アヴェスターにはこう書いている?
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清水泰博 『景観を歩く京都ガイド とっておきの1日コース』

「京都」イメージで発信されるものが存在するのは特定の場所だけか、もしくはそのアングルだけといった場合さえもあるのだ。そんなふうに歴史的な場所は断片化されてきてしまっているのが現実である。(p.)


この断片化に対して「シークエンス」を強調するのが本書の基本的な視点となっている。



 さらに日本の空間の大きな魅力は「シークエンス(継起性)」のすばらしさではないだろうか。シークエンスとは、移動することによって連続的に変化し、展開していく空間の心地よさといったことである。(p.)


殊更に「日本の空間」という必要はないが、旅や観光をする時にシークエンスの素晴らしさを体感することを意識しているか否かは、感じ方に大きな変化を齎すと思うので重要な指摘であると思う。

ただ、海外旅行の場合、日本ほど景色や雰囲気の素晴らしさにばかり気を配っていられないところがあるという意味では、日本国内の相対的に安全で安心できる場所でこそ、こうしたシークエンスの素晴らしさを感じやすいとは言えるかも知れない。



 空間を分けてつなぐことによって「結界」が生まれる。「結界」とは空間がそこで変化する場所である。神社に見られる「鳥居」などもそのような装置で、その場所で空間を分けて、つないでいる。……(中略)……。また川や橋も結界を作り出す。……(中略)……。
 このように、日本には序列の作られた空間が多い。上座から下座までの序列で室内空間ができている京都御所小御所もそうだが、村落の空間構成にもそのようなものが存在することを以前に聞いた。それは「ムラ、ノラ、ハラ」といった、その村に住む人たちだけに了解された、見えない序列をもった領域である。ムラ、ノラ、ハラは次第に広くなっていく空間概念であり、その境界にはお地蔵さんなどが置かれている。そしてそういった領域の境目「結界」の場所で、住人たちは来客者を出迎え、見送る。西欧や中国などの城壁を作ったりするのとは違った、柔らかな境界線だ。(p.119-120)


イスラーム世界の都市は外部から来た者には迷路のように見えることがあるが、道の広さや家屋の2階部分を繋ぐアーチなどの装置によって「分けてつながれて」いる。それによって公的な空間と私的な空間が区別されている。これも日本に限ったものではなく、さまざまな場所で見られるものである。

ただ、相応の注意力や知識を持たないと発見しにくい。だから、このように「分けて繋ぐ」ということを意識してものを見ると面白い発見ができるかもしれない。



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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

田中希美男 『基本がわかる!写真がうまくなる! 「デジタル一眼」撮影術入門』

 フレーミングした画面を見て暗い部分が多いと感じればマイナス補正をします。夜景撮影も基本はマイナス補正なのですが、ただし、画面内に明るい街灯やネオンがあるときは露出補正をしない方がよい場合もあります。(p.76)


夜景撮影は好きなのだが、マイナス補正はあまりしてこなかった。今後、試してみたい。



この「電灯光」モードをよく利用するのが、夕暮れ時、太陽が隠れてしまって空が淡いブルーに染まる頃です。(p.85)


青い空や青い水の青さを強調しようと思って以前に読んだ本を参考にして電灯光モードで撮影したことがあるのだが、画面全体が青くなりすぎて不自然になってしまうため、私はあまりこのモードは使わなくなってしまっていたのだが、ここで紹介されているシーンでは使えるかも。試してみたい。



(1)広角レンズを使う
(2)絞りを絞り込む
(3)ぶらさない
(4)やや俯瞰ぎみで撮る
(5)ピントは手前3分の1

 広角、絞り、ピントの三つはパンフォーカス写真のための絶対条件です。「やや俯瞰ぎみで撮る」理由は、その方が被写体が前後に重ならないので、奥行きの広がり感が出るからです。「ピントは手前3分の1」は、ピントを合わせたい範囲を前後に三等分して、その手前3分の1のラインのところにピントを合わせると、もっとも効率よくパンフォーカスにできるからです。(p.104-105)


パンフォーカス(画面全体にピントがあっているように)するためには、広角側で撮ることや、絞りを絞って(F値を大きくして)シャッタースピードを遅くすることなどはわかっていたが、(4)はあまり意識したことがなかったし、(5)は知らなかった。どうしてパンフォーカスにならずに変なボケ方をしてしまうことがあるのかがわかった気がした。基本的に建築を入れた風景写真を撮ることが多いので、パンフォーカスは多用したいのだがあまり上手くいかないことが多く、もどかしかったのだが、このやり方をマスターすれば、今後はいくらか上手く撮れるかも知れない。



 青空をきれいに写すには、大切な条件があります。当たり前ですが、きれいな青空であること。……(中略)……。ひとつは少し露出アンダーぎみに撮ること。露出オーバーだと空の青さが薄まります。(P.126)


なるほど。空を主題にした風景写真も結構好きなので、これも試してみたい。これは今までもやっていないわけではないと思うが、あまり明確に意識していなかったきらいがある。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

椎野幸平 『インド経済の基礎知識 第2版』

 自国通貨建ての各国のGDPをドル換算する場合、市場為替レートと購買力平価レートの2種類があり、購買力平価で換算すると発展途上国のGDPは一般に大きくなる傾向がある。市場為替レートはその名のとおり、市場で交換されたレートであり、2008年であれば同年で実際に取引された為替レートの平均値を用いる。一方、購買力平価レートは、米国と当該国(この場合、インド)における同一の財・サービスのバスケットの価格を積み上げ(つまり、物価)、両国の換算レートを算出するものである(購買力平価レート=自国物価/外国物価)。ただし、財・サービスのバスケットは貿易財と非貿易財(床屋に代表されるように、一般に貿易が成り立たない財。生産と消費が同時に行われるサービス財に多くみられる)から成り立っている。非貿易財は実際には貿易されないため、市場為替レートと購買力平価レートの乖離要因の一つとなる。一般に、先進国では貿易財産業の生産性上昇によって貿易財価格の低下、市場為替レートの増価、貿易財産業への労働移動・賃金上昇による非貿易財価格の上昇などが見られる一方、開発途上国の非貿易財価格は先進国ほどには上昇せず、先進国との比較において割安な水準(先進国は割高)となっていることが多い。そのため、開発途上国の購買力平価レートは市場為替レートよりも増価することが広くみとめられる。(p.4)


外国に旅行に行くと、為替レートの違いによって私もそれなりの金持ちになってしまうのだが、自動車は電子機器などを除けば、生活水準は大して変わらないと思うこともある。そのあたりの実感とも、この説明はリンクしている。



 インド経済は総じて世界経済とのリンクが低く、内需主導の経済成長を遂げているため、世界経済の好不況の影響を相対的に受けにくい構造にある。(p.7)


ブレトン・ウッズ体制から金融グローバル化の体制への移行が遅かった(91年に経済自由化へ舵を切った)ことがこの背景となる要因として指摘できる。

企業の経済行動で考えた場合、この市場のシェアを早期に確保しておくことが有利と見るか、閉鎖的であるが故のルールの違いや規制をマイナス評価するか、という選択が考えられる。まぁ、この辺の判断は分野や自らの企業の力やライバル企業との力関係、インドで売れる水準の商品の有無などにもよるだろう。

ちなみに、旅行先としてのインドを考えた場合、早めに行かないと面白くない、というのが今の私の考えである。グローバルな資本が流入し、その作法がインドの内部にも浸透すると外部との差異が小さくなってしまうから、特別な場所(遠くの地)に来たという気分が得られなくなるだろう。



 インド経済が本格的な高成長軌道に入ったのは2003年度以降である。……(中略)……。各地で大型のショッピングモールが相次いで開設されるなど、インドの主要都市が目に見えて、変化し始めたのも2003年度以降である。(p.10)


一つ前の引用文に対するコメントの最後の部分のように考えながら、こうした記事を目にすると、早めに行っておかなければ、と思ってしまう。



 インド経済は貧困問題と地域による格差を抱えていることも特徴である。世界銀行によると、所得格差を表すジニ係数は0.33(99年度)で、中国(0.45、2001年)、タイ(0.40、2002年)などと比べ所得格差は相対的に低い水準にあるが、1日2ドル未満で生活する層が人口の80.4%、1日1ドル未満で生活する層は24.3%(2004年度)を占め、貧困層の絶対数が多いだけに、実感としての格差が非常に大きい社会である。(p.22)


意外とジニ係数が小さいことに少し驚いた。絶対的貧困が多くみられ、その貧困層のところに多くの人が集中している構造だということだろう。

中国やタイよりジニ係数が小さいのはインド経済が世界経済とのリンクが小さいとされていることと深く関わりがあるものと思われる。



しかし、今後の人口予測を見ると、2015年頃から老齢人口比率の上昇カーブがきつくなり、2035年には老齢人口比率(19.6%)が若年人口(16.4%)を上回り、労働力率は76.6%に低下し、老齢化紙数(65歳以上人口/15歳未満人口)は119.5に達すると見込まれる。この水準は2000年時点の日本の老齢化紙数(117.6)と同水準であり、今後、中国は急速な高齢化社会を迎えていくとみられている。
 一方、インドでは若年人口が2000年代以降、なだらかに低下する一方、老齢人口はゆるやかな伸びにとどまり、これから「人口の窓」が開く時期を迎える。(p.25)


中国の場合、日本の高度成長期(60年代)と同じような状況にあるので、あと25年あるので、これからの政策次第で日本ほど問題が深刻化せずに済む可能性もないわけではないが、年金などもまともに整備されていないようなので、こうした面では将来の中国は昨今の日本より酷い状態になる可能性が高いと私は見ている。

一党独裁型の支配構造があるため、一般庶民の福利厚生を高める方向の政策を打ち出す誘引が低い傾向があると見ているからである。但し、他国の失敗等から学ぶことができる有利さも中国にはあるので、そこを的確に見極めて持続可能性を考慮した社会保障政策を打ち出せれば、中国もそこそこ暮らしやすい世の中になっていくだろう。

インドの人口増加は将来的にはインドの経済力や政治力の増大に寄与する傾向を持っているだろうということは否定しないが、労働力が過剰になってしまうことや工業生産で輸出で稼ぐ構造から、賃金が高くなって金融で生きていく傾向が強まってくると人口の多さは却って仇となる可能性もあるように思われ、今世紀末頃にはその否定的な側面が出ているかもしれない。まぁ、私はそれを見ることはできないだろうが。



 ただし、高い労働力率は、経済の潜在成長率を高める一方で、雇用が供給されなければ、優位性は一転して、社会不安の原因ともなりかねない。(p.25)


私の懸念と同一の問題を指摘していると見ることができる。ただ、こちらの方がより一般的で射程範囲も広い捉え方である。



 外資規制をめぐって最も注目されている分野が小売である。小売分野は一部例外を除いて外資系企業の投資は認められていない。東南アジアや中国などでは一般に見られる外資系のデパートやスーパー、コンビニエンスストアなどはインドではまだ見られない。例外的に認められているのは、単一ブランドの商品販売であり、一部の外資系メーカーは直販店をインド国内で展開している。(p.187)


インドを訪問した際には、このあたりの実態を観察して来たい。



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荒松雄 『中世インドの権力と宗教 ムスリム遺跡は物語る』

このザヒールッディーン・ムハンマド・バーブル(在位1526-30)は、初代ムガル皇帝と呼ばれるようになったが、当時は現在のアフガニスタンのカーブルに拠る小王権の首長にすぎず、その権力の程度も、それまでのサルタナット諸王朝の場合にくらべて、とりわけ強大だったとはいえない。その点では、二代皇帝フマーユーン(在位1530-56)の場合もほぼ同じで、ムガル王朝による支配が名実ともに「帝国」と呼ばれるにふさわしい体制を整えるようになるのは、三代皇帝アクバル(在位1556-1605)治世の後半からであった。いわゆる「ムガル帝国の最盛期」は、このアクバルから六代皇帝アウラングゼーブ(在位1658-1707)の治世までで、その後のムガル権力は、ある短い期間をのぞけば、「帝国」と呼ぶにふさわしい体制を持つものとはいえない態のものだった。(p.4-5)


帝国という名前をつけられたことによって生じがちな錯誤を正している。こうしてみると「ムガル帝国」は1526年から1858年まで続いたことになっているが、「帝国」と呼べるような体制を持っていたのはわずか100年余りしかなかったことになる。

インドの地域特性として地理的にも単一の権力が全域を支配するのは困難だったことも関係しているように思われる。なお、現在は移動や通信などの技術革新によって障害はやや小さくなっていると思われる。



 第二の点は、ゴール勢力の侵入軍の指揮官だったクトゥブッディーン・アイバクがうち倒した相手のインド側勢力が、デリー南方の地に拠っていたヒンドゥー王権たる、チャーハマーナ(チョーハーン)・ラージプート一族の首長のプリトゥヴィラージで、すでにデリーの地を西北インド支配の主要な拠点とし、堅固な城砦を築いていたという事実である。異民族たるトルコ人侵入勢力の覇権を握ったイレトゥミシュは、デリーを占拠すると、このラージプート首長が築いた城砦をそのまま自らの拠点とし、「ラール・コート(赤い城)」の名で知られる区域に宮廷を設けたものと推定される。このような状況が、中世の地方的ヒンドゥー王権の拠点だったデリーを、新たに生まれたムスリム王権たるサルタナットの首都とし、結果において、中世の北インドばかりか、その後のインド亜大陸の歴史に大きな役割を演じる都市とする歴史的契機となったわけである。(p.6)


当時のデリーと言えば、現在の中心地よりは南のクトゥブ・モスク、クトゥブ・ミナールがあるあたりが中心だった。いずれにせよ、奴隷王朝が政権を打ち立てる前にラージプート王権が既にデリーに城砦を築いており、それを利用する形でサルタナットが拠点を形成したという見方は重要である。



しかし、13世紀から19世紀前半にいたるサルタナットとムガル帝国の支配気全般を通じて、インドのムスリム支配権力が、カリフ体制や近隣のムスリム諸国家から独立する関係をほぼ貫きとおしたという事実は、特記しておくに値することがらといえよう。(p.7)


亜大陸が西方とつながりを持ちながらも地理的に侵入しにくかったこともこの背景にはあると思われる。



遺跡や建造物の場合には、それがどのような種類のものであれ、その遺跡そのもの、あるいはそれが存在するという事実そのことから、さまざまな歴史的事象を推察することが可能なのである。たとえば、誰の指示で、誰が、どのような目的で、それらの建造物を造営したか、または造営させたかを考察することは、その時代のさまざまな社会的、政治的状況を知る手掛りとなり得る。また、その遺跡が補修や増改築等の工事をへている場合にも、その当時の状況について示唆するものを含んでおり、高度な歴史的価値を持つものといえるのである。(p.38-39)


本書は建造物を史料として用いるというやや変わった方法論を採用している。その場合の建造物の史料としての価値について論じている。

建造物はその規模や材質などからも当時の経済や財政の状況を知る手掛りにもなるなど、さまざまな情報を含んでいる。ただ、文字情報などその他の史料と組み合わせなければ、建造物という史料は多義的であるがゆえに、何らかの事象を説明する際の決定的な証拠となることは難しい面もあると思われる。



 アイバクの時代には、ムスリム侵入勢力の主要な拠点、いわば首都は、まだデリーではなく、ラホールであったと見るのが正しいようである。(p.40)


奴隷王朝の初代スルターン、アイバクの在位は1206-1210年である。



 このクトゥブ・モスクは、サルタナット第二の王朝たるハルジー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマド(在位1296-1316年)の治世に、さらに拡張されることとなった。ペイジの数値に拠った月輪氏によると、拡張後の広さは東西466フィート、南北743フィートに及ぶもので、クトゥブッディーン・アイバクによる創建のときにくらべると、ほぼ11倍の広さになったという。このハルジー朝時代の拡張工事が、すべての回廊や囲壁について実施されたものかどうかについては、現存する遺構からは不明だが、その東南の拡張部分は今日も現存している。その部分のなかでも、「アラーイー・ダルワーザ」の名で知られてきた、回廊囲壁の一部に残る門は、その構造・様式や豊富な文様・刻文などにハルジー朝時代の特徴があらわれており、サルタナット時代のイスラム建築のなかでも最も重要な建造物の一つとされている。(p.112-113)


こうしたモスクの拡張はムスリム人口の増加を背景とするという説がある。

クトゥブ・ミナールより高い塔を建てようとして挫折したアラーイー・ミナールの基部がクトゥブ地区には残されていることは観光ガイドにも載っており有名だが、アラーイー・ダルワーザなるものもあるらしい。訪問時には少し注意してみてきたいところである。



しかし、デリーにおけるサルタナット成立の当初から、トルコ系諸族の権力掌握を支えてきた非インド人、非トルコ系民族とともにあって、政治的に最も大きな役割を演じてきたのは、アフガン系諸族であった。この事実は、インドにおける最初のサルタナットが主要な拠点とした西北インドが、初期のトルコ系征服者の本拠であったアフガニスタン諸地域に隣接していたという地理的条件を考えれば、むしろ当然のことともいえるのである。
 このアフガン人諸勢力が強大となり、ついにサイイド朝を倒してデリー中央の権力を掌握するにいたったのが、サルタナット五王朝のなかの最後のローディー朝支配期においてであった。(p.271)


ローディー朝のアフガン系政権が成立したのも歴史的にそれなりの下地があったわけだ。



少し横道にそれるが、この皇帝の治世から次のアフマド・シャーの時代にかけて権勢をふるった宰相サフダル・ジャングは、今日ニューデリーの中心地の一角に立つ、同じ名で呼ばれている巨大な墓廟に葬られている。露天の墓に埋められた皇帝がいる一方で、その死場所や墓の所在もわからない別の皇帝の側近として仕えた宰相が、その質はともかく規模においては第一級の墓建築に葬られているという事実に、ムガル末期の皇帝権力の実態がうかがえるような思いがする。(p.335)


史料としての建造物から読み取られていることに注目したい。例えば、この推定、というか「思い」を仮説としてそれを裏付けるような史料を探していくことで、この仮説の正しさを確定できれば、建築はその仮説構築の有益な史料となったと言えるだろう。



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ジョージ・ミッチェル 『ヒンドゥ教の建築 ヒンドゥ寺院の意味と形態』

さらに三神一体(トリムールティ)という考えがあり、やや重要性の劣る神格のブラフマーが組みこまれている。ここではブラフマーが創造者で、ヴィシュヌは保存者、そしてシヴァは破壊者と見なされている。けれどもこの天界のトリオは、ヒンドゥ教において時折重要視されたにすぎない。(p.18-19)


ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三柱の神が主要な神であるとする説は、ヒンドゥ教を巡ってはよく聞いていたが、これは歴史的にはあまり重要性を持っていなかった神学的見解であるようだ。



 ヴィシュヌの最後の二つの化身であるブッダとカルキンは、おそらく後の時代につけ加えられたものであろう。ここにブッダを含んでいるのは、もともと仏教徒の評判を落とす意図であって、彼らは悪鬼を惑わすためにとられたヴィシュヌの仮の姿に欺かれた者たちである、とされているのである。カルキンとしてのヴィシュヌは馬上の人として現れ、現在の時代の滅亡を予告する。(p.27)


ヴィシュヌの化身に仏陀が含まれているのは、仏教もヒンドゥ教の一派であると考えられているからであるという説明がしばしばなされるが、現在の観念がどうなのかは別として、歴史的にはそれとは違う理由があったらしいということをこの引用文は示しており興味深い。



 ヒンドゥ教の形象美術では、一つの神格を他から区別する手段として肉体的な姿かたちを利用することはめったになく、普通それを見分けるには、像が手にする表徴(エンブレム)を識別することに頼っている。それらの表徴はその神格の威力と本性を象徴しているが、後にはそうした祭儀上の表徴物が、本来属している神像から独立して礼拝されるようにもなった。(p.41)


本書によると、シヴァはリンガという形をとるか、人の姿の場合には三叉戟を手にする姿をとる。また、半頭蓋骨の乞食椀と投げ縄を持ち歩いていることがあるという。

また、ヴィシュヌの表徴としては法螺貝と車輪状の円盤に特別に重要性が付与されているという。

現地で彫刻などを見る際には、こうした図像学的な知識がある程度あると随分見方が変わってくるので、訪問する際には、こうした知識をある程度頭に入れておきたいものである。



 ヒンドゥの寺院建築の歴史を通じて見いだされるもう一つの特色は、寺院表面を飾る彫刻を何よりも重要な視覚言語として強調していることである。彫刻は、ヒンドゥの美術家の精進のまさに根底にあるのであって、建物自体、彫刻されることを求める石の量塊と見なされる。実際、建物の表面を彫刻することは構造的な革新よりも常に好まれ、後者は概して慎重に退けられた。この点、ヒンドゥ建築は〔ヨーロッパの〕ゴチック建築の対極に位置するのである。(p.104)


構造的な革新があまりなされず、表面の彫刻を重視したことは、ヒンドゥ教の寺院がイスラームのモスクやキリスト教の教会堂と異なり、その内部が礼拝空間ではなかったことが要因の一つであろう。



王権と寺院建設のかたい結びつきは、ヒンドゥ圏のアジアにおける変わることのない歴史的現象であり、寺院の様式発展に絶大な影響を与えた。王室の寄進の熱意は地場の工匠たちに励ましを与えることによって、地域的な伝統の興隆を促したのである。確かに、ヒンドゥ寺院の地域的な様式の多くは王朝名と一致することになり、寺院群はグプタ朝、チャルキヤ朝、カリンガ朝、チャンデッラ朝、パッラヴァ朝、チョーラ朝、ホイサラ朝といったグループに分類される。同じことはインドの域外の寺院群にも言えることである。(p.113)


芸術はパトロンによって左右される。また、宗教は政治と常に結びつく。これらはほぼ普遍的な現象と言って良いだろう。

これをもう少し砕いて書くと次のようになるだろう。

誰が芸術に金を払うかによって、芸術のあり方は強く影響を受けてきた。宗教は常にある程度強い結びつきを持つ社会的ネットワークを形成するため、自動的に政治的影響力を持ちうる勢力になるため、政治に常に影響を与えうるものであり続けた。権力側も既に形成されているネットワークであり、しかも上下のヒエラルヒーを有するネットワークであるために、その頂点付近を押さえればネットワーク全体を方向付けることができるため便利だったし、また、歴史的には宗教集団が文字による文化を保持していたため、官僚として宗教者が必要だったという場合も多かったと思われる。



ヒンドゥの寺院建築の根本的な様式上の特色は、おそらく建築的形態と装飾モチーフを選ぶ上での生来の保守主義であろう。(p.114)


この見解は本書の基本的な見解の一つだと思われるものだが、確かにそうかもしれないと思う反面、何かオリエンタリズム的というかかつての「アジア的停滞」という古い観念の残滓をも感じさせる点で違和感を感じもする。

ギルド的なものが存在していたことがこうした保守性の一つの要因だと思われるし、上で引用したように内部構造についてあまり工夫する必要がなかったことも要因であろう。その意味で技術革新などに対して保守的な傾向はある程度あるとしても、それが「保守主義」と呼ばれると先にイデオロギーがあるかのように錯覚させるため用語法としてはやや不適切なのではないだろうか?

また、技術革新の面にしてもイスラームの王朝が成立してからは、アーチやドームの技術を次々と導入したりしており、変化がないわけではない。ドームの形状もペルシャや中央アジアのものよりもふくらみが大きいなど、インドの地域に独特の特徴もある。ただ、こうした傾向は外来の宗教であり、外部の社会とのつながりが大きいと思われるイスラームの方が顕著だったとは言えるかも知れず、それよりは保守的であったという言い方は可能かもしれない。



 ベンガル寺院は北インドの大部分がイスラームの影響下にあった時代に建てられた。そのために寺院は明らかにイスラム風のアーチを備え、おそらくムスリムになじまれていた平面形の上に建てられた。これとは逆に当時のムガル建築は、砂岩や大理石に置き換えながら、いわゆる「ベンガル風の屋根」を利用するのである。(p.218)


こうした相互の影響関係は興味深い。


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小西正捷、岩瀬一郎 編 『図説 インド歴史散歩』

 独立後インドは国内産業の保護育成と外国からの経済的自立を図って、海外からの資本の導入や製品の輸入を厳しく制限してきた。……(中略)……。自動車では、50年代の英国車やイタリア車を範とした「アンバサダー」「プレミアム」などという独自の車種や、ベスパ仕様のスクーター「バジャージ」が長いあいだインド全土を走っていた。……(中略)……。
 また、1978年には為替管理法が強化されて、IBMとともにコカコーラなどの外国企業がインドから手をひいたため、清涼飲料水業界も「カンパコーラ」や「リムカ」などインド独自のブランドが幅を利かせてきた。(p.107-108)


グローバル化が進むと商品も画一化の傾向を示すので、旅をして違いが見えにくくなり、あまり面白くない。世界中にあるスターバックスやマクドナルドなどはそれを象徴していると言えよう。

コーラと言えば、イランで飲んだ「ザムザム」が想起された。あの独特のちょっと粘ついた感じのあるコーラが現地の気候とマッチしていてどんどん飲みたくなったものだ。イランでは10年位前には行った時にはほとんどコカコーラを見かけることはなかったが、5年ほど前に行った時にはちょくちょく見かけるようになっていて驚いたと同時に、ちょっと残念な感じがした。その地域の個性のようなものが薄まるような感じがしたからだと思う。


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佐藤正哲、中里成章、水島司 『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』(その2)

インド洋は、こと商業に関する限り、驚くほど自由な空間だった。このことは、当時のインドの政治支配者たちの基本的な姿勢と関係があるだろう。彼らの関心は陸地での権力闘争に集中していた。たとえば、少し時代はずれるが、有名なムガル帝国の第三代皇帝アクバルにしても、三十歳になって初めて海を見たと言われている。ムガル軍の主力は華麗な騎兵隊にあり、ムガル帝国は海軍という名に値するような海軍力は持っていなかった。
 ポルトガル勢力が進出したのは、このように古くから平和的に商業的競争が行われてきた海域であった。しかしポルトガルは、この海域で確立していた慣行に従って貿易活動をする意図など、初めから持っていなかった。彼らの目的はヨーロッパへの香料とコショウの貿易を「独占」し、莫大な利益をあげることにあったのである。ガマの航海の成功の二年後の1500年、インドに向かったカブラルは、ポルトガル王から、キリスト教信仰の敵であるムスリム商人をすべて追放するようカリカットの王に要請せよ、などという法外な命令をたくさん受けていた。(p.248)


武装されていない空間に、自由貿易的に商業を行っていたのではまともに参入できないが、力づくでも利益を得たいと考えるプレイヤーが参入することにより、悲劇が引き起こされた。

しかし、一面では海からの攻撃に対する無防備さという点でインドの権力者や商人たちにも問題はあったとも言えるかも知れない。彼らに海を支配するという観念がなかったのだろうか?また、技術的にそうした方向への展開が見られなかったとすれば、その理由は何なのか?気になるところである。



ポルトガルは海軍力を背景にインド洋の制海権を掌握し、インド洋貿易の重要地点に要塞を築いて拠点とし、すでに繁栄していたインド洋貿易の莫大な利益の分け前にあずかったのである。(p.249)


弱小勢力であっても、組織的に軍事力を用いることにより、制海権を獲得することができた。こうした総動員体制的なるものを構築したことこそ、ヨーロッパの勢力が世界の海をまたにかけて進出していくことができるようになった要因の一つであろう。



イギリスは、オランダと抗争と休戦を繰り返しながら、当時もっとも利益のあがる貿易が行われていた東南アジアから次第に締め出されていった。有名な「アンボイナの虐殺」(1623年、香料諸島のアンボイナでオランダ当局が、イギリスの商館員10人を拷問し殺害した事件。イギリスが香料諸島を去るきっかけとなった)は、複雑に絡み合う事件の連鎖の一つの輪にすぎない。
 イギリスは、当時のインド洋貿易では副次的な位置にあったインドに活動の天地を求めるほかなかった。イギリスがインド洋貿易に乗り出したころは、幸いにも、ムガル帝国の最盛期に重なっていた。……(中略)……。インドで成功できるか否かは、ヨーロッパ商人の間の力関係ではなく、ムガル宮廷と良好な関係を築き、ムガル宮廷の保護を得られるかどうかにかかっていた。だからこそムガル帝国では、ポルトガルも、オランダも、イギリスも、フランスも、デンマークもそれぞれ貿易活動を続けることができたのである。このような事情が、東南アジアで敗退したイギリスがインドで踏みとどまるのを可能にしたと考えられる。(p.254-256)


なるほど。ムガル帝国のある種のリベラルな姿勢が当時のイギリスのような弱小勢力がその地で生き延びることを可能にした要因の一つだったわけだ。そして、ある意味ではオランダに東南アジアで負けてインドに活動の天地を求めざるを得なかったからこそ、そこでの活動に力を入れることになり、しまいには植民地とするにまで至ったのだとすれば、ムガル帝国のリベラルな姿勢は巡り巡って自らを滅ぼすことになったと言うこともできるのかも知れない。



 地方都市の問題は、イギリスがなぜ比較的容易にインドを植民地化できたのかを考えるとき、疑問を解く一つの鍵を提供してくれる。というのは、イギリスがインドを経済的に搾取するシステムをスムーズに展開できたのは、地方都市に住む商人たちのネットワークがすでに存在し、それを利用することができたからだと考えられるし、また、急速に拡大する支配地域に行政機構を順調に整備できたのは、地方都市で行政経験を積んだ役人層を取り込むことができたからだと考えられるからである。(p.338)


興味深い指摘だが、広大な領域の支配というのは得てしてこうした土着の要素を利用するものにならざるを得ないだろう。基本的に社会は急激には変わらないものであると考えるべきである。



多くの場合、インド人の住む旧市街から少し離れたところに軍隊の駐屯地(カントンメント)を置き、この駐屯地を中心に西欧風の市街をつくり、イギリス人をはじめとするヨーロッパ人が住むということが行われた。しかしこの場合でも、駐屯地は旧市街と隣り合っているだけで、旧市街との関係が薄いという点では、カルカッタのような大植民地都市と似た性格を持っていたと言える。(p.342)


インドの都市にはよくカントンメントという地区があるが、それはこうした歴史的経緯を持って形成された地区なのだろう。旧市街との関係や違いなどを実地で観察してきたい。



 しかし近代と言い、近世と言っても、それは、われわれが当時を振り返ってわれわれの立場から歴史像を構成し、そのイメージに十九世紀以降に発達した近代歴史学の時代区分論を当てはめて議論しているにすぎない。(p.679-680)


時代区分論や王朝毎に区切られた歴史叙述などは事実を認識する上でむしろ邪魔になることが多い。これらの枠組み自体が既に高度に理論負荷されており、そのことに対して自覚されていることが少ないからである。



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佐藤正哲、中里成章、水島司 『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』(その1)

しかし、カジュラーホーを占領したムスリム軍が、その著名な寺院や彫刻を破壊しなかったことは注目されよう。このことは、彼らが復讐の怒りに駆られたときとか、イスラームの力を誇示する必要があったときなどは別として、異教徒の「偶像」でも不必要な破壊はおこなわなかったことを示している。(p.35)


異なった宗教を信仰している人々はほとんど常に対立していると考える発想は誤っているということ。むしろそれらは近代になってから顕著になった現象であると考える方が妥当だろう。



ラージプート王権は、人びとの霊的・精神的拠り所である寺院や彼らの儀式を司り、精神面で指導するバラモンなど宗教権威を利用してその所領支配を貫徹していった。(p.215)


司祭などは知識人であると同時に、行政的な官僚でもあったため、それらの勢力を取り込むことによって統治を安定させるということは、世界史的に殆んど普遍的な現象であるように思われる。宗教は政治的な現象である。



しかも、こうしたペルシア文化の影響は、次のような二つの事情によって促進された。一つは、ムガル朝の「寛容な姿勢」が、サファヴィー朝の王の熱狂的なシーア派政策あるいは王権強化策によって祖国を逐われた多数のペルシア人の貴族や文化人を保護し、迎え入れたこと、その結果として、彼らのインドにおける多彩な活動となったこと。もう一つは、歴代の皇帝の母后や妃には、サファヴィー朝の王家や王族、貴族の出身者が多く、こうした「ハーレムの影響」が大きかったことである。(p.219)


サファヴィー朝がシーア派を奉じたのは、「純粋な宗教的理由」ではないという理解も重要であるように思われ、この記述ではそれが欠けている。

サファヴィー朝の王族や貴族がムガル朝の宮廷に入り込んでいるというのは、政治的な安定のための方策だったのだろうか。



しかし、ムガル宮廷の保護を失った絵師たちは、十七世紀から十八世紀にかけてラージプート諸王国やパンジャーブの山岳(パハール)地域に保護者を見いだして移住し、後にブーンディー派などラージプート諸派あるいはパハーリー派と呼ばれる画風をつくった。(p.222)


芸術作品を見るときにも、パトロンを意識しておくことは重要である。



タージ・マハルの原型とされるデリーのフマユーン廟は、アクバルの義母ハージー・ベーガムの指揮監督の下に、彼女の好みにしたがってペルシア人設計技師の手により建造された。庭園のなかに鎮座する廟は、デザインはペルシア様式であるが、内部構成はヒンドゥー様式である。(p.224)


外来の様式と在来の様式が混合しながら、あれだけ調和しているように見えるというのももしかすると珍しい現象かもしれない。



 アクバルの建築上最大の仕事は帝都スィークリーの建設で、1572年のグジャラート征服を記念するためにファテプル(勝利の町)・スィークリーと呼ばれるようになった。水不足と不健康な環境のため1585年に廃都となるが、ここに残るジャーメ・マスジッド(モスク)とその大城門(ブランド・ダルワーザー)、五層の宮殿などから、ペルシア様式とヒンドゥー様式の融合というアクバルが掲げた理想の一端を見ることができる。(p.225)


ここも訪問したい場所なのでじっくりと見てこようと思う。



ただ、妃ヌール・ジャハーンがアーグラーに建設した彼女の父イティマードゥッダウラの廟は豊富な装飾で飾られた白大理石の建造物で、シャー・ジャハーンの時代にその頂点に達するムガル建築の美を先取りしている。(p.226)



本書によると、この廟は「ムガル建築史の上ではきわめて重要で、アクバル時代の素朴・豪壮な赤砂岩からシャー・ジャハーン時代の壮麗な大理石の建築への移行期に位置するもの」(p.226)とされている。よく見てきたい。



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小熊英二 『インド日記 牛とコンピュータの国から』(その5)

そしてインド社会では、プニマ夫人のような上層カーストの人が、下層カーストのボート屋家庭に招かれ、気楽に話し合うことはむずかしい。しかしおそらく日本でも、中卒者と東大出が気楽に話す状態になるのはむずかしいだろう。どこの社会でも、人間は「上層と下層」とか、「男と女」とかいった固定された位置というものを持っていて、それによって分断されている。ラジューやアンカールだって、雇い主のラジブ夫妻には近づきにくいだろう。
 だが、既存の社会の枠組みに当てはまらない「変な外国人」を前にしたとき、人はその固定された位置から開放されるのではないか。(p.257)


日本ではインドについて「カースト制度」という差別的な制度があり、日本とは違う、という見方がされることが多いが、日本にもそれと同程度に強力だが、見えにくい差別なり障壁が存在することを指摘している。ある意味、見えにくい分だけ対処の方法を考えることも難しい面があるとも言える。

「変な外国人」のような既存のカテゴリーに当てはまらない異質なものが介在することによって、既存の社会的ネットワークの中での振る舞いとは異なる現象が起こりうるとする指摘は鋭い。



くりかえしになるが、見様見真似でも村人がつくれるほど技術ギャップが小さかったのだ。今の途上国に、それは望めない。(p.273)


明治の日本が欧米にキャッチアップしていったことと比べて、現代の「途上国」が置かれている状況は技術ギャップが大きいことも一因となって、当時の日本のような順調な発展は難しいとする。

興味深い指摘ではあるが、いつの時代も高度の技術や知識を持っているのはごく一握りの人であって、その人びとの知識やノウハウが以前(ブレトン・ウッズ体制の時代)よりも容易に移動できる状況になっているため、現在は「新興国」が急速に経済成長できるようになっているように思われる。



インドでは計画通りに行動しようなどと考えるより、出たとこ勝負で楽しんだほうがはるかによい。(p.351)


なるほど。確かにそうかもしれない。



日本の卒業式で歌われるものといえば、お堅い内容の校歌か、文部省唱歌と相場が決まっている。まちがっても、「姑の歌」とか「出稼ぎの歌」が歌われることはあるまい。近代日本では、学校は何よりも中央政府の出先機関で、近代文化を地元に浸透させるための場所だったから、学校文化と地元文化は完全に切断されていた。運動会や卒業式は「儀式」として、文部省公認の歌だけを歌い、完璧を期して行われるべきものだった。しかしここでは、学校文化は地元文化の一部なのだ。(p.366)


近代日本の学校の位置づけが鋭く指摘されている。



滞在の最初と最後に同じ場所を訪れるというのは、自己の感覚や印象のいい加減差を確認するうえで、けっこう有効な手段だと思う。(p.374)


なるほど。確かにそうかもしれない。



ただ、人びとが自分の状況を表現する手段を持たずに苦しんでいるとき、鬱積したエネルギーを放出する回路をつくる手助けをする。(p.381)


昨今の日本の社会は、その状況を表現する適切な手段を欠いている状態であり、そのための言葉を必要としていると思われる。




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小熊英二 『インド日記 牛とコンピュータの国から』(その4)

 もうひとつ、カルカッタにはデリーのように牛がいない。野良犬が若干と、ヤギが少々いるだけである。
 あとでラジブ夫妻から聞いた話では、ニューデリーは1970年代から80年代に急成長した町で、もとは村だった地域が多いため、住民がいまだに牛を市内で放牧しているのだそうだ。ラジブ家のあるディフェンス・コロニー地区も、今は住宅でいっぱいだが、70年代まではほとんど草地だったそうである。そして政府は、聖なる動物である牛が交通事故死したりゴミをあさったりしている状況を憂慮して、牛を郊外に出す政策をとっているとのこと。そういえば佐藤氏も、彼がはじめてインドを旅行した六年前にくらべ、デリーの牛は減ったと話していた。
 つまり「デリーの市街地に牛がいる」という現象は、「インドの文化」などではなくて、急速な近代化の副産物として近年になって出現したものだったわけで、当のデリー市民も困惑しているのである。そして、おなじくインドでも古くから市街地だったカルカッタには、牛がいないというわけだ。安直に「インドの文化」などと思ってしまっている現象には、意外とこういうものが少なくないのかもしれないと反省する。(p.164-165)


カルカッタとの比較によってデリーに起こっている現象――「インドの文化」として理解されがちな市街地に牛がいるという現象――を相対化している。



 「様式が西洋風で材料は伝統風」というのは、アジア諸国のナショナリズムに共通の現象である。伊藤博文は、ヨーロッパ諸国が君主の名所旧跡を保存していることを参考にして、日本の名所旧跡を保存する提案を行なった。「伝統文化を国家や民族のシンボルとして大事にする」という発想じたいが、西洋から入ってきたものだったといえる。(p.168)


日本でも国宝とか国指定重要文化財といったものはこうした流れの中で制定されていったのだろう。

最近私が気になっているのは、「近代化遺産」とか産業遺産への関心が90年代頃より高まりつつある(最近はやや下火になってきたか?)という現象で、これもやはり90年代以降のナショナリズムの高まりと同根またはその結果的な現象だと捉えることができるように思われる。

ただ、産業遺産への回顧に関しては、「地域活性化」というモチーフが比較的強く含まれており、また、工業が次第に新興国で行なわれるようになっていくことに対する危機感から「ものづくり」を強調して、第二次産業を国内で重要なものであるとして位置づけようとするモチーフも含まれていると思われる。この意味では、金融グローバル化に付随する反動的現象として産業遺産の見直しという気運が生じているように思われる。もっとも、これを見直したところでグローバル化の流れを変える方向には作用しないだろうが。



 そして中村上人は、「一つのアイデンティティに固まる原理主義は、人びとのパワーを引き出すこともあるが、とても危険だ。オウム真理教や大日本帝国がそうだったように」と強調する。彼が代わりに提案するのは、「アイデンティティの複数化」だ。「自分は仏教徒でもあるけれど、日本人でもあるし、東京人でもあるし、インド人としての感覚ももっている。先進国の人間でもあるが、スラムに長く住んだこともある。男でもあり、宗教者でもあり、国籍は日本国籍のままだが、ここデリーのコミュニティの顔役でもある。『私は仏教徒だ。だからキリスト教は敵だ』というふうに、どれか一つだけのアイデンティティに固まってはいない」というのである。(p.210)


「アイデンティティの複数化」という提案は、本書を読むことを私に勧めてくれたかつての友人も本書か小熊英二の影響で強調していたことだった。この箇所を読んだ時、「あぁ、彼が普段言っていたことが書かれている箇所だ」と思ったので思わず引用してみた。

私に本書を読むことを勧めてくれた友人は既にこの世にいないが、彼も同意している「アイデンティティの複数化」に対して私は批判をしたことがある。それは次のような内容だった。確かに人間は一つのアイデンティティだけをもっているわけではないため、複数化して捉えること自体は間違ってはいない。しかし、複数化しても、一つ一つのアイデンティティが同じ重さを持っているという保障はない。例えば、あるアイデンティティはその人にとって強い利害関係を発生させるが、別のアイデンティティはほとんどそうした利害関係を発生させない場合、その人は前者のアイデンティティを強く意識するようになる。ナショナリズムの面倒な点は、こうした利害関心と深く結びついているがゆえに、複数あるアイデンティティのうちナショナリティが突出した重みを持つもとして意識されがちであるところにあるのであり、単に複数化によって相対化を試みてもそれだけで原理主義的なナショナリズムを止める力にはなりえないだろう、というものであった。



 「宗教者が『魂の医師』であるように、人文社会科学の学者は『意識の医師』であると思っています。人は近代社会の不安に耐えきれず、何らかのアイデンティティを求めようとする。それは人間の業のようなものですが、まかりまちがえば、原理主義やナショナリズムのような、極端なアイデンティティにはまりこんでしまう。それはいわば『意識の病気』です。そういう病気から回復することを助ける医者として、学者はいるのだと思っています。」(p.214)


人文社会科学の学者は「意識の医者」であるというのは、なかなかうまい表現である。私自身も社会科学から「意識の病気」にかからない方法や「病気の識別法」などを学んだという自覚がある。



 安いから留学生が来るというのはあまり名誉なことではないかもしれないが、日本の大学よりはましな状況だと思う。なにせ日本に留学しても、苦労して日本語を勉強したあとで、読まされるのは欧米の本の翻訳だったりする。そういう国の大学に、しかも物価も高いのに留学する外国人は少ないのである。(p.242-243)


私がよく話をする留学生の状況がまさにこれなので、その人のことが可哀想に思えてきた。



ハーンが再評価されるのは1920年代後半以降で、昭和の国粋主義台頭とともに、「日本の伝統を再発見してくれた欧米人」として有名になった。(p.243)


ラフカディオ・ハーンは当初は単なる変わり者扱いされていたという。国粋主義の推進の方向に利用できるため、彼が評価されるようになった。



 今日の講義は、現代日本事情の一環として、太平洋戦争が現代日本の文化や価値観に与えた影響について私なりの考えを述べた。この戦争で、日本政府は「アジア解放の正義の戦い」というスローガンを掲げたが、結果として当時の日本人口の約四パーセントが死亡し、多くの人が家屋や財産を失った。
 当然ながら、このことは強烈な心理的影響を残した。まず政治においては、「強力なリーダーシップ」とか、「アジアの団結」とかいったスローガンにたいする警戒感や、強い平和志向を残したこと。この平和志向は、戦後日本でガンディーを非暴力主義の象徴として有名にすることに、一役買ったと思われる。しかし文化に対するより目立たない影響としては、「正義」や「戦い」への屈折感をもたらしたことである。
 この話をするにあたり、私は黒澤明監督の『七人の侍』の話をした。この映画は、戦争の傷がまだ癒えぬ1954年に公開されたもので、「男らしさ」の好きな黒澤が、いわば「正義の戦い」を描こうとしたものである。しかし、「正義の戦い」を描こうとすると、戦後の日本ではどうしても近代戦争ではなく、時代劇かSFになってしまうのだ。
 ……(中略)……。
 このような描写の背景には、「正義の戦いであっても、軍隊と民衆の対立はつきものである。勝利したとしても大勢の犠牲が出る。そして、よく戦って負けた側はなにも報われないが、彼らこそ真の勇者である」という屈折した戦争認識とヒロイズムが存在する。……(中略)……。
 こうした「正義」や「戦い」への屈折した感情は、その他の日本の映画やアニメにもみられる。……(中略)……。未来戦争を描いたようなアニメ作品でも、政治的背景の設定が複雑で、どちらが正義かはっきりせず、敗北する敵側の人物が主人公よりも魅力的に描かれたりする。
 そしてくりかえしになるが、これらが「芸術作品」として知識層にだけ評価されているというのではなく、大衆や子供向けの映画や漫画として人気を得ているところがすごいのである。それにくらべると、インドの大衆映画は、「善は美しくて勝つ、悪は醜くて負ける」という筋のものが多く、日本で公開されるとあまりの単純さに観客が笑ってしまうほどだ。太平洋戦争の敗北は、「正義とは何か」あるいは「戦いとは何か」という哲学的問いを、日本の全国民レベルに強いたといえるだろう。日本のアニメや漫画が国際的に評価されるのも、一つには戦争が戦後日本に与えた屈折が一役買っているのではないかと思う。(p.252-254)


なかなか興味深い考察である。

2番目の段落で述べられていることについては、ここ数年については「強力なリーダーシップ」が求められ「平和志向」も年々弱まる傾向が見られるところに私としては懸念しているところである。

「正義」や「戦い」への屈折感というのも、確かにそうした考え方は広まっているかもしれないと思える。ただ、それは屈折感というよりは、事実というものはスローガンで述べられるほど単純ではないということを認識しただけに過ぎないように思われる。



 私の主張では、いわゆる国際化やグローバリゼーションは、ナショナリズムをむしろ激化させる。グローバリゼーションは貧富の格差を広げ、グローバリゼーションから利益を得られる中上層の人びとについてはナショナリズムを減少させるが、残った下層の人びとは中上層階級への反発から、むしろナショナリズムを強めるだろう。また多国籍企業は、国境が隔てる格差(為替レートや安い賃金など)から利益を得るために国境を越えているのであって、国境を廃止しようとしているのではない。そしてマスメディアの発達や地域コミュニティの崩壊は、具体的な地方のアイデンティティを弱め、代わりに抽象的なナショナリズムを強めるはずである。(p.255)


多国籍企業が国境を廃止しようとしているわけではないというのは全く正しい。むしろ、政府の力を利用して利益を最大化しようとするというのが通常の行動パターンである。



 日本の政治家が「アジアの一員」などと主張するのは、もっぱらアメリカに反発を感じたときだ。日米経済摩擦が激化したとき、『NOと言える日本』を出版した石原慎太郎が、続編として『NOと言えるアジア』をマレーシアのマハティール首相と共著で出したことなどは、一つの典型である。こうした政治家や知識人のなかには、ろくにアジア諸国のことなど知らない人もいる。要するに、じつは欧米との関係がまず先にあり、それが悪化したときに、対抗軸として「アジアの一員」などと言いだすにすぎない。しかも日本の政治家が「アジアの一員」と言うときには、日本がアジアのリーダーとして意識されているであろう、と。(p.255)


確かにその通りであろう。ただ、最近は中国を意識して他のアジア諸国との関係強化や環太平洋などの枠組みが論じられることも増えてきたと思われる。



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