アヴェスターにはこう書いている?
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荒松雄 『多重都市デリー 民族、宗教と政治権力』

このデリー南郊の地は、ローマもカイロも、西安も北京も比較にならないほどの、いわば「遺蹟だらけの土地」という感じだった。(p.44)


現在は開発が進み、遺蹟も破壊されたものや市街地の中に埋もれて見つけにくくなってしまっているものも多く、1950年代とは全く別世界になっているらしい。それでもデリーの南郊は多くの遺蹟がある(あった)地域であるということは訪問する身としては頭の片隅において置くのがふさわしいと思われる。もちろん、クトゥブ・ミナールなどがある場所などもここに含まれるからである。



東のデリーと西のカイロという、中世ムスリム王権支配下の二つの歴史都市の郊外で、トルコ系の「奴隷(マムルーク)王朝」の支配層が営んだ同じような墓建築に、奇しくも接することができたのである。(p.45)


もう5年程前だが私もカイロの歴史地区を訪れてモスクやマドラサなどを見てきたことがある。今度はデリーに行く予定があるので、うまくいけば東西のマムルークによるムスリム支配層の墓建築に接することができるかもしれない。



 デリーのトルコ系ムスリム支配者たちの造ったモスクや墓建築は、その数の多さにおいて世界史上特筆されていいだろう。(p.48)


モスクや墓建築が多い原因は何か?インドではムスリムでなくてもスーフィーの廟に詣でる人がいると聞くし、北インドでイスラームが広がっていく際にはスーフィズムの影響が強かったという。このとき同時にスーフィズムと同じ傾向を持つヒンドゥー教のバクティ信仰も広がっていたという。こうした民間信仰としてイスラームが広まっていったということが背景にあるのではないか。以上、私のあまり詳しくないインドの歴史についての知識から出てくる現時点での仮説としてメモしておくことにする。



 まずは十三世紀から十六世紀前半のサルタナット時代の遺蹟だが、この時期のモスクや墓建築の多くは石造で、素材にはデリーの近くの灰色の石灰岩や花崗岩を使ったものが多い。これらの石材の他に、西のラージャスターン地方特産の赤砂岩を使った建造物もあるが、その量はのちのムガル時代に比べるとずっと少ない。資材の面でのこの時代の特徴の一つは、アーグラの「タージ・マハル」に代表されるように、ムガル最盛期に多量に用いられた大理石の使用が少ないことだ。その点では、デリーに残る唯一のムガル初期の二代フマーユーンの墓は、赤砂岩と大理石とを巧みに使い分けた最初の壮大な墓建築として、歴史的な意味を持っている。(p.85)


逆に疑問なのだが、インドで大理石を用いて建築が建てられる場合、どこで産した大理石を使うことが多いのだろう?ネットで軽く調べた限りではラージャスターンやその西のグジャラートに良い産地があるらしい。これらの地域をどの程度政治的に掌握していたか、また、経済的・財政的に大理石を切り出して運ぶだけの力があったかということが関係しているのではなかろうか。石造建築の場合、石の産地についても注意を払って見る必要がある。



 サルタナットの最初の首長アイバクは、ゴール朝のスルターン・ムハンマドの宮廷奴隷から身を起こし、武将にまで昇進した人物だった。当時のトルコ系諸民族の権力体制の下では、スルターンやその側近の有力者の奴隷になることは、権力の登竜門への最短距離を走るエリートたることを意味した。……(中略)……。権力者の側近たる宮廷奴隷が権力の頂点を極めることは、エジプト史の「マムルーク朝」でも見られたことで、トルコ系ムスリム支配体制下での権力構成の特徴の一端を示す興味深い事象である。(p.125)


「奴隷」という言葉からはエリートとは逆のイメージが思い浮かぶため、この指摘は興味深い。また、エジプトのマムルーク朝とデリー・サルタナットの類似性についての指摘も同様に興味深い。



 サルタナットの最初の王権たる奴隷王朝の基礎を造ったクトゥブッディーン・アイバクの墓の所在は不明だが、スルターン・シャムスッディーン・イレトゥミシュの墓〔T2〕と推定される遺蹟は、今日なおクトゥブ・モスクの北西隅に見ることができる。デリーの王座に即いたイレトゥミシュの子孫の墓の一部もデリー地域に残っているが、スルターンに登位することなしに戦死した皇太子ナースィルッディーン・マフムードの墓〔T1〕は、墓室が地下にあるところから「スルターン・ガーリー(地下のスルターン)」の俗称で、クトゥブ地域の西方に残っており、今日ではヒンドゥー教徒を含むデリーの一部民衆たちから民間信仰の霊場として崇敬をあつめている。石の囲壁を巡らせた独特な構造を持つこの建造物は、デリー地域における最初の墓建築として、インド・イスラム建築史上で重要な意味を持つものである。(p.127-128)


これらも最初に引用した文が言うデリー南郊の遺蹟に当るだろう。本書が出版されたのは1993年であり、もう17年も前なので、現在でも見られるかは不明だが、クトゥブ地区を訪問した際にこうしたものも見られるかどうか注意しておきたい。



 スルターン・フィーローズ・シャーの死後、経済的基盤や支配層の権力争いのために、デリーのトゥグルク勢力は一挙に衰退の道を辿り始める。この衰勢に追い打ちを掛けたのが、1398年末のサマルカンドからのティームールの軍隊の侵入略奪と、その結果のデリーの荒廃だった。こうした状況の下で、サルタナット体制派急速に弱体化していく。(p.157)


フィーローズ・シャーの治世には多くの建築が建てられたというが、建築ラッシュの後すぐに経済や政治が衰退していったのだとすれば、フィーローズ・シャー時代の建築ラッシュは一種の公共事業だったのではないか、という仮説が浮かんでくる。公共事業をやったから衰退したのではなく、既にフィーローズ・シャー時代には衰退が始まっていたため、失業などを最小限に抑えるために公共事業的に建築を建てさせたが、結局、その後の建て直しはできず、経済的にも財政的にも立ち行かなくなったということではなかろうか。

この時代については詳細は承知していないので、的外れかもしれないが現時点での仮説ということでメモしておく。


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近藤治 『新書東洋史6 インドの歴史 多様の統一世界』

 あとに示す地図をご覧になればはっきりするように、植民地前の国内交通路として大動脈的幹線道をなしていたのは、ガンジス河口に近いベンガル地方からパトナ、ベナレス、アグラ、デリー、ラホールをへてペシャワールへといたる道路であった。(p.70)


インドの北部を東西に横断するようなルートであることがわかる。北インドの主要な都市がほぼ網羅されている。



 イギリスに徴税権、つまり実質的支配権がゆだねられたということは、貿易関係のうえから見るならば、この地方から上ってくる地租収入でもって、インドおよび東方の物質を容易に買付けることができるということである。本国から銀貨一枚さえ持ちこまなくても、垂涎の物資だけはどんどん自国に入荷してくることが可能になったことにほかならない。その結果が、インドにどのような経済的事情を産み出してくかは、おのずと明らかであろう。それは、まさに輸血をいっさいせず、ただ一方的に太い注射器を打ち込んで血を抜き取りつづけていくに等しい効果を持つものであった。
 イギリスがベンガル地方の植民地化に踏みきって以後、インドからの「輸出」――いっさいの見返り品を与えない掠奪と同じ意味をもつ「輸出」――の量は飛躍的に増大していった。(p.177)


1757年のプラッシーの戦いの後、イギリスは1765年にベンガル、ビハール、オリッサ地方の徴税権を割譲させることに成功した。また、これに先立つ七年戦争でもイギリスは勝利し、1763年のパリ条約ではフランスをインドから事実上撤退させていた。こうしたことがイギリスがインドの富を吸い上げて力をつけていく大きな契機となった。いわゆる「産業革命」がこの頃以降急速に展開していくのは偶然ではなく、むしろ、こうした背景が要因となってもたらされた事態が表面化するときに起こった現象を「産業革命」という名で呼んでいるに過ぎないと言っても過言ではないのではなかろうか。大雑把な言い方になるが、一言で言えば、大英帝国の覇権は、フランスに競り勝ち、インドという土台を手に入れたことにより成り立った、とでもなろうか。


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中村岳志 『インドの時代 豊かさと苦悩の幕開け』

 ここでヒンドゥー・ナショナリストの巧みな点は、ヒンドゥー的価値の回復を主張したり、様々な魅力ある活動を展開したりするだけでなく、その時々の状況に応じて非難のターゲットとする明確な敵を(陰に陽に)提示し、自分たちこそが様々な被害者であることを訴えることにある。
 ……(中略)……。そこでは、主張を支える科学的史実や論理的根拠はほとんど提示されず、人々のアモルフ(不定形)な感情を掴むための巧妙なレトリックとキャッチコピー化された軽薄な言葉の群れだけが羅列されている。(p.73)


この指摘はナショナリストの言説一般に当てはまると思われる。

ナショナリズムの感情はそもそも「敵」なしには存在しえないといっても良いと私には思われる。



ヒンドゥー・ナショナリズムは厳密な思想体系などではなく、広告的コードであるが故に、多くの人々に対する強力な浸透力を有しているのだ。(p.88)


ナショナリズムは思想体系ではないという点には完全に同意する。「広告的コード」であるとする点についてはナショナリズムの一面を的確に捉えていると評価したい。

単なる広告的なコードであればナショナリズムほどの強力な浸透力が生じるとは思えないからである。あるアイデンティティを共有しているとされる人々にとっての利害についての認識およびそこから生じる感情が常にベースにある。その感情は常に否定的なものであり一言で言えば「被害者意識」である。そのために「敵」が必要とされ、その敵やアイデンティティを共有する範囲を指定し、人々に認識させるのが「巧妙なレトリックとキャッチコピー化された軽薄な言葉の群れ」である。こうして次々と連鎖的に強化されていくのではないか。


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深見奈緒子 編 『イスラム建築がおもしろい!』

 日本の最初のモスクは1931年建設され、戦災で消失した名古屋モスクで、1935年の神戸モスクと1938年の東京ジャーミィが続く。戦前のモスク建設の背景には、大東亜共栄圏構想のもと、軍の支援でイスラム研究が盛んになり、ロシア革命の後ムスリム・タタール人が多く日本に亡命したことがあげられる。1938年の東京ジャーミィの落成式に国家主義者の頭山満などの軍関係者が多数参列したことは、モスクの建設が政治的な目的をもっていたことを示唆している。(p.52)


興味深い指摘。これは宗教は、信仰の問題ではなく政治的現象であるという私の持論とも合致する。



墓は忌むべき場所ではなく、むしろ人間の死後、最後の審判にいたるまでの天国への待機所の意味から、墓と庭園が深い関連をもつ。インドのタージ・マハルをはじめ、ムガル朝皇帝たちの墓建築は、庭園に設えられた死後の宮殿ともいえる様相を呈している。(p.58)


庭園は楽園を表現するので、墓も楽園に住む前の待機所として庭園と共にあるということか。



 雁行型配置や回遊式庭園など、非対称の美をイスラム建築に見い出すことは難しい。建物は囲われた矩形中庭を基本とする。アーケードをつくる場合には、中央のアーチが定まる奇数分割が好まれる[①]。偶数分割だと、中心線上にピアや柱という物体が位置してしまう。次第に、中庭の軸線となる空間としての中軸廊が、高く、あるいは幅広になる[1-5①]。さらには、そこにペルシアでは際立つ大アーチをもつイーワーンを据える[②]。こうして、中庭を直交する2軸が形成されていく。実体よりも空間を是としたイスラム建築では、こうした一連の過程が、ムハンマドの家から500年余りのあいだに見てとれる。(p.102)


このように、歴史的展開の仕方を一般的なモデルとして提示されると、実物を見た際の理解の補助線が引かれる。

これは非常に参考になる図式だと思われる。



 ムカルナスやアーチ・ネットを年代的に比較してみると、微細化の方向が指摘できる。10世紀に生まれた当初の中央アジア[6-9②]やコルドバ[5-6④]の例とその後の発展形[①②、5-10①]を比べると、その変容は顕著である。その理由は、本来、アーチの曲折、交差などという構造的な工夫に起因する技法が、次第に装飾に特化していくことにある[②]。曲面の微細化を極めると、小さな曲面で構成されたムカルナスは、イスファハーンの王のモスクの主礼拝室のように微細な模様を施した大ぶりの曲面へと回帰していく[③]。これは、装飾がまったく構造から乖離し、空間を包む膜へと転化したと解釈することができるのではないだろうか。(p.114)


これも一つ前の引用文同様、非常に役立つモデルであると思われる。と同時に非常に興味深いものがある。



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佐藤正彦 『北インドの建築入門 アムリツァルからウダヤギリ、カンダギリまで』

 南方型のドラヴィダ式は寺域を囲むように高い塀があって、その東西南北のほぼ中央に高い塔門(ゴープラ)が建ち、寺域ほぼ中央に祠堂が建つ。……(中略)……。
 インダス文明の時代、村の四方の主要部分に家畜小屋を配して、住民を守った。動物は人間よりはるかに敏感なので、より早く危険を察知することができる。その家畜小屋が発展して、塔門になったらしい。寺院は家畜が出入りできる入口を四方の主要部分に設けた。したがって、塔門はヴェーダ時代の村に象徴的に基盤をおいていると考えられよう。(p.280-281)


 何となく中国の白虎、青龍、玄武、朱雀などが都市や国の四方を守護するという発想とも似ているように思われた。



北方型も南方型も装飾モチーフは反復性があって、同じような模様、例えば壺葉飾り(壺から四方に植物があふれている)や、入口を守る守門神のドヴァーラパーラがつく。
 ヒンドゥー教寺院は、支配者つまり王の宗教的情熱によって建立されたので、地域的様式は王朝名と一致する。……(中略)……。したがって、建立年代がわかれば様式が分かり、その逆に様式が分かれば、およその建立年代が分かる。(p.281)


装飾モチーフの反復性は中東などのイスラーム建築の蔓草文様や幾何学文様などにも見られるように思われる。

王朝名と建築様式が一致するということは、王朝の勢力が及ぶ範囲で職人が活動していたことを示しているように思われる。



 屋根は気候が暑く、乾燥するほどフラットになり陸屋根に近い。また、吹放しのポーチが強い日光を和らげるスクリーンの役目をしているように思えた。(p.282)


建築要素のうちでも屋根というのは気候の影響を強く受けるの傾向があるように最近思えてきたので、この指摘は興味深い。


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神谷武夫 『インド古寺案内』

 そのカジュラーホ様式は、彫刻的建築としてインドの建築の性格を最高度に表現している。壁面がおびただしい数の彫像で飾られているだけでなく、建築そのものが一個の彫刻作品のようで、ポーチから聖室へと並ぶシカラの連なりは、ヒマラヤをシンボライズしたものといわれる。シカラは小シカラの積層からなり、細部の独立性の高さということが、インド建築のもうひとつの性格である。ただ、外部の豊かな彫刻性に比べると、内部空間はいかにも貧弱である。外観を偉大にみせているシカラの内側は屋根裏にすぎず、実用的には必要のない彫刻的飾りなのである。インド人がつねに内部よりも外部の表現に意を用いた。ヒンドゥ教は集団礼拝をしないので大きな内部空間を必要としなかったのも理由のひとつだが、木造建築ではじまったインド建築が大空間のためのアーチやドームの構造を知らなかったことも、貧弱な内部空間の原因である。(p.52-53)


建築は「見る」よりも「空間を体感する」ことが重要であり、それによってその建築のすばらしさが分かるというのが、私のこれまでの経験から形成されてきた建築観だが、これはゴシックの教会堂やパンテオンやイスラームのモスク建築などを主として見てきたことが大きな要因になっているように思えた。インドの建築を近々見て来たいと思っているのだが、それによって自分の考えが相対化されてくるとまた面白いことになりそうな気がする。

「空間を体感する」というスタンスは京都などに行ったときに日本の寺社でも通用したし、本格的なバロック建築などを楽しむにも有用なのだが、中国や近代建築とは相性が悪いらしく、これらをどのように認識すべきかというのが、私の中の課題としてある。その意味でインドの建築から何かヒントを得られれば良いと思う。



 ベンガル地方では雨季にしばしば豪雨にみまわれるので、雨を早く流れ落とすために、民家は屋根の四隅が垂れ下がった局面屋根をしている。これを寺院建築にも取り入れたので、他の地方には見られない寺院形となった。これをバンガルダール屋根と呼ぶが、ベンガルを征服したイスラム政権のムガル朝がこれを持ち帰ることで、デリーや西インドのイスラム建築に影響を与えることになる。(p.64)


建築の形態のうちで、屋根は雨との関係が深いように思う。日本の古寺の屋根がやたらと大きくて勾配が急なのも、雨が多いことと関係があるのだろう。



デリーのスルタン朝時代の建築は、インド人が外来の技術を摂取して、しだいに自家薬籠中の物にしていく歴史であったといえる。(p.92)


こうしてカジューラホ様式のような貧弱な内部空間は、アーチやドームの技法の導入によって変化していく。



 実際にはこの宗教は普及せず、その寺院も建てられはしなかったが、彼のそうした意図は「アクバル式」と呼ばれる建築様式によくあらわれている。インドの伝統的な建築(石造でありながら木造的な柱・梁構造による彫刻的な建築)と、西方のイスラム建築(アーチとドームの技術による内部空間重視の皮膜的建築)とを融合させようとしたので、世界に類を見ない独特なイスラム建築を発展させたのである。(p.101)


ムガル朝の時代になるとイスラーム建築と土着のインドの建築を融合されることになる。タージ・マハルなどもそうした中に位置づけられる。



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辛島昇、坂田貞二 編 大村次郷 写真 『世界歴史の旅 北インド』

 カジュラーホーの寺院建築は、中世の北インドでもっとも発達した段階にあり、最盛期の複雑な形式では、玄関・前殿・拝殿・本殿が徐々に屋根を高くしながら、後方へ連なって築かれている。とりわけ本殿屋根のシカラと呼ばれる部分が特徴的で、大きな砲弾型に中小の砲弾型を組み合わせて構成されている。インドの寺院の常として、内部は外から見るより狭く、また天井も高くない。要するにカジュラーホーに限らずインド寺院建築は、外形と内部空間が即応しないという点で、彫刻に近いというべきである。(p.141-142)


近々、北インドに行ってみようと思っているのだが、本書で良い寺院建築があることがわかったので、カジュラーホーも訪問の候補地に入ることになった。

イスラーム建築が馴染み深いのでそれらも見てくるが、せっかくインドに行くのだから、もう少しインドに固有なタイプのものも見て来たいと思っている。砲弾型の塔はインドだけでなく東南アジアにも見られるものだと思っているが、その影響関係などはまだ知らない。今後、その影響関係などをチェックしてみたい。


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