アヴェスターにはこう書いている?
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岩本啓 著、中曽根陽子 編 『男の子を伸ばす父親の成功パターン55 パパの関わり方で子どもは変わる!』

 この時期は、親に対して反抗的な態度を取るため、「反抗期」と呼ばれたりしますが、子どもにとっては「自立準備期」と言えます。子育てとは、子どもが親離れをして自立できるようにすることを目的だとするならば、この「反抗期(自立準備期)」はとても大切なものと言えます。思春期における第2次反抗期は、一般的には小学校高学年か中学生くらいから始まると言われていますが、最近は早い子では小学校4年生あたりから始まるようです。(p.9)


所謂「反抗期」と呼ばれている時期は「自立準備期」であるという指摘はなるほどと思わされた。

子育ての目的が親離れをして自立できることに置くことも同意見であると同時に、重要な指摘であると思う。

こうした目的意識を持つことなく子どもを溺愛するような類の「子育て」は、ペットを飼うのと実質的には何らの差がない行為ではなかろうか。



 昨今、理数力を伸ばそうということが言われていますが、それらは単に数学や理科の学習をすれば伸びるというものではありません。こうやったらうまくいくんじゃないかと予想を立てて、実際にやってみることが大事なのです。うまくいかなかったら、何が原因なのか、どうすればうまくいくのかを考えて、また実行してみる、その繰り返しが大切なのです。これをするためには、自分にはできるという思いが必要です。(p.14)


少なくとも大学受験までの数学は「頭で考える」ものではなく、「手を使う作業」であると私は考えてきたが、数学や理科で重要なのが「実際にやってみる」ことなのだとすれば、この点については私の認識と共通するものが多分にあると思われる。



 一緒に買い物に行った時に、子どもがねだるままに、買う予定のなかったおもちゃやお菓子を、買い与えてしまうのはしつけにならないと感じている方は多いと思います。……(中略)……。では、なぜこの場面で我慢することをしつけなければならないのでしょうか。
 このケースでは、そもそも何をしにその店に来たのかというと、たとえば夕飯の材料や日用品などを買いに来ているはずです。おもちゃやお菓子を買うことは、その店に来た本来の目的とは違います。本来の目的と違うのだから、見たことで欲しくなってしまったものは我慢すべきだということになるわけです。(p.29)


なるほど。日常的な道徳に関する場面では目的論的な議論が説得力を持つ場面が多い。



一見すると眠い状態と逆のように映りますが、妙に元気になっているようなときは、ほとんどが眠くなっている状態だと思っていいでしょう
 その眠い状態を過ぎると今度は本当に目が覚めてしまい、なかなか眠れなくなってしまいます。ですから、夜8時や9時頃になって何だか妙に元気だなぁと思ったら、なるべく早く寝かせるようにしましょう。(p.41)


これは知らなかった。参考にしたい。



 自分の言い訳を受け止めてもらえず、受け入れられていないと感じながら年齢が上がっていくと、常に自分が正しいと主張したい気持ちでいっぱいになり、自分のミスさえ受け入れることができなくなってしまう危険性があります。(p.46)


なるほど。性格形成に関する一つの経験則か。



最も学力が高いのは、夜9時までに寝る子で、それより遅くまで起きているほど、学力は低下しています。
 また、2時間睡眠が不足している場合、0.05%の血中エタノール濃度とほぼ同じ状態だといわれています(酒気帯びが0.03%なので、0.05%は弱度酩酊状態といえます)。つまり、睡眠不足のまま学校に行くと、酔っ払い状態で授業を受けているということになるのです。(p.49)


なるほど。



運動によって脳が発達する一番いい時期と言われるゴールデンエイジ(3歳から小学校低学年)に体を動かす経験はとても大事だと言われています。(p.57)


参考になる。



ときどき「どうせ明日また出すんだから、片づけなくてもいいでしょ?」と聞いてくる子がいますが、それは単なる言い訳に過ぎません。そして本人もそれはよく分かっています
 ですから時間が遅いからといって、ズルズルと片づけないことを容認していってしまっては、子どもの言い訳を受け入れたことになってしまいます。(p.69)


このようなだらしない仕方で子どもの言い訳を認めてしまうと、子どもは自分のやりたくないことから逃げ続けながら時間を引き延ばしたりするような行動が日常化していくことになるだろう。このような類の子供は人間として成長しないだろう。嫌なことから逃げ続けるだけの生活を重ねるだけだからである。



このように、自分の部屋は自己管理で任せていますが、家族共有の場所は別です。物を置きっぱなしにしてあれば片づけさせますし、洗面所に髪の毛が落ちていれば、掃除をさせています。プライベートな場所と、公共の場所を区別することは当然です。そういう意識を小学生のうちから身につけさせておけば、公共の場所を汚すようなことはしなくなります。(p.70)


家の中にも公共性の度合いがあり、それを適切に教えていくことは確かに重要だろう。例えば、居間で人が多く通る場所で常に寝転がったりするような子どもはしつけられて当然である。



子どもの言う「みんな」は事実上の全員ではなく、気分的な全員(p.73)


確かに。「みんな持っている」「みんなやっている」などというとき、その「みんな」は客観的な全員ではなく、その人にとっての「気分的な全員」なわけだ。

余談だが、「みんなの党」の「みんな」も彼らにとっての気分的な全員に過ぎないだろう。



 人には優位感覚というものがあり、情報を取り入れるときに、聴覚・視覚・身体感覚・言語感覚のどの感覚を使うと最も情報を取り入れやすいのかが異なるのです。(p.101)


本書で一番参考になったのは、この点だった。人にものを教えるときなど、教わる側の人がどの感覚が優位なのかがわかっているとスムーズにいくというわけだ。また、自分がどの感覚が優位なのかを省みるというのも、自己認識を深める上で有益だろう。

ちなみに、余談だが私個人は視覚が最も優位な感覚になっていると思う。声で話を聞くより文字を読んだり、図や表に表すと情報を吸収・把握しやすい。



宿題をやらないというのも、勉強したくないという気持ちも、できない自分を突きつけられることを避けようとしているからかもしれません。このあたりは、本人に聞いてみないと分かりません。しかし、口ではどう言っていても、子どもはみんな勉強が分かると嬉しいし、分からないと悲しいのです。……(中略)……。
 そんな子どもに対して、単に「勉強しろ」「宿題をやれ」と言っても、なかなかやろうという気にはなれないでしょう。(p.107)


妥当である。子どもの頃にやる勉強というのは、基本的に社会が必要とする知識(ある社会で「善く生きる」ために必要としてその社会から認められている知識)の体系なのであって、それができるということが社会からの評価に関わっている。勉強ができるということは、社会から高く評価されることに繋がり、できないことは低く評価されることに繋がるようになっている。(たとえ「勉強ができなくてもいい」と言うことはできても、「勉強はできないほうが良い」とはあまり言われないのはこのことと結びついている。)

宿題をやらなかったり、勉強したくないと思っている子どもに対しては、本書も言うように、単に「宿題やれ」「勉強しろ」といったところで意味はない。むしろ、心理的反発を誘発してしまい逆効果となるだろう。自分でできなくなる地点を一緒に探してやり、その地点を補強してから次に進む、それも保護者や教育者が付き添い、励ましながら、といったような地道な努力が必要になるだろう。

この過程は、ある意味では福祉の分野におけるパーソナル・サポートと似ているかもしれない。

ちなみに、生活保護受給者などで年齢的にも身体的にも就職可能であるにもかかわらず、ケースワーカーから就労指導などを受けてもどうしても働こうとしない受給者が存在するが、彼らもここで勉強で躓いている子どもと同じである。社会の中で仕事をしていくにあたって能力的に不足している面があり、仕事をすること自体に自信を失ったり、仕事がうまくできないため会社の中で冷たく扱われたりしてきた経験が彼らを消極的にしているという面は多分にあると思われる。そうした人々に対して、単に「ハローワークに行きなさい」「面接を受けなさい」と言ったところで求職活動はしないだろう。このことはそうした人々と面会したことがあるならば誰もがどこかで感じたことがあるのではなかろうか。

福祉と教育には似た部分も多いのかもしれない。上で述べたような支持的な支援は、時間と労力がかかるという難点があるから、できるだけ道から外れないようにすることもまた重要ということだろう。



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シーナ・アイエンガー 『選択日記』

 選択をするとき、私たちの脳は近道をしようとします。これが、直感を使った選択です。直感が判断のよりどころにするのは記憶です。
 ところが記憶は一定の方向に偏っています。(p.20)


直感的な選択は近道をしようとしていることだというのは、なかなかうまい表現かもしれない。そして、直感的な判断をする際には、記憶の偏りが選択を偏らせるというのであれば、やはりその偏りについて知っておくべきだろう。感覚を刺激する鮮明な記憶や選択肢のうち最初と最後に接したもの、接する頻度などに依存することが本書では簡潔にまとめられている。



 「マシュマロテスト」が研究として優れているのは、被験者の子どもたちを、10年後、さらに成人後も、追跡調査している点です。
 テストでは三割の子どもが、15分我慢して、戻ってきた白衣の研究者にお菓子を二つもらうことになりましたが、10年後の追跡調査では、我慢できた子どもたちは、我慢できなかった子どもたちに比べて強い友情で結ばれ、困難な状況に適切に対処する力があり、行動上の問題も少なかったのです。大学進学適性試験(SAT)のスコアも平均で210点も、高いことがわかりました。
 さらに成人後の追跡調査でも、このグループは、喫煙率や違法薬物の経験率が低く、社会的経済的地位も高く、修学年数も長かったのです。(p.30)


マシュマロテストについてもっと詳しく知りたい。



 太りすぎはよくないこととはわかっていても、ついつい間食に手を出してしまう。試験があって勉強しなくてはならないのはわかっていても、ついついテレビを見てしまう。
 ……(中略)……。
 どのようにしたら、目先の誘惑に負けずに、長期的な利益を考えた行動をとることができるでしょうか。
 ……(中略)……。
 つまり、テレビのある家では勉強せず、図書館を使う。あるいは、家にはお菓子をおかないように家人に頼む。そうしたことによって、「選択」の余地をなくしてしまい、勉強することや、ダイエットを「習慣」にしてしまうのです。(p.38)


習慣というと、ジョン・ロックの教育論を想起してしまうが、それは措いても習慣づけは広い意味での教育の最重要課題の一つであると思う。特に年齢の小さい頃、それも小学校の前半くらいまでが重要なのではないかと感じる。



 子どもにやらせたくないことは、禁止しつつも、裁量の余地を若干残しておくことで、心理的反発を小さくし、それに惹かれる気持ちを抑えることができます。(p.40)


なるほど。子どもに限らず使えるテクニックだと思う。



 プロコンリストに限らず、理性で行う選択には、致命的欠陥があります。それは具体的なもの、定量化できるものに偏ったデータに頼っていることです。定量分析では扱いにくいもの、たとえば感情に関わる考慮事項は、ないがしろにされがちです。その結果、理性的な分析のはずが、偏ったデータをもとにした推論になってしまうのです。(p.42)


なるほど。直感だけで選択すると記憶の偏りによって誤り、理性だけで選択するとデータの偏りによって誤るわけだ。



人生を幸せだと思える人は、自分の欲しいものを手に入れた人ではない。手に入れたものを欲しいと思える人が幸せなのだよ」(p.54)


幸福感や満足感の高い人生というのは、確かにこういうものかもしれない。



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榊原洋一 監修 『0~5歳 子どもの病気の本』

 「この子の周りに病気がないのは、周りの人が予防接種をしているから。おかげでこの子は守られている」ということを忘れてはいけないし、自分の子どもを守るためにも、この環境を守るためにも、予防接種を受けることが大切なんだと考えてほしいと思います。(p.130-131)


予防接種もまた個人的なものにとどまらず、社会的なものである。この点はこれまであまり考えたことがなかった。


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開一夫 『赤ちゃんの不思議』

しかし、無力な赤ちゃん像の視点に立つと、往々にして、親は「真っ白な」キャンバスに沢山のことを描き込もうとしがちです(あるいは親の思った通りに何でも描き込めると思いがちです)。……(中略)……。赤ちゃんは、何か描かれるのをただじっと待っているキャンバスではなく、もっと能動的でダイナミックな対象として捉えられるべきです。(p.32-33)


「無力な赤ちゃん」像に対して「有能な赤ちゃん」像への転換が、本書の最もおもしろい点の一つであると思う。



 非常に高価な乳幼児向け英語教材は、こうした「生きるか死ぬか」という観点からいうと、赤ちゃんにとっては、どちらでもよい、つまり、「学ぶに値しないもの」と判断されてしかるべきでしょう。(p.43)


人は必要を感じている時によく学習できる(必要を感じないものは習得効率が悪い)という原則は赤ちゃんにも同様に当てはまりそうだ。



 人間の赤ちゃんには味覚に対する好みがあります。生まれてすぐの赤ちゃんは、「甘い」味を好むと言われています。「苦み」は有害な物質と関係がありそうで赤ちゃんは嫌うのではと想像できますが、意外なことに、最近の研究では生後しばらく(四ヵ月頃まで)は、(薄い)苦みであっても回避しないことが分かっています。その後、しばらくすると、赤ちゃんは新規な食物を回避するようになると言われています。一般的にはちょうど離乳食が与えられる頃なので、「なぜ、うちの子は離乳食を食べないのだろう」と心配する母親もいるかもしれません。しかし、繰り返し辛抱強く与えることによって、最初は嫌がっていた食べ物でも問題なく食べるようになります。まさに「経験する(経験させられる)」ことによって食べられるものとそうでないものを区別できるようになることを示す例です。(p.46)


好き嫌いが多い子供というのは「経験のさせ方」、すなわち、育て方の問題が反映していると考えられる。



 人間の場合は、基本的に親が食べているものを自然と食べるようになります。生後三カ月頃の赤ちゃんは、周りの大人が食べているものに注目するようになります。
 お国が違えば、食べるものも大きく異なります。日本では、お寿司や刺身など生で魚を食べる習慣があります。最近では世界中どこに旅行しても(美味しいかどうかは別として)お寿司を食べることができますが、ほんの少し前まではこれほどポピュラーではありませんでした。子どもが、どんな食べ物を好きになるのかは、どんな食文化(食環境)で育つのかということを抜きにしては考えられません。食文化は、まさに「環境とその影響」という問が難問であることを示す上で、非常に良い例となっています。(p.48-49)


食文化(食環境)は単に「お国」の違いという大きな単位ではなく、家庭という小さな単位にも存在するということは銘記すべきだろう。



 アメリカ小児科学会は1999年に「二歳以下の子どもたちにテレビ映像を見せることは推奨できない」との提言をしています。日本小児科学会も、2004年に同様の提言を発表しました。(p.70)


テレビは基本的には子どもの発達に悪い影響を与える可能性が高いということがこれらの学会では共通認識となったということか。



その結果、2~3歳における幼児向け教育番組の視聴がテストの好成績につながることが示されました。一方で、教育番組ではない一般番組を頻繁に見る子どもはそうでない子どもよりもテストの成績が劣ることも明らかにされました。(p.71)
この傾向は乳幼児期だけでなく、学童期になっても同様であると思われる。この引用文では語彙発達についてのテストについてのものだが、『見えざる階層的不平等』という本でもテレビ視聴時間が長い小中学生は成績が低いというデータがあったことからも、単に語彙のみでなく様々な形でテレビは子どもの学習に悪影響を与えるのだろう。



親との相互作用の時間、DVDやビデオの視聴時間・種類、CDIと呼ばれる語彙発達の尺度を調べ、赤ちゃん向けのDVDやビデオ(例えば、0~3歳児向けの知育商品「ベイビー・アインシュタイン」等)の視聴は語彙の発達にネガティブな影響を与えることが示されています。(p.71)


小さな子どもの親はこのことも記憶にとどめておくべきだろう。



 最近の研究では、DVDを一方的に流すのではなく、赤ちゃんが「見たい(聴きたい)ときに」DVDを視聴させると、相手が人間の時と同じように音声学習がうまくいくという報告もあります。(p.81)


興味を感じているものはよく学習されるということか。ただ、この研究の場合のDVDはタッチパネルのような簡単なスイッチで赤ちゃんにも選択を行えるようにバリアフリー化されていたらしく、一般家庭の環境とは異なる。一般家庭では赤ちゃんが自由にDVDのオン・オフ切り替えは難しいだろうから、やはりあまり見せないほうが無難だろう。



 小さな子どもがボタン好きなのは、行為とその結果の(因果)関係を獲得する訓練のためであると言えます。最近の育児雑誌では、「過干渉(親が子どもの先回りをして何でもやってしまうこと)はよくない育て方である」とあります。これはあながちウソではないのかもしれません。もちろん時と場合によっては、十分な支援をしてあげることも必要です。安全な環境を整備しつつ、赤ちゃんの「いたずら遊び」を見守ることが重要だと考えます。(p.104-105)


同感である。



 昨今の脳科学ブームの影響からか、世の中には右脳・左脳にまつわる多数の「脳科学神話」が溢れています。右脳は感性や感情を司り、左脳は言語や論理的思考を司るという話は今までのところ科学的根拠のない「神話」です。重要な点は、右脳(左脳)だけが感情的処理(言語的処理)にかかわっているのではなく、個々の脳機能に関して「相対的」に優位な(相対的に活動が大きい)半球があるということです。(p.162)


分かりやすいものに飛びつく風潮が現代日本社会の傾向として強いので、この指摘事項にも注意すべきだろう。



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湯浅誠 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(その2)

 私は、何とか意見を異にする人たちにも聞いて考えてもらいたいとこうやって自分の意見を述べています。可能ならば、橋下さんや橋下さんを支持する人たちとも意見交換していきたいと思います。
 こう言うとすぐに「すりよった」「とりこまれた」と非難する人たちがいますが、コミュニケーションを遮断することや、言いたいことを言い放つだけのことがそんなに立派なことだとは、私には思えません。異なる意見を持つ者同士こそ大いにすりより合い、とりこみ合えばいいのだと思います。
 「すりよった」「とりこまれた」という評価の仕方が好きな人たちは、もしかしたらその人自身が「おれの言うことを聞け」といった一方的なコミュニケーションしか知らないのかもしれません。(p.79-80)


リベラルや左派などにも、こうした一方的コミュニケーションへの傾向がある。それに対する妥当な批判。



 現在、盛り上がりを見せている脱原発デモで、思想家の柄谷行人さんが「デモをやることで社会が変わるのかと聞かれるが、デモをすることで社会は変わる。デモをすることができる社会をつくることができる」と発言しました。
 人々が一人ひとりの「民意」を社会に示すことで、社会は多様な「民意」を示すことができる社会に変わります。それをお互いが調整していくことで、異なる意見の人が調整できる社会に変わっていきます。それは大変大きなことのように、私には思えます。
 そこでは「おれの思う通りにやれ」という願いはかなえられないでしょうが、いまよりも少数者の意見が踏まえられた分、より内容豊かな政策が生まれてきます。政策が全員を巻き込むものである以上、それは全員の利益になるはずです。
 誰に対しても、意見交換や調整を頭から否定すべきではない。地味だけれども、調整して、よりよい社会をつくっていくという粘り強さをもつ人たちが必要です。(p.80-81)


デモをすることで、デモをすることによって多様な意見を示すことができる社会ができる。確かにその通りかもしれない。これまでの日本の社会ではこうした民意の表明の仕方が異様なほどに委縮しており、諸外国と比べても意見を表明する機会に乏しい社会になっていると思われる。確かに、デモをすることでデモをすることができる社会をつくっていくことは必要なことであると思われる。

後段はコミュニケーションによる意見調整の重要性を説く点ではまったく同意見だが、細かい突っ込みを入れるとすれば、意見調整をした結果は、必ずしも内容が豊かな政策になるとは限らず、妥協が重なることによって内容が薄かったり、効果が十分でなかったりする政策にもなりうる、ということは指摘したい。これは本書で湯浅氏自身が言っていたことでもあると思う。また、意見調整をされた政策がもたらす結果は、個人や社会層ごとに見ると必ずしも直接的には利益になるとは限らない。それはただ、トータルで見れば利益になるように意図された政策が立案されるというだけである。結果がどうなるかは決まらないだろう。ただ、このような政策立案がなされるとすれば、それは非常に望ましいことであって、湯浅氏が言うような社会にしていきたいものである。



 問題は、橋下さんという個人ではなく、チョムスキーの言った「土壌」、つまり水戸黄門型ヒーローを探し求める人びとの心理にあると私は考えています。そうだとしたら、それが実際には不可能なものを探し求める「ないものねだり」である以上、「ないもの」を探し求める行為は、必ず裏切られます
 現実には存在しない「青い鳥」を探し続けても、それは見つからない。いまあるもの」への不信感をテコに「次」を探し求めるサイクルそのものを対象化、相対化しないかぎり、橋下さんが失脚したとしても、ネクスト橋下が出てくるだけです。橋下さん自身が、ネクスト小泉であり、ネクスト民主党なわけです。
 しかしそれは単純な繰り返しではない。すでに多くの人が指摘しているように、日本には「待ったなし」の課題が山積しています。にもかかわらず「ないものねだり」の水戸黄門探し、青い鳥探しが続き、こいつがダメ、あいつじゃないか、やっぱりあいつもダメ、そいつじゃないか、やっぱりそいつもダメ、という非生産的なサイクルを繰り返していれば、症状はどんどん深刻化していきます。
 それがさらに人々を焦らせ、苛立たせ、政治不信を深化させていくのだとすれば、現実に起こっているのは単純な繰り返しではなく、どんどん増幅していく悪化のスパイラルだと言わざるを得ないと思います。(p.82-83)


まったく同感である。ちなみに、水戸黄門型ヒーローが現実を裏切る仕方には大きく分けて2つの類型を想定できる。

一つは、権力を握ってからリーダーが利害調整をしなければならないことに気づき(その重さを深く認識し)、人びとが期待する「悪役切り」が進まないため、人びとのフラストレーションが溜まり、ヒーローが見限られる、という場合。カリスマ的指導者は自らのカリスマの証明に失敗して失脚するが、人々は次のヒーローを探し求めることになるだろう。

もう一つの類型は、リーダーが断固としてその独善的な主張を貫き、「悪役切り」を行う場合。この場合、「悪役」は「一人ひとりの必死の生活のニーズ」である以上、社会の中で直接・間接に様々な痛みを負うことになり、後になってから自分が切られたことに気付くことになる。あるいは、切られているにもかかわらず、それがヒーローによるものであることに気付くことができず、別の「既得権益」のせいにされてしまい、さらにその「既得権益」を切ってくれる新たなヒーロー探しが始まる可能性の方が強いかもしれない。

日本では、高等教育を受けた人々でも、社会科学的な素養がない人が多く、社会という複雑な現象を客観的に見る能力を鍛えていないことに一つの問題があるように感じる。(中国の知識人の言説を見るといずれも「国・国家」を相対化できていないのと同様のこと。)社会現象を対象化、相対化して認識および評価していくというのは、それほど容易なことではないため、それをできる人を多く養成することが重要である。



民主主義とは、高尚な理念の問題というよりはむしろ物質的な問題であり、その深まり具合は、時間と空間をそのためにどれくらい確保できるか、というきわめて即物的なことに比例するのではないか。
 私たちの社会が抱えている問題はそれぞれ複雑で、一つひとつちゃんと考えようとすれば、ものすごく時間がかかります。一番簡単なのは、レッテルを貼ってしまうことです。一度レッテルを貼ってしまえば、もうそれ以上考える必要がない。
 ……(中略)……。
 これは非常に効率的です。ではなぜそんなに効率が優先されるのか。
 みんな忙しいからでしょう。そんなことにいちいち関わっている暇はない、俺は仕事と生活に追われて大変なんだと。新聞記者だって、原稿を三十分で仕上げなければならないという状況に置かれたら、自分で一からちゃんと考えることをやめて、いちばん通りの良い図式に乗せて書いておこう、それなら誰からも文句を言われないだろう、となるのではないでしょうか。それと一緒です。
 レッテルにおさめず、複雑な問題を複雑な問題として考えるにはどうしても時間がかかります。すべての人は一日二十四時間しかもってないので、その中からどれだけ、学んだり、意見交換したり、議論したりするための時間を切り出せるか。
 そして、学んだり、意見交換したり、議論したりするためには、そのための空間が必要です。
邪魔されずに一人で読書できる空間、落ち着いて考えられる空間、友人やいろんな人たちと意見交換し、議論するための空間。
 本当の意味で「民(たみ)が主(あるじ)」の民主主義を深め、自分たちで意見調整し、合意形成し、確かに「決めてもらう」ではなく、自分たちで「決める」のだということを実践していくためには、時間と空間というその二つの問題に向き合う必要がある、と思います。(p.85-87)


意識の問題に還元しないために、私なりに言い換えれば、解決可能な問題として考えるために、時間と空間の問題として捉え直す点は適切だと思う。

私個人としても、数年前と比べて時間も空間も捻出できない生活環境になっているので、実感としてもよくわかる。



 自分が自分の苦しさを乗り越えることと、他者の苦しみを受け容れて癒すこととは、別のことです。
 必要なことは、自分は声を上げられない状態にある、と感じている人の苦しみに寄り添い、その苦しさを共有し、そこから抜け出る道を一緒に探すことでしょう。「こっちに来ればいいじゃないか」ではうまくいかないと思います。そっちに出向いていく必要がある。
 福祉の分野では「アウトリーチ(出向く、訪問)」と言われますが、それは単に物理的に出かけることを指すのではありません。出かけても、家に来て説教されるだけならば、誰も「二度と来てほしくない」と思うだけです。
 出かけていくのは、相手の気持ちに合わせる、ということです。それが合意形成の基本の第一歩ではないかと思います。「こっちに来い」型のアプローチから「そっちに行くよ」型のアプローチ、押しつけるよりは引き出すアプローチ、自分の世界に引き込むよりも、相手の世界に飛び込むアプローチ。
 そうして初めて両者の間に現実に対話の回路ができてくる。
「○○がやればいいんだ」で終わらせてはいけない。(p.116)


「なるほど」と気づかされることが多い。分かっていても現場ではなかなか難しいことかもしれないが、こうした方向のことは難しいがゆえに、意識して習慣化したり組織としてのノウハウを蓄積していく必要があると思われる。



 先に、伝統的な地域コミュニティ(地縁)では、コミュニティはあるものだったと言いました。都市はどうだったでしょうか。
 濃密な地縁関係は、時に息苦しさをもたらします。特に若い人にとってはそうです。だから高度経済成長期、農村から都市部へと人口流入が進むと「地域コミュニティなんて前近代的だ」「都会は匿名の存在でいられるからいいのだ」「マンションの隣の住人の顔を知らなくて何の問題があるのか」と言われました。そこでは、コミュニティはいらないものでした。
 日本においてコミュニティとは、あるものか、いらないものか、基本的にはそのどちらかだったのではないかと思います。「人と人を結びつける」「人と人との関係を結び直す」「一からコミュニティをつくる」というのはどういうことで、そのためには何をすればいいのかというノウハウの蓄積が、日本には乏しい。これは日本の特殊性だと言っていいと思います。(p.140-141)


確かに冷戦期までの日本社会ではコミュニティは「ある」か「いらない」ものだったと性格づけられるかもしれない。鋭い指摘。本書でこれに続いて述べられるように、会社というコミュニティがコミュニティの不在を埋めていたが、90年代以降、ここがコミュニティとしての機能を次第に失ってきたため、コミュニティの需要が高まっているのは確かだろう。



 高度経済成長は、地方から都市への大移動であると同時に、地域コミュニティ(地縁)から会社コミュニティ(社縁)への所属替えと言える側面を持っていたのではないかと思います。(p.142)


なるほどと思わされる。かつてはホワイトカラー化や日本型経営などと呼ばれた現象は、人間の関係という観点からは社縁へのシフトとして捉えることができるわけだ。



 先に被災地の中高年男性の話をしましたが、男性は社縁を中心に、血縁・地縁がそれに連動して動くので、三つの縁を持っている人と、三つの縁を持っていない人、つまり無縁状態の人に二極化しやすいのです。この状態を一挙に進めたのが、高度経済成長だったと思います。(p.143)


なるほど。



「人と人との関係の結びなおし」をするのが、ソーシャルワークです。それは、これまでの文脈から明らかなように、個人的であると同時に社会的で、政治的な技法でもあります。
 ソーシャルワークは、身近な人との関係調整の技法であって、コミュニティづくりといった社会的なテーマ、民主主義といった政治的なテーマとは関係ないものと思われがちですが、それは誤解です。問題はむしろ、そういう誤解が蔓延している点にあります。
 ……(中略)……。
 貧困を過去のものに流すことで、ソーシャルワークの社会性や政治性も一緒に流してしまったわけです。
 そのため、残念ながら日本は本来の意味でのソーシャルワークが弱い。「ソーシャルワーカー」と呼ばれる職員さんはいろんな分野にいますが、その方たちがソーシャルワークをやっているかどうかは別の話です。
 それは、「人と人との関係の結びなおし」のスキルやノウハウの蓄積が少ないことに直結します。(p.146-147)


ソーシャルワークが、政治的なものだとは私も確かに思い至らなかった。確かにソーシャルワークは、ソーシャルワーカーと福祉サービス利用者の間の関係や利用者と社会との結びなおし程度のものとして捉えられてきたように思う。

人と人を結びなおす技法であれば、新たなコミュニティをつくる(もう少し古い社会学風の言い方であれば、アソシエーションとかゲゼルシャフトの結成などと言うとしっくりくるかもしれない)という社会的な側面を持つし、コミュニケーションを通して人と人と結びつけていくことは、単なるコミュニティというだけでなく、政党の結成や政党と支持者との関係の形成にまでも繋がりうるものであり、その場合には高度に政治的な問題にかかわる技法ということになる。言われてみれば、確かにそうかもしれない。ソーシャルワークについては、もう少し自分の中でも掘り下げてみたい問題かもしれない



 しかし、こうした官民の相互不信は、結局誰も幸せにしないのではないかと思います。官僚の人たちは制度・政策のプロ(職人)です。しかし、さまざまな立場の当事者の生活実態やその人たちの気持ちについては、まったくの素人です。他方、私たち現場の人間は、それぞれが携わっている分野での職人ですが、制度設計や政策の整合性を図る技術面ではド素人です。だとしたら、両者が同じテーブルを囲みながら相互の長所を生かし、より良いものを作るために建設的な共同作業を展開したほうが、より多くの人たちにとって幸福な結果をもたらすことができるのではないでしょうか。

 そして私は、そうした両者の溝を少しでも埋めるために、官民の間をもっと頻繁に行き来する人たちが増えるべきではないかと感じています。……(中略)……。もっと、政策決定プロセスを知っている民間人、現場を知っている官僚が増えるべきではないでしょうか。(p.162-163)


同意見である。湯浅氏は行政の現場を垣間見たことによって、官僚に対する考え方が現実の官僚の働きと整合するようになっているように思う。彼のように行政についての知見を得た運動家(や現場を知る官僚)が増えることは確かに社会にとって有益だと思う。

制度としてこうした人的交流を行うとすれば、どのようにすればできるか?参与というアドバイザー職をもっと官僚機構の下の方にまでつけていけばよいのかもしれない。たとえば、局長級や課長級の官僚に対するアドバイザーとして民間での活動経験者を起用する、といったことが考えられるかもしれない。

官僚が現場を知るためには、外の世界に官僚が出ていかなければならないが、仕事に忙殺されている霞が関の官僚にさらに外に出ろと言うのは、現状は無理な話かもしれない。手始めに自治体職員と国家公務員との人的交流くらいから始めるとよいかもしれない。現状では国家公務員が自治体に出向する場合、課長級や部長級以上の肩書で「下りてくる」のかもしれないが、そうではなく、窓口の最前線で市民と接するような業務を何年間かやらせるだけでも、少しは実情がわかるだろう。人事交換として自治体と国家公務員で人を交換して仕事をさせれば霞が関の仕事も人工としては足りる計算になるだろう。



現在のところ、多くの人たちが合致できる最大公約数が「政府に隠れたムダ金があるはずだ」という点にありますから、「まずは政府が身を削れ」という行革路線が強くなり、それを主張する分には、国会議員もマスコミも、あまり批判にさらされず安心、という状態になっています。
 これは税と財政の機能を強めるために税と財政の機能を弱めている状態で、「社会保障は強化するが、官の肥大化には使わない」という言葉で法制化されてもいます。税と財政=(①年金、医療、介護+②その他の社会保障を含むさまざまな政策経費+③公務員等の人件費)のうち、①を維持するために②と③を削る、という結果です。しかし、①と②は公務員が設計・運営しています。ここを減らし続けるということは、公務員の中に専門的な技能を持った人が減り、いわゆる官製ワーキングプアが増え、長い歴史的蓄積と長期の展望に立った設計・運営能力が低下していくことを意味します。本当にそれで世の中がうまく回っていくのか、私は疑問です。
 私は公務員を無批判に擁護しようというのではありません。不満はないのかと言われれば、不満はあります。私が擁護したいのは社会です。社会を擁護したいという視点から現在の状況を見ると、公共サービスを設計・運営するのが公務員という当たり前のことが忘れられて、公務員批判が自己目的化しているような危機感を抱きます。何らかの目的を擁護するための手段にすぎなかった批判が、そもそもの目的を見失って自己目的化するとき、それをバッシングと呼びます。その意味で、現在の状況は「公務員バッシング」だと感じています。そしてそれが擁護すべき社会を強化する行為であるかといえば、私は懐疑的です。私は公務員を盲目的に擁護はしませんが、盲目的な公務員批判には反対です。それは結局、公共サービスを劣化させてしまうからです。(p.177-178)


税財政の問題や公務員批判に関する見解には非常に共感する。このあたりの見解はこのブログにも多々書いてきたが(例えば神野直彦『財政のしくみがわかる本』(その3)のエントリー)、公務員バッシングと行革路線は、政策の執行機関の機能不全を招き、これは社会の利害を調整する機能が劣化を意味するから、社会にとって不利益となる、ということはよく認識するべきだと思う。



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湯浅誠 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(その1)

 要するに民間の活動というのは、賛同者だけで運営し、趣旨に反対の人たちは関係がない。没交渉です。だから、内容的には濃く、やりたいことをやりたいようにできる。ただし、趣旨に賛同した数十人、数百人でやることですから、それで日本全国をカバーすることはできません。「内容は濃いが範囲は狭い」、これが民間の活動の特徴です。
 他方、行政の制度や政策の場合、その最大の特徴は「税金を使う」という点にあります。税金は、この国で暮らすすべての人によって賄われていますから、税金を使うということは「趣旨に反対する人のお金も使う」ことを意味します。賛同してくれる人の税金だけを使って、反対している人の税金は使わない、ということはできません。
 したがって、ある政策が形になるまでには、基本的には国全体の合意を取りつける必要があります。……(中略)……。
 結果として、政策実現に向けて調整を重ねれば重ねるほど妥協の度合いが増え、内容は薄まっていく。でもその代わりに、カバーできる範囲は広く、日本全体に及びます。「薄く広く」が行政の特徴です。
 ……(中略)……。
 しかし、民間の世界しかしらないときは、「この指止まれ」方式で濃くやっていた自分たちの活動のことしか知りませんから、自分たちの狭さに対する自覚が十分にはありませんでした。だから自分たちの世界を基準にして「行政だってもっと内容の濃いことをやれるはずだ」「やらないのはやる気がなからだ」という結論になっていました。
 しかし単なる「やる気の問題ではない」ということが、参与として政府に入り、実際に政策調整に携わったことでよくわかりました。ズレは、民間の活動の頭で、公的な政策を要求していた点にありました。それは言い換えれば、反対意見を無視できる世界の頭で、反対意見を無視できない世界のことを要求する、ということです。そのとき抜け落ちるのは、誰が反対意見と調整するのか、というコスト負担の視点です。(p.13-16)


民間と行政の活動についてのこの特徴づけは簡潔・明瞭であり、私がこれまで政治について論じている素人談義を聞いていた違和感を持っていた内容を的確に表現するための道具立てを与えてもらった気がする。

また、民間の頭で公的な政策を要求するということは、現在でも優勢な意見の中に多々見られる。それでは物事はうまく回らないということを理解する人が増えてほしい。



いわば、「切れ、切れ」とはやし立てていたら、自分がケガや病気をしたときに必要な助けや費用がみんな切られてしまっていた、といった感じでしょうか。
 影響は間接的で、間接的であるがゆえに見えにくい。しかし、回りまわって自分にも影響が及ぶというのは、私たちが日本社会というコミュニティを共有している以上、避けられないことです。(p.34)


ヒーロー待望論と悪役さがしの風潮で、ヒーローをはやし立てて悪役を切るようはやしたてていたら、気づいたら自分が切られていた、という話。まったく同意見であり、似たことは私も小泉純一郎が首相として登場して以降、しばしば書いたり話したりしてきた。ただ、そうしたヒーローを歓迎している人の目は遠くを見ることができないことが多く、こうした間接的な動きを見るだけの広いパースペクティヴを持たないことが多いところに難しさの一端がある。



みんなが同じ意見を持っているような社会は、自由な社会とは言えないでしょう。
 だから、異なる意見を闘わせ、意見交換や議論をする中で、お互いの意見を調整することが必要となります。夫婦や親子のような親しい間柄でも、自分の意見や意向だけを一方的に主張し、「おれの言うことを聞かないおまえが悪い」とだけ言い続けていたら合意形成に至らないことは、誰もが経験していることだと思います。
 ……(中略)……。
 しかしそれでも、誰かに任せるのではなく、自分たちで引き受けて、それを調整して合意形成していこうというのが、民主主義というシステムです。
 したがって民主主義というのは、まず何よりも、おそろしく面倒くさくて、うんざりするシステムだということを、みんなが認識する必要があると思います。(p.46-48)


本書はいくつか啓発的なことが書いてあるが、こうした民主主義観も多くの人にとって学ぶべきものをふくんでいると思う。



 不信の対象には、議会制民主主義や政党政治も含まれています。そのことは、国会全体、議会制民主主義というシステム自体に「決められない政治」というレッテルが貼られるようになっていることからもわかります。また、橋下さんが、大阪都構想に始まって、道州制や首相公選制、参議院廃止など、統治機構のあり方を頻繁に問題にしているのも、その表れだと思います。
 政治不信はこれまでも根強くありました。しかしそれは、個々の政治家の「政治とカネ」やスキャンダルの問題、また個々の政党の体質への批判や内紛(派閥闘争)にうんざりしたといった性質のものでした。それがこの間、急速に政治システムに対する不信に発展していきました。その意味で、政治不信の質が変わったのではないか、と私は感じています。
 ……(中略)……。「決められない政治」は、個々の政治家や政党がダメだからではなく、民主主義の仕組みそのものがダメだから生じているのだ、という大きな転換です。(p.58-59)


この(政治不信がこれまでとは質的に変化し、民主主義ないし議会制民主主義という政治システム自体に向かいはじめたという)指摘は私にとっては本書から得た最大の収穫であったし、湯浅氏の危機感もこの点に集約されている。

そして、こうした風潮に乗って勢いを持っている橋下徹などは、議会制民主主義を質的に変容させ、より王制や貴族制に近い非民主的なシステムを是とする方向へとあらゆる政策を向けている、という理解に立つことが重要である。単に政策的なレベルだけで批判するのではなく、その背景にある世論の動向にも目を向ける必要がある。こうした背景を的確な言葉で説得力をもって語るということは、誰にでもできることではない。その点で、本書のような主張が多くの人から発せられるようにしなければならないと思う。




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