アヴェスターにはこう書いている?
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池田健二 『イタリア・ロマネスクへの旅』

 人口が増加し経済が発展した11世紀、各地で建築の需要も急増するが、技術者は不足していた。その時代、ロンバルディアの建築家は南ヨーロッパの各地に招かれて手腕を発揮する。古代の建築が数多く残り、ビザンティンやカロリングの様式も流入したロンバルディアには、建築の技術が集積し、建築家も育っていたのである。「マギストリ・コマニキ(コモの工匠)」の敬称で呼ばれたこの建築家たちの活躍の跡は、「ロンバルディア装飾」で知ることができる。それは、この地方の工匠たちが自分たちの建築に残した刻印なのである。(p.26)


ロンバルディア装飾は、特別に美しい装飾というわけではないが、しばしばガイドブックや建築史の解説書などで言及されることがある。その背景にはこうした歴史的展開の認識根拠としての価値があるからであろう。



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小学館SAPIO編集部 編 『マイケル・サンデルが誘う「日本の白熱教室」へようこそ』

近年の右派的言説の中で、一部のものは、既存のステレオタイプ化した左派的言説に対する反発から生じているという側面がある。そこで、そのような中には、必ずしも右派的言説ではなくとも、ステレオタイプ化した言説の弱点を克服する新しいアプローチに敏感に関心を持つ場合があるのかもしれない。
 そう考えてみれば、確かにサンデルの「白熱教室」は、そのような新鮮な可能性に満ちている。思想的に見れば、一般に「コミュニタリアニズム」と呼ばれる思想は、単純に右派とか左派とか呼べるものではない。(p.9)


近年、右派的言説に共感を持つ人々の動機には、確かに、右派的言説そのものに共感しているというよりは、左派的言説に対する反感や嫌悪感が先にあるという可能性は十分にある。逆に言えば、左派はこの点を考慮して自らの言説をブラッシュアップしていく必要があるだろう。



われわれは働くという意識が大事であって、どこで働くかじゃない。どう働くかだと思う。(p.85)


心構えとしては共感できる。



うまくいかない時にこそ、人間の品格や本質が培われる。結果が出ない時のプロセスが、人間を鍛え上げていく。(p.85)


20世紀のドイツの哲学者ヤスパースは『哲学入門』でどのように挫折を経験するかがその人間がどのような人間になるかを決めるという趣旨のことを言っていたのを思い出した。

「耐える」「我慢する」ということを知らないと思う人間を見ていると、このことの重要性が改めてよくわかる。



ただ、そうして家族という集団の利益に対して『誠実』であろうとすることと、個人の目的達成に向けて『誠実』であろうとすること、この2つの間で揉まれることで、いろんなことを考えることができた(p.89)


「誠実さ」ということを私は最近徳目としてよく考えるのだが、誠実であろうとするからこそ、このような複数のものの間でのジレンマに直面することができ、それによって人間として成長していくことができるのだとすれば、誠実さという徳目は人間を深く成長させることに繋がる徳目であるということもできるように思われる。



もう一つは世の中にはいろいろな見方や考え方があるけど、それを理解するには知識も必要だし、知識を得るための勉強も大事。そのことを気づかせる役割です(p.128)


世の中にはいろいろな意見があること、それらを理解することは人間として生きていく上で重要である。最近、強く感じるのは、そうした意見を理解するためには、そのための素養が必要だということである。そうした素養が身についていない人間は、多様な意見を認めることも、理解することもできないし、それらを理解することの重要性に気付くことすらできないことさえある。大学生くらいまでの時期にそうしたものを身につけ、その後で社会に出ていくというのはやはり大事なことだと思う。



自分とは違う結論とか、自分とは違うプロセスの議論を知ることが、大学で共に学ぶという意味で非常に重要です。自分の考えだけを吐露することで終わってしまっては、大学に来る意味はありません。(p.141)


日本の場合、高校までではこうしたことを身につけさせるような教育はほとんど行われていない。受験があるという事情のほかに、こうしたことを身につけるためには最低限様々な知識が必要になるということからも、難しい面がある。(あまり年齢が低いところでこれをやると単なる相対主義の考え方を知ることで終わってしまうように思う。)やはり大学にはこうした教育を担い、社会に貢献できる人材を育成してもらいたいものである。



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酒井亨 『台湾人には、ご用心!』

 また、台湾の義捐金で特徴的なことは、単に日本赤十字社に一括して事務的に贈るというだけでなく、対象を具体的にピンポイントで指定しているものが目につくことである。
 たとえば福島原発の鎮火が話題になった際には「東京都消防局」宛てだったりとか、仙台市と姉妹交流がある台南市が仙台市に直接義捐金を届けたりとか、とにかく具体的なのだ。それだけ台湾側が日本の事情に精通していて、よく調べているとも言える。(p.14)


引用文の義捐金とは2011年3月11日の東日本大震災に対する義捐金のことであるが、台湾の人々が日本の事情に精通しているというのは確かにそうである。これに対して、日本の人々の台湾に対する認識はそれほどの水準にはない。もっと台湾の事情を理解している人が増えたほうが良いと思う。



 日本で人気が定着したサッカーだが、台湾ではまだまだ人気はない。日本統治時代から継承された野球と、戦後外省人(日本統治時代や戦後中国大陸から台湾にやってきた人の総称)が持ち込んだバスケットボールの人気が高い。(p.28)


野球の経緯はわかりやすいが、バスケットボールが人気があるのは大陸の影響だったのか。ある社会で受容されるサブカルチャーも政治の影響を受けることがある。このうちでもスポーツは、スポンサーの存在が大きな意味を持つので、政治との関係が比較的直接的な分野かも知れない。



 日本の大衆文化は、常に台湾社会に浸透していた。1990年代には「哈日族」と呼ばれる「日本大好き」な若者が登場して、メディアの注目を集めた。……(中略)……。
 ……(中略)……。しかし当時はあくまでも「見た目」や表面にとらわれていて、日本をより深く知りたいという欲求は低かった。以前、哈日族について研究した筆者も、哈日族については米国型の消費文化の一形態にすぎなかったと指摘をしたことがある。
 しかし時代は変わった。……(中略)……。
 1990年代のドラマが日本大衆文化商品の中心を占めていた時代には、登場人物のファッションをめぐって雑談を交わす程度だったが、オタク向けアニメによって文化商品の内容と構成を穿鑿する方向に転化した。(p.29-30)


90年代と00年代以降では人気のある大衆文化商品の種類もドラマからアニメなどに変化し、日本への関心も深化したという指摘は興味深いものがある。

ただ、日本のドラマの人気が相対的に低くなったことや、それに代わって韓国のドラマの人気が高まったことなどについても言及してほしかった。また、90年代に日本のドラマを見ていた人々と00年代に日本アニメを見ていた人々とは同じではないという点にも注意を払って分析してほしいとも思う。



 そんな台湾では、「日本人みたい」というのはほめ言葉の一種である。特に女性は、これを言われると喜ぶ人が多い。(p.39)


本当だろうか?台湾人の友人たちに聞いてみたい。本書の叙述には随所に大げさな表現があり、そのまま鵜呑みにすることはできないものが多いのは難点である。



 中国が日本と台湾の関係に横槍を入れて、外務省や地方自治体の国際課が直接管轄できないようにしているために、日本と台湾の外交の窓口はまるで国内のような「代表部」機構が担当し、交流の窓口は、ケースバイケースで国交省や観光課、あるいは経産省や商工課が担当している。これも事実上国内と同じ扱いになってしまっている。
 つまり実は中国の圧力こそが、役所の実務処理としては、台湾を日本の国内化させていることになっている。(p.44)


興味深い指摘。



 ただ、ここで勘違いしてはならないのは、台湾人が「好き」で時には一部だと思うまでに傾斜している日本とは、あくまでも平和国家で、ソフトパワーがある経済・文化大国だという点だ。(p.44)


本書の中心的な主張の一つはここにあるかもしれない。この主張は日本の右派の台湾観に対する批判にもなっており、そこにも本書のモチーフのひとつがあると考えられる。



 台湾では社会的地位が高いのは、医者と弁護士だ。医者は勤務医でも良い。これは日本の地方都市と似ている。地方都市と似ているといえば、進学率が高い名門公立高校の同窓会人脈も強い。最近ではIT関連企業や起業も尊敬の対象である。
 要は金があればいいらしい。
 これと通底する話だが、だから台湾では普通の知識人や大学教授は、それほど尊敬されないし、日本ほどエリートが影響力を持っているわけではない。(p.67-68)


こうした問題(ある社会で尊敬される職業やその程度など)は、歴史的な経緯などを調べると面白そうだ。



 なぜなら「高雄」は、もともとは平埔族の部族タオカス族の集落「タアカウ」社が由来であって、ホーロー人が台湾語で「打狗(タアカウ)」と当てたのが始まりだからである。
 それが日本統治時代の1920年に、台湾語で使われていた地名の当て字が「雅ではない」という理由でいっせいに変えられたのだが、このとき「打狗」も、同じ音の日本語の地名で、京都にある高雄を拝借して、「高雄」に改めたのである。(p.149)


台湾の地名の当て字が変えられた経緯については、気になってはいたが書いている本に今まで出会わなかった。1920年頃にもなると台湾の統治もかなり安定してきていた時期だろうから、こうしたことも可能になっていたのだと思われる。



 北京語を台湾人が話す場合は、全体的にやわらかく優しく聞こえる。
 たとえば、中国では人ごみをかき分けるときに「走開(ゾウカイ)(どけ)!」と偉そうに言ったりするが、台湾ではあくまでも「借過(北京語では「チエクオ」、台湾語では「チョークエー」、私を通してください)」と謙遜表現を使う。(p.152)


このあたりは、台湾人の友人も大陸の中国人が話をしているのを聞くと喧嘩をしているのかと思ったり、友人に話しかけてきたときも喧嘩を売っているのかと思ったことがあるなどと言っていたし、実際に話をしていても、台湾の人々の物腰の柔らかさは日本の人々と割と近いと思われる。



 台湾と中国では日本に対する態度がまったく違うのはなぜか。……(中略)……。
④ 現実的な要因……歴史的にみれば日本は台湾の敵なのだが、現実には中国が台湾の敵となっている。蒋介石・蒋経国時代の対共産党政策、および李登輝元総統時代や民進党による独立の主張などがあって、台湾人にとって中国はますます遠い存在となり、最大の敵国となっている。しかし、日本は台湾が災害に見舞われた際の一番の援助国であり、中国の独裁に対して日本が民主主義であることも、日本への好感情に寄与している。(p.198-199)
確かに、中国と対立していることが日本への志向や関心を高めているという側面は否定できないように思われる。



 日本統治時代に教育を受けた台湾の高齢者やすでに亡くなった方の話で共通しているのは、「戦前の日本統治は良かった」のは、いずれも教育・法治などのシステムやインフラといった「文明化」に限定されていて、だれも「神社参拝や天皇崇拝などが良かった」などと言っていない点である。(p.204)


日本の右派による台湾観への適切な批判。



台湾人が日本人を評価できるのは、自分にも厳しいからである。
 そういう意味では、中国のチベット侵略を批判しながら、戦前の日本の侵略を弁護する一部保守派は、「台湾人が評価する日本人」の類型に当てはまらないのではなかろうか。
 一部保守派が台湾人の「親日」の中身を勝手に歪曲して、自分たちの戦前賛美の主張を正当化するためのダシや道具として使っているのは問題である。(p.206)


日本の右派に対する妥当な批判。



 台湾人の「親日」は、「中国や韓国が嫌い」なことの裏返しである。
 かつて日本を拠点に台湾独立を鼓吹していた言語学者の王育徳はこれを「中国人に対する当てこすり」と形容している。
 要するに、日本統治時代にも日本人から差別されたり、人前で怒鳴られたりと、嫌な思いもさせられたが、戦後やってきた中国人=外省人がもっとひどかった。しかし民主化が進むまで外省人批判をするわけにはいかなかったので、代わりに日本が好きだとか日本人を歓待することで外省人を間接的に批判した、というのだ。
 そして民主化が進んだ今では、台湾の若者の間に、別の形での反中感情とその裏返しとしての親日感情が強まっている。これは民主化して総選挙までやって独立国家としての体裁を整えつつある台湾をいまだに「中国の一部」として、その武力併合の野望を捨てず、国際舞台で台湾の封じ込めに躍起になっている中国を見て反感を募らせているのだ。(p.207)


妥当な指摘である。

なお、日本の右派の「親台湾」も中国嫌いの裏返しである。



逆に、日本の官僚全体はきわめて質が高いと思っている。1990年代以降、大手新聞や週刊誌で執拗に繰り広げられてきた「官僚バッシング」は、日本システムの最後の砦である官僚制を弱体化させることで日本を支配しようとたくらむ某超大国の陰謀だとすら考えている。
 とはいえ、日本の官僚機構も、今回の新聞広告問題に見られるように、失調をきたしているのも事実である。
 もっとも、日本の官僚機構がおかしくなったのは、まさに1990年代以降、新自由主義的「規制緩和」が進められ、日本を守ってきた官僚の権限や機能が意図的に奪われてきたことに起因している。そして、新自由主義は単に大企業による金儲け主義を跋扈させ、日本の中間層を解体の危機にさらしただけだった。だとしたら、官僚バッシングとそのうえでの新自由主義の推進こそが間違っていたと言うべきだろう。(p.215-216)


陰謀云々と言う部分は、政策的影響を受けたという程度の意味ならば誤りではないが、表現としては不適切。

日本の官僚が新自由主義的な「改革」によって弱体化したというのは同意見である。この行政の機能不全は今後の日本社会に目に見えにくいが深い傷跡として残り続けるように思われる。まずは弱体化の内容とその具体的な要因を分析することが、再活性化のためには必要であると思う。


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池田健二 『フランス・ロマネスクへの旅』

ロマネスク教会は、そこで採れる石材で、そこに暮らす職人によって建設されたがゆえに、地方ごとに異なる構成、異なる装飾を持つ。また、その建築を指揮し、管理したのが在地の領主や司教、修道院長であったがゆえに、その地方の歴史を如実に映し出すのである。(p.5)


本書を読むだけでもこのことはよくわかる。



 この時代、クリュニー修道会はフランスの各地で衰退した修道院の復興を進めていた。そのための手段が、特定の聖人の遺骨の所有を主張し、聖遺物による奇跡を喧伝してその聖人への崇敬を高め、巡礼を盛んにすることであった。そして有力者に寄進を求め、修道院の財政を立て直して、新教会を建設するのである。聖人崇敬、巡礼、新教会の建設、そしてロマネスク芸術による装飾。クリュニーによる修道院の改革と再建のなかでこの聖なるシステムが成立し、ロマネスクの文明が形成されてゆく。(p.14)


「この時代」とは11世紀初頭頃である。

本書を読んでいくと、ほとんどの教会堂、修道院がそれ以前の衰退から11~12世紀という同じ時代に再建され、その際に殆ど必ず何らかの聖遺物の所有を主張していることがわかる。その背景にはクリュニー修道会の方針も関係していたということが分かったのは有益であった。次は世俗権力とクリュニー修道会との関係を理解したい



フランスのロマネスク彫刻、とくにタンパン彫刻の最盛期は1120年代から30年代にかけてである。(p.17)


このように盛期が短い理由は何なのか?興味が引かれる。



 ちょうどこのころ、ガリシアの聖地サンティヤゴ・デ・コンポステーラに向かう巡礼が盛んになりはじめていた。ガリシアで聖ヤコブの遺骨発見の伝説が生まれたのは9世紀前半だが、この聖地への巡礼が活発化するのはヨーロッパに平和と安定が回復した11世紀になってからである。(p.61)


イスラーム勢力によるエルサレム占領(十字軍)やレコンキスタの進展という国際政治的な背景がここにはあるだろう。

思うにヨーロッパが平和に安定化したというよりは、その外側の世界秩序が変わり始めていたことの方がもしかすると重要なのかもしれない、とも思う。少し調べてみたいところである。



 現在のサント・フォワ教会は11世紀中頃の院長オルドリックの時代に着工し、12世紀前半の院長ボニファスの時代に完成した。その構成はオーヴェルニュ様式に似ていて、押し寄せる巡礼たちが内部をスムーズに移動できるよう、側廊、翼廊、周歩廊へと連なる巡礼路をそなえている。トゥールーズのサン・セルナン教会やコンポステーラのサンティヤゴ大聖堂と同様、この時代に成立した「巡礼路様式」を採用しているのである。(p.63)

全体の構成はオーヴェルニュ様式に似ているが、側廊の上部に設けられたトリビューンはより大きく、その空間が翼廊や後陣にまで連なるところが異なる。これが「巡礼路様式」の特徴である。(p.66-67)


巡礼路様式の詳細は分からないので知りたいが、ゴシックの大聖堂の平面とかなり似ているように見受けられる。



 西面の主題は「罪人の運命」で、下段には悪魔にいたぶられる「淫欲の罪人」と「吝嗇の罪人」の姿が大きく刻まれている。「淫欲の罪人」は乳房に蛇が食らいついた裸の女性の姿で表現されているが、これは古代の大地母神に由来する図像である。多産と豊穣を象徴する女神は、皮肉なことに淫欲の罪人となったのである。(p.110)


モワサックのサン・ピエール教会についての説明より。ここには行ったことがあり、この彫刻も見たことがあるが、それが大地母神の図像に由来するとは知らなかった。こうした背景を知ってから見るともっと興味深かっただろう。



修道院は1428年の地震で大損害を被り、修道士の姿も消えて、やがて廃墟と化してしまう。19世紀末、カタルーニャの詩人ジャサント・ヴァルダゲがこの廃墟をカタルーニャ語の詩に歌い、20世紀初頭にはペルピニャン司教カルサラードが修道院の復興に乗り出す。司教の呼びかけに応じて多くの若者たちが工事に参加し、少しずつ往時の姿を取り戻してゆく。こうして再興されたサン・マルタン修道院は、カタルーニャ文化とカトリック信仰のあらたなシンボルとなったのである。(p.139-140)


いわゆる国民国家化が進展する中で、自国のアイデンティティが求められていた時代に一致する。そうした流れの中で修道院が復興されたように思われる。こうして復興された修道院は比較的多いように見受けられる。

なお、絵画でも19世紀後半にロマン主義的な廃墟趣味が一部で流行していたこととも重なっているのは注目に値する。ここではローマ的なものが好んで取り上げられていたが、「ロマネスク」も古代ローマとの直接の関係は否定されるにしても、半円形のアーチなどの類似した要素を持っているとは言えるかもしれない。



 巨大な円蓋をどのようにして支え上げるのか。この大問題を建築家はパンダンティフと呼ばれる構造を使用することで解決する。方形の平面に円蓋を載せるため、身廊の四隅から曲面を伴う尖頭形のアーケードを立ち上げるのである。そのパンダンティフは円蓋の重量を支えるのに充分な幅と厚みをそなえている。しかし白い漆喰で仕上げられた円蓋は重さを感じさせない。こうして、重いのに軽やかな、ソリニャック独自の神聖な空間が生み出される。(p.157)


(恐らく)フランス語読みでパンダンティフと書かれている構造は、イスラーム世界で多用されていた。この構造はイベリア半島から伝わったのではなかろうか?文化的な交流の事例だとすれば興味深い。



シャルルマーニュは各地に修道院を創建、再建し、帝国の統治の拠点としたが、その管理のために『聖ベネディクトゥスの会則』の普及が欠かせなかった。(p.202)


大変興味深い指摘である。『聖ベネディクトゥスの会則』という同一の規則を持つことによって、各地の修道院の機構や規律を画一化することができ、相対的に画一的な指揮系統に組み入れることができる、ということか。

このあたりも含めて世俗権力と教会権力の関係を詳しく知りたい



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岩沢健蔵 『北大歴史散歩』

 中央ローンの一画が、あたかも自然保護区のような観を呈しているのは、近年の北大当局者が自然を守る努力を惜しまなかったことにもよるが、もっと明瞭な理由があった。ここを流れるサクシュコトニ川の水量が急激におとろえ始めたのは昭和25、6年頃からで、これはちょうど札幌駅の大改築工事の開始時期に一致しているといわれているが、涸れ川となり果てたあとおしばらくの間は法律上、河川としての指定が解除されず、河川区域ということでこの一画内の建築が認められなかったことが、結果的には自然の地形を守ったのである。ちなみに、河川区域の指定が解除され、この区域全体が北大の管理下に入ったのは昭和49年11月のことである。(p.12-13)


中央ローンが現在あるような状態に保たれている理由。水量が減る前はサケが遡上することもあったというが、今では考えられないことである。



 最初の建立が、大正期の安定した帝国大学において、しかも功成り名遂げた大先生たちの手でおこなわれたのに対し、戦後の再建運動が、たとえば胸像の金属材料さえ入手困難という窮乏期に、戦場からかろうじていのちひとつ持ち帰ったというような栄養失調直前の学生たちの主導で始まったということは記憶にとどめるに値するだろう。(p.21)


北大構内のクラークの胸像とその再建についてのコメント。ちなみに、創建は大正15年、再建は昭和23年である。

なお、本書で解説されているが、クラーク胸像の台座の中央を飾る花模様はヴィクトリア・レギアという睡蓮で、若きクラークがロンドンのキュー植物園で見て感銘を受けたことによって植物学者・農学者になったという逸話から来たものである。



まだ残っているのは南門のガードマン詰所で、この木造建築は台帳によると明治36年(1903)、「門衛所」として建てられた。建築後80年以上、まさに、明治健在なり――。ついでに記せば、現在南門に立っている赤レンガの門柱は、昭和11年にいまの正門ができるまではその位置に立っていたものを移設したものである。(p.34)


意外なところに古い建物が残っているものである。また、正門が昭和11年に建てられたのは、北大が天皇の行在所となったためではないかと推察される。



 黒田清隆が学校運営の一切をクラークに任せきったのでクラークもあれだけのことができた。……(中略)……。▼男子ことを成さんとせば先ず人を選ぶ、選んだら任せきる、万一こと成らざる時においどんが腹バ切り申す、という薩摩型の美風がクラークとの関係において良好に作用した。▼佐藤昌介も後年、黒田の力を借りた。北大は、黒田の悪くちをいえない。(p.163)


黒田清隆という人物も北海道開拓を知るには必ず知らなければならない人の一人であると思われる。



 最近では、本書でも再々引用している越野武助教授(工)の「札幌農学校の建築」(『北大百年史』通説)に詳細な解説があるが、それら専門家の説明するところによれば、モデル・バーンの建築上の最大の特徴はバルーン・フレイムという構造にある。19世紀アメリカのホール建築とか大動物舎に多く見られる様式で、演武場や、穀物庫(重文指定の一棟で、ブルックスのコーン・バーンと呼ばれる)もこれによっている。
 簡単にいえば、柱材を主とする構造法でなく、薄板を構造材として多用し、外壁板全体に力を持たせることによって屋根等の重量を負担させる。それによって内部に広大な空間を確保する、というものだ。(p.165-166)


この工法の名前はしばしば聞くのだが、なかなか実地で見てもその構造が理解できないというのが実感である。理解を深めたいところの一つである。



 周知のとおり、すでに屯田兵制度があった。農学校生徒は、農の指導者であり、かつ有事において兵の指揮官であることが期待された。(p.175)


なるほど。



結局のところ、屯田兵は、ついに北海道防衛のためには一発の実弾も射たなかったが、明治10年の西南戦争には琴似、山鼻の全中隊が熊本に派兵され、西郷軍と戦って何人かの死傷者を出している。演武場で教練を受けた初期の学生が実戦の指揮官となることはなかったわけだが、のちの日露戦争に際しては、札幌農学校から79名が出征し、うち14名が戦死しているという事実を忘れてはならない。(p.176)


戦争というと日本では第二次大戦のことばかりが出てくるが、勝利した戦争での悲劇なども記憶にとどめられてしかるべきであろう。



 この碑の隣にもう一つ、「寒地稲作この地に始まる」と刻まれた石碑が建っている。地元の広島町が開基80周年記念事業として昭和39年に建てた物というが、北海道で稲作をおこなうことに対して極めて否定的な意見を述べていたのがクラーク博士なので、この取合せはいささか戯画的である。(p.190)


この碑とはクラーク別離の地碑である。ここには最近行ってきて非常に勉強になったのだが、クラークとの戯画的な関係についてまでは思い至らなかった。むしろ、この旧島松駅逓所では、クラークが別離に際してBoys, be ambitiousと言った後に続けてlike this old manと続け、このold manとは寒地稲作を実践した中山久蔵のことを指して言ったという説が紹介されているので、むしろ、クラークは寒地稲作を称揚しているものとして紹介されていたからである。

本書ではこのBoys, be ambitiousという言葉について考究されているが、そこからするとどうもこのlike this old manが続いたという説は採用できなさそうな感じがする。クラークが稲作に否定的であったのならばなおさらである。

ちなみに、引用文中の広島町は現在は北広島市となっている。



 要するに、むかしの日本人はすべてが――現在の日本人も相当部分が――義務教育でこれを教えられているのである。(p.192)


Boys, be ambitiousが有名な理由の一端はここにあったらしいことがわかる。



 明治19年(1883)3月9日、クラークはアマーストで死んだが4月22日付けの米紙The Christian Unionに内村鑑三がクラークを追悼する一文を寄稿した。内村は島松の別離の光景を叙述しているが、別れの言葉をBoys, remember that――.と記述している。that以下は、私は諸君に福音を伝えたことを最大の誇りとしている――それを忘れないでくれ、といったというのだ。じつはこれが別辞を記録した最古の文書なのである。
 内村も新渡戸も第二期生だったから島松の現場にはいなかったので、内村が追悼文で違う句を紹介したのを異とするには当らないかもしれないが、内村も新渡戸も、随分のちになってから、まるで、ボーイズ・ビーアンビシャスは彼らによって風教の資たるの地位を与えられたといってよいほど、豊饒な詞藻を展開するのである。(p.195)


Boys, be ambitiousはクラークが去ってかなりたってから彼の弟子たちによって弟子たちの伝えたいことを伝えるために利用されたという面があるようである。



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江差観光ボランティア協会 『【江差の歴史と伝説】江差・旅の本』

 松前藩の発祥の地として当時北海道の中心地であった上ノ国に隣接し、鴎島が風と波を防ぐ天然の良港であったことから、江差には多くの和人が住み着くようになりました。上ノ国の蠣崎氏が松前に移ってから上ノ国は少しづつ衰え、政治の中心は松前、経済の中心は江差に移っていきました。
 交易港として江差に繁栄をもたらしたのは、ヒノキアスナロ(ヒバ)の切り出しでした。当時、上ノ国から厚沢部までの間に、大きなヒノキアスナロの林がありました。この頃、江差には木こりが1100人住んでいるという記録が残っていますから、豊かな木材資源を目当てに本州からたくさんの木こり、木材商が江差に渡ってきたのでしょう。(p.36)


引用文の言う「当時」がいつのことか判然としないが、蠣崎氏が松前城の場所に移ってきたのは1606年頃だから、概ね15世紀から16世紀のことと思われる。

江差というと、鰊漁で栄えた町というイメージが強かったのだが、その前にはヒノキアスナロの木材資源の輸出が重要産業だったというのは、今回訪れた際に初めて知った。



 さて木材貿易が盛んになると「江差は入船700艘」と言われるほど、賑わってきました。ヒノキ生産は松前藩にとっても重要な産業となったことから、江差の5つの山に厚沢部の2つの山を加えた7つの山を「御山七山」として松前藩が直接取り締まり、延宝6(1678)年、その番所を江差に置きました。この番所の設置が江差の繁栄を決定づけました。番所は今の旧檜山爾志郡役所のところに置かれ、その山門は法華寺の山門として残っています。
 もっとも江差に番所が設置された17年後(元禄9年)に、大規模な山火事が起こり、ヒノキ山を半分近く焼失してしまってから、江差のヒノキ交易はふるわなくなってしまいました。しかし、それを補うように、ニシンが江差港の交易の中心になりました。(p.47-48)


江差に鰊漁がもたらされたことに関しては、折居という姥が瓶子に入った白い水を海にそそぐと鰊が大量に押し寄せ、折居が人々に教えた漁法によって人々が生活できたという伝説があるが、ヒノキアスナロによる交易が鰊漁の前にあり、人がある程度集まっていたからこそ、江差の人々に鰊漁を教え、鰊が特産品となることができたという面があると思われる。もし、事前に多数の人が住んでいなかったとしたら、仮に鰊漁で栄えることができたとしても、こうした伝説は生まれなかったように思われる。

江差の歴史は面白い。先日訪問してみて、景色の美しさも気に入ったが、歴史の展開も興味深いものがあることが分かってきた。


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大沼盛男 編著 『北海道産業史』(その2)

 札幌器械場を含む北海道の官営工場や鉱山の経営は、官業の常で、そのほとんどが収支は償わず巨額の赤字を抱えていた。開拓使は、そのため当初の計画をはるかに上回る2000万円余の巨費を北海道経営に投じて、その使命を終える。以後、北海道経営は3県1局時代を経て1886(明治19)年、北海道庁設置をもって新たな段階に入る。この期の経営目的は、岩村通俊長官の「自今以往ハ貧民ヲ殖エズシテ富民ヲ殖エン、是ヲ極言セバ人民ノ移住ヲ求メズシテ資本ノ移住を是求メント欲ス」という言に示されるように、本土における資本の原始的蓄積によって生成した資本と労働力を北海道に導入しようとするものであった。この資本導入を容易にするための保護育成策として、官営工場・鉱山などの超低価格による払い下げや、北海道に進出した大資本に対する利益保証、利子補給などが実施され、この手厚い保護政策に守られて政商・財閥・藩閥官僚などによる投資が急速に進展する。このように北海道では、本土における官業払い下げの時期に若干遅れながらも、道庁設置から1890年ころにかけて官営工場・鉱山の払い下げが活発化するのである。(p.194)


このあたりは北海道の工業に関する基本的な流れとして押さえておきたい。



 1889(明治22)年、幌内炭鉱と手宮間、幌内-幾春別間の官営鉄道が、北炭にわずか35万円余という破格の条件で払い下げられ(投下工費229万円)、しかもその後8年間に5%の利益保証が付され、利子補給総額は106万円にのぼった。北炭は、このような国の手厚い育成保護の下で、幾春別・夕張・空知の各炭鉱を開発し、積出路線として室蘭-空知太(現・滝川市)間、追分-夕張間に鉄道を敷設していく。鉄道部門の製造修理は、開拓使時代の1880年に設置された手宮工場が担ったが、敷地狭小により拡張が困難なため作業量増大に対応できず、1900年に岩見沢工場が新設された。1903年には工場の主力が岩見沢に移り、手宮はその分工場となる。(p.195)


官営工場等の払い下げが破格の条件であったというのはよく聞くが、その具体例。



 このように満州事変までの戦前期の北海道機械工業は、兵器・造船部門としての日鋼函館どつくという2大企業がそびえたち、さらに国内6大鉄道工場の1つに数えられた鉄道院(省)札幌工場をはじめとする鉄道院(省)道内諸工場と官営工場の歴史的系譜を継ぐ札幌工作が並立して、この4者で圧倒的な比重を占め、その周辺の第1次世界大戦中から1920年代の重化学工業生成期に次第に増加した零細な中小機械工場が群がるという構造が成立したと推定される。(p.203)


戦前期の北海道の工業はこうした少数の巨大事業体が主力だったということは、全体としては力がなかったことを反映しているとも言えそうである。



 明治の官営工場設立とその民間払い下げに始まる地場産業として成立した味噌・醤油工場と、府県から北海道市場に参入した津軽味噌佐渡味噌による三つどもえの対抗関係という図式が、これら製造業の北海道における歴史的な推移の特徴といえる。この枠組みは、明治期から今日に至るまで変わってはいない。(p.219)


本書によると、地場産業は小樽で事業を行っていた石橋商店が初めで戦前期には道内需要の大きな割合を占めており、津軽味噌は「かねさ味噌」の源流、佐渡味噌は「マルダイ味噌」の源流だという。



預金残高では、昭和10年代初期に小樽、函館、札幌の順であったが、1939(昭和14)年には札幌が小樽を抜いた。北海道拓殖銀行を含む貸金残高では、1938年から札幌、小樽、函館の順となっている。また手形交換高では、1937年4月には小樽が函館・札幌のおよそ2.5倍の規模であったが、1941年末に札幌が小樽とほぼ肩を並べ、函館は小樽・札幌の半分以下の規模であった。この3市の金融部門における勢力関係の変化は、卸売商業についてもほぼ当てはまるように思われる。(p.278)


1940年前後に札幌が躍進し、戦後には圧倒的な位置を占めることになる。



さらに、樺太市場の消滅が小樽市卸売商業に大きな打撃を与え、千島市場の消滅と北洋漁業の衰退が函館市の卸売商業の活動領域を大幅に狭めたことが、小樽・函館両市における卸売商業の衰退に拍車をかけたのである。(p.278)


小樽と函館の衰退の要因。



 ここで、北海道の卸売商圏について整理する。明治・大正期では、函館・小樽両市の卸売商業が北海道商圏を支配していたが、大正から昭和初期にかけて札幌市の卸売商業が台頭し、昭和初期には札幌、小樽、函館3市の鼎立状況が成立した。その後、戦時統制期を経て札幌市では卸売商業の勢力が著しく拡大し、小樽・函館両市の卸売商業は広域卸としての地位を失い、地域卸売商業となった。これに対して道外商社が多数進出した札幌市の卸売商業は、小樽・函館市の卸売商業が担っていた広域卸機能化をほぼ一手に引き受け、また札幌圏人口の急増化にも支えられて一極集中構造を確立したといえる。(p.280)


北海道の商業構造の変動を的確に要約している。



 ところで、本州からのバブル資金流入で大きな影響を受けたのが函館市である。市の西部地区がマンション建設ラッシュに見舞われたため、1988(昭和63)年4月には景観が損なわれないように歴史的景観条例を制定。同年9月には伝統的建造物群保存地区にも指定している。(p.302)


こうした規制の様子は函館山からの景観を見るとある程度は容易に推察できる。



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大沼盛男 編著 『北海道産業史』(その1)

 明治末に確立する北海道産業の動向をみるために、産業別生産額の構成比を図1-2で検討しよう。これによると、まず明治末には地場素材利用の木材・木製品工業、食料品工業が全産業の首座を占め、大正以降の発展期には木材・木製品の後退の間隙を縫って、パルプ・製紙の化学工業が急速に伸びて首位の食料品工業を追い上げ、大正末から昭和初期にかけて首座を獲得する。
 これが昭和恐慌期を経て準戦時体制に入ると、産業構造の軍事化が北海道にも及び、金属・機械工業の躍進が目立ちはじめる。(p.10)


食料品工業が明治末頃から大正期頃までは北海道の主要産業だったことに注目したい。

開拓使の事業でもビール事業が唯一成功した製造業であり、これは大麦とホップを原材料とする食品関連産業であった。また、鰊漁で栄えた港町では身欠き鰊などの製造も盛んだった。米も明治初期から栽培可能なように研究していた人(中山久蔵など)がいたし、開拓使も札幌にあった偕楽園には農業試験場という側面があり、明治初期に明治天皇が視察に訪れるなどの力を入れていた。

北海道の次に日本の植民地となった台湾も製糖業や昭和期になってからもバナナやパイナップル(缶詰)など食料品関連の産業が主要産業だったという共通点がある。

国内の産業構造全般についての知識が今のところ私には欠けているので十分な評価はできないが、こうした状況であったということを知っておくのは意味がある。

また、準戦時体制に入ると重工業も行なわれたということも銘記されてよいだろう。



 北海道の農業開拓は屯田兵制度から始まるが、日清・日露の戦争を経て、日本の農業資源を求める行動は朝鮮・台湾・「満州」などの「外地」へと向かう。その中で当初、全国の10%水準にあった北海道予算は切りつめられ、農業開発については民間主導の路線がとられることになる。1886(明治19)年に北海道庁が設置され、北海道土地払下規則、北海道国有未開地処分法によって配分された土地の多くは、華族・政商などの資産家に払い下げられた。当初は畑作・畜産の大規模直営農場の実験も行ったが失敗に終わり、小作農場制が一般的になる。農場主は主に東京などに居住しており、農場管理人の下に府県から募集された小作人が入植し、開墾に従事するのが通例であった。(p.44)


大正末期に化学工業が食料品工業の生産額を上回ることも、農業資源を外地に求めたことと関連があると推察される。

北海道の土地の払下に関しては、いろいろと語られるのを断片的に読んでいるが、なかなか全容が理解できないでいる。また、不在地主がいたということもたまに語られるが、これについてもなかなか理解が進むような叙述に出くわさない。これらのことはもう少し調べてみたいと思う。



当初、開拓政策の顧問として来道したアメリカの技術顧問ケプロンなどは稲作を否定していたが、民間では徐々に施策が行われ、1902(明治35)年には北海道土功組合法が制定され、灌漑投資のための組織(現在の土地改良区)が生まれる。この時期に、灌漑投資を推進したのは小作農場であり、1000haを上回る土功組合が設立され、稲作を望む農民を引きつけた。1900年に設立された北海道拓殖銀行(以下、拓銀)は、主にこの小作農場による開墾投資や土功組合の起債引き受けに大きな役割を果たしたのである。(p.45)


ケプロンだけでなく、明治政府も稲作には否定的であったが、開拓使(黒田清隆)は積極的であり、中山久蔵らの民間での稲作の試験を見て見ぬ振りをする形で側面支援していたらしい。

拓銀の果たした役割というのも北海道の歴史を語るうえではおそらく欠かせないものであるように思われ、今後少し調べてみたい。



 北海道農業の行き詰まりは、明治期の原始的蓄積期の終了である1920年代の耕種農業の転換期に現れる。それまで北海道農業は自然の地力に依存する略奪的農法を繰り広げてきたが、1913(大正2)年の冷害凶作などの発生で北海道農業の危機が深まり、このとき酪農の必要性が農政上の課題として登場した。黒澤酉蔵らはデンマーク会を組織して農業危機の打開を図ろうとした。この会は、乳牛飼養による畜産物収入確保と家畜糞尿の耕地還元による地力維持を図る有畜複合経営をめざす協同組合運動であり、当時、世界有数の畜産国であったデンマークに注目して研究に努めたのである。
 1925(大正14)年5月、宇都宮仙太郎、黒澤酉蔵、深澤吉平、佐藤善七らが「有限責任北海道製酪販売組合」を創立し、翌26年3月、「保証責任北海道製酪販売組合聯合会」(以下、酪聯)に変更して協同組合としての体制を整えた。この酪聯の誕生は、関東大震災(1923年9月)による日本経済が壊滅的打撃を受けたことを背景にしている。酪聯は第2次世界大戦後、雪印乳業(株)へと転換し国内最大の乳業メーカーへと発展した。(p.64)


日本において北海道に特有の産業の一つとして酪農がある(明治政府も開拓当初は酪農を普及させようと考えていた)が、その歴史が意外と浅いことに驚いた。

ヨーロッパから導入する際にデンマークから学んだというのもやや意外な感じがした。



 1939(昭和14)年9月、第2次世界大戦が勃発し、日本は経済・社会関連の統制を強めた。とくに北海道庁は、道内乳業メーカーを統合して国策会社の設立を指導した。酪聯は、明治製菓(株)、極東煉乳(株)、森永煉乳(株)と協議の結果、これらの3社と統合することになり、1941(昭和16)年4月、「有限会社北海道興農公社」(後に株式会社に変更)を発足させた。いずれにしても、酪農の発展は図3-1、3-2にみられるように、戦後に本格化する。(p.65)


酪農の歴史的展開は少し調べてみたい。



 この時期の北海道における職業別人口を表4-2でみると、1878(明治11)年の総就業者数は10万6773人であり、このうち漁業者が3万6008人で全体の34%となり、1882年には4万7332人で全体の37%を占め、このころまでは漁業者の移住が際立って多いことが分かる。一方、農業者については、1878年の2万1172人(19.8%)から82年には2万3824人、全体の18.6%となり、この間の農業者移住がほとんど進まなかったことが明らかである。(p.90)


明治の初め頃は内陸の開拓なども十分でなく、交通手段も十分確立していなかったため、農業者が移住しても採算が取れる経営をすることは無理だっただろう。

それと比べると漁業は鰊漁などについては、短期間で高い利益を上げることができ、製品も北前船の航路などで大阪まで運ぶことができるなど、江戸時代から続くインフラがあり、商業・漁業従事者が存在していたという相違があると思われる。



 1900(明治33)年ころから森林に生育する立木に価格がつくようになり、木材が売買されるようになった。その契機は国内経済の発展による市場拡大と北海道開拓の進展による道内市場の形成によって与えられた。北海道で成立した林産業ではマッチ軸木工場の操業が早く、材料として1890年ころからヤマナラシやドロノキ「を伐採・利用している。日清戦争以降、三井物産が北海道のナラ材を中心に道産広葉樹を輸出するようになって、道内各地で木材販売を目的とした森林伐採が行われるようになった。三井物産は1902年に砂川に輸出目的の製材工場を設立している。(p.114-115)


三井物産が入ってきたということで想起されたのは、台湾の烏来でも三井(三井合名会社)は売買のため木材を伐り出していたことである。こちらは1921年のことなので、北海道よりは少し後のことである。

また、小樽のいわゆる「北のウォール街」に三井物産小樽支店だった建物(1937(昭和12)年竣工)が現在も残っている。小樽に進出したのは明治42年(1909年)だった。小樽港は当時の北海道を出入りする物資のかなりの割合が通ったはずなので、恐らく木材も扱っていたのだろう。



1947年にはアメリカ軍の指示・要請により千歳国道が整備され、これは初めての自動車高速走行を前提とした軍事道路のため「弾丸道路」と呼ばれた。北海道におけるアスファルト舗装と、機械化施工のはしりとなった工事といわれる。(p.166)


興味深い。



 後半期では、日清戦争後の企業熱の昂揚や綿工業を主導産業とする産業資本の確立を背景に北海道への関心が高まり、資本導入のためのさまざまな政策が実行に移されていった。北海道鉄道敷設法の制定(1896年)、資本家や地主の土地処分要求に応える北海道国有未開地処分法の制定(1897年)、国有未開地の払い下げを金融面から支援するための北海道拓殖銀行法の制定(1899年)と北海道拓殖銀行の設立(1900年)などである。また、北海道開拓のための北海道10年計画(1901~09年)も策定されている。この結果、1892(明治25)年以降には自由な移民の大量流入がみられ、北海道の拓殖政策がようやく本格的に展開しはじめるのである。(p.181)


明治30年代以降に北海道の経済が急速に発展する背景にはこうした条件が整ってきたこともあるのだろう。



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高良倉吉 『琉球王国』

 もし薩摩が王国を完全に潰してしまい、自己の直轄領に編入して藩内行政と同レベルで琉球の地を扱うようになっていたとしたら、それ以後に琉球の歴史はまったく異なったものとなっていたにちがいない。薩摩が琉球の地を完全に自己の内部にとりこめなかった事情の一つに、それ以前にすでに独自の国家として存続しつづけてきた琉球の重みがあったのである。(p.73)


琉球の「本土」への組み込みを明治の北海道や台湾の植民地化と比較してみたいところである。

琉球王国という独自の王国が存在していた琉球と、独自の統治権力がなかった蝦夷地の組み込みの過程はいろいろな点で対照的で興味深いものがある。例えば、組み込み後に手厚く予算が配分された北海道とそうではなかった沖縄という点でも対照的であろう。ただ、この点は統治権力の有無というよりも、ロシアの南下の脅威というものが決定的な因子となっていると考えられるが。こうしたことも含めた「組み込みの方法」もおそらく大きく異なっていたと思われ、主にこの点について少し調べてみたい。



 すでに述べたように、1368年に成立した明王朝は、諸外国に対して冊封・進貢政策とでも称すべき対外姿勢を打ち出した。……(中略)……。
 この政策のポイントの一つは、冊封・進貢関係をもたない国々の船舶の中国入域を認めなかった点にあり、当時中国沿岸を荒しまわっていた倭寇・海寇などの武装民間貿易勢力を排除しようとする意図をふくんでいた。(p.78)


こうした政策が可能であった背景には、中国の商品が諸外国で持つ価値の大きさがあったものと思われる。経済力や技術力、さらには軍事力を背景としてこうした国際秩序は可能だったと言える。



 明朝は国ごとに入域港を指定し、市舶司とよばれる入関機関をおいて外国船の往来を管理した。琉球は福建省の泉州、日本は浙江省の寧波、東南アジアおよびそれ以西の国々は広東省の広州である。琉球専用の指定港となった泉州には来遠駅(泉州琉球館)が設置されたが、1472年に市舶司が同省の福州に移転したため、以後は柔遠駅(福州琉球館)が琉球専用の窓口となった。駅名をもつことに示されるように、入域指定港は中国国内の駅逓制度に位置づけられており、海外諸国に対して開かれた窓口の役割を帯びていた。したがって、いかに進貢国といえども、指定港以外の港に自由に出入りすることはできなかったのである。(p.80)


冊封とか朝貢という言葉は歴史に関する本を読むとよく出てくるが、それがどのような制度だったのかということは実はあまり知られていないように思う。

入港できる港が指定されていたというのは、日本の鎖国(こちらは明文化された制度ではなかったようだが)とも共通しており興味深い。



 冊封・進貢政策下での公的ルートを使って中国商品を容易に入手しうる者、また、海禁政策によって後退した中国商業勢力の穴を埋めきれる者にとって、中世東アジア世界にまたとないビッグチャンスが訪れたことになる。このビッグチャンスを手にしたのが、東シナ海の東端で王国形成の動きを展開していた琉球であった。(p.81)


中国商品には需要があり、欲しい者は多かった。供給は冊封・進貢政策で規制されていたため、供給不足の状態となっていた。中国の商人は海禁政策のため自由に活動できず、国内の商人たちは供給の担い手になる機会を相対的に奪われていた。琉球は進貢頻度が他国より多く、多くの中国商品を入手できた。進貢国間には通商可能なネットワークができていた。東南アジアにはまだヨーロッパの武装した勢力は現われていなかった。これらの要素が重なったことが琉球の中継貿易が繁栄できた条件であったようである。



 漢文が国際的な公用文として、また、中国語が国際語として十分に通用したのは、このような中国人ネットワークが存在したからであった。ということは、那覇港の近くに立地した久米村のような存在は琉球独自のものだったわけではなく、少なくとも東南アジア世界にも共通する一般的な在外中国人居留区の一つだったことになる。(p.98)


なるほど。



仮名文は、13世紀頃、琉球にわたった日本僧が伝えたというが、その日本僧たちは琉球にあって対日本外交を担当した。すなわち、中国・朝鮮・東南アジアとの外交業務を久米村の中国人が行ったのに対し、日本については渡琉した日本僧が関与したのである。(p.102-103)


首里城の城内(外郭)に王家の菩提寺である円覚寺があるのも、こうしたことが関係していると思われる。



 だが、あらためて注意しておかなければならないのは、琉球の海外貿易ルートがマラッカにまで達したとき、自動的にインド洋、西アジアそして地中海世界という西方に延びる貿易ルートと結ばれたということである。琉球の東南アジア貿易は、マラッカを介してさらに世界的な貿易ネットワークに連結されたのであり、その象徴的な事例がマラッカにおけるインド人との取引だったのである。(p.104)


マラッカの位置づけに興味が引かれる。



 16世紀に入ると、ポルトガル・スペインに代表されるヨーロッパ勢力が進出し、明朝も弱体化して海禁政策が実効性を失うとともに中国商人が大量に海外に進出するようになった。このため、琉球の海外貿易はしだいに後退を余儀なくされる。しかも、16世紀の後半になると、日本商人が直接東南アジアに展開するようになったため、琉球の東南アジア貿易は、1570年のシャムへの遣船を最後に記録から姿を消してしまう。東アジア・東南アジア世界が巨大な私貿易・民間貿易のための空間に変容したのであり、それまで琉球が占めてきた中継貿易の地位は失われたのである。(p.105-106)


16世紀における東アジアおよび東南アジアの貿易のドラスティックな変容の中で琉球の地位も大きく変わっていった。

冊封・進貢体制という公貿易を中心とする制度が機能しなくなり、貿易のアクターが変わった点も興味深い。政府がバックアップする軍事力をもってヨーロッパの勢力が侵入してきたのは、まさにこうした私貿易の空間だったことにも留意してよいのかもしれない。



 1372年から1472年までの100年間、琉球専用の入域指定港となった泉州は、元朝の頃までは中国最大の貿易港として知られ、マルコ・ポーロも『東方見聞録』でその繁栄ぶりを特筆しているほどである。(p.108)


泉州がこれほど大きな貿易港だったということは、あまり意識したことがなかったので参考になった。


以上までの引用文とそのコメントの中では書けなかったが、本書は第四章と第五章で辞令書を史料として琉球王国の統治機構と社会のありようを明らかにしていくが、この方法論は他の地域にも活用できそうであり、非常に参考になった。このあたりは本書から得た最大の収穫であった。



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外間守善 『沖縄の歴史と文化』

 歴史時代にはいると、アヂ(按司)といわれる土豪が台頭し、はじめて沖縄の歴史が動きだした13世紀から15世紀にかけては、東アジア、東南アジアの歴史も激しく動いた動乱の時代であった。(p.6)


ジャネット・アブー・ルゴドの言う「13世紀世界システム」の東の末端に琉球は位置していたと考えられそうである。その位置価は『ヨーロッパ覇権以前』を再読する機会(近々は無理そうだが)に確かめてみたい。



沖縄史の按司の出現は日本史上における武士の勃興とほぼ時を同じくするものであるが、按司の歴史的性格は、中世の武士に比較するより古代の土豪に比べるべきであろう。(p.38)


前段の指摘は興味を惹かれる。武士の勃興もまた13世紀世界システムと関連があると考えることができる可能性が示唆されるからである。後段の指摘は「中世」と「古代」という言葉が持つイメージに引きずられる危険性をはらむ主張であり、戦後の冷戦体制の時代までの歴史学のパラダイムを引きずっているところに注意が必要であろう。



 薩摩の琉球入りについては、対明貿易という琉球王国のもつ経済利権の収奪にその主因が求められがちであり、またそれは一つの要因ではあるのだが、幕藩体制そのものの伸長と、体制の内側にある薩摩の政治的・経済的窮状が具体的な引きがねになっていることも見落としてはいけないであろう。
 また、沖縄の内側からいえば、ヨーロッパ勢力に押されて中継貿易が衰退し、16、17世紀には貿易国家としての決定的な危機を迎えていた。そのような歴史的状況を斟酌しながら、薩摩入りというのは、琉球王国が遅れぎみの古代社会を清算し、中世的封建社会を迎える歴史的契機となったという見方をする人もいる。(p.76-77)


薩摩の琉球への侵攻は1609年のことだが、これは琉球の歴史において非常に重要な画期の一つである。ヨーロッパの海外進出、東南アジアと中国、日本の情勢まで考慮に入れてはじめて、この事態を妥当な仕方で位置づけることができると考えられる。

ちなみに、引用文の最後の部分の「古代社会を清算」とか「中世的封建社会」などというステレオタイプ的な概念の使用法、すなわち、(西ヨーロッパという)ある特定の地域を理解するために考え出された概念を別の地域にも適用しようとする考え方には警戒しなければならない。ひとつ前の引用文に対するコメントの最後に指摘した注意点がまさにここにある。



 これは、昭和15年、沖縄文化の研究を目的に来島した日本民芸協会の同人たちが、県治方針として標準語励行運動が盛んなことを批判したことに関して、県学務部との間にかわされた論争である。標準語運動は方言を野蛮視しているものと一方がいうと、他方は方言を賛美するのは沖縄県を愛玩しているのだと主張し、連日の紙面をにぎわせ、当時の社会の異常な関心ぶりがうかがえる。
 ここには、後進性を払拭しようとする「沖縄」自身の主体的な思惟と、中央からの国家主義の浸透という二つの面を考えねばならないだろう。重要なことは、後進性から脱却しようとする沖縄主体の焦慮が、国家主義を浸透させるための格好の条件になったのではないか、ということであり、この事件は、言語問題だけでなく、広く社会や文化の問題にも当てはまっていえることであった。(p.88-89)


二つの面のうち、国家主義の浸透という面は容易に思いつくところだが、沖縄側の心理を考慮に入れるというのは、その時代のその地域についてある程度の知識を要求する点で思いついたり、射当てたりするのが難しい。

当時の沖縄にこうした焦燥があったというのは、納得できる。

われわれにとって参考になるのは、焦燥は人々を国家主義のような単純で一見力強い主張に飛びつきやすくするのではないか、という経験的な規則である。90年代以降、日本でもナショナリズムが高まってきているが、90年代末頃は中国などの急速な経済成長や国際政治における影響力の増大、そして領土を巡る緊張などが日本の人々の考えをナショナリズムへと誘う誘因となっているように思われる。

橋下徹らの「日本維新の会」にせよ、自民党総裁選における安倍晋三の当選にせよ、こうした世相を反映していると思われる。焦燥に駆られて冷静に判断する能力を欠いているとすれば非常に危険である。



◆素朴美 沖縄を初めて訪れる人が、まず心を魅かれるのは、瓦屋根の美しさではないだろうか。ゆったりとした勾配、温かく渋味のある赤瓦の色、そして赤い瓦の間を白い漆喰が豊かに包みこんでいる姿がなんともいえず美しい。赤と白との調和もさることながら、女瓦(平瓦)、男瓦(丸瓦)のきっちりとした組合せと白い漆喰の豊かな量感がおおらかに融けあっていて、いかにも南国的である。しかも屋根の中央には、さまざまにとぼけた屋根獅子(シーサー)ものっかっている。
 しかし、おおらかに美しい南国の瓦屋根は、美しさを求めてそのように成形されたのではなく、生活の必要の中から滲み出るように生まれてきた素朴なたたずまいなのだと思う。雨風が激しく、しばしば台風に襲われる沖縄では、軒や庇は深く張るほどいいわけで、深い軒には骨格のしっかりした広い屋根が必要だし、しっくりと組みあう女瓦、男瓦が求められて当然なのである。平瓦をのせるだけで風雨を凌げる日本本土とは違い、沖縄ではさらに、漆喰で女瓦・男瓦を包みこみ、風に耐えなければならないのである。珊瑚礁に恵まれた沖縄では、漆喰はぜいたくなものではないし、美を意識し、美をつくりだす用材として使っているわけでもない。身のまわりにある素材を活かして守る生活の知恵なのである。
 生活の中から生れてくる素朴な美しさ、生活の汗の匂いの染みこんだ美しさ、とでもいうのだろうか、それは赤瓦や白い漆喰の瓦屋根だけでなく、陶器、漆器、染織等々にも共通してみられる素朴な美しさである。(p.186)


先日沖縄に初めて行ってきたのだが、この「素朴美」という感覚は沖縄の美意識の基層をなしていると感じた。

洗練されきった研ぎ澄まされた美しさとは違う、素朴な感覚が強く出ている。それでいて美しさも感じられるというものが多かった。例えば、陶器の器などからは、厚さや造形の歪みなどに洗練されたものとは違うものがあったと感じ、そうであるがゆえの温かみのようなものも感じられた。

経済や政治と美との関係も気になるところである。経済的にある地域世界の中心に位置するような場所では、実用性を中心としたものより装飾として作られるようなものも増えると思われる。様々な政治権力(国や地方領主)の間で求心力を持つような権力が存在するような場合も同様だろう。もし、そうだとすると沖縄の素朴美は、ある種の周辺性の反映でもあるとの仮説が成り立ちそうである。



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陳舜臣 『沖縄の歴史と旅』

 琉球には、「ニライカナイ」という別世界が、海のかなたにあり、そこから神々が訪れて、さまざまな豊穣やしあわせをもたらすという信仰がある。だから、外から来る人たちは福の神で大切にしなければならない。これが琉球のホスピタリティの原点である。外から来る人には、じつに親切である。実生活でも外から来る人は、通商のために海をこえてきたので、富をもたらすお客さまなのだ。(p.19)


中東にもこの考え方と似た考え方があり、外部から来た人を神からの使者として歓迎する。例えば、イランの人々のホスピタリティには何度も驚かされた経験があり、日本の感覚からするとやり過ぎと感じられることさえあったほどである。いずれも交易で栄えた歴史があるという共通点がある。歴史的経緯がその共同体に継承される共通の考え方や価値観を規定していくということか。




 琉球人が泉州や福州にいたように、泉州、福州の人も琉球にいて、これが閩人三十六姓である。記録されない文化交流があったにちがいない。(p.31)


これらの人々は、東南アジア各地に散らばっていた華人のネットワークの一環をなしていたのだが、台湾に渡ってきた人々もはじめは閩南人が多かったということとの関連性の有無などに興味を惹かれた。

閩人三十六姓は14世紀末頃から琉球に移住していったようだが、台湾に閩南人が渡航して永住するようになるのは、それよりはもう少し後だったはずである。(台湾の本格的な開発が始まったのは16世紀である。)いずれにせよ、大陸とその周辺地域を相互に関連付けながら史的展開を概観してみたい。琉球の歴史にはそうした視点を与える潜性がある。



みずからの土地では、それほどの物品を産しない琉球は、貿易は中継がおもであった。中継貿易を得意とする西方諸国の東アジアへの進出は、琉球にとってはかなりのダメージになる。(p.48)


いわゆるヨーロッパの「大航海時代」の開始は、それまで東南アジアと中国との中継貿易で栄えていた琉球王国にとって新たなライバルの出現を意味し、その優位性を失わせる要因の一つとなった。このあたりについては、高良倉吉『琉球王国』が若干詳しく、しかも簡潔に説明しているので、参照されたい。



 黄金時代といわれた尚真の治世も、その後半は下降線をたどっていた。その下降も、じつは黄金時代の現象と、同じ線の表裏であったのだ。たとえば、那覇に日本の船がしだいにふえたというのは、黄金時代の一現象だが、それが衰退の一因にもなっていたのだ。
 日本の船がふえたのは、日本の力が強くなったことで、応仁の乱がおさまり、外にむかう力となって溢れることを意味する。琉球の独自性を維持する意味では、かならずしもよろこぶべきことではなかった。(p.50-51)


このあたりも高良倉吉『琉球王国』を読めばもっと詳しく、関連事項を含めて理解することができる。



 1945年6月に沖縄戦は終結した。一木一草も焼失された、と形容される那覇市内は、この公設市場周辺から戦後の復興が始まった。まず壺屋周辺に瓦職人たちが集まり始めた。……(中略)……。
 瓦職人が集まってくると、人と物とカネが動き出す。職人たちが立ち寄る飲み屋や一膳飯屋ができ始め、露店も並び始めた。町が動き始めた。露店では密輸品もかなり出回っていたという。台湾からもいろいろ入っていたはずだ。生きていこうとする人間の息吹が物を動かし、カネを動かし、さまざまな機能が生まれ、それが集合してヤミ市へと拡大していった。……(中略)……。
 そうした風景も1965年ころにはなくなっていた、とおもうが、私の住んでいる神戸も同じだった。三ノ宮駅の近くにジャンジャン市場というのがあった。一杯飲み屋をはじめありとあらゆる物を売っていた。戦後の神戸の町も、最初に動き始めたのはまぎれもなくあのジャンジャン市場からだった。
 市場ほど住んでいる人々の生活や文化がわかる場所はない。1970年代から私はずっとこの市場を見てきたが、市場の雰囲気はあまり変わっていない。(p.112-113)


戦後の復興が市場から始まったとする見方は那覇や神戸にかぎらず、日本国内でかなり普遍的に見られた現象かもしれない。

例えば、小樽の駅前にある三角市場や中央市場や妙見市場などにも同様の現象が見られる。例えば、三角市場は戦後すぐ(昭和21~24年頃までは戦後のヤミ市であり、その後4~5年は「ガンガン部隊」と呼ばれる行商人(樺太からの引揚者なども多かったという)が商売をしており、昭和30年代になると卸売から小売の市場へと変化していったとされている。中央市場や妙見市場も戦争の引揚者が始めた露店に起源があるという。

このような市場への関心はひとつ前のエントリーで紹介した『商店街はなぜ滅びるのか』が指摘している「両翼の安定」といった考え方などに通じており、戦後の日本の歴史的展開を見ていくにあたっても、今後の経済社会のあり方を考えていくにも重要だと考える。



 壺屋で始まり、現在の牧志公設市場一帯に賑わいが広がり、それを素地に現在の那覇最大の目抜き通りである国際通りへと復興はテンポを早めて、広がっていった。(p.114)


現在はお土産通りである国際通りを歩くにしても、こうした歴史的な展開を念頭におきながら歩くと、新たな発見があるかもしれない。



 沖縄と台湾。あまり知られていないが、第二次大戦中、沖縄の人は台湾に疎開していた。その名残だろう、戦後、私が台湾に戻ってみると、沖縄のものがたくさん残っていた。(p.114-115)


沖縄と台湾の関係も興味深い問題の一つである。台湾と北海道の比較研究がかなりおもしろいと思い始めているのだが、この観点を追求するにしても沖縄も加えるとさらに深みが出るかもしれない。



 私はこの中国の態度、琉球の姿勢、そして日本の対応を評価する。三者三様のこの時代の現実主義から学ぶべきことは決して小さくない。いつの時代でも国際間の紛争は、つまらぬ建て前から起きる。……(中略)……。
 経済的な利点から琉球から手を引けない薩摩は滑稽なほどのヤマト隠しをして琉球側の中国に対する建て前を支えた。琉球側は表面上のすべてのヤマト的な風景を消して、見て見ぬ振りをしてくれている中国の顔を立てた。中国は見えぬものは見えないという態度を押し通し、儀礼的な冊封をつづけて大国の威信を保ったのである。
 外交の知恵とはこんなものかもしれない。三者には建て前で起こる紛争を避ける知恵があった。(p.150-151)


今現在は領土問題で中韓ともめているが、現代のわれわれももっと知恵を用いて適切な対処を考えたいものである。



19世紀に入ると、アメリカでは大陸横断鉄道の建設が始まり、重労働に耐える労働者が大量に必要になり、黒人にかわる労働力を中国に求めるようになった。ひとつにはアメリカ国内で黒人解放運動が盛んになり、黒人の人権問題がやかましくなっていた時代で、黒人を奴隷として自由に使役できなくなったアメリカの国内事情があった。中国人労働者の関心が高まったもう一つの理由は、黒人の死亡率が非常に高かったことがある。中国人は黒人奴隷にくらべて格段に長期間の重労働に耐えた。アメリカの資本家にとっては黒人より中国人労働者を使うほうがはるかに割安だった。
 ……(中略)……。中国人は「なま水を飲まなかった」。それが死亡率が低かった最大の理由だった。……(中略)……。
 死亡率が低いことが評判になるにつれ、中国人労働者の需要が高まり、中国を舞台に欧米の奴隷商人の活動が活発化した。(p.185)


19世紀は移民の世紀とも呼ばれるが、その実態もいろいろと興味深いものがある。



 ところで、沖縄の食糧問題でサツマイモは無視できない。1605年というから、江戸時代の初期、野国総管が中国の福建地方から持ち帰り、それを儀間真常(1557~1644)が飢饉に備えて栽培、普及に努力した歴史がある。旱魃に強く、痩せた土地にも育ち、保存が比較的簡単で、栄養があるサツマイモだ。食糧事情は格段に改善された。サツマイモの栽培と普及は王朝時代を通じ最大級の業績だった。
 ……(中略)……。サツマイモは当時の中国・福建では輸出禁止になっていた。野口総管はこっそり沖縄へ持ち帰ったに違いない。それが後にヤマトに持ち込まれ全国で栽培されるようになった。
 その中国にサツマイモが入ってきたのはフィリピンからだったが、じつはフィリピンでもサツマイモは輸出禁止だった。ということは中国も苗をこっそり持ち出したのである。サツマイモは密輸、密輸で普及した。それだけ貴重な食糧だった。(p.206-207)


食べ物の歴史は、社会や経済の繋がりが分かり面白い。



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新雅史 『商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道』

 戦後社会は、よく総中流社会といわれる。しかし、それは「雇用の安定」だけで実現したわけではない。多くの者が自営業に参入し、その都市自営業者が「安定」していたからこそ、中流社会がもたらされたのである。
 だが、近年の格差社会の議論は、「雇用の安定」ばかりを論じて、「自営業の安定」の是非について論じることがなかった。(p.20)


高度成長期には「雇用の安定」に加えて「自営業の安定」があったという指摘は、通常指摘されない問題に光を当てる点で非常に重要。なお、この「両翼の安定」という主張は本書の主張の中でも重要な位置を占めている。



 わたしたちは、何らかの規範のなかで生きている。にもかかわらず、少なくない経済学者が、ルールのない状態を理念的に設定して、規制について批判をおこなう。こうした反規制という態度こそ、一種の信仰といえるだろう。(p.21)


妥当な批判。



 また、ショッピングモールの増殖は、「自営業の安定」を崩壊させ、「雇用の流動化」――ショッピングモールで働く人の多くは非正規雇用である――を加速させた。(p.22)


言われてみれば、という感じがする指摘。本書はこうしたものが比較的多く面白い。



 社会科学では、中間層を「旧中間層」と「新中間層」とに分類する。旧中間層は土地を自己所有する豊かな自営業者、新中間層は豊かな雇用者層を意味する(図1)。この「旧」と「新」という形容詞からわかるように、多くの社会科学者は、「旧い」中間層の自営業が「新しい」中間層の雇用者層に置き換わる、と想定してきた。
 しかし、この想定は誤っていた。「旧中間層」は、大きく農業層と都市自営業層とに分けることができるが、近代化は、農業層から雇用者層への移行だけでなく、都市自営業層への移行をも進めた。この都市自営業層を安定させたところに日本の近代化の大きな特徴がある。
 商店街は、安定した都市自営業者層の象徴であった。それだけでなく、地域社会の象徴ともなったわけである。(p.22-23)


近代化論のパラダイムの枠内にある社会科学に対する妥当な批判。商店街というと、最近はシャッター街のようなものがすぐに連想され、経営の持続が難しいものというイメージが強いが、かつては安定した都市自営業者層を象徴していたということを思い起こさせることは有意義と思われる。



 20世紀前半に生じた最大の社会変動は、農民層の減少と都市人口の急増だった。都市流入者の多くは、雇用層ではなく、「生業」と称される零細自営業に移り変わった。そのなかで多かったのが、資本をそれほど必要としない小売業であった。
 当時の零細小売商は、貧相な店舗、屋台での商い、あるいは店舗がなく行商をする者が多かった。そのため、当時の日本社会は零細規模の商売を営む人々を増やさないこと、そして、零細小売の人々を貧困化させないことが課題となった。こうした課題を克服するなかで生まれたのが「商店街」という理念であった。
 要するに、20世紀初頭の都市化と流動化に対して、「よき地域」をつくりあげるための方策として、商店街は発明されたのである。
 商店街はあくまでも近代的なものであり、それも、流動化という、現代とつながる社会現象への方策のなかで形成された人工物だったのだ。
 こうして、戦後日本は、「日本型雇用慣行」による雇用者増と、商店街などの自営業層という「両翼の安定」によって支えられることになった。(p.25-26)


伝統的なものというイメージが強い「商店街」は実は「近代的」なものだったという指摘は多くの人にとって新鮮に感じられると思われるが、正鵠を射た指摘でもある。

私個人としても、この数年間、19世紀末から第二次大戦前頃までの時代に関心を強めているのだが、商店街というものまでもこの関心の圏内にあったということがわかり、非常に興味深く感じている。



 だが、商品の価値は、本来小売業の店頭で発生するものである。だから、生産者が力を持っているのはおかしい。今後は、消費者が、自分たちで支払ってもよいと思う価値=価格を決めるべきである。小売業者の役割は、消費者に代わって、生産者から価値=価格の決定権を奪い返すことだ、と中内は喝破した。(p.122)


1960年代末から70年代頃の消費者主義の台頭というのも、いろいろ調べてみるに値する問題であり、興味を惹かれた。マイケル・サンデルなども消費者主義の台頭をリベラリズムと結びつけて批判していることも念頭におきつつ調べてみたいと考えている。



 新しい年金制度は、その後の女性たちの働き方を強く規定した。
 よく知られるように、この制度のため、主婦たちは、年収130万円以上かせぐことを避けるようになった。もし、130万円以上かせいだならば、夫の扶養控除がなくなるだけでなく、年金保険料まで支払う必要が出てくるからだ。
 ……(中略)……。
 主婦たちの仕事の多くは、1980年代から伸びていったサービス産業や小売業であった。主婦パート労働の典型的な現場であるスーパーは、1970年代から80年代にかけて大幅に増えたが、それは高い賃金を求めない主婦パートが大量に増えてこそ成り立つ業態であった。彼女たちが、スーパーなどでパートタイム労働をするのは、明確な理由があった。それは、子どもたちの学費をふくめて、家計の補助をするという目的のためである。
 だが、主婦パートが、サービス産業・小売産業に流れ込むことによって、その後の若者のアルバイトの時給は、主婦パートと同じ低水準に抑えられることになった。主婦たちが、子どものためを想ってせっせとパートタイム労働に出ることが、皮肉なことに、アルバイト専業の若者たち――いわゆるフリーター――の低賃金をつくりだす基盤となった(p.150-151)


なるほど。大変興味深い指摘。 

年金制度もさることながら、所得税の配偶者控除が受けられる103万円というのも同様の意味を持っている。




 この報告書はとんでもない主張をしている。GDP比でアメリカの四倍にものぼる公共事業をおこなっているのに、それでも一層の公共事業を求めているのである。その理由は、日本がアメリカに比べて「生活小国」だからという乱暴かつお節介な理屈からであった。
 以上の経緯で、アメリカ政府は、日本に対して、道路や空港といった社会資本の整備を求めた。それは、景気回復と社会資本の整備というお題目による大規模複合開発プロジェクト――関西国際空港、東京臨海部(ウォーターフロンティア)開発など――にアメリカ企業を参入させるためであった。(p.166-167)


「この報告書」とは1990年に発表された「日米構造問題協議最終報告」のこと。

こうしたアメリカの圧力も90年代に公共事業が盛んに行われる原因となり、財政赤字を膨らませることになったということは覚えておいてよいだろう。地元の必要に基づいて計画されるのではなく、アメリカという「お上」に端を発する部分があったということは、不要不急の事業を増やし、公共事業自体に対する信頼を失わせることにもつながったのである。

この時代の公共事業のすべてが無駄だったわけではない。景気の下支えに一定の効果があったことは確かである。しかし、同じ出費を有効に使うための知恵や働きかけが、政治家にも官僚にも自治体にも一般市民にもなかったということである。それは現在も変わっていないように思われる。

なお、すぐ前の文で既に述べたことなのだが、意図を明確に理解してもらうためにあえて繰り返して書くと、一般の人々自身も有効な使い道を分かっていないということを自覚することは重要である。事は政治家や官僚が悪いと言っていれば済む問題ではないのである。



1990年代からひろがるショッピングモールは、財政投融資がばらまかれた国道アクセス道路沿いに数多く建設された。(p.168)


上の引用文との関連もあり、大変興味深い問題を示唆している。



 もう一度当時の状況を整理すると、1980年代の日本政府は、アメリカの圧力のなか、小売規制を緩和することで、小売にかかわるアクターを増やし、消費者の利益となるような消費空間を実現しようとした。しかし、それは、当然ながら零細小売商の体力を奪うことになった。そのため、零細小売商を含めた中小企業は、この機会にと、アーケードなどのハード部分を政府に要望するとともに、運転資金として、財政投融資の資金(実際は財政投融資を迂回した政府系金融機関の融資)を求めた。かくして、財政投融資は、中小企業を苦境に陥れるとともに、その苦境からの救済措置としても用いられたのである。(p.171)


思い返すと、私の地元でも1990年に新しいアーケード街ができていた。小さな地方の事例も、時代の趨勢の中での位置づけがわかると、興味深く見ることができる



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