アヴェスターにはこう書いている?
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李乾朗 『台湾建築閲覧』

清初施瑯曾禁止客家人入台,所以閩南人取得優勢。但一些地區顯示早期客家人偷渡入台,並且積極地開墾台灣。(p.15)


清代初期に施瑯曾が客家人が台湾に入ることを禁止した。そのため閩南人が優勢となった。しかし、一部の地区は早期に客家人がこっそりと台湾に入り、積極的に台湾を開墾したことを示している。



佛教寺廟在日治時期,數量顯著上升,蓋因日人亦多信佛,具倡導之用。(p.75)


日本人もまた多くが仏教を信仰しており、率先して提唱する(布教する?)ために用意したので、仏教寺院は日本統治時代に数が顕著に増えた。

政治と宗教の結びつきの事例の一つだろう。なお、日本統治時代には道教は逆に抑圧されたというのも別の本で読んだ記憶がある。中国の影響を断ち切ろうとすることは台湾における日本統治の一つの傾向である。なお、縦断鉄道の敷設もそうした効果を持っていたとされている。



 至1920年代適逢台灣經濟景氣良好,各地與起改築之風。眾所周知的台北艋舺龍山寺,保安宮,木柵指南宮,新莊地蔵庵,桃園景福宮,新竹城隍廟,中港慈裕宮,台中樂成宮,豐原慈濟宮,鹿港天后宮,朴子配天宮,嘉義城隍廟,台南大天后宮,武廟及鳳山龍山寺等皆面臨大修建。在大修建期間,匠師亦隨之活躍起來,除了台灣本地的匠師外,中國閩粵地區也來了不少名匠。匠界人才濟濟,互相切磋觀摩,也互相競爭。(p.84-85)


1920年代には経済状態が良くなったため建築の改修ラッシュが起こり、そこで職人たち相互に切磋琢磨や競争があったとする。



 台灣匠師如果追溯師承,當然也是唐山師父之傳人,只不過在日據之後,台灣與彰泉及粵東往來漸疏,台灣匠師得到獨立發展之機會。現在台灣匠師與中國匠師處於競爭的立場了。(p.85)


ここにも日本統治時代に中国からの影響の低下が見られる。そして、それが台湾の台湾化にもつながっているという流れがこうした建築職人の分野にも反映しているように思われる。



 回顧歷史,清代的台灣建築文化,仍然是以閩粵傳統為安心立命的根本,外來的形式雖然能為人們接受,但並未蔚然成風,只有特殊的軍事防禦工程或機械設備全盤西化;至於民間的建築仍根植於生活習俗,廳堂院落仍然是生活的場所。換句話說,西風只吹到表面的柱頭花飾,吹不到祖宗廳堂與臥室。(p.120)


まぁ、「和魂洋才」のようなものか。以前からあった建築伝統に新しく加わるような形で西洋風のスタイルが入ってきたが、台湾ではこれらをどのように折衷していくか、という傾向が強かったようだ、というのが本書を読んだ印象として残っている。今後は実物を見ながら考察していくことにしたい。


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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

西澤泰彦 『日本植民地建築論』(その3)

亭仔脚については、マレー半島やシンガポールでの、前面にアーケードが設けられたショップハウスと呼ばれる建築と同じ形態であるが、都市建設の中で行政が積極的に導入した19世紀前半のシンガポールのアーケード、歩道の不法占拠を19世紀後半に合法化した香港のアーケード、という具合に成立過程は異なり、台湾でも、日本の植民地化以前に清朝の台湾巡撫として台湾に滞在した劉銘伝がアーケードを導入しようと試みていた。ただし、ここでの大きな問題は、亭仔脚の起源ではなく、この建築規則を公布した時点で台湾総督府が積極的に亭仔脚を奨励し、その建設を義務付けるかたちで、各地への普及を図ったことである。そして、実態として、台北における市街地再開発を通して、新しい亭仔脚が次々と建てられた(図4-12)。実際に建てられた亭仔脚を見ると、赤煉瓦を用いたものは、赤煉瓦をむき出しにした壁体をつくり、クィーン・アン様式をとっているものが多く、それは結果として、煉瓦造の街並み、洋風の街並みを出現させることとなった。(p.301)


アーケードの起源やそれが街並みにもたらす効果。また、建築規則が街並みにもたらす効果。これらについての興味深い事例。



 このように台湾家屋建築規則とその細則について、総じていえることは、これらの規程が、個々の建物が持つべき最低限の居住性を確保しながら、それらによって構成される市街地の不燃化、衛生、利便性、美観を考えていたことである。(p.303)

 このようにして実施された大連市家屋建築取締総仮規則は、個々の建物の構造や規模を規定しながら、都市全体の不燃化と美観を確保するものであった。それは、結果として耐火性能のある煉瓦造の建物が推奨されることとなり、また、構造が煉瓦造になったので建物の様式は洋風となり、軒高の最低限を定めたことで幹線道路に面した建物の高さが揃うこととなったのである。そして、この規則は、1919年7月1日に大連市建築規則が実施されるまで効力を持ち、それによって、大連は煉瓦造洋風建築が建ち並ぶ都市となった。(p.309)

 また、これら多くの建築規則には、市街地の美観という言葉と概念が盛り込まれた。その具体的な規定として見られるのは、建物高さの最低限を規制すること、前面道路幅員に応じて建物の高さを制限することであった。これによって、道路幅員に応じた規模の街並みが形成されつつあった。これは、都市の美観維持という発想であり、後に満洲国政府による容積率制限が導入されるに及び、その発想は、都市空間の創造という概念に変わった。
 そして、建物と都市の不燃化のため、実質的に進められた煉瓦造の奨励は、その結果、建物が洋風建築として建てられることになり、洋風の街並みが出現した。特に徹底的に木造建物が排除された中国東北地方では、大連や鉄道附属地沿線にその傾向が強かった。そして、大連など中国東北地方で出現した建物高さの最低の制限によって形成されたスカイラインと煉瓦造の建物が建ち並ぶ街並みは、関東都督府や満鉄にとって、その支配能力を欧米列強諸国と被支配者である中国の人々に見せつける場となった(図4-13、図4-14)。(p.332)


個々の建築を規制しながら都市の不燃化、衛生、美観などまでデザインする力を持つ建築規則の影響力に興味を惹かれた。

また、都市の不燃化が煉瓦造の構造を採用させ、それが洋風建築が並ぶことに繋がったとするのも面白い。前のエントリーでも取り上げた小樽の場合は煉瓦造も作られたが木骨石造という構造が採用され、結果として外観は石造の倉庫が並ぶこととなった。煉瓦造ではないが洋風であることには変わりない。鉄筋コンクリートが普及する以前の不燃化は基本的に組積造となるが、日本にはそうした蓄積がないため欧米から導入された技術で建てられることとなったわけだ。

小樽の木骨石造倉庫群についても、大連や台湾などと同様に建築規則の影響が見いだせるだろうか?なかなか興味深い問題である。(同じ港町でも函館や舞鶴は煉瓦造が多そうな気がするが、小樽だけ木骨石造が群として残っているのには何か理由があるのか?(地震の少なさなど幾つかの理由は容易に推測できるが。)



テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

西澤泰彦 『日本植民地建築論』(その2)

 新築された関東州庁舎(図1-11)は、鉄筋コンクリート造地上四階建で、延床面積約2,655坪(約8,763平方メートル)という建物であった。正面中央に車寄せのついた正面玄関をとる左右対称の正面のつくり方は、当時の日本国内のみならず日本支配地における官衙建築の典型的な外観と共通するが、多くの官衙建築が、バロック建築の正面の作り方に依拠して、正面中央だけでなく左右両端にも出入口を設け、ペディメントを付したり、手前に張り出すなどして両端部分も強調される外観であるのに対して、関東州庁舎では、全長124メートルにもおよぶ長大な正面にもかかわらず、両端部の正面側に出入口がなく、また、両端部が手前に張り出すこともない。また、正面中央に車寄せを設け、その後方に二層を貫くジャイアント・オーダーを付けているのは官衙建築の典型的な手法ではあるが、この時期の多くの官衙建築が正面中央に塔屋を立てているのに対して、この関東州庁舎にはそのような塔屋がない。さらに、この庁舎の平面(図1-12)を見ると、一階・二階は中央後方に食堂や正庁が突き出しているものの、三階・四階には突き出た部分はなく、南側に諸屋をとり、北側には東西に廊下が延びるという「片廊下」形式の平面であり、そのため、建物の間口に対して奥行きが極端に小さい建物となっている。これは、当時の官衙建築によく見られる中庭を建物が取り囲むようにしたロの字型、日の字型の平面とは大きく異なる平面であることがわかる。これは、敷地に余裕があり、あえて、平面形状は中庭を取り囲むようなロの字型や日の字型にする必然性がないためであると考えられる。(p.71-73)


関東州庁舎の建設は1937年(昭和12年)のこと。

私が見てきた歴史的建造物の中では、小樽市の庁舎が1933(昭和8)年竣工だが、左右対称で正面に車寄せがあり、その後方に装飾的なジャイアント・オーダーがあり、両端にも出入口がある点などはここで述べられた典型的な官衙建築と共通している。塔屋がないことや両端を強調する装飾がないことなどはここで述べられているものとは違うが、本書の記述のお陰でかなり当時の官衙建築についてのイメージを明確にすることができたと思う。



客溜りの上部を吹き抜けにする方法は、台湾銀行本店でも紹介したように19世紀後半から今日に至るまで、規模の大小を問わず、銀行建築では一般的に行われる方法である。その場合、吹き抜け周囲の二階部分は、吹き抜けを取り囲むように、ギャラリーが廻っていることも一般的な方法である。(p.128)


言われてみればその通りであると気づいた。上の引用文と同様に小樽市の事例で言えば、日本銀行旧小樽支店や旧三井銀行小樽支店はこのようになっていた。典型的な手法についての知識――これは理念型のようなものとして機能する――があると、それとの差異によってそれぞれの建物の特徴を捉えることができて便利である。



 一方、台湾では、日本資本による製糖会社が、それぞれの工場を核としながら、その周囲に社宅だけでなく、社宅と一緒に生活必需品を扱う商店や理髪店、集会所を設け、社員の生活が成立するように市街地を建設していく。この手法は、鉄道附属地で市街地建設を進めた満鉄が、社宅だけでなく図書館や病院、倶楽部といった公共施設を建設して、社員の生活の場を確保していったことと類似する。
 結局、植民地などの支配は、単なる政治的・軍事的支配によって成立するものではなく、経済的・文化的・社会的支配という形態が存在し、それらが両輪の如くかみ合った上で成立するものであるといえよう。(p.148)


こうした資本による産業用の人工的な街の形成は、台湾の九份・金瓜石の金鉱や北海道の石狩炭田にある炭鉱でも起こったことであった。大規模な資本の投下が必要な産業で、特定の土地で集中的に行う必要がある場合に一般的にこうした現象が見られたと言うことができるように思われる。



 その後、1906年には中等教育機関として国語学校中学部の校舎と寄宿舎の建築費が確保され、煉瓦造二階建の校舎と木造二階建の学寮(寄宿舎)が1907年から1911年にかけて建設された。……(中略)……。また、対島民関係とは、日本国内の中等教育機関の校舎よりも立派に見える校舎を建てることが、台湾総督府による台湾支配にとって必要であったことを意味している。すなわち、あえて贅沢な校舎を建設したということができる。(p.191-192)


なるほど。1年ほど前に台湾に行った際、いくつか日本統治時代に建設された学校建築を見てきたが(例えば、現・立法院や現・台北当代美術館)、それらがいずれもあまりにも立派だったことに驚き、なぜここまで立派なのか不思議に思ったものだが、ようやくその意味が理解できた。



このうち、1928年6月竣工の法文学部本館(図3-6)は、鉄筋コンクリート造三階建の建物で、外壁にスクラッチタイルを貼っていることや三連アーチの玄関、最上階のアーチ窓からつくられる外観は、当時、震災復興で校舎を建て替えていた東京帝国大学の一部の建物をはじめ、九州帝国大学や北海道帝国大学の建物にも見られる形態である。(p.196)


京城帝国大学についての記述より。同じ時期の大学の校舎にも共通のデザインが見られるというのは面白い。確かに、北大の旧理学部(現・総合博物館)には最上階のアーチ窓があり、農学部は車寄せが三連アーチの玄関になっている。



 駅と駅前広場が、都市において特に大きな役割を果たしたのは、満鉄沿線の駅であった。満鉄の定款には、沿線の鉄道附属地において都市建設を行うことが会社の使命として記された。そこで、鉄道附属地における満鉄の都市建設は、駅を市街地の核とし、さらに市街地の別の場所に広場を設けて、駅とそれらを結ぶ道路を幹線道路としたことであった。その典型は、奉天や長春における満鉄鉄道附属地での都市建設であった。(p.231-233)


ヨーロッパの場合、駅舎は市街の中心には入ることができない事例が多いが(私の脳裏に典型として浮かんでいるのはパリ)、それ以外の地域では駅が市街の中心になっている事例がしばしばある。鉄道が敷設され、駅舎が立てられる時期の社会的な条件の違いが市街地の形成にも影響していることがわかり興味深い。

ヨーロッパの場合は植民地化や半植民地化されることがなかったため、植民地化されることに付随して新しく都市が建設されたりすることがなかったということが関係しているように思われる。



後に台北城の城壁が撤去され三線道路と呼ばれる広幅員の道路が建設されると、台北駅前は旧城内の市街地と一体となった。そして、この駅前広場から南に延びる表町通の突き当たりには台北公園があり、その正面に台湾総督府博物館が位置している構図は、市街地を貫く街路の両端に公共性の高い建物を置くというバロック的都市計画の典型的な手法と同じであった。なお、こjの台北駅は、1938年から1940年にかけて、鉄骨鉄筋コンクリート造で建て替えられた。(p.239)


台北城内の都市のパターンがバロック的な都市の手法を用いているというのは面白い。



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西澤泰彦 『日本植民地建築論』(その1)

 そのようなヨーロッパにおける建築の状況を踏まえて、20世紀前半の東アジア地域の建築を考えるとき、そこには、従来の東アジア諸国・地域が持っていた建築文化の伝統と19世紀後半から流入し続けるヨーロッパ建築の影響が存在し、かつ、建築を産み出す人間にとって、それらの相克と融合が問題になる。よって、東アジア地域における20世紀前半という時代設定は、そのような地域外からの影響と伝統的な建築文化が併存しながら、新しい建築を産み出していく時期であり、この地域の建築を歴史の視点から捉えるとき、建築の様式・意匠、構造・材料、機能・用途、技術、組織という点において、それぞれに大きく変化した時期であったということができ、建築における世紀の転換点であった。それは、建築を論じる上で大きな意味を持つ時期であったということができ、建築における世紀の転換点であった。それは、建築を論じる上で大きな意味を持つ時期であるといえる。(p.11)


技術的な変化と様式の変化、グローバル化による各地の伝統の創造と融合があったというあたりが、この時代の建築の面白さであるように思う。

ただ、ヨーロッパ中世の建築や中東のイスラーム建築などと比較すると、空間を体感することについての配慮はごく少なく、形だけで飾られた建築という印象も個人的には強く持っている。その点での物足りなさは残念なところである。



 結局、日本の建築史上にも、それぞれの国や地域の建築史上にも位置づけが可能なこれらの建物は、実際には、第二次世界大戦後の約40年間、どちらからも扱われることなく、どちらからも建築上に位置づけられないという「逆の二面性」を持つものとなった。(p.12)


植民地建築が、本国である日本の建築史上からも、当時の日本の支配地の建築史からも扱われてこなかったことを指摘し、その穴を埋める研究を行う。

本書の植民地建築についての研究のサマリーを読むと、それが一般的なポストコロニアル・スタディーズの進展と並行していることがわかるが、植民地建築はスピヴァクの言う意味でのサバルタン(通常は下層民などの意味だが、彼女はこれを「自らを語ることができない者」であるとする)と似た側面を持っているように思われた。

そのサバルタン的な建築をして語らせようというのが本書の研究である。もちろん、植民地建築の多くは支配する側と密接にかかわっているという意味でサバルタンとはかなり違う側面も多く持っているが。



 ところで、『全調査東アジア近代の都市と建築』が刊行される遠因となった書籍が二点ある。一つは村松伸・西澤泰彦編『東アジアの近代建築』(村松貞次郎先生退官記念会、非売本、1985年)であり、もう一つは加藤祐三編『アジアの都市と建築』(鹿島出版会、1986年)である。これら二冊と『全調査東アジアの都市と建築』とを比較すると、これら二冊に示された建築の情報は、不確定なことがあまりにも多く、1980年代半ばでの研究水準が、いわば「駆け出し」の状態であったことがわかる。特に、建物の名称や建築年は、皆目わからない状況であった。ところが、それから10年が経って発行された『全調査東アジア近代の都市と建築』によって、19世紀以降の東アジア地域における建築の変遷などについてその大枠が示されるに至った。わずか10年で研究が大きく進展したのである。(p.18)


ポストコロニアル研究と同じ傾向と言えよう。ソ連崩壊などによって調査を妨げる環境がなくなったことや、冷戦の恐怖によって封殺されてきた植民地化の歴史を語ることが解放されたことが背景にある。



 一方、台湾では台湾総督府が主力産業である製糖業を奨励したため、日本資本の製糖会社が多数参入し、地元の零細な製糖業者は駆逐され、独占化が進んだ。これは、台湾総督府という「官」の機関が製糖業を直接行うわけではなく、「民」である日本資本の製糖会社に製糖業の進展を委ね、独占化を促す、という構図であった。(p.34-35)


台湾の製糖業の展開については後に少し詳しく調べる機会を持ちたい。


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高田亜紀 『台湾風』

 台湾人がイン(食べても平気)と思う食物
「カエル、蛇、豚の脳と耳と腸と……ほとんど全身、鶏の睾丸とお尻、ガチョウ、すっぽん、鴨の舌と首と脳など」
 台湾人がアウト(気持ち悪い)と思う食物
「犬、馬刺し、イカの塩辛、とろろ、△活け魚造り、△白子、△生卵、△納豆など」(△は一部の人は食べられる物)(p.36)


このあたりの感覚について、台湾人の友達に今度聞いて回ってみたい。



日本統治時代は台湾人の家庭でも日本語を話すことが奨励され、完全に日本語を話す家の門前には「国語家庭」という札が下げられた。(p.56)


「国語家庭」がどんな家庭だったか、ということも日本語世代がまだ残っているうちに聞いておきたいところだ。



 台湾人が多種言語を話せるようになったのは、林さんの例に代表されるように別に自分が望んだからではない。ただ結果としてそうなっただけだ。
 しかし、反対に失われたものは計り知れない。
日本では、1000年前に書かれた「源氏物語」が今も読み継がれているが、台湾ではそうはいかない。はるか昔原住民の言語、閩南語や客家語、日本語とすべての言語は文学芸術が十分台湾で花開く前に、他言語に侵されてきたのだ。特に方言は確立した文字表記法を持たないので、台湾のわずかな言語文化遺産は現在口伝以外は全て北京語になおして伝えるしかない。(p.58-59)


失われたものに着眼しているのが良い。



 それにひきかえ日本は平和である。なぜ日本人は外国語ができないのかと言えば答えは簡単。外国語が出来なくても生活に困らないからだ。
 日本語だけ話せればまともに就職できるし、その給料で一家を養える。海外平民しなくても身は安全。
 ……(中略)……。
 つまり日本人が外国語が出来ないのは、日本に国力があるからなのだ。その証拠に例えばアメリカ人なぞ、そのほとんどは英語以外の言語を懸命に学んだりしないし、それを何とも思っていないだろう。言葉、そして国語は、その国の歴史と文化と経済力を反映したものである。(p.59-60)


概ね同意見である。外国語なり第二言語を習得する必要性が少ない社会にいるため第二言語を習得している者が少ないという点は特にそうである。その必要性の有無にとって経済的な要因がかなり大きく関わっているという点も正しい指摘である。

少し前にインドに行ったとき、10歳の少年が「(自称)観光ガイド」をしており、7-8か国語を操っていたが、それなども必要性があって学んだものであるのは明白であった。日本の今後について考えると、英語のほか、ビジネスのためにも中国語の重要性が以前よりも増してくると思われる。私も中国語を少し学んでいるが、そうした社会的な背景が学習環境の有無など様々な点で作用していると見ることができる。



 なおここで少し解説しておくが、台湾の株式市場は小さい。それゆえにちょっとした外的要素で株価が簡単に上下する。アメリカ市場に連動しているのは仕方がないとしても、その他政治家や有名実業家の発言、噂、天災など、上場企業自体の業績や景気動向といった本質以外のことにあっさり左右される。
 だから、うまく波をつかまえれば一週間とか短期間に儲かることもある。そのあたりが、人々を惑わせるようだ。(p.73)


貯蓄や資産の運用などについてしばしば「国民性」などという意味不明(正体不明)の言葉を用いて語る俗論があるが、大抵のことにはこうした社会的要因があり、ほとんどのことがこうした説明でより合理的に説明できる。社会現象を説明するときにはこうした説明はほとんど不可欠であり、本書のようなエッセイでもこうした点に触れられていることは評価に値する。しょうもないエッセイの中にはこうしたものに触れずに安易にいい加減な意見を述べるものがあるので要注意である。



 私「あのう、マンガ台湾論の論争とかありましたけど、実際林さんより上の世代の方は日本統治時代をどう思っているのでしょうね?」
 林さん「うーん。それはちょっと一言では難しいね。まあ一般的に言うと、当時中産階級以上だった人達は、秩序ある生活が送れてけっこういい印象を持っているみたいだね。でも、農民層はみんな小作農として働かされていたから、すごく生活が苦しかったんだ。国民党の時代になってやっと農地解放されたから、そういう人達は日本統治をよく思わない人が多いみたいだよ」
 私「そうですか。でも、日本統治のお陰で就学率が90%以上になったと言われていますよね」
 林さん「あのね、当時小学校には日本人が行く『小学校』と台湾人が行く『公学校』という二種類があってね、台湾人はよっぽど強力なコネがない限り小学校へは行けなかったんだ。普通の台湾人は公学校へ行ったんだけど、こっちの方はそんなに就学率が高いわけないね。名簿上に名前だけはあったかも知れないけど、みんな貧しい上に兄弟が沢山いて学校なんか行けない子が多かったよ」(p.112-113)


公学校には必ずしも多くの生徒が通学できたわけではなかったというのは、なるほどと思わせる。昔NHKで放送していた「おしん」ではないが、当時は「内地」でもそうした子供は結構いたようだ。



 まず、日本統治を経験した本省人は親日的な人が多い(ただし、反日感情を持っている人もいることは「日本人と台湾人の会話」で書いた)。
 なにしろ昔は自分も「日本人」だったのだから、彼らが本当に日本の心を理解しているのは間違いないだろう。だが、彼らが好むのは思い出の中の古きよき日本であり、現代日本とは大きな隔たりがあることは否めない。
 ……(中略)……。若者たちが愛しているのは日本のサブカルチャーであり、彼らにとってやはり「日本」は消費の対象に過ぎない。
 今は日本に好感を持っているが、もしこの先「日本」が消費価値のないものとなったらそっぽを向いてしまう層である。

 結局、日本から50年以上前の台湾統治の思い出と日本製品を除いたら、どれだけの台湾人が「親日」でいてくれるのか?
 つまり台湾に漂う「親日」の空気は堅固なものではなく、風向きによってすぐ揺らいでしまうものだということを日本人は知っておいたほうがよい。
 日本に限らずどこから来た人でも、客ならば手厚くもてなし、その長所を誉め称えるのが台湾の流儀であり、台湾人は別に日本人を崇拝しているわけではないのだ。
 だが、何だかそこのところを勘違いしている人がいるようである。(p.120-122)


同意見である。尖閣諸島の領有問題を巡っては中国だけでなく台湾でも抗議行動が起こることがあるが、「親日」の内容が以上のような「古きよき日本」や「日本のサブカルチャー」を中心として構成されていることを踏まえれば、理解は難しくはない。このような構図は台湾だけでなく、中国にも似たような形であてはめることができる。「日本」などという実体がないものを表している用語(これはすべての主権国家に当てはまることである)を、あたかも一つの単独の実体であるかのように言語上で扱っていることが、様々な錯誤の要因の一つとなっている。このあたりの概念操作の方法については、学校教育でもきちんと教えられるべきものだと考える。



 ちょっと意外なのは、今でも日本時代に持ち込まれた畳を好む台湾人がいることだ。我が家にはないが、たまに広い新築の家で畳敷きのスペースをリビングの一角に設けていることがよくある。だが、同じ日本様式でも押し入れが台湾に定着しなかったことは残念だ。(p.192-193)


確かに、私が以前泊めてもらった日本統治時代を知る台湾人の家はリビングの一部に6畳分の畳を敷いて使っていた。あれを初めて見たときは少し衝撃的だったが、本書でも言われているように台湾では結構あるスタイルのようだ。

なお、押入れがないのは、本書でこの後で指摘されている理由(台湾ではスペースを買うので収納は最初からついていない方がよい)というだけでなく、日本以上に高温多湿な気候も関係しているのではないか、という気がする。




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