アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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立岩真也 『人間の条件 そんなものない』

政治に関心がないこと参加しようとしないことそのものが、なにかいけないことであるように言う人たちがいる。私はそんなふうには考えない。たしか安心して他人たちに任せておくとひどいことになることがあるから、気をつけた方がよい、関心をもった方がよいというのはもっともだ。しかしもっとよいのは、毎日なにかを決めたり、決めるために時間をかけて議論をしたり、誰を代理者あるいは代表者にするかを考えたりすることが、なくすことはできないだろうけれども、少なくなることではないだろうか。ここでも私たちは、仕方なく大切なことと、そのものが大切なことと、どちらなのだろうと考えてみたらよいと思う。政治(を自分たちで行うこと)は仕方なく大切なことなのだろうか、もともと大切なことなのだろうか。(p.66)


政治への参加や関心について、それがないことは良くないかのような言説に対する違和感は、私も初めて政治学や行政学を学んだ時に感じたことがある。そして、ここで述べられているようなことを思ったことがあったので、この叙述には同感である。

ここで語られていないことで私が付け加えるとすれば、皆(多くの人)が下手に関心をもってしまうと、逆に適切な判断ができなくなることがあるのではないか、ということだ。

政治や社会的な問題についてある程度の客観性を持って把握できるためには、実際にはかなりの素養が必要で、それらを身につけている人というのは、社会のなかのほんの一握りに過ぎないだろう。そうでない人のいい加減な意見が世論としてまかり通りやすい昨今の政治環境は良好なものだとは思われないからである。



たとえば「消費社会論」というのが流行ったことがあって、いろいろなことを言った。どんな商品がどんなふうに企画され消費されているのかといった個々の話はまずまずおもしろかったのだが、せんじつめると、それが言っていることは、(かつてと違って、今の)人は記号を消費しているとか、差異を消費しているとかいうことだった。だが、「そんなの当り前じゃない(昔も今もこれからもそうだよ)」、というぐらいの感想しか抱けず、あまり新しい感じはしなかった。人は昔も今も、かっこつけたくて、目立ちたがって、趣味がいいと思われたくて、服を買ったり着たりしている。それはそうだろう、だからどうしたと――これはずいぶん乱暴なまとめ方だが――思った。(p.194)


このあたりは本書の主題とはあまり関係ない傍論ではあるのだが、共感した箇所でもある。日本で80年代頃から90年代に流行っていた議論の多くに対して、私もこのような感想を抱くことが多かった。

ポストモダンやそれに近い議論というのは、無理に何か新しいことを言おうとし過ぎて、新しい造語を勝手に作って、それの解説っぽいことを延々と繰り返すだけ、みたいなしょうもない議論が多いように思う。ここでも「記号を消費する」とか「差異を消費する」なんていう普通じゃない言い方をすることによって、一見新しいことを言っているかのように見せているが、中身的には「それがどうした」的なものだったりする。もちろん、そういう半ば不毛な議論の中にも読んでいるとちょっと面白い要素や新しく気づくようなこともあったりはするのだが。

その点、本書の著者は(所有の規則など「当たり前」だと思われていることに疑義をはさむことも含めて)当たり前のことを当たり前に考えようというようなことを言っているところがあり、今のような社会で何をどのようにしていけばよいのかということについて不透明感が強い社会状況では、こうした考え方は重要であるように思う。



 多くの人が買ってくれるものを一度に作れ、売ることができる商売と、そうでない商売がある。そして前者の仕事の方が増えていて、その規模が大きくなって、儲かる人たちの儲かる度合いは大きくなっている。ただ同時に、もちろん後者の仕事も残る。その間の差が大きくなっている。(p.196)


こうして始まる一節は本書を読んで最も参考になった部分だった。

所得の差が生じやすい産業構造があり、これを補強するように独占や寡占を可能にする条件がそろうと、とてつもない差が生じやすいということについて理解が深まった。こうした多数の人が同時にアクセスできる商品は「スケールフリー」性を獲得しやすい。もちろん、それは本書の本題ではなく、それをどのように是正するのか、ということに主眼があり、エイズの薬の事例などを用いてそのあたりの処方箋を具体的に示しているのは参考になる。

余談だが、立岩真也の読者としては、NHKのマイケル・サンデルの講義を視聴したのだが(私はリアルタイムでは視聴しておらず、正月に再放送されたものを少しずつ見ている最中だが…)、日本の障害者についての社会学とアメリカの政治哲学の講義で、扱うテーマがかなり共通だということに少し驚いたことがある。

ある意味、彼らの議論というのは、いわゆるグローバル化ということに対応するテーマ設定なのだと思う。その意味で、サンデルの本は結構売れているらしいが、あれを面白いと思う人は立岩真也の本も面白く読めるのではないか、と思う。



むしろ日本という国は、一時期より、多くあるところから多くとってくるというやり方の度合いを少なくしてそのままにしてしまっている国なのだ。そんな国は「先進国」ではアメリカと日本ぐらいのものだ。(p.248)


累進課税を弱めて財政を脆弱にしたままにしていることへの批判。妥当である。



だが、公的介護保険という仕組みでは、医療と違って、あなたの使えるのはどれだけと査定される。「要介護認定」というものである。多くの人が、基準が厳しすぎるとか思うことはあっても、基準があることは当たり前だと思っている。医療にはその認定にあたるものがないということも思いつかない。だが、どうしても必要なものか。医療の場合と大きく違うところがあるだろうか。(p.269)


なるほど。確かにそうかもしれない。

ただ、医療と比べると、介護の方が制限なく使えることになった場合、「マイナスを埋める以上のこと」に持っていきやすいとは思う。医療で注射を沢山打ってもらっても患者にはほとんどメリットはないが、介護で買い物や掃除をより多くやってもらうなど、ヘルパーを家政婦代わりであるかのように使うことがあるとすれば、そのサービス給付の費用の一部が公的保険料や税金から支出されているとすれば、ちょっと違うのではないか、とは言える。その意味で、医療よりは制限的であることにも少しは理屈があるように思う。もちろん、現状の要介護認定が良いとは思わないが。

(なお、少し常識に欠ける利用者が上記のような使い方をしようとしてヘルパーに注意される、という話は実際にないわけではない。)



今の高齢化は歴史上ただ一回だけ起こることなのだ。だから、これから五十年くらい間をなんとか乗り切って、うまいやり方を見つけてしまえば後はなんとでもなるはずなのである。(p.317)


これは著者の別の本でも述べられていたことで、確かにもっともなのだが、これを乗り切ることだけでも結構大変なことだということは付け加えていいように思う。

財政的な問題について言えば、問題解決とは逆方向のことが進められてきた経緯があり、現在も「減税日本」のような名前が新聞上で踊っていたりして、さらに状況を悪化させるような方向に進んでしまう可能性も高まっている中においては、そう楽観してもいられない、と思う。

私としては団塊の世代が退職する前に累進的な増税に踏み切れと言ってきたのだが、時すでに遅しとなった感がある。これにより過去の国債発行によって受益した人とそれを償還する負担する人が別の人になることが確実になった。現在の年齢構成の段階でプライマリー・バランスを黒字化できるところまで累進的増税ができれば、その後は年齢構成の高齢化が終わった後からは黒字化が進むだろうから、まずはそこまでできるだけ早めに持っていくことが必要だと思われる。(もちろん、50年も100年も債務を引きずってずっと財政出動に制限があるという政策オプションが制限された状態でよいのか、という問題もあるのだが。)



政治が決めることがそれ以外で決まることと違う一番大きなことは、政治には強制があるということだろう。税金は払いたくなくても払うものだ。払わなければ脱税で罰せられる。だから、私たちは政府になにをさせるかを考えるなら、人を強制してでもすべきことはなにかと考えた方がよい。(p.320)


重要な指摘。ここには経済政策より人命や安全などに関わる分野が優先的であるという含意がある。

私としても優先順位として経済政策よりも広義の安全保障・福祉政策の方が優先されるという点ではかなり近い立場にあると思うが、経済政策は私が読んだ限りでの立岩の論で言われるよりは重要だろうとも思っている。

立岩の議論で弱いのは、外国との国際競争をどのように乗り切るのか(どのような方法でどのような状態に変えるのか)を考える必要性に気づいていることを明示しながらも、それに対する具体的な対処の方法が欠けているところである。そして、彼の議論の立て方からこの問題をすっきりと解いていくことはかなり難しいのではないか、と思う。今後の本でこのあたりがどのように解決されていくのか、あるいは解決されないままにされるのか、注目したい。


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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

小林正宏、中林伸一 『通貨で読み解く世界経済 ドル、ユーロ、人民元、そして円』

 基軸通貨には、価値貯蔵手段、決済手段、計算単位としての役割をグローバルに果たすことが求められる。しかし、国際収支の決済手段を海外に提供するためには、基軸通貨国の国際収支が赤字にならなければならない。国際貿易が拡大するにつれてその決済に要する国際流動性の量も拡大するので、その国際収支赤字はますます拡大しなければならない。ただ、こうして対外純債務が増大していくと、基軸通貨の対外的な価値を維持することが困難になる。これがトリフィンのジレンマと呼ばれる問題である。(p.63-64)


本書によると最近はこうした状況とはやや異なっているようなのだが、それでも決済手段として国際的に流通するためには基本的には基軸通貨国は国際収支が赤字にならなければならない傾向はなくならないように思われる。いずれにせよ、基軸通貨というものを理解するにあたって、この部分は参考になった。



変動相場制に移行すると、金融政策の観点から、資本取引を制限する必要がなくなり、資本移動はより自由になった。そして、民間の資本移動が自由になるとそれだけ、経常収支赤字のファイナンスは容易になったのである。つまり、先進国間では以前より経常収支不均衡が拡大しても大丈夫になった。(p.67)


変動相場制、貿易の自由化、資本移動の自由化、金融の自由化、これらの関係について詳しく知りたいと考えている私にとって参考になった個所。



 国際金融システムには、トリレンマ(trilemma)がある、と言われる。「資金の自由な移動」と「為替の安定」、それと「国内金融政策の自由度確保」の三つを同時に満たすのは困難、という意味である(図2-3)。(p.91)


本書はこの部分に限らず、少し簡潔すぎるくらい簡潔に書いているので、ある程度理解が進んでいる人向けというところがある。



 ここで、国際的な資本移動と為替レート、金融政策の三者の関係が問題となる。国際マクロ経済学では、①自由な資本移動、②為替レートの安定(固定相場制)、③独立した金融政策、の三つをすべて同時に満たすことはできないというトリレンマが知られている。自由な資本移動によって、為替レートが影響を受ける時に、金融政策という一つのマクロ政策手段で為替レートと国内物価の安定という二つの目標を同時に達成することが困難になるためである。通貨統合とは、共通通貨圏内で、前記①と②を選択して、③を犠牲にするという選択である。通貨統合によって、参加国間通貨の交換レートは通貨統合時の交換比率で固定され、一つの通貨になってしまうのだから、究極の固定相場制である。
 そのため、共通通貨圏内では、参加国間でマクロ経済状態が異なる場合、それを是正するために、為替調整や各国独自の金融政策を使うことができないという問題が生じる。(p.101-102)


なるほど。



ちなみに、中国人民銀行は、日本の内閣にあたる国務院を構成する一行政機関と位置付けられており、金融政策の独立性は認められていない。マクロ政策上の重要な方針は、中国共産党の指導のもとに、党の重要会議で決定される。(p.166)


中国の制度というものは、すべて最高権力者から見た不信に基づいて作られているような印象である。最高権力者の側から見た「他者」(彼らが制御しないもの)を認めない構造になっている。いわゆる共産主義なるものが、戦時体制であるとい点から見ると、それはもっともなことなのだが、その体制が現状に即しているのかというと、そうでもないように思われる。

中国がいつ、どのようにそうした体制から脱却していくのか、あるいは脱却しないのか、注目したいところである。



しかし、内需が弱いから輸出に依存し、外貨を稼ぐとそれが円高圧力となり、国際競争力を強化しようとして海外に生産を移管するとさらに内需が弱くなる。こうした悪循環はどこかで断たなければならない。この十数年を振り返ってみると、日本は頑張れば頑張るほど自分を追い詰めていったようにも感じられる。(p.211-212)


悪循環を断ち切るとして、どこでどのように悪循環を断ち切るかが問題だろう。

内需拡大ができればよいのだが、政策的にそのように変えていくというのは、そう容易ではなかろう。



家計の貯蓄の大半は、銀行預金や郵便貯金や生命保険の形で保有されている。こうした預貯金や保険料をもとに、銀行や保険会社が国債に投資しているのである。私たちの大切な貯金の安全は、国債の信用にかかっている
 国債の価値が下がれば、私たちの貯蓄が危なくなる。(p.253)


国債は家計の貯蓄が原資になっているものが多く、両者はつながっている。



先進国の中では、日本の税負担は低い方で、増税余地があることが、日本国債の格付を下支えしている。(p.254)


税負担が低いのだが、納税者たちは税負担が高いと錯覚を起こしているところに、現在の日本の租税をめぐる議論のアポリアがある。



ただ、消費税の逆進性は個人所得税の累進税率や社会保障支出による所得再分配機能とセットで考え、解消してゆけばよいのである。(p.255)


もっともな意見ではある。しかし、これらをセットで考えても、新自由主義的な政策が幅を利かせる余地があれば、結局所得税の累進性だけが後から削られることもありうる、というかその可能性は高い。その意味では、やはり消費税自体を累進的な税率にしてしまう方が良いだろう。

なお、ここで個人所得税に言及し法人税には言及しないあたりには政治的な色彩が滲んでいる感じがする。


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小島毅 『靖国史観――幕末維新という深淵』

英霊は大和言葉ではない、と。
 ……(中略)……。
 もし(一部論者が言うように)靖国の祭祀が日本の古い伝統であるならば、その神様になんでまた外国語に由来する名称を与えているのだろう。(p.94-95)


一言で言えば「古い伝統」ではなく「創られた伝統」だからだろう。



敗戦条約には懲罰としての領土割譲と賠償金支払い条項があり、これが当該敗戦国にとって大きな負担となるのに対して、日本の場合にはそれがなかったというのである。そして、それには条約締結までの日本側の外交努力が存在し、その意味で条約締結の幕府官僚はきちんと任務を果たしていたことになるという。(p.112)


幕末の頃、幕府官僚は無能で現実への対処能力を欠いていたかのように描かれることが多い(例えば、比較的最近まで放送されていたNHK大河ドラマの「龍馬伝」でもそうだった)が、そのように簡単に切って捨てることは妥当ではないという。

これは加藤祐三の説として敗戦条約と交渉条約の区別を紹介しているが、このあたりはなかなか参考になった。

明治政府が比較的短い期間で不平等条約を解消することができたのも、それらの条約が中国などが西洋列強と結んでいた敗戦条約というタイプの条約ではなく、交渉条約というタイプの条約だったから、という面があったわけだ。



 幕府の無能ぶりを過度に強調することによって、明治政府は自分たちの正統性を説いたのだ。司馬遼太郎(何度も引き合いに出して、司馬ファンには申し訳ないが)の史観なども、その延長線上にあるにすぎない。靖国神社もまた、いまなお明治時代に創られた物語の圏内で、自己の物語を紡いでいるにすぎないのである。(p.113)


中国共産党が戦時中の日本軍の残虐さを過度に強調することによって自己の正統性を説くのと同じ構図。自らに十分な正統性がない場合、こうやって他者を引き合いに出して「他よりマシという形」で支持を取り付けようとすることになりがちである。

ここ数年の日本の政治の大部分が単なる政党間の足の引っ張り合いになっているのも、これらと同じパターンだろう。彼らにも何らの具体的で有効性が誰にも納得できるような政策がないという特徴があり、そうだからこそ、他の政党や党内の権力闘争相手などを非難することによって、自らの相対的な卓越性を示そうとするのだろう。



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河本英夫 『飽きる力』

疲れは、重要な身体のメッセージです。疲れを感じることができなければ、回復できないほどあっという間に消耗し尽くすに違いないのです。(p.19)


そのとおりである。このブログの更新がしばらく滞り、今日、まとめて数冊分のコメントを書いているが、これも「疲れ」のためである。最近異様に疲れを感じるのも、やはり身体が無理をしないで作動のモードを変えろとメッセージを発しているのだろう。



単純なネコの話のように聞こえるかもしれませんが、実は人間の作業のなかにもこのタイプのことが多く含まれており、一生懸命になっているとき、がむしゃらに努力しているときは、むしろおのずと積極的に自分で選択肢を捨てている状態に近いのだろうと思えます。(p.35)


この筋違いの努力から離脱して選択肢を見えるようにする発端になるのが「飽きる」という感性の働きだというのが本書の主張のポイントの一つである。



 職場で意見の対立がある。それは頻繁に起きることです。意見の対立のない組織など、本当はすでに組織ではなくなっています。そのとき自分の立場や観点を繰り返すような人は相当数います。しかしそんなとき、意図的にでも自分のあり方に飽きていくことを心掛けていかなければ、一貫して自分の経験をさらに狭くするだけです。
 そのさいにはプロセスのさなかで、微妙な感性が必要になります。その局面で欠くことができないのが、「飽きること」なのです。その意味では、飽きることは自分自身に向かうさいに欠くことのできない、実践的能力になります。(p.63)


特定の立場や観点から同じことを繰り返し説いていても、何らの前進もない。そのような立場や観点への固着はむしろ、上の引用文の「一生懸命」に「がむしゃらに努力」することと同じ状態であるということ。



 また周囲からそれはダメだ、まずいと言われても、自分にはそうは思えない場合には、自分のやっていることを「立場」や「観点」から評価してしまっていることが多いのです。この場合には、聴く力が落ちてしまっていますから、いろいろと自分なりにわかることに飽きていく必要があるのですが、「立場」や「観点」の本性上、飽きるための機会を逸してしまうことが多いのです。わかったときにはすでに経験は狭くなっている、というのが経験の本性です。(p.77)


自分がわかっている「立場」や「観点」に固執してしまうことに対する批判。

ただ、周囲からダメだと言われても逆に周囲が間違っており、少数派にもかかわらず成功する人はいるので、このあたりの見極めは難しいところもあると思われる。ただ、できるだけ柔軟に多様な選択肢を自らに開いておくには、本書の言うように自分が固執しているのが特定の立場や観点になっていないかを感じ取っていくことが必要だと言えそうではある。



最も単純なかたちにすると、良いところをどんどん伸ばし、ダメなところはいじらない、直さない、という訓練の仕方です。……(中略)……。つまりダメなところ、直したほうがいいところも、良いところを伸ばして全体のレベルが上がってしまえば、新たな組織化のレベルで異なった意味を持ってしまいます。これは本当のことですし、重要な確信であり、また物事の核心でもあるのです。(p.86-87)


なるほど。



 オートポイエーシスという理論構想は、基本的にコーチに似ています。ただ、このコーチ自体を成長させないと前に進む手掛かりになってくれない。したがって、このコーチがいつも頼りにされて、最終的な拠り所になっていると、すぐ頭打ちになってしまう。(p.87)


このような最終的な拠り所になってしまっている場合が、特定の「立場」や「観点」に立っている状態だろう。



 ごく普通の日常生活においても、楽しかったことが、忘れられることによって自分のなかにちゃんと入っているというような経験を作る。それはつまり、忘れるということのきっかけは、「何度も過去に生きてしまうこと」に飽きてしまうということなのです。過去に生きてしまうことには飽きてしまう。その「過去に生きる」というやり方とは違うやり方で過去を活用するという「選択」が、ここに生まれているのです。(p.102)


以前と比較して現在の状態が悪くなったとき、どうしても「以前はよかった」と思いたくなるのが人情というものだと思うが、それに飽きて別のモードに切り替えろと。実際にやろうとすると結構難しい。



作戦を立てるということは、作戦というネットのなかで方針を立ててしまっていることだから、選択肢が広いようで狭い。
 ここが最も難しいところなのです。作戦というのは観点や視点になぞらえてよいと思います。最終的には、さまざまなかたちで作戦という選択肢を身につけたが、結局はそれが忘れ去られて消えていってしまい、何か知らないうちにおのずと動いて勝ってしまう、というところまでいかなければならない。そこでは、やはり隙間を開くということが必要となってくる。(p.112)


作戦を立てるということは選択肢を狭めることであるという指摘は鋭い。

オートポイエーシス・システムはこうした隘路を通って作動を続けるわけだ。無意識的にこれまで身につけたことが働いている状態にならなければならない。

大まかに作戦は立ててはみるが、実際にはその場の状況に応じて臨機応変に動きながら、その臨機応変さがこれまで身につけてきた様々な技術や作戦に裏打ちされたものとして行われる、という状態になるのが良いのかもしれない。私も仕事の際にいろいろと作戦を立てて取り組むことがあるため、作戦を立てるのは選択肢を狭めるとの指摘は自分がやってきたことに対する批判でもあるように思われたが、確かにうまくやっているときというのは、あらかじめ建てた見通し(作戦)は実地で変えていることが多いかもしれない。



 努力というのは、結果が出なければ、あるいは面白くなければ本当は意味がない。努力するのは面白くなるためです。ところが、努力して、ただ疲れているというのでは、何のために努力しているのかということになってしまいます。
 こうした問題は、経済においても、あるいは学問領域においても同じようなことが感じられます。努力していることに疲れていると感じたならば、筋の違う努力をしてしまっていることに気づかなければならない。気づくためには、同じような努力に飽きてこなければならない。こうした場合には、飽きるということは、嫌気がさすというようなことではなく、繊細な感性に似ています。(p.122)


この指摘は個人的に非常に有用だったもの。ここ数か月、努力していることに疲れていると感じているので、そろそろ私も飽きなければならないということがわかった。



 こうした筋が違っている努力は、去年も負けた、今年も負けた、また来年も負ける、というように、何度も同じところで同じ状態で起こる。……(中略)……。そこで、意識の問題として出てくるのが、失敗から直接学ぼうとしすぎることです。「失敗から学ぶ」というのは嘘なのです。失敗から学んではいけない。失敗のなかに含まれている成功を育てなければいけないのです。
 ……(中略)……。
 そこで必要となるのが「飽きる」ということです。頭のほうから先に進むことに対して、それは適合的ではないと、すぐに飽きないといけないのです。飽きることによって、進んでいく速度を少しでも遅らせ、さまざまなことを感じ取るための隙間を開いていかなければならないのです。とかくうまくいかないときには、他人に対して非難めいたことを言うようになります。ところがそれは、気持ちのもって行き場を性急に見つけようとしているのです。こんなときそんな自分に飽きることで、今日はおいしいものを作って食べようとか、学生気分になって語学の勉強をしてみようとか、ともかくとりあえず別のことをやってみるのです。集中してできるはずがないのですが、それでもそのなかでそれまで見えていなかったことが、見えるようになることもあるのです。(p.122-124)


このあたりになってくると、本書の言う「飽きる」ということがどういうことか、読む側にもかなりはっきりわかってくるし、記述も明快になっている。飽きることによって(それをきっかけにして)筋違いの努力をしている作動の速度を遅らせ、様々なことを感じ取る余裕を持つことで、別のあり様(選択肢)を見出し、そちらに切り替えていく。



「無視」は欠落とは異なり、積極的で能動的な働きです。そのことは無視のなかに、意識の選択的な働きが含まれていることを意味します。(p.170-171)


なるほど。だから、例えば、特定の人を無視していると疲れるといったことがあるわけだ。



努力を続けながらそこに隙間を開いて、同時にさらに選択肢に自分自身を開いていくのが、「飽きる力」なのです。(p.202)


普通の意味で「飽きる」というと、努力することすらやめてしまうことを意味することが多いが、本書の意味はそうした用法とは異なっている。それは筋違いの努力に対する違和感とでもいうべきものだろう。



 私は、日頃からセラピストとの付き合いが多いのですが、セラピストのなかには、一生懸命勉強して、「私の治療は認知神経リハビリだ」と主張したりする人をよく見かけます。そんなとき言葉にしては言わないのですが、「この人は大失敗しないと、前に進めないな」と感じるのです。治療法は、形成されていくものです。患者ごとに病態は異なりますので、どうやって治療技法を形成していくかだけが問われており、その人の立場や観点が問われているわけではないのです。(p.203)


当然、セラピスト以外にも、当てはまる指摘。



 職場のなかで仕事に不満があるときには、あえて「こんな仕事には飽きた」と自分自身に向かって、つぶやいてみるのです。こんな仕事はいつでも辞める、というのは、それ自体下手な啖呵で、他人向けの自己主張になってしまいます。「こんな仕事には飽きた」と感じたら、何をどう工夫したらよいのかという隙間が生まれてきます。そしてそこから、いくつもの選択肢があることに気づいてもいけるのです。(p.204)


本書の主張の実際的な使い方。



飽きることは、別の経験の仕方を求めることです。そこから少し工夫の余地がないかという模索が始まります。こうした模索の開始の場所に、飽きることがあるのです。(p.205)


本書の「飽きる」ということはオートポイエーシスの創発の機構に深くかかわるもので、「飽きる」というタームによってその開始の地点を言い表そうとしているのだろう。



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麻生一枝 『科学でわかる男と女の心と脳』

 現代の日本の、援助交際と呼ばれる売春も、貧しさと関係しているかもしれない。援助交際で保護される女子中高生のなかには、家庭内性的暴力の被害者が少なからずいる(吉田2001)。暴力を振るわれるので、家には寄りつきたくない。かといって、若くて経験もないので職も見つからない。そのうち援助交際という罠に落ち込んでしまう、というケースが多いのではないだろうか。家庭内性的暴力から援助交際へという負の連鎖から、子どもたちを救う仕組みを整えていくことが必須だろう。(p.85)


ありうる仮説である。

動物行動学的には「女のカジュアル・セックスのもたらす利益の1つ。それは、すぐに手に入る物質的・経済的資源」(p.84)だとされ、上記引用文はそこから敷衍して展開された議論である。



 動物個体が自分の属する集団の利益のために行動するのか、それとも自分の利益のために行動するのかという問題は、動物行動学者の間でも1960~1970年代に大きな論争を呼んだ。論争が完全終結したわけではないが、現在大多数の学者は「種の利益のために」とか「集団の利益のために」という行動は、特殊な状況以外では起こりにくいと考えている(Alock 2005)。
 そう、動物個体は自分の利益のために、自分の遺伝子をできるだけ多く次世代に残すために、利己的に行動する。他の個体を助けたり他の個体と協力したりするのは、そうすることによって、そうしないより多くの利益が得られる場合だ。(p.112-113)


人間に当てはめれば、「人類のために」とか「お国のために」という理由で自らを犠牲にするような行為はとられない、ということだ。そのようにふるまうのは、それによって自分の利益がより多く得られるときだとする。まぁ、妥当なところだろう。ナショナリズムは自然にあるものではなく、人為的に歴史的に構成された感情であるということとも附合する。



 犯罪は私たちとは別世界に住む特殊な人間が犯すものではない。私たち1人ひとりのなかに犯罪者は眠っている。同じ状況に追い込まれたなら、同じことをしてしまう可能性がある(Buss 2005)。


ワイドショーなどで「人当たりの良い普通の人でとても犯罪を犯すなんて信じられない」などと「近隣の人」のコメントが紹介されることがあるが、犯罪は特殊な人が犯すわけではなく、普通の人がある状況のもとで犯してしまうものだという理解に立てば、不思議に思う必要もなくなる、というわけだ。そして、そのように理解した方が、犯罪の抑止には役立つだろう。

ただ、その人がつながっているネットワークの状況(これは生育歴によっても左右されるという経路依存的な面がある)の違いによって、同じ状況に追い込まれても同じことをする可能性には違いが出るだろう。



 犯罪者のほとんどが男であるというのは、アメリカにかぎった現象ではない。2002年にイギリスで犯罪行為を行った者の約8割は男だ(UK Office for National Statistics)。2007年に日本で検挙された一般刑法犯(交通事故に関わるものを除いた刑法犯)の約8割(78.3%)もまた男である(平成20年度犯罪白書)。そして、日本でも殺人犯のほとんどは男だ(Hiroiwa-Hasegawa 2005、右ページ下のグラフ)。なぜなのだろうか?(p.116)


本書によるこの理由は、配偶子の大きさの違いのために、オス同士の配偶者争奪競争はメス同士よりも激しいため、ハイリスク・ハイリターンを狙う傾向があるからだとされる。こうした説明が本書では多いが、必ずしも十分な説得力があるとは思われない。ただ、犯罪を起こす人の男女比が大きく異なるというのは、興味深い現象ではある。



警察と軍隊を除けば、私たちの社会のなかでもっとも暴力的な社会集団はおそらく家族であり、もっとも暴力が行使される場所は家庭である。人は、自分の家の外で他人に殴られたり殺されるよりも、自分の家のなかで自分の家族の誰かに殴られたり殺される可能性のほうが高い」というのは、アメリカの家庭内暴力専門家2人の言葉だ(「Gelles & Straus 1985 in Daly & Wilson 1988b)。


安田雪 『「つながり」を突き止めろ 入門!ネットワーク・サイエンス』のエントリーで引用した「縁もゆかりもない遠くの他人が、自分の人生に関与することはまずない。だが、近くにいる人間は、人の人生を左右できる。近くにいる人ほど、そして、口の軽い奴ほど、怖い」という考えに通じる。

思うに、家族というのは、愛情により結び付けられているかのように語られることが多いが、それがうまく機能しないときには憎悪もまた激しくなるものであり、むしろ通常の社会のなかで最も憎悪が渦巻いている集団の類型なのではないか、というようにも思われる。



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村上陽一郎 『あらためて教養とは』

カントは十八世紀の後半に活躍したけれど、彼は哲学をドイツ語で書いた極めて初期の人なんです。カントの先輩にクリスティアン・ヴォルフという人がいて、この人はドイツの大学で最初にドイツ語を使って哲学の講義をしたプロフェッサーとして知られています。だから十八世紀の半ばになるでしょうか。(p.37-38)


かなり最近までヨーロッパの書き言葉や学術的な場面で用いられる言葉はラテン語だったという話。



大学の出発点というのは、パリ型とボローニャ型の二種類あると言われていますね。パリ型のほうは、教える側がもう少し効率的に教えられるんじゃないかというので、組合を作り、その組合が貴族の館(誰も使っていない空いたところ)のようなものを探してきて、そこへみんなで泊まり込もうとした。ついでに、教わるほうも一緒に住んだらどうだということになって、いわば教えるほうも学ぶほうも(あえてここは教授と学生とは言いませんけれども)、同じ館の中で起居を共にしながら勉強していくという形がパリ型ですね。
 その館の呼び名を、コレッジオとか、コレージュとか、コレギウムといいます。それがそっくり残ったのが現在のイギリスの大学、オックスフォード、ケンブリッジなんですね。(p.50)


大学の歴史というのも調べると面白そうだ。



私はやはり根本的に「日本語教育」というのを日本の社会の中に打ち立てなきゃいけないんじゃないかと思うんです。日本語教育というのは、世界の言語の中の一つの言語としての日本語、という観点から日本語というものを取り上げていくことです。(p.110)


このように相対化する視点を与えることには意味があると思う。このような教育がなされると、英語教育など外国語教育の意味も同時に高まるのではないか。



 しかもヨーロッパ、アメリカでは何が起こっていたかというと、第一次世界大戦の後は、ある意味で大衆化が圧倒的な意味をもつ時代だった。放送、映画、それから写真。たとえば、ガラス細工。サラ・ベルナールなどの舞台衣装や宝飾、衣装などを担当していた宝飾デザイナーのルネ・ラリックが、1925年のパリ・アールデコ博覧会で出品したのがガラス細工だったんですね。つまりラリックは宝飾作家として出発したんですが、この展覧会で一気にガラス細工のデザイナーとして変身するわけですね。これが文字通り、大衆化です。宝石なんていうのはそう簡単に扱えるものじゃない。けれどガラスはいくらでも手に入るんですからね。(p.158-159)


本書は『やりなおし教養講座』をほぼ再版した内容であり、私は以前にもほぼ同じ内容の本をすでに読んでいたということになるのだが、この部分は当時の私の関心を引かなかった。今読んでみると、なるほど!と非常に納得できるものがあった。

大衆化というキーワードで第一次大戦後の世相を語ること自体は普通だと思うが、ガラス細工も大衆化と関連していることには、今まで全く気付かなかった。ルネ・ラリックの転身を以て象徴的に提示しているところは非常に印象に強く残った。というのは、彼の作品をこの数年でしばしば目にしていたからである。

あの時代に「大衆化」が起こったのは、経済がグローバル化し、主権国家体制が世界レベルで普遍化しきっておらず、強力な権力機構を持つ主権国家を確立した側(いわゆる西洋諸国であり、植民地宗主国)にとっては経済的な繁栄のチャンスが大きかったため、これらの地域で中産階級的な人々が増え、購買力が高まっていたからだろう。

この「大衆化」という観点から、20世紀前半の様々な文化的な現象を捉えると、もう少し面白いことが見えてきそうな気がする。なお、建築における歴史主義からの脱却(アール・デコなど)もまた、大衆化の現れの一つだろう。貴族的な知識を要求する歴史主義建築からそうした知的背景なしに誰もがその美を享受できるスタイルへの移行。



上に話したように、「大衆路線」にも心惹かれるものが多数出てきたことは確かですが、やはりまだわれわれの世代は、読んでいなきゃ恥ずかしいというものがお互いの仲間の中でありました。(p.178-179)


今はこうした「読んでいなきゃ恥ずかしい」という本は本当に少なくなった気がする。



 とにかく何を読んでいても、向かい合う姿勢によって、自らを作り上げるための素材にならないはずはない。(p.190)


確かに、同じ本を読むなら、そう思って読んだ方がよいだろう。



 確認しておくと、現代の教養の一つの重要な意義は、可能な選択肢をできるだけ多く体験すること、あるいはその機会を提供すること、そこにあるのだと、私は考えています。(p.199)


もっともな説に思えるのだが、河本英夫の『飽きる力』を読んだ後の目で村上陽一郎を読むと、どうしても彼がまだ「視点の切り替え」的なものの中にいることが目に付いてしまう。そこをきちんと切り分けていない。



できるだけ専門化を「後回し」にして、様々な可能な選択肢と出会う機会を造る、そのなかから学生の一人ひとりが、自分の判断で、自分が依拠しようとする枠組みを選択できるだけの、人間的成熟と知的成熟とを図る時間を用意しよう。これが今日の教養学部、リベラル・アーツ・カレッジの機能であり、私は現在の状況下では、特殊な例外を除いては、すべての大学(医学進学の場合も含めて)がまずリベラル・アーツ・カレッジであるべきではないか、と考えている理由であります。(p.200)


リベラル・アーツ・カレッジの考え方には賛同できるものがある。『飽きる力』の考え方とも、速度を遅くして選択肢を選べる隙間を作るという点では共通であり、興味深い。



だから機会均等というのは決して戦後に限ったことではないのですよ。……(中略)……。
 ただそれが、いま言ったように貧しさとか、その他いろいろな制約があってなかなか現実には達成できなかったということもあるわけですから、戦後社会が豊かになったために(教育制度が整ったためにではなく)義務教育に関しては就学率がほとんど百パーセントになったというのは、結構なことです。(p.207)


なかなか興味深い主張。



九十何パーセントの人が高等学校でまともに教育を受けられるといことを考えること自体が、本当はおかしいんですよ。(p.207-208)


成績が下位の高校の水準を考えると、もっともな指摘である。更に敷衍すれば、大学に半分の人が進学するというのも、もっと無茶な話だと思う。



 アメリカは中央政府に文部省がないですからね。ドイツもないですよ。中央政府が教育に関して口を出してはいけないという不文律が成り立ってますから。片や日本のように文科省がこれほど大きな権力を握ってしまって、教育、学校制度の内容全部に口を出して、それを管理するというのは、ほんとに少し奇妙な事態だと思うんですけどね。話題が逸れたついでにさらに言うと、現在日本では、中央政府が私立学校に私学助成金を交付していますが、これは明白な憲法違反なのですよ。憲法第89条にはこうあります。「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」(傍点は引用者)。(p.208-209)


アメリカもドイツも連邦制の政治システムが基本になっているので中央集権的に中央政府が何でもやるという形にはなっていないため、文部省もないのだろう。中央政府が国内の統治も一括して行うタイプの政治システムを持つ場合は、文部省のようなものはあるところも多いのではないだろうか。たとえば、フランスには教育省があるし、スペインにも文部省がある。

文科省が権限を持ちすぎているというのは確かで、それは批判されるべき点も多いと思うが、アメリカやドイツのように日本と政治機構が異なるものだけを恣意的にピックアップして述べるのはフェアではなかろう。

私学助成が憲法違反というのはなかなか面白い指摘。



もともとヨーロッパやアメリカでも、デモクラシーという言葉は伝統的に否定的な意味が伴っていました。「デモス」は「大衆」ですから、「衆愚政治」という日本語に近い意味合いで使われていました。今デモクラシーという言葉で語られるような政治的なシステムを指すには「リパブリカニズム(共和主義)」が使われていました。「レス・プブリカ」つまり「一般の人々の手にあるもの」という言葉ですね。十九世紀半ばあたりから少しずつ変わってきましたが。いずれにしても、民主主義というのは政治制度に関する言葉ですよ。ところが、戦後何か絶対的な人間社会の価値を指すように誤解されてしまった。(p.223)


共感できる指摘。

私の場合、政治制度の側面を「デモクラシー」(漢字を使う場合は「民主制」)と呼び、イデオロギー的な側面を「民主主義」と呼ぶという形で両者を切り離して相対化している。

村上の指摘するような混同は日本に限らないのではないかと思う。例えば、国際政治の場で民主化を他国に要求するという形での圧力などは、民主主義の価値観がある種の絶対性を持っていると信じられているからこそ出てくる側面があるし、それを口実に様々な介入をしようとする場合があるからである。



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安田雪 『「つながり」を突き止めろ 入門!ネットワーク・サイエンス』

問題行動の真因は、本人の心のなかにある場合もあるが、基本的には家族、友人、学校の先生など身近な人々との関係のなかにあるはずだ。関係探索は武器だと書いたが、それは相手を理解するためのツールでもある。(p.26)


個体(ノード)に着目するのではなく関係(リンク)に着目するという発想は基本的であると同時に重要である。



縁もゆかりもない遠くの他人が、自分の人生に関与することはまずない。だが、近くにいる人間は、人の人生を左右できる。近くにいる人ほど、そして、口の軽い奴ほど、怖い。(p.27)


なるほど。



 「1000万円の席替えですか!(教室、爆笑)」
 関係探索は武器になると述べたが、関係探索は商売にもなるのだ。
 とはいえ、仕事をする上でミクロな環境はきわめて大事である。どれほど業績の良い立派な大企業であろうと、上司との相性や同僚との折り合いが悪ければ、日常業務は苦痛の連続だ。マクロも大事だが、職場における前後左右数メートル圏のミクロな状況の善し悪しは、サラリーマンのエネルギーを大きくしたり消耗させたりする重要な要因なのである。(p.51)


社内のメールログから組織内の人間関係を抽出し、コミュニケーションフローの改善を図るというビジネスがあることが紹介される。この分析に基づき適切に席替えやフロアのレイアウト替えを実施することで業務効率を上げる方法を提案するというビジネスである。それを聞いた学生が上記のように言い、皆笑うわけだが、それは笑い事ではなく、実際に重要な点を突いている。

現に今の職場の私の座席配置が非常に良くないものであるため、この点は今まさに私が感じている問題をついているので琴線に触れたりした部分がある。



 ざっくりといって、ハイ・パフォーマーはそれ以外の人よりも、1.7倍の信頼・協調関係を持ち、周囲の人々の信頼・協調関係を取り結ぶ力が8倍強かった。ハイ・パフォーマーは社内の人々の信頼・協力関係を媒介する位置におり、社内の信頼・協力の関係を連結させていた。つまり、ハイ・パフォーマーのネットワークは、信頼・協力関係が成立しているペアや三者関係を含んでおり、これらの小さな信頼関係の連鎖を担うのがハイ・パフォーマーである。お願いと感謝のネットワークの、まさにハブである。(p.62)


個人のパフォーマンスも、ある意味ではネットワーク中の関係の中で発揮されている面もある。



 まず、組織のなかで人々が形成するヒューマン・ネットワークは、その組織にとっての貴重なソーシャル・キャピタルである。ソーシャル・キャピタルとは、社会関係資本とも訳される、ある集団における個人の持つ力の単純合計以上の、人々の相互の関わりやネットワークから生まれてくる「プラスαの力」を意味する。個人個人の持つ能力や資質は一定だが、上司・部下の関係、グループのあり方を変えるだけで、同じ集団が元以上の能力を発揮できる場合がある。良いリーダーが作るチーム、相性の良いコンビのようなものだ。能力がある人間でも、相性の悪い上司に仕えさせられたり、仕事のペースの合わない人と組まされたりすると、もともとの力さえ発揮できなくなってしまうことがある。こういう、足を引っ張る関係は、負のソーシャル・キャピタルだ。(p.72-73)


本書のような立場からはネットワークの布置(繋ぎ方など)を変えることによって問題を解決するという処方箋くらいしか出てこない。しかし、必ずしもそれは容易に実行できない場合が多いのではないか?そこに難点があると思われる。



 およそ上司たるものは、人間関係に敏感でなければならない。(p.75)


その通りである。



 良き人間関係には、抑止力があるのだ。そして良き人間関係の欠如は、暴走を生みやすい。(p.92)


たとえば、犯罪者には良き人間関係が欠如していることが多い、という話。

少し前のエントリーで挙げた生活保護について言えば、生活保護受給者も「良き人間関係」をあまり持っていないことが多い。最近NHKが「無縁社会」という語で提起しようとしている問題も、これとつながっている。



 さて、バラバシら統計物理学者は、どうやら人間関係もWWWページや、脳のニューロンや、送電線や、物流網と一緒でスケールフリー性を持っていると言いたいらしいのだが、第2章で述べたように、いかんせん人間関係のホールネットワーク・データが、世の中には存在しない。生物の代謝マップのネットワークや、特定の大学のウェブサイトを起点としてたどるウェブのネットワーク、特定のHIV感染者の集団、企業の取締役のネットワーク、映画俳優の共演関係などの、一般的な人間関係とはまったく異なる、限定されたネットワークの特性が、およそ「脳細胞、インターネット、食物連鎖、人間社会……。どれも同じ法則に従って、つながっていた!」(マーク・ブキャナン 『複雑な世界、単純な法則』草思社、2005年の帯)と言われる根拠なのだ。この世界に存在する人間の、目に見えない友人・知人関係がスケールフリーかどうかは検証されていないままなのだ。(p.109)


数学や統計物理学系のネットワーク研究者たちが求める普遍主義的な傾向に対する社会学系の著者の側からする批判。

こうした言説も現時点の研究の状況では必要だとは思うが、ホールネットワーク・データがないのだから、著者が「限定されたネットワーク」が一般的な人間関係と「まったく異なる」と言う根拠もまたないのではないか、と批判することはできる。相対化しようとすることは必要だが、著者の場合はやや勢い余ったな、という感じがある。



 以前もどこかで書いたが、紐帯の強弱と、その紐帯が構造的にブリッジになっているか否かはまったく異なる次元の話であり、グラノヴェターがかの名論文で書いた“弱い紐帯の強さ”は、弱い紐帯の強さではなく、ブリッジの強さにほかならない。(p.214)


なるほど。



人には、その人が好きなモノ、その人が聞きたがっている話が集まってくる。
 この意味でも、他者からわかりやすい存在でいることは力である。物や人を引き寄せたいと思えば、何がほしいのか、何を求めているのかを、他者の目にわかりやすくしておくことである。(p.229)


確かに。



自分が能動的に築き上げていく関係よりも、自分が受動的に受け止めることしかできない関係にこそ細心の注意を払うべきである。なぜなら、そこには、その人の本質が現れるからだ。
 ……(中略)……。
 自分が誰を好きかは、自分には自明だ。わからないのは、誰が自分を好きなのか、である。自分から能動的に誰かに頼り、誰かに助けてもらおうとすることはできる。能動的なアクションは起こしやすく制御しやすい。一方、自分に向けられた好意、自分へさしのべられている善意は、なかなか感知できない。自分に向けられていて自分がまだ気がついていない、他者からの潜在的な援助や愛情、避けるべき悪意や妨害も含めて、他者から自分に向けられてくる関係を、どこまで認知、制御、活用できるかが人生の豊かさを大いに左右する
 自分から能動的に関係を作って活用していくのは当然として、同時に、その時に他者からすでにさしのべられている関係を見落としていないか、それを考えてみてほしい。(p.234-235)


よく言われること(「ポジティブ・シンキング」的な主体性を重視する精神論的言説)の盲点を突いている。



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産経新聞大阪社会部 『生活保護が危ない~「最後のセーフティネット」はいま~』(その2)

 映画を見た大和総研の原田泰チーフエコノミスト(57)にとって印象的だったのは、ミリキタニ氏*に米国の生活保護を受給させようと奔走するカウンセラーらの姿だった。
 「カウンセラーは、それが仕事なのですから、本来、一生懸命になって当然です。ところが、日本の場合は非常に奇妙で、現場のケースワーカーたちは、なんとか生活保護を支給しないように仕事をやらされている。でも、ある意味、それは当然なんです。生活保護のレベルが高すぎるからです。映画に出てくる米国の生活保護も日本の水準よりは安い」(p.149)


この指摘は的を射ていると考える。生活保護の基準が高すぎることが制度の運用や他の制度との繋がりの悪さ(保護受給状態と受給していない状態のギャップ)の大きな要因なのである。本当に日本国内の福祉水準全般を増進させなければならないと考えるならば、生活保護基準を引き下げることを前提としたうえで、それ以前のレベルのセーフティネットを拡充するという戦略が必要になる。

(なお、私見ではここに制度の分立を絡めていくことが必要だと考える。また、生活保護基準を下げずに他の福祉も増進させるならば、劇的に大幅な増税――国民負担率を2倍くらいにもするようなもの――を甘受するとともに、経済政策的にも劇的に一般的な家計の所得水準の向上――中国の中間層のようなレベルでの所得向上――が可能なものを提示して実行することで、名目上は現状の基準を維持しても実質的な水準が下がることを仮定しなければならず、経済環境的にそれはあり得ないと考えられるため、保護基準を下げる必要があるということである。)

もちろん、現実の政治過程ではそれを実現するのは容易ではないだろうが、保護の基準を高める(デフレや一般家庭の生活水準が下落する中で基準を維持することを含む)ということは、一見福祉の充実のように見えて、実際は中長期的に問題をよりこじらせてしまう方向だということには左から運動している人々は気づく必要があるだろう。保護の基準を下げることには同意しながら、ある意味ではその代替として生活保護と他の社会保障制度のギャップを埋める措置を準備していくという戦略が必要である。



生活保護を受給させる権利の獲得には熱心な弁護士の先生はいても、いったん受給を認めさせると、その後の生活や、生活保護からの自立のことまで考える人はほとんどいない。ずさんな行政側の対応が、訴訟や交渉を通じて改善することに意義はあると思います。しかし、求める人に生活保護を受給させることは人権派弁護士としての実績になっても、生活保護から脱却し、社会的にも経済的にも自立した生活を送れるよう支援するような活動は、法律家の世界ではあまり評価されていないのではないでしょうか。弁護士は生活保護に入れるまでのことしか考えない。ケースワーカーは入った後の対処しか考えようとしない、根本的なところでそんなすれ違いがあるような気がします」。そんなケースワーカー経験者の声は無視できないだろう。(p.179-180)


妥当な批判である。生活保護の申請に弁護士が付き添うと(申請をスムーズに受けさせるのに)効果があるなどと弁護士が書いた生活保護関係の本などにはよく書かれている。しかし、彼らは同行までして生活保護を受給させた以上、その受給者(正確には要保護者)に対して保護受給後もそこから脱却するところまで支援する責任を持つべきではないか?保護だけ受けさせて後は行政に丸投げし、経済的にも財政的にも法的にも何の支援もしません、というのは、あまりに無責任であるように思われる。

たとえば、その申請の際に不正に隠されていた資産があり、それが発覚した場合などは連帯責任を取るくらいのことはした方が良い。(実際、法律上も、不正に保護を受けさせた者には損害賠償請求をすることができることが生活保護法第78条に規定されている。)そのような覚悟や責任ある対応すらせず、受給権があるから受けさせろ、というだけで、そのまま保護受給が続くことを良しとしているかのような対応には疑問である。つまり、本当の意味で相談者(要保護者)のためを考えて行動しているとは言えない面があるのではないか。

もちろん、生活保護受給後に支援していけることは限られているが、たとえば、自立のための指導指示や助言指導などに対して、それを側面からバックアップして受給者となった相談者にきちんとした行為を促すような支援があれば、行政側もやりやすいだろうし、両者の協力関係が構築されてこれば、法律家が相談者を申請させに来た時の行政側の対応もより受容的になるのではないか。現状では、ケースワーカーの側から見ると、確かに、仕事を半ば強引に押し付けられて、そのまま無責任に立ち去っていく人に見えても仕方ないだろうし、実際にそういう面があることも否定できないだろう。その意味で引用文の批判は当たっている。

そして前に述べたことの繰り返しになるが、根本的には保護基準の高さがこうした状況の改善を困難にしている




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産経新聞大阪社会部 『生活保護が危ない~「最後のセーフティネット」はいま~』(その1)

 大阪市では、職安OBの区役所配置や企業に対する就労補助など六つのメニューを用意する。プログラムを活用して就労したのは18年4月から12月までの間に714人。だが、そのうち生活保護から自立できたのは95人にとどまっている。それでも、市では「約1億7000万円分の効果があった」と、評価している。
 こうした自立支援策について、現場のケースワーカーからは「ケースワーカーが抱え込んで何もできないままでいるよりずっといい」という声が聞かれる。しかし、受給者全体の約8万4000世帯から見れば、就労自立につながった数は、悲しくなるほど少ないのが現実だ。(p.34-35)


84,000世帯のうち、714人が8か月間のうちに就労したとのデータだが、1年に換算すると約1,000人。世帯と人との単位の違いがあるが、各世帯が一人の就労可能な人を持つと仮定すると、1年間に新規就労したのは、1/84という計算になる。就労自立が95人で、これを1年分に換算すると約150人。全体からみると確かに異様に少ない。

ただ、そもそも84,000世帯のうち、約7割は高齢世帯や傷病・障害世帯だという事実を考慮しなければならない。残りの3割が母子世帯とその他世帯と概略的には考えてよいだろう。母子世帯の半分くらいは母親が精神疾患等を抱えており働けないから、就労自立の対象となる世帯は全体の20%くらいということになるだろう。そう考えると、割合的には上記の5倍程度にして考える必要があり、就労者は約6%で、自立は就労可能な者のうち0.9%に上がる。(もちろん、プログラムを活用せずに就労や自立に至る事例もこのほかにもあるはずである。自立支援プログラム活用者だけでなく全体でこんなに少ないとしたらかなりの問題だ。)

確かにあまり大きな効果とは言えないが、本当にケースワーカーだけでは打つ手がないのならば(そうだとすれば、それは相応の「処遇困難ケース」だろうし)、それなりの効果があるとも言える。細かな実態を見なければ(本書の記述だけでは)評価は難しい。



 職安では仕事を探したい人が必死に仕事を探していくが、ここでは、「働けるんだから働くことは大切だよ」と説くところから始めなければならないというのが古久保さん(引用者注;大阪市の就労支援員)の感想だ。なかには生活保護で無料になる医療費を考え、「生活保護が打ち切りにならない範囲で働いている」と打ち明ける受給者もいる。
 ……(中略)……。
何で仕事をしたくないのかさっぱりわからん。国が悪い、隣のおっさんは遊びながらええもん食ってる。そんなことばかり一生思いながら生きいくんか……」(p.35-36)


生活保護受給してしまうと、受給者の就労意欲は劇的に萎える。大抵の者は2-3か月もすると「いかに働かずに保護費だけを貰おうか」を考えるようになる。もちろん、保護から早く自立したいとして、すぐに仕事を探して見つける者もいる。しかし、それはどちらかというと少数派に属すると見てよい。そういう気概がある人は周囲からも見放されることはなく、生活保護を受給するに至る前に何とか救いの手が差し伸べられるし、その選択肢に自ら気づき、選んでいくことができる。しかし、そうでない者が社会からはじき出され、保護へと逃げ込まざるを得なくなっていく。残念ながらこのような状況が現実のようだ。

このように書くと、何となくダメな奴はその人が悪いからだ、と言っているように思うかもしれないが、もちろん、これは個人の責任とは言い切れない。(ただ、社会科学ではこうした場合、「社会」の側の問題を指摘する方向に傾くのだが、だからと言って個人の責任がないと言うこともまた言い過ぎではある。)

制度的な要因や実施体制の問題としては、現場における就労指導の体制がどの程度確立しているかということが挙げられるほか、引用文に示されているように医療扶助や各種減免措置など保護受給者にはないメリットが多すぎて、保護受給中と保護廃止後の劇的な変化に対する不安が一旦保護を受けた者にとっては、そこから抜け出していくことをためらわせる要因となっている点は否定できない。(まだ他にもいくらでも挙げられるだろう。)

この意味からも、私は生活保護は生活扶助に限定すべきであり、その他の現行の7つの扶助はそこから切り離し、別の制度にすべきだと考えている。たとえば、教育扶助は就学援助に組み込むか同じ制度として一つにまとめてしまえばよいし、住宅扶助は公営住宅のあり方など、その他の住宅施策全般の中に位置づけなおされるべきであり、医療扶助は当然に医療保険制度の中の所得が最低レベルの人々に対して大部分を公費により負担することで医療の利用を保障する制度として再編されるのが望ましいということだ。

さて、引用文の最後の就労支援員のコメントに対する私の意見を述べておく。後半の部分には大いに共感する。ただ、なぜ保護受給に至った彼らが働こうとしないのか、という点に関しては、就労支援を仕事にしているならば、もう少し理解を深める必要があるのではないか、と考える。これについては更に言うべきことがあるが、この場では差し控えておくことにする。



 札幌市が18年12月に行った実態調査では、年金担保貸付を利用していた生活保護受給世帯88世帯で、借金の総額は1億3000万円にのぼっていたことが明らかになった。(p.87)


ひどい話である。



「受給者たちの生活に熱心に入り込もうとする職員ほど、現実に裏切られることも多く、早く燃え尽きてしまいがち。むしろ、受給者たちと一線を引き、事務的に物事を進める職員の方が案外、長続きすることが多い。そんな矛盾があります」と、ケースワーカーの一人は打ち明けた。(p.105)


ケースワーカーは激務なので敬遠されるという話はよく聞くが、取り組みによって業務の負担は相当違いが出るというのもまた事実である。

前者の燃え尽きてしまうというのは、最近読んだ河本英夫の『飽きる力』(近々このブログにもコメントをアップする予定)によれば、「筋違いの努力」を続けてしまい、仕事に「飽きる」ことができなかったため、より高い次元へと仕事の作動を変えていくことに失敗した事例ということだろう。ケースワーカーに限らず、見られることではあると思うが、この業界では他の業界と比べて「現実に裏切られる」ことが相当多いので、次々と状況に応じて「生成プロセス」を変えていかなければ、筋違いの努力を続けてしまいやすいということだろう。






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本田良一 『ルポ 生活保護 貧困をなくす新たな取り組み』

 かつて「適正化」のモデルとされた、保護費支給を厳しく抑制する北九州方式は孤独死に象徴される多くの「犠牲者」を生んで行き詰まり、いま、保護率50パーミルという、かつての手本から最も遠い存在だった釧路市に、国も自治体も注目し始めた。(p.)


近年になって生活保護をめぐる施策の流れが変わってきたことを指摘している。確かにそうした流れはあるように思われる。

生活保護に関する現場の流れも自立支援プログラムの導入をめぐる(単なる議論ではなく実際の)取り組みの中で、事後的な処罰から事前予防の観点から取り組もうとする自治体が増える傾向の萌芽がみられるし、また、短期的に就労自立を強く促進できるかどうかは別としても、中長期的に「自立」(日常生活自立や社会生活自立を含む)を促進する方向の施策(中学生の進学を促進するための取り組みや、母子家庭などの生活面へのケアを通して、貧困再生産を多少なりとも予防しようとする取り組み、すぐには就労できる見込みがない受給者にも「中間就労」の機会を付与する取り組みなど)が少しずつではあるが浸透しつつあるからである。

これは望ましい方向性ではあるとは思うが、生活保護を改善しても福祉全体の改善には必ずしもつながらないのではないか、という最近の私の考えからすると、やや的が外れたところでの取り組みであるように思われる。予防するなら生活保護制度の実施機関が行うより前の段階でより強く行うべきだし、中長期的な自立の支援も保護受給といういわば「丸裸の状態」に至る前に行う方が効果的だと思うからである。

自立支援プログラムに対する私の批判は、自立支援プログラムの「自立」が経済的自立だけでなく、日常生活自立や社会生活自立をも含むものだとするのであれば、生活保護受給者だけに限定して適用されるのはあまりにも狭すぎる、という点にあり、むしろ、日常生活自立や社会生活自立の支援は生活保護制度以外の、より普遍的に適用できる方法で行うべきだ、というものである。もちろん、生活保護受給者も他法他施策優先の原理により、それらの効用を受けることができるはずである。

その意味で、本書が注目する釧路市の自立支援プログラムについても、生活保護のセクションではなく、それ以外のセクションで扱うべきものが多いように思われるのである。生活保護の守備範囲を狭め、それ以外の福祉施策(生活保護以前のセーフティネット)を充実させる方が、現行の日本の福祉制度は改善するのではないか?



 文部科学省によると、子どもが公立学校へ通う場合、保護者の年間負担は一人平均で小学生9万7500円、中学生16万9700円(2006年度)。就学援助は、こうした負担を公費で支え、経済的な理由で就学が困難な小中学生を支援しようと、1957年度から国の事業としてスタートした。
 ……(中略)……。
 国は04年度まで補助金を出していたが、05年度以降は三位一体の改革によって使い道が限定されていない一般財源となる地方交付税に組み込まれ、生活保護世帯に対する負担金だけが続いている。各自治体間の支給基準をめぐる格差は、この一般財源化によって拡大したとみられる。(p.60-61)


就学援助の利用者も近年急速に増えているそうだが、三位一体改革によって一般財源化されることによって、利用者急増に中央政府は直接対応しなくてもよくなった。その分の負担を自治体がしなければならなくなったわけであり、中央政府のこうした財政責任の放棄は、自治体による制度の運用を悪化させることに繋がる。そのわかりやすい一例だろう。



 2000年時点で日本の子どもの貧困率は14.3%。ほぼ7人に1人の割合だ。これは税金や医療保険など社会保険料の負担を差し引き、逆に児童手当や年金など社会保障給付を加えた可処分所得で見たもの、つまり税制や社会保障制度など国による所得再分配が行われた後の数字だ。この所得再分配後の貧困率を再分配前の数字と比べると、国による貧困削減の効果を計ることができる。これを見ると、再分配前の日本の子どもの貧困率は12.9%。つまり、日本は税制や社会保障制度によって子どもの貧困率を逆に1.4ポイント悪化させているのだ。(p.64)


消費税増税の議論でその逆進性の点から批判するという言説があるが、その説はこうした現状からみると妥当なものだということになる。

私見では増税の際には累進消費税の導入や所得税の累進性の構造を80年代頃の水準に戻すことや贈与税と相続税の課税最低限を下げながら累進性を高めることなどを軸として行うべきだと考えている。



 釧路市の自立支援プログラムがすべてうまく進んでいるわけではない。まず、ケースワーカーは受給者の生活ぶりなどを考慮した上で、参加を呼びかけるのだが、「やってみよう」と答える受給者は少ない。釧路市の2009年度の平均保護世帯数は5940世帯。プログラムの参加割合は12%にすぎない。
 プログラム参加をきっかけに経済的に自立したが、その後、挫折した例もある。
 ……(中略)……。
 Mさんの例は、自立後のフォローがない自立支援プログラムの弱点も浮き彫りにした。(p.191-193)


本書は大部分を釧路市の自立支援プログラムに関連する記述で埋められているのだが、うまくいっていない点を挙げているのはほぼこの部分だけではないか、というくらい肯定的に評価している。その意味で、こうした欠点の記述はその実態を把握する上で重要な個所である。

参加者が少ないということは、成功例があるとしても大量現象として成功事例が多数出ているわけではないということを物語る。また、自立後のフォローがないという弱点については、私が上で述べた生活保護制度の外でこうしたプログラムは行われるべきだという論点に正当性を付与するものである。生活保護が何もかも丸抱えしているから、自立後の世界は生活保護が適用されている状態と大きく異なることとなり、その環境変化に適応できなかった場合に挫折を引き起こすし、自立することへの不安を受給者に植え付け、結果、できるだけ保護を受け続けようとする心理を生じさせてしまうのである。生活保護については、制度を分立すべきだということも何度も書いてきたが、これはその主張とも通じている問題である。



 東京都は2008年度から生活保護家庭の小中学生に直接、塾代を支援している。……(中略)……。高校就学費用が支給されるようになったとしても、高校入試を突破できる学力がないと、進学できない。板橋区でも、江戸川中三勉強会の取り組みは知っていたが、ケースワーカーや社会人ボランティアを組織することは難しいと判断。そこで、07年度から塾代を年間19万円まで支給し、進学率向上を目指した。こうした取り組みの結果、全日制高校への進学率は05年度は71.0%だったが、06年度71.6%、07年度75.7%、08年度76.2%と年々上昇している。
 都は08年度、生活保護世帯ではないが、生計が苦しい家庭で進学を目指す中学三年生、高校三年生を対象に塾代を貸し付ける制度も開始。上限は中学三年生が15万円、高校三年生は20万円。合格すれば返済を免除される。(p.206-207)


問題は金だけではないとはいえ、貧困の再生産を防ぐにはそれなりの効果がありそうな施策である。



 給付付き税額控除を進めていくと「ベーシック・インカム」になる。(p.237)


なるほど。



 一般世帯の生活レベルの低下に合わせて保護基準が下げられていくと、「最低限度の生活」レベルは、歯止めなく際限なく落ちていく。(p.241)


このことはよく言われることであり、私もそう思っていたことはあるが、今はやや否定的である。本当にそうだろうか?

かつては生活保護制度があっても現在よりもかなり支給水準は低かったことが忘れられてはいないだろうか?現在は保護基準の算定にあたって、格差縮小方式を採用して格差が十分縮小したとの認識に基づいて水準均衡方式が採用されている。裏を返せば、かつては一般世帯と保護世帯の格差は現在よりも大きかったということだ。その頃でも生活保護受給世帯は厳しいなりにもそれなりに生活してきたはずであり、直ちに餓死するようなレベルであったわけではない。また、逆に一般世帯の生活レベルが下がっても、いつまでも保護基準を下げないでおくことによって、たとえば日本の全世帯の8割が保護基準以下になったとすれば、制度は成り立つだろうか?というように考えれば、一般世帯の生活水準が低下するのに伴って保護の基準も下がるのはやむを得ないところであろう。

水準均衡方式を採用しながら(またはそれに近い方法で)基準引き下げを行うならば、歯止めなく落ちていくことはない。この場合、もし一般世帯の生活レベルが際限なく下がるとすれば、生活保護の基準も際限なく下がることになるが、そのとき第一に問題になるのは、その時の世界経済の状態に対する適切な経済政策や企業の行動をとることであって生活保護制度ではないはずである。



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