アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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初田亨 『繁華街の近代 都市・東京の消費空間』

 繁華街から日本の近代の都市をみた時、近世の都市と大きく異なる点は、不揃いな街並みがつくられていった点と、陳列販売の形式をもった店舗の出現にあると考えている。(p.10)


このあたりは本書との基本的なパースペクティブが示されている一文だと思われる。

土地に縛り付けられて生活していた近世以前の生活と比べ、移動の自由度が高まったことにより、商店は見知らぬ不特定多数の人々を客として扱う方が有利となった。それにより、販売方式は陳列販売方式へと移行し、街歩きの楽しみが発見されていき、その中で個性的で自己主張のある建物を建てることで建物自体が広告となるため、不揃いな街並みが形成されることとなった。

経済的に中産層的な市民が増えることにより、この傾向は強まり、一度この方向に消費がシフトしていくと、不可逆的な変化が生じた。



 建設当時、あまり人気のなかった銀座も、明治10年代後半頃から活気がみられるようになっていった。この頃の銀座での生活をみていくと同時に、当時東京で最も繁華を誇っていた隣の日本橋地区と銀座を比較することで、銀座の特性をみている。銀座には、洋物、舶来物など、新しい商品を取り扱う商店や、商品を陳列して販売する新しい形式をもつ商店・事業所が多くあったのに対して、日本橋地区には、問屋であることを誇示するなど、江戸時代から続いた価値観をそのまま踏襲した商店・事業所が多くみられることを明らかにしている。また、銀座の道路には歩道があり、露店・夜店を出しやすい形式をもっていた点の重要性も指摘している。(p.12)


街の個性という観点からも興味深いし、個性的な役割を持つ街が地理的に分布しているという観点からも興味深い。



 1881年(明治14)の防火令を契機にして、東京では土蔵造りの街並みが誕生している。(p.12)


本書の序盤ではこの点が非常に強調されており、興味深かった。土蔵造りの街並みはその後日本各地へと広まった。ただ、小樽の歴史を調べた際にやや特殊なのは小樽では土蔵造りではなく木骨石造がこれと同じ役割を果たすものとして建てられた点に個性があり、土蔵造り以外の建築で代替した地域もあったということは銘記してよいと思う。また、土蔵造りと木骨石造以外でも同様の防火機能のために建てられたものがないかという点も興味を引かれる。(純粋な石造建築は群としてはなかったのではないか?どこかにあったのだろうか?)



特に銀座は、1870年(明治3)から工事を始めていた新橋・横浜間の鉄道が完成した暁には、鉄道を通して横浜と築地居留地、さらには横浜の開港場を通して外国とも結びつく地にあたり、政府としては、ぜひとも立派な街衢につくりかえたい場所であった(図1)。
 ……(中略)……。
 幕末から明治初期にかけての銀座は、瓦葺の建物さえ少ない小商人や職人の町であった。銀座がこのようなみすぼらしい町であればあるほど、政府は、新橋・横浜間の鉄道が開通することにより、外国人のより多く通るようになるこの銀座を、外国の町のような街並みにつくり変えることの必要性を強く感じたであろうことは察しがつく。(p.22-23)


銀座煉瓦街が銀座に建設された理由の一つは、こうした外国人向けの景観形成があったというのは興味深い。また、そこに鉄道開設が絡んでいるところも興味を引かれる。



 後に述べるように、東京では明治末期に陳列販売方式の店舗が並ぶ近代的な街並みが誕生するが、この明治中期の防火令の成功で、東京から大火がなくなり、商品を陳列して販売する、近代的な街並みが生まれる下地がつくられたともいえる。大火の多い時には、商店が店先に商品を並べておくことは大変危険なことで、火災によってすべての財産を失ってしまう危険性もあった。商人にとって商品は重要な財産で、火災の多い時代には、商品を安全な土蔵などにしまっておく必要があったが、都市から大火がなくなり、火災の数も減った時、現在一般にみられるように、商店が店先に商品を並べ、陳列販売することも可能になったのである。(p.53)


興味深い指摘。確かに、明治の前半頃までは日本の都市ではかなり多くの大火が起きているようだ。札幌、函館、小樽といった都市の歴史を見たときにも、いずれも大火とそれへの対策としての火防線などについて触れられていた。



 明治中期から後期にかけて、各地に土蔵造りの建物が建設されていたらしい点が明らかになったが、同じ頃、土蔵造りの建物を数多く建設していたものに銀行がある。土蔵造りの建物を建設した銀行の例で、建設年代の明らかな例をあげると表1のようになる。
 土蔵造りの銀行で興味深いのは、土蔵という伝統的な外観をもっていながら、建物の内部が洋風に作られている点である。(p.74)


土蔵造りではないが、これに近そうな実例として、私が見たことがあるものの中では、旧第百十三国立銀行小樽支店(明治26年、木骨石造)が想起された。ただ、この建物の中には入ったことがないので、どのようになっているのか、興味を引かれる。



 活動写真が一躍活気づいてきたのは、日露戦争の実況を上映するようになってからである。(p.136)


メディアの歴史として興味深い。



 人々が銀ブラを楽しみ始めた大正時代は、芸者だけでなく普通の女性まで化粧をするようになった時代でもある。資生堂に化粧品部が設けられたのは、1916年(大正5)のことである。同時に資生堂では意匠部を発足させ、以後、容器、箱、包装紙、ポスターや社名のレタリングに至るまで、アール・ヌーヴォー風の意匠を展開している。(p.206)


一般女性が化粧をするようになったのがわずか100年ほど前というのは意外と最近のことなのだと思い、少し驚いた。



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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

斎藤環、山登敬之 『世界一やさしい精神科の本』

 何度叱られても改まらないというのも、ADHDの子にはよくみられる特徴だ。(P.30)


病気や障害などを持つ人と接する際には、こうした知識を持つことは有用である。



自信の回復には、「人」がいちばんの薬なんだ。
 もし君たちがひきこもりそうになっても、このことだけは覚えておいてほしい。人間関係がなくなると「生きる意味」すらもみえなくなる。逆にいえば、どんな形でも人とつながってさえいれば、ひきこもりはこじれずにすむってこと。だから「誰にも頼らない強さ」なんかよりも、「時には人に甘えられる強さ」のほうを大切にしてほしい。(p.66)


自信の回復には「人」がいちばんの薬というのには納得。自信というのは、自分を信じようといくら思ったとしても、そのような意志の力で何とかなるものではない。だから、自信を失った人に対して助言するとき、私は大抵、目を外に向けさせるようにしてきた。本書の叙述から、それをさらに一歩進めて、周囲の人の側からその人に関わっていくことによって、その人の自信が回復するというプロセスがはっきりと見えてきたと思う。もちろん、問題を抱えた人から他人に関わっていくことができれば、それがベストだが、自信を喪失した人にとっては、そうしたことがなかなかできない状態でもあるだろう。だから、周囲の人がそこに関わっていくことによってエンパワメントしていくことが重要となってくるのではないか。



でも、対人恐怖の人は、意外に初対面は平気だったりする。いちばん苦手なのは、「半知り」、つまり半分知ってる人、名前ぐらいは知ってるけれどもあんまり親しくない人、こういう人たちね。
 ……(中略)……。対人恐怖の人は、こういうあいまいな関係がいちばん苦手。なぜかっていうと、半知りの関係というのは、要するに向こうは自分のことを知ってはいる、だけど自分のことをどう思っているかはよくわからない。この曖昧さが苦手なんだね。(p.69)


私も一般の人よりは対人恐怖がある人とも接する機会が割とある方だが、なかなか参考になる。逆に云えば、対人恐怖の人を受容しているということを早めに伝え、それに成功すれば、これらの人とも関係を築きやすいということだろう。



 実は対人恐怖の人って、他人にはそんなに関心がない人が多いんだよね。……(中略)……。その人が自分をどう見ているかについてはものすごく過敏だし考え過ぎなくらい考えるんだけど、そっちに気を取られすぎて、実は相手のことをよく見てないんだよね。そういう意味では、けっこう自己中心的な人といってもいいかもしれない。(p.71)


対人恐怖の人に限らず、周囲の目・評価を気にする人には、こうした自己中心的な傾向が強く見られると思う。私個人としてはこういうタイプの人はあまり高く評価しない。他人がどう評価しようが、自分の信念を貫くといったタイプの人の方が魅力を感じることが多い。



自分の醜さや臭いで他人に迷惑をかけていると思いこむから「加害妄想」なんだ。
 ……(中略)……。
 ずっとそういう訴えをしている人にとっては、もう「他人から嫌われている」って考えること自体が、自分の「存在理由」みたいになっちゃってるんだよね。逆にいうと、その悩みを否定されてしまうと、「お前は存在価値ない」といわれたみたいに傷ついたりもする。(p.72-73)


病的な心理状態の人を扱う際の難しさは、こうしたところにあるように思われる。正面から説得しても通用しないどころか逆効果になってしまう。病的とまではいかなくても、こうしたことはまれに生じるが、私としてはあまり得意としない関係かもしれない。



フラッシュバックというのは記憶の蘇りとしてもつらいんだけれども、それだけじゃない。いろんな自律神経系の反応をひきおこしてしまって、極端な場合はその場で動けなくなってしまったりするようなこともある。(p.142-143)


これに近い事例を見たことがあるが、やはりその人はトラウマを抱えていると思われる。今後の参考になる叙述。



つまり、自分がマイナス感情に支配されているときは相手がそういう感情を持っているというふうに思いこみやすいということ。これは生活の知恵として、みんなも知っておいたほうがいいんじゃないかな。
 相手がすごく自分に怒ってるなと思うときは、ひょっとしたら自分が相手に怒ってるんじゃないかと疑ってみると、早く冷静になれるかもしれない。あんまり相手の怒りをベタに受けとりすぎると喧嘩になっちゃったりしてよくないから、理不尽な怒りを自分に向けてる人がいるなと思ったときは、ひょっとしたら、本当は自分がその人を嫌いなだけなんじゃないかということを考えたほうが、頭を冷やす上では役に立つ。(p.162)


正直、あまりピンとこないが、何となく気になるところがあるのでメモしておくことにする。



「うつ病っていうのは、動けなくなる病気なんですよ」。(p.172)


気分の問題と捉えられがちなうつ病について、一般の誤解を解くために敢えて身体的な問題の方に焦点化して表現している。私は、鬱の人とも比較的よく接する機会があるが、参考にしてみたい。




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田端宏、桑原真人、船津功、関口明 『県史1 北海道の歴史』

 江戸時代初期の松前藩にとって、対アイヌ交易の商品の調達、また産物の移出のためにも、生活物資の確保のためにも本州方面との流通経路を安定して把握しておくことはきわめて重要だった。近江商人の組織的な活動は、その役割をになったのである。(p.99)


本書は北海道の歴史だが、小樽の歴史でも近江商人が最初に進出してきたということは学んでいた。より広域の歴史を学ぶと、全体的な布置の中で位置づけやすくなる点で有益である。ローカルな歴史はディテールを知るには有益だが、それだけを見ていても全体的な位置づけが見えにくく、意味を理解する際に苦労することが多い。視野を広げると意味を的確に把握しやすくなる



 場所請負人や諸藩へも移民の導入、永住者の増加策をとらせ、農業開拓につとめるよう指示しており、蝦夷地への出入規制もといて往来を促進し、定住を奨励した。この第二次幕領期に蝦夷地に定住する和人人口は急増する。とくに西蝦夷地の鰊漁の盛んな地域での増加がめだち、ヲタルナイ(永住324戸、1412人。出稼ぎ226戸、896人――慶応4年)のように、寺院もでき、商店も多くならび「遊女町」まであるという都市化の様相を示すところもあらわれるのである。
 和人人口の増大した地域では場所請負制を廃し、「村並」の扱いを行った。村役人をおいて自治の要素も含めて箱館奉行所の直接統治が行われるのである。イシカリ(安政5<1858>年)、ヲシャマンベ・ヤマコシナイ(元治元<1864>年)、ヲタルナイ(慶応元年)が「村並」化されたところである。(p.156-157)


第二次幕領期とはおおよそ1855年頃から1868年頃までのことを指すと思われる。

「村並」というのがどのようなものであるのか、何度かこれまでも聞いたことはあるがあまりよく説明されているのを見たことがなく、わからないところである。



 幕末期には、いくつもの場所をひとまとめにした広大な地域を一請負人が引きうけるようになっているが、そうなると、オホーツク沿岸一帯の働き手を漁業に有利なソウヤ・リシリに集めて使役、春の鰊漁、秋の鮭漁と通年の漁業労働で自分の村へほとんど帰れなくなる困難におちいるのであった。(p.162)


幕末期には場所請負人が大きくなり寡占化が進んでいたようである。世界的に政治権力と結びついた大資本が形成されていった時期と重なるのではなかろうか。場所請負人の規模拡大も、そうした中に位置づけられるのだろうか?興味深い問題である。



ちなみに明治十八年の内閣制、同二十三年の明治憲法発布までは、幕府開設の前提の征夷大将軍の任命を含めて日本の根本法典は律令であった。(p.178)


かなり最近まで律令が根本法典であったということには軽く驚きを覚える。



 ところで明治元年閏四月、小樽内騒動という事件が勃発した。すでに小都市化していた小樽内の零細な漁民や出稼人に流民や浪人・博徒が加わった600余人が、鰊類の価格の暴落や本州からの米や日用品の高騰と供給減少に動揺し、過重とは思われない新税に反発して御用所を襲撃した騒擾事件である。出稼人や流民にみられる前期プロレタリア要素や新政への期待をもった騒動であったことから、世直し一揆としての側面をみる見解もある。(p.179)


小樽は幕末頃から鰊漁で栄えたようだが、経済活動がある程度活発であったことがうかがえる事件であると思われる。



 開拓使は明治四(1871)年以降、種々の官営工場を設立した。工場の主力は札幌本庁舎管内におかれ、とくに開拓使工業局と物産局に属する諸工場は、水利の点から創成川と豊平川のあいだに工場団地を形成した。札幌本庁のおかれた今日の赤レンガ庁舎の正門より、現在サッポロファクトリーのある辺りの工業団地とのあいだを東西に結ぶ札幌通り(現、北三条通り)がメイン・ストリートで、中間に札幌農学校が設けられていた。(p.187)


開拓使が設置されたころの札幌の市街の様子。



北海道には女囚が送られなかった点を含めて、集治監設置の目的が労役にあったことはあきらかである。……(中略)……。
 樺戸集治監は、明治十五年から十八年までに500町歩を開墾した。この開拓地にのちに結社移民の北越殖民社の一部が入植することになる。空知集治監は幌内炭鉱の採鉱が主要な使役であった。明治十九年から二十六年にかけて600人から1000人以上が出役した。幌内炭鉱の使用労働者は80%以上は囚人で、良民の約四分の一の賃金で使役された。ほかに有力な炭鉱のない当時の北海道では炭鉱労働者の主力が囚人であったのである。釧路集治監の外役は跡佐登硫黄山の採黄だった。(p.201)


北海道の開拓という名の征服活動には、こうした側面もあったことは銘記されるべきである。



このようにして設立された北炭は、政府・道庁の手厚い保護にささえられていた。その最たるものは、鉄道および所属物件が24万7950円、炭鉱および所属物件が10万4368円の計35万2318円という払下げ価格である。この価格決定までに、大蔵省が異議をとなえるなど政府内部でも批判が強かった。幌内炭鉱の開発に投下された資金は、炭鉱と鉄道をあわせて229万1499円とされており、払下げ価格はそのわずか15.4%にすぎない(田中修『日本資本主義と北海道』)。また北炭は民間会社でありながら、労働力不足をカバーするために空知監獄署の囚人の継続使用を許されていた
 以後北炭は、明治三十九年の「鉄道国有化法」によって鉄道を買収されるまで、道内の石炭生産で圧倒的に有利な地位をきずいた。その最大の理由は、北炭が採鉱部門のほかに輸送部門としての鉄道を所有し、独占的に使用できたからである。このため三井・三菱・住友などの財閥系炭鉱資本は、明治四十年代にはいるまで石狩炭田への進出をはたすことができなかった。(p.217-218)


明治時代の北海道を語るに当たり、北炭の存在は欠かせないものであると思われるが、なかなかまとまった叙述は少ないようにも思う。だから、多少勉強してもなかなか理解が深まらない。ここは割とコンパクトにまとまっているのでメモしておく。



 明治二十二(1889)年に設立された北海道炭礦鉄道会社(北炭。同二十六年より株式会社)は、埋蔵炭量の豊富な石狩炭田に位置する幌内炭鉱を拠点とし、同二十七年までは、北海道庁から空知集治監の囚人を労働力として使用することを認められていた。そのうえ、採掘した石炭の輸送には幌内鉄道を自社専用線として利用できた。また、同鉄道の室蘭および空知太(滝川)方面への延長工事が完成するまでは、株金払込額に対して一カ年五朱の割合で利子補給が行われた。このため、北炭は明治中期の北海道では圧倒的に有利な状況にあり、道内の石炭生産をほぼ独占していた。いま、明治二十年代から四十年代にかけての北炭の石炭生産量を示すと上表のようになるが、この時期の道内石炭生産量の約80%は北炭によって占められていたのである。このような状況は、政府の鉄道国有化方針によって、北炭の所有する鉄道が買収される明治三十九年まで続いた。
 設立直後の北炭は、村田堤らが所有する幾春別・空知・夕張の各炭鉱を買収し、その開鉱に着手した。そして、先にのべたようにこれらの炭鉱と室蘭を結ぶ鉄道を建設し、明治二十五年に開通した。この結果、北炭は石狩炭田の主要な炭鉱と小樽および室蘭を結ぶ鉄道輸送ルートを所有することになったが、これは、そもそも設立時の北炭が「私設鉄道条例」に基づく鉄道会社であり、石炭業を兼営する会社にすぎなかったという同社の法律上の位置づけに起因している(宮下弘美「創業期の北海道炭礦鉄道株式会社」北海道大学経済学部『経済学研究』第三十九巻第二号)。(p.249-250)


北炭について。



 事実この大正中期の北海道は、262頁の表にもあきらかなように、行政上の諸制度がほぼ「内地」並みになった時期であった。……(中略)……。
 市町村制は、明治三十五年までに北海道区制と北海道一・二級町村制という府県の市町村制とはやや異なった制度が施行された。一級町村はほぼ府県の町村制に準じていたが、道内町村の大部分を占める二級町村制は道庁のきびしい監督下におかれ、その自治能力は著しく制約されていた。このような北海道独自の町村制度は、昭和期にかけて数度の改正が行われ、戦時体制下の昭和十八年に廃止されて町村制が施行されたが、従来の二級町村は指定町村として残された。これに対し府県の市制にあたる北海道区制は、明治三十二年段階で札幌・小樽・函館に勅令をもって施行された。この区制も府県の市制に準じていたが、権限は市制よりも制約されていた。市長にあたる区長が区会の議長をつとめ、道庁と同じく参事会を欠いていた。この区制は、その後旭川・室蘭・釧路にも施行されたが大正十一年に廃止され、市制が施行された。このように、北海道では都市部から制度の内地化がはかられたのである(清水昭典ほか『地域からの政治学』)。(p.260-261)


このあたりの制度もわかるようでわからないところである。



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モンテスキュー 『ローマ人盛衰原因論』

 カルタゴ人の屈服の後、ローマは、ほとんど小さな戦争しかせず、それでいて大きな勝利を収めた。これに対し、かつては、大きな戦争をしながら、小さな勝利を得ただけであった。(p.55)


ヘゲモニーを確立すると実力行使する必要がなくなることを適切に表現している。



 ローマの法律は公共の権力を非常に多くの政務官の間に巧みに分割していた。彼ら政務官はたがいに支持し、抑制し、緩和し合った。そして、政務官には制限的権力しか与えられていなかったので、どの公民がどの官職に就いてもうまくいった。(p.114-115)


権力分立による相互の監視や抑制によって適正な権力行使が可能になるという考え方はモンテスキューの著書には随所にみられる。



 カエサルやポンペイウスがカトーのような考え方をしていたとしても、他の者はカエサルやポンペイウスのような考え方をしたことであろう。滅亡を運命づけられていた共和国は、他の人間の手で破滅へと導かれたであろう。(p.123)


歴史の変化に関する一般的な趨勢と個別的な事件との関係について、モンテスキューは一般的な趨勢の方をやや重視する傾向があり、個別的な事件については、それだけでは歴史の趨勢を変えるわけではないという見方をとっている。

ブローデルはこうした見方を時間に沿って構成したし、ウェーバーは『文化科学の論理の領域における批判的諸研究』の中で定式化した客観的可能性判断という考え方を提示する際に、第一次大戦のきっかけとなった小さな事件がなかったとしても別の事件によってそれが起こりうる趨勢にあったならば、それが起こる客観的可能性が存在したものとみなすことができることを示唆していたと思われる。

モンテスキューの考え方には、こうした20世紀前半頃に成立しつつあった社会科学の考え方の萌芽的なものが見受けられるように思われる。



 弱体化してゆく国家ほど貢納を必要とする国家はない。こうして、租税を負担する力が弱くなればなるほど、租税を増額しなければならなくなる。間もなく、ローマの属州において、貢納は堪え難いものとなった。(p.208)


昨今の日本政府の状況と通じるものがある。私見では、問題は増税の必要性が生じることそのものではなく、増税の必要性を一般の人々が十分に理解することができず、「堪え難いもの」となってしまうことにあるのだが。



 われわれの許では、大事業を企てることは、古代人におけるより困難であるように思われる。大事業を隠しておくことはほとんどできない。というのは、今日では、諸国民の間の交通が発達して、各君主はあらゆる宮廷に使節を派遣し、あらゆる官房に内通者をもつことができるほどになっているからである。
 郵便制度の創設によって、通信はあらゆる場所を飛びかっている。
 大事業は資金なしにはなされないし、為替手形の発明以後は大商人が資金を左右するようになっているので、彼らの取引は非常にしばしば国家の秘密と結びついている。そして、大商人は国家機密に入り込むため虎視眈々としている。
 為替の変動は原因がよくわからないまま生じているが、多くの人々がそれを探究し、最後には発見するにいたる。
 印刷術の発明は書物を万人の手のうちにおいた。彫版術(グラヴィア)の発明は地図をかくも広く普及させた。そして、新聞事業が確立されて、一般的利害関心が十分に各人のものとなり、秘密の事柄もずっと容易に理解されるようになった。
 国家内部における陰謀は困難になった。なぜなら、郵便制度の創設以来、個々人のあらゆる秘密は国家権力の手のうちにあるからである。
 君主は、国家の兵力を掌握しているので、敏速に行動できる。陰謀者の側は、あらゆるものを欠いているため、緩慢に行動することをよぎなくされている。しかし、今日では、あらゆることがより容易にまた迅速に明らかになるので、陰謀者がどれだけ準備のための時間を切りつめても、発覚してしまうであろう。(p.240-242)


情報と権力の関係について興味深い考察がなされている。

ここでは情報は政府の権力が掌握できるという前提に立ち、当局側に有利なものとして叙述されているが、昨今の情報、例えばウィキリークスやfacebookなどを巡る言説では、むしろ「陰謀者」に有利な面が強調されている。

ただ、グローバルにヒト・モノ・カネが飛び交う状況が進展しつつあったモンテスキューの時代に情報の意義が認識されていたということは、昨今の状況とも通じており興味深い。



 大きな河川に水路がつけられてから、それらの沼はなくなり、ドイツは様相を変えた。ウァレンティニアヌスによるネッカー河の工事、ローマ人によるライン河の工事は、大きな変化をもたらした。商業が確立され、馬をもたなかった国々もそれを手にして、利用するようになったのである。(p.245)


興味深い指摘。事実関係について確認していきたい。



 聖像をめぐる論争をこんなにも生々しいものにし、次の段階では、分別ある人々にも温和な礼拝を奨励できなくさせたのは、この論争がまさに世俗的な事柄と結びついていたからである。すなわち、それは権力の問題であった。権力を簒奪していた修道士たちは、自分たち自身がその対象の一つとなる外面的崇拝をこの権力に絶えず付加してゆくのでなければ、権力を増大させることも、維持することもできなかったのである。ここに、聖像に対する戦いが常に修道士に対する戦いとなった理由がある。そして、修道士たちが優位に立つと、その権力は際限のないものとなった。(p.248)


宗教的な現象のほとんどは政治的な現象である。このように見れば(特に歴史上の)多くの「宗教関係の」現象について、容易に理解できるようになる。


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伏見憲明 『男子のための恋愛検定』

「恋」なんて一生のうちいつでもできるが、思春期にすべきことはそのときにやらなければ意味がない。(p.15)


本書の基本的なスタンスはこのあたりに表れているように思う。

思春期の中学生や高校生向けに恋愛という問題が、一般に流布しているようなバラ色のものではなく、至上の価値を持つわけでもないということを批判的に考えさせ、制御困難な恋愛感情に伴う失敗を避けることができる知恵を持つように勧めるというのが、本書のスタンスであるように思われる。

思春期の子供が本書を手に取ることはあまり多くないように思うが、思春期やそのすぐ手前の子供を持つ親が読むとちょうどいい内容の良書である。



 しかし、「恋」以外にも尊い感情はある。誰か困っている人のために検診する気持ちは美しいし、国や社会のために尽くそうという志もすばらしい。親に孝行することも、友だちといっしょに何かを作り上げていこうとする意志も、「恋」に負けずとも劣らない価値がある。あるいは、大自然の壮大さや神秘に心を打たれることだって、まったくもって豊かな情感である。
 にもかかわらず、「恋」は、他の何よりも憧憬されるし、人々によって求められてもいる。流行りの歌のほとんどは「恋」の歌だし、ドラマや映画でも「恋愛」が出てこない作品はめずらしい。雑誌を見ても、「恋愛」はしばしば特集されるし、デートスポットの記事は欠かせない。そうした「恋愛、恋愛」の大合唱の声に耳を傾けていると、誰もが「恋愛」をしなくてはいけないような気分になってくる。「恋人」がいなければ自分が劣った存在のようにも思えてくる。ましてや、「恋心」自体がピンとこない人だったら、そんな自分はふつうじゃないかもしれない……と疑問を抱くかもしれない。
 けれども、そうした「恋愛」への熱狂は、普遍的な現象ではない。(p.20-21)


現代社会では様々なメディアを通して「恋愛」が消費されている。極めて強い感情を引き起こすものであるために強力な商品として流通している。そのための宣伝は、恋愛の価値が至高のものであるかのように装われ、特に若い世代に向けて発信される。それに対して批判的に捉え返すだけの力を持たない人は、特に教育水準が低ければ低いほど、その恋愛至上主義のイデオロギーにそのまま染まりやすい傾向がある。

そのような価値観に駆動される人が多く存在することによって、様々な商品(奢侈品)が消費される。恋愛を題材とした物語(ドラマであれ、マンガであれ、映画であれ、何であれ)やカップル向けのデートスポットを紹介する記事(テレビであれ、雑誌であれ、何であれ)を見ることによって、その中に登場する「おしゃれ」なアイテムが欲しくなり(場所に行きたくなり)、それらの宣伝媒体としての効果を持つ。(これに近いことはゾムバルトがすでに書いていたように思う。)

こうした要素に対して批判的なメディアや論調はほとんどないから、本書のような恋愛論は貴重である。



「恋」する者は、自分と同程度、相手も自分のことを気にかけていると思い込みやすいのである。
 だから、それがさらにマイナスの方向に展開すれば、昨今の若者の犯罪のように、送ったメールに返事が来ないというだけで逆恨みして、暴力沙汰や殺人事件を起こす事態も想定できなくはない。相手にしてみたら、忘れていただけかもしれなくても、返事をもらえないキミは、こんなに好きなのにどうして返信くらいよこさないのか、と不信を募らせ、殺意まで抱くわけだ。こちらがこれだけ思っているのだから、彼女もそれに応えて当然、という都合のよい理屈がそこにある。それは自分が愛されたい、という願望の強い表れだろう。
 ……(中略)……。ある意味で、「恋」は相手など関係ない、自分自身の欲望なのだ。(p.38-39)


「恋」という感情は自己中心的な思いに過ぎない。「相手を思いやることを含む行為」としての「愛」と理念型的に区別して考えると整理しやすいというのが、私見である。



 テレビドラマのパターンは、ここ数十年の「恋愛ブーム」に乗っているだけに、親たちよりも「恋」する者たちの側を正義とする傾向が強い。けれど、それは「恋愛」をひいきしているかもしれない。「恋」を賛美しすぎているかもしれない。第二次大戦後、「恋愛」は古い因習から人々を解放するものとして、もてはやされた。以来、愛によって自由のない社会や頭のかたい家族と闘う、というテーマの映画や小説作品がいっぱい作られた。自由な「恋」によって、民主的で、すばらしい未来がもたらされると信じられたのだ。でも、やはり、なんでもかんでも「恋」する者たちに味方するのは、いきすぎた「恋愛至上主義」だろう。(p.42)


現代のメディアが持つ偏りを的確に指摘している。こうした批判的な論調がもう少し社会の表に出てこればよいと思うのだが。



嫌われることを恐れすぎるとかえって嫌われる、という法則が『恋愛』にはあるそういうとき、キミは自分が傷つかないことを第一に考えているのではないか。傷つけたらどうしよう、とか、気に入られなかったらどうしよう、とか思っているだけで、それは、相手と自分が異なる存在だということを前提にして、共感をふくらませていくこととは違う。共感というのは、違う部分を認め合いながら、歩み寄れる部分をつなげていく作業だ」。(p.48)


こうした自己中心性を相対化し、他者と私との共感関係を構築していくこと、それを通して人間として成長していくことが、「恋愛」の実践的な意義であることを本書は説いていると思う。ただ、こうした関係を築くことによって成長していくだけであれば「恋愛」でなくてもよいということを考えると、やはり必ず必要なものであるとは言えないのだろう、とも思う。子供を育てるということを通しての成長もあるだろうから、そこに至るための準備段階の訓練という位置づけで捉えてもよいのかもしれない。

(ただ、思春期の若者向けの内容としては、そこまで述べてもピンとこないだろうから、本書が記載する内容まででとどめておいてよいとは思う。また、恋愛なしでも子供は産まれることがあるが、そうして産まれた子供は人間として十分な成長を遂げていない親に育てられる点で不幸であると言いうることが多いし、私自身は原則論としてはそのように捉えている。)



「独占欲」と嫉妬は裏腹の関係になっている。「独占欲」があるから嫉妬は生まれるし、嫉妬がない「独占欲」はありえない。
「恋人」に送ったメールになかなか返信が来ないとイライラしたり、ムカついたりするのは、もしかしたら自分よりも大事な人ができたのではないか、とか、いまその人といっしょに過ごしているのではないか、と不安になるからだ。「恋愛」はつねに、他人がそこに割り込むのではないかという不安につきまとわれている。
 そして一方的に「独占欲」を募らせていくと、それは支配欲にもなりかねない。(p.57)


嫉妬するという感情やそれに基づく行為が醜いとすれば、それは独占欲と表裏一体の関係にあるからだろう。そこには所有欲に転化する要素もあると思われ、相手をモノとして扱うことにも繋がり、ここで支配欲へと転化する道も開かれるように思われる。



これまであげてきた「好感」「ときめき」「独占欲」「性欲」「憧れ」「尊敬」「共感」「承認」……のどれが入っていれば「恋」になるのか、どれとどれが欠如すると「恋」ではなくなってしまうのか。あるいは、どれかの組み合わせによって何か化学変化のような現象が生じ、そこで生み出された成分Xが、「恋」の素になるのか。どちらにせよ、「恋」にいくつもの感情が絡み合っていることは間違いない。そして、おおよそ「恋」の基本成分はこれまでに述べたものたちだろうと、ぼくは思う。(p.67)


この「恋の基本成分」という考え方は、本書の議論の中でもなかなか面白いところだった。本書のように成分を割合で示して分析するというの現実には難しいだろうが、それでも「恋」の中身、「恋」に求めているものは人によって異なるということを説明するには割と具体的にイメージしやすい説明方法だと思う。それ以外のことを説明する際にも、こうした手法は応用できるかもしれない。



つき合うとは、互いの求めるところを持ち寄り、調整し、納得し合う行為なのだ。(p.72)


こうした調整を伴う交わりによって各自が成長していくプロセスというのが、恋愛関係の醍醐味の一つであるように思われる。まぁ、恋愛に限らないというのが本来の私の見解だが。



彼氏に対する女子の不満で、「好きって言葉でいってくれない」というのがよくある。女子の文化の中では、そうした愛情確認の作業は、「恋愛」というゲームをロマンティックに演出する行為として重要だけど、男子にしてみたら、そんなことを口にするのは恥ずかしいし、めんどうだと感じるものも少なくない。どちらが正しいわけではない。それは何が快になるのかの感じ方の違いだから。けれども、なんらかの形で歩み寄らないかぎり、その文化の溝は埋まらない。自分らしくいるだけでは、つき合いは成立しないのだ(p.73)


長期間パートナーがいない人のほとんどすべてがこのように「自分らしくいるだけ」の状態に甘んじているように思われる。それでも成長(生に伴う変化)があるならば、良いとは思う。恋愛のパートナーではなくても他の社会的な関係の中でも成長は可能なはずであるから。

ただ、この成長が欠けているならば、その「自分らしくいる」状態は自己実現的な状態ではなく、むしろ「自分の殻に閉じこもっている」防衛的な状態ではないかと自問する必要はあるように思われる。



「恋愛」の相手を選ぶときには、人はさまざまな面を総合して結論づけている。思いの純粋さだけを基準にしているのが正しくて、その他のことを考慮するのは打算だ、と非難するのは、人間というものを単純にとらえすぎているだろう。(p.105)


「恋愛至上主義」が流布される中では、その至上性を浸透させるために、こうした「純粋さ」を称揚することになる。だから、恋愛を相対化できていない人ほど、この「純粋さ」にこだわる傾向があるように思われる。

まず、「純粋さ」というのは、ある意味で美しさを感じさせるものではあるが、「純粋さ」は常に「排他性」を伴うものであるから、必ずしも美しいわけではないと私は評価している。

また、現実の世界には「純粋」なものは、ほとんど存在せず、その多くは操作によって作られるか、想像によって想定されるだけである。「純粋な感情」も同じで、現実の世界には(ほとんど?)存在せず、操作によって作られるか、想像によって想定されるだけである。したがって、それを基準にして現実を非難することは、現実にはありえない基準によって裁いていることになり、著者が言うように「単純に捉えすぎている」ということになる。



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