アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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宮本和義、アトリエM5 『近代建築散歩 京都、大坂、神戸編』

大都市の街路に、はっきりとした上下の区別がつき、上位の街路に直面することが極度に重要視される、という事態が東京以外の都市で一般化するのは、近代的な法定都市計画が施行されてから、つまり1918年以降のことである。(p.6)


興味深い指摘。



 居留地は1868年の開港以来、繁栄の一途をたどっていたが、第一次世界大戦が勃発すると主流であったヨーロッパ系の商社が撤退し、日本の船会社、保険会社などが進出することになる。その際に、それまでに建てられていた小規模の建物にかわって今日に残る大規模で本格的な建築が建てられはじめた。(p.191)


神戸の事例。こうした世界情勢の変化と都市景観の連動というのは興味深い。ヨーロッパの商社が小規模な建物を使っていたのだとすれば、それは出張所的な扱いだったからだろうか?また、上の引用文との関係を見ると、法定都市計画が施行されて街路に直面することが重視されるようになった時期ともほぼ重なっていることがわかり、こうした背景も「大規模で本格的な建築」を建てようとする誘引になったかもしれない。

話は変わるが、私が本書を読んで一番参考になったのは、1930年代の日本が国際的に孤立し、国粋主義的な風潮が強まっていた時代に「和風」の意匠をもつ近代建築が多く建てられたことが視覚的に把握/了解できたことであった。

例えば、京都の弥栄会館(p.25/1936年)、南座(p.28/1929年)、京都市美術館(p.70/1933年)、大坂市立美術館(p157/1936年)、白鶴美術館(p.209/1934年)などがそうである。美術館が多いことにも気づくが、これは美術の展示が国威発揚やナショナル・アイデンティティと関わっていることを暗示しており興味深い。

そのほか、本書を読んでいて見てみたいと思った建築をメモしておく。

京都国立博物館本館
河井寛次郎記念館
本願寺伝道院
旧京都市下京図書館
梅小路蒸気機関車館、扇形車庫、資料展示館(旧二条駅)
龍谷大学本館

弥栄会館

京都文化博物館別館
中京郵便局
京都市庁舎本館
カーニバルタイムズ

神戸回教寺院

近々、京都や神戸周辺に行く予定があるので、全部は無理でも幾つかは実地で見てきたいところである。


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宮元健次 『京都名庭を歩く』

 来日した宣教師のほとんどは、それぞれ異なる分野を極めた専門家であり、例えば天文学を専門とした宣教師スピノラは、日本初の天体観測を行なった。また美術や文学、建築や庭園を専門とする宣教師もいたとみられ、日本人に西欧文化を教授したのである。(p.164)


宣教師は現在でいうところの科学や技術の専門的な知識を持っていたとする指摘は重要である。宗教だけに着目していては、当時の状況についての実態は見えてこない。



 同時代のヨーロッパは、ルネサンス・バロックと呼ばれる芸術の革命期であり、貴族の間で花壇や噴水、幾何学を駆使した整形式庭園が大流行している。くしくもその頃、日本においても貴族の間で庭園ブームとなっており、ルネサンス・バロック庭園の手法を学んだ遠州は、これらの西欧手法を次々と実践していくことになるのだ。
 ……(中略)……。
 このような整形式庭園のブームは、さらにヨーロッパ全土に拡大し、ついには中国にまで波及することになる。その実例が、北京に遺構が現存する円明園及び長春園である。この庭園も日本と同様にイエズス会の宣教師によるキリスト教布教を通じてもたらされたルネサンス・バロック庭園のテクニックを駆使したもので、遺構を見てもシンメトリーや黄金分割といった西欧手法が用いられており、史料によれば、西洋の洋式建築や花壇や噴水を持つ整形式庭園であったことが確認できる。
 よって日本へ同じく宣教師の布教を通じてルネサンス・バロック庭園の手法がもたらされたとしても、全く不自然ではなかったといえよう。(p.168-169)


このような西欧の手法が江戸時代の日本の「伝統的な」庭園に持ち込まれていたという指摘が、本書を読んで最も興味深かった点であった。


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小寺武久 『中世インド建築史紀行――聖と俗の共生する世界』

 しかしインド建築史を一貫した通史として取り扱うこと自体が、本来きわめて難しいというべきなのかもしれない。いくつかの美術・建築史の概説書も、ほとんどインドを地域別に分割して書かれており、地域相互間のつながりについては、あまり明確には述べられていない。(p.180-181)


インド建築史なるものを一貫した通史として扱おうとすること自体が、「インド」という枠組みが昔から続いていたかのような、現実離れした前提をしているから生じている問題設定であると思われる。

例えば、12世紀など、いわゆる中世というカテゴリーで括られるような時代に、地理的領域としての「インド亜大陸」が「一つのまとまりを持った世界である」という認識が共有されていたか疑問だし、また、その地域内での関係が地域外の地域との関係と比較して緊密性が高かったかと問えば、必ずしもそうではない、という答になるだろう。

つまり、例えば、ヒマラヤの近くと亜大陸の南端の関係はあまりなさそうだが、ヒマラヤ付近とチベットの方が相互の関係は深そうだし、南インドは海を通して中東や東南アジアとの関係が深かったに違いない(もちろん、デカン高原との交流もあっただろうが)。

こうした関係性の歴史的変遷などに私は興味があるのだが、今のところインドの歴史に関する本でこのあたりのことをしっかりと論じてくれているものを見つけていないのが残念である。

まぁ、いずれにせよインドの建築の歴史を一つの通史として書こうとしても無理があるというのは筆者の言うとおりであろうとし、それは「インド」というものが歴史的に一つの世界を形成してはいなかったということを反映していると思われる。


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山路勝彦 『近代日本の海外学術調査』

 西欧近代社会が科学技術と産業の発展を誇示する目的で開催した万国博覧会が、植民地統治の成果を誇示する機会でもあったということは、今日ではよく知られている。(p.20)


近代の歴史に関心がある人やポストコロニアリズムに関心がある人なら、ある程度広まっていると思うが、一般人にはそれほど広まっていないように思う。その意味ではもっと啓蒙的な著作なども書かれてよい話ではないかと思われる。



 だが、こうした雑多性のなかで、いまだ民俗学と民族学とが意識のうえでは分別されていなかった当時において学会の名称に「民族」という用語が用いられていたことに、何人かの読者は戸惑ったようである。「民族」という言葉は、国粋主義の高まりのなかで、1890(明治23)年前後からしだいに使われ始めたと考えられている(安田浩「近代日本における<民族>観念の形成」『思想と現代』31号)。いうなれば、それは政治的色彩をもった言葉であり、「国民」という語と同義語として使われていたようである。それだから、論文を読んだ一読者のなかには内容本位にみて「民俗」としたほうがよいと感想をよせる人もあらわれてくる。この学問の名称が揺れ動いた背景には、大正期における「民族」という用語の不安定さが潜んでいたのである。(p.56)


「民族」という用語も、それほど古いものではないということを押さえておくのは重要と思われる。


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