という信念がポスト・ウェーバー時代における社会理論の一重要問題となっている。(p.243)


本書(原著)は1974年に書かれたものだが、この点は、マイケル・サンデルなどのコミュニタリアンがリベラリズムを批判して提起している問題にも通底しているように思われる。




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塚田敏信 『ほっかいどうお菓子グラフィティ―』

 江差の町並みは、上下二層の通りに商店や家々がはりつく構造で、海岸線に近い下通りに歴史的建造物が集中し、上通りは建て替えが進む。(p.9)


江差の町の構造を簡潔に表現している。



 道内の菓子屋で話を聞くと、最初は和菓子屋から始まり、やがて洋菓子も扱うようになって、両方手がけるか、途中で洋菓子だけになる例も少なくない。五勝手屋もスタートは和菓子だが、昭和初期にいち早くシュークリームを手がけ、昭和20年代に江差で初めてバタークリームのケーキを作っている。……(中略)……。だが、洋菓子店にはならず、今は作ってもいない。(p.10)


生活習慣の変化が需要の変化をもたらし、それが業態の変化をもたらす。



 2階に上がる吹き抜けの階段の壁面には、これまで菓子作りに使われた膨大な数の木型が飾られているほか、店舗と隣り合う建物にはギャラリーも開設。(p.10)


江差の五勝手屋本舗についての紹介より。次に江差に行くときには、ここも見学してみたい。



 明治の開拓期、道内各地に鉄道が開業すると、旅客の胃袋を目当てに駅弁売りが現れる。当時、駅弁として立売されていた中には、餅や団子、饅頭などの生菓子も少なくなかった。筆者はこれを駅売りの生菓子、略して「駅生(えきなま)」と呼ぶ。その駅生第一号発祥の地が、函館本線の銭函駅である。
 昭和6(1931)年築の木造駅舎は、昭和初期に多用されたギャンブレル(駒形切妻)屋根が風情を感じさせる。駅自体は明治13(1880)年、手宮-札幌間に北海道初の鉄道が開通したのと同時に開業。ほどなく駅ホームで立売されるようになったのが、のちに銭函名物となる「酒まんぢう」だった。これこそが、北海道の駅弁第一号だ。
 では、なぜ銭函駅だったのか。……(中略)……。
 朝、手宮を出た列車は、午前10時過ぎに銭函駅のホームに入り、午後に札幌を出たそれは午後2時過ぎに着く。つまり、どちらに乗ってもちょうど小腹が空く頃合いに銭函へ着くのだ。しかも停車時間は20分もあり、その間、目の前を饅頭売りが行ったり来たりするのだからたまらない。おまけに、当時の乗客は富裕な層が多かったから、銭函駅は商いに格好の地だったのである。(p.11-12)


北海道の明治期のお菓子は鉄道と切っても切れないほど深い縁がある。本書を読むと、駅があるところに菓子があるというような感じだ。たかがお菓子、されどお菓子。お菓子を通して見えてくるものも意外と多いことに気付かされた。

また、銭函駅が現存の小樽駅より古いものとは知らなかった。確かに言われてみれば風情がある佇まいではある。今度、じっくり見てみたい。その時には「酒まんぢう」も試食してみよう。



 JR江別駅前に広がる条丁目地区は、明治末から昭和初期にかけて建てられた趣のある建物が今も残る、味わい深い地区だ。旧岡田倉庫を含むその界隈は、映画「天国の本屋」で重要な舞台として使われたロケ地にもなった。実はここ、かつては饅頭屋だらけの町だったのである。
 野幌屯田兵村と千歳川の間に位置する江別駅前は、早くから石狩川を利用した舟運の拠点として、そして鉄道開通後は交通の要衝として発展した。その江別駅で「松丸まんじゅう店」が「えべつまんじゅう」を売りはじめたのは明治18(1885)年のこと。当時は、薄い布で包んだ箱入り饅頭を、5本入り5銭、10本入り10銭で駅売りしていた。
 江別駅が開業したのはその3年前、札幌-幌内を結ぶ幌内鉄道が全線竣工した際である。野幌への屯田兵の本格的な入植が始まり、石狩川定期航路の拠点が駅近くに置かれたのが、それから2年後のことだった。つまり、交通の要衝である江別の発展とえべつまんじゅうの誕生は、切っても切れない関係にあるわけだ。(p.14)


江別駅前は車で通ったことはあるかも知れないが、きちんと訪れたことがない。ちょっと行ってみたくなった。饅頭と交通の関係も非常に興味深いところ。こうした関係は他のお菓子にも見られるものであり、お菓子を研究対象として歴史を見ていくのも面白い。



 美園アイスクリームの始まりは、大正8(1919)年にさかのぼる。函館からやってきた漆谷勝太郎が、北海道で先駆的にアイスクリームの製造、販売を始めたのである。そのさっぱりした清涼感は、ジェラートに近い。これは、日本のアイスクリームの大半がアメリカ仕込みだったのに対し、美園のそれは脂肪分の配合などがフランス式だったためだ。(p.115)


アイスクリームにもアメリカ式とフランス式があるとは知らなかった。食べ比べてみたい。



 札幌の白石区にある菊水地区には、かつてススキノから移転させられた遊廊があった。そこが今では、菊水中央商店街を中心に人情味のある佇まいになっていて、筆者にとっては心安らぐ場所の一つになっている。ここで昭和33(1958)年からおやき屋を営むのが「おやきの平中」だ。ちなみに、「とうまん」(p132)で知られる冨士屋の本社も、平中のすぐ近くにある。
 菊水地区にはかつて、昭和29年開館の映画館「菊水劇場」(昭和46年閉館)があった。その隣で自動車整備工場を営んでいた平中誉志美さんの家では、物置を利用して映画館利用者をあて込んだ自転車の一時預かりをやっていた。すると周りの人たちから、「映画館にはおやき屋がつきものだから、やってみたら?」と助言されたのをきっかけに、おやき屋を始めたという。(p.159)


「移転された遊廊→映画館がある歓楽街→おやき屋」という関係性が面白い。



 小樽のまちを歩くと、昭和ヒトケタの頃に建てられた個性的な建物によく出合う。建築史的にいうと、アール・デコが流行っていた頃のもので、有機的で生命感あふれる意匠が、時間の経過とともに味わい深く語りかけてくる。菓子屋を巡っているうち、それはお菓子の世界にも当てはまることに気づいた。前から気になっていた菓子屋を訪ねてみると、昭和ヒトケタあたりに創業した店が結構多いのだ。(p.162)


大正から昭和ヒトケタの頃は、小樽の経済が最も成熟していた時期にあたる。そのことが、建物が建てられたことや菓子屋が創業されたことと関係しているのだろう。つまり、経済的に成熟していたため、新しく立派な建築を建てようとする人が多くいたということであり、また、市民がある程度生活に余裕があり、また、交通の要衝としての位置づけも確立していたからこそ多くの菓子屋が創業したのではないかと思われる。



 現在、道内の現役ぱんじゅう店で、昔ながらのスタイルを受け継ぐのは、小樽の「西川ぱんじゅう」と「あんあん」、夕張「小倉屋ぱんじゅう」、札幌の「もいわぱんじゅう」「正福屋ぱんじゅう」の5軒だけになってしまった。(p.233)


お菓子屋は家族経営的な事業体であることが多いため、後継者がいないため閉店となるケースが多い。こうした昔ながらのスタイルを守っている店はしっかりと継承されていってほしい。



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北海道新聞小樽支社報道部 『おたる・しりべし旅日記』

 小樽と札幌を結ぶ道路といえば国道5号。ところがかつて、山の中を縫って行く別の道があったという。「軍用道路」。1904年(明治37年)の日露戦争で、たとえロシア艦隊から艦砲射撃を受けても物資が運べるよう造られた。
 ……(中略)……。
 約3時間の行程。でも苦労して分かった。「小樽-札幌間の物資輸送が当時、どれほど重要だったか」。ありがたきは道と港なり。(p.22)


名前は聞いたことがあったが、歴史的な由来や場所などはよく知らなかった。地域の歴史などに関心を持ってから知ると面白さも倍増する。



もともと先々代が秋田からやん衆として祝津に来たルーツを持つ。後志沿岸ではニシン場ごとの集落がやがてマチとなった。「祝津が祝津としてあるのも元はと言えばニシンのおかげ」
 最後の群来といわれる1954年の春、青塚さんは小学生だった。「その4年後に、北海道大博覧会が開催。小樽会場に水族館が建設され、お客が見込めるということで、漁師だった家が食堂経営に乗り出した」。それから約半世紀がたった。(p.74)


小樽市の祝津地区(おたる水族館の付近)にある青塚食堂という老舗の食堂の歴史。鰊漁によって北陸や東北地方からの移住者など町の基礎ができたという北海道の港町の多くに共通のパターンが見られる。そして、昭和初期の鰊の不漁により網元を含めた漁師たちの業種転換を強いられることになった。高度成長の始まりと重なったことで博覧会が開かれ、それに伴う需要に応じて業種転換ができたと言える。地方の小さな食堂の変遷を見るだけでも歴史が見えてくるのは大変興味深い。



 フゴッペ洞窟には、シベリアのアムール川周辺に見られる岸壁画とよく似た古代彫刻が確認され、日本海を囲むロシア、中国、朝鮮との大きな文化の流れを示すものだと見られている。
 手宮洞窟を訪ねることで、古代の壮大な交流の世界に触れられるのだ。(p.96)


なるほど。なかなかあの壁画を見るだけではここまで理解することはできない。シベリアの壁画を参考として展示すればよいのではないか?



施設ガイドの小山真納さんには「ニシン漁の衰退後は、ホタテ養殖が祝津の漁業の柱になったんですよ」と祝津漁業の歴史を聞いた。(p.98)


小樽の中でも祝津地区は、歴史的な建築資源もあるため、運河周辺だけの観光に終始しがちな中で、リピーターにも紹介するだけの価値がある地区だと思う。地域の歴史をもっと掘り起こして発信していってほしい。



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