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マイケル・サンデル 『民主政の不満 公共哲学を求めるアメリカ 下 公民性の政治経済』

 もしアメリカ政治が自由の公民的要素を再び活性化しようとするならば、“いかなる経済的仕組みが自己統治に親和的か。いかにして多元的社会の公共的生活が、公民的な関与が要請するような豊潤な自己理解を市民のあいだに涵養し得るか”ということを問う方法を見つけなければならない。……(中略)……。
 19世紀末と20世紀はじめの数十年間、アメリカ人はこれらの問いに、明晰かつ力強く取り組んだ。というのは、自由に選択する個々の自己が、突如として、国家規模で現出した新しい組織の時代に初めて対峙したのが、この時期だったからである。……(中略)……。
 政治家と時評家は、人々の自己理解が、もはや自分たちが生活している社会的世界にそぐわなくなってしまった時代の不安を描き出した。……(中略)……。今や大部分の人は、自分自身のためあるいは他者と共同で働くというのではなく、大企業の被用者として働いている。そうした条件下では、諸個人は巨大組織に「飲み込まれて」しまい、構造の前で「なす術もない」。(p.102-103)


まさにこの時期にマックス・ウェーバーは近代社会を「鉄の檻」と形容したことを想起させられた。時代の背景として「国家規模で現出した新しい組織」、従来よりも巨大で強力な官僚制的な組織の出現があり、経済的にも構造が巨大化していた。この時代は多くの著述家がこうしたことを書いていた時代であり、ウェーバーの時代診断もそうしたものの中の一つであった。



 そうしているうちに、普通選挙権が、市民たちがあたかも「個人の意思を基礎として社会的諸関係を形成する」力を保持しているかのように見せることによって、主意主義的自己イメージをさらに強化した。(p.103)


普通選挙権の普及と主意主義的自己イメージとの関連を示唆している。興味深い指摘。



不安の中核には、自分たちのいる世界が理解できないということがあった。(p.105)


私自身も社会や世界を知りたいと思う動機の某かは、これと近いものに動かされている面があるように思われる。例えば、世界を理解することによって、自分が正しい選択ができるという確信を得たいということや、世界を正しい方向に変えるための活動を――積極的にしたりはできないとしても――少なくとも邪魔はしないという方向での確信を得たいといったようなことがある。



疑いもなく競争は無駄を含んでいる。だが人間の行為がそうでないことなどあろうか?民主政の無駄は、最も明白な無駄のなかの一つであろう。しかし、その無駄を償って余りある代償が民主政にはあり、またそれが民主政を絶対主義よりも効率的なものにしている。競争についても同じことが言える。(p.144)


競争の無駄を指摘することで独占への擁護をしようとする者に対するブランダイスの反論。

「効率性」によって回答しているが、目的論的に回答する方がより適切に回答できそうに思われる。



 ケインズ主義者が総需要のレベルに焦点を置くことによって、消費者の欲求と願望の内容に関して政府は中立であることが可能になる。……(中略)……。消費者需要の理論は消費者の欲求を「所与のデータ」として扱う。経済学者の仕事は「ただ欲求の充足を追求する」、すなわち欲求を満たす財を最大化するだけである。……(中略)……。ケインズ主義の需要管理における断固たる判断拒否という特徴は、手続き的共和国のリベラリズムを暗示する新しい経済学の最初の主題である。(p.181)


ケインズ主義とリベラリズムの関係についてのサンデルの指摘は非常に啓発的である。私自身、経済学的にはケインズ経済学に共感してきたこともあるため、なおさら考えさせられる。

本書を読んで得た大きな収穫の一つは、消費者主義の運動が正が善に優先するリベラリズムと親和的であることを学んだことである。これを念頭において身の回りに流通している言説を見ると、消費者主義の言説が多々見られることに気付かされるからである。また、サンデルの指摘は、あらゆるものが商品化している時代において、その不適切さもまた見えやすくしてくれるように思われ、参考になる。



 自ら選択をしたわけではない道徳的絆に負荷をかけられていないため、ダイアー博士の理想とする自己は連帯を知らない。「そのような自己の価値は地域に限られたものではありません。彼らは家族、近隣、コミュニティ、町、州、国家などとの一体感を持ちません。彼らは自分を人類に帰属すると見なします。失業中のオーストラリア人も、失業中のカリフォルニア市民も違いがないとみなします。特定の境界に対して愛郷心を持ちません。なぜなら、彼らは人類全体の一部と見るわけですから」
 健康や幸福以外にも、ダイアー博士の教えに従って生きる人々は、自分の人生に対する「全体的支配力の感覚」を手に入れる。しかし、その支配力とは、自己統治を実践する共和主義的自由とはかけ離れている。というのも、ここでの支配力とはほとんどが個人的関係か消費行動――無愛想なデパートの店員に対応すること、不躾なウェイトレスに威圧されずにステーキを返すことなど――に関係しているからである。ここに、1970年代までに展開された主意主義的企ての持つ悲哀が現れている。(p.213-214)


負荷なき自己と連帯の欠如についてはサンデルは随所で指摘しているが、その自由感(支配力の感覚)は個人的関係か消費行動と深くかかわるものにすぎない点の指摘は興味深い。いずれも個人レベルの行為に過ぎないということ。



 福祉は貧困を緩和するかもしれない。しかし、十全な公民性を共有することに必要な道徳的・市民的能力を人々に備えはしない。福祉はおそらく「私たちが国内でおかした最大の失敗」だったとケネディは論じた。なぜなら「何百万人もの国民を、同朋市民が自分たちのために小切手を切ってくれることを待ち望む依存と貧困とに隷属」させたからである。……(中略)……。貧困の解消に必要なのは、政府による所得保証ではなく、「尊厳ある仕事によってまっとうな所得を得ること、すなわち、仕事を得ることによって共同体や家族、国、そして何よりも重要なのは自分自身に『私はこの国を作る手助けをした。私は偉大なる公共的事業の参加者である』と言えること」である。最低限所得保証は、それがどれほど良いものであったとしても、「民主政のもとにある市民にとって本質的な、自己充足、共同体生活への参画の感覚をもたらすものではない」。(p.226-227)


最低生活保障に対する適切な批判。確かに福祉は必要なものではあるが、それは社会が悪くなることを防ぐにはある程度の力は持つかもしれないが、よりよい社会を形成していくための力にはほとんどならない。

日本の生活保護制度の場合、最低生活費が高すぎるという問題があり、それが引用文で指摘されているような問題につながっている。また、行政の運用が悪いということにされている「水際作戦」なども、結局は一般社会の常識的な生活感覚と福祉受給者の感覚の間のギャップがその要因の一つと考えられるし、制度的にはそれは高すぎる最低生活費ということに起因している面が大きいのではないかと考えている。



税の優遇措置が外部の企業にとってゲットーに投資する誘因になったとしても、それは住民が自分たちの共同体を統御することにはほとんどつながらない。(p.227)


税に関する議論においても、コミュニタリアン的な観点からの批判はそれなりに有効なものを含んでいるように思われる。リバタリアンに対して平等主義的リベラリズムのように共通の土台から批判するよりも、異なった側面から批判できるコミュニタリアニズムは有効な批判理論になりうるのではないか



国家的な関与によってアメリカの労働者の教育と職業訓練により多く投資するためには、すでに失われた国家単位での相互責任の感覚がその前提として必要となる。だが、富者と貧者の格差が拡大するにつれて、“両者が運命を共有している”という感覚も縮小し、”富者が高い税金を払って同朋市民の技能に対して投資しよう”とする意欲も減少してしまうのである。(p.262)


現代日本でも増税に関する話題がニュースに毎日のように上っているが、これについての合意ができないということも、ある意味ではこうした共通感覚が失われているということが背景にあるように思われる。しかし、そのことを明確に指摘することがされていないために、その漠然として不安感、不満感が政府や官僚といったものへの不満に転化されている側面もあるように思われる。そして、政府や官僚を叩き、足を引っ張ることを続けることによって、有効な政策がますます打ち出しにくくなっているという負のスパイラルに入っているという面がある。その意味では不満や不安の正体をより明確に指摘する言語が必要であると思われ、こみゅにアリアニズムはその参考になるのではないかと考えられる。



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マイケル・サンデル 『民主政の不満 公共哲学を求めるアメリカ 上 手続き的共和国の憲法』

手続き的共和国は、生き生きとした民主的生活がもつ道徳的エネルギーを保持することはできない。それは、狭量で不寛容な道徳主義に通じる道徳的空白を創り出す。そしてそれは、市民が自治に参加するために必要となる人格的資質を涵養することができない。(p.27)


手続き的共和国と正が善に優先するとするリベラリズムは道徳的空白を創り出すという指摘は、私がサンデルから学んだ大きなポイントとなった点である。また、人格的資質を涵養する必要性についての指摘も参考になった点である。ただ、後者はどこまで普遍化できるか――すなわち、人格的資質を涵養しなければならないのは誰か?すべての人に必要とされるのか?――という問題があるように感じており、その疑問に対する答えを探求していきたいと考えている。



 ロックナー・コートは、切り札としての権利という意味において正の優越性を確立したが、憲法上さらに推し進めて、諸目的の間で中立的な権利の枠組みとしてそれを定着させることは、のちの裁判所に委ねられることになった。手続き的共和国の特徴の一つである正の優越性のこの第二の局面は、第二次世界大戦後まで、憲法上はっきりとしたかたちで現れることはなかった。しかしその初期の表現は、20世紀の最初の3分の1の期間に、ホウムズ(Oliver Wendell Holmes)、ブランダイス(Louis D. Brandeis)、そして後にストーン(Harlan F. Stone)の各裁判官の反対意見に見出すことができる。(p.52)


中立性の理想の初期の表現が現れたのが20世紀の最初の1/3であるというのが興味を引いた。というのは、ドイツの社会科学の世界で方法論争Methodenstreitが19世紀末(1880-1890年代)にあったが、その論争において、歴史学派経済学に対して、カール・メンガーらのオーストリア学派の優位がほぼ確実となっていた時期であり、マックス・ウェーバーの方法論、特に価値自由Wertfreiheitの概念などの形で論じられていた時期と重なるからである。

方法論争も共和主義に対してリベラリズムが優勢となっていくアメリカの憲政史にやや先行してはいるが、ほぼ並行して同じ流れで進んでいたと見ることができ、これによりその論争の意味付けもまた深みを持つことになる面があるように思われる。例えば、歴史学派と共和主義にも共通性が認められるのではないか?



 宗教的自由についての主意主義的な正当化に異議を唱えることは、必ずしも“人々は決して自分の宗教的信仰を選択するわけではない”というロックの見解に与することを意味することにはならない。それは単に、主意主義的な見解が主張すること、すなわち、“尊重に値する宗教的信仰は自由かつ自発的な選択の所産である”ということに反論することである。宗教的信仰を尊重に値するものとするのは、その会得の方法――選択、啓示、説得あるいは習慣化――ではなく、善き生においてそれが占める位置、あるいは政治的観点からすれば、それが有する“善き市民が身につけるべき習慣及び性質を促進する”傾向である。……(中略)……。
 しかし、手続き的リベラリズムにおいては、宗教的自由の保障を要請する論拠は、宗教の道徳的な重要性にではなく、個人の自律の保護の必要性にある。(p.82)


善き生において占める位置や良き市民を形成する傾向の有無や程度によって、その宗教的信仰が尊重に値するかどうかが決まるという目的論的な見方と手続き的リベラリズムの見方は、ウェーバーの「実質合理性」と「形式合理性」の概念の対比と重なる部分が多いことに気付いた。

ウェーバーが形式合理的な傾向が優勢となっていったと彼の時代を診断したことは、リベラリズムが優勢となっていくプロセスと並行している。ただ、目的論的な考え方と実質合理的な考え方と重なる部分は多そうだが、完全に一致するわけではない。目的論的な考えや共通善ということを念頭におくことで、実質合理性という価値判断を伴うがゆえに客観化しにくい特性について、より明晰に考えることができるように思われる。



 自己がその目的に先行する存在であり、かつ或る時点でそれが果たしている社会的役割とは独立した存在と考えられる場合には、評判は伝統的な意味での名誉の問題とはなりえない。負荷なき自己にとっては、名誉ではなく尊厳が尊重の基礎である。この尊厳は、自律的行為者としての人格が、自分のために自分自身の目的を選択できる能力に存在する。名誉は、人格に対する尊重をその人が果たしている役割と結びつけるが、尊厳は社会的制度に先行する自己にあるので、単に侮辱だけで違法な侵害が生じるということはない。このような自己にとっては、評判は名誉の問題として内在的に重要なのではなく、単に手段として、例えば業務用資産として重要なだけなのである。(p.102-103)


個人的に興味深いものがある。人の評価・評判を気にする人ないしは気になって仕方がない人と人からの評価・評判をあまりまたはほとんど気にしない人というのがいるが、それはそれらの人の人格がどの程度「負荷ありし自己」であり、また、どの程度「負荷なき自己」であるのか、ということと関係しているのかもしれない。その意味で、生きている人間は常に何らかの負荷を負った「負荷ありし自己」であるというサンデルの主張は現実に即したものと言えると考えるが、その負荷の程度や自己の在り方に対する影響の度合いなどは、人によってかなり異なりうるのではないか、そして、その差異を重視するか無視するかによっても、政治理論に影響が出ることはありうるのではないか?



日本では戦後数十年の間、超保守主義政党である自由民主党が僅かの期間を除いて常に与党の位置に居座り続け、90年代の世界的な左派政党復活の潮流に反して現在でも[2000年当時]政権を支配しています。この理由の1つは、「日本の左派政党や進歩的な団体が現在でも旧来の社会主義の言語や福祉国家の言語しか持ち合わせておらず、それが人々の持つ『不安(malaise)』や『不満(discontent)』に訴えなくなったからではないか」と私は考えるのです。従って、「日本でもコミュニタリアニズムの言語が政治的に必要とされているのではないか」と思うのですが、如何お考えになりますか。(p.206)


チャールズ・テイラーとサンデルへの質疑応答の際の、ある質問者からのサンデルへの質問。この質問者の意見には共感するところが多い。すなわち、従来の政治的な言語では現在の状況を的確に捉え、改革していくことはできない。コミュニタリアニズムの言語にはその可能性があるのではないか。



平等についての、新しい語り方が存在すべきであり、公民的ないしコミュニタリアニズム的観念を備えているものです。違いはこの点です。標準的な社会民主主義――これはアメリカではリベラルに相当します――の平等についての言い方では、「底辺の人々にとっての不公正(unfairness to those of bottom)という名分や、分配的正義の言語、例えば「個々人にとっての不公正」という表現を用います。しかし、これこそ、政治的に敗北した言語なのです。「個人主義的過ぎる」というのが1つの理由であり、また「底辺の人々の数が、勝てる程十分は存在しない(投票しない)」というのはもう1つの理由です。それは失敗した(fail)政治的言語なのであり、多かれ少なかれ政治的な魅力を失ってしまっているのです。(p.207-208)


上の引用文に対するサンデルの応答の一部。

旧来の政治的な言語が政治的に敗北した言語であるという指摘は鋭い!



私達の文化は消費者の娯楽に向いており、メディアに動かされていて、知名度を重視しています。公共的な言説(discourse)は、実は非常に、テレビの極めて扇情的な言葉によって形作られています。……(中略)……。公共的な放送をこの種の扇情的なスペクタクルで一杯にしている、娯楽とメディアの会社に本当に縛られています。このような環境は、あなたが言うような公共的知識人や、また今日の如何なる公共的知識人が良く知っているような種類の議論を、最も歓迎して招くような環境ではありません。(p.216)


サンデルへの質問より。

メディアによって政治的言説が強く影響され、世論形成に重大な影響がもたらされているというのは事実だろう。そこでは知名度が重視されるというのもその通りであろう。私がここで連想したのは前大阪府知事であり、現在は大阪市長となった橋下徹である。彼のような人間を権力の座に居続けることができるのは、まさにこうした政治的言説空間の貧困が背景にある



日本に来て驚いたのは、韓国に比べて、日本の教授や知識人が尊敬されていない、という事でした。例えば、私達は、韓国と日本の間で、双方の公共的知識人が話し合うような公共空間を作ろうとしていますが、韓国側は、そこでの合意などを受けて国内で政権やその議会などでの演説に影響を与える事ができるのに対し、日本側は、本当に努力していても、知識人の政治的影響力が少なく、その政治構造も複雑なために、影響を与える速度は非常に遅いものとなります。(p.217)


韓国出身の質問者の質問より。

興味深い指摘である。


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トマス・アクィナス 『君主の統治について 謹んでキプロス王に捧げる』

しかしながら会い集う民衆の目的は徳にしたがって生きることであるように思われる。というのは人びとが会い集うのは一人で生きるのでは到達できないようなこと、つまり共に善く生きるということのためなのである。そして善き生活とは徳にしたがうということである。それゆえ有徳な生活とは人間が会い集うことの目的である。(p.86)


「徳」を重視すること、ポリス的な動物というアリストテレスの定義にも反映しているように「共に生きる」ことを重視すること、さらに目的論的な論法など、さまざまな点でアリストテレスを想起させる。



この1920-30年代に<君主の鑑>に関する研究が比較的まとまった形で世に出ているという事実に何か意味があるのだろうか。訳者などはその年代がファシズム期に重なっている点からいって、そこに右の研究者たちが共通に抱く超学問的契機(独裁政治批判)が隠されているのではないかと秘かに想像してみるのだが。(p.147-148)



訳者解説より。「君主の鑑」というスタイルの中世の文献に関する研究が特定の時期にまとまった形で出てきた理由として、当時の政治状況に対する批判という意味があったのではないか、という指摘。

私としては、訳者のようなケースもありうるが、それとはまったく逆に理想的なリーダー像を求める欲求の方に動機があったのではないかとも想像するのだが。そのような背景があったからこそ、ファシズムやナチズムの台頭が可能となっていたのだから。



 そしていま一つは、このことと連動しているが、そうした君主・支配者層(宮廷官僚層)の正しいあり方についての議論を「国家」という大きな政治的・社会的枠組みのなかで展開しようと試みているということである。この点は明らかに統治の議論を政治体(社会)についてではなく、もっぱらそれを担う個人(君主)の道徳的・人格的次元に収斂させてきたカロリング朝の<君主の鑑>の伝統に対する一種の革新を意味している。しかし、その革新はジョンが生きた西欧の12世紀という歴史的背景を考えれば、むしろ当然のことであったに違いない。つまり、この世紀は歴史の事実として、世俗の、いわゆる集権的封建国家が台頭していた時代に相当しており、かれの母国イングランド王国はいうまでもなくヘンリ二世によって当時の西欧で最強の権力機構を有する君主制国家を樹立していたのである。したがって、こうした巨大な封建国家には必然的に読み書きのできる支配官僚が大勢必要とされたが、そのような君主制の統治機構に編入された官僚たちを含んで、君主の宮廷に屯する支配身分の者たち(宮廷人)を教育し、かれらに統治者たることの正しい自覚をつよく喚起させることがジョンの課題だったのである。(p.177-178)


12世紀ルネサンスにおける最大の「君主の鑑」を著したソールズベリのジョンに関連して、その時代背景との関係で君主の鑑の展開を記した個所の一部。

イギリスが当時「最強の権力機構」を持っていたかどうかにはやや疑問は感じる。当時のイギリスはまだむしろかなり田舎の地方だったと思われるからである。



実は、その一世紀前にいわゆる「十二世紀ルネサンス」と呼称される古典復興の運動(翻訳活動)があって、そのなかでアリストテレスもかなりな程度にまで紹介されていたのである。詳細はほかに譲るが、このルネサンス運動はアリストテレスなどギリシア語の文献だけでなく、アラビア語の文献(いうまでもなく、西欧中世前期ではギリシアの思想・文化はアラブ世界のほぼ独占物であった)のラテン語への翻訳を主として三つのルート――①スペイン・ルート、②シチリア・ルート、③北イタリア・ルート――を通じておこなっていた。このうち、③の北イタリア・ルートは特筆に価するが、ここではヴェネツィアのヤコブスによってアリストテレスの『分析論前書』、『分析論後書』、『トピカ』、『詭弁論駁論』がギリシア語からラテン語へと翻訳され、それによって西欧中世世界は初めてアリストテレス論理学の全貌(その全著作=「オルガノン」)を「新論理学」として知るにいたったのである(それまでは6世紀初頭のボエティウス訳になる『カテゴリー論』と『命題論』だけが「旧論理学」として知られていたにすぎない)。(p.200)


12世紀ルネサンスにおけるアリストテレス哲学の受容に関して参考になる記述。



 翻って考えてみるに、アリストテレス=トマス的人間観を全否定し、人間を一切の歴史的・社会的文脈から切り離された「原子論的個人」と捉えてきた近代思想にまったく問題がなかったなどと強弁できる人は、今日いったいどれだけいるだろうか。(p.237)


文庫版へのあとがきより。

この問題意識はマイケル・サンデルの議論と通じる。サンデルも共通善の政治学としてアリストテレスを重視するし、「負荷なき自己」として社会的文脈から切り離された自己観を批判し、コミュニティが熟議により共通善を見出していく過程を重視しており、訳者の問題意識と通じるものがあり興味深い。



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マイケル・サンデル 『リベラリズムと正義の限界 原著第二版』

無知のヴェールがあるからこそ、正義の原理は、平等と公正の条件のもとで、選択されることが保証されている。契約の当事者は、相違する利益によっては識別されていないために、無知のヴェールから、さらに、初期の同意は満場一致であることが保証されると帰結されている。(p.28)


ロールズの著作はまだ読んでいないのだが、知れば知るほど、彼の論理展開はウェーバーの方法論と類似していると思わざるを得ない。ウェーバーが理念型を構成するときに利用している方法論的個人主義と似ている。ある特定の状況の個人を構成し、その動機の意味理解から社会層の動態を描出していくという方法とそっくりであると思える。



不適切な条件での正義の行使は、結合体の道徳的性格を全般的に衰退させるようになるので、この場合、正義は徳目ではなく、悪徳になるであろう。(p.39)


リベラリズムが「正は善に優先する」と主張することに対する批判。本書は、私が今まで読んできたサンデルの本よりは理論的な著作なので、こうした部分についての理由が細かく述べられているので彼の思想への理解が徐々に深まってきたのを感じる。実際、リベラリズムの「正は善に優先する」ということに対する批判としては、この批判は妥当だと思われる。



このように、格差原理が運命の恣意性を認めるのも、私は、真の占有者ではなく、たまたま私に宿る才能や力量の保管者か容器でしかなく、それだけでは、それらの行使から得られる成果に対して、特別な道徳的要求が私にはない、と断定されるからである。(p.80)


格差原理やそれに類する主張をするためには、所有ということが問題になる。この点に関して私に最初の示唆を与えてくれたのは立岩真也の『私的所有論』だったが、格差原理についての解読は私が以前読んできたこうした思想の位置づけについても示唆を与えてくれるように思われる。



自らの努力を通して、達成されたものに、少なくとも、人の真価があるという要求は、直観的にはもっともらしいが、意識的に進んで努力することでさえ、大部分は社会的・文化的偶発性によって決定されているかもしれない。(p.81)


この種の議論はリバタリアンや実力主義・成果主義的な保守的理論に対する批判として有効だと思われる。



 われわれの再構築から示唆されているように、ロールズの契約観にある主意論的性質は、人間主体の本質的な多元性や、争い合う要求を解決するための必要性と結びついている。(p.141)
争い合う要求がほとんどない小さなコミュニティ(理想的な家族)などにおいては、正義の原理は必ずしも最優先とならない可能性を示唆しているが、これは本書からの大きな収穫だった。



取引と同じく、討論で前提とされるのは、知覚・利益・知識・配慮に関して、討論者の間に、何らかの格差があることであるのに、原初状態においては、そのような格差は何もない。したがって、当事者の「熟議」とは、沈黙のうちに進められ、満場一致で同意される、単一の構想だけを生じさせるものである、と仮定しなければならなくなる。(p.147)


ロールズの原初状態への批判だが、特にその方法論的個人主義の問題点を的確に指摘しているように思われる。熟議民主主義を尊重するための枠組みや人間観としては、ロールズの描いたものは不十分である。



 少なくとも、明らかであると思われるのは、コミュニティの問題は、当然、反省の問題へと至ることであり、ロールズの図式における反省の役割を評価するためには、ロールズの行為理論を、つまり、自我がその目的にいかにして到達するかに関する彼の説明を、より詳細に検討する必要がある。(p.176)


コミュニティの問題は反省の問題に至るというのは、アイデンティティの問題と密接に関係していることを示唆していると思われるが、コミュニティ、アイデンティティと行為との関係についてはオートポイエーシスの構想も含めて考察する必要があると私は考えており、その点ではサンデルの理論も反省的な理論の枠内でしか動いていないと思われる部分があり、そこに問題を指摘できるものが含まれているように思われる。ただ、現時点ではまずは習得してしまう段階であるため、性急な批判は差し控えることにする。



 ヒュームにとって、正義は、社会制度の第一徳目ではありえず(少なくとも、定言的な意味ではありえず)、しかも、ある場合には、まったく徳目であるかどうかも疑わしい。例えば、家族制度では、正義が請け合われることは希になり、まして「第一徳目」でもなくなるように、愛情が拡大されるかもしれない。……(中略)……。相互の仁愛や、拡大された愛情が、より広く涵養できる限り、人類にとっては、その方がよいのかもしれない。(p.193-194)


既に引用したものと同様、正は常に善に優先するとは限らないとする議論。



 サンデルがリベラリズムやリバタリアニズムを批判することには、個人の権利の絶対化が個人の利益(私的な善)の絶対化につながり、コミュニティを形成し、維持していくために不可欠な共通善が失われていることが背景にある。サンデルの主張も含めて、なぜ1980年代にコミュニタリアニズムと呼ばれる主張が登場したかに関しては、当時のアメリカにおいて市場主義的なネオリベラリズムが支配的になり、それに対抗すべき福祉主義的なリベラリズムもそのような傾向に対して基本的には無力であったことがあると私は考えている。(p.273-274)


訳者解説の一節だが、妥当な意見であろう。そして、同様の理由により現在の日本でも有用な思想であるというのが私見である。



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プラトン 『法律(下)』

 では、「正」と「不正」ということで、わたしが何を言おうとしているかを、複雑な言い方をしないで、いまあなたにはっきり定義することにしましょう。激情(怒り)や恐怖、快楽や苦痛、嫉妬や欲望が魂のなかで独裁的に支配している状態、――それが実際に何らかの損害をもたらそうと、もたらすまいと――、すべてそのような状態を一般的に、わたしは「不正」と呼んでいるのです。
 これに反して、最善は何かと考える分別、――国家あるいは誰か個人がその最善はどのようにしたら実現されると考えるにせよ――、そのような分別が魂のなかで勝利を占めて、その人の全体を秩序づけているなら、よしときに何らかの過ちを犯すことがあるとしても、そのようにしてなされる行為のすべてと、そのような分別の支配に服している各人の状態が、「正しい」のであり、そしてこれこそが、人間の生涯全体を通じて最も善きことなのだと言わなければなりません。(p.189)


個人の生き方として、私もプラトンのこの見解に大いに共感する。ただ、ある意味ではこれは非常に厳しい見方であり、この見方を持って人を評価していくと、「正しい」人は非常に少ないことになってしまう。社会生活を円滑に営むにはもう少し寛容な「正しい生き方」の観念もあわせて持ち合わせたほうが良いように思う。



しかしながら、どんな場合においても、何かを成し遂げたとか、手に入れたとか、確立したとかいうことで、ものごとはすべて終りになるのではありません。むしろ、わたしたちの生み出したものに、それがいつまでも完全な形で保全されるような方策を見つけ出してやったとき、そのときに初めて、なされるべきことはすべてなされたのだとわたしたちは考えるべきなのです。(p.438)


仕事などの際に参考にすべき考え方と思われる。

私自身が成し遂げたと思ったことを、後任者にそれをぶち壊されたという苦い経験がかつてあったが、そのような誤った方向性を予め遮断しておくことができていれば、その時に本当に完成したとするべきだった。



もし誰かが、政治家なら当然目を向けてしかるべき目標について無知であることがあきらかだとすれば、そのような者は、まず第一に、国を治める支配者と呼ばれて正しいでしょうか。つぎにはまた、そのものの目標をまったく知りもしないところのものを、安全に保つことができるでしょうか。(p.444)


サンデルの共通善の政治学に私は最近関心を持っているのだが、こうした関心を持っていわゆる近代以前の政治理論を読むと、以前には見過ごしていた問題がよく見えてきて面白い。(現在、トマス・アクィナスの政治論文なども読んでいるが、それもまた然り。)

ここでは「目標」を掲げているあたりが、現代リベラリズムに欠けている目的論的思考に通じるところがあり、興味をひかれる。現在の政治的混迷には様々な要素が要因としてあるが、「どのような社会を目指すのか」というビジョンが一国の社会の中で共有されていないことに一つの要因があると思われる。その際の道徳的牽引力を持つような理念が必要とされているというのが、現時点での私の見るところである。

その意味では、プラトンが言うような「目標」をはっきりと提示できる政治家たちを現代のわれわれは必要としていると思われる。

橋下氏が大阪市長に当選してしまったのも、彼は社会としては本来目指すべき目標とは異なるものを掲げていると私は考えるが、一見それらしい目標を掲げつつ、同時に道徳的な攻撃対象を作ることで、自らの主張や立場自体に人びとの感情にアピールすることに成功しているといったことが、背景にあると思う。もちろん、さらに深い社会的背景や構造の問題もあり、彼はそうした流れの中にうまく乗ることができた、というにすぎないのだが。


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プラトン 『法律(上)』

 ひとは残された子供たちができるだけ金持であるようにと、子供たちのために金銭に執着してはならない。それは子供たちにとっても、また国家にとっても、より善いことではないからである。若者たちにとって、財産は、取り巻き連中をひきよせるほどでもなく、そうかといって必要に事欠くほどでもないのが、すべての財産のなかでもっとも調和のとれた、もっとも善いものなのだ。なぜなら、それはあらゆる点で、われわれに協調と調和とをもたらすことによって、生活を苦労のないものにしてくれるからである。子供たちには、黄金をではなく、豊かな廉恥心を残すべきである。(p.285)


興味深い指摘。



 何ら不正を行わない人間はたしかに尊敬に値するが、不正を行なう者に不正行為を許さない者は、前者よりも倍以上に尊敬に値する。前者は一人分の価値しかないが、後者は他人の不正を当局者に知らせるので、他の何人分かの価値があるからである。(p.288)


こうした発想法はプラトンの本作品に随所に登場する。



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