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増田彰久 『カラー版 近代化遺産を歩く』(その2)

明治十一年(1878)に野蒜築港は起工、明治十五年に完成した。竣工した突堤は、その二年後の明治十七年九月の台風によって流失し、壊滅的な打撃を受け、せっかく築いた港は完全に崩壊してしまった。港をきちんとした形にするには、外港に防波堤をつくる必要があることがわかり、その費用を計算すると莫大なものになることから、政府はこの復興を断念し、日本初の近代港は事業半ばにして放棄されてしまった。外海に面した近代港の建設は困難を極めたのである。日本最大の生糸の輸出港にしようと考えたわけだから、このプロジェクトが成功をしていれば、野蒜は横浜をしのぐような町になっていたのだと言う人もいる。当然だが、まだ横浜には港の計画すらなかった時代のことである。(p.122-123)


港の建設が如何に難事だったかが推し量られる。

日本において日本人技師(廣井勇)の手で初めてコンクリート造の防波堤が成功を治めたのは、明治41年完成の小樽港の北防波堤。明治20年代に計画され、明治30年に着工、明治41年に完成しており、それは現在も現役である。野蒜築港の完成から26年後のことであり、防波堤建設技術の導入にはかなりの日時を要したことがわかる。



明治のころの、このような技術は、ハイテクではなくてローテクなだけに、ゼンマイ時計の動く原理がわかるレベルで、現場を見せてもらうと「なるほど」と納得できる。私には近代化遺産のこんなところも魅力的でおもしろいのである。(p.128)


これは明治に限らず、昭和初期の頃くらいでも同様のものが多くあると思う。近代化遺産などを見る際の一つの楽しみ方として納得できる話である。



明治以前は倉庫は土蔵のようなものが多かったが、新しい建材が入ってくると共に、新しい形の倉庫がつくられるようになっていった。(p.138)


日本国内でも用途などに応じていろいろな形のものが作られたと思われるが、外国のものとも比較しながら見てみたいものである。



 倉庫の数多く残っている街としては北海道の小樽がある。小樽運河沿いにある石造りの倉庫群が保存され、再生されている。
 この石の倉庫は有名だが、この倉が、ただの石造ではなく木骨石造であることは、あまり知られていない。石だけを積み上げて、あれだけ大きな物をつくるということはなかなかできない。構造体としては建物の内側に木で躯体が組まれている。石壁の内側に柱を立て、その間をカスガイでつなぎ一体化している。中に入ると木骨石造でつくられていることがよくわかる。この工法は、明治のかなり早い時期に、横浜の居留地で使われ、古い横浜駅や新橋停車場なども、この工法で建てられたのである。文明開化の有名な建物が、この工法でつくられたと聞いて驚いた。しかし、明治の十年代に入ると、この工法は突然に消えてしまい、わからなくなってしまうのである。いかにも開拓時代のアメリカで発達した石造の技術であるという人もいるが、なぜ、消えてしまったのか、はっきりしていない。(p.145-146)


小樽の倉庫群が木骨石造であることは別の本などから知っていたが、この工法が横浜などで使われ、明治十年代に姿を消してしまったというのは知らなかった。

小樽に残る木骨石造倉庫のうち、現存する最古のものは明治22年の広海倉庫であり、ここで消失してしまったとされる年代よりも後のものである。そして、小樽ではその後も大正時代まで造られている(昭和に入ってもあるかもしれない)。北海道のような植民地ないし開拓地では短期間で安価に建築でき、さらに耐火性も優れているこの工法が適していたと考えられるが、小樽以外の地ではどうだったのだろうか?また、消えてしまった理由はどこにあるのだろうか?地震なども関係しているかもしれない。(北海道の日本海側は相対的に地震が少ない。)社会経済的要因なども気になるところである。

ちなみに、木骨石造については、ウィキペディアでも「木骨造」という項目で「中世ヨーロッパにおいて盛んに作られた。日本では、明治期に西洋建築を模倣した建築物に盛んに用いられた。壁体には煉瓦や大谷石が用いられた。また倉庫などには、伝統的な土蔵造に組積造の壁を取り入れた和洋折衷の木骨造も用いられた。」などと簡単な叙述があるだけで、あまり詳しく解説されていない。



 産業革命はヨーロッパの文化に大きな変化と影響をもたらしたが、温室もその一つである。西洋と東南アジアとの交流が盛んになり、物資が行き来するようになると、熱帯地方の動物や植物をヨーロッパへ持ち帰るようになった。貴族やブルジョワジーたちの新しい趣味として、色鮮やかな小鳥を収集したり、熱帯植物を育てることが流行した。
 貴族たちは競って大きな温室を建て、そこへ多くの賓客を招き温室の中でパーティを開き、熱帯趣味や異国情緒を味わったりした。温室を持つことは貴族たちのステータスシンボルにもなった。それは産業革命で生まれた強い鉄と大きなガラスが可能にしたのである。(p.191)


確かに言われてみれば、温室というものは、あまり古い時代には見当たらないようだ。欧米諸国の勢力による帝国主義的な世界進出に伴って現れたと言えそうである。

今では当たり前のものとして、あまり疑問に思わない建物も、実はそれほど古い歴史を持たないものというのは、かなりあるように思われる。こうした視点でものを見ると、普通に街歩きをしていてもいろいろと新しい発見がありそうである。


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増田彰久 『カラー版 近代化遺産を歩く』(その1)
旧札幌農学校時計台

 この建物は英語のドリルホールを訳し演武場と呼ばれている。札幌農学校では必須科目として兵学を課していたので、その訓練のために、この演武場が作られた。一階が講義を受ける教室になっていて、二階が演武場になっている。(p.14)


札幌農学校で兵学を教えていたのは、当時のロシアの脅威が北海道開拓の背景的要因にあったことを反映しているように思われる。また、「開拓」の内実が「征服」であったということも関係していそうに思われる。



 駅は町のシンボル、ということで歓迎されただろうと思いがちだが、その当時(引用者注;明治初期)は駅をつくるときにも、いろいろな問題が起きた。江戸時代、都市の玄関は各街道に設けられた大木戸であったが、明治に入ると駅が都市の玄関になる。しかし、どの都市でも駅は町の中心にはつくることができなかった。鉄道建設に強い反対があったからである。大阪をはじめ、京都、名古屋などの大都会も例外ではなかった。地方でもとんでもないところに駅が誕生したことにより、江戸時代の都市の構造は大きく崩れていく。駅から町の中心までは道路でつなぐことになり、そこで駅前大通りが生まれていく。この通りが新しい町の骨格となり、町を大きく変えていった。駅は都市のイメージの中心となり、新しい核となった。新しい文化や近代的な技術を鉄道が運んでいった。駅は文明開化の窓のようなものであった、ということができる。(p.20)


駅の場所と市街地の展開の関係は興味深いものがある。

日本では今は駅は町の中心近くにあるが、外国では町の中心からは外れた場所にあることも多い。パリの駅の配置などが想起される。北駅、東駅、リヨン駅、モンパルナス駅、サン・ラザール駅、オーステルリッツ駅、ベルシー駅といった駅が旧市街を囲むようにして配置されている。ここには駅前通りは存在しないように思われる。他の町でも確かに旧市街の外れにあることが多いように思われる。

中東でも私が行った限りでは駅は市街の中心にはなかったように思う。

そのあたりを考えると、日本の都市における駅の位置づけというのは、やや変わった部類に入るのかもしれない。しかし、中国や台湾などでは駅は日本と似た位置にあるように思われる。国や地域によって相違があるとすれば、それは政府の政策などの影響も大きいものと考えられるが、市街における駅の設置場所はどのような考え方に基づいて決められたのか、やや興味が引かれる。



 昔の国鉄では日本的なデザインの駅舎もたくさんつくられた。時代的には大正から昭和のはじめのころに当たる。なぜこのような和風や和洋折衷の駅舎がつくられたかと言うと、当時、国鉄はシベリア経由の世界周遊券を発行したり、中国大陸への連絡便をつくるなど目覚ましい発展を遂げていた。国際化が進み、外国人観光客も増えると共に日本的なスタイルの駅舎が全国の観光地に広まっていった。欧米人にとって異国情緒あふれる和風スタイルの駅舎は、まことに魅惑的な感じがあったに違いない。(p.30-31)


西暦で言うと1910年代から30年代頃だろうか。外国人観光客の目を意識して和風デザインが採用されたというのは興味深い。

1930年代後半頃からの植民地建築が現地のローカルなスタイルを取り入れるようになるというのも、部分的にはこうした要素も下地にあるのかもしれない。『日本の植民地建築』では満州事変以後の日本の孤立化とそれに伴う欧米に認められる必要性の減少という要因が指摘されており、それはそれで尤もな部分があるが、ローカルなスタイルの採用は私的な建築ではもう少し前から導入されていたことを私は前回の台湾旅行で見てきたこととも併せて考えると、やはり国際政治的な要因はあったにせよ、それだけでは説明できず、30年代より前のグローバル化が背景にありそうである。



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立岩真也 『唯の生』

 私はこれに賛成できない。ただ法案に反対するのはそう難しくないが、これを支持する人、反対しない気持ちの人に何をどう言うかはそう簡単ではない。この法案を考えた人が戦略家で賢かったということではまったくないのだが、安楽死・尊厳死の思想はうまくできている。様々に考え方が違う人たちが、これについては賛成してしまうような仕掛けになっている。そこで、このような法律ができることについて、かなり多くの人はあまり問題を感じない。だから、幸か不幸かこんな法案に問題を感じてしまう人は、問題であるというその感じを共有してもらうには、それなりの工夫がいるということでもある。(p.73)


2005年の尊厳死法案についてのコメント。これと同じようなことは、新自由主義的な言説の大部分にも当てはまるように思われる。



 まず「過度な延命措置」という言葉がよくわからない。「無駄な延命措置」という言葉もよく使われる。(p.76)


ここでも安楽死・尊厳死を巡る言説と新自由主義的な言説の間には重なるものがある。これは「無駄遣いをなくせ」という財政の削減を論じる「お決まりの論調」と同じではないか。



次に、当然、自分で決めることと自分で行なうことは等しくないのだが――他人にやってもらうことを自分で決めることがもちろんある――そのこともあまり言われない。(p.105)


あまり気づかれることのない、見落とされがちな区別であり、その意味でこうした指摘は稀であり重要であるように思われる。



 まず、削減は必ず無駄の削減として言われる。必要なことはするとは、必ず、誰でも言う。財政の現実を懸念する人たちであっても、もちろん必要なものは必要であると必ず言う。そしてそれにもっともなところもある。無駄は必要でないものなのだから、その言葉の定義上、なくしてもよいものであり、なくした方がよいものである。そのことには誰もが反対しない。反対しようがない。そしてそれを言う人は、そのことを信じてさえいる。
 ではどれだけが無駄なのか。その度合いははっきりしない。必要なものも切り詰められてしまうのではないかという疑念が呈されることもあるが、それが一般的な懸念として示される限りは、それにはきちんと対応するなどと言われて、話は一段楽してしまう。(p.186)


まったく同意見である。

最低でも「無駄」とは何か定義するか、あるいは、具体的なものを挙げて、それがなぜ無駄なのかを説明した上で削減という話をしなければならないはずであり、それらが無駄であることの挙証責任は削減しようとする側にある。それのない一般的な削減論は門前払いすべきである。

ちなみに、「事業仕分け」では、そうなっていないところに問題があるように思われる。つまり、事業を行なう側には、まだ行なわれていない事業なども含めて有用であることを論証する責任があるのに、仕分け人の側にはそれに疑問を呈するだけでよく、「無駄」であることを挙証する責任がないという非対称性がある。



「弱者」から多くをとってはならないということにはなっていて、それで負担についていくらかの減免の策がとられることがある。しかし、そうでない――定義上大多数の――人たちについては均等の負担が求められる。ならばたしかにあまり多くを徴収することはできないと思われる。そうして、実際にはさほど金のかからない、そこでたいしたことのない制度ができてここにある。それが前提となって、さらに、大勢としての事態は進む。こんなことが繰り返されている。(p.201)


介護保険制度などで負担が定率ないし比例的であることによって給付水準が抑えられ、一度できてしまった現実によって負担が高くなることは忌避され、給付水準を抑えようとする圧力が継続するといったところか。

介護保険にかぎらず、日本の社会保障における「過度の保険主義」はこうした現実の積み重ねから成り立っているところがある。



分け難いことは、分けることが無意味であることを意味しない。(p.326)


重要な指摘である。

相対的に優秀な社会学者はこうした区別をきちんとする傾向があるように思われる。社会学という学問領域が扱う対象の複雑さと一定の実効性ないし有効性を求められることがその要因であると思う。哲学や文学のようなところだと、実効性とはあまり関係がないから誤魔化しやすいし、社会というよりモデルを優先しがちな経済学などでは、こうした複雑な事態は避けられることもあって、こうした面倒な区別には思考が及ばない傾向があるように思われる。



 私たちはしばしば「滑り坂」の話しをする。いったん何かを認めると、それに近い他の(認めてならない)ものを認めてしまうことになるから、ここまでは認めるといった話はしない方がよいと考えるのである。そのように考えるのにはもっともなところがある。けれども、それは逆の事態を招来することもある。つまり、ならばいっそすべてよいといことにしようという話にもなりうるということだ。ある部分について、これはやはり認めてよいのではないかと思う時、部分を区別せず、みないっしょに扱おうとしたら、他の部分も認めてよいという主張は力を得ることになる。(p.327-328)


なるほどと思わされる指摘である。新自由主義であれ共産主義であれ、原理主義的な主張をする動機としてこうした要素がかなりの程度あるように思われる。

そして、そうした原理主義的な運動はしばしば失敗に終わることが多いように思われるが、理論面ないしイデオロギー面では、ここで指摘されているような弱点が一つの要素をなしているように思われる。逆の主張が同じ程度の妥当性を持って主張されうる場合があり、広範な支持を得られないことがある。

私自身の議論を反省すれば、以前、私も官僚制批判をよくやっていたが、数年前にそれがネオリベの主張を利するだけであると考え、それ以後、それらの批判を控え、まともな理解に立たない官僚非難ないし官僚制非難に対する批判を気づいたときに書くようにしたという経緯がある。これもある種の「滑り坂」論的な対応ではある。ただ、あえて自らの主張を積極的に書かないというのは、分かりにくくもある。そうした点なども踏まえて、(10年近く前とは変わっているところもあるはずでもある)自分の考え方を再度整理する必要はあるのかもしれない。


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鹿島茂 『デパートを発明した夫婦』

ただ現在なら、こうした値引き交渉がいやなら、ほかの店にいくとか、正価で売っている店にするとか、これを避けて通ることはいくらでもできるが、当時はほかの選択肢は存在しなかった。
 というのも、その頃はパリ市内でも、交通が不便だったうえに、歩道も整備されていなかったから、高価な自家用馬車を有する上流階級以外は、買い物といっても、歩いていける区域にかぎられ、近所に一軒だけしかない店で必要最小限のものを揃えるほかはなかったからである。そのため、商店同士の競争というものはほとんどないに等しく、当然、店には客を呼び込むためのディスプレイや顧客サービスも存在していなかった。(p.16-17)


交通や情報の流通の状況と正札販売との関係。交通状態が悪いと正札販売をする必要性は低く、個々の買い手と値引き交渉することが売り手にとって有利であり合理的となるが、交通や情報の状態が良くなるとその方法を用いても他の店での価格と同じまで下げる必要が出てくるため、売り手にとってそれほど合理性がなくなるというわけだ。それなりの説得力がある。

ただ、中東のバーザールやスークなどでは同業者が集まっているためその中での競争はあるように思われるのだが、それでも値引き交渉が現在まで残っている。中東でもアクセスや情報の流通はそれなりに高まっているのに、それがなくならなかったのは興味深いものがある。

ただ、中国では最近、交渉により物を買う場が急激に減っており、まさに19世紀後半のパリと似た状況になっていておもしろい。1991年に刊行された本書を2010年に読むと、19世紀後半のパリと20世紀の初頭から80年代頃までの日本、そして、21世紀初頭の中国の状況がいずれもかなり似ていることが見えてきて興味深い。日常の最低限の生活必需品以上のものを購入できる余裕がある、それなりの購買力がある社会層が登場し、中流意識が徐々に浸透し、社会の経済状態が向上していくという信頼感が社会にある中で「一歩上の消費」が繰り返されるサイクルができてくるという流れ。



ここでもまた、ライフ・スタイル、しかもトータル・プランに基づくライフ・スタイルという戦略が、欲望の全面的解放の旗振り役となる。
 すなわち、理想的なアッパー・ミドルの生活を隅々にいたるまで実現するには、これこれの家具や食器類を揃え、これこれのカジュアル・ウェアを身につけ、これこれのヴァカンス用品を購入しなければならないというように、具体的なライフ・スタイルを中産階級の消費者に教育してやる必要があるのだ。(p.105)


こうした供給者側からの消費者教育があるということは、昨今の中国の街などを歩くと感じられる。中国の都市では、中心近くに歩行者天国の商店街があるのだが、そうした店には若い女性向けの商品ばかりが並んでいるのも、どのような層を最初の教育対象とすべきかを供給者たちが心得ているということを実感させられる。安い服などは見栄えはそれなりに見えても、触ってみると素材などはあまり良くなかったりするのだが、それでもまずは「お洒落な服を着る」ということの快楽を彼ら・彼女たちに教えることとなり、その後、さらに良い素材の商品へとステップアップしていくであろうという道が見える。そんなことをここ数年の中国旅行で感じたのを想起させられた。



 ところが、1863年の7月1日、エミール・ド・ジラルダンという天才が、広告と新聞をドッキングさせて、予約購読料を従来の半分にした日刊紙「プレス」を創刊してから、状況が一変した。このジラルダンの「発明」に関しては、拙著『新聞王伝説――パリと世界を征服した男ジラルダン』(筑摩書房)を参照していただきたいが、とにかく、この新聞広告というものの出現によって、マガザン・ド・ヌヴォテはとてつもない武器を手にすることができるようになったのである。(p.117)


 新聞広告が昨今、ネット広告の出現などと相俟って黄昏を迎えつつある。そして、それはそれほど長い歴史を持っているわけではないことが確認される。



 ところで、当時は、ブルジョワ家庭ではどんな貧しい所帯でもたいてい料理女中がいて、食料品の買い物はこの女中が受け持つことになっていたので、<ボン・マルシェ>には当然、食料品売り場はなかったが、(いまでもフランスのデパートでは食料品は付属のスーパーでしか扱っていない)、「アジャンダ」には、不思議なことに今月の料理というページがあってルセット(料理法)が書かれている。(p.125)


当時とは、1888年頃。こうした女中がいつころから居なくなったのか(あるいは今でもいるのか)というのは、少し興味がある。貴族の生活に起源を持つと予想はされるが、それがどのように展開してきたのかということも。



インフレのなかった十九世紀においてはベース・アップという発想自体が存在せず、給与生活者の給与は、昇進がないかぎり何年たっても同じだったのである。(p.210)


いつからこうしたシステムが普及していったのかも調べてみるに値しそうだ。



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立岩真也 『良い死』

結局、なにもかもがこの「資源」というお話に収斂してしまっているのが私たちの時代・社会であるからには、このことについて検討する必要がある。(p.145)


安楽死や尊厳死を推進しようとする言説も結局は「資源」の話に収斂してくることが、本書では長い議論を経た後で示される。資源は人材と財源ということになるが、財源が足りないとされるのは、利益を得ている人々が単にそれを手放そうとしないためであることが指摘される。同意見である。



 福祉国家は国境の内側で負担から逃れることを禁ずることによって分配を成立させている。だが、国境を越えての逃亡を抑止する装置はなく、逃亡の発生を止めることができない。これが制約条件となって分配の機能を十分に作動しないようにしている。これが、例えば累進課税を十分に行なうことができない理由、行なうべきでないことの理由とされる。以上はもちろん個人についても言えることだが、異動が容易な組織、企業の場合にはより大きく、より容易にこの要因が働く。企業への国外への流出を防ぎ国際競争力を低下させないために法人税を抑える必要があるといった主張がなされる。もちろんこれは課税を逃れようとする口実でもあるのだが、まったく現実性のないことでもない。
 つまりここで起こるのは私的な保険の限界として指摘したことと同じである。選択可能な国家は民間の保険会社と同じなのであり、国家を介して「逆選択」が起こり、それによって分配がうまく働かなくなるのである。だから、民間の保険を否定して強制保険――私の考えではすでに保険の原理を離れた分配――を支持する人は、その論を一貫させるなら、分立している国家を否定しなければならない。(p.327)


後段は興味深く、考えさせる論点を含む。分立している国家を否定して単独の分配を行なう主体を形成するべきだということになるのだろうが、そのような単一の主体が成立しえたとして、単一の主体が公正に分配を行なうことを保障する担保はあるだろうか?

例えば、主体が単一になると分配へのインセンティブが働かなくなる要因があるとすれば(実際、貧しい者より富める者の方が政治的意思決定への介入は容易であり、世界政府のようなものによる分配がなされる場合、その単一の政府による分配の決定に富める者の意向――自分の企業に有利になるように支出させようとパイを奪い合うなど――が現在の分立した体制以上に強く働く可能性はある)、分立している国家を否定することで「論理の一貫性」は維持できても「期待する効果との整合性」が維持できなくなるということはありうるのではないか?

ただ、選択可能な国家は民間の保険と同じであるという指摘は状況を端的に直観させてくれる良い指摘であると思う。選択の自由が高まれば高まるほど、優先的選択が行なわれる可能性が高まり、複雑ネットワーク研究におけるBAモデルによるスケールフリーネットワークの形成に近い条件が整うことになり、資源の一極集中、貧富の二極化、下層の貧困化という三位一体の事態が進展する可能性が高まるように思われる。



 人の移動の自由について。……(中略)……。
 第二に、その固有性を、いやおうなく、そして/あるいは、好んで、まとっている人間は、住んでいる場所を移りにくい。移るにしても、移ることにともなうコストがある。旅費や引越しの費用のことだけを言いたいのではない。別の文化で十分やっていくことができるようになるためのコスト、できない場合に支払われなければならないコスト等々がある。(コストの支払いが個人に帰され、困難を背負ったままその人が労働を売りに市場に行くとしよう。そこでは――その「原因」がなんであるかには関係なく――どれだけ求めに応じて働くことができるかが問題であり、それができる度合いを「能力」と呼ぶなら、その人は能力において劣っているとされ、その労働を買ってもらえないか、安くされる。家事・育児のために雇用主の求めに他の人に比べてよく応じることができない人も同様である。)この差が大きい時、それを超えて国境を越え、利益を得ることができるのは、それだけの売りものをもつ人に限られる。例えば「頭脳の海外流出」などと言われる時の、その流出する頭脳をもっている人たちである。でなければ、どうしてもその地を離れるしかなかった人たち、つまりその場にい続けることの不利益があまりに大きい人たちだ。(p.329)


まったく同感である。ここで述べられていないコストを付け加えるとすれば、住んでいる土地を離れてある程度遠くに行く場合、自分が持つ人間関係のネットワークをも失うことによるコスト/リスクも考慮する必要がある。労働をする場合にも、人は個人でやっていると思っていても、実際に一人でやっているということはまずない。実際には個人の力というよりもネットワークの力が作用している。つまり、ある問題を自分の力だけでは解決できないとしても、解決できる人と多くつながりを持っている人、また、多様な問題に対処できる人と多くつながりをもっている人の方が問題を解決するには有利であるということである。こうしたネットワークからも多分に切り離されるというコストをも負うことになることが多い。


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『現代思想 2009年9月号 特集…ガリレオ』
立岩真也 「『税を直す』+次の仕事の準備」より。

 すくなくとも争いをしようというのであれば、何を争っているのかわかる争いをした方がよいし、争うに足る争いをした方がよい。
 税に関わるところだけ少し続けよう。誰もが同じぐらい使う財について、誰からも同じだけその費用を取って、その費用を支給しても、あるいは政府がその財を購入して現物でその財を支給しても、それは――かなり乱暴な言い方であるのは承知しているが、基本的には――何もしないのと同じことである。……(中略)……。そしてこうした部分について、国民負担率が大きくなるとかそうでないといった議論にどれほどの意味があるのか、押さえておいた方がよい。すくなくともここでは分配は行なわれていない。(p.27)


「国民負担率」は、税・社会保険料などの税率の構造や給付の内容によって意味が変わるというのは、あまり指摘されないが重要なポイントである。

社会保障費の財源に一定税率の消費税を充ててもあまり意味はないといえる。



高橋憲一 「パラダイム・シフトとガリレオ」より。

ガリレオがアルキメデスのパラダイムに従って歩んだ方向に科学者集団が新たに形成され、概念と言語が開発されるときに、パラダイム・シフトはその全貌を現すのである。(p.109)


パラダイム・シフトとは個人の心の中の価値観の変化のようなものというよりは、科学者集団間の勢力関係の布置の変化である。複雑ネットワーク研究のパラダイムを使ってパラダイム・シフトを研究すると面白そうである。



原田雅樹 「ガリレイの幾何学的運動論の哲学的遺産 幾何学における意味の始源と概念の弁証法的生成」より。

デカルトのように、方法論をまず確実に打ち立ててから、知を出発させるというのは無理であるというのがスピノザの主張である。……(中略)……。一言で言えば、スピノザによると、方法は、知に対する反省であり、知の前にやってこないということである。(p.143)


方法は知が作動する前にはないというのは妥当であろう。ただ、ひとたび反省により方法論が打ち立てられた後に、その方法論に基づく探求によって新たな知見が得られることはありうるし、それによって知のあり方や方法論にも変化が生じることはある。



汪暉 「琉球 戦争の記憶、社会運動、そして歴史解釈について」より。

ただ、今の私が思うに、北海道と琉球という、明治時代になってはじめて日本の版図に編入された二つの地域に向かわなければ、現代日本の理解について、やはり不足するところが多々あっただろう。(p.206)


最近の私の着想と重なるところがあり共感できる。ただ、私はまだ沖縄研究にはまだ着手できていない。当面は北海道を一つのフィールドにしようと考える。



「尊皇攘夷」は19世紀後期になると、西洋帝国主義の対アジア浸透に対応したものといよいよなっていった。しかし、当初それは主にロシアに焦点を合わせたものだった。北海道旅行の際、オホーツク海峡の海岸に立ったが、現地での観察と体験のうち最も強烈だったものとは、北海道が中国と日本、ロシアの間にあるということだった。北海道の多くの近代建築は、銀行・漁港・漁業倉庫から、より重要な交通施設まで、全て1906年に建設が開始されたものであった。その理由が、日露戦争(1904-1905)終結後、日本が自らに自信を持つようになったことにあるというのははっきりしている。それ以前に北海道はすでに植民地化されていたが、大規模開発は行われていなかった。この時期になって、日本近代化の一つの波を、すなわち日清戦争から1905年の日露戦争までをくぐりぬけることで、日本は列強に肩を並べうる資本を有するようになった。日本の帝国主義的性格の膨張はこの時期により明確になったと言って良い。(p.206-207)


尊皇攘夷が当初はロシアに焦点を合わせていたとは知らなかった。ただ、言われてみれば、幕末期の日本における外国の脅威としてはロシアによるものが比較的早く、実際の脅威も大きかったと言って良い。蝦夷地を江戸幕府が直轄地にしたことなどにそれは端的に現れている。19世紀初頭と1855年以降、蝦夷地の大部分は幕府の天領であった。ペリーが浦賀に来航したのは1853年であり、ロシアへの対処が1799年の東蝦夷地の直轄化から始まるとすると、ロシアは日本に到達するのがアメリカよりも半世紀ほど早かったことになる。

また、北海道が中国と日本、ロシアの間にあるという認識は妥当かつ重要。

但し、その後に北海道の近代建築が日露戦争後に建設開始されたというのは誤りである。私が最近調べた小樽で言えば、明治時代の倉庫や商店や銀行などが今も残っているし、日本の近代港湾の一つである小樽港の第一期工事は明治30年から41年にかけて行われ、その際に建設された北防波堤は日本人の技師が設計したコンクリート製防波堤としては最初の成功例となっている。

とはいえ、日露戦争以後に北海道が活気づいたことは間違いない。しかし、大規模開発などが行われた原因は「自らに自信を持つようになった」といった心理的なものではなく、南樺太を領土とし、北方への商圏が広まり、北海道の物産が流通する範囲が広まったからである。

こうして大資本が育ってくるとその圧力もあって政府は帝国主義的に振舞うこととなる。日露戦争の頃からその色彩が強まったとしても不思議はない。



今の私の脳裏には、琉球への印象が広島と結びついたものとなっている。広島といえば、まずは原子爆弾が爆発した場所である。我々は当然、平和記念資料館を見に行く必要があった。広島は核時代の最初の被害者であり、最大の被害者でもある。資料館の陳列物の様子は、永遠に忘れられないものであった。私はこうしたことから、日本の戦後平和運動の深い基盤について理解を深めた。それから、広島平和記念資料館をめぐる論議についてもいくらか理解できた。この論議は、その記念碑の碑文の叙述の問題を含んでいたが、いわゆる多義性(ambiguity)を持ったその叙述が、戦争責任の問題に関する再考察を誘発していた。広島の叙述は基本的に、一方で平和、一方で被害であり、この二点が最もはっきりと印象に残った。当然ながら、広島は日清戦争(1894年-1985年)の際、大本営が設置された場所でもあり、太平洋戦争中も軍事基地や軍事工場が存在していた。広島から程近い島には、日本四大神社の一つ厳島神社があるだけでなく、日清戦争における中国側軍艦の錨も陳列されていて、日本帝国の軍事的勝利を提示している。正直に言えば、私はそこを通ったとき、心の中に何か強く感じるものがあった。近代日本史において、広島自身が非常に複雑な都市であるのに、核爆発の傷があまりにも巨大なために、(日清戦争と太平洋戦争という)その背景がうやむやにされてしまっているのだ。こうした点に立って、広島と戦争との特殊な関係について言えば、この都市自身には被害者かつ加害者という二重の立場が存在するのである。(p.208)


広島に軍事基地や大本営が置かれたということを以って広島という都市に加害者という立場が存在するというのはやや行き過ぎているように思われる。例えば、広島という都市、その地方政府が大本営や軍事工場を置く場所を決めたというなら、都市も「関わった」とは言える。しかし、基本的には中央政府が決めたことを市としては受け入れざるを得なかっただろう。日本政府や日本軍による加害があったとするなら妥当だが、「広島」が加害者というのはおかしな話であるように思われる。それは沖縄に米軍基地があり沖縄から出発した米軍がヴェトナムを攻撃したからといって「沖縄」が加害者であるとは必ずしもいえないのと同じである。

しかし、原爆の陰で軍事基地があった土地であるということなどが霞んでいるというのは確かであり、それらの点を指摘しているのは妥当である。



残虐感と恐怖感を長引かせる地上戦が琉球人に残した記憶は日本の他の地域と比べてはるかに深刻であった。いわんや、中国での地上戦となると、三ヶ月などではなく、14年もの長きにわたって継続したのである。(p.209)


戦争の形態によって後の世に残す傷跡の違いがあるというのは説得力がある。但し、中国に関しては、国民党や共産党が人民を犠牲にしながら長期間逃げ回ったために被害が大きくなったという側面も指摘されるべきだろう。



国際法は初期において、帝国主義国家間の法則に過ぎなかった。しかし、民族解放運動と脱植民地化運動の発展に伴い、多くの被圧迫民族が新興の主権国家になった際、そうした運動は、国際法の主権学説を利用することで、自己に合法性を提供したのである。(p.223)


国際法の性格ないし機能の変化なども今後調べてみたいテーマである。



香港は中国の一部分であるが、国際的な法律主権の意味において、国際組織に加入する権利が香港にはあり、大陸と異なるパスポートと独立したビザのシステムを有している。この情況は中国の朝貢関係内部の権力構造に近い。(p.224)


一国二制度は以前の朝貢関係に近いという。興味深い指摘。



 冷戦という条件の下では、米ソ両超大国を除き、主権の不完全性あるいは不完全な主権は、東西両陣営に属する国家の普遍的な運命であった。……(中略)……。アジアでは、日本や東南アジア諸国、韓国、台湾などアメリカの冷戦システムの一員となっていた国家や地域は、実質的には完全な主権を備えていなかった。まさにこうした意味において、中国は例外であった。アメリカとの戦争と対抗、ソ連との論争と対立を通して、中国は極めて困難な条件の下に、本当の意味で独立自主の主権を形成した。(p.225)


この論文は中国国内の雑誌にも掲載されているということもあるのだろうが、中国を持ち上げすぎという感はあるが、中国は日本や台湾などと比べると冷戦の二極構造にあまり深く埋め込まれていなかったという指摘は参考になる。



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