アヴェスターにはこう書いている?
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R.ベンディクス 『マックス・ウェーバー その学問の全体像』

カリスマ的指導は永続的な支配体系の内部にもくりかえしあらわれるが、紛争の時期には、よかれあしかれ、それがとくに要請されるのである。(p.280)


ウェーバーのカリスマについての政治社会学的分析は、昨今の日本における「強いリーダー(シップ)」待望論が蔓延するや政治的な風潮の中では、再度検討してみる価値があるかもしれない。



 家父長制的支配の第二の拡張は、経済の領域でおこなわれる。ウェーバーの見解によると、家産制は多くの相異なる経済構造と両立しうるが、極度に中央集権的な家産制的支配の発展は、しばしば貿易に依存している。(p.313)


比較的長距離の貿易を大規模に行うには、相応の経済力を持つ主体がなければならないが、近代以前の時代には規模の大きな政府が存在する場合、それはウェーバーの用語で言うならば家産官僚制を有する政府になりやすかったということは言えそうである。私見では、こうした支配の形態自体と経済の様態の間には特別に強力な内的親和関係はないように思われる。それ以外の要因(供給先または市場としての取引相手の存在、民衆の家計状況、生産や流通にかかわる技術やインフラの整備の程度、様々な地域で魅力的であると評価される商品の存在など)の方が遥かに大きな意味を持つと考えられるからである。



 法秩序、官僚制、領土内における構成的管轄権、そして正統的な実力行使の独占が、近代国家の本質的特徴である。(p.389)


ウェーバーによる既定の要約。



 ウェーバーは近代国家を定義するばあい、この政治的共同態の「目的」とか、その正当性にたいする信仰を鼓舞している特定の価値判断に焦点をおくやり方を、はっきりとしりぞけた。……(中略)……。ウェーバーは、国家によって追求される目的、国家が依拠する特定の信念を、定義から除外することによって、法理論家としてではなく社会学者として語ったのである。(p.389-390)


こうしたウェーバーの方法は、まさにマイケル・サンデルが批判するリベラリズムのやり方である。ウェーバーの当時には「文化科学」を確立しようとするにあたっては、いったん通過しなければならない道だったかもしれないが、現代においては再度「目的論」に立ち返ることにも十分な理由があるかもしれない。



 近代官僚制の第二の属性は、そこにおける「行政手段の集中」である。ウェーバーはマルクスと同じ用語を用いることによって、この集中過程が、経済においてばかりでなく、じっさい政府、軍隊、政党、大学など、ほとんどすべての大規模組織において生じていることを強調しよとした。(p.398)


同意見である。



支配権は規則にしたがって行使され、その支配権に服する者は、だれもが法的に平等な地位をしめる。
 この平準化傾向とむすびついて教育制度に重要な変化が生ずる。名望家による行政は、ふつう、素人による行政であり、官僚制は、ふつう、専門家による行政である。だれもが行政職につく平等の資格をもつということは、事実上は、学歴上の一定の要件をそなえた者ならだれでも、同等の適格性をもつということである。教育免許状が、行政職への補充の基本的要件として特権にとって変わる。(p.399)


合法的支配が優勢になると教育をめぐる競争が生じることになる。興味深い指摘である。



「政治的権力を掌握する指導者の地位が、大衆の信頼を獲得するという事実によってきまる」ばあいには、かならず独裁への傾向が生ずる。(p.417)


現在、橋本徹・大阪市長や石原慎太郎・前東京都知事または河村たかし・名古屋市長といった「人気」ないし「カリスマ性」がある(とされる)人物たちが、衆議院選挙に向けて様々な策動をしている。こうした人びとの言動を見ていると、まさにここで引用した傾向に警戒しなければならない時期に差し掛かっていると判断しなければなるまい。

「日本維新の会」が掲げる政策を見ても、内閣機能の強化といった独裁権力者にとって恣意的に権力をふるうことができる基盤をつくることや代議士の削減のようなデモクラシーの機能を弱めるような政策さらには憲法改正といった基本的人権の保障を弱める可能性が高い政策ばかりが並んでいることからも、それは明らかだろう。



 彼の判断では、暴民支配(モッブ・ルール)の脅威は、つぎのような条件のもとで最大となる。すなわち、議会が無力で人民の信頼を得ておらず、政党が強固に組織化されず、支配者の自信喪失とブルジョワジーの弱腰とのために恐怖心へのアピールが成功し、そして最後には、大都市において怠け者とコーヒー店にたむろする知識人が労働者階級の組織の欠如に乗じて政治的煽動に従事しうるようになる、というばあいである。(p.418)


暴民支配と訳されているのは、昨今は「衆愚政治」と訳されることが多い語である。ボールド体で強調した箇所は、現在の日本にも傾向として見て取れるものである。



一国民の政治的成熟度は、議会制的統治の、よりはなばなしい側面によってきまるのではなく、その国民が公務運営の仕方にかんする情報をつねにあたえられているかいないかによって、きまるのである。そのばあいにのみ、一般大衆が政府の行政にかんする理解力を発展させ、政府の行政を、かの理解の欠如した態度で見ることを、すなわち、つねに「官僚制」にたいする不毛な罵言に終わる態度で見ることを、やめるのである。(p.424)


まったく同感である。

この基準で見るとき、現在の日本の人びとの政治的成熟は極めて低いと言わざるを得ない。

どのような政策が望ましいかを事実(公務運営の仕方についての情報を含む)に基づいて判断することもないまま、強いリーダーを待望し、そのリーダーにすべてを決めてもらおうとしている。そして、「強いリーダー」たろうとする者は公務員を敵として描くことで人気を取ろうとしているからである。





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芹田健太郎 『日本の領土』

 ところで、日清戦争における日本の勝利と朝鮮・満州への進出は、ロシアの極東進出計画にとって脅威となり、清の退いた朝鮮において日露の対立が激化した。(p.34)


日清戦争に勝利したことによって、日露戦争へとつながる緊張が高まったと理解できる。軍事力によって自国の「安全」を保障しようとすると結局は緊張を高め、危険を招来することになりがちだということを示す良い例である。



 1905年9月5日のポーツマス条約によって日本は韓国における日本の特権をロシアに承認させ、満州から両国軍隊の撤退とロシアによる満州の主権の尊重を約束させたほか、旅順口・大連の租借権の日本への譲渡、長春・旅順口間の鉄道及び付属地等の日本への譲渡、さらに、ロシアの領土である樺太の北緯50度以南の地の日本への割譲を受けた。しかし、ロシアに代わって満州に特殊権益を得たことにより、この後、日本は米国の唱える領土保全・門戸開放・機会均等との間に軋轢を生みながら、大陸進出へと突き進むことになる。(p.35-36)


今度は日露戦争の結果が中国への進出とアメリカとの緊張関係を深めることになったことが読み取れる。



 紛争の解決の進め方については、係争中の島を現に占有しているのがどちら側であるかによって異なり、尖閣諸島の場合には占有しているのは日本であり、最終的解決に至るまでの間、日本は、要するに占有をそのまま維持すればよく、ことさら占有を強化する必要はない。(p.161)


本書は2002年に出た本に加筆修正して2010年に出版されたものである。2012年に日本政府が尖閣諸島を国有化したことは本書の指摘から見ると不要なことをしてしまったことになる。



 竹島編入の1905年は、韓国人にとって、自国が日本に保護国化された年であり、5年後の1910年には併合されるに至る前段の年である。竹島編入と植民地支配は無関係だと主張する日本の主張は法的には正しくとも、植民地支配を受けた歴史を持つ韓国人が「自分の国の土地で最初に取られたのが竹島だ」と関連付ける現在の認識を、それは間違いである、といくら説得しても良い関係は生まれない。自ら突き詰める以外にはない。そもそも加害者と被害者の意識の懸隔は埋められない。埋める努力をするほかはない。
 1965年の日韓条約では日本はいかなる謝罪もしていない。いまだに韓国民衆のなかに、かつての日本の朝鮮統治に対する償いを求める声がくすぶっている。竹島が韓国人にとって日本の植民地支配の始まりのシンボルであるならば、新しい竹島を成熟した日韓の協力関係のシンボルに転換させなければならない。(p.312-313)


竹島について韓国側の認識としては過去の植民地統治と結びつけられているということが分かったのは収穫であった。

領土問題がマスメディアなどで語られるとき、自国の主張でさえ特に根拠が示されることがなく、自国の領土であるとだけ主張され、係争相手の国の主張についても詳しく紹介されることがない。私としてはこの状況には大いに不満がある。自国政府の公式な主張を知ることも主権者としては必要であるが、係争相手の主張とその根拠や論理のほか、さらには人びとの認識、その認識によって喚起されている感情などを知ることが重要である。そうした包括的な認識に基づいてはじめて問題の適切な解決策を考えることができると思われる。


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E.ハワード 『明日の田園都市』

ある魅力的な名称が、開発の魅力的な型を伴ってやってくると、それが急速に名声を獲得する。提供する商品が水準以下のものであると、その商品をもっているものは、それに俗受けするラベルを張るだろう。そしてやがては、代用品に付随する不評判はラベルの名声を減少し、その結果、原商品の名声を下落させる。
 これが<田園都市>に対して起きていることである。(p.42-43)


F.J.オズボーンによる序言より引用。

田園都市という割と名の知れた構想もハワードの理念をしっかり受け継いだものがあまりないとして解説者は嘆いているようだ。

こうしたラベリングとそのある種の「堕落」はしばしば見られることなのでメモしておく。



 人びとをいかにして土地に戻すかというこの問題を解決するためにとるべき第一歩は、これまで大都市における集合を招来した、非常に多くの原因を、注意深く熟考することだということは推測に容易である。事情がそうであるならば、非常に長期の調査が、その第一着手として必要である。しかし幸いなことに、著者にとっても読者にとってもこれは同じだが、このような分析はここでは必要でない。理由を簡単にのべれば、都市に人びとを引き入れる原因は、それが過去に働いたものであれ、いま働いているものにせよ、それはすべて『魅力』として要約されるものである。そしてしたがって、古い『魅力』のもつ力が、創造されるべき新しい『魅力』のもつ力に打ち負かされるように、われわれの都市がいまもっている以上の大きな『魅力』を、人びとに、あるいはその大部分に与えない治療は効果的ではありえないことは明らかである。
 都市は磁石に、人は針にみなされる。そこで、われわれの都市がもっている以上の大きな力の磁石をつくる方法を発見することが、自発的でしかも健康的な仕方で、人口を再配分するために効果があることが了解されるのである。(p.75-76)


問題の原因となる事柄を調査・分析するのではなく、別のさらに強い魅力を作り出すことによって目的を達成するという発想は興味深いところがある。

ただ、すべてを「魅力」という曖昧な言葉に一括してしまうことには問題もあると思われる。まず指摘すべきことは、人がひきつけられるところには魅力があるとするのは、現象に対して後からつけられた解釈にすぎないということである。また、その「魅力」も、もしかするとある種の強制によって人が集まっている場合もありうるが、それを人びとがぜひとも欲しいものがあるので集まっている場合の「魅力」と同様に扱うことが適当ではない場合もありうると思われる、ということも付け加えたい。



 その計画はまた、多くの農民は額に汗してかちえた労働の成果である金貨を、これまでは地主に支払って失っていたが、こんどは、それを自分の空になった財源に繰りいれることができる、地方税地代の制度を採用する。その場合どういう形で自分の利益になるかといえば、貨幣としてではなく、道路・学校・市場などの、さまざまの有益な形で還ってくるのである。この種のものは、農民の仕事を間接的にせよ物質的に援助するものであるが、現状では残念ながら非常にきびしい負担を伴うため、本来の必要性をなかなか理解できないばかりでなく、これら公共施設のあるものを、疑惑と嫌悪の眼で見るものさえ出てくるのである。(p.107)


現代日本における財政に対する不信と似ている。税負担は「さまざまの有益な形で還ってくる」にもかかわらず、「本来の必要性をなかなか理解できないばかりでなく」「疑惑と嫌悪の眼で見るものさえ出て」いるところは共通である。私としては、この無理解をまともな状態に変えていきたいのだが。



「人間はいかにして自己を知るために学ぶことができるか。熟考によってか。否、行動によってである。汝が自己の義務を果たそうと求めるかぎり、汝は自己の内部に何があるか知るであろう、しかし、汝の義務とは何か。時代の要求である。」――ゲーテ(p.211)


自己を知るのは熟考によってではなく行動によってであるというのは正しい。自己の義務を果たそうとするかぎりという留保も、漫然とした生活では分からないという経験とも合致する。その義務について、カントならば定言命法を持ち出すところだろうが、「時代の要求」というのが興味深い。この点は、行う行動が社会ないしコミュニティの中で有益なものでなければならない、と捉え返すことができるように思われる。



これら過密都市はその役目を終えたのである。過密都市は利己主義と強欲をおもな基盤としている社会が、建設することができた最上のものであった。しかしこれら都市は、事の性質からして、つぎにいう社会にはまったく適応しないのである。
 すなわち、自己愛さえも仲間の福祉により大きな関心を払うようにさせる社会においては、われわれの天性のなかに占める社会的側面が大いに認識されることを要求するのである。今日の大都市は、地球が宇宙の中心であると教えた天文学の著述が、われわれの学校で使用されるのが不適当であると同じように、友愛の精神を現わすのには、ほとんど適していないところである。(p.238-239)


「利己主義と強欲をおもな基盤としている社会」はハワードが本書の初版を書いた直後にドイツで盛んに使われ始めるようになった「資本主義」という社会と呼応していると思われる。19世紀末から20世紀前半と20世紀末から21世紀初頭の現在は、いずれも経済のグローバル化が猛威を振るっているという点で共通であり、ハワードの100年前の提言は現在でも傾聴する価値があると思われる。



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マイケル・サンデル 『それをお金で買いますか 市場主義の限界』

お金で買えるものが増えれば増えるほど、裕福であること(あるいは裕福でないこと)が重要になる。
 ……(中略)……。価値あるものがすべて売買の対象になるとすれば、お金を持っていることが世界におけるあらゆる違いを生みだすことになるのだ。
 これで、この数十年間が貧困家庭や中流家庭にとってとりわけ厳しい時代だった理由がわかる。貧富の差が拡大しただけではない。あらゆるものが商品となってしまったせいで、お金の重要性が増し、不平等の刺すような痛みがいっそうひどくなったのである。(p.19-20)


生活に必要なモノやサービスがより多く市場に取り込まれるほど、中流から貧困世帯にとっては生活が困難になるし、心理的にも経済面に関する不安も高まるということ。



生きていくうえで大切なものに値段をつけると、それが腐敗してしまうおそれがある。市場はものを分配するだけではなく、取引されるものに対する特定の態度を表現し、それを促進するのだ。子供が本を読むたびにお金を払えば、子供はもっと本を読むかもしれない。だがこれでは、読書は心からの満足を味わわせてくれるものではなく、面倒な仕事だと思えと教えていることになる。新入生となる権利を最高入札者に売れば、収益は増えるかもしれないが、大学の威厳と入学の名誉は損なわれる。自国の戦争に外国人の傭兵を雇えば、同胞の命は失わずにすむが、市民であることの意味が貶められる。
 経済学者はよく、市場は自力では動けないし、取引の対象に影響を与えることもないと決めつける。だが、それは間違いだ。市場はその足跡を残す。ときとして、大切にすべき非市場的価値が、市場価値に押しのけられてしまうこともあるのだ。(p.20)


本書で繰り返し主張される「腐敗の異論」。確かに従来のリベラリズムではこの点は見逃されてきたことであり、多くの人びとが市場化に対して感じる反発を説明するためには極めて有益な示唆であると思われる。



ある財〔善〕や社会的慣行を腐敗させるとは、それを侮辱すること、それを評価するのにふさわしい方法よりも低級な方法で扱うことなのだ。(p.53)


高級か低級かという議論は価値判断へのコミットを避けようとする考え方を採用する際には避けてしまいがちなものである。サンデルの思想では「目的論」を採用することによって、様々なものの「相応しさ」や「高級-低級」といった価値判断を「単なる感情的な意見や感覚的な意見」とは異なるやり方で定式化できるところに魅力があると私は思う。

すなわち、ある財=善や社会的慣行の目的を、それらの有様または理念と整合的に説明できるように目的が設定されなければならないとすれば、その目的はanything goesとはならず、ある程度の類型に納まってくるだろうからであり、そうして設定可能な諸目的から手段の適切さは相応の根拠を明示しながら判断することができ、高級か低級かといった価値判断も、目的にとって価値があるかないかという尺度を示すことができるため、過度に恣意的なものに陥る危険が少なくなっているからである。



腐敗だとする非難には、ある機関(この場合は議会)が当然に追求する目的や目標の概念が潜んでいる。(p.54)


なるほど。道徳的判断に主として基づくような判断や非難の多くにこのことは当てはまるのかもしれない。よく考えてみたい問題。



お金には表現効果があった――よい成績をとることを「クール」にしたのだ。これこそ、金額が決定的なものでなかった理由である。金銭的インセンティブを受けられたのは、英語、数学、科学のAPクラスだけだったにもかかわらず、このプログラムのおかげで、歴史や社会といったほかのAPクラスへの出席者も増えた。APインセンティブプログラムが成功を収めたのは、成績を上げるために生徒に賄賂を贈ったからではなく、学業成績と学校文化に対する姿勢を変えたからなのである。(p.83)


インセンティブも目的にかなった使い方をするならば良い場合があるわけだ。目的を意識的に明示し、目的に関する了解を共有ないし共有できるようにすることは重要である。この部分についてはリベラリズム的な思想に親和的なWertfreiheitも活用できると思う。



良好な健康状態とは、適正なコレステロール値や肥満度指数の達成にかかわるだけではない。肉体の健康への正しい姿勢を育んだり、配慮や敬意をもって自分の体を扱ったりすることにもかかわっている。人々にお金を払って薬を飲ませることは、そうした姿勢を育むのにほとんど役に立たないし、それを損ねる可能性すらある。
 というのも、賄賂は人を操るものだからだ。賄賂は説得をないがしろにし、本質的な理由を外部の理由にすり替えてしまう。「あなたは自分自身の健康など気にしないので、禁煙も減量もしないのですね?では、私が750ドル払いますから、そうしてください」(p.88)


金銭的インセンティブの問題点の一つは、こうした内面的な姿勢などを育成することができないところにある。



金銭的インセンティブは一般に、長期的な習慣や行動を変えさせることではなく、特定のイベント――医者の予約や注射など――に参加させることに効果を発揮するようだ。(p.89)


金銭的インセンティブを適切に使いこなすために銘記しておくに値する指摘だと思う。



 何らかの国際機関によって、各国の財力に応じて年間の難民受け入れ人数を割り当てる。つづいて、この受入れ義務を国同士で売買させる。たとえば、日本が年に二万人の難民を割り当てられたものの、それほど難民を受け入れたくないとすれば、ロシアやウガンダにお金を払って受け入れてもらうことができる。標準的な市場の論理にしたがえば、すべての当事者が得をする。ロシアやウガンダは国民所得の新たな財源を手にするし、日本は外部委託によって難民に関する義務を果たす。さらに、これ以外の方法では避難先を見つけられなかったであろう難民が救出されることになる。
 市場のおかげで避難先を見つける難民が増えるとしても、そこには何かいやな感じがつきまとう。だが、正確に言うと反対すべき点は何なのだろうか。それはこんな事実と関係している。市場のせいで、難民とは誰であり、どう扱われるべきかについて、われわれの見方が変わってしまうのだ。市場は当事者――買い手、売り手、さらには自分たちの避難先の値段をやりとりされる人々――に、難民とは危機に陥っている人間というよりも、押しつけられるお荷物、あるいは財源なのだと考えるよう促す。
 難民の市場に侮辱的な作用があることは認めつつも、このシステムがもたらす利益は害を上回ると結論する人もいるだろう。だが、前述の例から明らかなように、市場は単なるメカニズムではない。それはある規範を具体化している。交換される善を評価する一定の方法を前提とし、促進するのである。(p.94-95)


市場は単なるメカニズムではなく、規範に与える影響を持っているということは本書で繰り返し説かれる重要なポイントである。



市場が反映したり促進したりするのは、何らかの規範であり、市場で取引される善を評価する何らかの方法なのだ。したがって、ある善を商品化するかどうかを決める際には、効率性や分配的正義の先にあるものを考えなければならない。また、市場的規範が非市場的規範を締め出すかどうか、締め出すとすれば、それが配慮に値する損失かどうかを問わなければならない。
 私は、環境や、育児や、教育への高潔な姿勢を促すことが、それと対立する考え方につねに優先すべきだと主張しているわけではない。賄賂を贈るのもときには有効だ。場合によっては、正しい振る舞いかもしれない。学業成績の振るわない子供にお金を払って本を読ませることが、読解力の劇的な向上につながるとすれば、試してみようと思うだろう――勉学の楽しみを教えるのは後でも大丈夫だと願いつつ。だが大切なのは、賄賂を贈っているのを忘れないことだ。それは道徳的に妥協した行為であり、より低級な規範(お金をもらうための読書)をより高級な規範(読書欲による読書)の代わりとするものなのである。(p.114-115)


本書で繰り返し主張されることを比較的コンパクトにまとめている箇所と思われる。

賄賂を贈る場合でも、そのことを自覚することが重要だというのはその通りである。熟議民主主義の枠組みであっても、多数の人間が関わる場でこれをしようとすると困難が生じる。市場化を是とする人々が必ずそれなりの数存在するため、賄賂を贈ることを選択した場合には、市場主義者は賄賂でしかない金銭的インセンティブを最善の方法であると吹聴しはじめるであろうからであり、そうした市場主義者たちの単純なメッセージは大衆に浸透する力を持っているからである。個人レベルでは自覚を促すという方法は有用であり、極めて重要ではあるが、社会的なレベルではやや要求の程度が高いことでもある。

このことに対する処方箋のひとつは、教育が重要であるという方向での議論であり、それはそれで正しいのだが、ひどく時間がかかるものであるという問題がある。または、社会の意思決定の方式として、平等主義的な民主主義をモデルとするのではなく、アリストクラティックな社会構造を容認するという解決策もありうるのだが、長期的にはデモクラシーを腐敗させることになりがちであるという問題がある。



 またしても、市場の論理は道徳の論理を抜きには完成しないことがわかる。(p.118)


市場はそれ自体が道徳的な面への効果をもたらすものであり、政治や道徳と切り離して論じることはできない。



市場によって満たされる欲求を市場が批判することはないのである。(p.122)


消費者が「神様」でない理由もここにあると思う。



経済学的思考においてインセンティブの言語が発展したのは、最近のことだ。「インセンティブ」という言葉は、アダム・スミスをはじめとする古典派経済学者の著作には登場しない。実際、20世紀まではその言葉が経済学の論説に現れることはなかったし、1980~90年代までは目立つこともなかった。『オックスフォード英語辞典』(OED)が、経済学の文脈でその言葉が初めて使用された例を発見したのは、1943年のことだった。『リーダーズダイジェスト』にこうあったのだ。「チャールズ・E・ウィルソンは……軍需産業に『奨励金(インセンティブペイ)』を採用するよう――つまり、労働者が生産を増やせば給料も増やすよう――迫っている」。20世紀の後半、市場と市場的思考の支配力が強まるにつれて、「インセンティブ」という言葉の使用例は急増した。グーグル・ブックサーチによると、この言葉の出現頻度は、1940年代から1990年代にかけて400パーセントを超えて増したという。
 経済学をインセンティブの研究と考える場合、市場の範囲が日常生活に拡大するだけではすまない。経済学者が活動家の役を務めることにもなるのだ。1970年代にゲイリー・ベッカーが人間の行動を説明するために導入した「潜在」価格は、安に含まれているものであり、現実のものではなかった。経済学者が想像し、仮定し、推測する隠喩的な価格だった。対照的に、インセンティブは経済学者(あるいは政策立案者)が設計し、つくりだし、世界に押しつける介入策だ。人々に体重を落とさせたり、働かせたり、環境汚染を減らさせたりする手段なのだ。……(中略)……。
 これは、見えざる手としての市場というアダム・スミスのイメージとはかけ離れている。インセンティブが「現代生活の土台」になると、市場は強制する手、操る手として現れる(不妊手術や好成績のためのインセンティブを思い出してほしい)。(p.124-126)


今ではあまりにも一般的になってしまった「インセンティブ」という語が、20世紀後半、特に1980年代以降に流布し始めた言葉だということを意識することはほとんどないだろう。個人的には、この言葉が流布するようになった経緯などを細かく知ることにも興味が引かれるが、後段の指摘はより興味深い。経済学者が活動家の役を務める、というが、日本では竹中平蔵のようにそれ以上に強い権力を持ってしまった例もある。彼らが「インセンティブ」という場合、市場は「強制する手」「操る手」であること、すなわち、彼らの考えを強制するための手段であるということを人々は理解しておく必要がある



利他心、寛容、連帯、市民精神は、使うと減るようなものではない。鍛えることによって発達し、強靭になる筋肉のようなものなのだ。市場主導の社会の欠点の一つは、こうした美徳を衰弱させてしまうことだ。公共生活を再建するために、われわれはもっと精力的に美徳を鍛える必要がある。(p.184)


市場が非市場的な価値を締め出してしまうことは、本書で繰り返し指摘・主張されていることであるが、そうして非市場的な価値が締め出されることは、すなわち美徳を衰弱させていくことになる。確かにその通りのように思われる。市場化が「拝金主義」などと道徳的に揶揄されるとき、その背後にもこうした認識が横たわっていることが多いように思われる。



 われわれは普通、保険とギャンブルはリスクへの異なる対処法だと考えている。保険がリスクを軽減する手段であるのに対し、ギャンブルはリスクを招き寄せるものだ。保険は思慮深さを示すが、ギャンブルは投機である。しかし、二つの活動のあいだの境界線は絶えず揺れ動いてきたのである。(p.203)


この後、歴史に関する叙述が続くが、なかなか興味深い。私は保険もギャンブルもあまり好きではないのだが、その理由がおぼろげながらわかったような気がする。



 学校にはびこる商業化は、二つの面で腐敗を招く。第一に、企業が提供する教材の大半は偏見と歪曲だらけで、内容が浅薄だ。消費者同盟の調査によれば、驚くまでもないが、スポンサー提供の教材の80パーセント近くが、スポンサーの製品や観点に好意的だ。しかし、たとえ企業スポンサーが客観的で非の打ちどころのない品質の教育ツールを提供したとしても、教室の商業広告は有害な存在だ。なぜなら、学校の目的と相容れないからである。広告は、物をほしがり、欲望を満たすよう人を促す。教育は、欲望について批判的に考えたうえで、それを抑えたり強めたりするよう促す。広告の目的が消費者を惹きつけることであるのに対し、公立学校の目的は市民を育成することだ
 ……(中略)……。
 不況、固定資産税の上限設定、予算の削減、入学者数の増加などのあおりを受け、財政難に陥った学校は、マーケターが校門に詰めかければ入れるしかないと感じてしまう。だが、非があるのは学校よりも、むしろわれわれ市民だ。子供たちの教育に必要な公的資金を調達する代わりに、バーガーキングやマウンテンデューに子供たちの時間を売り、心を貸し出すことを選んでいるのである。(p.280-281)


教育の商業化・市場化の有害性についての指摘は明確に理解されていないことが多いため重要。

後段の市民の非を指摘している部分については、日本の財政のことが想起された。財政の目的を顧慮することなく、諸個人の欲望を満たすために税金を安いまま歳出だけは拡大させてきたからである。



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