アヴェスターにはこう書いている?
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スピノザ 『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』
 同様に又前述のことどもから次のことが明らかに帰結される。即ち、徳なしには、或は(よりよく表現すれば)知性の指導なしには、すべてが破滅に赴き、我々は、何らの平和も享受し得ずに、いはば、我々本来の天地の外に生活するやうな結果になる。従って、たとへまた、知性にとって、認識と神への愛の力から、我々が前に示したやうな永遠の平和は生ぜずに、ただ一時的な平和しか生じないとしても、さうした平和さへが、一度それを享受した上は、世の何ものにも換へがたく思はれるやうな種類のものであるから、これを求めることは我々の義務なのである。(p.204-205)


神への認識と愛により、非永続的であっても平和が生じ、それが至高のものであると感じられることから、これを求めることが義務であるとされている。神秘主義的な色彩が濃いことと、個人主義的な観念に基づく倫理観であるという特徴があると思われる。神秘主義的な観念により、一時的に浄福な精神状態を招くことは了解できるが、それを社会の中に繋げる(思想的なものであれ、社会関係に組み込まれたものであれ)何らかの装置がなければ、実践的な倫理として通用するかどうかは疑問である。

といふのは、我々の見た通り、神の外には我々に幸福を与へ得る如何なる物も存せず、そして神の愛の甘美な鎖に繋がれ且つその状態に止まることが真の自由だからである。
 最後に、我々の見るところでは、推理作用に依る認識は我々のうちに於いて最上のものでなく、単に望みの場所に昇るための一つの階段のやうなものにすぎない。或は、何らの虚偽と欺瞞となしに我々に最高善のおとづれをもたらし、かくしてそれを追求し・それと合一するやうに我々を鼓舞する善き霊のやうなものに過ぎない。そして、この合一こそ、我々の最高の幸福であり、福祉なのである。(p.206)


推理による認識よりも神を把握する直観を重視していることは、推理以上の意味を持つ働きが知性ないし認識にはあるとする点では妥当なものを含むと思われる。しかし、スピノザの示す知性や認識についての議論は、神秘主義的な思想と類似するところがあり、こうした感覚が存在することは理解できるが、倫理学の基礎として神への認識を置くことは、やはり個人の内省の枠内にとどまることとなり、ひとつ前の引用文に対するコメントで述べた通り、社会的な関係を捨象していることから様々な問題が生じるのではないかと推察される。


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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

リュシアン・フェーヴル、アンリ=ジャン・マルタン 『書物の出現 下』

 1460-1470年。印刷術が普及し始め、書物の取引が組織化される。金属加工法が知られていた富裕な都市を抱え、工房の開設のために出資出来る金持ちの商人が多くいた鉱山の国ドイツにおいてまず、こうした動きが見られる。(p.34-35)


文化的にも政治的にも経済的にもヨーロッパの中でそれほど優位な位置にはなかったと思われるドイツの地域で印刷術が普及した要因として、金属の産出や加工技術にも一つの要因があったらしい。



工房はそれまで南ドイツに集中しており、北ドイツの工房は1520年頃までほとんど活動していなかった。ところが1520年から1540年にかけて北ドイツの工房は厖大な数の書物を生産し、その後1540年から1575年までの間一時衰退したかに見えたが、世紀末には再び活況を呈するに至る。つまり、ルターと宗教改革の影響によって、この時期に、書物生産に見られた北ドイツにたいする南ドイツの優位が揺らぎ始めるのである。(p.54)


地中海世界から大西洋へと次第に経済的交易の活発な地域が移っていくこととも対応しているように思われる。ある意味では、宗教改革自体がこうした経済的なシフトに遠因を持つある種の政治闘争であり、ローマ(南)への抵抗という側面を持っていたのではないだろうか。書物生産という分野でもこれと並行したシフトが見られるということか。



 つぎに1570年頃から、カトリック・ルネサンスの影響が現われ始め、出版業の大中心地の分布図を再び一変させる。典礼書のテクストを統一し、それらをローマの慣習に合わせるために改訂することがトリエント公会議で決定。その結果、カトリック系の出版業の復興が促されるのである。教会またはカトリック諸侯の支援を受けていた大出版業者は、これらの書物の独占出版権を手に入れ、事業を著しく発展させる。(p.55)


宗教と政治、経済、言論(の自由や制限)は深くかかわっていることがわかる。



実を言って、アメリカ大陸の印刷工房はすべて教会当局によって設けられたのであり、初めはインディオにたいする福音伝道に必要な書物を刷ることと、形成されつつあった本国人居留地に不可欠の学習書、そしてとくに信仰書を供給することだけを目的としていたのである。確固たる基盤の上に作られたというか、いずれにしても安定していた、メキシコ・シティの最初の工房の歴史が、このことをよく示している。(p.82)


出版という産業にとって教会という教権制的支配機構は大きなパトロンだったと言える。



要するに、大市の発展は宗教改革、その結果である北ドイツにおけるプロテスタント系印刷工房の増加、そして東ヨーロッパでのプロイセン国家の発展とによって助けられたのである。1600年には、そこに出展される書物の目録が刊行され始め、この時期からライプツィヒの大市はフランクフルトの大市と肩を並べるに至り、そして三十年戦争ののちには、ドイツの刊行物の大市場となっていた。
 17世紀の、ライプツィヒの太市の発展とフランクフルトの大市の衰退は、書物取引の変遷においてきわめて重要な段階を画している。フランクフルトは、すでに見たようにヨーロッパのすべての大書籍商の落ち合う場所であったが、これにたいしてライプツィヒの大市に集まったのは主にドイツ人書籍商であり、その他はロシア人、ポーランド人、オランダ人を数える程度であった。したがって1630~1640年頃のライプツィヒの大市の繁栄は、出版業の分散化の始まりを意味している。ラテン語の書物の出版が次第に少なくなり、代わって各国語で書かれたテクストの比重が高まるのと同時に、ヨーロッパでの書物取引は細分化することになる。(p.132)


北ドイツの発展に関しては既に引用した文章でも指摘されいてる通り。これとライプツィヒの大市の発展が結びついており、その内容はラテン語からドイツ語(各国語)への転換を伴っていた。ローマ・カトリックはラテン語を使用することに有利な立場にあるから、各国語の出版が増えることは之に対抗する意味もあったのかもしれない。



 すでに見たように、ごく早期から大出版業者は取引先のいない都市に<代理販売人>を送り込む習慣を持っていた。代理販売人は都市にしばしば現われては書物を勧めていたが、やがて大都市に出版業を兼ねない書籍商が来て開業するようになると、彼らの活動は縮小する。ところがその一方で、書籍商がひとりとして店を出せなかった小都市や部落、農村地帯に、15世紀から宗教画や、しばしば小間物とともに書物を売り歩く行商人が現われ、ほとんど教養のない人びとを相手に、とくに暦や占書、『羊飼いの暦』、綴字練習帳などの小冊子を売っていた。宗教改革者の思想が広まると、行商人の数は増大し、店舗を構えている書籍商よりも容易に治安当局の目をかすめることが出来たので、彼らは新思想の最も活動的な普及者の中に数えられた。わけてもドイツで宗教改革が始まった頃、カトリック側からの攻撃文書をはじめ、とくに聖職者の権威を揺さぶる目的で書かれた反ローマ・反教皇権のプロテスタント側からの攻撃文書をいたるところでばらまき、著しく重要な役割を演じた。ジュネーヴで印刷された文書をフランス国内で配ることを1540~1550年から引き受けたのも、彼らであった。こうして16世紀、ことに禁じられていた誹謗・宣伝文書を流布させるための、多かれ少なかれ秘密の取引網がまずドイツに、続いてフランスとヨーロッパ全土に形成される。(p.140-141)


各国語による出版は、文書が流布する社会層とも関連していた。

また、定まった拠点が見えにくい行商人による新思想の普及活動は、ゲリラ戦的な抵抗であり、現代のブログやツイッターなどによる抵抗運動とも似たところがある。



 しかもフランスの出版業がやがて不況を迎え弱体化すると、オランダの偽版製作者と禁書の出版者が、この隙を突いた。彼らの書物をフランス国内は無論、時にはユグノー〔フランスの新教徒〕が囚われている牢の中にまで持ち込むことも、朝飯前。あちこちに多かれ少なかれ秘密の「取引網」が形成され、外国から届く梱包を監視する任を負わされた同業組合の理事も大方、共犯者であり、彼らが手厳しい態度に出るのは、実際上、強制されたときだけであった。小さくて隠しやすい品である書物の闇取引を、この時代に一体どうやって禁じ得たであろうか。国王による厳格な検閲の最大の結果はしたがって、フランスを取り巻く国境に近いところに、偽版本と禁書を危険な目に遇うことなく刊行する一連の印刷工房の開設を促進したことである。フィロゾーフの主要な著書が印刷されたのも、まさしくここであった。(p.156-157)


ここで書かれていることと関連がありそうなこととしては、例えば、デカルトのような人がオランダに移住したのも、オランダの方が言論環境が良かったことも要因ではなかろうか、ということが思い起こされた。



つまり、今日の私たちの観点からみて真に科学的と映じる著作よりも、これら俗流の書物のほうが好まれていたのである。……(中略)……。印刷の対象となる著作の数が年次を追って増加しつつあったとはいえ、その大多数は科学的な観点からみて興味を惹くものではなく、例えば人気を集めたのは実際的な占星術の書物であった。こうした次第であるから、中世地理書の中でもっとも興味深いマルコ・ポーロの『東方見聞録』が1500年以前にはたった四度しか版を重ねず、嘘八百をならべたてるジャン・ド・マンドヴィルの『旅行記』のような代物のほうが較べものにならぬほどの好評を博したとしても、いっこう驚くにはあたらない。少なくとも私たちの観点からするなら、批判精神が完全に欠如していたのである。しかし、結局のところ、どの時代でも事情は変わらないのではなかろうか。……(中略)……。
 こうして、理論科学の知識の展開に関して、印刷術はほとんど何ひとつ寄与しなかったように思われる。反対に、印刷術が役立ったようにみえるのは、科学技術の問題に大衆の注意を集めることであった。(p.180-182)


批判精神が欠如しているというのは、確かに現代でも変わりないところがある。テレビやネットで流行する言論のほとんどはこうしたものだろう。



 イタリアで産声を上げた翻訳ブームは、フランスの地において成長著しいものがあった。フランス歴代諸王は、翻訳を奨励し、国内統一策の実現のためにもラテン語に代るフランス語の使用を推し進めようと努めた。事実、1539年にはヴィレル=コトレの王令が発布されて、司法上の手続きにあたってはフランス語で処理することが義務付けられた。……(中略)……。だが、正確を期すなら、翻訳活動が隆盛をむかえるのはマルグリット・ド・ナヴァールの弟〔フランソワ一世〕が王位に即いてから後のことであった。この時以降、王命によって翻訳される作品の数は増大し、それは時とすると非常な成功をもおさめた。……(中略)……。
 こうしてフランスでは16世紀前半から古典古代作家の翻訳書が増加してゆくのであるが、ひるがえって出版業者の立場から考えるなら、統一もはたされ人口も多く経済も豊かなフランスであったからこそ、翻訳を出版しても十分採算がとれるだけの読者を確実に見込めたのである。それにひきかえスペインやイギリスで翻訳活動の歩みが遅々としていたとしても、いっこう驚くにはあたらない。(p.212-214)


イタリアでの12世紀ルネサンスを経て、ルネサンス期にはフランスでも翻訳が活発に行われたようだ。

人工も多く経済的にも豊かなフランスで翻訳出版が採算が取れたというのは、戦後の日本とも共通すると思われる。おそらく、今後は日本の出版業界では翻訳ものは当時と比べて減っていくのではないだろうか。



各国ごとに国語文学が興隆しつつあったものの、あらゆる地域にあらわれたこの翻訳作品のおかげで、ヨーロッパ文明は均質性を保ったのであった。のみならず、翻訳のほうの出版数が原語における出版数をしのぐ場合さえしばしば見られた。……(中略)……。共通語たるラテン語が衰退し、各国で国民文学が発展し、その上さらに政治・宗教両面にわたる検閲制度が厳しくなることも手伝って、とうとう書物市場が国ごとに閉鎖的となってしまい、そしてヨーロッパ各国の間に文字通りの隔壁が設けられてしまうのは――実は、17世紀に入ってからのことであったのだ。(p.217-218)


いわゆる「近代」と呼ばれる時代の始まりとこの閉鎖的市場の形成とほぼ同じ時期である。「ヨーロッパ文明」なるものの均質性は、ラテン語とそれに取って代わった翻訳により古典や知識や伝統や流行作品などの共有によるところがある。

おそらく同様に中東イスラーム世界でもアラビア語のフスハーが同じように広い地域に共有する知識や伝統を形成していたと思われる。



 以上のように、スコラ学の伝統に平行してもう一つ別の、すなわち古典学の伝統が生れた。ところで、それと同時に印刷術は、大衆に向けて国語で書かれた或るジャンルの書物、すなわち概説書・処方箋集・占書・歴書の出現をうながしもした。だが、その反面で、印刷業者は読者の限定されたラテン語の科学書を上梓することにためらいを見せる。その結果、科学の分野では、他のどの分野にもまして長い間、書物を検索しようとする場合には手写本に頼らざるを得なかったらしい。(p.222-223)


マスメディアはハイカルチャーよりもサブカルチャーに親和的であるのはどの時代も変わらないということか。



 じっさい、印刷術が最も大きな貢献をなしたのは、博物学や解剖学など記述的と呼ぶことができるような科学の分野においてであったろう。そして、それは図版の働きに負うていたのである。(p.224)


版画は現在では芸術作品のように鑑賞されたりするが、科学的な資料としての意味が大きかったというのは興味深い。現在の写真の代わりを務めていたと言えよう。



 さらに、どの国々に対して注意が向けられがちであったか調べるなら、とても示唆に富む報告が得られる。フランス語で出版された地理文献の大部分は、今日我々が近東と呼ぶ地域を対象としているのであった。フランス人の好奇心を独占したかに見えるトルコ人に関する書物の量は、アメリカに関するものの二倍はある。次いで西インド諸島とポルトガルの制服を扱う書物が多数。その後に、中国やタタールといったアジア諸国および聖地を記述したほぼ同数の書物が位置している(エルサレム旅行記などは特に多数ある)。そしてアメリカを扱った書物は第四位にしか見出せないのであり、アフリカや南の諸国はほとんど好奇心を惹起しなかったように見える。結論として、16世紀のフランス人はその読書傾向から見て、遠い地域よりは近い地域に、それまで未知であった世界よりは昔からすでに知られていた世界に、より一層の興味を抱いていたのであり、またその視線は西方よりは東方に向けられていたのであった。ルネサンス期を通じて、フランス人の地平は確かに広がったかも知れない。しかしその世界像は、相変らず歪んで映っていたようである。(p.233-234)


16世紀にはオスマン帝国が西に勢力を広げていた時代ではなかっただろうか。そのあたりを考えても、直近に迫る利害関係があるのだから、トルコへの関心が高くて当然である。

また、当時の中東とアメリカなどの経済的な水準の相違などを考えても、この偏りは容易に了解できるように思われる。



おそらく、書物というものがそれ自体で誰かを説得し得たということは、かつて一度もなかったのである。しかし、説得することはないにせよ、書物とは自分の確信についての手で触れることのできる証しなのであり、この書物を手にすることにより、確信は具体的な形をとる。書物は、すでに説得された者たちに対して一層の根拠を与え、彼らにその信仰を深めかつ明確化する手助けをし、彼らが議論において勝利を占め、逡巡する相手を折伏するための基本的知識を与える。おそらくこうした理由がからんで、16世紀に印刷術が、プロテスタンティズムの進展にとって本質的な役割を演じることになったのだろう。(p.247-248)


大変興味深い指摘である。反対者を説得するのではなく、すでに確信を持っている者の確信を強めるものとして機能するという傾向は確かにありそうである。



 宗教改革の生成に寄与した印刷術は、また同様に、諸国の国語の形成とその固定化においても本質的な役割をはたした。16世紀の初頭までは、西ヨーロッパ諸国においてさまざまな時期に俗語が書き言葉としてあらわれ、共通語として役立てられ、話し言葉の変化に忠実に従いながら変化を続けた。したがって、たとえば12世紀に武勲詩の中で用いられたフランス語が、15世紀にフランソワ・ヴィヨンが書くのに用いたフランス語と根本的に相違する、というようなことが起る。しかし、16世紀以降は、事情はもはや同じではない。17世紀には、ほぼいたる所で諸国の国語は結晶化されている。と同時に、中世に使われていた書き言葉のあるものはもはや書かれなくなるか、あるいは書かれたとしてもそれは徐々に例外的なことになる。アイルランド語やプロヴァンサル語がそのよい例である。そしてラテン語も少しずつ用いられなくなり、死後と化す。(p.307)


言語の固定化に印刷術が影響した。



 16世紀は、古典古代文化の再生の時代であると同時に、ラテン語が地歩を失い始めた時代である。この傾向は、特に1530年ごろから明白となる。実際、驚くにはあたらないのであって、すでに見てきた通り、書籍商の顧客は少しずつ俗界の人間によって占められ、時にはそれが女性であったり商人であったりする。これらの人々の多くは、ほとんどラテン語には縁がないのであって、だからこそ宗教改革者たちは断固として近代国語を用いる。ユマニストたちも、広い範囲にわたって読者を得ようとして、これらの国語を援用することをいとわない。(p.309)


社会の変動が使用言語の変動につながっている。




テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

『日本地理体系 臺灣篇』

台北市は現今台湾の政治中心都市であるが、もとは台南市が中心であったのである。我が国が支配するとすれば内地に近い北部、暑熱が幾分緩和されて内地人には凌ぎよい北部が政圏心としてより価値づけられることになる。(p.10)


日本が統治を開始してからしばらくの期間は各地で現地の人々の抵抗があったことからも、基隆と台北が重要となる理由があったのだろう。

本書は1930年に出版された本(復刻版)だが、この当時の日本の為政者側の関心がどのようなものであったかが伺い知れて興味深い。なお、本書は古い漢字や仮名遣いで書かれているが、変換が面倒であることや読み安さなどを考慮し、このブログでは現在の表記に直している。



 新興の基隆港は台北の外港たるは勿論、縦貫鉄道と内台、対支及対米航路との連絡地点に当り全島の総門戸として任務を果たしつつある壮年期の港市である。港は丘陵及び島を以って囲まれ水深は優に一万噸級の汽船数隻を岸壁に横着けするの余裕を持っている。勿論築港上人工は加えたけれども、南方の高雄港に比しても、自然的地形が優秀で、自然的位置の優秀と相俟って他の追随を許さざる全島一の良港である。かかる良港を持ち得た台湾は政治、経済上無上の強味がある。
 台北盆地及これにつづく新竹州の台地は地形、気候の関係から茶の良産地で、これ等の紅茶は内地へ、烏龍茶は米国へ、包種茶は南洋へそれぞれそれ等地方の住民の味覚に適したものを基隆港から輸出して茶の分業的商圏を確立している。(p.10)


基隆の重要性を強調するとともに、台湾の経済戦略的な重要性をも指摘しているあたりに、当時の地理学の性格の一面、すなわち支配者の御用学問的なものとしての性格が表れているように思われる。

また、茶の分布の他に、種類ごとの輸出先の分業があったというのも他の本でも読んだことはあるが、興味深いところではある。なお、近年では台湾茶については、当時のような北部周辺だけでなく、中部の高山で栽培された茶への関心が高まっているように思われる。



 産業中最も盛なのは工業で、砂糖が産額の殆ど半を占め、酒精之に次ぎ、特殊なものに、鳳梨缶詰がある。農業は風土に恵まれて、米穀最も多く、甘蔗甘藷蔬菜等がこれにつぎ、鳳梨は、その六割が缶詰製造に消費される。……(中略)……。この外製糖社線に鳳山、屏東を中心として局部的に樹液状に発達せる鉄道、軌道がある。自動車も亦各地間に往来し、南方恒春、鵝鑾鼻方面に至るものもある。海上の船通も便で、東西沿岸線の外に、高雄港が、我が帝国南端の重要港で、支那南洋方面とも密接な関係を有し、其の接衝地たる故に、内地方面へのみでなく、天津広東、南洋にも航路があって、船舶、旅行者等の出入頻繁の度を年々加えて来た。それ故、自ら取引も盛で、高雄港の如き、実に基隆と共に本当屈指の商港である。……(中略)……。旗山は九曲堂から製糖社線で二八粁の山地にある小邑で、其の観恰も埔里街を連想せしむるもので、風光の妙他に比すべきものがない。(p.148)


当時の高雄州に関する叙述。

北部では茶業が盛んだったのに対し、南部では製糖業が主要な産業になっていたことがわかる。製糖、酒造、パイナップルの缶詰のいずれも農業と関連する工業であることが当時の台湾の産業の特徴を反映している。

ちなみに、粁は「キロメートル」。

旗山という小さな町についての記述を引用したのは、私が近々訪問する予定だからである。当時の老街が残っているが、北部の町のものと相違があるかどうか気になるところである。



積出貨物の主なものは砂糖、米、酒精、セメント、芭蕉であり、陸揚貨物は豆粕、硫安、其他の肥料、●材、木材等である。(p.154)

新興高雄市の建設もまた勿論領台後に行われたのであって、旧市街が発達していなかったことは自由な都市計画によって近代的都市を建設するに極めて便利であった。(p.155)

高雄は帝国水産南進の策源地であり、その活躍は近年非常なる進展を呈して来た。大型漁船の進歩と冷蔵輸送の発達とは、漁場の著しき増大を来し、従来台湾海峡の西南部に位する所謂「フォルモサバンク」を以て主なる漁場とせしも、現在にては南方バッシー海峡を越え遠くルソン西岸、マニラ近海に及んで居る。(p.155)


以上はいずれも高雄港に関する写真に付されたキャプションの一部である。なお、●材となっているのは、復刻出版のせいか印刷が不明瞭で読み取れなかった箇所。

近代的都市を建設するに極めて便利であったとの文言や帝国水産南進の策源地などという叙述に、「統治のための学」としての性格が見て取れる。



旗山街 楠梓仙渓に沿う台湾南部の一邑名。人口一万七千。旗山郡役所、郵便局等がある。この地はもと南方蕃界の関門として、開墾及び製糖事業の為めに発達したもので、蕃署蕉と称していたが近年今の名に改められた。(p.162)


旗山の歴史。台湾の沿岸から少し山側に入った地にはこれと類する展開をしていった町がしばしばあるように思われる。



また其位置が温熱両帯に跨り、且つ地形が垂直的肢節に富んでいる台湾に植物の種類が多いのは当然であるが、内地に於て供給することの出来ない熱帯的有用植物に富むことは、特に我国民経済にとって重要な事項である。甘蔗、樟、及び芭蕉(バナナ)、鳳梨(パイナップル)などの果実は我が領土中台湾のみが供給し得る特産品であって、これらの資源が我が国民経済の独立に少なからぬ貢献をしていることは人のよく知るところであり、我領土としての台湾の使命も今日まで主としてここにあったようである。(p.262)


ここは「台湾の人文地理」という章の冒頭付近の文章である。自然地理よりも人文地理という分野の方が、より支配の学としての性格が濃厚である。



 台湾の産業は農業本位である。領台三十有五年此の間に於ける台湾産業界の発展は驚嘆に値する。……(中略)……殊に過去十年に亙り我国経済界を襲った深刻な不況は台湾経済界に相当の圧迫を加えたとはいえ、従来農業を主とするの故を以て内地商業中心地の如き打撃なく、昭和二年の金融界大混乱に際しても無事に突破することを得たのである。
 台湾産業界を部分別に見るに昭和三年に於ける農産価額は47%に当り工産之に亜ぎ43%、林産4%、鉱産3%、水産3%の割合となっている。而して工産中には農産加工品に属する砂糖及び茶がその七割を占め純然たる工業は僅かに12%に過ぎない。(p.265)


当時の台湾の産業の状況が簡潔にまとめられている箇所。農業を中心としており、一次産業と二次産業の中間あたりの産業構造になっていたこともあってか、金融の混乱による打撃は小さくて済んだらしい。

また、農業と農産加工業が経済の大部分を占めていたことがわかる。



 最初に支那民族が落ち着いたのは、勿論西海岸の河口、或は沙洲に囲まれた入江などの船着場であって、彼等はこれらの地を根拠として蕃人と交易し闘争し或は農耕に従事したのである。……(中略)……。これを便宜上私は第一線の都邑とする。基隆、淡水、後龍、梧棲、鹿港、東石、安平、高雄等の西海岸の港町がこれである。
 開拓が一層進んで、海岸から遠く隔った奥地にも本島人農民の集落が生れ、蕃人は殆ど山地に逃げ込み、或は同化されて、広い西部の平原が大部分、支那民族の手に帰する頃になると、第一線の都邑と奥地の農村の間が、当時の交通状態としては遠隔に過ぎるようになり、ここに農村の中心都邑として、奥地にも都邑が発達することになる。……(中略)……。従って奥地の中心都邑は南北の交通線に沿い、一連の都市線をなしていることになるから、これを第二線の都邑と称することが出来る。台北、桃園、新竹、苗栗、台中、彰化、員林、北斗、嘉義、鳳山等の諸都邑がこれである。
 以上第一線及び第二線の都邑の外に、台湾では尚第三線の都邑を指摘することができる。それは蕃界嶺の渓谷の出口に位置する諸都邑であって、所謂谷口町がこれである。平地の開拓が略ぼ完成し、蕃地渓谷の富源が平地住民の興味を惹くようになり、此渓谷の物資を集め且つこれに文明の利器を供給する市場町として発達したのがこれらの諸邑である。新店、三峡、大渓、南庄、二水、玉井、旗山其他の小邑が此第三線の都邑であって、これらの都邑が作る都邑線は勿論第一線及び第二線の都邑線のように、直線に近い一線ではないが、大体に於て一連の都邑線と称することができる。
 上に述べた三線の都邑のうち、第一線の諸都邑は今日殆ど其重要性を失ってしまっている。……(中略)……。但し基隆、高雄の両港市はこれが例外であって、港湾が近代の港湾としての諸条件を具備していたが為め、今は台湾の二大開港場として、西岸諸往昔の繁栄を奪い近時一層其重要性を加えている。
 第一線の諸港市が衰微し、基隆、高雄の両港が繁栄するにつれて、益益其重要性を発揮したのは第二線の諸邑である。……(中略)……。第三線の諸邑は、其背後地が山間の渓谷に限られて居る関係上、大都市に発達することは到底出来ないのであるが、蕃界の開発が進むに連れて次第に其重要性を増して来ている。(p.305-308)


本書の中では比較的珍しく、概念的というか社会学的な一般化をしている箇所だが、台湾の諸都市の展開を概観するには有用な図式を提供しているように思われ、当時の状況が今日の状況にもつながっているように見えるため、益々興味深い。

第一線の港町は本書の指摘のとおり、基隆と高雄を除くと基本的に寂れる傾向にある古い町が多い。ただ、安平は現在の台南市にあり、台南は現在も比較的大きな都市ではあるが、かつては台湾の中心都市であったことを考えるとやはり衰退の方向ないし相対的な地位が低下していることは疑いない。

第二線の「農村の中心都邑」は、この時代にも重要性を増していることが指摘されているが、現在でも比較的栄えた大きな町が多いようだ。縦貫鉄道が通っている町が多いことからも、流通の要衝となりえたことが、それを支えてきた要因の一つであるように思われる。

第三線の「蕃界嶺の渓谷の出口に位置する諸都邑」は平地と山地の境界あたりに位置する諸都市で、この時代には重要性を増していると記載されているが、一時それなりの繁栄を享受した後、やや廃れてしまった町が多いように思われる。現在、これらの都市には三峡、大渓や旗山など比較的古い街並みが残っているところがあるが、これも経済発展からやや取り残されるかのようにしていたことの反映であると思われ、これらの歴史的な遺産が現在では観光資源となっている。こうしていわば取り残されたことが却って地域の歴史的な資源を保存することに繋がったというのは、北海道の小樽などとも共通するパターンであろう。



 然るに咸豊九年(1859年)我安政六年我神奈川、長崎、函館で貿易を許したと同年に於て、淡水港を開き、英仏両国との通商貿易を許し、次で同治元年(1862年)には基隆、打狗の二港を開いた。斯くて南部に糖業起り、北部に茶業始まり、順次特有作物は栽培せられ、産業漸く発展するようになった。然し土木交通は之に伴うの程度に至らなかった。(p.363)


淡水の開港が日本の横浜、長崎、函館の開港と同時期というのはこれらが独立した個別の問題ではなく、一連の問題だからであろう。また、基隆と淡水の開港により、北部の茶業が輸出による発展へと道が開かれ、高雄の開港により糖業の発展の流通上の基礎ができたということらしい。

台湾の産業は農業本位であると本書では指摘されているが、このように世界的な市場統合の時代において、台湾の農業も注意してみれば商品作物の生産がかなりの割合を占めていたこともそうした背景があるからだと思われる。そして、近代的な港湾の存在がその存立を支える一つの要因であった。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

簡月真 著、真田信治 監修 『台湾に渡った日本語の現在――リンガフランカとしての姿――』

 1895年の植民地統治開始と同時に「国語」普及計画が実施されたのだが、その教育制度は一般の人々にすぐには受け入れられなかった。統治が始まってから20年たった1915年でも、公学校の就学率が9.63%(台湾教育会1939)で、日本語ができる人は1.63%(台湾総督官房臨時戸口調査部1918)に過ぎなかったのである。(p.15)


台湾の植民地統治の初期は産業基盤や現地の人々の抵抗への対処などに追われて教育にまで十分手が回らなかったという側面もあるのかもしれない。ただ、20年がたってもここまで就学率や日本語の普及率が低かったというのはやや意外。



 1936年第17代総督に就任した小林躋造は「皇民化、工業化、南進基地化」を三大政策に掲げ、従来からあった同化政策を戦時体制においていっそう熾烈に進める方針をとる。まず、学校教育での漢文嘉だけでなく日本語新聞紙面の漢文欄までも廃止され、「書房」が次々と閉鎖に追いやられた。また、「国語常用運動」や「国語常用家庭」が推奨され、1940年からは改姓名運動も提唱されることになった。
 このようにして「国語」普及計画は、学校教育のみならず、社会教育を通しても推進されていったのである。その結果、1942年の「国語解者率」(公学校および国語普及施設の在学生・卒業生)は全人口の58.02%で(台湾総督府1944)、1944年の就学率は71.31%に上がった(台湾総督府1945)。そして、1940年の国勢調査によれば、日本語普及率は台湾人人口の30.18%に上った(台湾省政府主計処1953)。(p.15-16)


「皇民化、工業化、南進基地化」というフレーズはまさにこの時代の台湾のキーワードであるように思われる。



 植民地時代の日本人との接触状況は人によって異なるのだが、日本人教師と接触した経験はほとんどの高年層が持っている。1940年頃の公学校では、日本人教師の割合は約6割である。場所によっては、日本人教師の宿舎の掃除を生徒が担当させられることもあった。そこでは、日本人教師やその家族との交流を通して、日本の生活習慣に触れたり、日本語を習得したりする機会があったようである。
 また、家族の仕事の関係上、製糖会社や鉄道部の宿舎で生活していたような人は、日本人との日常的な接触が頻繁にあった。(p.23-24)


統治上の重要性が高い産業である製糖業や鉄道部といった部門に日本人が多く就いていたというのは興味深い。


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荻野純一、笠原美香 文、伊東ひさし、中島賢一 写真、旅名人編集室編 『高雄と台湾最南端 歴史遺産からリゾートまで』

 漁人媽頭は現在、地元の若者のデートスポットとなっていて、たくさんのレストランやパブがテナントとして出店している。旧倉庫の前の岸壁も遊歩道になっていてオープンエアの店がある。夜風にあたりながらの一杯はまた格別であった。
 この一帯も日本統治時代は高雄の「心臓部」であった。近代的な埠頭の脇にたくさんの倉庫が並び、港には大型船が出入りしていた。1907年(明治40年)には高雄港は、台湾全体の輸出入の約半分を扱うまでになっていた。
 当時の高雄港から輸出された主な商品は米、砂糖、バナナ、パイナップルなどで、台湾総督府は台湾北部では米作、南部ではサトウキビを増産する、いわゆる「南糖、北米」政策を採っていたから、高雄港では砂糖の輸出が大きなウェートを占めていた。当然ながら砂糖の倉庫もかなりのスペースを占めていた。
 倉庫が並ぶ港湾地区の北側は「塩埕埔」と呼ばれていた。高雄港駅の東側から愛河までの一角で、現在の塩埕区にあたる。「哈瑪星」に続き開発された街区であり、いわば「旧市街の中の新市街」。こちらもほぼ碁盤の目状にきちんと道路が整備されて町造りが進められた。現在もその面影は残っている。西の「哈瑪星」と比べると道幅、道路と道路の間隔ともに広がっているのは都市開発の時期がやや遅かったため。かつては高雄でもっともにぎやかな地区であった。ただ、新市街の誕生とともに廃れていた
 この一角に堀江商場がある。七賢三路と五福四路が交差する場所で、戦後の台湾で一時期、外国製品が入手できる場所として一世を風靡したショッピング街があった。堀江は字のことく、もともとは運河があった場所である。高度成長を迎える以前の日本と同様に、台湾でも国際収支の悪化を防ぐために外国製品の輸入を極端に抑えていた。台湾最大の国際貿易港があった高雄には外国の船員が数多く出入りしていたから、彼らを通じて誰もが欲しがる外国製品が横流しされ、この堀江商場で売りさばかれていた。いわば「規制が生んだ繁栄」であった。(p.27-28)


高雄の歴史的展開として開発が西から進んだことがわかる。哈瑪星(浜線)から塩埕埔そして新市街へという流れが見て取れる。

台湾の産業政策についての「南糖、北米」政策というのも参考になった。南で作った砂糖を高雄港から輸出して外貨を稼ぎ、北でつくった米を基隆港から「日本本土」に移出していたのだろうか?基隆についてはまだ調べていないので不明。今度、チェックしてみたい。

堀江商場が昔運河だったというのは興味深い。



 新市街は1940年代に整備された地域であり、特に第二次世界大戦後になって一段と開発が進んだ地域である。現在の高雄の繁華街も、この地域に集まっている。この地域の主要な通り名に興味深い“法則”がある。一心路から始まり、二聖路、三多路、四維路、五福路、六合路、七賢路、八徳路、九如路、十全路と並ぶ。しかも、南の一心路から数字が増えるごとに北の通りとなっていく。八徳路と九如路の間に高雄駅が挟まれている。(p.38)


通りの名前の規則性は、町の地理的な位置関係をつかむときに役立ちそうだ。40年代になって新市街が開発されたということは裏を返せば、30年代までは西側の比較的狭い地域が高雄の中心だったことを意味している。その後の急速な発展が伺えるように思われる。



 日本全体が戦争への道へと走り始めた1930年代後半になると、台湾経済もその影響を受け始める。農産物の加工業に加えて、軍需に直結した重化学工業の工場が台湾でも次々と建設されるようになった。その筆頭格が良港を備えた高雄であった。
 高雄港の第二期工事が1937年(昭和12年)に終わると、高雄には石油精製所、肥料工場、製鉄所、造船所、アルミ産業などの工場が誕生した。太平洋戦争末期には軍需色を強めた高雄の工業地帯はアメリカ軍の攻撃対象となり、これらの重工業工場は空爆により軒並み破壊された。しかし、当時のインフラや、高雄の人々が工場を通じて引き継いだ人的資源が、後の重工業復活に大きく寄与したことは間違いない。こうした重工業の拠点は現在も高雄市南部に広がっている。(p.45)


こうした産業の変化が40年代の新市街の整備へとつながっていくのではないかと推測される。

ちなみに、高速鉄道(台湾新幹線)の開通により、近年は高速鉄道の駅がある北部の開発が進んでいるという。



 砂糖は現在でも重要な生活必需品である。しかし、明治時代の砂糖は、現在では想像もつかないほど貴重な商品であった。この時代の砂糖は「消費量が国の文化レベルを示すバロメーター」であった。「砂糖は成人病の元凶」のように見なされている現代とは大違いである。(p.88)



詳しいことは忘れたが、『砂糖の世界史』でもこれに類することが述べられていたように思う。



 一方で国内の製糖業の方は壊滅状態になっていた。江戸時代には日本にもまがりなりにも製糖業は存在していた。しかし、日本政府が幕末以降に欧米各国と結んだ国際条約で砂糖の関税を撤廃してしまっていたために、安い輸入砂糖が流入した。このため国内需要が急激に増えているにもかかわらず国内の製糖業者は次々と潰れ、1898年(明治31年)には砂糖は、ほぼ全量を輸入に頼る構造に変わっていた。
 こうして砂糖は日本の輸入品の二番目(金額ベース)を占めるようになった。この出費は、日本の国際収支悪化の元凶になっていた。……(中略)……。逆に言えば、台湾での製糖業の発展は、日本政府にとっても国際収支を大幅に改善できる経済効果も大きかった。……(中略)……。つまり、日本政府が巨額の費用を投じて台湾での製糖業の育成に努めたことにも、理由があったのである。(p.88-89)


日本の植民地政策に関する重要な指摘。



 1905年(明治38年)には橋仔頭に電話も敷設されている。現在の橋仔頭は高雄のベッドタウン化して静かな住宅地となっている。当時は最新鋭のインフラが整った、台湾でも最も恵まれた地方都市になっていた。製糖工場の機械メンテナンスのため1909年(明治42年)には、工場内に橋仔頭鋳物工廠が設立されている。これが現在の台湾機械公司のルーツである。
 ちなみに1904年(明治37年)には同じ橋仔頭に、高雄の陳中和が台湾人初の製糖工場を建設している。高雄市内にある観光名所の一つである陳中和記念館は、製糖業などで財を成した彼の邸宅であった。(p.98)


現在、台湾糖業博物館がある橋仔頭に関する記述。

陳中和記念館は1920年に竣工した洋館。毎月第二土曜日しか開放していないらしいので、近々高雄に旅行に行くのだが、その際にはオープンしていないようで残念。機会を作って行ってみたい。



 偶然とはいえ、この大日本製糖の栄華盛衰の過程で“鈴木”という名前が絡んでいた。

 最初の鈴木は大日本製糖の“創業者”の鈴木藤三郎である。彼は没落しつつある日本の製糖業に現れた“救世主”だった。……(中略)……。1903年(明治36年)には衆議院議員にも当選している。

 ……(中略)……。1905年(明治38年)には鈴木久五郎もまた政界に進出する。(p.100-101)


こうした大商人ないし資本家が政治家にもなっていくというのは、小樽の歴史や地域研究をしたときにも出てきた現象であり、時代的にもほぼ重なっているのが興味を引いたところである。



日本統治時代の屏東には日本軍の航空基地があった。当時は日本最南端の軍用飛行場で、日本の東南アジア進出とともに重要度は増していった。(p.162)


花蓮にも日本軍の飛行場があったように思う。高雄も軍需産業の拠点にもなっていったことなども考えると、台湾の地方都市の多くは日本統治時代には軍事拠点としての性格も持ち合わせていたのかもしれない



 東港には日本統治の時代の建物群も残っている。その代表例が延平路。明らかに医院だったと分かる建物が残っている。(p.195)


日本統治時代の建物は台湾の随所にある。ここ数年来の私の関心の対象なので、メモしておく。



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