アヴェスターにはこう書いている?
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マイケル・サンデル、小林正弥 『サンデル教授の対話術』

 子どもたちがまだ幼いうちに、野球は個人スポーツではなくチームスポーツだということを教えたいと思ったのです。そういうメッセージ、教訓を伝えるために、ホームランのような個人的な達成にはご褒美をあげませんでした。そのかわりに、ルールを作りました。選手の誰かひとりでも、守備の時にバックアップ――つまり選手の誰かが落球するなどのエラーをした時にどの選手であろうと仲間のエラーをカバーしてアウトにもちこんだら、チーム全員にスニッカーズのキャンディーバーをあげることにしたのです。誰であろうとも味方のエラーをカバーしたら、チーム全員がスニッカーズをもらえるわけです。
 ひとりひとりが個人的にヒーローになろうとするのではなく、チームスピリッツが生まれました。(p.21)


サンデルの思想から私が学んだことの一つは、賞罰を他人に与える場合の基準は目的論的に考えると適切に設定しやすいということだった。サンデルが以前、少年野球の監督をしていた際のこの手法もまた、このことを念頭においていると理解しやすい。



 そうですね、私がソクラテスや彼の方法に関して感じてる唯一つの問題は、彼が多くの人をいらつかせ、怒らせてしまったことなのですよ(笑)。実際、彼はそれで死刑になってしまったわけですよね。(p.35)


サンデルの教授法がソクラテスを思わせるという小林の指摘に対するサンデルの回答。確かに、サンデルの指摘していることは、ソクラテスの問答法の問題点と言えば問題点かも知れない。



 私はコースの大部分で自分の意見を言いません。私はどの理論も、どの哲学も、はじめにできる限り最も強いものとして教えたいと思っています。そうすれば、学生たちはその考えの背後にある道徳的な力を正しく理解します。
 次に、学生たちの助けを借りながら、それに対する可能な限り強力な反論を展開します。そして、その反論に照らして、別の哲学を考えていくのです。
 ……(中略)……。
 コースの最後の数週間になって私の見解を聞く頃には、学生たちはすでに一連の別の見解や観点を身につけていて、私が提示するものを受け入れたり、拒否できる立場にあります。そして、彼らは私の考えに挑戦したり、疑問を呈することにためらいはしません。(p.44-45)


できる限り強いものとして思想を教えながら、それに対する批判を吟味していくという姿勢は参考になる。一人で読書をしながら思想を身につけていくときにも、こうしたプロセスを経ることが多いが、講義でもこうしたことは可能だということがわかった。

また、後段で述べられている考え方は、ウェーバーのWertfreiheitの複数の意味の内の一つとされる所謂「講壇預言の禁止」を乗り越えた教育方法論の提示になっている点が私にとっては特別に興味深い。ウェーバーのWertfreiheitはサンデルが批判する「中立性の理想」を完全に体現しているような考え方だが、教授法においてもサンデルはこうした考え方を適切に乗り越える形で処理しているようだ。



 そうですね、民主的社会における公共的言論のレベルを上げるために、私たちができることは数多くあると思います。……(中略)……。
 私たちがすべきことの一つは、民主的な企て(project)を再び活性化する手段として、この社会における公共的言論の質を高めることだと思います。その面において、教育機関は特に大きな役割を担うでしょう。……(中略)……。
 また、メディアが担う役割も大きいと思います。公共の場での言論の質は、部分的にはメディアが何を提供し、要求し、示すかによるからです。多くのメディアは、怒鳴り合いのような争論や、視野の狭い議論を取り上げます。私は、メディアは、真剣な議論と礼節に基づいて意見の不一致を明らかにするための場(forum)を提供する必要があると思います。
 最後に、政党も公共的言論の質を高める上で重要な役割を担っていると思います。しかし、国民がそれを[政党に]要求するまでは、達成されるとは思いません。つまり、[公共的言論の質を高めることは]教育機関やメディアが、より良く、高尚な公共的言論を作り出せるかにかかっているのです。(p.46-47)


サンデルが「白熱教室」以後もNHKの番組にしばしば出演しているのは、こうしたメディアの役割を考えてのことであると思われる。

メディアで怒鳴り合いのような争論や視野の狭い議論が幅を利かせているという指摘は、日本における田原総一郎の番組(朝生)ややしきたかじんの番組(そこまで言って委員会)などを想起させる。

教育機関とマスメディアにはサンデルが期待しているような役割を果たしてもらいたいと私も思う次第である。



 私は、教えることの非常に重要な部分は聴くことだと思っています。……(中略)……。学生が何を表現しようとしているのかを想像しながら耳を澄まし、そして他の学生の反応を促すことが非常に重要ですね。
 聴くことに関して、教師の立場からは、もう一つ重要な点があります。それは、今説明したような、行ったり来たりしながら議論を表すこととは関係ありません。
 それは、こういうことです。講義があまりうまく進んでいなくて、学生たちが混乱したり、退屈したりしている時、私はそれにすぐに気が付きます。なぜだと思いますか。講義がそのような状態の時は、学生がやたらに咳をしたり、足をちょっと動かすなどの音が教室内で聴こえてくるのです。……(中略)……。
 ですから、教室内の音をよく聴いていれば、「何かをもっとうまく説明しなければならない」「話題を切り替えなければならない」といった合図が私に送られてくるのです。
 ですから、聴くことには二つのレベルがあります。一つめは、学生が実際に話していることを聴いて、理解し、時には言い換えてあげるレベルです。もう一つが、単に教室の感覚や感触、雰囲気に耳を澄ますというものです。(p.53-55)


聴くことの重要性というのは、なるほどと思わせる。聴くというと私はいつも「Vernunft」というドイツ語を思い浮かべる。この語は「理性」という訳語があてられるが、聴くという語と語根を同じくしている。サンデルの理性的な対話による教授法は、まさに「理性的」な方法であると私は思う。



 そうですね、まず私の授業の目標のひとつは、礼節(civility)や他者への尊重といった習慣を育てることにもあります。お互いの話をよく聞くことなども含む、こうした礼節の習慣を育てる一番いい方法は、あまり規則を定めないことです。教師のなかには、「あらかじめ規則を定めることが有用だ」と考える人もいます。しかし私は、教室で礼節さや他者の尊重といった習慣を育てるためには、規則を定めるよりも、例を示すことのほうが重要だと思います。規則がある程度助けになると考える教師もいるかもしれませんが、私の経験では、事前の規則よりも、議論を招くような異なる考えを持っている教師や学生の間で、互いを尊重した意見交換の例やモデルを示すことを通して、こうした習慣が身につくと感じています。(p.71)


本書の中でも非常に参考になった箇所の一つ。

私自身の経験からしても、こうした礼節を伴う議論がありうることを知ったのは、モデルとなる議論を見たり体験したことによる。

ちなみに、規則を定めないということでいうと、札幌農学校にクラーク博士が来た時、彼が定めた規則は「Be gentleman」だけであったという逸話も想起された。



いま人々の間に、重要な道徳的・倫理的問題、価値や正義についての問題に対する真の、真剣な議論を行いたいという強い切望や欲求があるのだと思います。現在、私たちの社会では、あまりにもしばしば経済論理が真の公共的議論を押し出してしまっています。ですから、私の単なる推測ですが、大きな道徳的問題についての真摯で大胆な、かつ対話相手を尊重した討論を行う可能性に人々が興奮しているのではないかと思うのです。私がハーバード大学で教えている学生たちはそうです。私の「正義」の授業では、過去の有名な哲学者についての議論を行いますが、その時に、哲学者たちを単に歴史上の一つのエピソードとしてみなしているわけではありません。彼らも、私たちが現代において考えている議論への参加者だと考えているのです。(p.112-113)


ネオリベラリズム的な政策や言説が現代社会の中に強く浸透していることが、公共的な言説を貧困化させており、そのことをどこかで人々が感じ取っているために、多くの人々が正義などに関する道徳的議論を潜在的に渇望している。確かに、私自身がサンデルの思想に興味を抱くようになったのも、こうした社会背景と言論状況があったように思う。

なお、私の場合、哲学に対してもサンデルの講義や著書を通して関心が再活性化されたが、それもネオリベラリズムによる言論の貧困化ということを感じるようになったことと関連しているようにおもj。



寛容な移民政策のためには言うべきことがたくさんあると思います。……(中略)……。しかし同時に、国内で違いを受け入れて生きることを学ぶことは、文化や社会生活、政治を豊かにし、また、ついでに言えば、非常に面白い一連の料理が生まれるきっかけとなるかもしれません――これは大したことではありませんが。(p.127-128)


料理についてついでに述べられていることから、料理の歴史を知ることは過去の人々の交流の歴史を知ることにつながるということに気付いた。



 ですから、善き生を生きることは、ある意味では、特定のアイデンティティ間の緊張のなかで生きることです。そのアイデンティティとは、私たちを形作り、定義し、また私たちが相互に持っている責任を特徴づけているものです。そして、より普遍的な願望として、人類というひとつのコミュニティを、私たちの行動や関心に対して重要な要求をする存在と見なさなければなりません。ですから、ある意味で、善き生には、私たちのアイデンティティ、忠誠、道徳的責任の普遍的な特徴と、[普遍的ではない]特定の特徴との間の緊張と共に生きることが伴うでしょう。
 これは善き生を生きるための秘訣でも、どうやって正確に生きて選択するべきかについての概要でもありません。しかし、ジレンマに遭遇したり、緊張と共に生きたり、競合するアイデンティティのなかで生きることが失敗ではないと知るのは、ある種の慰めとなりうると思います。これは問題ではなく、人間であるということの一部なのです。(p.135-136)


緊張関係の中で生きることを説いていることは、マックス・ウェーバーを想起させる。

ただ、多くの人にとってこうした緊張関係を引き受けながら生きるというのはかなりの困難を伴うように思われる。リベラルはこういう場合、できるだけ社会の関係を整備することによって緊張を緩和しようとするだろう。サンデルのような考え方の場合はこうした在り方の中にも理想的な生き方がありうるということを示していき、それを教育により社会の常識の中に共有させていくことで負荷を小さくしようとするのではなかろうか。



 現在、大学教育の方法について、FD(ファカルティ・ディベロップメント)ということが強調されています。これまで日本の大学の教師は、教育の方法を身につける場がなかったので、それに対する対策という意味も持っています。
 かつては、大学生は自分の力で学ぶものと考えられていたので、大学教師はあまり授業の方法は工夫しませんでした。ところが、最近の学生は自発的に勉強しなくなっているので、教師が高校までのように親切に教えるように求められているのです。たとえば、「毎回の講義にレジュメを用意して具体的な内容を記しておく。パワーポイントなどを用意して、講義をわかりやすくする」というようなことが大学教員たちに勧められています。
 これは、学生が自発的な学習意欲を持たないことを前提にして、教師がそれに合わせて降りていって教えようとする方法と言うことができるでしょう。問題は、このような方式だけでは、いつまで経っても、学生たちが自発的・能動的に学ぶ力が身につかないということです。学生たちが自発的に学ぶ力をなくしてしまっているのは、前述したように、高校まで○×式の教育に慣れてしまっているからです。受験勉強では、カラフルで丁寧な教材や参考書があり、たとえば予備校や塾の先生方は可能な限り親切に教えてくれますから、そのような教育に慣れているのです。今のファカルティ・ディベロップメントは、そのような教育の方式を大学に持ち込んで、大学教師も高校までのように教えることを求めているという気がします。いわば、大学の高校化が進んでいるのです。
 しかし、これでは大学教育が高校までの勉強のようになってしまい、学生の積極的な学習意欲を引き出すことにはなりません。(p.202-203)


最近は大学に出入りする機会も減ってきたので、大学での教育については最近どのような傾向があるのか、私も実感できなくなってきているが、大学の高校化が進んでおり、それに合わせた教育方法さえもが現れてきているらしい。

なお、「わかりやすさ」を求める風潮は大学のみでなく社会全般に見られる傾向と思われ、これは(グローバル化に伴うネオリベラリズムの政策やリバタリアン的言説の流布と同じ問題だが)短期的に成果を求められる社会になっていることと深くかかわっていると思われる。



遅くとも、大学のレベルになれば、学生たちは、必ずしも正解が確定していない問いに対して、自らの頭で思考し、自発的・能動的に学ぶことを身につけなければなりません。この力を育てるのが、対話型講義なのです。(p.203)


一方的に教師が話をする授業よりは対話型の講義のほうが効果はありそうである。

また、本書で述べられているように、ハーバードの方式は少人数のゼミ(セクション)と大人数の講義がセットになっているというが、少人数のゼミ方式での学習も自発的な学習を促していくに当たっては有効であると思われる。



 近年、「大学改革」が推進されてきましたが、私はその結果、大学はむしろ本来の姿から離れてしまったと思っています。その思想的な理由は、近年の「大学改革」が、ネオ・リベラリズム、言い換えれば政治哲学でいうリバタリアニズムの思想の影響を受けたものだったからです。この思想は、経済的な効率性を重視して民営化や規制緩和を主張しますので、大学においてもそのような「改革」が推進され、国立大学も独立行政法人化することになりました。
 しかし、ここにおいては、本来の大学の理念、教育の理念というものが忘却されていたと思うのです。やはり「大学改革」は、サンデル教授が強調する目的論的思考に基づいて考えれば、大学や教育の本来の「目的」から考えなければならないのではないでしょうか。(p.204-205)


同意見である。



 もっとも、サンデル教授は、アリストテレスのように自然全体の目的を正面から論じるのではなく、人間の実践や社会的制度についての目的を考えて、そこから正義を論じる可能性を提起します。自然全体についての目的を考えると何らかの意味で形而上学的にならざるを得ませんが、人間の実践や社会的制度ならば必ずしも形而上学的にはならずに具体的にそれらの目的について論じることができるからです。(p.224)


目的論と言っても、アリストテレスのように自然全体に目的があると考えるのではなく、人間に関わる問題について、コミュニティにおける共通の目的を設定することを目指そうとする(目的がある、ではなく)という形であれば目的論的な議論を形而上学的にならずに行うことができるわけだ。



リベラリズムがいわば「善なき正義」を主張しているのに対し、サンデル教授は「善ありし正義(善なる正義)」を主張していると言えるでしょう。(p.225)


サンデルのリベラリズム批判を大胆に要約すると、このようになるのだろう。


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マイケル・サンデル 『完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』

 生の被贈与性(giftedness of life)を承認するということは、われわれが自らの才能や能力の発達・行使のためにどれだけ労力を払ったとしても、それらは完全にはわれわれ自身のおこないに由来してもいなければ、完全にわれわれ自身のものですらないということを承認することである。また、それは、世界のありとあらゆる事柄が、われわれが欲求したり考案したりする可能性のある使用法に対して、必ずしも常に開かれているわけではないということを認めることでもある。(p.30)


この「生の被贈与性」は本書のキーワードである。この考え方を私は立岩真也の『私的所有論』で気づかされたと思っているが、サンデルが本書でこの概念を用いたことで、「コミュニティ」とこの概念の相関について理解が深まりつつあるように思う。



子どもを贈られもの(gift)として理解するということは、子どもをそのあるがままに受けとめるといことであり、われわれによる設計の対象、意志の産物、野心のための道具として受け入れることではない。……(中略)……。子どもの性質は予測不可能であり、親がどれだけ念入りに事を進めようとも、自分の子どもがどんな子どもなのかについて完全に責任をとることはできない。だからこそ、子どもの親であることは、他のどのような人間関係よりも、神学者ウィリアム・F・メイの言う「招かれざるものへの寛大さ」(openness to the unbidden)を教えてくれるのである。(p.49-50)


遺伝子操作などによって産み分けることは、こうした関係を壊してしまうことになるという主張は妥当であると思われる。



確かに多くの線引き問題と同様、治療とエンハンスメントの間の線引きも境界線上ではぼやけてしまう(例えば、歯列矯正や、非常に背の低い子供に対する成長ホルモンの投与は、どちらに属するだろうか)。しかし、だからといって、線引きが重要である理由までもがぼやけてしまうわけではない。(p.54)


線引きが難しい場合、それをあきらめようとする力が働くが、線引きの重要性は線引きが難しいあるいは厳密に行なうのは困難であることによってなくなるわけではない。しばしば忘れられがちなことであると思われる。



メイが指摘するように、親の愛には、受容の愛と変容の愛という二つの側面がある。受容の愛とは子どもの存在を肯定することであり、変容の愛とは子供の福利を探求することである。両者は一方が他方の行き過ぎを是正する関係にある。「愛情も、子どもをただありのままに受容するというところにまで弛んでしまうのなら、あまりにも静観しすぎ」なのである。親には子どもが卓越することを促す義務があることは、間違いない。
 だが、今日のひどく熱心な親は、えてして変容の愛ばかりにとらわれてしまう(p.54)


同感である。



 皮肉なことに、自分自身や子どもの運命に対する責任が増殖するにつれて、自分よりも不幸な人々との連帯の感覚は薄れていく可能性がある。われわれが自らの境遇の偶然的な性質に自覚的であればあるほど、われわれには他人と運命を共有すべき理由が認められるのである。(p.94)


なるほど。



 結局のところ、どうして成功者は、社会のもっとも恵まれない人々に対して、何らかの責務を負わなければならないのか。この問いに対するもっとも説得力のあるひとつの回答は、被贈与性の観念に依拠するところが大きい。成功者に繁栄をもたらした生来の才能は、自分自身のおこないにではなく、遺伝上のめぐり合わせという運のよさに由来している。もしわれわれの遺伝的資質が天賦の才という贈られものにすぎず、われわれが自らの功績を主張できる偉業などではないとすれば、市場経済の中でそうした遺伝的資質を用いることで獲得された報酬のすべてが自分のものだと考えるのは、誤りであり自惚れである。それゆえ、われわれは、自らには何の落ち度もないにもかかわらずわれわれと同等の天賦の才には恵まれなかった人々と、この報酬を分かち合う責務を有しているのである。(p.95-96)


市場に関する道徳的な限界についてサンデルは近著で述べると聞いているが、ここでの指摘はその本でも述べられるのだろう。

ベーシック・インカムに関わる議論でヴァン・パリースが「資産としてのジョブ」ということを述べているというが、サンデルの思想はこの議論と連動できそうに思われる。各自のジョブは贈られものとしての天賦の才を用いて就くことができるものであり、それ自体が個人のものではなく贈られた共有資産であるといったようにすれば説明できるのではないか。



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シーナ・アイエンガー 『選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義』(その4)

 ロングテールは、人が数百万もの選択肢に対処できることの証拠として、引き合いに出されることが多い。だがこの現象が見られるのは、書籍や音楽CDのように、ほかとはっきり区別がつく商品の場合だけだ。それに消費者が一生かけて収集するものは、せいぜい数千種類であることは言うまでもない。選択肢の見分けが容易につかないとき、あるいは最高のものをたった一つだけ選ばなくてはならないとき(デンタルフロスを各種取りそろえようなどという人はいない)、選択肢の多さは、もはや便利でも、魅力的でもなくなり、単にノイズを生み出し、わたしたちの集中を妨げるだけになってしまう。(p.233)


ひところもてはやされたロングテールにもこうした様々な限界がある。

また、選択肢の多さについても一般には良いことと考えられがちだが、デメリットもあることの指摘も重要である。



幅広い選択肢を残しておくためには、時間であれ、心の平安であれ、利益であれ、何かをあきらめなくてはならない。この消える扉ゲームでは、代償といっても、数セントずつちょこちょこ失うだけだったが、選択肢を残しておくにはとかく代償が伴うことことを、肝に銘じる必要がある。
 わたしたちが賢明な選択ができるかどうかは、自分の心の状態をどれだけよく知っているかに、少なからずかかっているようだ。もっと選択肢が欲しいというのは、こう言うのと同じことだ。「自分が何を欲しいかはわかっている。だから選択肢がどんなにたくさんあっても、自分の欲しいものを選ぶことができる」。どんなに多くの選択肢を与えられても、自分が足を踏み入れたい扉がどれなのか、いつか必ずわかるはずだと思っているのだ。しかし皮肉なことに、より多くの選択肢を要求するのは、言い換えれば「ときどき自分が欲しいものがわからないことがある」、または「すぐに気が変わってしまうから、選択する瞬間にならないと、自分の欲しいものがわからない」という告白でもあるのだ。そしていつしか、選択に費やす時間と労力が、選択によって得られた利益を打ち消してしまう。(p.249-250)


選択には代償があるという主張は本書の重要なポイントのの一つである。



このような理由から、選択肢の数が増えることは、たとえ一つひとつの選択が困難になっても、好きなものに飽きたときのための予備を持っておけるという点で、全体として見れば都合がよい。しかしアリエリーの研究が示すように、選択肢の「質」よりも、選択肢が存在するという「状況」を重んじるあまり、好ましくない決定をしてしまうことがある。(p.251)


選択肢は数が多いことが重要であるとは限らず、選択肢があるということ自体が全体として重要であること、また、選択肢は「質」が重要であること、これらのことが手短に整理され、かつ、非常に鋭い指摘がなされている。



 自分に何かの行動をとる自由があると信じている者は、その自由が失われるか、失われそうになるとき、心理的反発を感じる。(p.294)


心理学者ジャック・ブレームの言葉を引用している箇所。この「心理的反発」に関する議論も本書から得た収穫であった。

例えば、子供に勉強をさせる際、「勉強しなさい」と言うと、言われた側の子どもは「心理的反発」を感じるようになるため、それが常習化することにより勉強自体にも反発を感じるようになってしまい、勉強も嫌いになる、といったことがありそうだということが理解できた。



選択は、最良の状態では、主導権を取り上げようとする人々や体制に抵抗する手段となる。だが選択の自由がだれにでも平等に開かれているという建前がふりかざされるとき、選択そのものが抑圧になる。(p.323)


新自由主義やリバタリアンが彼らの表面上ないし理論上の主張と矛盾してしまうポイントはこの点に存する。もっとも政治的に見れば、それらの主張をする人々はこのことを暗黙裡には感じながら、自分およびその擁護する立場の人々を有利にするためにあの種の言説を垂れ流しているのだと思われるが。



選択は、自由、自己決定権、平等、民主主義などと深く結びついた概念であり、普遍的な権利として、あたりまえのように肯定されてきた。でも実際、選択とはいったい何なのだろう、選択は何に左右されるのか、選択の自由はどうあるべきなのだろう――本書の刊行をきっかけに、選択に関するさまざまな議論が巻き起こっている。(p.377)


訳者あとがきより。私自身も「選択」や「自由」に関して本書から同様の刺激を受けた。本書は多くの人に読んでほしい良書である。



 選択に制約が課されることで、逆に本当に大切なことだけに目を向け、選択しやすくなる。(p.379)


選択肢の豊富さが価値があるかのように錯覚してしまうことが多いが、確かにそのとおりである。これは本書の主張を要約したフレーズと言えそうである。



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シーナ・アイエンガー 『選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義』(その3)

 もし個人的な趣味を説明するのが難しいのなら、恋愛感情を説明するのはほとんど不可能ということになる。「考える葦」でおなじみのブレーズ・パスカルが言うように、「心には理性でわからない理由がある」のだから。ウィルソンと同僚たちは、恋愛関係にあるカップルに、相手への満足度に関するアンケートに回答してもらった。このとき一部の協力者には、二人の現在の関係を作ったと思われる要因をじっくり考えて、できるだけたくさん書き出してもらった。残りの協力者には、心に浮かんだ要因をそのまま記入してもらった。七ヶ月から九ヶ月後、カップルがまだつき合っているかどうかを追跡調査したところ、直感的な評価が二人の関係が長続きするかどうかを正確に予測していたのに対し、理性的な分析に基づく評価はほとんど無関係だった。つまり、二人の関係を徹底的に分析して、非常にうまく行っていると結論づけた人たちは、重大な問題があると判断した人たちと同じくらいの確率で、破局していたのだ。(p.168-169)


直感的な判断と理性的な判断には相違がある。ある意味では認識できている事柄の情報量や質は直感の方が勝っている。しかし、これを制御できない、制御することが難しいところに難点がある。

本書では引用文の実験結果は人を直観に従おうとする気にさせることを指摘しつつ、これに続けて直感に頼ることの難点を示す実験結果をも紹介し、両方に限界があることを示している。



 また感情は実際より長く持続すると考えられがちだ。今日昇進して有頂天になっている人は、二ヶ月後も有頂天な気持ちでいられると思うかもしれない。だが実際には十中八九、新しい職務にすぐ慣れてしまうだろう。たとえ宝くじに当たったとしても、長期的な幸福度が高まることはない。だがその反面心強いのは、衝撃的なできごとが呼び起こす後ろ向きの感情も、思ったほど長く続かないということだ。家族のだれかが亡くなったり、自分がガンと診断されたり、体が不自由になるといったできごとが起っても、最初は深い悲しみや嘆きを感じるが、時間がたてば立ち直るものだ。(p.172)


感情は思われているほど長くは続かない。ちょうど本書を読んでいる時、これに深く関連する状況が身の回りで起こっていたため、この部分は特に印象に残った。

なお、感情が持続しにくいということは河本英夫の『オートポイエーシスの第四領域』の定式化からも理解可能であると思われる。すなわち、感情が複数の要素が複合的に連動するシステムであること。



第3講で見たように、わたしたちは使用価値だけのために商品を選ぶのではなく、その商品を選ぶことで、自分の人となりを表そうとする。(p.192)


この故に、ブランドや商品のイメージが商品選択の際に強く作用することになり、売る側からするとイメージを売っていく戦略が重要な意味を持つことになる。



 ほとんどの商業分野で、製造業者による合併、買収、ブランド売却が進んでいる。こうした一握りの巨大企業は、商品が店頭に並ぶはるか以前に、傘下のブランドで何種類の商品を提供するかを、はっきり定めている。しかも、何種類もの商品を取り揃える目的は、本当の意味で製品の幅を広げるためではない。むしろイメージ的な違いを前面に押し出し、多様性に富んでいるという幻想を生み出すことによって、できる限り少ないコストで、できる限り多様な顧客の気を惹こうとするのだ。
 ……(中略)……。
 こうした戦略が積み重なった結果、わたしたちは多様な製品に囲まれているようでいて、実は質的に異なる選択肢の数は思ったよりずっと少ない。そのため選択が、非常に難しいプロセスになっているのだ。(p.195-197)


グローバル化の過程で巨大企業が多数誕生している現状における消費社会を選択肢という観点から見事に切り取って示している。質的に異なる選択肢の数は思っているより少ないというのは、特に参考になる。



そのほかの研究でも、公選職員は人口全体の平均に比べて身長は約10センチ高く、禿げでない確率も高いことが示されている。これは政治の世界に限ったことではない。さまざまな研究が、身長と年収が比例の関係にあることを明らかにしている。特に男性の場合、身長が2.5センチ高くなるごとに、年収も2.5%増え、また性別にかかわらず、非常に魅力的な人は、それほど魅力的でない同僚に比べて、年収が12%も多いという。実際外見は、就職面接では職務資格よりも採用の決め手になることが多いのだ。それに刑事訴訟では、魅力的な被告人はそうでない人に比べて刑が軽く、刑務所に行かなくてすむ確率は二倍も高いのである。
 ……(中略)……。わたしたちの頭の中では、外見的な魅力と専門的能力は、自然に結びついている。なぜなら、どちらも望ましい特質だからだ。その結果、わたしたちはどちらか一方に触れることが呼び水になって、もう一方を連想するのだ。このような連想は、文化を通じてさらに強化される。シンデレラに始まり、古今東西のテレビや映画のヒーローがその例だ。物語にこの「容姿端麗=有能」の連想が組み入れられるのは、人々の願望を充足するためでもあり、長々しい生い立ちを省略して簡単、便利に登場人物を描くためでもある。だが悪影響として、このような連想が現実世界の判断にまで、条件反射的に適用されることがある。(p.210)


大変興味深い指摘である。



 わたしたちは自分の決定権が脅かされそうな気配を感じると、反射的に拒否反応を示すことが多い。わずかでも決定権を放棄すれば、やがてロボット同然になってしまうのではないかという恐れがあるからだ。この不安はあながちいわれのないものではないが、過剰な不安は何も生まない。問題は、わたしたちが選択を理想化しがちなことにあるのかもしれない。選択をあまりにも偶像化し、すべてを自分の意思で決めることができてあたりまえと考えているのだ。もしかしたら、自分の価値観を脅かすような影響と、基本的に無害な影響とに分けて考えた方がいいのかもしれない。(p.215)


選択が理想化されがちであるという指摘は特に重要であると思われる。自由を標榜する思想において、選択はそのまま善なるものと考えられる傾向があり、しばしば絶対化されるからである。自由や選択に対する批判的な考察は現代においては必要なものであるように思われる。



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シーナ・アイエンガー 『選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義』(その2)

 協力者にこうした名前の一覧表や品の目録を見せ、それぞれのアイテムをどれだけユニークだと思うか、どれだけ気に入ったか、ほかの人はどれだけ気に入ると思うかを回答してもらった。先に紹介した研究報告と一致して、この調査でも全員が、自分はほかの人よりユニークで、ユニークなものに対する許容度が高いと評した。だが実際にかれらが見せた反応は、驚くほど似通っていた。どのグループの協力者も、ややユニークな選択肢に高めの評価を与える一方で、極端に変わったものには否定的な反応を見せたのである。これらからわかったのは、西洋の消費者文化が「独自性」に良いイメージを持たせようとしているにもかかわらず、人々はどの程度の独自性までなら魅力的と思えるかに関して、自分なりにはっきりした限度を定めていたということだ。……(中略)……。
 わたしたちは、ある程度までなら独自性を高く評価し、強く求める。しかし、自分の選択を人に理解してもらうことも、それと同じくらい大切なことなのだ。何といっても、ネクタイに独自の感性を持つことと、ファッションでひんしゅくを買うこととは、紙一重だ。(p.116-117)


このバランス感覚が優れている人がセンスが良いなどと言われるのだろう。



実用的な機能を果たさない選択ほど、人となりをよく表す。だからこそわたしたちは音楽やファッションといった、なんら実用性のないものの選択に、特別の注意を払うのだ。最新流行の音楽ブログや音楽通の友人のプレイリストをそのままコピーしたり、映画や雑誌のファッションをそっくりそのまま真似たりするのは、自分の考えが何もないということを、全世界に向かって宣言するようなものだ。その一方で、好きな俳優が使っているのと同じ歯磨き粉なら、優れた歯石除去効果を言いわけにしやすい。
 わたしたちは意識的にであれ、無意識にであれ、自分の人となりをできるだけ正確に見せるように、生活を組み立てる傾向にある。ライフスタイルに関する選択は、わたしたちの価値観か、少なくとも他人に自分の価値観として認識させたいものを明らかにすることが多い。貧困者のための無料食堂や衣料品寄付のボランティアに時間を惜しまない人は利他的な人物、居間の壁にペンキを塗ったりアンティーク家具の布を張り替える人は器用で創造的な人物、といった具合だ。わたしたちは日々の選択を行いながら、自分の人となりや夢にはどのような選択が一番合っているかということだけでなく、そうした選択が他人にどう解釈されるかを、いつでも計算している。そして他人からどう思われているかを知る手がかりを、周囲の環境に求める。(p.131)


なるほど。選択することは人となりを表現するという側面を持つわけだ。

非実用的なことに関心を示さない傾向がある人は、他者からの評価をあまり気にしないという傾向と親和性が高いことに気付いた。また、他人の評価が気になる人ほど、ファッションなどの非実用的な事柄に関する見栄えを気にする傾向があることも理解できる。



 気をつけなくてはいけないのは、自分を実際より良く見せたいという誘惑に屈しないことだ。ダニエル・エイムズと同僚たちが行った研究が興味深い。職場で自分の地位や評価を高めようという魂胆が見え見えの人たちは、集団を混乱させる存在と見なされ、結局は評価が低下したという。……(中略)……。
 ……(中略)……。だが人によく思われすぎるのも考えものだ。人は、たとえ欠点があっても、自分とほぼ同等と思われる相手とつき合いたがることが、研究で明らかになっている。また自分を気むずかしい人間と思っている人は、愛想の良い人だと誤解されないように、実際よりもさらに気むずかしくふるまうという。それに夫婦は、片方がもう一方のことを自分より優れた存在だと評価しているとき、互いに対する満足度が低く、親密感が薄いことを、さまざまな研究が明らかにしている。(p.136-137)


いずれも納得できる。前段のような人はそれなりの規模の職場であれば、一人や二人は必ず見たことがあるだろうし、後段の部分は自分の交友関係などを考えても納得できるように思われる。



それにこの自制力があれば、その他の方面でも成功できるかもしれないのだ。ミッシェルの実験では、30%の子どもたちが自制力を発揮して、15分いっぱいまで辛抱し、戻ってきた白衣の男性に、自分の選んだお菓子を二つもらった。実験から10年以上たってから行われた追跡調査によれば、我慢できた子どもたちは、我慢できなかった子どもたちに比べて、強い友情で結ばれ、困難な状況に適切に対処する力があり、行動上の問題も少なかった。また大学進学適性試験(SAT)のスコアも、平均で210点も高かったという。成人後の追跡調査でも、このような高い能力のパターンが、引き続き認められた。この自制心おう盛な人たちは、喫煙率や違法薬物の経験率が低く、社会経済的地位が高く、修学年数も長かった。言い換えれば、かれらは健康的で、豊かで、賢明であるように思われた。もちろん自制心は、よい成果をもたらした唯一の要因ではないかもしれない。しかし、両者の相関関係は、自制心がわたしたちの人生におよぼす影響を、軽視してはならないと教えている。(p.146-147)


この調査結果は私が日常の経験で感じている内容と一致している。家庭環境が悪かったり、教育水準が低い家庭で育った人や平均より明らかに貧しい人たちの行動には自制が欠けていることが多く、社会経済的な地位が高い人は自らに対する厳しさをどこかに持っていることが多いと感じてきたからである。

前者の様な人たちは、カント的な意味での自由、すなわち自律としての自由の重要性を認識すらしていないことが多いし、現在の社会では「感性」が比較的称揚される傾向があり、「理性」などといったものが比較的軽視される傾向があるように感じられる。こうした風潮に抗して欲望の奴隷になることは自由ではなく、むしろ幸福な生の条件を崩してしまうことが多いということを自覚していくことは重要であると思われる。




 何かがどうしようもなく欲しくなって、「100ドル」の選択肢を選ぶようなことがあっても、それがたまのことなら、20ドルをちょこちょこ失う程度ですむ。だがしょっちゅう100ドルを選んでいる人は、長い人生の間に損失が積み重なって、数十年たってから、どれだけを無駄にしてしまったのだろうと深く後悔するかもしれない。自動システムに身をゆだねる快楽には、依存性がある。「今度だけ」という言葉は、自分への空約束になり、損失を記録する方法でしかなくなる。こんな人生はだれも望まないが、一体どうすれば自分を抑えられるのだろう?
 たった四歳にして、実験者が戻ってくるまでお菓子を食べる誘惑に耐えた子どもたちから、何か学べないだろうか?かれらの驚くべき自制のカギは、自動反応に対抗するための戦略にあった。たとえば、おいしいもので一杯の目の前の皿が見えないように、手で顔を覆ったり、お菓子のことを考えないように、おもちゃで遊んでいるところを想像した子もいた。マシュマロが口の中でとろけるおやつではなく、雲だと思い込んだ子もいた。このような工夫をして、子供たちは物理的に、または心の中でお菓子を隠すことで、それを食べるという選択肢を取り除いたのだ。存在しないものに誘惑を感じることはないのだから。
 誘惑の対象から気をそらす方法を意識的に用いれば、驚くべき効果が得られることが、その後のミッシェルの研究で明らかになった。(p.148-149)


自制のできない人に対して贈りたい言葉である。あなたは人生で大きな損失を出しながら生きているのだ、と。




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シーナ・アイエンガー 『選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義』(その1)

 アメリカをはじめ、個人主義志向の強い社会に育った人は、選択を行う際、何よりも「自分」に焦点を置くよう教えられる。……(中略)……。人はまず何よりも、自分の好みに基づいて選択を行う。このことは、わたしたちが人生の中で行う選択の回数や、選択の重要性を考えれば、それ自体意義深いことだ。
 だがそれだけではない。わたしたちは自分のことを、自分の興味、性格特性、行動という面からとらえるようになるのだ。たとえば「わたしは映画マニアだ」とか、「わたしは環境問題への意識が高い」というふうに。このように世界をとらえるとき、人間らしい人間になるためには、自ら人生の道を切り拓くことが、決定的に重要となる。それを妨げるすべてのものが、あきらかに不当と見なされる。(p.55-56)


最後の部分で指摘されている人生観にはなじみがある。私自身が個人主義的な世界観を強く持って生きてきたからである。最近は複数の著者からの思想的な影響や環境の変化なども手伝って、若干こうした見方から卒業しつつあるが、個人主義的な世界観の感覚は非常に私には馴染み深いものであるがゆえに、この鋭い指摘は興味深いものと感じられる。



個人主義的イデオロギーの中核にあるのが、選択を「機会」という観点からとらえる考え方だ。つまり、自分の望み通りの存在になり、望み通りのことをする機会である。(p.56-57)


個人主義的なイデオロギーと「選択」のある種の捉え方には非常に強い親和性がある。いずれも「自由」という概念と結びついているからであろう。



だが実は個人主義という概念は比較的新しく、この概念を考え方の指針としているのは、世界でもほんの一握りの人たちだけだ。(p.57)


これも鋭い指摘。さらに言えば、教育水準や経済的な余裕などもこの概念を指針とすることと相関関係があるように思われる。



「今この時より、幸いなるときも不幸なときも、富めるときも貧しいときも、病めるときも健やかなるときも、死が二人を分かつまで、愛し慈しむことを誓いますか」。キリスト教の結婚式や人前結婚式で、あるいは映画やテレビで聞いたことがあるだろう。この出典は、1549年に英国国教会が初版を刊行した、祈祷書だ。これが書かれたのは、シェイクスピアが名作『ロミオとジュリエット』で、「死が二人を分かつまで」という考えがもたらす悲劇的結末を描いた、半世紀も前のことだった。今に至るまで、逆境をものともせずに愛を貫き通す薄幸な恋人たちの物語ほど、心を動かし、涙を誘うものはない。
 恋愛結婚という概念は、西洋社会での個人主義の高まりと切り離して考えることはできない。祈祷書それ自体が、イギリス宗教改革の申し子だった。(p.67)


恋愛結婚の考え方の背景には個人主義的な考え方がある。「家」という単位ではなく「個人」が単位となって婚姻の相手を探し、選択し、合意するからである。

もっとも、個人主義を貫徹することは現実には難しく、結婚することは相手の家族をもある程度引き受けることにつながるものである。ただ、そうした家族との関連の程度は取り決め婚などの方がより深いだろうが。



だが人が幸せをどのように定義し、どのような基準で結婚の成功を判断するかは、親や文化から受け継いだスクリプトによって決まる。取り決め婚の場合、結婚の成功が主に義務の達成度で測られるのに対し、恋愛結婚では、二人の感情的な結びつきの強さと持続期間が、主な基準になる。(p.71)


文化的スクリプトによって世界の見方や感じ方が大きく影響を受ける。取り決め婚は現代の日本社会ではほとんど見られなくなっているが、ここで述べられているような基準から考えれば、意外と幸福感を強く感じられるシステムなのかもしれない。



 アジア系アメリカ人の子どもたちは、母親が選択したとき、自分自身で選択したときにも増して、がぜんやる気を出した。それはなぜかと言えば、母親との関係が、かれらのアイデンティティの大きな部分を占めていたからだ。(p.76-77)


なるほど。アイデンティティにおいて他者との関係が占める位置が、動機づけに大きく影響することがあるわけだ。これは実用的な知識であると思われる。

例えば、母親がアイデンティティに占める割合が大きな子供を勉強させるには、その母親が子供の勉強に関心を持って接する方が、そうでないよりも有効だといったように活用できないだろうか。



分析の結果、アメリカの新聞が、悪徳トレーダーの個人的行動に、不祥事の原因を求めることが多かったのに対し、日本の新聞は制度的要因、たとえば経営者による監督不行き届きなどに言及することが多かった。賞賛に値する結果であれ、非難に値する結果であれ、個人主義社会に属する人々が、その原因を一個人に求めたのに対し、集団主義者は、結果を体制や文脈と表裏一体と見なしていたのだ。
 個人が自分を取り巻く状況をどれだけコントロールできるかという問題に関わる、このような考え方の違いは、日常的な選択に対する考え方の違いを生む。(p.85)


興味深い指摘。



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スピノザ 『神学・政治論――聖書の批判と言論の自由――』

17世紀の末頃に至り、本書は世上に殆ど影を見ることが出来なくなった。……(中略)……。かつて無神論の疑ひある者に過ぎなかった彼はここに「無神論者の大王」として広く喧伝された。そしてこれから約一世紀の後、ドイツの詩人や学者を先頭とする世界の識者に依って彼の再評価が行はれ、「無神論者」の代りに「神に酔へる人」を、又「呪われたるスピノザ」の代りに「聖スピノザ」を見出すまで、「神学・政治論」の著者スピノザは、恰も「死せる犬」の如く埋れていなければならなかった。(上p.32-33)


解説より。このスピノザに対する評価の有無及び評価の方向性の変化に反映している社会背景の変化は考察に値する。

宗教権力から政治権力が自由になっていくプロセスが進み、近代的なリベラリズムが成立しつつある時期の政治理論として『神学・政治論』は位置づけることができる。世俗化が十分に進展し、宗教勢力の権力への介入が出来なくなってくると、聖書の批判を通じてリベラルな政治理論を主張するようなやり方は顧みる必要がなくなったため顧みられなくなった。「神に酔える人」という方向でスピノザを肯定的に捉える見方はドイツ観念論などロマン主義的な哲学思想が肯定的に評価されることと並行していると思われる。



 各人の真の幸福・真の福祉は善の享受そのものの中に存するのであって、他の人々は除外して自分だけが善を享受するという栄誉の中に存するのではない。……(中略)……。例えば人間の真の幸福・真の福祉は知恵そのもの、真理の認識そのものの中に存するのであって、自分が他の人々より一層知恵があるとか、他の人々は真の認識を欠いているとかいうことの中には存しない。こうしたことはその人間の知恵を、換言すればその人間の真の幸福を少しも増大することがないからである。だからそうしたことの故に喜ぶ者は他人の不幸を喜んでいるのであり、従って嫉妬深い・悪性の人間であって、真の知恵をも真の生活の平安をも知らないのである。(上p.120-121)


善の享受そのものに幸福はあり、他人との比較などの中にはないという考え方には共感できる。



何故なら、実際に於ては、自分の欲望に引きずられて自己に有益なことを見ることも行うことも出来ない者こそ何より奴隷であり、自己の完全な同意を以て理性の導きのみの下に生活する者こそ自由な人間だからである。命令に依る行動即ち服従は、なるほど或る意味に於ては自由を排除するが、然しそれが直ちに人を奴隷たらしめるのではない。人を奴隷たらしめる所以のものは行動の理由の中に存する。若し行動の目的が行動者自身の利益にではなく命令者の利益にあるとするなら、その行動者は自己に益なき奴隷である。之に反して命令者の福利がでなく全民衆の福利が最高の法則であるところの国家乃至政治にあっては、万事につけて最高権力に服従する者は、自己に益なき奴隷と呼ばるべきではなくて臣民と呼ばるべきである。さればその諸法律が健全な理性の上に建てられている国家は最も自由な国家である。……(中略)……。即ち、奴隷とは命令者の利益をのみ目指す命令に従わねばならぬ者である。子供とは然し自分の利益になることを両親の命令に基づいて行ふ者である。最後に臣民とは公共の利益になること、従って又自分の利益にもなることを最高権力の命令に基づいて行ふ者である。(下p.176-177)


ここで述べられている奴隷と自由人との区別に表れている自由の概念は、カントによる自律としての自由と共通した考え方であると思われる。



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