アヴェスターにはこう書いている?
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林雅行 『台湾金鉱哀歌』

台北から日帰りする人がほとんどだが、私は是非、泊まるのをすすめる。
 九份の景色は朝・昼・晩、いや2時間ごとに変化するからだ。朝もや、夕暮れ、夜景は宿泊してこそ堪能できる。特に夜景は幻想的だ。(p.19)


時間を十分取って台湾に行くときは九份での宿泊も検討したいところだ。まぁ、当面のプライオリティから言うとそこまで割くのは難しい気がするが。



 ゴールドラッシュが去っても、ゴーストタウンにならなかった街。国から援助もなく、自力で街を活性化させた九份。国の援助をあてにする日本と違う。そこで思い出したのは、イタリアのボローニャという街。文化・芸術都市として有名だ。ボローニャは、戦争後、アメリカのマーシャルプラン(欧州復興計画)を受けることができなかった。市長が左翼系だったため、対共産圏戦略としてのマーシャルプランからはずされた。街としてどう生き残るかを思案したうえ、考えだされたのは、文化・芸術都市だった。長い目で街をおこす知恵が生まれた。九份にもボローニャ的発想?(p.45)


ボローニャがマーシャルプランからはずされたというのは知らなかった。

ただ、本文の記述に対しては行政の支援を受けるかうけないかという二分法的な考え方が陥りがちな罠にはまっているという批判はしておく。ボローニャが復興したのは文化・芸術都市として町おこしをしたからだと言わんばかりだが、文化や芸術で食べていくためにはそれだけ多くの客が必要となる。市外から来る客が金を落とさなければ復興はできない。その市外から来る客は総じてマーシャルプランの復興対象ではないのか?そうだとすれば、ボローニャもマーシャルプランのプラス効果を受けていることになるだろう。逆に、マーシャルプランがなく周囲の町も復興しない中で、(金持ちが消費するものである)文化や芸術を謳ったところで復興などできまい。

「国の援助をあてにする日本」という場合の「日本」が誰を指すのか正直不明である。自治体政府なのか地域住民なのか、両方なのか、それともそれ以外の何者かなのか?日本の自治体が国(中央政府)を当てにするとすれば、それは制度が自治体が自立して行動するようにできていないからである。精神論では片付く話ではない。地域住民が国(中央政府)を直接あてにすることは滅多にない。行政の事務の約7割は地方自治体が行っていることにもそれは現れているだろう。

行政に頼らないで行動しようとすること自体は悪いことではなく、むしろ一般的には好いことだろうが、私が「罠」と書いたのは、この思考では、「依存=活力なし」「依存しない=活力がある」という図式が前提されており、依存しないでいるものが成功している場合に政府からの援助が間接的に利くこともあることや、周囲の環境との関係によって生じる利点の作用などを見落としてしまうからである。それも図式が単純すぎる上に特定の感情と結びついて施行されることが多いために思考の範囲自体が狭まってしまうため、なおさらその見落としに気づかれない傾向があるからである。



 九份は海が見える景色と昔の商店街、繁華街が飲食店、土産物店になったことで人を呼び、賑わっている。とはいえ、九份の発展の源となった金鉱跡が産業遺産として活かされているわけではない。(p.134)


確かにその通りだと思う。ただ、こうした捩じれと言うかズレは、むしろ常態的なのではないかとも思う。そして、そのように単純ではないからこそ、世の中は面白いとも言えるのではないか。例えば、北海道の空知地方(私は北海道と台湾の歴史的展開の比較に興味を持っているが、九份や金瓜石の金鉱と空知地方の石炭)にはかつて大規模な炭鉱があり、台湾の九份や金瓜石の金鉱と似たようにそれなりの繁栄を享受していた時代があったが、現在、この地方が観光的に成功しているとは言えない。産業遺産を生かそうとする試みは地域では台湾以上に盛んに行われているようにも見えるのだが、そうしたものをストレートに「売り」にしようとしても大抵の場合は、多くの人は見向きもしないのではないか。

むしろ、産業遺産に付随して発達した市街の雰囲気などが「レトロな雰囲気」などと評価されるい否かが重要になることが多いだろう。産業遺産などがその歴史的背景にあるのだとすれば、それらを活用するのはリピーター向けだろう。新規開拓がないのにマニアックなディープな世界だけを見ていてもだめなのである。



九份は私企業、金瓜石は公企業の管理下だったので、公の手で黄金博物館が整備されたのである。(p.135)


なるほど。



供給所で売っていたものは?

李彩鳳さん

種類はね、200以上だね。200種類以上よ。何でもあった。本当にたくさんあったのよ。(p.149)


金鉱の付近に日本人街があり、そこに供給所というのがあったらしい。そこではコミュニティが必要とするものがほとんどすべて揃うという。こうした形は台湾の金鉱に限らず、北海道の炭鉱でも見られたもの。金鉱と炭鉱の町はやはり似ている。このあたりは労働条件の厳しさなどとも関係していたと思われる。



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片倉佳史 『観光コースでない台湾 歩いて見る歴史と風土』(その2)

 桃園神社は1938(昭和13)年に創建され、9月23日に鎮座式が挙行されている。……(中略)……。
 この神社が創建された時、台湾では人々の日本への同化を狙った皇民化運動が展開されていた。神社もその一環として各地に設けられた。当時、戦争に勝利するために、一人でも多くの「日本臣民」を作り上げることが急務だった。そして、総督府は信仰を通じて愛国烈士を育てようと試みた。つまり、この時代に設けられた神社は、等しく戦時体制下における戦争協力者の養成という意味合いを含んでいたのである。(p.140)


宗教は政治的なものであるとして解釈するときわめてスッキリと理解できることが多いが、これもまたその一例である。



 ここで忘れてならないのは、きわめて特殊な一部のケースを除いて、終戦前の台湾人が中国軍人の立場で日本と戦った事実はないということである。つまり、中華民国兵士として日本軍と戦った軍人を祀る忠烈祠と台湾人との関係は、きわめて薄いのである。戦前、日本は台湾の人々に神社の参拝を強いたが、それと同様に、忠烈祠も外来の統治者が台湾の人々に参拝を強要し、愛国心の修養を押しつけた現場なのである。(p.141)


台北の忠烈祠などは旅行ガイドにも大抵乗っている観光スポットになっているが、台湾の人に聞くとあまり行ったことがないような雰囲気が濃厚だと感じていたが、この文章を読んでそれが納得できた。



 台湾で唯一残った日本時代の神社。ここは、郷土の歴史を客観的にとらえようとする姿勢から残された「遺構」である。確かに、神社は植民地統治下に設けられた「負」の遺産であろう。しかし、それを「生きた教材」として活用していこうとする姿勢が、いま台湾では主流となっている。これは台湾意識(本土意識)の高揚と、言論の自由を得た時代の産物であり、民主化の下、変貌を遂げる台湾の胎動でもあるのだ。(p.143)


台湾で唯一残った神社というのは桃園神社のことである。機会を見つけて一度行ってみたい。


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片倉佳史 『観光コースでない台湾 歩いて見る歴史と風土』(その1)

 その後、19世紀の中盤から再び布教が始まり、特にイギリスとカナダからやってきた長老派の宣教師が盛んに布教を行った。日本統治時代に入ると、彼らは私立学校を開き、教育面からも社会に影響力を持つようになった。特に、日本統治下で教育機会の差別を受けた台湾の子弟が、こういった学校で先進的な教育を受ける機会を得ていた意味は大きい。現在も、こういった学校を出た人々は社会に勢力を保っている。中でも「台湾土着」の立場を貫いてきた長老派教会は医師会を中心に大きな影響力を持っている。(p.39)


淡水のマッケイ博士が設立したオックスフォード大学が即座に想起された。

また、宣教師は単なる宗教家ではなく、政治的社会的な活動家でもあるという側面も見落としてはならないということが、こうした事例からもわかるだろう。



 日本統治時代の末期、皇民化運動という同化政策が強力に推進されたが、現実には、宗主国民である日本人と植民地人である台湾の人々の間には、さまざまな「区別」が存在していた。そして、「日本人であって日本人ではない」という特殊な状況は、人々に「台湾人」というアイデンティティを形成させた。(p.74)


日本統治下では台湾人のアイデンティティが形成されたということはこれまでもいくつかの文献で読んだことがあった。日本統治時代の初期は抗日運動がかなり多く行われていた時代であり、ある意味、「外部」から侵入してくる人に対して結束して対抗しようとするタイプの、抵抗的なナショナリズムに近いタイプのアイデンティティ形成を助長していたのではないかと思うが、日本統治期の後半はこうした区別やこれと重なる部分を持つ差別の存在によって「台湾人」というアイデンティティ形成を助長した面がありそうである。



 烏来には日本統治時代に「高砂族」と呼ばれた先住民の戦没者慰霊碑がある。烏来を訪ねた際には、ぜひとも足を運んでみたい場所である。
 高砂義勇隊は太平洋戦争中に日本軍として戦った先住民兵士たちのことである。……(中略)……。
 ……(中略)……。彼らは「義勇」の人員であり、軍人の地位は与えられなかったのである。……(中略)……。
 日本の敗戦で戦争が終結すると、彼らは生まれ故郷である台湾へ戻された。しかし、そこはすでに日本領の台湾ではなく、蒋介石率いる国民党政府が新たな統治者として君臨していた。復員兵士たちは、日本が台湾を放棄した時点で日本人ではなくなり、自動的に中国(中華民国)人にされてしまったのだ。当然ながら、「敵国兵士」であった彼らへの風当たりは厳しいものがあった。そればかりでなく、終戦後、一貫して行われてきた国民党政権の偏向教育の下、彼らはそれまでの半生を否定され、日陰で生きていかざるを得ないという状況を強いられたのである。(p.107-109)


ここは是非立ち寄ってみたいところである。それにしても、高砂義勇隊の成り行きは可哀そうしか言えないというか、やるせないものがある。この場合の問題は、彼らが中華民国の国籍と日本の国籍を選ぶ自由がなかったことに大きな問題があるように思われる。台湾にもともと住んでいた人々の子孫だからといって、新たに台湾を統治することになった中華民国の国籍を持たなければならない必然性はないはずである。

もっとも、この自由を認めてしまうと、台湾在住の「台湾人」たちのある程度の割合の者が日本国籍を求めることとなる可能性があり、そうなると台湾は国民党政府が治める地域の中に日本国籍と中華民国国籍の台湾人が多く混在することとなってしまい、統治する側からすると面倒なことになる。かといって、日本国籍を希望した台湾人が日本に引き上げるというのも、確かに問題があり、どうしてもどこかにしわ寄せが来てしまうことになる。基本的にそれは弱い立場の者におしつけられる傾向があるが、台湾の人々は日本、中華民国、中華人民共和国、さらにアメリカをはじめとする連合国といった勢力のせめぎあいの中で面倒を押し付けられたグループの一つだと言えそうである。現在、台湾で「原住民」とされている人々は台湾の中でもさらに少数派なので、その矛盾がされに鮮烈な形で表れているように思われる。



 日本統治時代の基隆は興隆の一途をたどった。基隆湾は天然の良港だったが、計画された港湾規模は大きく、築港工事も大がかりなものとなった。ちょうど、台北の外港だった淡水が土砂の堆積で港湾機能を失いかけていた時期である。本格的な築港工事は1899(明治32)年に始まった。完成を急ぐため、工事は昼夜をわかたず進められたという。(p.114)


交通に着目するにあたり、港というインフラに関しては私はまだあまり十分な基礎知識がないのだが、私が地域研究の対象としている北海道の小樽市の港とほぼ同じ時期に大規模な築港工事が行なわれている点には注意が引かれる。こういう場合、他の港湾もいくつか同じ時期に大規模工事をやっていそうな気がする。ちょうどそうした時期だったのではないか、という仮説を立てておきたい。というのは、この5年後に日露戦争を行っているからである。





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松田裕之 『ポケット図解 マックス・ウェーバーの経済史学がよくわかる本』

 普遍的な人権を法的に保障する思想の源流をヴァージニア憲法など北米諸州の憲法に求めたイェリネクの説から、ウェーバーはカルヴィニズムの血脈が同地に引き継がれている事実を知りました。(p.50)


ウェーバーがイェリネクから多少の影響を受けていることはいろいろな本で読んだことがあるが、よく考えると、あまりその影響の仕方などを深く理解していないことに気づいた。本書のこの指摘が具体的に何を根拠に言われているのかがわからないという点で、本書の記述には疑義や疑問があるが、それはさておいても、ウェーバー研究というのはなかなか終わりが見えない作業であると思う次第である。


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河本英夫、L.チオンピ、花村誠一、W.ブランケンブルク 『複雑系の科学と現代思想 精神医学』
「分裂症治療からカオス理論へ」

われわれがある感情状態にあるとき、われわれの思考はつねに特定の可能性の領域内を動き、その可能性のかなりの部分はすでに前もって回路づけられています。(p.52-53)


L.チオンピの「感情論理」の理論。

否定的な感情状態に浸っているとき、明るい未来を構想することは困難な傾向が確かにある。つい先日、私自身がある人と話をしていて、あまりに未来へのビジョンが欠けていることに驚き、ある意味(その人の置かれている状況を考えると、その人が克服しなければならないものに対するあまりの無気力さに)憤りさえ感じたことが想起される。感情をプラス方向に持っていくことによって、その思考回路を変えることができる可能性があることが示唆される。

ただ、感情がマイナスのままで、プラスに行かないことがある意味で本人にとって「心地よい」場合もあり、そこに作用している外的条件があるとすれば、それを改変することも同時に必要なことがあるように思われる。すなわち、システムが作動して自己を形作るとき、その作動はその作動の外部から何らの影響も受けずに行われるわけではないから、そちらをコントロールすることでシステムの作動自体を方向づけてやることができる可能性がある。



 次に感情の思考に対する特殊オペレータ効果を扱いましょう。この場合ある感情とほかの感情とでは作用に区別が生じます。たとえば、「関心」という感情は――一般感情学説によれば関心は典型的な感情に属します――、一般的な認知的「覚醒状態」(arousel)に導きます。それは一般的な注意を活性化し高めます。それに対して不安は距離を生みます。「それから離れろ、気をつけろ、気をくばれ!」というわけです。「怒り」はといえば、これは制約的で、(とくに)「ここまでにしろ、もうやめておけ!」という意味をもちます。この制約・限界設定が、進化的には攻撃性のきわめて重要な機能です。そのうえで攻撃性は、その限界、その区域を押し広げます。攻撃性もまた進化・発展的です。怒りは、進化的にみる限りは有意義な感情なわけです。喜び、愛など、概してポジティブな感情は、私と対象との結びつきを生みます。私が何かにポジティブな感情を割り当てたなら、私はそれに接近していきます。私はそれを私の世界へ組み込み、組み入れます。それと反対に悲しみは、結びつきが機能不全となり再び絶たれてしまう感情です。以上すべてが、感情の特殊オペレータ効果として重要なものです。(p.67-68)


「関心」「不安」「怒り」「ポジティブな感情」「悲しみ」の特殊オペレータ効果の説明。

「関心」が一般的な注意を活性化させるというのは興味深い。何かに関心をもつと、その対象だけでなく一般的な注意が活性化されるということか。確かに、いろいろなことに関心をもっている人は積極的に活動する傾向が高く、様々なことに気づき、それが生活をさらに面白くしていくという傾向があるように思われる。



私自身はといえば、いまここでは全幅にわたって展開できない複雑なさまざまな理由から、あまりにラディカル構成主義は誤謬へ、つまり独我論へ、また過度の人間中心主義へといたるという意見です。したがって、われわれは相対的構成主義とでもいうようなものに目をむけるべきだと思います。すなわち、たしかにわれわれは、われわれの感覚器官やわれわれの経験にしたがって、われわれの世界を構成します。しかし、前提として要請されるわれわれの外部にあるもの、つまり「現実」(Wirklichkeit)にまったく依存せずに構成するわけではないという考え方です。(p.76)


チオンピのラディカル構成主義に対するスタンス。ラディカル構成主義が世界を構成する中心としての自らの意識を定点としてしまい、それを絶対化してしまっている点に対する批判が含まれている。相対的構成主義として述べられているのは、世界を構成する認識主体も他の外部要因と相関する変数であると仮定しながら、相互関係の中で世界像が構成されていくということであろう。確かに、ラディカル構成主義よりはこちらの方が妥当性が高い。

オートポイエーシスではこの機構をさらに明確かつ妥当性が高い仕方で語ることができることが、この理論構想の魅力の一つであるというのが私の見解である。



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塩野七生 『レパントの海戦』

 椅子は、トルコではその上にあぐらをかいて坐る式で、それに適して広くゆったりし、高さも低い。現代の、内部につめものをし、外側を種々の布地でおおった、坐り心地のすこぶる良いソファや長椅子は、実は、トルコ式椅子「ディヴァン」を改良したものなのである。
 トルコ宮廷の閣議室は「ディヴァン」と呼ばれたが、これも、この部屋がこの式の長椅子で埋まっていたことから生まれた通称であった。現代のイスタンブルの街には、ディヴァンという名のホテルがあるが、長椅子のほうではなく、閣議とか閣議室を意味したいのだと思う。
 イタリア語では現在でも、長椅子のことをディヴァーノという。ソファも、同じ意味の言葉に属す。英語でも、ソファとかディヴァンとかいうのではなかったろうか。ディヴァンという語自体は、語源を、アラブかペルシアに求められる言葉であった。
 西欧でこの式の椅子が流行りはじめたのは、17世紀に入ってからで、18世紀のロココ時代に、最も美麗なものがつくられている。16世紀以前の西欧には、この式の椅子や長椅子は、オリエントからもちこまれたものでないかぎり一つも存在しない。ルネサンス時代の長椅子といえば、木製の長櫃であったからだった。(p.222-223)


西欧から世界に広まったもののかなりの部分は中東に起源を持つものであるが、長椅子もそうだったらしい。



 現代はユーゴスラヴィアであるダルマツィア地方にいたっては、鐘楼から町のつくりまで、ヴェネツィアとあまりにも似ているのに、住民がスラブ系に一変した現代でさえ驚かされる。この地方が、ヴェネツィア共和国の経済、軍事圏に属していただけでなく、文化圏にも属していたからだった。(p.232)


ヴェネツィアはなるべく早いうちに訪れてみたい地の一つなのだが、どこと組み合わせていくかという点でいろいろと迷っていたりする。ダルマツィア地方と組み合わせるという案が浮上してきた。

なお、ダルマツィア地方は、この小説が書かれた時点ではユーゴスラヴィアの一部だったが、1991年のクロアチアの独立によって今はクロアチア領である。


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塩野七生 『緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件』

喝采されて登場するよりも、退場の後に惜しまれる君主でありたい」(p.41)


ヴェネツィアのドージェであるグリッティが元首の座に就任する際に語ったとされるセリフだが、為政者たるものは、こうあるべきという感じがする。

退場の後に惜しまれるというのは、行ったことの結果が評価されているということであり、政治においては政策の結果がうまくいかなければ、どんなに手続きや意図が良かったとしてもほとんど意味がない。全く意味がないとは言わないまでも、やはり政策の効果というものが重要である、ということを突いており納得させられるものがある。

(正確に言えば、良い政策を行い、望ましい結果を得たとしても、民衆自身がそれとは異なる政策を求める場合もあり得るのであり、人々から評価されることと政策の結果が望ましいかどうかということにも直接の対応関係はない。)

このフレーズを読んだとき、最近数年の日本の首相を取り巻く状況が思い浮かんだ。首相が交代した直後は支持率はそこそこ高いが、数か月もすると支持率は下がり始め、一度人気に陰りが出るとあとは転がり落ちるように下がっていくというパターンが見られ、まさにこの言葉とは正反対の事態になっている。




 しかし、とマルコは、確信をもってわれとわが身に言いきかせることができた。外交も、武器を交わさない戦いではないか、と。ダンドロの姓をもつ自分は、別の戦争に参加しているのだ。たとえそれが、いかに不名誉な手段に訴えてまでして集めた情報を基礎にして闘われるものであっても、戦いは戦いなのであった。
 マルコは、二階の回廊を後にしながら、このような考えは、スルタン・スレイマンには理解できないだろう、と思った。祖国の衰亡を、気配さえも感じないでいられるスレイマンは、幸福な男だ。幸福な男たちには、汚い手段も人道にはずれた行為も、非難する贅沢が許される。(p.148)


確かに、外交は武器を使わない戦争であり、戦争は武器を用いた外交であると言うことはできるだろう。

また、政治における信条倫理の問題についても触れられており、興味深い。私はあまり小説を読まないが、一般の小説を読む人はこうした叙述などから触発されることも多いのだろう、という気がする。まぁ、私は今後もあまり小説などは読まないとは思うが、普段は触れないようなものをたまに読んでみると新しい発見があり面白いものである。(当ブログにアップしている他のほとんどすべての本とは異なり、この本は同僚の方から借りて読んだのだが、こうした他人の推薦などは、視野を広げたりするのには有効である。)

ちなみに、こういう歴史小説を読んで私として頭が痛かったのは、どこまでが事実でどこからが創作なのかが十分確信をもって把握できない場合があるということであった。こんなこともあって、私にとっては小説を読む時間は落ち着かない時間となった。


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後藤治 監修、王惠君、二村悟 著 『台湾都市物語 台北・台中・台南・高雄』

 こうして台北城の主要な施設の建設は、しだいに完成していった。とはいえ、城内に町家が並んでいる街道は、北門街、西門街、府前街と府後街だけであった。そのほとんどが西北区域に集まっているのは、北門(57頁)は大稲埕に連なっていて、西門は艋舺に連なって往来の人口も多く、城を出ると道路があるからであった。それに対して、東門と南門の外はまだ空地であった。小南門の外には、板橋に向かう道路があったが、沿道にはまだ家屋はなかった。(p.22)


台北城の北半分が商業街となり、南半分が官庁街となったのは、経済や流通の面で重要な位置を占めていた大稲埕や萬華とのアクセスが大きな要因となっている。

なお、台北に城壁が完成したのは1884年であり、1904年にはほとんど壊されてしまった。



 艋舺、大稲埕と台北城との間の面積は約12万坪あり、平均地盤面は台北市よりも約4m低く、いつも浸水状態の低地が存在していた。……(中略)……。
 その後、地主と請負商人とで契約し、1917年に埋め立て、1918年に土地の区画整理が進められた。市区改正計画の執行で、もともと商業の繁栄していた西門一帯はいっそう栄え、これは戦後まで続いた。この埋め立て事業は、三市街が連なって一つの都市となる出発点であった。
 1920年代の台北は、艋舺と大稲埕は引き続き台湾人を主とした商業と住宅地区で、城内にはますます多くの日本人が移住してくるようになっていた。日本人の住宅地区は、城内東南部の官舎のある地区と、城南と城東の新たに開発された地区で、これらの区域の住宅はほとんどが日本式の住宅群であった。(p.29)


現在の台北市を基準として考えると、艋舺(万華)も大稲埕も旧市街の中心近くにあるように思えるが、1917年の低地埋め立ての前までは別々の地区だったようだ。

こうした経緯を知ると都市の成り立ちが見えてきて興味深い。また、2つ前のエントリーで『台湾 近い昔の旅』の著者である又吉氏が日本政府が台湾を支配下に置いた後の台北城の開発が「日本人中心の都市政策」であると批判していたことは、上記の引用文のような事態と照らし合わせると、別々の地域だったのだから艋舺や大稲埕に(最初には)資本を投下しなかったとしても不思議はないのではないか、と思われる。



1930年代はまた、台湾に初めて建てられた木造建築がシロアリの被害に遭い使用が不便となって建て直す時期に指しかかったときでもあった。この頃から、西洋の古典主義の建築にはしたがわなくなり、新しい世代の建築家の設計観が実現されるようになった。たとえば、井出薫設計の台北市公会堂、栗山俊一設計の台北放送局演奏所(現・二二八紀念館)などが代表的な例である。(p.32)


引用文では古典主義と書かれているが、歴史主義という方が正確であろう。いずれにせよ、新しい「鉄筋コンクリート造」の建築が普及していき、構造上の制約から従前以上に解放されたことによって歴史主義からの脱却が本格化していったという世界的な流れが台湾でも見られたということであろう。



 統治時代には、基本的に日本人専用の日本語学校として使用され、廟としての役割は奪われ、建物は朽ちていった。1917年、大規模な修繕が可能となり、陳培根が募金を始める。このときに改築したために、現在も昔の姿を維持できていると評されている。(p.42)


台北の保安宮についての説明より引用。この施設は台北のガイドブックにも掲載されており、観光客も比較的よく行く場所の一つではないかと思うのだが、日本語学校になっていたということは私の手元にある『地球の歩き方』(台北'10-'11)には掲載されていない。台湾を訪れる際には、こうした歴史についてもできるだけ了解した上で行くことが望ましいように思われる。(もちろん、こうしたことは台湾に限ったことではない。)



台湾は、日本と比べてもRC造の導入は早い
 日本では、海軍技師・真島健三郎設計で、1905年竣工の佐世保港内第一烹炊所、同潜水器具室が早期の例である。土木では、田邊朔郎設計で、1903年竣工の琵琶湖疏水橋が最初である。
 一方台湾では、福田東吾設計で、1902年起工、翌年竣工の台北第一連隊第一大隊の屋根が早期の例である。(p.125)


台湾では鉄筋コンクリート造の導入が日本の「本土」よりも少し早いようだが、初期の事例の時期を比べると、それほどの差はないようだ。(5-10年くらい違うのかと思っていた…。)台湾の方が普及速度が速かったのだろうか。



 日本人のなかには台湾は日本よりも遅れていると考えている人も相当数いるようだが、決してそんなことはない。こと近現代の建築物の保存活用に関していえば、ずっと先を行っているといってよい。われわれは先進国から素直にもっと学ぶ必要がある。(p.140)


確かに、台湾には多くの日本統治時代の近代建築が残っており、日本国内よりもその密度はずっと高いように思われる。そうした点から考えると、著者の言い分はもっともであると思われる。近々、台湾を訪問する予定だが、いろいろなことを学ぶ姿勢を持って多くのことを学び取ってきたいものである。



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又吉盛清 『台湾 近い昔の旅 台北編 植民地時代をガイドする』(その3)

 日本の植民地支配と海外侵略の歴史に必ず姿を現わす「東本願寺」(真宗大谷派)はかつての西門町に、「西本願寺」(真宗本願寺派)はかつての新起町にあった。……(中略)……。
 東本願寺は、仏教界ではいち早く中国・朝鮮に布教(開教)活動をした実績を持っている。日清戦争がはじまると、すぐに従軍布教、宣撫工作、思想善導を開始した。およそ仏教の本義とは関係のない、植民地支配の先兵としての地均し役を演じていたのであった。(p.158-159)


私の持論である「宗教現象は政治的な現象である」というテーゼを地で行っている。確かに2-3年前に京都の東本願寺を見学した際、確かにこうした戦争に加担したことについての展示があった記憶がある。



 日本軍が入城した頃の総統府一帯は、家廟のほかは何もない一面の広場であった。近くには沼地もありウナギが釣れたという。また広場は一時期、野球やテニスのコートにも使われた。今の状況からはとても想像できない。
 日本軍はまずはじめに、台北城内に置かれていた清朝の布政使司衙門を占拠し、台湾総督府を開庁した。現在の中華路沿いの中山堂(台北公会堂跡)あたりだ。そこには巡撫衙門も置かれていた。まさに城内の中心地だった。
 台北城の城壁が1899年(明治33)に撤去され、その跡に前述した三線道路が開通した。日本の台湾植民地支配の本拠地を築くための、最初の本格的な事業だった。
 台湾総督府の支配体制は、城内の建造物を次から次へと破壊しながら、新たに台湾総督府、法院、学校、台湾銀行、新公園、博物館、総督官邸、民政長官官邸、台北公会堂、医院、図書館、放送局、憲兵隊、軍司令部、監獄、日本人町などをつくることによってできあがっていった。
 城内の整備は南北に二分する形で行なわれ、南は官庁街、北側は商業地区に区分された。北側の日本人町だった栄町(現=衡陽路)には、幅18メートルのアスファルト道路がつくられ、亜熱帯の暑さと、降雨を防ぐ亭仔脚のついた店舗が並んだ。そのほかに本町(現=重慶南路)、表町(現=館前路)には、銀行、会社、ホテルや、風月堂菓子舗、森永ドライミルク、内地の土産品店、松井呉服店、ホームミシン、森田商会などの看板があふれ、城内は一種の「日本人租界」の観を呈していた。
 都市整備においては、台湾総督府は城内を一貫して優先し、台湾人地区の萬華や大稲埕には力を注がなかった
 日本人町と台湾人街との交流も十分ではなく、城内優先政策は、台湾人に対する偏見と差別を生み出していったのである。(p.163-165)


日本統治時代の台北の市街の展開が良くわかる個所。

ただ、古い建築を壊しながら新しい建築を建てながら支配体制ができていったかの叙述はやや正確さを欠くように思われる。学校や病院などの実用的な建築は著者の指摘に近いように思われるが、官庁関係の建築については支配体制が確立し、財政的基盤が確立した頃に建てられていたはずである。総督府や公会堂の建築などはその典型であろう。

このように考えれば、台湾人地区への開発がほとんど行われなかったというのも、財政的な制限の下での選択だったことが了解されるように思われる。もちろん、当時、台湾人に対する差別があったことは確かであり、そのことは批判的に語るべきものである。なお、こうした関連で言えば、明治の後半になっても台湾より早く体制に組み込まれた北海道の都市も二級市民的な扱いであった(通常の市町村制が施行されず政治的な権利が他の地域より制限されていた)ということの方がむしろ知られていないように思われる。

台北城内が南北に分かれているというのは、現在の建物の配置を見ても納得できるところであり、台北の市街の展開を認識するにあたり、非常に参考になった。大まかに言って、北が商業地になったのは大稲埕や萬華に近いから、すなわち淡水河に近いからである。



 表町は台北の一等地といわれた。城内で最初の商業地でもあった。清代には艋舺(萬華)から商人が入り込み、ここに店舗をかまえたのが商業地のはじまりになったという。日本時代には金融の中心地としても発展したが戦後、これらの建物もまた「日産」として没収され、現在も金融関係の銀行、保険、証券会社などが集中している。台湾人はこの街のことを、館前路にかけて「管銭路」と呼ぶほどである。(p.180)


すぐ上で述べたように、台北城の北部が商業地区になった理由は、このように大稲埕や萬華からのアクセスにある。



 日本時代の建物の多くは、1910年(明治43)の大水害のあとの都市整備で建造された。(p.181)


この後、台北に建設ラッシュがあったのだろう。

台湾で鉄筋コンクリート造の建築が日本本土よりも早く建てられるようになった理由の一端も、このあたりと関連するのかもしれない。



 日本人から見れば、梅屋敷跡は孫文を記念するだけではなく、一つは、日本時代初期における料亭の繁昌ぶりを知ることのできる建造物だということ、もう一つは、台湾随一の高級料亭のなかで、歴代の台湾総督・民政長官・高級官吏・政財界の大物らが飲み食いをしながら行なった「料亭政治」の一端をうかがえる建物だということである。また、日本時代の日本式家屋が次から次へと消えていくなかで、台北駅に近い一等地にありながら植民地時代の歴史と文化を知ることができる場所でもある。(p.264)


この「梅屋敷」は現在、国父史蹟紀念館として公開されているので、可能であれば次の渡台で見学してきたいと思っている。



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又吉盛清 『台湾 近い昔の旅 台北編 植民地時代をガイドする』(その2)

 1965年(昭和40)、東門は「大南門」「小南門」とともに改修の手が加えられた。東門の原形は、面積115平方メートル(34坪)、高さ10メートルで二層からなり、城楼の三面は口が開いていた。戦闘に備えた閉鎖式のものだった。周辺は厚い壁で囲まれ、正面には銃眼が施されていた。屋根は、南中国の閩南系の、曲線の多い様式だった。
 これが戦後、北方系の宮殿式の楼閣に改修されたのである。中国大陸から外省人が渡台し、特権的な立場にあった彼らの影響力がもろに反映したためである。
城門の改修一つとってみても、現代台湾の政治的な勢力関係が表れているのがわかる。
 戦後建てられた建造物で、日本人にもよく知られている故宮博物院、国父紀念館、圓山大飯店などは北方系に属する中国様式を持つ建物である。北方系にしたのは政治的なからみがあり、外省人の大陸への強い望郷の意識と、南方系建造物に対する低い評価が原因であるといわれる。
 私は、文化財の原状保存を第一の目的とする立場から考えると、台北のシンボルとなっている城門を南方系様式から北方系様式に変えたのは、大きな問題をあとに残したことになったと思っている。(P.81-82)


台北城の城門の様式が戦後の改修によって南方系から北方系の様式に変えられたという。その背後に政治的な状況が反映しているとされる。興味深い指摘である。実際、本書のこの指摘の個所には南方系様式だった頃の写真と改修後の写真が載っているが、印象が大きく異なるものであることがわかる。



 中正紀念堂の敷地は、日本人と関わりが深いところだ。日本時代、中正紀念堂の占める全敷地は旭町と呼ばれ、軍用地だった。(p.84)


本書にはこの手の過去の台北の市街の様子がわかる記述が豊富にあり、その点が非常に参考になり、台北という地の歴史的展開を知るうえで役立つ。



 この西線の西側を、1908年(明治41)に全線開通した縦貫鉄道が基隆から台北・台中・台南・高雄を結んで走っていた。この線路は1989年(平成1)、新台北駅の竣工に伴って地下に敷設され今は地上にはない。(p.115)


地図を見ると今もこのかつての西線に沿って地下を鉄道が走っているのがわかる。こうした細かな変遷を踏まえて地図を見るとどんどん面白くなってくる。



 私もまた、初めて台北駅前の陸橋から三線道路を眺めたとき、強大な権力を背景に有無をいわさず断行したからこそこれだけの大通りがつくれたんだと、率直に思った。同時に、学生の頃に初めて見た北海道札幌市の大通公園の大通りと重ね合わせて、この巨大な通りを眺めていた。台湾支配と内国植民地的な扱いを受けていた北海道開拓とはどこかに共通性があるのではないだろうか、と思ったのである。(p.129)



強大な権力によってこそ大きな通りが建設できたというのは確かにそのとおりだろう。また、台湾支配と北海道開拓の共通性という点については、私も最近気になって調べ始めているところであるが、なかなかこれをまとめて論じている人がいないので自力で解明していくしかないという感じがしている。

ただ、台北の三線道路と札幌の大通公園はその成り立ちは全く異なる。大通公園も確かに行政による権力が介入している(明治4年の都市計画で設定された)点では三線道路と共通性がないとは言わないが、当時の札幌は半ば原野に近い状態で、人口も頗る少なかった(明治4年には人口僅か624人である)のだから(立ち退きや用地取得などの問題が生じる余地はほとんどなく)、開拓使がそれほど大きな権力を行使しなくても比較的容易に大きな道を建設できたものと思われる。



 清代の台北駅は最初、1886年(明治19)に「大稲埕」地区につくられたので別名大稲埕駅とも呼ばれた。忠孝西路の北側を東西に走る現在の鄭州路を淡水河に向かって進むと、右側に中興医院と左側に前述の鉄路医院が見える。この一帯が清代の駅跡である。事実、中興医院の出入口の横に、「清台台北火車票房旧址」の記念碑が立っている。「火車」とは、汽車を意味する中国語である。
 清代の台北駅は、繁栄の中心であった大稲埕と淡水河に集中する物流をさばく運輸の拠点として、多くの物資を基隆、新竹方面に運んだ。
 そして領有後の1901年(明治34)、台北駅は北門町(現=忠孝西路、北平西路あたり)に移転して新しい台北駅となった。大稲埕にあった旧駅は貨物専用の「貨物駅」となった。台北駅の移転は、日本人の多い城内を中心に都市計画を進めていた台湾総督府が、利便性と将来の発展を促したものであった。ここにも日本人中心の都市政策が見られる。
 移転後、台北城の城壁が取り壊されて、三線道路の北線が完成する。当然のように輸送需要が高まり、周辺には会社ビルや旅館等が立ち並び、ビジネス街として発展する基盤ができた。
 台北駅はその後、利用者の増加に応じるため1940年(昭和15)、二年の歳月をかけて改築された。五列のプラットホームとレンガ造りの駅舎。駅舎には、待合室、レストラン、郵便局、売店が設置された。駅前広場は、2万6440平方メートル(8000坪)に拡大された。
 この改築と同時に、樺山町(現=北平東路あたり)に樺山貨物駅を増設した。同駅は現在も使用されていて、今は「華山貨運站」と呼ばれている。初代台湾総督・樺山資紀の「由緒」ある名前から命名された駅だが、「木」がなくなって中華の「華」に変わったのである。ここにも移り変わりが見られる。
 北門町に移転した台北駅は、駅の北側に大稲埕に通ずる出入口ができた。そこは「後駅」とか「裏駅」と呼ばれた。「表」が日本人街である城内に向けた出入口になり、台湾人街の大稲埕への出入口は「裏」にされたのである。(p.142-144)


台北駅の変遷。

当初は大稲埕に駅があったというのが、その時点での経済と物流の中心がそちらにあったことを反映しており興味深い。

著者は「日本人中心」であるとして批判的に描いているが、私が思うに、城内が日本人街であるか否かに関わらず、大稲埕は経済的な中心として機能する基盤が欠けていたため内陸側に駅は移動しただろう、と私は推測する。というのは、台湾人街とされる大稲埕は道幅なども狭く、近代的ないし現代的なビジネス街になるためにはもっと道幅が広くなければならず、そのためには既存の家屋等を大きく破壊しなければならないが、そうした点ではおそらく台北城付近の方が容易だったのではないかと推測するからである。

政治的な決定に関しては、結果として台北駅が東側に移ったことが台湾に住む人々にとって有益だったか否か、ということが批判の際の要点ではないかと思う。著者の批判は意識や意図を推測して差別的なものを嗅ぎ取ったところに噛みついているが、これでは政治的妥当な判断を下す際には心もとないように思われる。

もちろん、当時、城内に日本人が多く住み、大稲埕や萬華に台湾人が多く住んでいたという状況からすると、城内に住む人に有利な政策だったとは言えるだろう。そうした効果を調べたうえで、それに言及しながら批判するというスタンスが欲しい。



 清水建設の前身であった清水組は日本時代、澎湖島の海軍要塞司令部、屏東の飛行第一連隊兵舎、第三高等女学校、勧業銀行台南支店の建設や台北飛行場の改修を手がけ、植民地台湾にあって業績を拡大してきた建設業者だからである。
 また、城内の新公園脇の公園路で、工事中の日本の大手建設業者・大林組を見たこともある。大林組も日本時代から台湾との関わりが深く、新公園の正門近くに建つ旧勧業銀行台北支店(現=土地銀行)は、1933年(昭和8)に大林組が建設したものである。(p.144)


私は外国に行くと建築をよく見に行くが、設計した建築家だけでなく施工した建設業者も興味を持って見てみたい。台湾では特に。

ただ、著者の拒絶反応はやや行き過ぎであると思われる。仮に清水組が植民地建設に加担しなければ、別の業者が加担することになっただけだろうから、そうした過去があることをもって「特定の建設業者=悪」という印象を抱くのは不当であろう。もちろん、支配に加担した組織としては、そうした過去があることに関して何らかの反省(に基づく行為の「改善」)をすべきではあるだろうが。



 鉄道ホテルは、閑院宮の夜会参列をもって、皇族をホテルの第一号利用者にした。そうしてホテルの格を上げたのである。……(中略)……。
 しかし、1945年(昭和20)5月31日の台北空襲で、米軍は鉄道ホテルを爆撃目標の一つにした。その空襲で、ホテルはいっぺんに瓦礫の山と化してしまった。この空襲では、台湾人街の大稲埕と萬華が意図的に外され、爆撃は日本人街の城内に集中した。台湾支配の象徴である台湾総督府をはじめ、法院、台湾銀行、台湾軍司令部、台北駅などが被弾した。(p.147)


台北が日本の領土として米軍に空爆されたことさえ、日本ではすでに知らない人も多いのではないか。このことは以前にも触れたことがあるのでこれ以上繰り返さないが、こうした空襲の被害を免れたことが、萬華や大稲埕(廸化街)に古い街並みが多く残っている要因の一つであることは銘記しておいてよいと思われる。



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又吉盛清 『台湾 近い昔の旅 台北編 植民地時代をガイドする』(その1)

 敗戦になって日本人が台湾を引き揚げたとき、日本語の普及率は台湾人540万の71%になっていた。日本時代の台湾人にとって、日本語を自由に話したり、読み書きができるということは、ほとんど生きる術に近かった。特に知識人・文化人たちほど進んで日本語の学習に精を出したという。(p.19)


台湾における日本語の役割等についてはこれからもっと深く調べたいと思っている問題である。まさに日本語で教育を受けた世代はそう遠くないうちに台湾からいなくなってしまうから、早急に調べてそうした人たちにインタビューをしておきたいと思っている。



最近の「台湾史ブーム」のなかで、市街の大きな書店に行けば、地図の復刻版も日本時代の写真集も出ていて、以前よりずっと入手しやすくなった。(p.20)


本書が出版されたのは1996年なので「最近」というのは、90年代前半頃ということになるだろう。ちょうど台湾で言論が自由化された時期にあたる。その時期に「台湾」を単位とする歴史が語られ、今日の「台湾化」というか台湾ナショナリズムにもつながっていく。地図や日本統治時代の資料などもその時期から入手しやすくなったというのは興味深い。次回訪台時には日本統治時代の資料があれば購入してこようと思う。



 台北に残っている日本時代の史跡を何度も見ていると、当時の日本人は、植民地支配が永遠に続くと考えていたにちがいないと思えるようになった。そういう気持ちがなければ、こんなに堅牢で半永久的な建造物を本気になってつくれるものではない。植民地支配が40年や50年も続くと、いつのまにか自分の庭にいるような感覚に陥ってしまうのであろう。事実、日本人は国内と変わらない、本格的な「開発」を進めたのである。
 かつての在台日本人から「台湾を近代化し開発してやった」と聞かされることがよくあるが、歴史の事実からはほど遠い発言だと私は考える。調査の結果からもそうだが、当時の「開発」はあくまでも日本人のためにあった。(p.23)


私としては著者の意見には共感するところも多いが、本書全般を通じて論理や分析に問題がある個所が多いのが残念である。前段は「植民地支配はよくない」という感覚に発している点で共感するが、中途半端な開発を行っても、本国資本の増強には役立たないだろうから、本格的な開発をするのは当然であろう、と思い、著者の指摘は感傷的すぎるという印象を抱かせる。こうした印象を抱かせることは、著者に共感しない人に対して反感を増幅させることになる点で本書の良さをやや減退させる要素となっているように思われ、もったいない。

後段については、在台日本人の意見の傲慢さにはあきれるところがあるものの、著者の意見も意図に重点が置かれている点で不十分であるというのが私見である。日本政府による台湾の植民地支配はそれほど台湾を低開発化したわけはない(植民地化初期は農業を重視しながら、後期には農業と工業がかなりの水準に達していた)点で、結果としてのちの経済力向上の基礎を残した部分があることは否定できないと思われる。だから、日本政府側が「台湾を開発してやった」という意図がなかった点で在台日本人の意見は誤っているが、結果として経済的な展開を助長する成果も残したという点では負の遺産だけを残しただけだとも言い切れない部分があることはもう少し認めるべきだろう。ただ、それが日本が支配したから正の遺産が残ったと言うのだとすれば、その妥当性に対しては疑問を呈す必要があるだろうが。

いずれにせよ、残念ながら「在台日本人」も著者も、意図を強調しすぎている点で誤ってしまった(一面的な解釈に陥っている)と言わざるを得ない。



 日本人の台湾への関心は1593年、豊臣秀吉が桃山時代の政商・原田孫七郎に「高山国」宛ての「親書」を持たせたことからはじまった。その後1608年、徳川家康が原住民族のアミ族の使者と引見し、引見の翌年に、キリシタン大名で有名な有馬晴信をつかわして台湾東海岸を探検させた。そして1615年、長崎奉行・村上等安が家康の命を受け、約4000の兵を率いて台湾に侵攻した(結果は失敗に帰した)。
 こうして日本人は浜田弥兵衛の襲撃事件を最後に、鎖国令によって台湾から引き揚げていった。このあと日本人が台湾に再び姿を見せるのは、侵略の意図をあらわにした近代の明治期である。(p.34)


1593年から1628年までの30年余りの間に日本では台湾への関心が高まっていたようである。いまだウェストファリア条約以前の時代であり主権国家や国民国家という概念は存在しなかっただろうが、西欧諸国が相次いでアジアに進出しているという情勢を受けて、当時の支配層がどのようにして自らの支配体制を盤石なものにするかということを考えていただろうことは想像に難くないところである。そうした中で琉球なり台湾といった地域の重要性が客観的にも高まっていたし、為政者たちの中でも重要な地域としての認識も高まっていたものと思われる。

台湾側の歴史書などでは、この時代の日本側の台湾への関心と明治時代の台湾への関心とを連続的なものとみなす粗雑な議論もあるが、200年以上の時を隔てた為政者が同じ考えを抱き続けるなどということ自体、非現実的な想定であると言わざるを得ない。ただ、日本列島にしてみれば太平洋からアメリカが来る他、ヨーロッパからは日本列島の南を通ってやってくるのだから、台湾の位置がどちらの時代にも重要となっていたという地政学的な状況は大きく変わっていない。このため日本の為政者たちは同じように台湾に進出しようとしたと理解すべきだろう。



 後藤はまた、新渡戸稲造を台湾総督府に招いて糖業の品種改良に努め、技術導入を計った。しかしこれは、台湾人の自営的な糖業を駆逐して、日本の糖業資本に吸収する道を開くものであった。(p.42)


このあたりの評価もあまり一方的な形で断定することは難しいだろう。こうした評価の方法が本書をわかりやすくもしているが、著者の価値観だけが前面に出過ぎて事実の様々な面を見ようとする姿勢を減退させている点で問題でもある。特に著者に共感する人々にさらなる探求をしようとさせる原動力を奪ってしまうことがある点で注意を要するように思われる。これは本書だけでなく、やや粗雑なポストコロニアリズムの議論が一般的に孕む問題点の1つであろう。



 中国大陸からの漢民族の台湾移住は、原住民族の漢化を推し進めた。清国政府は、教化が進むなかで、原住民族にも漢字の姓「潘」を多くつけた。「生蕃」の「蕃」と発音が近いことが参考になったといわれる。今でも原住民族に「潘」姓が多いのは、そのためである。(p.52)


そういえば、私の知り合いの台湾人にも「潘」さんがいた。この人は台湾語(ホーロー語)を母語とする閩南人だが、原住民とも祖先では関係があるのかもしれない。次に台湾に行くときには、このあたりのことも少し聞いてみようと思う。



 台北城の築城と日本人との関わりは深い。特に、私が生まれた沖縄(当時は琉球)とは、直接的な関わりを持っていた。築城のきっかけになったのは、1871年(明治4)の「台湾遭害事件」(台湾では牡丹社事件という)である。これは、琉球人の貢納船が台湾南部に漂着し、54名が原住民族に殺害されるという事件だった。(p.55)


清朝による台湾領有の積極化への転換期に、その一環として台北の城壁も作られたということらしい。




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マイケル・サンデル 『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 下』

 この格差原理は、今日の政治哲学において、社会保障や福祉国家を正当化する、最も強力で有力な政治哲学の原理になっています。この実現が義務であって正義である、ということが非常に重要です。「政策として社会保障を行う方が国民の支持を受けるかどうか」とか「その政策の結果、経済が上向くかどうか」といった話ではなくて、「正義であるから、必ず、結果にかかわらず実現しなければならない」という強い意味を持つわけですね。(p.64-65)


ロールズの格差原理には興味を惹かれる。ロールズの名前などはこれまでもしばしば目にしたことがあったが、あまり20世紀半ば以降の英米系の哲学には興味が惹かれなかったので、まだ読んでいない。本書を読んで、ようやく私にもロールズなどを読んでみようという気になった。



 ここで、能力主義の概念の擁護者へのロールズの回答に目を向けたい。
 ……(中略)……。
 二つ目の答えもある。努力を引き合いに出す人は、本当は、道徳的な適価は努力に付随していると信じてはいないのだ。二人の建設労働者がいる。一人は力が強く、汗もかかずに一時間で壁を建てることができる。もう一人は、小柄でひどく痩せていて三日かけなければ同じ仕事をすることができない。
 能力主義の擁護者には、ひ弱で痩せた建設労働者の努力を見て、「彼は頑張っているからもっともらうべきだ」と言う人はいない。それは、本当は努力とは違うからだ。これが、能力主義の主張に対する二つ目の回答だ。
 能力主義の擁護者が、分配の道徳的な根拠だと信じているのは、本当は努力ではなく貢献だ。どれだけ貢献したかが重要なのだ。
 しかし貢献は、私たちを単なる努力ではなく、生まれながらの才能と能力の問題に引き戻してしまう。そして、私たちがそのような才能を持つに至ったのは、自分の行ないのおかげではない。
 では、「努力がすべてではない、能力主義の観点から重要なのは貢献だ、努力ですら私たち自身の行ないではない」という議論を君たちが受け入れたとしよう。それはつまり、ロールズによれば、道徳的な適価と分配の正義の間には、何の関係もないということだろうか。そのとおりだ。分配の正義は道徳的な適価とはまったく関係ない。(p.75-76)


能力主義に対するかなり的確な批判の1つだと思う。

さらに付け加えれば、能力主義者や成果主義者が貢献によって取得するべきだと言うとしても、それを正当化する論理はないはずだということである。貢献したからその果実をその人が受け取るべきだ、と言える根拠はない。それは単に貢献したからその果実を受け取りたい、とその人が思うというだけであり、そのような欲求があるということが貢献した結果をその人が受け取るべきだということは別のことである。多くの人がそこを混同しているため、この手の議論は混乱を極めることになる。

なお、本書の上巻で議論されていたリバタリアニズムにおける自己所有の原理も「自分の労働の成果は自分のものにしてよい」という理由はないのであり、自己が社会的な負荷を持っているかどうかというコミュニタリアンの批判とは別に、そもそもリバタリアンの自己所有の原理は道徳的な正当性を主張することができない誤った原理であると批判すべきものであろう。



 私たちが、この技術的に発展した高度な訴訟社会ではなく、狩猟社会か戦闘社会で生活していたとしたらどうだろうか。この才能では大して成功できないだろう。もちろん、別の才能を発揮させる者もいるだろうが。
 では、別の社会では、私たちの美徳は少なくなるのだろうか。狩猟社会や戦闘社会では、私たちの価値は下がるのだろうか。
 ロールズの答えはノーだ。私たちの稼ぎは少なくなるかもしれない。しかし、少ない報酬に対する資格しか持たなくなるからといって、私たちの価値が下がるということではない。
 ここが重要だ。私たちの社会において、偶然それほど有力な地位にない人、私たちの社会が報酬を与える才能をたまたま持っていない人についても同じことが言える。これが、道徳的な適価と、正当な期待に対する資格の区別の重要な点だ。
 私たちは、才能を行使することで得られる便益に対する資格を持っている。しかし、私たちが偶然豊富に持っている資質を偶然重んじるこの社会に、自分たちがふさわしいと考えるのは間違いであり、うぬぼれである。(p.79-80)


道徳的な価値があるから報酬が得られているという考えを否定する点には私も賛成するが、便益に対する資格があるかどうかは社会的な制度や手続きがそのように制定されているかどうかという要素を組み込んで説明すべきではないかと思える。ロールズの議論でそれがなされているかどうかは、まだ読んでいないので知らないが、才能があるから便益を得る資格があるとは言えないように思われる。能力を活用して社会にある貢献をした場合に、その貢献に対してその社会から正当だとみなされる手続を経て便益が分配される場合、はじめてその資格があると言えるのではないだろうか。単に能力があり貢献したというだけでその成果を受け取る資格があるとは言えないのではないだろうか。このあたりの仕組みが明示的に書かれていないように思われたことが(実際にはこうした意味で言われているのかもしれないが)、本書のこの部分の議論でやや違和感を感じたところである。



 償いの議論に対する最も強力な反論は次のようなものだ。
 過去に犯されたひどい不正義を償うため、現代を生きるシェリル・ホップウッドに犠牲を強いることは公正なことだろうか?
 しかも、彼女自身は、その過去の不正義とは何の関係もないのに、彼女に償えと要求するのは公正なことだろうか?

 これは償いの議論に対する重要な反論だ。
 この反論に答えるためには、時間を超えた集団の権利や集合的責任といったものが、果たして存在するのかどうかを検討しなければならない。(p.100)


これは学校への入学資格を巡るアファーマティブアクションに関する議論の中からの引用だが、戦争責任問題と同じ構造の問題である。

私としては本書を読む前までは過去の不正義に対して補償をするのは行き過ぎていると考えていたが、本書の最後に展開されるコミュニタリアンの理論では「時間を超えた集団の権利や集合的責任」は存在するということが示唆され、そこには多少の説得力があるようにも思えてきた。

ただ、私はコミュニタリアンの理論にまだ説得されたとは言い難く、その理論に対してはいくつか批判を加えたい箇所もあるのだが、それはまた別の場所で行うことにしたい。ただ、本書を読んで多少はコミュニタリアンの側の考え方が理解できるようになってきたのは収穫であった。



 カントやロールズの考え方が魅力的で、道徳的に説得力があるのは、自由で独立した自己としての個人、自分の目標を自分で選ぶ能力がある個人という捉え方にある。
 「自由で独立した自己」というイメージは、力強くて解放的なビジョンをもたらす。
 この自己のイメージとは、「自由で道徳的な個人としての私たちは、歴史や伝統など、自分が自ら選んだわけではない過去の事柄には縛られない」ということを意味しているからだ。
 ……(中略)……。
 しかし、コミュニタリアンは、そこからは、道徳的・政治的な生という側面がそっくり欠けてしまっていると論じる。
 カントの考えに従っていけば、一般の人々に広く認められ称賛される、道徳的・政治的な義務を説明できなくなってしまう
 たとえば、「集団」構成員の義務、忠誠心、連帯など、その人自身は同意した覚えがなくとも、人間には守らなくてはならない道徳的つながりがあるとコミュニタリアンは言う。
 コミュニタリアニズムの政治哲学者、アラスデア・マッキンタイアは、「自己」を説明するのに、「物語的な観念」を用いている。……(中略)……。
 これは、「自己というものは、ある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定され、負荷をかけられている存在である」という考え方である。(p.166-169)


自己というものの捉え方がサンデルの政治哲学ではかなり重要であるらしい。私自身も以前はよく哲学書を読んでいたため、自己という問題については多少は考えたことがあるが、7-8年前に書いた文章ではカント的な「自由で独立した負荷なき自己」ではなくマッキンタイア的な「負荷ある自己」に近いものとして書いた記憶がある。

それでいながら、コミュニタリアン的な道徳観は持たなかったのだが。「私」は共同体の中で位置を占める「から」その共同体で良しとされていることを守らなければならないという理由は必ずしもないし、また、私が属する共同体が「私」のアイデンティティを形成する「から」それらの共同体に義務が生じるという議論も、なぜそこで必ず順接になるかのように議論が運ばれるのかが私にはわからない。コミュニティが奉じる道徳が良いものであるとアプリオリに決めつけることはできないはずだし、それによって形成されたアイデンティティが良いものであるという保証もない。

むしろ、安田雪が『「つながり」を突き止めろ 入門!ネットワーク・サイエンス』で述べているように、「縁もゆかりもない遠くの他人が、自分の人生に関与することはまずない。だが、近くにいる人間は、人の人生を左右できる。近くにいる人ほど、そして、口の軽い奴ほど、怖い。(p.27)」という面もあるのだから、むしろコミュニティやその規範からは距離を取った方だ妥当な場合もありうるのではないか?コミュニタリアンの議論では本書を読む限り、コミュニティが半ば無批判的に「善いもの」として措定されているように見え、その点に強く違和感を感じ、疑問に思う。



 私たちは自分の親を選んでいない。そもそも親を持つことを選んでいない。そこには非対称性がある。
 しかし、年老いた人が二人いて、一人は君の親、一人は見知らぬ人の親だと考えてみよう。
 この場合、自分の親の面倒を見る義務のほうが、コインを投げて決めたり、見知らぬ人の親をみる義務より大きいと考えることが道徳的に筋が通っていないだろうか。
 しかし、その義務は同意から発生した義務なのか?そうではないだろう。(p.172)


リベラリズムの自己観が批判されている個所の1つ。このような自己観は単にリベラリズムだけではなくモダニズムとして括られる多くの哲学に共有されているように思われ、コミュニタリアンの考えはポストモダニズムなどと呼ばれるものと意外と近い位置にあるように見え、興味深い。

自分が選んだことに対して義務や責任が生じるということや普遍的な人権などを守る義務や責任が普遍的にあるというだけでなく、共同体に起源をもつ義務もあるのではないかとコミュニタリアンは言う。この指摘はなかなか説得力があるように思う。

ただ、家族や「国家」が個々の人々に対して占める重みは人によって大きく違うのではないか、というのが私の考えである。その意味で、家族がDVなどのため個人に負の影響を強く残している場合は、恩に報いるような形での義務が発生するというよりは、復讐の対象になりうるのではないかと思う。一つ前の引用文でも安田雪の文章を引いて述べたことだが、親だから(関係が近いから)自分にとって良いものであるはずだ、とアプリオリに決めつけることはできないものではないだろうか。

その意味では、サンデルがしばしば犯罪を犯した弟を警察に突き出すかといった問いかけをするが、これは一般化して答えることはできないように思える。AさんとAさんの弟の関係とBさんとBさんの弟の関係は単に形式的に兄(姉)と弟という形式的な関係だけで決まるものではないからである。これはサンデルがリベラルの自己観に対して行った批判と同種のものではないか。

そして、共同体に発する義務は普遍的なたとえば「人を殺してはならない」といった普遍的な義務よりは多くの場合、その重要度は落ちるように思う(コミュニタリアンはそうでもないと言うのだろうが…)。親を助けるか見知らぬ人を助けるかという場面では親を助けるというのが一般的ということになるのだろうが、そもそも人を助けるか助けないかという点では普遍的な道徳が先に働いているという点を見落とすべきではないだろう。少なくともこの例では普遍的な道徳が機能できない細部の選択で優先順位を決める際に共同体に発する義務が機能している



 さらに魅力的なのは、その普遍的な念願、つまり、偏見や差別なしに、個人を個人として扱うという考え方だ。
 君たちのうちの何人かは、「[集団]構成員としての義務はあっても、それは普遍的な義務、つまり、私たちが人類に対して負っている義務にいつも劣るに違いない」と論じたが、それはこの考えからきているのだと思う。(P.209)


サンデルが批判している考え方は上で述べた私の考え方に近いものである(同じではないが)。このあたりの問題をさらに掘り下げるため、サンデルやコミュニタリアンの本を少し読んでみたいと思う。本書の議論は私にとって予想以上に刺激になった。



 カントにとって、道徳性は普遍的なものである。自律的に行動し、自分の意思を行使するということは、純粋実践理性の立場から判断することが必要なのだ。私の特定の願望や、特定の目的や、善き生についての特定の考え方を脇に置いて、道徳の根本原理に到達するという目標に向かって判断することを求めるのだ。
 ……(中略)……。
 アリストテレスによれば、私たちがどのような権利を持っているか、あるいは正義が何を意味するのかを理解するには、前提として何が善き生なのか理解できなければ不可能なのだ。
 ……(中略)……。
 だから、アリストテレスにとっては、正義と道徳性は善から論じる必要があるのに対し、カントによれば、道徳の最高原理に到達するためには、私たちが持っている善き生についての特定の見方から離れるか、それを切り離さなければならない。(p.244-245)


ここでアリストテレスの見解として述べられていることは、サンデルの見解でもあるだろう。カントやロールズのようなリベラリズムの自己観を批判するサンデルの思想が良く要約されている箇所であるように思われる。



私たちの義務のすべては、私たちの意思や選択、自律を行使した結果なのか?
 それとも、私たちのアイデンティティを決める特定の文化、伝統、愛着や目的から生じる義務もあるのだろうか?(p.245)


これも上の引用文と同じでサンデルが講義で提示したコミュニタリアンからのリベラリズム批判の要点の1つをなす疑問であり、これが簡潔に述べられているためメモしておく。サンデルはもちろん、後者の問いに然りと答える。このあたりの考え方に対しては本書を読んで理解が深まり、収穫だったところである。


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マイケル・サンデル 『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 上』

 この章はベンサムという功利主義の出発点にあたる思想家の考え方を説明しています。
 彼の「最大多数の最大幸福」という言葉は非常に有名です。
 その説明においてサンデル教授は、費用便益分析を例として用いているのですが、これは様々な政策決定や立法の妥当性を「どういう結果が生じるか」ということから考えます。結果として得られる便益から、かかる費用(コスト)を引くことによって、その計算に基づいて、政策や法律を決めようという考え方なのです。(p.65)


私はこれまでは費用便益分析に対しては、その計算の基礎となる対象をどのように選ぶかという点について恣意的であるという面をよく批判してきたが、それが帰結主義的な道徳原理に基づいているということが本書の講義により明確になったのは収穫だったと思う。



サンデル なぜ、家族を養うためであっても盗んではいけないのか。
ジョン 先生が最初の講義でおっしゃったとおり、いい結果がもたらされるからといって、その行為が正当化されるとは限らないからです。(p.118-119)


これはリバタリアニズム批判の文脈での議論なのだが、このあたりを読んでいるときに気づいたことがある。本書ではリバタリアニズムは定言的な道徳原理の一種として取り扱われており、実際、論理的にみるとそうなるのだが、実際の政策論議の中ではむしろリバタリアンたちも「結果」を見越して議論を組み立てていることの方が多いのではないか?という疑問が浮かんだ。

もしそうだとすれば、大衆に受け入れられる論理展開という観点からみると、帰結主義的な考え方はかなり強力な考え方であるからではないだろうか?それが問題であると私は思うが、それは、それが道徳原理としては比較的底が浅く、すぐに倫理的な限界に突き当たってしまうと思えるからである。



 自然状態について話すとき、彼は想像上の場所について語っていたわけではない。すべてアメリカについて話していたのだ。(p.155)


彼というのはジョン・ロックである。古典的著作を読むときにはこうした背景を読み取った上で念頭に置きながら読むことが必要である。最近、あまり古い本を読んでいないので、そろそろ立ち返ってみようかと思い始めた。


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カルチャーランド 『北海道歴史探訪ウォーキング』

 函館山のもうひとつの魅力は、多種多様な動植物に恵まれていること。その理由はこの山の知られざる歴史にある。1895(明治28)年の日清戦争終結後、ロシアとの間で緊張が高まり、函館市および函館港と津軽海峡の防衛を目的に、要塞の建設工事が始まったのは1897(明治30)年。4年余りをかけて函館山全体に5ヶ所の砲台と堡塁が完成した。翌年には要塞地帯法が制定され、その後、太平洋戦争が終結するまで、函館山は一般市民の立ち入りを禁止。人為的ではあるが、結果的に山の自然が約半世紀にわたり守られたことは、戦争による正の遺産とも言えそうだ。(p.19)


あまり知られていないこうした事実を地域の人々などに語り継ぐことは結構重要なことのように思う今日この頃である。



 なお、このクラーク像が初めて建立されたのは北大創基50周年の1926(昭和元)年だが、太平洋戦争中に金属献納で没収される。現在のクラーク像は、戦後まもなくの1948(昭和23)年に再建されたものである。(p.34)


札幌の観光名所の一つにもなっている北海道大学構内のクラーク像について。あまり語られることがないエピソードなので興味深い。



 ポプラが北アメリカから北海道に入ったのは明治の中頃で主に牧場の境界線として使われていた。
 この北大のポプラ並木は1912(明治45)年に林学科学生の実習として、農場内に植えられたものである。(p.36)


ポプラもアメリカと北海道開拓との結びつきを示すものと言えそうだ。北大のポプラ並木がこうした歴史を持っていたとは知らなかった。なんとなく名所として知っているところでも実はその歴史などについてはあまりよく知られていないものがある。郷土史的なものによってそれを発掘する作業は意外と面白いかもしれないと思い始めている。


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佐々木静子 『先生! 中国語文法のここがわかりません!』

 簡単会話編第四章でも出てきた「ちょっと」ですが、実は“一会儿”が時間詞で“一下(儿)”は動量詞、そして“一点儿”は数量詞ということになります。(p.156)


ちょっとした疑問が解消された箇所の1つ。

引用文とは関係がないが、漢字の原義に立ち返って言葉の意味を理解・感得するという本書の基本的な発想はかなり参考になった。特に最初の「簡単会話編」にその特徴が色濃く出ており、本書の特徴と言えるだろう。

文法書は読むだけでは言語習得はできないが、そのための方向性や方法を示したり、個別の事項のヒントを与えるという役割はあると思う。


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