アヴェスターにはこう書いている?
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結城康博 『国民健康保険』

 しかも、「あの病院には、名医がいるから、自己負担額が四割になる」とか、逆に「あそこは評判が悪い病院だから、二割負担で済む」といったことはありません。このように、患者側に医療機関のフリーアクセス権が公正に認められているのは、日本の医療制度の大きなメリットといえるでしょう。(p.2)


こうしたメリットは日本に住んでいると当たり前すぎてあまり感じられないことであるが、そのメリットやデメリットを相対化して捉え直すことは重要である。



 一般的に一人当たりの平均医療費を、高齢者(70歳未満)と若者とで比べると年間4.8倍もの差があります。若者が年間約18.1万円に対して、高齢者は約87.0万延です。特に、入院医療費では、5.8万円に対して43.2万円と約7.4倍にもなります。(p.16)


この種のデータを的確に分析することが、適切な制度設計をするために欠かせない。しかし、こうした基本的なデータについて共通の理解が成立しているとは言えず、制度設計をするための基礎が固まっていないのが日本の社会の状況である。



 既述のように国民健康保険制度は市町村国保のほかに国保組合といって、医師や建設業などといった職種ごとに組合を作って医療保険制度を運営しています。国保組合全体では財政的には黒字の保険者が多く、保険給付に対する積立金比率が一部には約40%になっているとの調査報告がなされました。
 市町村国保の財政赤字が深刻でありながら、もう一つの国保組合の財政状況が黒字化している点は不公正といえるでしょう。しかも、国保組合にも市町村国保と同等に、保険給付全体に対して多額の公費が投入されています。黒字の保険者が多いなか、国による税金の投入が必要かという議論も生じています。(p.50-50)


本書の著者の比較的明確な立場の一つとして、この国保組合に対する批判的スタンスがある。

歴史的経緯からは国保組合が成立し存続してきたことは理解できるが、確かに現在において分立させておくメリットは日本の社会全体として見た場合には恐らくないと思われる。団体としての利益が明確なので、これらの国保組合は政治的な影響力を持つことができることが、制度改革の際には障壁となるだろう。


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折原浩 『大衆化する大学院 一個別事例にみる研究指導と学位認定』

「諒解ゲマインシャフトEinversta(e)ndnisgemeinschaft」とは、フォーマルな「制定秩序」は存立していないのに、「社会関係」にある者同士が、他者の期待を「妥当gu(e)ltig」と見なして、平均的には裏切らずに呼応するため、「ゲマインシャフト行為」=「社会的行為」があたかも「制定秩序」があるかのように経過する「社会関係」の謂いである。
 ちなみに、ヴェーバーがかれの「社会学」を初めて体系的に展開するのは、「1910~14年草稿」(既編纂『経済と社会』(旧稿)においてであるが、その基礎概念を提示した「理解社会学のカテゴリー」(1913)では、A「まだ『意味関係』が発生しないゲマインシャフト行為(複数ないし大量の同種行為)-B「無秩序なゲマインシャフト行為」-C「非制定秩序に準拠するゲマインシャフト行為(=諒解行為)」-D「制定秩序に準拠するゲマインシャフト行為(=ゲゼルシャフト行為)」という基本四項目構成の「行為ないし秩序の(社会的)『合理化』尺度」が設定される。「1910~14草稿」では、この尺度上に、家/近隣/氏族/経営/オイコス、種族/宗教教団/市場/政治団体、階級/身分/党派など、普遍的な諸「ゲマインシャフト」の類概念と(「価値関係」性をそなえた)「類的理念型」群が、ついでそれらの「発展形態」として、政治的ないし教権制的、正当的ないし非正当的な「支配形象」の類概念と「類的理念型」群が、それぞれ構成され、決議論的/体系的に編成される。(p.123)


『学問の未来』からの引用でも示したが、こちらの方がよりわかりやすく整理されており参考になった箇所。

ウェーバーによる社会的行為に関する理念型の構成の軸となるのは、諸個人の動機の意味理解という方法によりながら、諸個人が準拠する秩序が、どの程度客観的で明示的なものであるかという軸によって整理されていることがわかる。こうした軸が見えると、『カテゴリー』論文のような比較的読みにくい論文を読む際にも議論の筋が見えやすくなるだろう。



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折原浩 『学問の未来 ヴェーバー学における末人跳梁批判』

 筆者は、50年の研究歴/40年の研究指導歴(とくに古典文献購読ゼミの経験)から、ヴェーバーにかぎらず、古典といわれる書物は、そう簡単には理解できず、三読四読し、沈思黙考し、「議論仲間」の友人と議論したり、先輩や師匠に問い質したり、研究文献/二次文献に当ったりして、ようやく読解の糸口が摑め、だんだん分かってくるものではないかと思う。そうであればこそ、そうこうするうちに、そのように「努力して分かる」こと自体が楽しみとなり、それを励みにいっそう努力するという好循環も生まれよう。そのようにして、初見では難解な古典文献を根気よく精読するうちに、「恣意を克服して対象に就く(Sachlichkeitの)精神」も育ってきて、これがやがては文献読解以外にも、現実の問題に対処する場面で、その人のsachlichで明晰な判断と態度決定に活かされるのではあるまいか。ここに、「古典を学ぶ」意義のひとつがあると思う。(p.135-136)


同意見である。人間たるもの、大いにSachalichkeitの精神を養うべきである。

これに付け加えるとすれば、こうした古典文献に取り組むのは20代までにやっておくべきだということである。社会で活躍する年代になってからこうしたことを学ぶのは意味がないわけではないが、機会の面でも習得水準の面でも他に取り組むべき現実の問題との優先順位から言っても最優先の事項とはならないだろうからである。



 筆者が思うに、ヴェーバー歴史・社会科学の方法は、「ロッシャーとクニース」「客観性論文」「理解社会学のカテゴリー」といった抽象的方法論文をなんど読んでも理解できないし、いわんや、その手順を会得し、「自家薬篭中のものとして」応用することなど、思いもよらない。むしろ、方法論文から読み取った抽象命題や知見がじっさいにはなにを意味しているのかを、たとえばこういうBeruf語義の歴史的「意味(因果)帰属」といった具体的適用例について、なんども確かめ、みずから歴史的諸与件(聖典の特定箇所の意味解釈など)も調べて熟考し、しかもそうして具体的に捉えられた方法を、試みに繰り返し、自分が直面している状況の問題に適用して――抽象的な方法論と具体的な経験的モノグラフとを統合的に解読するとともに、状況内主体として応用を重ねることで――初めて的確に会得され、「身につく」のではあるまいか。(p.203-204)


同意見である。折原流のウェーバー理解である抽象的方法論と経験的モノグラフがセットになっているという認識にも賛同できる。



本稿では、当面の問題にかかわる一端に触れると、ヴェーバーは、「倫理」論文初版を『社会科学/社会政策論叢』第20/21巻(1904/1905)に掲載するのに先立ち、第19巻(1904)に(「客観性論文」とともに)「プロイセンにおける『信託遺贈地問題』の農業統計的、社会政策的考察」と題する論文を発表していた。そこで槍玉に挙げられ、克明に分析され、(分析とは峻別して)価値評価もくだされているのが、右記、資本を土地に転じ(逃避させ)て(土地)貴族に成り上がる――そうしたがる――ドイツ・ブルジョワジー(資本主義的企業家層)の一類型(「亜流者」)である。ヴェーバーは、かれらが、「ブルジョワジー」としての「存在被拘束性」をあえて引き受け、「貨幣増殖」「資本蓄積」を「職業的使命」として担い、生涯その使命に徹しようとするのではなく、虚栄心から「土地貴族」に転身しようとする「脆弱性」(その意味における「階級」としての未成熟性)を痛撃してやまない。と同時に、社会科学者としては、「ブルジョワジー」という社会層(統計的集団)が、現実には「『資本』という経済学的カテゴリーの人格化」(マルクス)としては振る舞わず、「資本家機能」に甘んじず、「生身の人間として」(「貨幣増殖」「資本蓄積」よりも)「名声」「名誉」を求めて行為し、社会層間を移動し、そうした動向がドイツにおける近代資本主義発展の減速をまねいている以上、(ヴェーバーにとって「由々しい」)そうした現実を問題として直視し、理論的に説明するには、(たとえば「ブルジョワジー」という社会層をなす)諸個人の「社会的行為」について、その「動機」を「解明」「理解」するとともに、(そうした「社会的行為」の)「集合態」の制約/規定条件としては、(経済財の所有-非所有にもとづいて「ライフ・チャンス」を共有する人間群/統計的集団としての)「階級Klasse」だけではなく、それに加えて(「社会的名誉」感と「ライフ・スタイル」に根ざす人間群/ゲマインシャフト形成態としての)「身分Stand」の概念も構成/用意して、(諸社会層をなす)諸個人の「集合態」的行為の動態を「複眼的」に分析する以外にはないと考え、その道を切り開いていくことにもなろう。(p.316-317)


従来のマルクス主義における「階級」概念に加えて「身分」概念などを構成し、経済決定論的で一元論な傾向を持つマルクス主義の理論(一時期には優勢な勢力を持っていた)に対して、名誉の観念などを取り入れることでより多元的に理解することを可能にしたことが、かつての(特に冷戦期における)日本の社会科学におけるウェーバー受容の意義であったように思う。

これに対し、ウェーバーの現代的な意義はさらに問い直す必要がある時期に至っているように思われる。



ヴェーバーは、「非ゲマインシャフト行為」(「多勢の同種行為」「群衆行為」「(機械的)模倣行為」など)と「ゲマインシャフト行為(=社会的行為)」とを分け、後者をさらに「(無定型の)ゲマインシャフト行為」-「(諒解)ゲマインシャフト行為」-「(ゲゼルシャフト)ゲマインシャフト行為」に三分する「類的理念型」尺度を考えていた。(p.419)


ウェーバーのゲマインシャフト行為の周辺の概念は『理解社会学のカテゴリー』と『社会学の根本概念』との使用概念の変更なども伴って、なかなか理解しにくいが、本書の解説をとおしてこれらの諸概念についての理解が深まったのは個人的には収穫であった。



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折原浩 『ヴェーバー学の未来 「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』

ここでは、そのすべてに立ち入るわけにはいかないので、「倫理」論文の読解にとって重要な一点、すなわち、理念型の「経験的妥当性」という問題についてのみ、管見を述べたい。
 この問題については、「客観性」論文の結論部分に、ヴェーバー自身による誤記と(英訳を除く)全翻訳の誤訳があって、「経験的にあたえられたものが、……認識の妥当性を証明するための事実上の根拠[台脚]とはどうしてもならない――この証明は経験的にはできないのだ――」(出口勇蔵訳)、「経験的な所与にもとづいて認識の妥当性を証明することは経験的に不可能である」(徳永恂訳)という解釈がなお尾を引いており、これに見合って、認識のための概念用具としての「理念型」についても、その「経験的妥当性を、経験的所与にもとづいて検証することは、経験的に不可能である」と解される嫌いなしとしない。じつは、「認識の妥当性」と訳されている箇所は、語法上はともかく、「客観性」論文全篇の趣旨と、「倫理」論文ほか経験的モノグラフにおける当該方法の適用例とに照らして、「価値理念の妥当性」と改訳されなければならない。そうでなければ、経験科学的認識がそもそも成り立たない、というおかしなこと(自殺論法)になろう。(p.90-91)


構成された理念型は経験的妥当性を問うことができ、その妥当しない部分が析出されてくることによって、当該理念系とは別の要素が明確になり、これらが緊張関係におかれることによって認識が進展していく(それらを総合するような新たな理念型の構成等)と著者は本書で主張し、理念型構成のダイナミズムを提示している。

本書を読んで参考になった箇所。



 なるほど、理念型的に構成された概念や理論に、「現実を『法則』から演繹できるという意味の経験的妥当」は求められないし、求めてはならない。ヴェーバーは、理念型論を、カール・メンガーにたいする批判をとおして打ち出したのであるが、その批判の眼目は、メンガーが法則的認識と歴史的認識とを区別しながら、「精密的方針による抽象理論」の諸定理に、この(「現実を『法則』から演繹できる」という)意味の経験的妥当を要求したという一点にあった。「抽象理論」の方法的捉え返しであるヴェーバーの理念型も、この意味の経験的妥当を要求するものではない。しかし、それでは理念型がおよそいかなる意味でも経験的妥当性を問われない、あるいは討論/論争による経験的検証を受け付けない、そういう観念的構成物なのかというと、けっしてそうではない。(p.92)


ウェーバーの理念型論がメンガーへの批判をとおして形成されてきたことは、メンガーの『社会科学、特に経済学の方法に関する研究』(経済学の方法に関する研究)とウェーバーの「客観性」論文を読み比べるとよくわかる。そして、ウェーバーは「歴史学派の子」であると自称したということが、彼の伝記的著述ではしばしば言及されるものの、実際には理念型に関わる部分に関しては歴史学派よりオーストリア学派に近かったのではないか



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梅溪昇 『お雇い外国人 明治日本の脇役たち』

幕府が1842年(天保13)異国船打払令を撤廃し、文化の薪水給与令に復帰したのも、アヘン戦争の情報に驚いて外国との紛争を避けようとしたためであり、それだけ外圧の強さに脅かされたものであった。
 対外情勢のこうした変化は、西洋軍事学の知識をますます必要とするようになり、ここに蘭学の主要部門を天文学、医学から軍事学へと転回させるようになった。長崎の町年寄高島四郎太夫(秋帆)のいわゆる西洋式の高島流砲術もこのころから広まっていった。
 そこへ1853年(嘉永6)ペリーが浦賀に来航し、外圧が直接日本に加えられた。この来航を契機として、歴史展開のうえでは、とちらかといえば、これまで外患を掲げて国内の社会的矛盾を解決しようとする傾向が強かったのに対して、これ以後は、現実化した外患に対処する政治的課題の方が圧倒的に優勢となった。幕府の有識者が開国に踏み切ったことは、それだけ海外情勢に通じていたためであるが、情勢に暗かった攘夷論者は、幕府が外夷の威圧に屈したと考えて幕府の開国政策に反対し、攘夷の実行を叫んだ。(p.34-35)


アヘン戦争の与えたインパクトの大きさには興味を惹かれる。

また、軍事面への関心のシフトを強めざるを得なかった情勢ということも重要な点であろう。そして、本書によれば、「お雇い外国人」もまずは軍事面から導入が始まっていくことになるのである。



 このように対外戦を経験し、西洋近代軍事力のために惨敗したことから、両藩では尊王攘夷論者から開国論者への転向が広く行なわれ、かえってイギリスへの接近が顕著になった。(p.50)



 以上のように、万延、文久、元治にかけて英学が盛んとなり、また諸藩の兵制もしだいに蘭式から英式に変わるようになった。とくに反幕勢力の中心である薩長両藩ではイギリスへの接近が顕著となり、その接近を通じて軍事力の近代化と殖産興業を図り、富国強兵の実をあげるようになってきた。また、イギリス側も元治から慶応にかけて、積極的に反幕派のこれら薩長両藩を援助したので、かねてから海外発展についてイギリスと激しく競争していたフランスは、このイギリスの反幕派援助に対抗して、幕府援助の政策を積極化するようになった。(p.53)


幕末に薩長が西洋諸国と実際に戦争をして敗れたことが、かえって西洋への接近を促したというのは、一見逆説的だが興味深い。また、薩長とイギリスの接近が、薩長が対立していた幕府とイギリスが対立していたフランスとの接近の契機となったというのも、興味深い外交的な動きである。



すなわちわが国は、両国駐屯軍の引き揚げ要求とひきかえに、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式の採用決定をはっきりするよう両国から要求されていたのである。(p.97)


外交関係が統治機構の構造や内容などにも影響していたことの一例。主権国家という虚構の概念はある種の理想的なものとして描かれているが、現実には描かれている通りのものとしては存在していない。ウォーラーステインがいうインターステイトシステムに組み込まれており、主権を持っているとされる諸政府もそうしたシステムの要素をなしているに過ぎない。



 当時工学は、ようやく単純な技工の域を脱し、学理にもとづいた専門学となってからまだ日が浅かった。したがって、工学を総合統一した学校はイギリスにもなく、わずかにスイスのチューリヒに一か所あっただけである。ダイエルは工部大学校都検(教頭)兼土木工学および機械工学教師として、1882年(明治15)まで勤続した。その間、工部大学の創業にさいしてチューリヒの組織を基礎にその組織を構成した。……(中略)……当時ではこのように各科を総合した工学校は、海外にも少なく、世界的にもきわめて優秀な組織であったのである。(p.140-141)


工部大学校という実学を行う総合的な学校が明治の日本に存在したことは世界的には珍しかったという。

これと類似した事情は農学の分野にもあったように思う。日本における農学部の源流は、1876年に開校した札幌農学校(現在の北海道大学)と1877年に開校した三田育種場、1878年に開校した駒場農学校(現在の東京大学)であるとされるが、当時は大学に農学部というものを持つ大学はヨーロッパには(ほとんど?)なかったようだからである。

こうしたことには、軍事や経済的な必要に迫られて実学重視で学問を移入した当時の日本と、中世以来の「大学」の伝統をある程度まで引きずっていたヨーロッパとの違いが反映されている面が反映しており、興味深い。



 以上のように明治における絵画、彫刻、建築の近代化が、その源を工部美術学校に発することは、注目を要する点である。その学校諸規則において、「美術学校ハ欧州近世ノ技術ヲ以テ我日本国旧来ノ職風ニ移シ百工ノ補助トナサンガ為ニ設ルモノナリ」と工部美術学校の目的を述べているところに、明治の美術が文化的運動そのものとしてでなく、殖産興業という国策のもとで経済的実用的な目的から近代化への道を歩まざるをえなかったことがうかがわれよう。(p.148)


興味深い指摘だが、こうした目的とは別に実際には単に経済的殖産興業というだけでなく、文化的な側面から取り入れようとした人も多くいたのではないかと思われる。



 こうしてフェノロサは、1878年(明治11)8月、25歳の若さでお雇い外国人教師として来日した。かれがわが国の人文科学の発展に寄与したところは大きい。とりわけ特筆されるのは哲学、ことにヘーゲル哲学を初めて講義して、ドイツ哲学移入の端緒を開いたことである。
 ……(中略)……。当時アメリカには、まだプラグマティズムは起こらず、したがって固有の哲学がなく、説いたのはドイツ哲学であった。(p.165)


哲学といえば確かにドイツのものが多く入ってきていたが、アメリカの哲学は明治初期にはまだ十分に発展していなかったという点はなるほどという感じである。



 こうしてかれは、1886年(明治19)まで大学で講義し、アメリカ生まれでありながら、わが国に初めてドイツ哲学を移植し、明治10年前後までわが国において支配的であった英仏哲学に代わる、その後のドイツ哲学の台頭、流行の端緒をつくり、わが国の国家主義、国粋保存主義の台頭に大きな影響を及ぼした。かれ以後、ブッセ(Ludwig Busse)のロッツェ哲学、ケーベル(Raphael Koeber)のハルトマン、ショーペンハウエルの哲学などが続き、哲学といえばドイツということに定まった観を呈するようになった。(p.167)


明治10年頃までは英仏の哲学が支配的だったというのは、やはりこれらの国の人々との接触が多かったことを反映していると思われる。帝国主義的な進出の先導的な国々であることを反映している。ドイツの哲学が流行したのは、おそらく英仏に対して後進的な立場にあり、それを追い、相対的に劣位にありながら競争しなければならない立場にあったドイツでは「国家」というものの力を求めようとするモメントが英仏と比べると比較的強かったという事情が思想内容にも反映しているように思われ、そうした立場は当時の日本の人びとや政府の立場とも共通性があるため、取り入れやすかったということが背景にあるだろう。単にフェノロサが教えたから広まったというものでもあるまい。



 しかし、ひとたび東京を離れると、こうした欧米風の生活を味わうことができなかった。モースは……(中略)……研究旅行で北海道の小樽まで行ったときのことを、「私は今や函館と、パンとバタとから百哩以上も離れている。(中略)珈琲一杯と、バタを塗ったパンの一片とが恋しくてならぬ。私はこの町唯一の、外国の野蛮人である」と記している。(p.193)


東京と地方との相違というのも興味深い問題である。特に当時の北海道と「内地」との違いも。



こうしてみると、「お雇い外国人時代」の盛期は、1870年(明治3)より1885年(明治18)に至る、いわゆる「工部省時代」と相重なり、ほぼ明治20年前後までである。それ以後は衰退期に入り明治30年前後、19世紀末において、歴史的な意義をほとんど失ったといえよう。(p.223)


約15年間である程度までキャッチアップし、国内の人材だけで知識や技術を導入できるだけの基盤を整えたということか。



 要約すると、アメリカ人は文部省(教育)、イギリス人は工部省(技術)、フランス人は工部省(技術)、陸軍省(軍事)、ドイツ人は文部省(教育)関係において最も多く活動し寄与した。そして1879年(明治12)ごろを画期として、その人数において英、仏、米、独の順位が英、米、仏、独となり、その後、英、独、米、仏へと転化したといえるだろう。(p.233)


国と導入分野に密接な関係がある点は興味深い。また、人数の変遷からはイギリスの優位とドイツの勢いが注目に値する。



 ここから明らかなように、お雇い外国人経費が著しくかさんで政府財政・各省予算を圧迫したことが、かえってお雇い外国人の技術的指導への従属から一日も早く自立しようとする熱望を産み出し、それが工学寮工学校(工部大学校)に結集して日本人技術者の積極的養成となった。(p.241)



興味深い。





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