齊藤拓氏の論文についてのコメント。
人々が「ギフト」を受け取る形態のなかでも、ジョブという地位の占有にはその個人がその人生においてどれだけ「ギフト」に恵まれてきたか、そして恵まれているかが最も凝縮したかたちで表われる。(p.197-198)
齊藤はヴァン・パリースの「資産としてのジョブ」論や「ギフトの公正分配としての社会正義」について多くの紙数を割いて説明しているが、ヴァン・パリースの思想は検討する価値がありそうなものであるという印象を受けた。
ジョブを「資産」として捉える点は「労働」に関して巷で言われることの多くを相対化する際に参照できる考え方であるように思われ、とくに興味が引かれる。引用した箇所については、『希望をもって生きる』という本の123ページで「生活保護を受けなくていいような人は「溜め」がある人」という発言があるのだが、そこで湯浅誠の言葉を引きながら語られている「溜め」というのは、まさにここで言う「ギフト」にほぼ対応するように思われる。
実証的にも学歴とその後の就労可能性に関連が見られるが、それも「ギフト」という概念の枠内で捉えられることであり、この概念は現象を理解する上でかなり有用であるように思われる。
また、日本やアメリカなどのような国の中に生まれ、その国籍を保有している人とより貧しい国の中に生まれ、その国籍を持っているということ、さらには中国やインドのように新興国に生まれている人に生じている大きなチャンスなども「ギフト」の概念で捉えることは不可能ではなく、マクロな現象の理解にも何某か貢献できる内容を含むかもしれない。
つまり、ジョブ占有とは、一方において自らの労働を社会的財産へと貢献するパイプであり、他方において社会的財産(の一部)を専有する(社会的財産から受益する)ためのパイプでもある(図1参照)。(p.200)
こうした「ジョブ占有」はネットワーク理論とも関連させながら理解することが可能かもしれない。諸個人はジョブを占有することによって様々な「社会的財産」との双方向のリンクを形成するノードとなることができる(可能性が増大する)。
この観点からすれば、「個人の生産性」や「生産性の高い個人」という物言いはほとんどナンセンスであるか、その扱いに高度の限定が加えられねばならないことが示唆される。「資産としてのジョブ」論の観点から言えば、そのような物言いはジョブという生産ツールの性能の違いを個人の能力の違いと錯覚しているに過ぎない。(p.203)
「成果主義」「能力主義」への批判としてもこの指摘は有効であるように思われる。なぜ「成果主義」や「能力主義」がうまくいかないかという理由として、必ず挙げられるのが、成果や能力の評価が難しいということであるが、そもそも「個人」の「成果」や「能力」というもの自体、単独で抽出できるかどうかは極めて怪しく、個人とその個人が占有するジョブの組み合わせから何らかの成果に繋がりうるというだけであるのだから、「個人」を評価するのが困難でも何の不思議もない。
客観的に測定できない評価によって短期的に評価が下されると、その仕事を継続するより退出しようとする圧力が高まることになり、組織がうまく回りにくくなってくるわけである。
製品のマイナー・チェンジを定期的に積み重ねるのは製造業の「情報産業」としての側面である。(p.212)
なるほど。面白い指摘。
日本の現状が問題なのは、高学歴で実力があるとされている諸個人ほど安定した雇用に就いて流動性が低いのに対して、低学歴で知的生産の土壌がない諸個人ほど不安定雇用を転々とせざるを得なくなっているという点である。(p.212)
興味深い指摘。確かにそうかもしれないが、どこの社会でもこの傾向はあるのではないだろうか。日本の場合は、その傾向がとくに強いと考えられているとは言えるだろうが。
どちらも流動性が高くなることが良いことなのだろうか?流動性の高低はあまり関係がないのではないかという気がする。ベーシックインカムなどによって低所得者の雇用が不安定であっても生存が保障されることは望ましいことではあろう。ただ、高学歴者が安定的な雇用についていることによって低学歴者が雇用から弾き出されるというわけでもないと思われる。例えば、両者は同じ業種では競争できない場合が多い。スタートライン自体の違いを少なくすることは望ましいが、この問題がなくなるわけではない。
インセンティブ・メカニズムを強調する人々は、主体間の「競争動機」ですべてを説明しようとする。そしてその際、それらの主体は自然人としての個人のように他の個人に優越したいという心理的機制を内蔵しているかのように擬人化される。そのため、この「競争動機」を強調する文脈では、「公正な競争」が精神脅迫的に要求される。しかし、現実の市場経済において企業や組織の間で「公正な競争」がなされていると思う人はよほど観察力のない人だろうし、そこで「公正な競争」を追求すべきだと考えるのはよほど愚かな人だろう。(p.215)
同意見である。
「個人主義」がなぜ擁護されるべきなのか――システム論的に言えば、数多ある諸々のシステムの中で、何ゆえ個人の心理システムが道徳的に特別視されるべき最重要の単位として見なされねばならないのか――について、規範理論は十分な説明をいまだに提出できていないように思われる。(p.281)
恐らくそうだろうし、決定的に正当化することも恐らく不可能だろう。それでいながら著者である齊藤氏はp.323では「共同体的価値なるものは個人的価値に資する限りにおいて存在する、手段的な――優先順位の低い――価値でしかない」と断定しており違和感を感じる。
私自身の価値観からしても基本的には個人主義的であり、共同体は個人よりも価値において基本的には低い位置に置かれるべきものと感じているため、齊藤氏の見解には共感するところは多い。しかし、共同体は個人によって形成されており、共同体が個人を保護する側面もあり、あらゆる共同体が全面的に消滅するということがあるとすれば、個人も生存できないなど機能的な価値の観点から見て個人だけを絶対化することはできないとも思われ、そうした中で個人主義を擁護する十分な理論がないことを指摘しながら上記のような断定をすることには違和感を感じるところがある。
ただ、共同体が個人に要求できることは、個人の生存を脅かさない範囲内にとどめなければならないし、その生存を脅かさない範囲では共同体自体が存続できないのであれば、その共同体は解体・再編などが必要なのではないかというのが、私の感覚が私に語ることである。この感覚は立岩氏の理論とはかなり親和的であり、彼の説明は概ね承認しうると考えている。
齊藤氏の理論は、「リバタリアン」であることを貫徹しようとして一貫性を担保しようとするあまり原理主義的になっているところがあると感じられる。世界は単一の原理で構成されることはない、と私は考えるので、私という人が単一の原理によって(世界において)生活したり(世界について)思考したりする必要性もないと考える。よって、一貫したリバタリアンである必要性もないし、そう信じ(ようとす)ることの方が迷信的であるように見え、それが「原理主義的」という評価をする所以である。
BIによって労働者の交渉力が増し、ある雇用主にとっては賃金コストがBI導入以前よりも上昇するということは現実には起こりうる。(p.281)
BI(ベーシックインカム)と労働条件の問題は本書を読んで私が最も問題意識を啓発されたものの一つである。
BIが導入されることによって最低賃金などの規制が不要となるという主張が一方にはあるらしく、確かにそのように利用される可能性は十分にある。それと同時に、特に低所得者層などについては、この引用文にあるような交渉力が増すと考えられ、低賃金労働の一部は経営が成立しなくなる可能性がある。
BIをどの程度、どのように配るかということによって、これらがどのようになるか大きく変わるため、一概には何も言うことができない。ただ、懸念すべきはBIが導入されることによって、労働条件を切り下げても生存が担保されるため、切り下げることを良しとした場合、労働条件が切り下げられた後、分配の元手も減ることがありえ、それによってBI水準も引き下げられるという可能性も否定できず、労働条件が引き下げられた後で後を追うようにBIも引き下がるというマイナス方向のスパイラルが始まる可能性があることには常に注意が必要であると思われる。BIの分配方法は政策的には法律で決めることになるだろうが、それを変更することは労働条件の引き下げなどよりも容易になしうるということ(特に昨今のような小選挙区制によって少数政党が票数に比例しない議席数を確保できる状況においては!)には注意が必要だろう。
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