アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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「思想 2007年3月号」
「教育学の混迷」 広田照幸

ポストモダン論の台頭によってナイーヴな普遍主義への信頼が崩れた時、「人権」や「発達」に足場を据えた教育学は、懐疑にさらされることになった。「地域の人」や「子ども自身の声」に批判の足場をおく議論は、新自由主義が力を得てくるにつれ、欲望に満ちた消費主体の要求との区別が困難な事態に立ち至った。(p.3)


興味深い指摘。



「ジャンル、スタジオ、エクスプロイテイション――エドガー・G・アルマー論の余白に――」 加藤幹郎

 それにしてもB級映画監督とは厳密に言って何を意味するのか。B級映画は今日、低予算映画ないし低俗映画と同義でつかわれているが、それは映画史上正しい用法ではない。アメリカ映画産業がA級映画/B級映画の二分法を採用した契機は大恐慌にある。1929年来、長引く不況下で、おそくとも1932年に一本分の入場料で二本分の長編映画が楽しめるという、観客に割安感をあたえる二本立て興行という新しい映画館経営手法が確立する。40年代いっぱいまでつづくこのA級/B級映画二本立て興行という新システムは、やがて大手映画スタジオがもっぱら高予算のA級映画を、中小規模の映画スタジオが低予算のB級映画を担当するという制作会社の分業体制として定着し、新しいスタジオ・システムの到来を意味するようになる。(p.28)


B級映画という言葉の裏にも、産業としての在り方や経済動向が隠されているというのは興味深い。



「自然史的愛言学――ヤーコプ・グリムの思想――」 永田善久

しかし対貴族という枠組で捉えられていた18世紀におけるフォルク概念は、19世紀になると反ナポレオンを旗印に掲げた解放運動の中で、徐々にそのイデオロギー的転向を起こしていく。つまりフォルク概念はもはや対貴族というよりは対他民族という意味連関における排他主義の要求をより鮮明に打ち出すようになっていくのである。(p.54)


Volk概念が当初は貴族に対する「平民」「人民」の意味あいが強かったものが、国民国家化の進展や国内の統合とともに外部と区別される「国民」へと意味が変わっていった。


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折原浩 『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か』

本書では、「四階梯尺度」が、「旧稿」における体系構成の礎石であり、したがって「旧稿」読解の道標とも羅針盤ともなろう、という方針提起傍証として、部分的には「旧稿」の内容(たとえば「ゲマインデ」論、「階級」論、「支配」論)にも立ち入って、必要最小限に論ずるだけである。(p.15)


四階梯尺度(同種の大量行為、無秩序のゲマインシャフト行為、諒解行為、ゲゼルシャフト行為)が旧稿体系の礎石であるという理解は折原の主張であるが、大変興味深いものがあり、参考になる見解と思われる。



「カテゴリー論文」を読んでいれば、「社会学的基礎諸概念」は決疑論的整序・再編成として容易に読めるが、逆に、形式的完成度の高い1920年の叙述から、形成途上の「カテゴリー論文」の思考動態を読み取ることは、かえって困難であろう。(p.28)


なるほど。



 さて、4~5年にまたがって執筆された「1910-1914年草稿」の手稿に、いくつかの「層」ないし「群」があるのは、しごく当然で、なにも驚くにはあたらない。……(中略)……。しかし、そうした「層」ないし「群」を見分けることと、そうして見分けられた「層」ないし「群」の間に、概念上の不整合を見いだすこととは、別のことである。(p.81-82)


折原によるシュルフター批判。区別と不整合との相違についての指摘は一般的にも重要。



 ここでヴェーバーの念頭にあるのは、いいかえれば、こうした類的理念型群の構成と適用によって客観的特性把握がめざされているのは、明らかに「西洋中世世界」であろう。(p.165)


旧稿で展開される類的理念型群が西洋中世世界の特性把握を目指して構成されているということを念頭におきながら読むことは、理解を大いに助けてくれそうである。



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