アヴェスターにはこう書いている?
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ギャラリー・間 編 『建築MAP京都』

加えて、耐久性の目処が80年といわれる鉄筋コンクリートの建造物にも、解体の刃は次々に向けられつつある。そうしたなか、かつて中京郵便局の保存・再生が切り開いた「ファサード保存」という地平は、「開発」と「保存」を調停する極めて有効な方策として注目される。(p.39)


鉄筋コンクリートの建造物が80年ほどが耐久性の目処だといわれているということは、初期の(大正時代くらいの)鉄筋コンクリート造の建物は、そろそろ耐久性の限界に達しつつあるということになる。歴史的な街並みの保存という観点から見て、こうした時代の建造物が売りになっている土地では大きな問題であろう。

本書ではファサード保存にその活路を見い出そうとしているが、正直に言って、私の感覚からすると内部も保存して欲しいという思いがある。確かに町並みの保存という観点や経済的な効率性などの観点から見ると、ファサード保存には十分な利点があると思うが、内部を全く変えてしまうような「保存」には疑問を感じる。

いずれにせよこの問題は難問である。



景観を議論するときに細心の注意で扱わねばならないのが先の視点場の問題なのである。(p.113)


確かに。



事実、近代に入ってからの日本の建築界が西洋技術の摂取から自立してゆく過程で、重要なターニングポイントのほとんどは大正時代になされているのである。(p.242)


興味深い指摘。



こうしたさまざまな要素が絡みながら、全体としてモダンデザインへと向かうというのがこの時期の傾向である。したがって、昭和戦前期に建てられた建築を見るに当たっては、そのデザインを特定の分類にはめ込もうとするのではなく、要素に分解してそれらがどのような影響のもとに現れたかを考える方が的確である。
 また、昭和5年(1930)頃から国粋主義にともなう帝冠様式も次第に姿を現すようになる。(p.243)


前段は参考になる指摘。

後段の帝冠様式はこれから少し詳しく調べてみたいと思う対象である。日本の国際連盟からの離脱など国際的孤立の状況との関連などから今のところ理解しているが、これに類する建築が他国でもあるように思われるため、そうしたものとの比較などもできれば面白いだろう。


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島田誠、森栗茂一 『カラー版 神戸 震災をこえてきた街ガイド』

 最初、官営鉄道(現JR)は、大坂から「三ノ宮駅」(いまの元町駅付近、小ステーションとよばれた)を経て、ぐるっと回って海沿いに少し南にある兵庫をめざし、その手前に「神戸駅」をつくったのです。一方、1888(明治21)年、山陽鉄道(私鉄)が明石-兵庫間を営業し、翌年、神戸駅まで延長して、官営鉄道とつながりました。1901(明治39)年には下関までつながりましたが、1906(明治39)年に国営化されました。神戸駅付近のこの曲がりには、当時の官営鉄道と私鉄との連絡という歴史が隠されていたのです。(p.10)


これとほぼ同じようなパターンが現在のJR小樽駅とJR南小樽駅の間に見ることができる。こうした鉄道路線の一見不必要なカーブは、同じような鉄道の連結の歴史と関係があるものが多いのかもしれない。



 ところが、この六甲山は、江戸時代後期には「青い山脈」ではなく、はげ山だったのです。
 その原因は、江戸時代前半の商品経済にあります。江戸時代の「寒村」が一気に近代都市神戸になったのではありません。神戸は、天下の台所・大坂(明治以降は大阪)をひかえた商品経済の発達した農村でした。六甲山から落ちる急流を利用した水車で、菜種油を絞り、小麦を製粉してそうめんをつくり、酒米を精米し、つくった酒を樽廻船で出しました。地方から労働者を集め、夜なべ仕事で、出荷用の俵・縄をつくっていたのです。そうすると、薪として切られたり、夜なべ仕事用の小灯の松根が掘られて、はげ山になりました。松根は油脂が多く、明るく燃えるので、夜なべ仕事には必要でした。
 近代に入って、植林、治水を徹底して、今日の緑豊かな六甲山ができたのです。(p.21)


上の引用文で小樽の事例と同じであることを述べたが、これも同じく小樽にも似た事例がある。小樽の場合は明治時代に入ってからであるが、近隣の山が鰊の加工のための薪として切り出されて同じようにはげ山となっていそうだからである。

近代の日本の港町は類似した歴史を持つことが多いように思われる。このことについて認識を深めたのが本書を読んだ収穫の一つである。個別の幾つかの都市に詳しくなっておくと比較が可能になるので、他の都市の特徴が見えやすくなるのは利点である。(逆に、先にモデルがあることによって見えるはずのものが見えにくくなることもあるのだが、全体としては利点の方が大きいように思われる。)



 大和田橋のかかる兵庫運河は、瀬戸内海から神戸に来る小船が、安全にはやく神戸港に入るために1898(明治31)年に開かれました。近年ではほとんど役割をはたしていませんが、キャナルプロムナードがつくられるなど、市民の水辺として再生されることが期待されています。(p.38)


また小樽との比較で言うと、小樽運河の完成は1923(大正12)年だから25年も遅いが、運河を建設するか埠頭を建設するかなど本格的な港湾整備のための議論は兵庫運河が完成した頃から始まっていたことが知られている。港湾整備の必要性は日本では明治の中期頃にはかなり重要な問題だったのかもしれない。



 今日では、仏教は葬式のためにあると思いがちですが、それは江戸時代にできた檀家制度以降のことです。行基は庶民生活のために、ため池や橋をつくりました。港の整備もその一環です。浄土教は、自給自足する農民だけでなく、海港や街道で運輸にかかわる人々、遊女などの信仰が厚かったのです。古代・中世の仏教は民間開発デベロッパーであり、流通・サービス産業(第3次産業)で働く労働者の救済のために信仰をひろめたのですが、現代の兵庫の寺院も、非日常の災害や日常の喜び(芸能)を記憶する場所となっています。(p.38-39)


宗教は政治的な現象であるというのが、私の基本的な捉え方だが、ここでは「民間デベロッパー」と表現されているものの、基本的には私とほぼ同じような側面を捉えている。

ただ、僧侶は単に経済的な力だけでなく政治的な発言力をも持っていたはずだし、また、こうした「開発」によって信徒を得るわけだが、それはあたかも政党が票や党員を集めるのと同じであるということを考えると、「民間」という表記はやや不適当であるというのが私の見解である。この言葉が思い起こさせるよりも、もっと政治的な現象であると考えた方が妥当であろう。



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藤井康生 『神戸を読む』

 こうした地震によるイメージ・ダウンは神戸にとって致命的に思われた。ところが、都市のイメージは、いかに浮華的であっても、一度形成されると簡単に壊れないことも分かってきた。無意識的に形成された都市のイメージは、都市の付加価値として一人歩きしていたのである。例えば、震災後に延べ150万人に及ぶボランティアが集まったのも、神戸に対するイメージぬきには考えられないことであった。150万人といえば、神戸市の人口に匹敵する数である。実際、「自分の町はこんなに沢山のボランティアが来てくれるだろうか」と話していたボランティアもいた。つまり、都市のイメージは、いったん形成されるとなかなか崩れず、むしろ復興の有力な武器になるのである。
 では、そうした漠然としたイメージはいかにして作られたのか、先ほどは<霊力>に培われたと述べたが、この曖昧な<霊力>による集団的欲望こそ、都市を考える上において重要である。都市は、地理学、経済学、歴史学の対象になる前に、イメージ学の対象にならねばならない。(p.9-10)


「都市」にはイメージがあり、それがその「都市」の持つある種の力になるということを指摘しており、確かに参考になる。都市のイメージは都市のある種の「資産」ではないか

神戸が震災の時に多くのボランティアを集めたという点について「自分の町にはこんなに沢山のボランティアが来てくれるだろうか」という疑問は、私も思ったし、これだけの人が来る神戸はそれだけ大きなイメージの「資産」を持っている(持っていた)ということだろう。

しかし、イメージだけによってはボランティアの集まり具合を説明するのは不当だろう。ボランティアたりうる人が存在する地域からの交通アクセスの問題などもあるからだ。例えば、神戸は人口約150万人でボランティアも同じくらい延べ人数で来たが、札幌は人口約180万人だが、同じくらいの震災が来て同じくらいの被害を受けたとして、同じくらいのイメージ資産を持っていたとしても、恐らく150万人や180万人のボランティアは集まらないだろう。近傍にほかに大都市圏がなく、アクセスの際の交通の便などもかなり違っているからである。

ボランティアを動機づけた一つの契機として都市のイメージの力は小さなものではなかったとは思われるが、そればかりを強調しても現実を読み誤る。文学やエッセイによる社会批評を読む際にはこうした点に注意しなければいけないように思われる。



今日では想像しがたいことだが、明治35年の『神戸又新日報』の社説に「神戸に光彩を与ふるは天然の良港に非ず、壮麗なる旧居留地に非ず、実に湊川神社あるが為なり」(奥村弘「みなとの祭りから神戸のまつりへ」『歴史のなかの神戸と平家』神戸新聞総合出版センター、1999年所収)とあるように、戦前までは湊川神社こそが神戸の代表的なシンボリック・スポットだったのである。このことは戦後の神戸を考える上で忘れてはならないポイントである。(p.139)


神戸が戦前は「皇国都市」としての側面を強く持っていたという本書の指摘は、モダンでハイカラなイメージばかりが先行しがちな神戸のイメージに変更を迫るものとして重要であると思う。

ただ、国粋主義的なものと明治時代にモダンであることとを本書では矛盾ないし二面性を持つものとして捉えているが、それに対しては私はナショナリズムの研究者である小熊英二の捉え方の方が妥当であると。すなわち、国粋主義者、ナショナリストは当時の最も西洋化された人々であることが多く、ナショナリズムは非常に近代西欧的なものであるという指摘である。そう捉えれば、モダンな神戸が戦前にあって国粋主義的な傾向を牽引したとしても何らの不思議もないことになると私は考える。



大戦勃発後、松方はヨーロッパへ飛び、とりわけロンドンとパリで絵画を買いあさり、のちに松方コレクションとして知られる美術品の収集が始められるのだが、資金が足りないときは鈴木商店の援助を受けていたから、松方コレクションは松方幸次郎一人の功績のように言われているが、鈴木商店の名も忘れてはなるまい。(p.179-180)


戦前の日本の歴史には私は未だ疎いのだが、金融や資本の動きなどを追っていくにあたり、この鈴木商店は注目する価値がありそうだと踏んでいたので、少し興味を引かれた箇所。また、鈴木商店は私の研究対象の土地の一つである台湾とも密接に関わっているので尚更興味を引かれたところである。


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