アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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平岡昭利 編 『北海道 地図で読む百年』

 石狩河口に通じる創成川の水運を考慮して、その東には開拓使の営繕局や官庫、器械場に加えて、麦酒製造所や木材加工、皮革、醸造など多様な官営工場群が開設された。一方大通より北は開拓使庁舎とその役人の官舎で、官地とされた。1875年(明治8)にはこの地区の北1条から2条の西1丁目から2丁目の範囲に北海道大学の前身である札幌農学校が開設され、その敷地の一角に時計台として知られている演武場が新築された。その後、市街地区画の北にあった札幌官園は農学校園に転換され、それが現在の北海道大学の広いキャンパスになっている。
 大通より南は商業移民の入地を予定して町屋とされ、1区画を二分して6戸ずつの区画としたために「小路」が設けられた。このなかで中心商店街としての地位を長期にわたって維持してきたのが「狸小路」である。このように大通の分離帯を境に北は官地、南には商人が居住することになり、いわば城下町に似た町割りが設定されているが、よくいわれるように大通が当初から大防火船であったかどうか明確ではない。この町屋の南の「すすきの」には官設の遊郭が設定され、山鼻屯田兵村と接する南西端には東本願寺が開設された。遊郭はその後市街地の発展で、市の中心部に近い位置を占めることや、近接の学校の風紀上の問題から1920年(大正9)には豊平川対岸の白石村菊水地区に移設された。このためすすきのは一時は衰退をみたが、映画館や飲食店、バーなどが集中するようになり遊興の地として再び復活した。いまやこの地区は、東京以北では随一の全国有数の歓楽街に成長し、ラーメン横丁をはじめ夜の一大観光地となっている。
 このように中心部における機能の基本的な配置は、現在に至るまで継承されており、北は官庁街と住宅、南は商業とすすきのの飲食店街で、商業地は南1条通に立地した二つのデパートを中心に形成された。この両地区を結ぶ駅前通は、1880年(明治13)に札幌と手宮(小樽)間の鉄道が開通したことから、メインストリートとなり、市街地の発展軸は南北性を指向することになった。(p.6-7)


札幌の市街地の展開がコンパクトにまとめらえており興味深い。

創成川の東は水運上の利点から官営工場群が立地した。現在、サッポロファクトリーや札幌ビール園などが、この地区にあるのはこのためであることがわかる。

創成川の西では大通の南北で性格が異なり、北は官地、南は商業地となった。北大キャンパスの変遷なども興味を引かれ、時計台がなぜ現在の場所にあるのかもこの移転の経過からわかる。(もっとも、現在の時計台は明治時代に建っていた場所からはやや位置がずれているが。)現在の北大キャンパスが比較的広いのは、当時の市街地の外だったから、ということもわかる。

また、南では狸小路がなぜ現在の場所にあるのかということも理解でき、その南のすすきのも現在は市街地のど真ん中だが、当時はやや外れにあっただろうことが推測できる。なお、東本願寺が設置されているのも、本願寺が植民地への進出の際などに積極的に政府に加担してきたことを踏まえると、その意味が見えてくるだろう。

そして、手宮線の開通が札幌の駅前通の形成にまで影響していることや、南北を発展軸として指向してきたことなども現在の交通事情(南北の方が東西よりも移動しやすい傾向があると思われる)と相関しているように思われる。



 人口のうえでも札幌が全道の首位に立つのは1950年であり、経済機能においても全道を統括する地位を得るのは、戦後になってからである。とくに小樽にあった本州の金融機関や卸売り機能が1955年頃より札幌へ移転したことの影響が大きい。(p.8)


札幌が発展したのはかなり時期が新しいことにやや驚く。それと同時に、なぜあの街が歴史性を感じさせないのかということも了解される。さらには戦後における小樽の衰退と札幌の興隆がリンクしていることも理解できた。



 明治中期には日本郵船会社が小樽~利尻・礼文間の航路を開設した。これにより稚内は小樽の商圏に編入されることになる。この小樽からの利礼航路は1993年前半まで維持された。日露講和のポーツマス条約で1906年(明治39)には南樺太はわが国の領有となり、対岸となる稚内は連絡港としての重要性が高まった。(p.116)


稚内と小樽の関係、さらに南樺太との関係。



 北海道の農業地域の分布を一覧すると、そこには内陸開拓の歴史が大まかに反映されていることがわかる。開拓者の主眼は水田化にあり、米作の北眼に関心が注がれた。米作が不可能な地域の多くは畑作地帯となり、水田とあわせて耕種農業地域とよばれた。これらの地域の外側は農業が成立しない「限界地帯」とされ、道北や道東に広く見られた。自然条件に恵まれないこれらの地帯での農業地域の形成には、国策による農業開発が必要とされた。香川県に匹敵する面積をもつ別海町は、最近は沖縄米軍の実弾射撃場となり注目されたが、国による農業開発を機に、先進的な草地型の酪農地域へと変貌した代表的な地域である。(p.151)


水田がある地域、畑作が主である地域、酪農などが主である地域などに北海道開拓の歴史が反映していることが見てとれ興味深い。




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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

モンテスキュー 『法の精神 中』

 自由な人間は身を売ることができるというのは正しくない。売買は代価を前提としている。ところで、奴隷が身を売ると、彼のすべての財産は主人の所有に帰することになり、したがって、主人は何物をも与えず、奴隷は何物をも受け取っていないことになる。奴隷も特有財産をもつ、と人は言うかもしれない。しかし、特有財産は一身に付随しているものである。自殺をすることが、祖国からの逃亡となるがゆえに許されないとすれば、身を売ることもやはり許されない。各公民の自由は公的自由の一部分である。この資格は、民衆的国家においては、主権の一部ですらある。この公民としての資格を売ることは、人間において想像することもできないほど常軌を逸した行為である。自由は、それを買う者にとってある価格をもっているとしても、それを売る者にとっては、価格をつけられないほど貴重なものである。(p.54)


ロックの自己所有の原理などとも関連して興味を引かれた部分。



 知識は人を穏和にする。理性は人間性を高める。他方、人間性を否認させるものは、ただ偏見だけである。(p.57)


偏見が人間性を否認させるのは、それが特定の――多くの場合、事実誤認に基づく――信念に基づき、それに固執して自由な観点を持つことができない状態で言動を起こさせるところにあると思われる。



 極端に絶対的な君主政の国々においては、歴史家は真理を裏切る。なぜなら、彼らはそれを述べる自由をもっていないからである。極めて自由な国家において、歴史家はその有する自由そのもののゆえに真理を裏切る。この自由は常に分裂を生み出すので、各人は、専制君主の奴隷となると同じほどに、自己の党派の偏見の奴隷となるのである。(p.196)


中国と日本の間の歴史問題についての意見の相違はここから生じていると思われる。中国では歴史家は真理を述べる自由を持っていない。日本では言論の自由ゆえに分裂が強く、右派の自慰史観などが特に顕著だが、自己の党派の偏見の奴隷となっている。そして、彼らの言説が存在することが、相手方である中国側の怒りを刺激して悪循環に陥る。



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北海道高等学校日本史教育研究会 編 『歴史散歩1 北海道の歴史散歩』

1900年、修道院は孤児院を開き、1903年に、はじめてホルスタインの種牛を輸入し、バター販売を開始した。ここで生産されるバター・クッキーなどは、道南を代表するみやげ品として知られている。(p.31-32)


函館のトラピスト修道院についての記述より。

バタークッキーが名物である理由がわかり興味深かった。北海道における牧畜の展開とも関係する歴史があったとは。



 下海岸産のコンブは関西方面へ流通するばかりか、沖縄や中国へも運ばれており、コンブロードも中国大陸まで続いている。薩摩藩(現、鹿児島県)が琉球王国をつうじて行った密貿易では、中国の薬種と北海道のコンブを交易しており、この動きがコンブロードを中国まで拡大させた。北海道の他の地域と比較して、下海岸地域で早い時期から和人との接触がはじまったのは、本州との距離が近いことのみでなく、コンブの存在も重要な要素だったと考えられる。(p.35)


下海岸とは渡島半島東部のこと。

この地域の昆布が薩摩、琉球を通じて中国との交易にまで繋がっていたというのは興味深い。



旧久保商店からまっすぐ海へとくだったところが、樺太航路の拠点となった第1号埠頭で、近くに貨物専用の浜小樽駅ができた(1984年廃止)。そのため、物資流通の要衝となったこの周辺には、商店や銀行がつぎつぎと出店し、数多くの倉庫がつくられた。その倉庫の1つに旧木村倉庫がある。現在、北一硝子3号館として知られるこの建物は、1891年建造の木骨石造倉庫で、内部には、かつて小樽港からトロッコで荷物を搬入していたレールが残されている。(p.84)


小樽の堺町周辺に倉庫や銀行が多数作られた背景。



リンゴといえば長野県や青森県を思い浮かべるが、じつは日本で最初にその栽培をはじめたのは、北海道の余市町であった。
 ……(中略)……。やがてこの珍果は、小樽方面に高値で売りさばかれるようになり、1896年に大阪で開かれた全国大博覧会で上位入賞をはたすなど、全国的にその名を馳せるまでになる。
 ……(中略)……。
 日露戦争(1904~05年)前後には、余市のリンゴはロシアに輸出され、外貨獲得に大きな役割をはたすまでになった。(p.99)


現在でも余市町やその隣の仁木町ではリンゴの栽培が盛んである。そこにもこのような歴史があったとは知らなかった。



 この建物は、当時アメリカ中西部で流行した、室内の空間を広くとるために、内部に柱を使わない木造建築様式バルーンフレームを取りいれた、簡素で装飾の少ない実用建築で、日本では例の少ない開拓使時代の建築として貴重なものである。(p.118)


札幌の時計台についての記述だが、北海道の近代建築を調べていると、木造建築の場合、頻繁にバルーンフレームという名を目にするが、あまりきちんとした説明を見たことがない。一応説明されていたのでメモしておいた。

これによるとバルーンフレームの特徴は、当時のアメリカ中西部で流行していたこと、室内を広くするために内部に柱がないこと、ということになる。



 この邸宅は、1880(明治13)年前後に永山武四郎の私邸としてたてられ、1911年に三菱合資会社に買収された。建物の特徴は、和室と洋室が隣あわせになっていることである。明治時代初期の住宅に洋室を取りいれる場合は、別棟にしたり廊下でつなぐのが一般的であった。洋風応接室と書院座敷が直接つながっている建築法は、洋風建築導入過程を考えるうえでも重要である。(p.123-124)


旧永山武四郎邸について。まだ見たことがないのだが、近々、行ってみたいと思っているのでメモしておく。



そもそも明治時代まで、釧路から根室・知床岬を経由して南から斜里へ航海を行う技術は、まだ存在しなかった。海流の変化に、木造船では対応できなかったからである。したがって、日本海回りで宗谷から船か徒歩で到達するしかなく、冬場は流氷のため徒歩しか移動手段がなかった。(p.202)


かつて、西蝦夷地と東蝦夷地がどうして北海道を斜めに(北東から南西へのラインで)区切られていたのかがわかったように思う。また、函館と小樽の勢力圏としてオホーツク海沿岸の方面まで小樽の勢力圏に入っていた理由もこうした歴史的な経緯が反映していたのだろう。




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モンテスキュー 『法の精神 上』

 人間は共和政体においてはすべて平等である。彼らは専制政体においても平等である。前者においては彼らがすべてであるから、後者においては彼らは無であるから。(p.163)


モンテスキューは本書において共和政体(民衆政体と貴族政体を含む)、君主政体、専制政体という3つの政体を区別する。君主政体と専制政体は従来、後者は前者の堕落したものとして捉えられることが多かったが、全く異なった本性と原理を持つ別の政体であるとした点がユニークなところである。「専制政体も君主政体も政治権力が単独者によって担われている政体であるが、前者は法律によらない政治、後者は法律による政治という差異がある」(本書p.408訳注)。

本書で専制政体について述べられる様々なコメントは確かに現代でも民主的ではない政治体制に対する批評として通用するものがしばしばあり興味深い。法律によらない政治という点ではしばしば「法治でなく人治」と言われるような政治権力についてかなり妥当な指摘をしていることが多いと思われる。



 一緒にいる人間が多くなればなるほど、人間はますます虚栄的になり、つまらぬことで自分を目立たせようという欲望が生じてくるのを感ずる。(p.198)


実際に妥当するかどうかはわからないが、興味深い箴言。



 国家には常に、出生、富、名誉によって際立った人々がいる。しかし、もし彼らが人民の間で混同され、他の者と同様に一票しかもたないとすれば、共通の自由は彼らの隷従となり、彼らはこの自由を擁護することになんら関心をもたないであろう。なぜなら、大多数の決議は彼らの利益に反するであろうから。それゆえ、立法における彼らの役割は、彼らが国内でもっている他の優越性に比例すべきである。人民が彼らの企てを阻止する権利をもつのと同様に、彼らが人民の企てを阻止する権利をもつ一団体を構成するならば、このことは実現されるであろう。(p.297)


現代の民主主義の体制は基本的に形式的な平等を重視しており、ここでモンテスキューが主張しているような問題を敢えて避けて通っている。モンテスキューが述べるような優越性に比例した役割を優越的な人々に与えるという考え方は、実質的な公平でもあると考えることは可能であると思う。しかし、これを制度化すると、優越性のあるものにとってはますます有利になり、優越性のないものにとってはその制度下での権利はますます不利となる。こうした優越性を捨象して形式的な平等により一票を人々が持つことと、優越性に応じて比例的な力を持つこと。形式的平等と実質的平等とでも言うべきものは政治体制の中でどのように位置付けられるべきか、少し考えてみる価値があるように思う。



神は敬うべきであって、決して神のために報復すべきではない。(p.346)


なかなかの名言。宗教は政治的現象であると私は随所で述べてきたが、まさにここでモンテスキューが批判している報復の論理こそ、宗教的イデオロギーが政治体を戦争をすることを正当化する際に使われる事例の一つである。



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中野京子 『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ』

 キャンバスが小さいのがわかります。持ち歩くのですから当然ですし、刻一刻変容する外光をとどめようとすれば、号数はおのずと制限されてしまいます。教会や王侯貴族がパトロンの時代は、礼拝堂や王宮や大邸宅に飾るために知的な構成の巨大画面が求められましたが、王政終焉とともに購買層たる金持ちも小粒になって絵も小型化し、主題が変わってゆく、というより主題はなくなり、見たままを描くのですから構成もさして必要なくなる。おまけに素早いタッチで仕上げるとなれば量産可能です。ルノワールは――工房でもないのに――六千点も描いたといわれます。玉石混交も極まる道理でしょう。(p.48)


マネの「アトリエ上のモネ」について。

印象派が台頭しつつあった時代の社会背景の変化が、絵画のサイズや主題、構成にも反映していることを簡潔に指摘している。



当時、人口二十万のアムステルダムに、七百人もの画家がいたというから驚くではありませんか。おまけにあるていど棲み分けもなされていたらしく、終生、帆船だけ、花だけ、冬景色(それもスケート・シーン)だけしか描かない画家などが多く存在しました。存在できた、というところに社会の豊かさがうかがえます。
 二百年後のフランスも、産業革命によるブルジョワ階級の台頭、画家の増加、絵の小型化と、明らかな共通項が見られます。またどちらも、聖書や神話や歴史には関心をはらわず、自分たちの生きている「今」の絵、ありふれた身辺スケッチを求めた。オランダで帆船が山ほど描かれたのは、それこそが豊かさをもたらす「時代のアイコン」だったからです。フランスで都市生活や近郊の田舎が描かれたのは、近代社会を形成した自負ゆえであり、田舎はその都市生活のストレスを癒す場だったからです。(p.48-49)


専門分化した画家が存在しえたという点に17世紀のオランダ社会の豊かさを見ている点はなるほどと思わされる。

また、17世紀のオランダ絵画の主題として帆船が多く描かれたことと19世紀のフランスで都市生活や近郊の田舎が主題として多く描かれた理由も興味深い。絵を見るとき、主題と社会的背景との関係などもこうやって考えながら見ると面白い発見がありそうだ。



 いずれにせよ印象派は、社会の底辺で喘ぐ男たちにほとんど関心を示しませんでした。神話も歴史も聖書も描かず、「今という時代」に焦点を絞ったとはいっても、その「今」を生きている肉体労働者は除外したのです。(p.107)


印象派が描く「現実」には、あまり苦痛や苦悩といったことも表現されていないように思われる。その意味でも「明るい」ものに、それだけに焦点を当てるという偏りがある。(ドガの絵などはやや内面的に「暗い」ところがあるが。)これは購入する層が社会の比較的富裕な市民であったこととも深く関係していると思われる。



 印象派は、絵画が商業利用される幕開けの、いわば申し子でした。公立美術館が増え、誰もが気軽に絵画鑑賞可能になるにつれ、規範となる芸術、つまり古典という考え方は廃れ、専門家のお墨付きよりむしろ、多くの人に愛される絵が「傑作」と呼ばれるようになる。クラシックよりポピュラーが愛されるように(もちろんポピュラーの中の少数のほんものは、確実にスタンダードになるのですが)、画面が明るくてきれいなもの、何も考えなくていいもの、心地よいもの、癒し効果のあるもの、知識がなくても楽しめるもの、要するに印象派絵画が圧倒的に支持される。(p.186)


同意見である。



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