アヴェスターにはこう書いている?
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小熊英二 『インド日記 牛とコンピュータの国から』(その3)

インドにかぎらず、元植民地だった第三世界の国境線は、その多くが宗主国が決めたものだ。しかしいったんその国境線に沿って独立すると、あたかも太古の昔から国家が存在したかのようなナショナリズムが生まれてくるのである。(p.110)


その領域内に生活する人にとっては「共通の利害関係がある」という認識が共有される――共有の前提としてマスメディアがある――ために、建国神話が信じやすいものになるため、どこでもこのような現象が見られるものと思われる。



 国際交流基金事務所長婦人の藤岡氏に聞いた話によれば、このダウリーはもともと上層カーストの間で行なわれていた慣習が、インドの国民国家形成とともに下層にまで浸透したものであるらしい。近代日本でも、一部の上層階級の文化が下層にまで模倣され、国民全体の「日本文化」になっていった事例は数多い。江戸時代には人口の六パーセント(数え方に諸説ある)にすぎなかった武士の、しかもそのなかでも例外的な行為として存在していた「切腹」が「日本文化」として有名になったり、江戸の富裕な商人の習慣だった「七五三」が明治以降に全国的に波及したりしたのは、その一例である。
 太平洋戦争時は、農民出身の兵士や将校までが、腹を切って自殺することを「日本の伝統」とみなした。しかし実際の江戸時代では、帯刀は武士の特権だから、農民が切腹することなど許されない。近代社会になって、マスメディアの発達とともに中央の文化が浸透し、また身分制度がゆるんで下層が模倣してもゆるされるようになり、さらに「われら日本人は日本の伝統文化を身につける」という国民意識が形成されるようになると、こうした現象が起きるわけだ。
 インドをはじめとした途上国のフェミニズム知識人にとっては、「伝統といっても、実はその多くが近代以降に創られた伝統だ」という論法は、有用であるようだ。(p.131)


「創られた伝統」論は、途上国の知識人だけでなく、日本の一般人にもいまだにかなり有効な論法だと思う。

この論法に親しんでくると「またかよ」とか思ってしまうこともあるが、逆に言えば、それだけ多くの「創られた伝統」があり、そうしたものが巷に満ち溢れているということでもあるのだから、それらの由来が理解されずに安易に「日本文化」のような括りで捉えられ、そこから誤った推論が行なわれることが多々ある。そうした誤った認識に基づく推論によって安易な「文化」論が語られる場合があるが、それを批判して相手に非を気づかせる時、こうした論法は未だに役立つことが多い。



 こう考えてくると、「伝統の創出」を強調する歴史研究と、ヒンドゥー神話のボキャブラリーを使う女性運動のあり方は、日本からみるとまったく別の現象のようにみえるが、インドの土壌ではどちらも「民衆に受け入れられる」うえで有用だということがわかってくる。イギリスのセンサスや登録で「インド人」や「ヒンドゥー教徒」のアイデンティティができたという歴史研究も、国際映画祭のプレミアム上映会で主演男優氏が述べた「インド、パキスタン、バングラデシュの区別はイギリスがつくったものだ。われわれがそれに囚われて争う必要はない」という言葉、つまりインドにおける常識的通念を、学問というかたちで延長した位置にあると考えられる。
 日本では、ポストコロニアル論や「伝統の創出」論などは、もっぱら「日本文化や日本国家という虚構を暴く」というナショナリズムの否定として導入されている。しかしインドでは、ナショナリズムの否定というより、ナショナル・アイデンティティと社会変革を両立させるための緩衝材として機能しているといえる。学問という一見普遍的なものも、やはりその土地ごとの文脈に適応した形態で根付いているのだ。(p.132)


このあたりの議論は興味深いものがあった。張り巡らされている言葉のネットワーク(どのような議論がなされているか)の状態が異なっていると、同じ理論でも異なった位置づけが与えられる。



先日のアミタ女史の反応もそうだが、こちらの観察に違和感を表明される機会に出会うのは貴重。「もうインドはだいたいわかった」などと思い始めた段階が、安直なステレオタイプの形成に陥るいちばん危険な状態なので、少し気をつけることにする。(p.156)


確かにそうかもしれない。人と議論ないし意見交換することの重要性の一つはこうした機能にあるだろう。



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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

小熊英二 『インド日記 牛とコンピュータの国から』(その2)

 思うに、日本での学歴は、インドでのカーストと同じくらいの拘束力を持っている。日本では、インドでカースト間の結婚や交際が少ないと聞くと、「差別があるんだな」と感じる人が多いだろう。しかし日本でだって、大学出の女性が、中卒の男性と結婚しようとしたら、まずまちがいなく家族から大反対されるはずだ。それ以前に、学歴のちがう者どうしは就職場所も生活範囲もちがうから、まず出会うチャンスがない。出会ったところで共通の話題もないだろうから、交際も当然少なくなる。インドがカーストで輪切りにされた社会だとすれば、現代日本は学歴や会社名で輪切りにされた社会だ。(p.67)


確かに学歴は強い拘束力を持っているように思われる。ただ、これは日本に限らないだろう。



ラジブ氏もそうだが、若いときに日本によい印象をもってもらうと、数十倍になって帰ってくるといえる。(p.76)


印象の持つ影響力は侮りがたいものがある。観光などイメージが重要な分野ではこうした側面は見落とせないだろう。

ただ、思うのは、日本に来た外国人が日本の人から親切にされた場合に、親切にしてくれた某氏の印象が良くなるというだけでなく、その某氏が所属していると見なされる集団のイメージも向上するというのは、ある意味では不思議である。



 これに関連していえば、インドの知識人や映画はほんとうにまじめだが、時に表現がストレートすぎて芸術としては味が足りない感じがする。その点、発展途上国でもイランや中国の近年の映画には微妙な味わいのものが多いが、先日ラジブ氏とその点を話していて出した結論は、政府の検閲のせいだろうということだった。イランには子供を主人公にした映画が多いが、直接に社会批判をやると検閲にひっかかるため、子供の目を通して貧困や社会問題を描くのである。こういう具合に表現が間接的なので、そこがヨーロッパや日本の評論家に評判がよい一因になっているのだろうと。言論がより自由なインドの映画などのほうが、こうした「芸術的繊細さ」から遠くなっているのは皮肉である。(p.86)


興味深い指摘である。

ただ、映画の場合などは確かに著者の指摘するとおりかもしれないと思うが、コンテンポラリー・アートの作品などでは中国のものよりインドの方が面白いというのが私の印象であり、言論や表現の自由と芸術の卓越性の関係は分野などによって変わる面があるように思われる。



 なぜ高等教育が英語なのか。日本は植民地化されなかったため、日本語で近代化を行なった。ところが宗主国語で理科系・文科系のテクニカル・タームが整備されてしまった旧植民地諸国では、翻訳語をつくるより英語で講義をしたほうが便利な場合も少なくなかったのである。(p.90)


植民地の痕跡。ただ、英語で話ができる人が多くなることがプラスに機能する面もあるが。



途上国の知識人が英語を話せるのは、植民地化の遺産であると同時に、文字通り「知識人と大衆がまったく違う言葉を話す」という格差の一例なのだ。(p.90)


妥当。




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小熊英二 『インド日記 牛とコンピュータの国から』(その1)

 「インドには定価はない」といわれる。値切り交渉でまけたり、顔見知りだと安かったりする。もっともこれは日本でも、高度成長期までの農村部などでは、一般的なことだったらしい。……(中略)……。
 インドでも、「貧乏人や顔見知りには安く、金持ちには高く、修道者にはただで」といったそれなりの基準があるそうだ。外国人観光客などは、この基準からすれば最高値の対象となる。
 値切るという行為は、いわばその行為を通して、「顔見知り」になる手間を支払うことであるともいえる。その手間を惜しむなら、金をよけいに払うか、毎日きて自然に顔見知りになって安くなるのを待つかという手順を踏むのだろう。貨幣はすべての価値を数字に換算する強力無比のコミュニケーション・メディアだが、人情や顔見知りといった他のコミュニケーション手段が、貨幣の威力の通用範囲をとどめているわけだ。「定価ですべてが買える世界」は、裏を返せば「たとえ顔見知りでもまけない世界」であり、「人情よりも金ですべてが計られる世界」でもある。(p.16-17)


 最近はだいぶ世界中が「定価ですべてが買える世界」に近づいてきたというか、そうした世界が増えてきたと思われるが、「定価がない世界」ではこうした貨幣の力が限りなく万能に近い状態を制限するメディアが存在する点を指摘しているのは興味深い。また、私もこうした値切り交渉はそれ自体がコミュニケーションであって、売り手との関係性の構築であると考えているので、著者の見解には共感するところが多い。

比較的最近読んだあるインド旅行記の著者はその点に対する理解が全くなく、ひたすらにインドでは旅行者を騙して高い金を巻き上げようとすることに対して苦情を言っていたが、それは見識が狭く、柔軟性を欠く姿勢であると思われる。むしろ、そうした「自分にとっての当たり前」を突き崩し、その意味するところを暴露するところに外国への旅行や滞在の醍醐味の一つはあるのではなかろうか。



 アメリカ映画の一部にも感じることだが、戦争に負けたことのない国の観客は能天気なものだと思う。ただアメリカ映画とはっきりちがうのは、ヒーローやヒロインが危機に陥ると、ヒンドゥー教の神様が奇跡を起こしたりすること。こういうヒンドゥー指向とバイオレンス趣味が一体となってウケている様子は、インド人民党の核武装政策の支持基盤を想像させて気持が悪い。(p.28)


戦争に負けたことのない国の観客の能天気さも問題だが、戦争に負けたことをずっと根に持っている国の執拗さも場合によっては問題になるのが難しいところ。具体的には中国の場合。日本の場合は核兵器を持たないことなどに対するこだわりとして同様のものがあるが、暴力そのものに向かっている点で健全であると判断することができる。中国の場合は「日本帝国主義」なるものを敵として認識しているようだが、それがいつの間にか「日本」になったりするし、当時の日本の軍隊とそれを支持した有権者たちが加害者なのに、その子孫まで敵と認識しているのは、不当であると思われる。なぜならば、犯罪者の子は自動的に犯罪者であるわけではないからである。

引用文後段はヒンドゥー・ナショナリズムとインド映画の受けている要素が同根であることを暗示しており、興味深い指摘だと思う。



要するに、体調がおかしいがゆえに日本食を欲しいとは感じるが、実際に食べてもうまいとは限らないのである。ナショナリズム全般にいえることだが、現状が悪いときにはシンボリックなもの(「日本」)に希望を託すが、それそのものを入手すると期待が裏切られたりする。これは政治運動でも同じで、「日本」に期待した沖縄の復帰運動がそうだった。(p.34)


確かにその通りである。



神道はもともと、アニミズム系の多神教である。いまの日本は結婚式がキリスト教式で葬式は仏式だったりするが、それで神道が弱くなったとはいえない。拝む対象がキツネの神やイネの神からキリストやブッダにいれかわっただけで、神道のリニューアル、ないし適合戦略ともいえる。むしろ、三島のような原理主義者のほうが西洋化の産物であり、彼は服装や住居の点ではきわめて西洋的な人物だったし、西洋の小説の教養をもとに、それと似たものを日本の材料でつくろうとしたのだ。三島の『潮騒』は、彼自身がはっきり述べているように、『ダフニスとクロエ』からヒントを得て書かれた作品である。イスラム原理主義もそうだが、「反動」というのはそれじたい西洋化と近代化の産物なのだ。(p.49)


インドに西欧からキリスト教が入ってきた時も同じように受け入れられていたという報告がある。

反動は西洋化・近代化の産物であるという小熊の主張はこの後も随所に繰り返され、ナショナリストはその社会の最も西洋化・近代化された人物であるなどと言われる。なかなか鋭い指摘である。もっとも、ネイション・ステイトというものがいわゆる西洋化・近代化が目指す体制であるから、当然と言えば当然ではあるが、ナショナリズムは「古いと思われている表象」を利用して創られていくから、一見気づきにくい面があるため、こうした指摘は有用である。



 江戸時代は身分や藩によって分断された社会であり、一目見ただけで、あるいは一言話すだけで、どこの地方のどの身分か、すぐわかってしまう。そういう社会では、身分も地方も超えて「われわれは日本人だ」という意識よりも、「どこそこ村の農民」といった意識のほうが強い。文化にしても、「日本文化」が存在したというより、「京都の貴族文化」や「水戸の農民歌」があったというほうが正確である。
 こういう状態が変化するのが、明治以降。まず何より、生まれによる身分が否定され、また藩も廃止となって、会津の武士も薩摩の農民も、一律に「日本人」とされたことが大きい。またマスメディアや交通の発達の結果として、地方間の移動や情報の流れが激しくなり、そのなかで共通の「日本文化」が発生してくる。江戸地方の料理にすぎなかった握り寿司や、京都の宮廷に献上していた菓子(当然ながら庶民は食べていなかった)が、情報や流通の発達によって全国に広まり、「日本の料理」になるという現象が起きてくるわけだ。
 さらに文化財の保護政策や、国民共通の義務教育も影響する。たとえば明治期には、政治家や官僚たちが中心になって、廃屋同然になっていた興福寺や、真言宗の末寺にすぎなくなっていた法隆寺を再興する動きが起こる。やてそれらは、「京都の仏教寺院」ではなく、「日本の伝統文化」として国定教科書に掲載されていった。こうして、世が世なら寺院の建設に強制労働させられる側だったはずの平民たちまでもが、「京都のお寺はわれわれ日本人の伝統文化」という意識を持つことになる。「日本人」という意識、あるいはナショナリズムは、交通の発達や身分制度の解消といった、近代化の結果として生まれてくるのである。(p.54-55)


簡潔で分かりやすい説明なので人に説明する時に使えそうである。


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NHK「アジア古都物語」プロジェクト 編 『NHKスペシャル アジア古都物語 ベナレス 生と死の聖地』

 ベナレスにいると、驚かされることが多い。なかでも不思議だったのは、雨が降り出すと同時に店の中の売り物である金物を急いで外に出している店主であった。日本なら雨が降り出せば物をしまうのが普通であるが、店主はせっせとトラクターの荷台に移し変え、またたく間に品物の山ができていた。どうやら激しい雨を利用して、労力をかけずに品物を洗うつもりらしい。普段清潔な環境でさまざまな電気機器に囲まれて暮らしている日本とは違う、ベナレスの人びとの生きるたくましさや活力を感じた。(p.100)


あまり他の旅行記などの類では書かれていないエピソード。これがどのくらい一般的なのか気になるところである。また、本書は2002年に出版されているので、恐らく取材は2001年頃と思われる。それから10年が経過してどのように変わっているのか、興味があるところである。



 1925年のベナレス市政報告書には、自らの主張を取り下げる次の言葉が記されていた。
 「皮に流される遺体は衛生上、大きな問題であるが、火葬場を現在の場所から移動させるのは無理である。火葬場マニカルニカー・ガートやハリシュチャンドラ・ガートが街のために存在するのではない。街が、火葬場のために存在するのである」
 「街が、火葬場のために存在する――」。この言葉は、イギリスが認めざるをえなかったベナレスの死の伝統の強固さを何より表しているように感じられた。(p.163)


この伝統が「創られた伝統」ではないのか気になるところである。ただ、ベナレスが火葬場を中心とする聖地であるという認識は一応、訪問するにあたっては持っておきたい。



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小名康之 『ムガル帝国時代のインド社会』

アクバル時代後期から始まった宮廷とヨーロッパ人との交流はムガル宮廷絵画やムガル建築物のデザインに大きい影響をおよぼした。(p.30)


具体的にはどのような影響なのか?今度訪問する際に見てくることができればよいのだが。



 ムガル帝国中央は、マンサブダールの窮乏化を防ぐためにジャーギール地収入の確保をはかった。早くから、イジャーラー(徴税請負制度)導入によって税収の増徴をめざした。これは、入札によって税収の最高額を申し出た者に徴税を請け負わせる制度であったが、在地農民の反発は大きく、思うほど帝国の税収があがったわけではなかった。しかも、これが逆に農民反乱をまねき税収が減った。そもそも、複雑な土地関係の事情をよく知り、在地農村・農民を把握している者は地方の県、郡の有力層(ザミーンダールなど)であって、請負制を取り入れても実際に落札するのは彼ら地方の有力層であった。
 農民反乱とあいつぐ遠征で、帝国の中央が直接に把握する領域は減る一方であり、税収の落ち込み、ジャーギール地収入の減少が進み、他方、税収強化は反乱をまねき、帝国の財政難は深刻となり、ムガル帝国は内部から崩壊することになっていった。(p.78)


アウラングゼーブ帝の時代の財政状況等についての叙述。

徴税請負制の導入によって徴税する人を「競争」によって選別した結果、税収が落ちたという話は興味深い。現代社会で公共的な領域を民営化すればうまくいくわけではない、ということに通じる。


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中里成章 『インドのヒンドゥーとムスリム』

そもそも、インドの中世で興亡を繰り返した王朝の支配層が、ヒンドゥー王朝とかイスラーム王朝とかいうような自己認識をもっていたかどうか疑わしい。王朝を宗教によって二分し、両者が敵対し抗争していたかのようにみる視角は、<近代>になってイギリスが持ち込んだものにすぎない。
 ……(中略)……。時代的・地政学的な条件を共有していた以上、王朝の支配者が異なる宗教を奉じていたからといって、異なる支配体制をもつようになる必然性はなかったと考えられるのである。(p.17-18)


全く同意見である。

この観点から見たとき、インドへの「イスラーム勢力」の侵攻がなされたガズナ朝やゴール朝の時代やデリー・サルタナットの時代などの歴史叙述には違和感を感じることが多い。というのは、ラージプート諸侯たちが共同して外敵であるイスラーム王朝に対抗「しなかった」ため、イスラーム王朝がインドで成立したという図式で語られることが多いからである。

確かに、ラージプート諸勢力は「イスラーム王朝」を共通の敵とは見なさず、互いに抗争を繰り広げていたのはその通りであろう。しかし、彼らに「侵入者」の支配層がムスリムであるという理由で隣接しながら敵対しているラージプート勢力と手を結ぶ必然性(理由)はない。むしろ、イスラーム王朝に「共同して対抗しなかった」という記述は事実であるが、このような記述のほとんどには「本来は当然、共同して対抗すべきであったのに」という価値判断が前提されており、その判断自体が今日のインド亜大陸の「統一」(現在の国民国家としての「インド」の領域が一つにまとまること)は当然であるという観念が暗黙のうちに想定されているように思われる。

(括弧をつけた「侵入者」という表現自体、「インド」を中心として、そこが一つのまとまりをなしているという前提に立った表現である。ラージプート諸侯にとってはそれぞれの支配領域が「国」だったはずであり――もっとも、それも現在のような「領域国家」ではなかったが――、その外から来るものはすべて侵入者であり、「インド」の外から来ようが、隣の土地から来ようがある意味では同じであったと思われる。歴史を書く人には、現在の情勢を過去に投影するアナクロニズムにはもう少し自覚的であって欲しいものである。)

これはイギリスなど西欧諸国がインドに来て植民地化が進展していくことについての叙述にも、似たようなものがしばしば見られる。


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粟屋利江 『イギリス支配とインド社会』

つまりシャーストラおよびヴァルナによる区分は、ヘイスティングズの規則を介して、イギリス支配下ではじめてヒンドゥー社会に普遍的に適用されたといえる。このことはバラモン的な価値観が優位な地位を与えられたことを意味した。また、イギリスが導入した「近代的」な司法機関の判例によって、古色紛然としたヒンドゥー法の規定が固定化することでもあった。(p.7)


シャーストラとはヒンドゥー法のことで、ヴァルナ制とはバラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラといった位階秩序のこと。こうしたものがインド亜大陸全域に適用され、固定化されたのは、イギリスの支配下においてであった。

ヘイスティングズの司法規則とは「相続、結婚、カースト、その他の宗教的慣習にかかわる訴訟においては、マホメタン(ムスリム)にたいしては、コーランの法を、ジェントゥー(ヒンドゥー)にたいしてはシャーストラの法(ヒンドゥー法)」(本書p.5)を適用するという規則である。

近代国民国家の政府は域内を均質化しようとする強い志向性を持っているが、植民地にもそれは及んだようである。



ただ留意すべきなのは、「サティー」がインドの全域で、あらゆる階層の女性によって古来よりおこなわれてきたわけではない、という点である。十八世紀の末には、イギリス支配のおひざもとであるベンガル地域の上位カースト、とくにバラモンのあいだにとくに集中してみられた。(p.21-22)


サティーという「インドの習慣」もまた、「創られた伝統」である。



ある研究者が表現したように、イギリスの政策は「分割統治」というよりも「均衡統治」というのが相応しい。(p.43)


この指摘はイギリスのインド統治を見ていく際には念頭に置いてみる価値があると思われる。



 イギリス支配がなかったならば、今日の「カースト」「宗教」状況はなかったろうというのではない。しかし、今日われわれの目の前で展開される「カースト」的、「宗教」的な諸現象を、インド古来からの「遺制」、「残留物」と短絡的にとらえるのではなく、ごく近い過去……「近代」……に再構成され、また今現在も再構成されつつあるなにものかである、という認識が求められているのである。(p.80)


同意見である。そして、人の認識の常として、ある対象を知らなければ知らないほど、その対象を固定されたものと考えがちになるという傾向があるため、「わかっている」と思うのではなく「知ろうとする姿勢」が認識者の側には常に求められる。


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山下博司 『ヒンドゥー教とインド社会』

ヴェーダの宗教儀礼は供犠(ヤジュニャ)を中心としている。祈祷のさいには、警官が祭詞を朗読しながら供物(農作物、畜産物、生贄など)を祭壇の火炉に投じた。祭祀も、感謝とか敬虔な信仰心に動機づけられたものというより、なんらかの具体的目的や期待を込めておこなわれ、神と人とのあいだにギヴ・アンド・テイクの関係が成立している。この点で、のちに発達するヒンドゥー教とは趣を異にしている。(p.20)


私の持論として「宗教とは政治的現象である」というのがある。こうしたある意味では原始的とも言えるような宗教の様態からも、人々が政治に期待していることと共通していることを見て取ることができると思われる。



自由闊達な雰囲気を受けて、思い思いの説を唱える数多くの思想家が登場してくる。彼らは、世襲的な聖職者である「婆羅門(ブラーフマナ)」にたいして、「努め励む人」をあらわす「沙門(シュラマナ)」と呼ばれ、修行にいそしんだり、民衆に自らの見出した真理を説いた。当時は、どんな説を唱えても罰せられることはなかったらしい。言論・表現の自由が広く認められていたのである。比較社会学者マクス・ヴェーバーは、このころのインドについて、近代ヨーロッパと比較しつつ、人類史上まれにみるほど思想信条の自由を享受した時代として評価している。(p.28)


仏教やジャイナ教が成立した紀元前6~5世紀頃のことを指していると思われる。



 「バクティ」とは、神への献身的な帰依の心情をさす語で、日本語ではふつう「信愛」と訳される。ブラフマン=アートマンについての明知やヴェーダの祭式によらなくとも、熱烈な帰依の情をもって、あたかも恋人にたいするように神を愛し念じれば、救済がもたらされるとする教えである。聖典に通暁し、知覚や感官を対象から遠ざけて自己に没入し、絶対者を念想するという従来の方法にたいし、情緒や感覚を総動員して一身に最高神を愛し、それにより神の恩寵(プラサーダ)をえようとするのである。ここでは、神は、世界の創造・維持・破壊を司る存在というより、人びとを救済する者としての側面が強調されている。(p.40)


知識人階層に受容される傾向がある主知主義的な神学では「原因」や「絶対者」としての神が重視される傾向が強いが、一般の民衆に受け入れられる傾向があるバクティ信仰やイスラームのスーフィズムなどのような信仰の系譜では、より感覚的なものが重視され、神は救済者として立ち現れる傾向を示す。一般の民衆は教育水準が低いことや相対的に抑圧されている(社会的地位が低い)ということが、こうした傾向の背景になるのだろう。



 バクティ的なヒンドゥー教が、仏教・ジャイナ教をみるみる圧倒し、宗教史上の大きな転換を可能にした一因として、寺院の建築様式の変化を指摘することができる。ヒンドゥー教建築が積極的に「石積み寺院」の様式を採用したことで、思い思いの場所にヒンドゥー寺院を構築できるようになったのである。それまでの宗教施設は、石窟寺院(摩崖を掘って造ったもの)や岩石寺院(岩塊を彫り出して造ったもの)が多く、したがって造営できる場所もおのずと限られていた。(p.47)


寺院の建築様式の変化がバクティ的なヒンドゥー教普及の際に役立ったとする意見は興味深い。これは役立ったとは言っても積極的で必要不可欠な要因として機能したというよりは、普及を妨げない方向の環境を作ったというような背景的な要因として機能したものと思われる。ただ、こうして随所に寺院が建設されることによって、各地を結ぶネットワークの拠点ができたのだとすれば、それは普及の際には有力な力になっても不思議ではないと思える。



 こうして、「バクティ」は全インドを席巻する大きな宗教運動に発展するとともに、地方語・地方文化の確立にも寄与していく。ここで注意すべきことは、民衆的な「バクティ」の普及・拡大が、とくに北インドにおいて、イスラームの勢力伸張の時期(十三世紀以降)と符合していたという事実である。ヒンドゥーとイスラームの宗教文化が、対抗しつつも相互に影響をおよぼし合い、やがて融合的・混淆的・普遍主義的な思想をも育むことになる。(p.48)


バクティとスーフィズムは共通の背景の下で当時のインドの社会に受け入れられていったようである。


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