アヴェスターにはこう書いている?
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J.バーネット 『都市デザイン 野望と誤算』

ロンドンやニューヨークと同様に、1920年のパリは、株式取引所を中心とする金融街や都心の市場地区(レアール)や市政府のセンターを有していた。「華やかな」方角は西方に向かい、劇場街を通り、オースマン・ブールヴァード沿いの百貨店街を越え、シャンゼリゼ通りの北まで拡大していたミッドタウン地区へと続く。その向こうには十七区の高級住宅街がある。「華やかな」郊外は概して西に伸びており、「華やか」でない側は東側にあった。(p.158)


パリの構造を的確に捉えている。大まかな方向性としては現在でもこの傾向は続いている。



ル・コルビュジエの優先順位はのちに変更されるが、新しい秩序における彼のもともとのヴィジョンは、エリート層のためにデザインされたものであった。(p.161)

ル・コルビュジエにとって、権力はイデオロギーよりも重要であった。(p.161-162)


ル・コルビュジエは建築関係の概説書では、あまり批判されずに取り上げられることが多いように思う。本当は、このように(専門家仲間だけの論文などではなく、一般人の)人目につくところで批判が行われるべきであると思う。

権力がイデオロギーより重要だというのは、大抵の建築家にとって当てはまるだろう。建築というのは、金がかかるものであり、権力との関係が深い行為だから。



 サンテリーアは第一次大戦で死去したので、参加していた未来主義運動が、のちにムッソリーニのファシスト・イデオロギーに吸収されてしまうのを知らない。彼は、古きものをすべて置き換える、新秩序のヴィジョンに含まれる暗黙の問題――このヴィジョンを達成する過程において、古い街並み(アーバン ファブリック)やその居住者の権利に何が生じるのか?――について、直面する必要もなかったのである。サンテリーアの未来都市が、ミラノの刷新を意図していたのでないことは明らかである。しかし、新しい都市世界を完全に描くことによって、サンテリーアは既存都市の刷新を人々に吹き込もうとした。1925年のル・コルビュジエのヴォアザン計画は、パリ都心部の大部分を刷新することを明確に示唆した。近代主義と未来主義の違いは、程度の差異である。近代主義者がセンチメンタルな理由により過去の残余を受け入れたがるのに対して、未来主義者は社会をもっと全体的に変革することを想像し、新しい種類の環境への熱狂のあまり、過去の残余を跡形もなく消し去ろうとする傾向があった。サンテリーアがドローイングで示したような未来に迎合しようと突進することが、1960年代から1970年代のメガストラクチュアリズムにおける、ひとつの中心的要素となるのである。(p.220)


こうしたラディカルなものであったことと、未来主義は現実に建築として残るものが少なかったこととは深い関係がある。現実化しなかったからこそラディカルでいることができたし、ラディカルであったから現実化できなかったという面もある。



 本書で示したように、各々の時代における都市デザイン・コンセプトは、都市地域全体に形を与える総合的な解決案として提唱されたが、それらの提案はいずれも期待されたほど効果的なものではなかった
 1909年のシカゴ市計画において、ダニエル・バーナムとエドワード・ベネットが提唱したモニュメンタルな都市は、高層ビル群の形成や民間不動産投資に特徴的な跛行的開発をコントロールするためのメカニズムを供することができなかった。
 田園郊外は、19世紀に進化した際には、都市に対する反動であった。田園郊外は、もともと都市の代替物として意図されたものではなく、中央業務地区の存在に依存するものであった。郊外の代わりとして、自己充足的な田園都市が必要であり、田園都市を続々と建設することにより古い大都市を代替しうるとして、田園郊外を総合的な都市デザインのコンセプトに転換したのが、エベネザー・ハワードであった。自動車の普及を通じて都市が拡大したため、ハワードが鉄道の時代に構想したような規模や範囲に、田園都市を制限することがほとんど不可能となり、都市機能の分散が、郊外と都心との従来の関係を弱めた。その帰結は、今日の郊外化した大都市でお馴染みの交通問題である。どこへゆくにも遠くドライヴに頼ることになる。
 近代都市のコンセプトもまた、19世紀における都市の進化に対する反動であった。通り(ストリート)と広場(スクエア)で供された都市構造の古くからの形態は、公園のような敷地の中に建つ独立ビルディングへの熱狂の前に打ち捨てられた。このデザイン・アイデアにおいて暗黙的に存在するのは、歴史的あるいは感情的な理由で維持された数少ない建造物を除いては、都市を完全に再開発すべきであるという信念である。それゆえ、新旧の建築物の間における非調和は存在しない。近代建築は、19世紀や20世紀初めの建築物を特徴づけていた形式の多様性というものを、単一で統一した建築上の表現で置き換えることができるだろうという期待でもあった。しかし、どちらの期待も正当性を示すことができなかった。(p.254-256)


本書の結論部分の一部を抜粋。

都市デザインは単一のコンセプトによっては総合的な解決をもたらすことができなかったし、今後もできないだろう、というのが本書の主張であろう。本書の結論(p.261)では「いま望まれるのは、目的をすべて満たす都市デザイン・コンセプトではなく、経済的・社会的変動のプロセスと都市デザインを統合する新しい方法である」と述べられている。モニュメンタルな都市、田園都市、近代都市、メガストラクチュアという4つの類型的な都市デザイン・コンセプトを抽出し、それらの展開と限界などを描き出すことでそれを述べようというのが本書の主な筋書きであると思われる。

◆田園都市は交通の変化によって構想された通りに実現されることはなかった。19世紀の建築では中世がモデルとされることが多かったが、こうした都市デザインもまた同様の中世への憧憬ないし回顧を含んでいる。社会的環境が変わっているため、それに適応した形で再構築しなければ、その期待した効果を得ることは難しい。しかし、現実の世界は変化し続けるため、一時的に社会的環境をうまく捉えたとしても、それが持続する保障はない。

◆さて、近代都市のコンセプトの暗黙の前提が指摘されている箇所は非常に興味深かった。こうした信念は、私が以前少し調べた小樽運河やその周辺の歴史的建造物の保存に関する場面で起こっていたことでもあったからである。

運河埋め立てを決定した行政側の主張はまさにこの「近代都市のコンセプト」であり、「完全に再開発すべき」という方向性で始まっていた。反対運動が高まりを見せ始めたころに、当時の市長だったか市議会だったか忘れたが、いずれにせよ行政側は特に歴史的価値が高いとされる倉庫(現在、「運河プラザ」として活用されているシャチホコが屋根に乗った倉庫)には価値を認めたものの、それ以外は取り壊しもやむを得ないという立場を表明したことがあった。これはまさに「歴史的あるいは感情的な理由で維持された数少ない建造物を除いては」という本書の指摘そのままであり、これらのいきさつが念頭に浮かんだため印象に残った箇所である。

この近代主義のコンセプトはその後、様々な批判を生み、見直しが進められてきていると思うが、やはりこの過度に普遍主義的な発想が権力により押し付けられるとすれば、反対が起こって当然である。小樽運河の保存運動もまさにそうしたものであった。

世界は一色に染まることはなく、常に多様性を持つように成り立っているのである。


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牧田善二 『糖尿病専門医にまかせなさい』

 事実は、糖尿病は決して治らない
 ……(中略)……。
 卵を減らしてコレステロール値を下げれば、高コレステロール血症という病気は消える。しかし、繰り返し述べるように、糖尿病は血糖値が正常化しても治ったことには決してならず、病名は消えない。どうしてなのか。
 答は、12年のツケは回復不可能だ、ということだ。
 糖尿病はひと口でいうと、長年の不摂生のツケが溜まってなる病気だ。(p.25)


すい臓に負荷がかかりすぎて回復不可能なところまで弱ってしまったというのが、糖尿病(2型)という状態らしい。



仕事がら絶えず気の抜けない戦闘体制(交感神経優位)の生活が続いていたことも、田口さんの自律神経機能低下をもたらしたわけだ。



 ストレスと糖尿病の関係について、一つ付け加えておこう。
 ストレスは血糖値を上げる。その理由は、ストレスが強まると、血糖値を上昇させるアドレナリンやコルチゾールというホルモンが分泌されるからである。ある人が会社で上司と言い争ったら、血糖値がその前より約40上がった、という話を聞いたことがある。糖尿病にとってストレスは大敵なのである。(p.74-75)


私の生活を省みると、持続的な臨戦態勢である。こうしたライフスタイルの持続は万病の元かもしれない。差し当たり、今の仕事は早めに変えた方がよさそうだ。



以下は中野さんのシナモンに関するアドバイスだ。

①一般に多く出回っているのはベトナム製。匂いがきつく水にも溶けないので、あまり良くない。
②血糖値を下げるため大量に服用するなら「ギャバン」というブランドのものがベスト。匂いもソフトでコーヒーに入れても溶ける。
③シナモン製品として最も優れているのはセイロン製だが、残念ながらスティックタイプだけで粉末タイプがない。(p.173)


シナモンに血糖値を下げる働きがあるという。

ただ、シナモンもカシアとセイロンという種類があるらしく、カシアの方は大量服用すると肝臓に障害をもたらす物質クマリンが多く含まれているらしいので、大量服用は健康を害する恐れがあるとウェブ上で検索したら出てきた。



日本産業遺産研究会+文化庁 歴史的建造物調査研究会 編著 『建物の見方・しらべ方 近代産業遺産』

 以上のような調査を行うに当っては、まず自分の目でよく観察し、その工場建物の建築的な特徴をとらえるようにすることが重要である。調査の経験があまりない人は、比較できる工場建物の事例をわずかしか知らないので、どのようなことが建物の建築的な特徴なのかわからないかもしれない。このような場合は、まず工場建物を見た時の印象を箇条書きでノートに列挙してみよう。「めずらしい構造だなぁ」とか「大きな空間だなぁ」とか、自分自身が感じた印象を列記したら、なぜそのような印象をもったかを考えてみることである。このような疑問から意外なことがわかり、多くの特徴を見つけることができるはずである。(p.39)


実地での調査の際に非常に重要な方法であると思われる。調査だけでなく旅行などで旅先の土地を見たときにもこうした習慣をつけておくとより深く、興味深く訪問した地を見ることができ、それらの土地についてより深く理解することができるようになるだろう。



のこぎり屋根は、一般に北面して北方光線を取り入れることにより、直射日光で光にむらのない安定した明るさの天空光を採光することができる屋根で、機械工場や紡績工場などに多く採用された形式である。また、越屋根は、屋根から採光や換気を行うための棟に一部を持ち上げて作られた小さな屋根のある形式である。奥行きの深い工場の内部空間でも、ある程度の適切な照度分布が得られるので、多くの工場建物で用いられている。なお、屋根の形式ではないが、採光のために付けられた屋根から突出した窓として、ドーマー・ウィンドウ(dormer window)がある。(p.42-43)


越屋根は工場だけでなく鰊漁場建築でもよく使われている。私は以前、鰊番屋などはどうしてあのような2段型の屋根になっているのか不思議に思っていたのだが、比較的最近、採光と換気のためであることを知ったので、この叙述を読んで一般的にこうした用途で使われているらしいと理解できた。なお、現存最古の煉瓦造の機関車庫である手宮機関車庫にも採光のための越屋根があった。このように、工場以外でもよく使われていたようだ。



 ウ、木骨石造
 木構造の防火性能を高めるために、木造の骨組みの外側に石を積み、かすがいなどの金物で固定して、外観を石造のように見せた構造形式である。この木骨石造は、居留地をはじめとする初期の洋風建築でみられたが現存例が少なく、わずかに小樽市の倉庫(216頁)が群として知られている。

 エ、バルーンフレーム構造(balloon frame construction)
 バルーンフレーム構造は、機械割りの薄い間柱に、同じ幅の下見板の外装板を張り付けて組み立てるもので、19世紀前半にシカゴで開発されたといわれる構造である。アメリカの影響を大きく受けた北海道開拓使で使用され、札幌農学校模範家畜房(明治10年、88頁)などがある。(p.54)


木骨石造とバルーンフレームは小樽や札幌などの建築を調べていると必ず出くわす工法である。



大阪府南部はかつて、わが国有数の綿の産地であったが、この綿栽培には、北海道でとれる干鰯が不可欠だった。(p.85)


江戸時代末期から明治時代を通して、北海道では鰊漁が大きな産業だった。それは綿花の輸出による外貨獲得に繋がる形で、当時の日本政府や産業界にとっては重要な産業構造の一部をなしていた。



 ところで戦前にもリゾート・ブームが日本中をにぎわした時代がある。昭和5年から15年にかけての約10年間で、この時は日本人が対象でなく、多くの外国人客を誘致する目的でリゾート・ブームが起きている。当時の日本は諸外国と同様に世界不況の嵐にさらされていた。そのときに考えられたのが観光で外貨を獲得し、国際収支の赤字を少しでも埋め合わせようという、政府の赤字減らし対策として始められたのである。(p.192)


景勝地では、この時代に多くの老舗ホテルが建てられたという。小樽の建築で言えば、外国人専用のホテルとして建てられた旧越中屋ホテルが建てられたのが昭和6年であり、まさにこの時代であったことがわかる。地方の目立たない建築も、こうした世界大ないしナショナルな流れの中に位置づけると興味深いものが見えてくる




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山室信一 『日露戦争の世紀――連鎖視点から見る日本と世界――』

 ちなみに日本では、1858年以降にアメリカはじめ各国と結んだ修好通商条約によって領事裁判権が設定され、関税自主権が否認されましたが、領事裁判権は1894年の日英通商航海条約によって初めて廃止されました(1899年施行)。また、関税自主権は1911年の日米新通商航海条約によって回復されました。1911年は明治が終わる一年前にあたりますから、1905年の日露戦争によって「一等国」の仲間入りをしたという自負にもかかわらず、日本は明治期のほぼ全般を通じて不平等条約の制約下にあったことになります。(p.8)


明治の後半にこれらの権利が回復されていったのだが、対外的な膨張が始まる時期とも当然ながら附合する。



 要するに、日清戦争に至るまでの、日中間の対立の核となっていたのは、朝鮮を冊封体制にとどめておくか、主権国家体系に組み入れるか、ということでした。そして日清戦争とは、文明国標準に達することを国是とする日本からみるかぎり、国際法を受け入れた「文明国」としての日本と、国際法を拒否して冊封体制に固執する「野蛮国」としての清朝との戦争ということになります。……(中略)……。こうした使命感と自負心によって戦われた日清戦争においては非戦、反戦の声があがる可能性は少なかったのです。(p.24-25)


この時代が国際政治のシステムの転換期だったということは確かであり、客観的な情勢から判断する限り、早晩、戦争に強いシステムである主権国家体系が支配的になることは避けられなかっただろう。

後段は、当時の言説の状況を理解する上で重要な指摘。



 こうした三国干渉の結果、東アジアにおけるイギリスの優位性を覆して自国の勢力拡張をめざすという意味で、ロシア・フランス・ドイツの間に日清戦争以前から成立していた「東アジア三国同盟」とも称される一種の反英ブロックが、より明確なかたちを取ることになりました。これに対して、三国による中国分割に、日本とイギリスが提携して対抗するという気運がうまれ、それが日英同盟から日露戦争に至るひとつの底流となっていきます。(p.57)


分かりやすいまとめ。



しかし、租借・割譲は土地の所有・占有そのものが目的だったわけではなく、後背地を含めて鉱山開発や鉄道・港湾の使用などによる利権の獲得が進められることになります。(p.65)


植民地支配の目的と基本的に同じである。こうした利権で経済的な利益を得るのが巨大な資本を持つ企業であり、各国の政府はそうした企業によって対外的な活動の方向性が規定される。



 しかしながら、黄禍論を覆し、対露戦に勝利を得るためには、日本が欧米と同質の「文明国」であることを内外にアピールする必要もありました。日露戦争前から興った非戦論が戦時中であるにも拘らず、それが容認されたとい近代日本史のなかでも特異な現象は、こうした広報戦争の文脈から理解できます。すなわち、日本では国是とは異なる非戦論をも認める。宗教や信仰、思想表現の自由が憲法で確保された文明国である、とアピールする必要があったからこそ、内村鑑三や安中教会牧師・柏木義円などのキリスト教徒の非戦論や『平民新聞』紙上での幸徳秋水、堺利彦らによる社会主義に基づく言動も容認されたのです。しかし、戦勝が濃厚になれば、そうした配慮も必要なくなり、『平民新聞』もしばしば発禁に処せられた後、1905年1月には廃刊に追い込まれました。
 日露戦争終結とともに政府にとって問題となったのは、このようにして戦時中に急速に部数を伸ばした新聞や雑誌などをどのように指導、統制していくか、ということでした。(p.157)


なるほど。当時の言説の状況を理解する上で参考になる。



 19世紀以降の日本人の世界観を長く規定してきたのは、西洋と東洋と日本から世界が成り立っているという見方であり、それは現在でも大学における歴史学の講座編制の基礎となっています。そうした見方がいつから現れたのでしょうか。それは、1894年、日清戦争の年に中等学校教科課程に関する研究調査委員会において歴史学者の那加通世によって中等学校の歴史学における教科区分として提唱されたものでした。この三区分には日本が対抗していくべき他者としての存在が、西洋と東洋におかれていたことが示されています。(p.199)


西洋、東洋、日本という三区分が現れたのは意外と新しいことであることがわかる。しかし、今ではこの区分に説得力を感じる人は少なくなっているだろう。


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鈴木博之 『建築家たちのヴィクトリア朝 ゴシック復興の世紀』

 二十世紀に入ると、中世をモデルにするかわりに、機械をモデルに据えた、未来にユートピアの原型を置く発想がデザインを導くようになる。ユートピアの原型を過去ではなく未来に求めるというこの変化こそ、ヴィクトリア朝のデザインとモダン・デザインとの決定的な差異なのであり、それはスタイルの変化というよりももっと大きな、ユートピア観の変化なのである。(p.234-236)


建築で言うと歴史主義的な建築から未来派やロシア構成主義のような傾向への変化が見られた。

同じ時代の西欧の絵画を考えて見ると、フランスのサロンではギリシアやローマの神話を題材とした絵画が描かれていたが、19世紀末から20世紀初等の印象派などは、技術的には点描画法に通じる方向性(テレビやデジカメの表示方法とも似ている)が採用され、こちらは未来ではないが現在の瞬間を捉えようとしていた。歴史主義からの解放のようなものが起きていた点では共通している。

また、ドイツの経済学に目を転じると、ドイツ歴史学派と近代経済学的な手法を重視するオーストリア学派との方法論争が19世紀後半に展開され、20世紀初頭までにはオーストリア学派が優勢という形で終結していた。これも歴史主義から「科学」的なものへのシフトであり、また、数式という時間を越えて普遍的に適用されることを求めるものへの志向を含んでいたという点でも建築や絵画の動きと並行するものがある。

工業化が進展し、次々と新しいものが生み出されて来た時代であるがゆえに、歴史的なものを回顧するという以上に、something newが求められる傾向があったということがこれらの傾向に反映しているように思われる。

もちろん、19世紀から20世紀初頭はナショナリズムが勃興した時代であり、そのために「国民の歴史」が物語として作られ、語られてきた時代でもあった。つまり、歴史的なものが常に軽視されていたわけではない。ただ、ユートピア観ということで言えば、やはり未来へのシフトというのはあったように思われる。まぁ、世界全体から見ればほんの一部の地域でのことではあるが。


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石田潤一郎、中川理 編 『近代建築史』

 19世紀末、鉄骨構造に遅れて、鉄筋コンクリート構造の技術が発明される。……(中略)……。鉄筋コンクリートが、20世紀の新しい建築構造技術として広く用いられるようになるのは、ドイツで標準仕様書が完成された1916年以降のことである。(p.5)


日本で広がったのもこの時期からそれほど遅れていないように思われる。



 外国人の活動について特筆すべきは北海道である。この地では国の機関である開拓使がアメリカ人技師の指導のもと多くの洋風建築を建設した。今日「時計台」として知られる[札幌農学校演舞場](ホイーラー、1878)や[豊平館](安達喜幸、1880)【図2-3】が代表作である。そこでは、米国で独自の発達を遂げた木造構法が直接的に日本にもたらされ、北海道の風土に適合していった過程をみることができる。(p.15-16)


米国で独自の発達を遂げた木造構法というのは、バルーン・フレームのことだろうか。いずれにしても、北海道は日本における近代建築の受容という点においても本州などとはやや異なった状況にあったようだ。



 初期洋風建築の外観上のもっとも大きな特徴はベランダである。ベランダは、18世紀にポルトガル人がインド建築の形式を摂取して南方植民地建築の手法として多用したことにはじまるといわれ、オランダ、イギリス人らに受け継がれて日本まで到達したものである。(p.16)


コロニアル建築でベランダが多用されていることは知っていたが、インドの建築にその原型があったというのは知らなかった。原型はどのようなものだったのか興味があるところである。



 技法面で特筆すべきは、外壁仕上げの変化である。早い時期には洋風建築の外壁はしっくい塗の大壁とされるのが通例であったが、1890年ごろを境に下見板張りに取って代わられる。西洋風の下見板は米国において最も広く使用されており、米国建築を体系的に導入した北海道で1872年ごろに現れたのが早い例で、東京でも1874年の[工部省庁舎]、翌年の[大久保利通邸]などで採用されている。北海道の作例は米国流の幅の狭い下見板だが、他地域ではより幅広の板を用いる技法が普及する。(p.22)


北海道の下見板張りもアメリカの建築の影響下に普及したようだ。



つまり「表現主義Expressionism」とは、外界の印象impressionに基礎をおく「印象主義Impressionism」とは異なり、人間の内面表出expressionに基礎をおくという点である。すなわち、表現主義は印象主義の対立概念であって、西洋芸術思潮において「後期印象派」以降の動向の最後に位置し、1920年代後半に登場する「構成主義」や「新即物主義」の揺籃期を形成するものなのである。(p.79)


表現主義が印象主義の対立概念というのは、日本語の訳語を見ていると見えにくいが、英語やヨーロッパの言語で表現すると見えやすい。

印象主義が絵画では点描などの手法に傾いていったように、ある種の客観性を追求する動きであったのに対し、表現主義は内面を形として表出しようとする主観性を前面に出したものであるという印象を私としては以前から持っていたが、そうした感じがこの対立概念であるという説明のおかげで納得がいった。



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神谷武夫 『インド建築案内』
フマユーン廟

 ムガル朝で最も発展した造営物は、広大な四分庭園(チャハル・バーグ)の中央に墓廟の建つ墓園である。それはしばしば王の存命中に造営が始められ、完成すると一般に公開されて公園となるのだった。その最初の実例が、第2代皇帝フマユーンの廟であるが、これは彼の死後、王妃ハージ・ベグムによって着手され、没後9年目に竣工した。10ヘクタール以上もある敷地中央の90m角の墓壇に建つ廟は、高さ38mのドーム屋根を戴き、赤砂岩と白大理石の組み合わせで仕上げられた。これが、以後のムガル朝の廟建築のプロトタイプとなる。
 建物は、各面の中央にイーワーンを置くペルシャ風であるが、四方に開かれている建築形式は、ジャイナ教で発展した四面堂の、イスラムへの適用であると考えられる。四隅の部屋にはシャー・ジャハーンの王子ダーラー・シコーなど一族の棺が置かれ、中央の広間にはフマユーンの棺が置かれているが、これは模棺(セノターフ)であり、本当の棺は地下にある。こうした墓形式も中央アジアから伝えられたのである。屋根と天井を別にする二重殻ドームもまた、サマルカンドやブハラなどの中央アジア起源であるが、こうすることによって外観がより立体的、彫刻的となる。これは絵画よりも彫刻を好み、建築をも彫刻のように造りたがるインド人の民族性にマッチした。フマユーン廟は、4つのイーワーンが中庭を囲むペルシャ建築を反転させて、4つのイーワーンが背中合わせになった独立彫刻にしたのである。(p.92)


北インドのイスラーム建築はイランや中央アジアの影響が強く、それにインドの土着の様式が混合されている。

フマユーン廟ではチャハル・バーグとチャハル・イーワーン、模棺がある墓形式、二重殻ドームといった特徴は中央アジアを含むイラン世界から来た要素として説明されている。インドで展開していた要素としては、ジャイナ教の四面堂とその彫刻的で外向きの形態が指摘されている。

ただ、「インド人の民族性」という表現には賛同できない。当時は「インド人」などという「民族」ないし、そうしたアイデンティティを持っている人はいなかったし、そうした人がいないのであれば、当然、「民族性」なる性質も存在しようがないからである。



タージ・マハル廟

 デリーのフマユーン廟で形式が確立したムガル朝の廟建築は、ここに頂点を迎える。ここの特異性は、廟を四分庭園の中央に配置するのではなく、ヤムナー河を背後にし、広大な四分庭園を前面に置くことによって、門を入ったとき、何物も妨げるもののないパースペクティヴの焦点に存在させたことだった。(p.111)


こうした視覚的な工夫がなされていること自体、こうした廟建築が「見せる建築」であったことを示しているように思われる。





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広瀬崇子、近藤正規、井上恭子、南埜猛 『現代インドを知るための60章』

インドの歴史は、選挙過程を通して、エスニック集団やカースト・グループのアイデンティティが次第に強まってきていることを示している。(p.22)


政治的アイデンティティは「利害についての認識」を基礎の一つとしている。ある人が、ある他人やある集団と自分の利害が一致していると考える時、その他人やその集団との間に共通のアイデンティティを共有していると考える傾向が生じる。選挙という仕組みは、こうした利害関係に関する意識を高める効果がある。

インドの場合、これがヒンドゥ・ナショナリズムの高まりの(最重要とは言えないにせよ)一つの条件となっているようである。



 西ベンガル州の左翼戦線政府は現在、工業開発重視を訴えている。1970年代、80年代にかけて、左翼戦線政権下で中央からの財政支援が滞り、労働争議が頻発し、大企業がこぞってコルカタから拠点を他州に移し、「西ベンガル州の地盤沈下」と称された苦しい時代を経た。そのことから、工業を将来の経済発展の鍵と位置づける政策意図はわかるものの、共産主義イデオロギーを掲げてきた政党の政策としてはすんなりとは受容されず、批判の対象となっている。政権党として志向せざるをえないものとイデオロギーとの相克は、CPMの存在の拡大に伴って生まれる大きなジレンマである。(p.77)


イデオロギー政党一般の弱点を示しているように思われる。

政権を運営するということは常に変化する現実に対処することを求められることを意味する。イデオロギーを標榜する政党は、その標榜するイデオロギー――それは文字面の上では不変である場合さえある――によって拘束され、そこから外れるだけで(現実への対処としては的確であった場合でさえ)批判される。

2010年の日本の社民党の連立政権離脱とその後の分裂傾向もこうした要素があるように思われる。

中国共産党はこの点で興味深い。一方ではイデオロギー政党でありながら他方では政権党であり続けている。実質的な一党独裁であり、批判を封じ込めてきたために、政権の維持が可能であったと思われる。また、経済的に貧しかった時代について言えば、全般的な教育水準の低さのためにイデオロギーに対する理解が広がっておらず、一般の人々からの批判が生じにくかったこともあるのかもしれない。経済が発展した後はイデオロギーは共産主義的なものではなく、「国家」の統合を目的とするナショナリズムに重点が移ったため、国内的にはあまり問題が生じにくい構造となった、ということか。いずれにせよ、中国共産党の場合は比較対象や交代の候補が国内に存在しないことがこのジレンマを小さくしているように思われる。



 インドの製造業はなぜ国際競争力がないのか。
 ……(中略)……。一方、インドでは製造業輸出に占める外資企業のシェアは、90年代初めの3%から現在でも一割未満の水準にとどまっており、大きく増えていない。この背景の一つには、インドのインフラの整備の遅れだけでなく、外資を国内資本と比べて優遇しないというインド政府の基本方針がある。このことは、中国やASEAN諸国でのビジネスに慣れた日本企業にとって、大きな不満となっている。(p.136-137)


政策が経済の展開に大きな影響を与えている一例。政策自体の成否というより、環境と政策との適合性の問題。



一方、初等-セカンダリー段階の教育は州の管轄事項とされ、州の社会政策のあり方によって教育普及に大きな格差が生まれた。(p.230)


「地方分権」の弊害。日本の地方分権論者は「地域間競争」によってよくなっているわけではないという現実を知るべきである。


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東京都板橋区、首都大学東京 共編、岡部卓 著者代表 『生活保護 自立支援プログラムの構築 官学連携による個別支援プログラムのPlan・Do・See』

 これまで生活保護の相談援助活動における評価は、量的指標である廃止数(生活保護廃止=自立)あるいは扶助費の減額が評価指標と考えられた。それ以外の明確な指標は、十分作成されてこなかった。板橋区の自立支援プログラムにおいては、到達目標(評価)事業として、各プログラム別に到達目標(評価)指標を設定し、策定・実施・評価(PlanDo See)というサイクルの確立を図った。(p.14)


確かに、廃止数や扶助費がいくら減額となったかという指標以外の評価指標は確立されていないと思われる。生活保護における自立は経済的自立、社会生活自立、日常生活自立があるとされているが、上記の2つはいずれも経済的自立に関する指標であると考えられる。社会生活自立や日常生活自立に関する指標は、「何ができるか」をチェックリストによるものなどが考えられるかも知れない。

しかし、いつも不思議に思うのだが、生活保護で社会生活自立や日常生活自立を支援する必要性がどこにあるのか?ということである。生活保護を申請して受給に至るために必要な要件は、経済的な自立ができないことであり、社会生活自立や日常生活自立ができないからといって保護を受けられるわけではないからである。もちろん、経済的自立ができない人には複合的な「自立阻害要因」があると考えられるのだろうが、そうした問題を抱えているのは生活保護受給者だけではない。むしろ、そうした要因がある人を経済的困窮する前の段階でフォローすることによってこそ、保護受給に至らずに経済的自立を維持することができる可能性が高まるというものだろう。従って、それらの対策は生活保護の範囲外で行うべきであり、生活保護は経済給付に特化し、分野毎に制度を分立する方向に進めるべきではないか、というのが私見である。その点で、自立支援プログラムを定めることで一層包括的な支援を行うという方向性には疑問を感じざるをえない。



 例えば、「在宅要介護(要支援)高齢者等支援プログラム」では、介護保険サービスを利用している高齢者で、日常生活の問題がないことを(日常生活自立の達成)プログラムの帳票をチェックすることで確認できれば、以降は問題が生じなければ定期的な家庭訪問を減らし、支援方針はケアマネージャー等との連携を中心としたものとなる。
 もちろん、帳票のチェックで課題がある場合は課題改善へ向けて、個別支援プログラム実施要領にある流れにより関係機関との連携を進めることとなる。この課題発見をケースワーカーの判断だけにまかせるのではなく(まかせてしまうとケースワーカーごとの経験などの差が出易い)個別支援プログラムとして行うこととした。(p.37)


最後の一文は重要な点である。自立支援プログラムに対しては批判的な見解を私は多く持っているのだが、ケースワーカーの個人的な資質や考え方に依存しがちだった部分を、できるだけ客観的な(複数の人の合意に基づいて了解され、それを他者に説明することが可能な)指標にもとづいて組織的な対応をすることで支援の質や量の最低限のレベルを担保するという考え方は行政としてあるべき方向性を示していると思われる。


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