アヴェスターにはこう書いている?
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マイケル・サンデル 『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』

ベンサムによれば、正しい行ないとは「効用」を最大にするあらゆるものだという。効用という言葉によって、ベンサムは快楽や幸福を生むすべてのもの、苦痛や苦難を防ぐすべてのものを表している。(p.48)


功利主義に限らず「効用」という概念はあまりに包括的すぎるため、異なったものを同じ言葉で指示することもありうる。この過度の包括性が、功利主義の理論に漠然とした説得力を与えるとともに、論理を的確に組み立てていくための障害にもなっているのではないか?



 典型的な自由市場の擁護論は二種類に分かれる。一方は自由を、もう一方は福祉を重視する。前者は市場をリバタリアニズムの観点から論じている。人びとに自発的な取引をさせるのは、彼らの自由を尊重していることになるという言い分だ。自由市場に干渉する法は個人の自由を侵しているのである。後者は市場を功利主義の観点から論じている。自由市場は全体の幸福を、促進するという言い分だ。(p.100)


福祉を強調して自由市場を擁護する議論の理論的な背景としては功利主義があるというのは、あまり意識したことがなかった。今後、経済思想などに触れる際には、この点に注意して分析してみよう。



カントに言わせれば、大多数の人が市場の自由や消費者の選択だと考えているものは真の自由ではない。なぜなら、そこで満たされる欲望はそもそも、自分自身が選んだものではないからだ。(p.139)



 カントは次のように論じる。動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしているときの人間は、本当の意味では自由に行動していない。生理的要求と欲望の奴隷として行動しているだけだ。(p.142)



カントの自由の概念についての理解はサンデルの講義などを読んで非常に参考になった点の一つ。

欲望のままに生きること、欲望が妨げられずに行為することを自由と考えがちだが、カントの自由の概念はそれよりもはるかに厳格である。自分自身が選んだものであれば何でも自由だというわけではなく、それを普遍化した場合でも適用できるような道徳法則に従う場合だとするわけだ。



念入りにこしらえた言い逃れは、真実を告げるという義務に敬意を払っている。だが真っ赤な嘘は違う。単純な嘘をつけば用が足りるのに、わざわざ誤解は招くが厳密には嘘ではない表現を使う人は、遠回しではあっても、道徳法則に敬意を示しているのだ。(p.178)


この点もサンデルの講義を聞いて参考になり、印象に残っていた点である。



 われわれはすべての道徳的主張に同意を読み取ろうとするが、互恵性そのものが持つ重みを認識しなければ、道徳的人生を理解することは難しい。(p.194)


こうした互恵性はコミュニタリアンにとって義務の源泉の一つとなり、サンデルによればリベラルはこの点を見落としているというわけだろう。傾聴し熟考する価値がある問題である。



何であれ、人間には自分が努力して得たものを受け取る道徳的資格はないとする正義論は、疑いの目で見られることが多い。
 私は努力についてのロールズの見解を取り上げるとき、いつも最後に非科学的な調査を行なうことにしている。心理学者によれば、生まれ順は本人の勤勉さや地道に努力する傾向に影響を与えると言う。ここにはハーヴァード大学に入学するための努力も含まれる。長子は第二子以下の子供よりも労働意欲が高く、稼ぎも多く、一般的な意味での成功を収める確率が高いとされる。この種の調査は議論を呼んでおり、私自身もこうした調査結果が正しいかどうかはわからない。しかしほんのお遊びとして、長子の人は手を挙げてほしいと呼びかけると、約75~80パーセントの学生の手が挙がるのだ。いつ調査しても、この結果は変わらない。
 長子として生まれたのは自分の手柄だという人はいない。もし生まれ順のような道徳的に恣意的な要因によって、勤勉さや地道に努力する傾向が決まるなら、ロールズの主張にも一理がるのではないか。努力でさえ、道徳的功績の基準にはなりえないのだ。(p.206-207)


講義の中でも印象的な部分の一つ。



実力主義の支持者たちは努力を称賛するが、彼らが報酬に値すると考えているのは、実は貢献度や達成度なのだ。(p.207)


同意見である。努力と貢献度や達成度を半ば無意識的に関連付けてしまうために、実力主義は多くの人にとってなんとなく説得力を持ってしまう。しかし、現実には努力と貢献度には思われているほど有意な関連性は認められないというのが事実のようである。私の場合、社会科学から学んだことの一つはこうしたことだった。



社会がそのときに重視する資質もまた、道徳的に恣意的である。私の才能は確かに私に属するものかもしれないが、それが生みだす利益は需給という偶然性に左右される。たとえば中世のトスカーナ地方ではフレスコ画家が大事にされたが、21世紀のカリフォルニアではコンピュータプログラマーが大事にされる。私のスキルが生みだす利益の多寡は、社会が何を求めているかによって決まる。何が貢献的であるかは、その社会がどんな資質を重視しているかによって違う。(p.211)


だから、ある社会が何を美徳であると考え、何を称賛すべきものと考えるのか、という議論が必要になってくるわけだ。



正義と権利をめぐる議論は、社会制度の目的をめぐる議論でもあり、また、その制度が称え、報いを与えるべき美徳をめぐって対立するさまざまな概念の反映でもあることが多い。(p.248)


こうした見方には私は当初、一瞬戸惑いを覚えたが、次第にその有効性を理解しつつある。これまでウェーバーから学んだ見方に欠けていたものを補ってくれそうだと期待している。



 マッキンタイアは周到に、物語による説明は現代の個人主義とは相容れないと認めている。「個人主義の立場から言えば、私という人間は私自身がそうであることを選んだものだ」。個人主義的観点に立てば、道徳的省察をするためには、自分のアイデンティティや責務を棚上げするか、それらを捨象しなければならない。「私は、自分の国がすることやしたことに対し、暗黙のうちに、あるいは公然とその責任を引き受けることを選んだのでないかぎり、責任があるとみなされるはずがない。そうした個人主義を体現しているのが、奴隷制が黒人のアメリカ人に及ぼした影響の責任をとろうとしない現代のアメリカ人だ。彼らは『私は奴隷を保有したことはない』と言う(マッキンタイアがこの文をしたためたのは、ヘンリー・ハイド議員が補償に反対してまったく同じ発言をする20年近く前だったことに留意すべきである)。
 マッキンタイアがさらなる例として挙げたのは「1945年以降に生まれたのだから、ナチスがユダヤ人にしたことと、自分と同時代のユダヤ人とのあいだには道徳的関連性がないと信じる若いドイツ人」だ。マッキンタイアはこの姿勢に道徳的な浅薄さを見てとる。この姿勢は、「自己は社会的・歴史的役割や立場から切り離せる」という誤った前提に立っている。(p.288)


日本の戦争責任などの議論に直結する問題であり、興味をひかれる。ただ、こうした社会的・歴史的役割や立場を切り離せず、過去の過ちに対して何らかの責任を負うとしても、自分自身が行ったものよりも重くなることはまずないと思われ、その意味では個人主義的な見方の行き過ぎを修正する議論として位置付けるのが妥当ではないかと思われる。



 もちろん、家族、仲間、同胞に特別の責務を持つことに、あらゆる人が賛同するわけではない。いわゆる連帯の責務は、実際には集団的利己主義、同族を優遇する偏見の表われにすぎないという意見もある。そうした批判をする人も、われわれがふつう、家族や友人や仲間を他人よりも大切に思うことは認める。だが、そのように身近な人にだけ高い関心を寄せるのは偏狭で内向きの傾向であり、愛国心とか友愛という名の下に重んじるのではなく、克服すべき性癖ではないかと、彼らは問う。
 いや、必ずしもそうではない。連帯と成員の責務は内向きであると同時に外向きでもある。自分が属する特定のコミュニティから生まれる特別の責任の一部は、仲間に対するものかもしれない。だが、責任のそれ以外の部分は、コミュニティが歴史上の道徳的義務を負う相手に対するものかもしれない。ユダヤ人に対してドイツ人が、アフリカ系アメリカ人に対して白人のアメリカ人が負うように。歴史的不正への集団的謝罪と補償は、自分が属さないコミュニティに対する道徳的責任が連帯から生みだされることの好例だ。自分の国が過去に犯した過ちを償うのは、国への忠誠を表明する一つの方法である。(p.303)


内向きであると同時に外向きでもあるという回答は興味深い指摘。



 家族や同胞の行動に誇りや恥を感じる能力は、集団の責任を感じる能力と関連がある。どちらも、みずからを位置ある自己として見ることを必要とする。位置ある自己とは、みずから選んだのではない道徳的絆に縛られ、道徳的行為者としてのアイデンティティを形づくる物語にかかわりを持つ自己だ
 ……(中略)……。われわれが個人として、みずからの選択と行動にしか責任がないと言い張れば、自国の歴史と伝統に誇りを持ちにくくなる。……(中略)……。
 帰属には責任が伴う。もしも、自国の物語を現在まで引き継ぎ、それに伴う道徳的重荷を取り除く責任を認める気がないならば、国とその過去に本当に誇りを持つことはできない。(p.304)


リベラル派の「負荷なき自己」に対して、物語/歴史(story/history)の中に位置を占める「位置ある自己」という自己の概念を提示している。確かに、個人主義的な自己観では、歴史や伝統に誇りを持つということは難しい。このようにして自己をとらえるべきだとリベラル派に迫ることは、帰属に伴う責任を引き受ける覚悟を要請するものである。



われわれはこれまで、人間の義務と責務はすべて意志や選択に帰することができるか、解明しようとしてきた。私は、できないと主張してきた。われわれは、選択とは無関係な理由で連帯や成員の責務を負うことがある。その理由は、物語と結びついており、その物語を通じてわれわれは、自分の人生と自分が暮らすコミュニティについて解釈するのである。(p.311)


この問題によってリベラル派が見落としていた問題を提起している。



本質的道徳問題に関与しない政治をすれば、市民生活は貧弱になってしまう。偏狭で不寛容な道徳主義を招くことにもなる。リベラル派が恐れて立ち入らないところに、原理主義者はずかずかと入り込んでくるからだ。(p.314)


このことはサンデルは他の著書でも書いており、彼がリベラル派の中立性の理想を批判する政治的な理由の一つではないかと思われる。小泉政権や安倍政権の頃の日本のネット上の政治談義における「ネトウヨ」の跋扈などとも関連があるように思われ、興味深い見解であり、慧眼である。



 これが、ジョン・F・ケネディが支持し、オバマが拒否したリベラルな中立性の理想だ。1960年代から1980年代に至るまで、民主党は中立性の理想の方向へ流れ、政治的言説から道徳的・宗教的主張をおおかた葬り去った。特筆すべき例外もいくつかある。……(中略)……。だが、1970年代には、リベラル派は選択の自由を尊重する中立的な言葉を使うようになり、台頭しつつあったキリスト教右派に道徳的・宗教的言説を譲った。(p.321)


現代アメリカにおける中立性の理想の勝利と敗北。日本の場合もおそらく似たようなことがいえるだろう。中立性の理想はその普遍主義的な性格のためインテリには受けが良いが、理論的な関心をあまり持たない一般大衆の心には響かない。内容が正しく、人びとに有益な結果をもたらすことができることと人心にアピールすることとを両立させる言説がないことが、昨今の日本の政治状況でも問題だと感じてきた私にとって、サンデルの指摘や主張は示唆に富んでいる。



 功利主義的な考え方には欠点が二つある。一つ目は、正義と権利を原理ではなく計算の対象としていることだ。二つ目は、人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ、平らにならして、個々の質的な違いを考慮しないことだ。(p.335)


サンデルの講義は、功利主義、リバタリアニズムとリベラリズム、アリストテレスに連なるコミュニタリアニズムを順次取り上げているが、その功利主義に関する要約。



正義の問題は、名誉や美徳、誇りや承認について対立するさまざまな概念と密接に関係している。正義は、ものごとを分配する正しい方法にかかわるだけではない。ものごとを評価する正しい方法にもかかわるのだ。(p.336)


価値評価にコミットすることの必要性を説く。ウェーバーからの影響を深く受けている私としては、Wertfreiheitとリベラル派の中立性の理想との相違点から、サンデル流の価値評価へのコミットへの道が開けるかどうか興味があるところである。

Wertfreiheitでは価値にコミットすること自体は禁止していない。それを自分と他人に明確に表明することを要請している。この点ではサンデルが志向する方向とも接続できるのではないかという気がしている。Wertfreiheitは私の考え方を強く統制する原理になっているので、この両者の関係を明確にしておくことは必要だと感じている。



 だが、アメリカ人の生活に広まる不平等を懸念する理由には、より重要なものがもう一つある。貧富の差があまりに大きいと、民主的な市民生活が必要とする連帯が損なわれるという理由だ。……(中略)……。
 したがって、功利や合意に及ぼす影響とはまったく別に、不平等は市民道徳をむしばむおそれがある。市場を愛してやまない保守派と、再分配に執心するリベラル派は、この損失を見過ごしている。
 ……(中略)……。
 不平等の公民的悪影響とそれを払拭する方法に的を絞れば、所得の分配そのものをめぐる議論からは発見できない政治的牽引力が見つかるかもしれない。また、分配の正義と共通善の関連性に光を当てる一助となるかもしれない。(p.342-343)


私がサンデルの議論に希望を感じる点としては、こうした政治的牽引力を発見できそうだから、というのがある。



言説の貧困化とは、一つのニュースから次のニュースへと渡り歩きながら、スキャンダラスでセンセーショナルで些細な事柄にもっぱら気を取られるようになることだ。(p.344)


これは現在の日本でも深刻化している問題である。



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菊原智明 『人は上司になるとバカになる』

私が成績を挙げられなかったのは、誰のせいでもなかった。「なんてヤな上司だ、最低な会社だ」と、考えても埒が明かないことばかりに囚われ、自分が本来すべきことをほとんどやっていなかったからだったのだ。

 ここから得られる教訓が一つある。それは、上司にほとんど怒られず、飄々と仕事をこなしながら結果を出している人は、上司の心ない言葉や環境に一喜一憂せず、自分がやるべきことに完全に集中できる人だということだ。(p.29)


本書は誰もが「バカな上司」になりうるという前提のもとで、そうした上司の類型化とそれぞれへの対処法などを書いているが、その基本的な処方箋は2種類に分けられると私は読んだ。一つは人間関係をこじらせないように上司に適度に気を遣いながら仕事を切り抜けるやり方であり、もう一つはここで示される例のように上司などの人間関係に左右されずになすべき仕事に集中するというやり方である。

「事柄そのものに集中する」というのが、どんな処方箋の場合でも基本になるべきではないかと私は思う。



 ここから得られる教訓は、自分を信用していない人に、いくら口で説得しようと試みても徒労に終わる可能性が高いということ。だとしたら、しっかり資料を準備して、あとはその資料に雄弁に語ってもらうほうが何倍もいい。(p.70-71)


上司など相手に信用されていない場合は、資料自体に語らせろということ。

ここでも資料作りという「なすべきこと」に集中することで道が開ける。



 人間関係において、他人をアテにしない人間ほど強いものはない。極端な例でいうと、人に裏切られたとしても「まあ、そういうこともあるさ」と、すぐに切り替えができるのだ。そもそも他人に何かしてもらおうと期待していないので、こういう人にとっては「裏切られた」という概念がない。だから、ちょっと上司に怒られようが、心を乱さず、淡々と対応策を見出すことができる。(p.117)


全く同感である。他人への配慮を優先するタイプの人は、もう少しこうした姿勢を身につけたほうが良いと思うこと頻りである。


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プラトン 『国家 (下)』

 「それなら、算数や幾何をはじめとして、哲学的問答法を学ぶために必ず前もって履修されなければならないところの、すべての予備教育に属する事柄は、彼らの少年時代にこれを課すようにしなければならない。ただし、それらを教えるにあたっては、けっして学習を強制するようなやり方をしてはいけないけれども」
 「なぜでしょうか?」
 「ほかでもない」とぼくは言った、「自由な人間たるべき者は、およそいかなる学科を学ぶにあたっても、奴隷状態において学ぶというようなことは、あってはならないからだ。じじつ、これが身体の苦労なら、たとえ無理に強いられた苦労であっても、なんら身体に悪い影響を与えるようなことはないけれども、しかし魂の場合は、無理に強いられた学習というものは、何ひとつ魂のなかに残りはしないからね」
 「おっしゃるとおりです」と彼。
 「だから、よき友よ」とぼくは言った、「君は、子供たちを学習させながら育てるにあたって、けっして無理強いを加えることなく、むしろ自由に遊ばせるかたちをとらなければならない。またそうしたほうが、それぞれの子供の素質が何に向いているかを、よりよく見てとることができるだろう」(p.153-154)


プラトンの『国家』は正義と国制を論じているが、教育論もかなりの分量を割いて論じている。こうした強制せず遊ばせながら学ばせるべきだという議論は20世紀の教育理論でも度々目にしたし、直観的にも妥当性を持っているように思われる。ただし、その具体的な方法論や個々の子供に対してそれを適切に実践していくことは非常に難しい。この辺りは多くの親や教育者にとっての悩みの種のように思われる。

また、強制しないほうが素質をよりよく見てとれるというのは慧眼である。



僭主(独裁者)が生まれるときはいつも、そういう民衆指導者を根として芽生えてくるのであって、ほかのところからではないのだ(p.226)


現代にも通じる指摘。



 「したがって、思慮(知)と徳に縁のない者たち、にぎやかな宴やそれに類する享楽につねになじんでいる者たち、彼らはどうやら、<下>へと運ばれてはまたふたたび<中>のところまで運ばれるというようにして、生涯を通じてそのあたりをさまよいつづけるもののようだ。彼らはけっして、その領域を超え出て真実の<上>のほうを仰ぎ見たこともなければ、実際にそこまで運び上げられたこともなく、また真の存在によってほんとうに満たされたこともなく、確実で純粋な快楽を味わったこともない。むしろ家畜たちがするように、いつも目を下に向けて地面へ、食卓へとかがみこみ、餌をあさったり交尾したりしながら身を肥やしているのだ。そして、そういったものを他人より少しでも多くかち取ろうとして、鉄の角や蹄で蹴り合い突き合いしては、いつまでも満たされることのない欲望のために、互いに殺し合うのだ。ほかでもない、いくら満たそうとしても、彼らはほんとうに存在するものによって自分を満たすのではないし、また自己の内なる真に存在する部分、取り入れたものをしっかりともちこたえることのできる部分を満たすのでもないのだから。」
 「申し分なく、ソクラテス」とグラウコンは言った、「あなたは神託を告げるような仕方で、大多数の人間の生き方を述べられましたね」
 「それならまた、必然的に、彼らがなじんでいるさまざまの快楽というのも、苦痛と混じり合った快楽にすぎず、真実の快楽の幻影であり、陰影によってまことらしく仕上げられた書割の絵のようなものではないだろうか?(p.283-284)


思想や哲学などに関心を持たないだけでなく、善き生に対する関心も示さない人たちに対しては、プラトンのようにも言いたくなる時がある。特に家畜の比喩はうまい。

ただ、プラトンの主張そのものは価値観としてもやや主知主義な方向に偏っているし、また、知を愛する者であっても、苦痛と混じり合った快楽しか得られないというのは、普遍的な現象であると認めた方が妥当なように思われる。



 「では、そのような人もまた、最もすぐれた人間を支配している部分と同様の部分によって支配されるようになるためにこそ、その人はかの最もすぐれた人間、自己の内に神的な支配者をもっている人間の下僕とならなければならないのだと、われわれは主張するのではないかね?ただしわれわれはけっして、トラシュマコスが被支配者というものについて考えたように、その人が自分の損害のために、下僕となって支配されるべきだと考えるのではない。われわれは逆に、あらゆる人にとって、神的な思慮によって支配されることこそが――それを自分の内に自分自身のものとしてもっているのがいちばん望ましいが、もしそうでなければ、外から与えられる思慮によってでも――より善い(為になる)と考えるからなのだ。われわれのすべてが、同じものに導かれることによって、できるかぎり相似た親しい友となるためにね」
 「たしかにそれは、正しい主張です」と彼は答えた。
 「そして明らかに」とぼくは言った、「法律というものも、国民すべての味方として、そのような意図をもっているのだ。子供たちを支配することもまた同じ。すなわち、われわれは同じこの意図のもとにこそ、子供たちの内部に――ちょうど国家の場合と同じように――ひとつの国制をうち立てるまでは、彼らを自由に放任することをしない。そして、彼らの内なる最善の部分をわれわれの内なる最善の部分によって養い育てることにより、同じような守護者と支配者を代わりに子供のなかに確立してやって、そのうえではじめて、放免して自由にしてやるのだ」(p.296-297)


こうしたある種の家父長制的な考え方であっても、そうした善とはどのようなものであるかを討議する場や機会を設けるという前提を付け加えれば、現代的な理論として復権する可能性が開けるのではないか。マイケル・サンデルなどの指摘を通じて次第にそうした方向に私の考えも向かいつつある。



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プラトン 『国家 (上)』

端正で自足することを知る人間でありさえすれば、老年もまたそれほど苦になるものではない。が、もしその逆であれば、そういう人間にとっては、ソクラテス、老年であろうが青春であろうが、いずれにしろ、つらいものとなるのだ。(p.22)


こうした道徳論は古代の哲学の特徴の一つだろう。



「そしてすぐれた裁判官でもあるのだよ」とぼくは言った、「君の質問の眼目であったところのね。なぜなら、すぐれた魂をもつ人は、すぐれた人間なのだから。これに対して、あの腕の立つ猜疑心のつよい人、自分自身が多くの不正をはたらいてきて、何でもやってのける賢い人間のつもりでいる人は、たしかに自分と似た者たちを相手にするときは、自分の内にある範型に照らして抜け目なく警戒するので、有能に見えるだろう。ところが、ひとたび善良で自分より年長の人たちと接触するときが来ると、見当違いの疑いをかけ、健全な品性というものがわからないので、こんどは逆に愚か者に見えることになる。なにぶんにも自分では、そういう品性の範型を持ち合わせていないのでね。ただ、すぐれた善い人間よりも劣悪な人間に出会う機会のほうが多いため、自分にも他人にも、どちらかといえば無知であるよりも賢い男だと思われているだけなのだ」(p.238)


善き生と幸福の問題などに関する考察は近代の哲学では忘れ去られているが、古代の思想をそのまま鵜呑みにすることはできないが、現在でも何か議論に値する問題を提起しているようにも思われる。



いったい、言葉で語られるとおりの事柄が、そのまま行為のうちに実現されるということは、可能であろうか?むしろ、実践は言論よりも真理に触れることが少ないというのが、本来のあり方ではないだろうか?(p.403)


言葉で語られるものと行為との関係については、河本英夫のオートポイエーシスから学ぶことが多くある。彼の立場はプラトンとは大きく異なっている。

ちなみに、私は最近、マイケル・サンデルにも関心を持っているが、彼もアリストテレスの目的論的な論法に着目している。近代の思想が限界に直面する中で古代の思想の中から収穫する思想家が現れているようであり、興味をひかれる。


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