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河本英夫 『臨床するオートポイエーシス 体験的世界の変容と再生』

つまり認知を知ることではなく、一つの実践的行為だと考えるのである。……(中略)……。この方針設定は、認知を情報の探求ではなく、むしろ動作そのものの組織化の働きとして、動作と世界とのかかわりの組織化として考察することである。
 このとき認識主観とその対象という関係や、認識と対象との合致という真理基準が背後に退く。つまり哲学の中心を占めてきたこれらの課題は、実は部分問題であったことがわかる。この部分問題の中心に、認識論が位置する。認識論は、すでに認識が成り立っている場面で、その認識を可能にするさまざまな前提や条件を取り出すものである。(p.16)


認識論の位置づけとして適切と思われる。認識が立ち上がってくる前のところに真偽を判別するのとは別の働きがあることなど、本書では多くの有益な指摘がなされている。



だが単位体と統一体は異なる。渦巻きや入道雲のような散逸構造は単位体であるが、統一体ではない。連続的に動き続けていて、動きのかたちは維持されているが、何かがこのまとまりを支えているのではない。とすると単位体にとっての必要条件は境界を引くことであり、自分自身の動きや運動をつうじて、その動きの継続が同時に境界の形成になることである。ここで「境界」という主題が前景化していることがわかる。(p.115)


普段はあまり区別しないし、区別する必要も生じない区別だが、オートポイエーシスの機構を理解する際にはある程度重要な指摘と思われる。



システムとしての生存適合性を維持するためには、一般に刺激を受容しながらかつ作動しない無視の仕組みがあると予想される。無視とは、積極的で能動的な働きである。(p.156)


なるほど。



 理解可能性は、障害を生きるという事態に対して、実際、狭すぎるのである。障害者の多くは、知識としての病識はあるが、みずからの病態を感じ取る病覚が欠けていることが多い。だが病覚をもてば病態が改善する、というのでもない。自己の病理を自覚すれば、そのことが自己の再組織化につながるのではない。認知ということで、患者の病覚を促すような治療は、すでに筋違いの回路に入り込んでいる。自己認識は自己限定の一つであり、意識や思考回路をつうじた、自己の限定的な認定である。こうした認定を行うことが、自己の再組織化につながるとは考えにくい。それどころか意識や思考をつうじて、まさに自己の組織化を抑え込む可能性が高いのである。
 そうなると自己の再組織化を見込んだ患者自身の固有の世界を捉えなければならなくなる。しかもそれは、健常者と比較し、不足しているものを引き算するようにして到達される固有世界ではない。また本人が自己了解した世界が、本人の固有世界なのでもない。本人自身の意識からでは気づくことのできない自己の組織化には、意識とは別様の仕組みが必要となる。そこにシステムの詳細な機構が導入される。だがそのとき意識は、わずかの感触とともに、こうした自己の組織化の調整能力として関与することができる。このとき意識は、実践的調整能力となる。(p.169)


障害や病気に限らず、ある人ができること(特に身体動作に関するようなこと)を他の人に教える場合などにも、これと似たことが起こることがあるように思われる。

また、前段は問題を自覚することは問題解決につながらないことがある、むしろ悪化させることがあるということも含意しうると思われるが、これも私としてはなかなか重要な指摘と思える。自分では解決できた問題も、他の人に同じようにするよう勧めてもうまくいかないことが過去の個人的な経験として多々あったが、その仕組みがわかってきた気がするからである。



 認知神経リハビリテーションの第三の柱は、患者自身に繰り返し選択に直面させることである。選択は一つの行為である。選択に直面でき、選択の前にしばし経験を開き、そして何かを選び取ることは、選び取ったことを認知する以上に決定的である。選ぶことには、明確な理由があるわけではない。もとより選ぶ行為に先立って、あらかじめ選択の基準があたえられているのではない。にもかかわらず選択はつねに遂行される。選択それじたいが世界とかかわる認知行為なのである。(p.180-181)


なるほど。



だが意識の本性は、心の働きに隙間を開き、選択を可能にするための遅延機能だという点で、一つの落ち着きどころを迎えている。(p.181)


上の引用文とも関連するが、意識の本性は「遅延機能」だとする点は、本書で参考になった大きなポイントの一つである。

作動のモードを変えるときなどにはこれが役立つときがあるだろうし、逆に選択を含め、何らかの行為を続けることが必要なときは邪魔になることもあるのだろう。



 神経の再生を促すにあたって、選択行為の誘導はもっとも有効である。動かない肩に少し圧力をかけてみる。このとき快/不快の区別が生じる。これは野生とでも呼ぶべき基本的な感性であり、意志の働きによって選択する以前に、すでに快を受容し、不快を避けようとしている。この選択の働きによって、身体はみずからの原初的な区別を獲得する。つまり快だと感じるとき、そのことにすでに選択が働いている。(p.181-182)


快不快を感じる際にすら、すでに選択が働いているというのは、今まで全く気付かなかったことであり、新鮮だった。本書が語っている内容は基本的にこうした普段は気付きにくい領域について明らかにするものであり、発見に満ちている。



 重要な哲学や思想のほとんどは、学ぶだけでは足りていない。むしろそれらは忘れることによってはじめて身につく。忘れることによって、はじめて記憶に落ち、組織化のための素材となる。このことは哲学や思想を語り終えた途端に、それを否定することではない。否定に否定を重ね描くことではなく、ただ内的に習得するために忘れるのである。(p.210)


経験の可能性を拡張することに主眼を置いた河本らしい指摘である。これは意識の本性が遅延機能であるとする指摘とも通じている。意識されているものは作動を遅らせて自己に隙間を開くため、むしろ、意識されないところまで自分自身と一致させていかなければ組織化の素材とはならないということだろう。



哲学書を、それは何であるか、それは何を意味しているのかを知ろうとして読めば、哲学のドツボに陥り、経験は停滞する。哲学の問題の多くは、解決されないが展開可能性もない。(p.291)


経験を拡張すること、そのための展開可能性を得ること、それが重要だということ。この点が河本のオートポイエーシスの魅力だろう。



 ここでは古典と言われるものをほとんど読解、網羅し、自分自身のための哲学史を作り出している。それは確かなテキストの読みである。だがまさにそれをつうじて哲学を放棄するのである。ここでも自分自身に区切りをつけていくプロセスが確認できる。「みずから自身を繰り返さない」というデュシャンのモットーは、アラカワのモットーでもある。(p.294)


この辺の区切りをつけて自分自身を繰り返さずに次に進んでいくというのは河本の『飽きる力』での主張とも通じているのだろう。私自身もこのようにありたいものだと思う。



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河本英夫 『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』

 神経が自己組織システムであるかぎり、自己形成の回路に入る分岐点がある。治療者にとっては、その分岐点(クリティカル・ポイント)以降、治療が一挙に進展する。……(中略)……。「クリティカル」のもともとの語は、ギリシャ語の分利(クリーゼ)に由来し、熱病で回復過程に入るか、そのまま悪化して死んでしまうかの分かれ目を意味する。自己組織化の系列に、何度か不連続性が入り、みずからの前史が消滅し、階層関係が消滅して、それぞれの形成段階で固有の自由度を獲得すると、オートポイエーシスになる。(p.240)


分岐による質的変化というのは、自己組織化やオートポイエーシスが現象を説明する際に持つ利点の一つであるように思われる。もちろん、行為によって自己を形成していくためにも、重要なポイントである。



認知の基本性格は、ものごとを二つに分けることであり、区分の動きはおのずと進行し、ひとたび開始されれば、区分されたもののなかに、何度もより詳細な区分が進行する。一般に区別の働きは、伝統的に「差異化」と呼ばれてきたものである。だが差異化よりも、デジタル化の効果の方が、認知の進行にとって影響が大きいと予想される。(p.241)


認知に頼りすぎると何でも二分法で物事を区分けしようとしてしまうことがあるが、そこからは零れ落ちていくものが多くある。この点をはっきりと認識しているだけでも、多少の抑制効果はあるように思う。



哲学がしばしば陥ることであるが、基礎づけという構想のもとにより基礎的だと思える領域を指定すれば、それで何かを解明したことになっていると思い込んでいるのである。……(中略)……。哲学による基礎づけは、とりあえず根拠関係からの順序を決めただけであって、枠としての見通しをあたえただけである。内在的生は、基本的に生成関係にかかわるはずである。だが生成関係での事態の解明は、基礎づけ関係とは本来なんの関連もない。というのも、どのように基礎づけ関係を明示しようとも、必要とされているのは、形成運動を行なう回路を現実に探り当てることであって、根拠からの配置で事態を説明することではないからである。(p.256-257)


こうした行為者と観察者の相違やその関係は、河本のオートポイエーシスの構想から学んだことのうちでも、私の中では大きなポイントになっている。



行為のさなかで知覚は、いまだないものまでも捉えるのだから、知覚総体の働きは、行為のさなかでの予期である。予期は、行為の継続に欠くことができず、不断の手がかりをあたえる。予期能力を形成することが知覚の形成であり、この場合の知覚は、対象の本性を知ることではない。知覚に相当するドイツ語はwahrnehmenであり、原義は「真」(wahr)を「捉える」(nehmen)からきている。直観は、直接事象に届き、しかも感覚的素材を超えて直接意味や本質やイデア性を捉えるものである。実は、知覚こそ極端な働きをしており、知覚こそ問題の焦点であり、混乱のみなもとなのである。直観で本質に到達することは、人間のもっとも優れた能力の一つであり、ギリシャ、中世、ルネッサンスをつうじてつねに知の中心的な働きであり続けた。ところがカントが、哲学の基本を論証におき、論証によって証明できないものを、論証が矛盾を導くという誤謬推理をつうじて、哲学の範囲から追い出してしまった。この追い出された直観知(高度な場合は、知的直観)を再度現象学が回復することになった。現象学が世界や無限なものへの解明を進めようとした作業は、実は直観で無限性を捉えるルネッサンス前期のクザーヌスの仕事につながるようなものであった。……(中略)……。実践的行為の予期として知覚は働いており、行為の継続の支えになっているかどうかが焦点である。(p.258-259)


対象の本性を知ることは、知覚ではなく、認知によるものであるとし、知覚はより行為の調整に深くかかわっているが、真偽などを判別する能力とは異なっているとする点は本書で大いに参考になった点であり、また、本書の主張にとっても重要なポイントであると思われる。

なお、フッサールやハイデガーらはそれほどクザーヌスへの関心が高かったとは思えないが、同時代の実存哲学を標榜していたヤスパースはクザーヌスに関心を払っており、その時代のドイツの思想的状況はクザーヌスの思想が親近感を持って捉えられるような側面を持っていたと言えるかもしれない。



みずからに選択可能性を感じ取ること、それこそ原初の自由なのである。(p.274-275)


自由という難しい問題に対して、手がかりを与えてくれそうな指摘。



だが二者択一とは異なる選択をつくりだそうと試みることもできれば、選択にさいして将来の展開見込みを予想して選ぶこともある。これらは感情を基準にすることとは異なる。感情の基本は、好き嫌いに典型的なように、二分法になることである。(p.284)


この感情による二分法は、政治の場においても作用している。小泉政権の時代に「抵抗勢力」などの用語を用いて二分法的な感情を喚起させることによる人気取りは多用されたし、ナショナリズムなども感情が二分法になることを基本としているため、半ば普遍的に流布することができたと考えられる。



感情は、変化の一つの状態であり、変化として感じ取ることはでき、変化の度合いを感知し、判別することはできるが、変化する当のものや、あらかじめ定まった変化の単位もない。(p.314)


本書の「感情」に関する議論も大変興味深いものが多かった。感情には単位がないという指摘は特に興味深く、それと対比的にオートポイエーシスは単位を持つという指摘は参考になった。



 感情は発明されて、新たな形をとると、表現手段も受容され、継承される。博愛のような感情は、自然発生的には成立しにくい。というのも博愛は、自分の生存を危うくする可能性につねにつきまとわれているからである。博愛は、道徳の大天才が、ある時期に発明したのである。ひとたび発明されると、なんとなく理解され継承される。だが博愛の感じ取りには、個人差が大きいのではないかとも予想される。博愛には、マゾヒズムや自虐性がともなっているとも感じられる。あるいは博愛には、みずからを際限なく超えていく超克感のようなものもある。あるいは限りなく自分を超え出たものに触れていく崇高さもある。イエスは、キリスト教の開祖というより、おそらく感情の大発明家なのである。
 ……(中略)……。
 他方、廃れていく感情の形もある。憤り、義憤のような感情は、現代では多くの人にうまく感じ取れなくなっているのではないかと思われる。……(中略)……。感情は、個々人にとって使われなければ消滅してしまう。そのためある年齢を過ぎると、努力してでも感情を動かさないと、その感情のモードが消えてしまう。(p.320-321)


感情というのは、単に自然に備わっているだけのものではない。また、個人的にも社会的にも現われ方が変化する。精神的に豊かな生活を送るには、ある程度年齢をとった場合には、できるだけ感情に多様な変化がある生活をするよう心掛けたほうが良さそうである。



感情では快-不快のように肯定形と否定形が対極的に成立する。ところが感覚には、こうした否定性を考えることが難しい。色と「不色」、形と「不形」というように否定形を並置したとき、不色や不形に、不快のような実質的な経験を対応させることができない。(p.322)


感覚と感情の相違でもあり、感情を特徴づける要素には、この否定性がある。



実は、哲学や経験科学のなかには、語られたとたんに、それっきり思考停止になるようないくつもの用語がある。重力や光や波動や熱のような基本的な用語でさえ、部分的にこうした性格をもち、とりわけ熱の内実はさっぱりわからない。また理論構想そのものの用語のなかでも、自然選択、適応、アフォーダンス、オートポイエーシスというような語は、語の印象が鮮明で、そのなかになにかが含まれている印象を受ける。これらの語を振り回すだけでも、すでに思考停止回路に入っているのである。少なくとも理論構想用語に対しては、ほんとうに一つの構想なのか、複数のものが混ざり合っているのではないかと疑ってみることが必要である。このような謎を含んだ語は当初、時代の局面を変えるほどの発見力をもっていたと思われる。ところがそこから展開していく回路が見いだせなければ、最初の時期を過ぎると思考を制約する思考停止概念となる。(p.367-368)


適切な指摘。



 ここには多くの人に生じた典型的な誤解がある。オートポイエーシスは、立論の立場でも、記述の視点でもない。テキストを読むさいに、自分の経験を動かすような読みが必要であり、何であるかを対象知として理解するだけでは足りないのである。たとえば「内部も外部もない」というのは、オートポイエーシスの特徴の一つであるが、これはどういう経験の場面を言い当てているのかを、経験を動かして体験しなければならない。そうでなければただ意味としてわかろうとしていることにしかならない。ことがらを経験できないものは、情報として配置することしかできない。この場面で行為と知とがまったく疎遠になり、いっさいの経験の動きのない、わかった風な言葉だけが夥しく発話されるだけになる。体験的行為と結びついていない言葉は、ただちにたんなる立場へと転化する。そこから立場や視点としての知識が、どのような理由があっても釣り合わないほど優先される。オートポイエーシス的な本の読みは、本来、経験を形成するものである。読んで理解して、ただちに配置できるような知識しか得られないのであれば、その本は二度読む必要はない。およそ知識しか得られない本は、ただちに読み捨ててよく、みずからの経験を形成してくれるような本だけを丹念に読めばいいのである。ここでオートポイエーシスが想定している人間像が明確になる。この行為知のモデルケースは職人であり、思想家や評論家や、ましてイデオローグではない。日々こつこつとみずからに希望が到来するように、制作を行ない続ける者たちであり、制作行為のなかで毎日工夫しつづける者たちである。こうした職人的な基層の作業は、ダ・ヴィンチにもゲーテにも、そしてフッサールにも含まれている。(p.382-383)


河本のオートポイエーシスの理論構想における行為への志向について、読書という場面について明確に述べられている。


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河本英夫、佐藤康邦 編 『叢書 現象学と解釈学 感覚 [世界の境界線]』
谷徹「感覚と記号の形而上学」より

 さて、ここからが「感覚」の問題である。「直観」における「『記号』をフッサールは「感覚(Empfindung)」という言葉でも捉えている。たとえば、「私は、等しくない角を感覚しているが、しかし、等しいと判断している」(Hua.,ⅩⅩⅠ,S.282)のように。初期フッサールにとっては、これはある意味で必然的なことだった。というのも、フッサールの学んだウィーンには、いわゆる「感覚要素論」を掲げるマッハがおり、フッサールはマッハ(や経験論の伝統)に関心を寄せていたからである。「感覚」こそが一切の「学問」の基礎にあるという考え方は、当時の(広義での)「現象学的」な考え方であった。そして、フッサール自身の「現象学」という呼び名さえも、じつはこの(当時のウィーンを中心にしてマッハらによって一般名詞的に使われていた)広義の「現象学」という言葉に由来している。(p.128-129)


フッサールの現象学にまつわる思想史的な背景として興味深い。



一ノ瀬正樹「音楽化された認識論に向けて Towards Epistemology of Musicalized」より

 あなたは知識の普遍性についていう。だが、知識が普遍的に成立している、というそうした判断そのものが、間違いなく、その瞬間に一回的に、つまり即興的に生じている、という側面をもっている。……(中略)……。その意味で、知識や認識はそれをなす人の即興的「作品」であると、そういうべきだろう。(p.171)


ここでは即興性という時間的な側面からの叙述になっているが、その作品の作者において成立しているという点では「普遍的な人間」ではなく、ある具体的な個人のものでもあるという点にも注目しているあたりは、例えば、上野千鶴子などが「当事者性」ということを強調する場合や、マイケル・サンデルがリベラリズムにおける自己を「負荷なき自己」であるとして批判しているあたりと共通する思想的な流れのようなものが感じられ、興味深い。


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生活保護問題対策全国会議 監修、尾藤廣喜、小久保哲郎、吉永純 『生活保護「改革」 ここが焦点だ!』

エ 生活保護費の市最終負担は約150億円
 改革案は、2010年度で生活保護費2863億円が一般会計の17%を占めることを強調していますが、市負担はその4分の1である715億円程度に過ぎません。さらに、この715億円についても、国からの地方交付税交付金によってまかなわれますから、大阪市の最終的な負担は、約150億円程度にとどまります(大阪市ホームページ)。

 このように、生活保護費は市民生活を直接守ると同時に、市の持ち出しの数倍の経済効果が期待できる、費用対効果の大きな経済政策なのです。(p.36)


本書では最近の生活保護「改革」の議論の目的は財政支出削減のための扶助費削減にあることを強調し、それを批判していく。

財政危機を理由に扶助費削減を主張する政府側に対し、本書は自治体財政の負担は小さいことや支出されたものは地域経済にとって公共事業と同じような効果を持つ点を強調する。いずれも正しい指摘である。

ただ、財政ということに関しては、自治体ではなく中央政府の財政については不問に付している節があるところには本書の論にも一面的でしかない部分がある。自治体の首長らはまず自治体財政を守るという動機から扶助費削減を意図するだろうが、中央政府としては地方交付税による補填部分なども削減したいという動機があってもおかしくない。本書による批判ではそれに対しては触れられていない。(主たる批判対象が指定都市市長会などが出した案だからというのもあるだろうが。)

経済政策としての側面についても、限界消費性向が高い貧困層に金が回ることによって、地域で消費される金が増えるという効果があるのは確かだろう。しかし、市の持ち出し分だけを考慮して経済効果を考えるならば効率的な政策であると言えたとしても、実際には市の持ち出し分の19倍ほどの税金がつぎ込まれていることを考えると、どの程度効率的であると言えるか疑問が残る。より効果的な政策がありうる場合、経済政策としては別の政策を採る方が良いということになってしまう。この意味で、本書の批判の妥当性はかなり限定的だと言わざるを得ない。



 医療機関に対する指導、監査の強化、医療扶助支給額の本人通知も必要です。第三者行為による損害賠償請求権の規定新設(改正法63条追加)も賛成です。(p.42)


医療扶助支給額の本人通知は医療機関による過度の診療に対する牽制になるだけでなく、受給者側にとってもどれほどの費用が掛かっているのか認識することで無駄な受信を抑制する効果があるだろう。

また、現行の実施状況では医療費がどの程度支給されているのかほとんど受給者は知らない状態であり、それが税金からまかなわれていることを自覚する機会もないため、利用中の制度に対する理解を深める意味でも有効であろう。



 また、毎月発行している「おたより」には、できるだけ利用者の手記やインタビューを取り上げて掲載しています。同じ境遇の人々の姿を知ることは、ケースワーカーが何回も同じ説明をするよりも、はるかに説得力があります。「支援を始めたら途切れず続ける」ということも大切です。そのためには相手を責めないことが必要で、たとえ仕事を辞めてしまっても、「なんで辞めたの?」と怒るのではなく、辞めた原因を明らかにして、もう一回仕切り直して始めます。「責めずに次のステップに」ということです。(p.71)


受給者を責めるだけでは問題の解決につながらない。その意味で、客観的に原因を明らかにして仕切りなおすというのは重要である。但し、実施機関と受給者の間の信頼関係がなければ、このような理想的な対応も適切な結果に結びつくとは限らないという点には注意が必要であると思われる。



 当所では、毎月1回半日間で自立支援検討会を開き、支援対象者全員の課題を検討し、議論しています。支援者も問題を一人で抱え込むのではなく、いろいろな知恵を出しあい、自分だけでしんどい思いをするのではなくて、助けてもらい、ノウハウを継承できるような、そういう場が福祉事務所には大切だと思います。(p.72)


ケースワーカーの専門性確保のためにも、こうした検討会は有用であると思われる。



 フルタイムの就労をはじめた利用者は、日中、担当ケースワーカーと面接することが難しくなります。そこで、利用者から、就労状況や生活状況、子どもの修学状況などを「就労状況等報告書」という書面で、定期的に報告していただいています。(p.77)


この手法はフルタイム就労中のひとり親世帯等に対する家庭訪問による生活状況調査の労力を軽減するという意味からも有効かもしれない。



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モンテスキュー 『法の精神 下』

 しかし、西ゴート族の王たちがローマ法を禁止したとはいえ、ローマ法は彼らが南ガリアにおいて所有していた領地では依然として存続した。君主国の中心から離れていたこれらの地方は、大きな独立性をもって存続していたのである。(p.157)


地中海世界とアルプス以北の世界は歴史上、長期にわたって別のシステムを構成していた。法においても異なっていた。



 ユスティニアヌスの学説彙纂が1137年に再発見されたので、ローマ法が二度目の出生をしたようにみえた。(p.248)


いわゆる12世紀ルネサンスの時代には法の世界においても起こっていたということか。



 法律の文言は、すべての人の心に同一の観念を呼び起こすことが重要である。(p.275)


客観的に一義的な法文は、恣意的な法の執行の基礎となるものであり、近代法の形式合理性の基礎でもある。



 法律は決して精緻であってはならない。それは、普通の理解力を持つ人々のために作られるのである。それは、論理の技巧ではなく、家父の単純な道理である。(p.277)


こうした要請は貴族により法の執行が独占的に行われていた時代から、制度化された教育機関において文字を習得した新興のブルジョワジーが議会を構成するようになった時代の変化に対応していると思われる。


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杉作J太郎 『恋と股間』

「オレはひとりで生きていける」なんて粋がって言ってるヤツがいますが、じゃあそれ、おまえが六ヵ月とか一歳のときに聞きたかったわ、っていうことですよ。そんなセリフ、たまたまそいつが調子がいいから言ってるだけです。人が調子がいいときに立てたプランなんて長続きするわけがありませんっていうの。(p.18-19)


リバタリアニズムの思想などの大部分にこの批判は妥当するように思われる。



 男と女は、わかり合えなくていい。理解もしなくていい。共感も必要ない。
 でも、思いやろう。お互いに思いやろう。
わかんなくても思いやれるからすばらしいんじゃないですか。(p.40)


本書では男と女は別の生き物であるとする前提から出発している。多少の違和感はあるが、ある意味、それくらい大胆に割り切ったところから関係を構築していこうとする姿勢を取る方が良好な関係を築くことができるのかもしれない。そうした実践的なスタンスの一例としては本書は参考になるものがあった。

ただ、書かれた言葉に対して批判的に取り上げるとすれば、「思いやる」ことが適切な行為として成立するためには、相手に対するある程度の理解や共感は不可欠だとは思う。



 実際の場面ではね、もとから自分が持っていた「女性への理解」「男性への理解」というものが、好きな人の前ではいとも簡単にうちくだかれるのが恋愛ですよ。
 だから、「自分は異性への理解能力も共感能力も高い人間なのだ」と思い込んでいる人間ほど、恋愛の場面では足もとをすくわれます。
 自分はこの人のことが好きなんだな……と思ったらまず、自分が知らず知らず思い込んでいた「異性ってこんなもん」という「これまでの理解」は捨ててしまって、謙虚な気持ちで、相手に向き合いましょうよ。
 「自分は、この人にとってどうあればいいのかな?」という気持ちだけを羅針盤にして、「他者」という大海原を、ゆっくりと進んでいく
こと。(p.42-43)


ステレオタイプや過去の経験にとらわれることなく、個人としての相手にできるだけ直に向き合うという姿勢は重要である。本書を読んで思ったのは、一般的な人間関係においても重要な姿勢であり、この姿勢が的確にとれていればいるほど、相手の人との良好な関係を作りやすいのではないか、ということである。



 ふられるとわかっていても、それまで思う存分、気がすむまで相手を好きでいる。ふられるとわかっていても、ヘコたれずに、その人にふさわしい男になろうと努力する。一年後、やっぱりふられたとしても、これまでずっとその人に対して一生懸命であれたことで、きっとその男はひとかどの人物になれていますよ。(p.54)


本書の考え方のエッセンスが書かれている箇所の一つ。好きになった相手にふさわしい男になるよう努力することで自分の器を広げていくことが恋愛の意味であるとでもいうべき考え方。自分を高めていくためにすることだという考え方は、私にとっては非常にしっくりくる。

世の中に流布している恋愛に関する俗論には、この観点が欠けているものが多いように思われる。例えば、異性に好かれるため努力するということ自体はいろいろな雑誌などでも見られるかもしれないが、服装などの見栄えをよくしたり、センスの良い道具を持ったりすることで好感度を上げようとするような商売する側の人間の思惑が裏に隠された話も多く、そこには内面的ないし関係論的な成長の観点は欠如しがちであると思われる。



 童貞をいつ捨てるか。童貞は何歳で失うものなのか。
 これは、男にとっては大問題であります。
 ……(中略)……。
 しかし、きみたちは「早熟な恋の行方を描いたフランス映画」に出演している少年少女ではありません。主人公でもなければ、カメラが追っかけているわけでもない。
 映画でもあるまいに、おおっぴらにやってはいけないんです。
 なぜならば、プロ野球のチームでいえば、きみたちはまだ二軍選手なんですから!
 二軍時代からあんまりおおっぴらにやってると、まわりだっていい感じはしないでしょ?一生懸命ボールを追いかけることも知らないで、スポーツカーは乗り回すわ、セックスはしまくるわなんていった日には監督も気分が悪くて、もうこいつは一軍はないわと、見切りをつけられて当然です。
 だから、「童貞はいつ捨てるべきなんだろう?」という疑問への答えは、「自分はもう二軍じゃない。一軍選手になったんだ」というゆるがない確信をみずから持てるようになってから、となるでしょう。(p.72-74)


中高生を読者として想定している本シリーズならではの問いと答えである。私見もほぼ同様に考える。

ただ、一軍選手になったという揺るがない確信を持つといっても、客観的にその基盤となるものがなければならない。単なる思い込みだけの主観的な確信であってはならない。その意味では、自らの稼ぎなどで生活できることは重要なメルクマールであると考える。

(早期に経験してしまうというのは、早く大人になったかのような錯覚をもたらすかもしれないが、単に衝動的に行動する傾向が強く、自制する力に欠けているということを示していることが多く、むしろ精神的に幼い傾向があるからしてしまうものと思われる。近代初期までの時代では10代にはすでに稼働していることがほとんどだったから、思春期の問題は現在よりも生じにくかったかもしれないが、現代は教育にかかる時間が長いため、この部分に関しては問題として軽軽されることが多いと思われる。)



 どうして「恋愛」が生きている人間に必要なのかという話はこれまでにもしてきましたが、繰り返しますと、恋愛をすると、相手から自分を認めてもらおうとするために、人間は「自分」というもののいまの枠を無理やりにでも広げようとするからなんですよ。たとえ、不幸にもその恋愛が成就しなかったとしても、何かのスキル、何かのレベル、何かの関心をいまよりもアップさせたり広げたりしようとした、そういう痕跡が自分の中に残るんです。その痕跡、つまり、自分の身と心にきざんだ努力は絶対に、あとあと自分のためにもなるんです。
 なのに、何の無理も努力もしないで、「どうして、ありのままのオレじゃダメなんだろう?」という疑問なり不満なりを募らせてしまう場合もあるようですが、そんなに「ありのまま」が認められたいっていうのはね、それは「自分は赤ちゃんなんです」って言ってんのと同じだよ。成長しようという意志も行動もなくって、じゃあもう、一生バブバブ言ってろってことですよ。
 「自分はありのままで生きていくしかない」っていうのはね、さんざん努力も葛藤もしたけれどもうまくいかなくて、自分ではどうしようもなくなった人間がぎりぎりのところから再び生き直すために、それこそ捨て身の努力で獲得する思想なんです。なのに、何の苦労も努力も試そうとしない人間が、いま自分がいるところから一歩も動かないで、楽して何かを手に入れようなんてね、世間をなめちゃあいけません。(p.121-122)


本書の考え方が端的に要約されている箇所。



 だんだん何の話をしているのかわからなくなりましたが、要は、その内容はともあれ、女性があれこれ注文や要求を出すことそのものにイラッとするのは、男として見当違いだ、ということです。人から「ダメ出し」をされることって、本当はありがたいことなんだって、若い人もいまから知っておいたほうがいいですよ。(p.124)


教育する側としては誉めて伸ばすという考え方を強調した方が良いが、教育を受ける側に対してはダメ出しのありがたさという考えを強調した方が良いと思われる。本書の想定する読者は中高生の男子なので、このコメントは適切であると思われる。



そんな、彼女を監視するようなさもしいマネをするよりも、いい関係を維持させるようにがんばったほうがよほど、彼女も浮気しません。
 行為の動機がさもしいと、どれだけその行為を一生懸命にやったからって、「さもしさ」が減るわけではない
んです。「それだけおまえのことが心配で好きだから」なんて言ったって、それでおまえのさもしさが正当化されると思うなよ、ってことですよ。
 携帯はね、どれだけ気になっていても絶対に、見ないほうがいいです。「この男は小さい」と付き合っている彼女にまで思われてしまったら、本当に終わりですから。(p.160)


彼女の携帯を見るという行為に対する批判だが、ストーカーなどにも当てはまる。



 彼女とのあいだで、昔に起こったアレコレ。その中で特に「腹を立てたこと」については、女の人はなかなか忘れてくれないものであります。(p.189)


もしこの論が正しければ、彼女を立腹させるといつまでも責められるということになる。



 男から見たときによく、「あの女はワガママだ」という女の人がいるでしょ。何かすごくこう、男を振り回すタイプの人で、付き合っている当事者よりも、そのまわりの人間からえらい不評を買ったりしているわけですが、そういう女性はね、瞬間瞬間で生きている男性を自分に長くつなぎとめておく策に長けた、「愛に満ちた人」なのかもしれないですよ?
 愛に満ちたといってもまあ、近くで見ていると「厳しいなー」と思ってしまうんで、あくまで「遠くから見れば」ということですが。
 ほうっておくと「点」で終わってしまう男を、あえて「ワガママ」という攻め方をすることによってあきさせない。そのつどそのつどをつなげさせていくことで、結果的に、ながーく、相手をつなぎとめておこうとするのが女性である……。(p.193-194)


女がワガママに振る舞うことで男に様々な対応を迫る。それが男の成長の契機となることがある。このように捉えると、ある意味ではワガママにも効用があると見ることもできるわけだ。まぁ、これを全面的に受け入れると女性側の成長という側面が抜け落ちるので、両方から努力しなければならないだろう。



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