アヴェスターにはこう書いている?
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小林多喜二 『小林多喜二名作集「近代日本の貧困」』
「失業貨車」より。

 波止場の「石炭置場」に、網の目のように敷かれている入換線の所々には、事業不振から送貨の減少で、沢山の貨車が遊んでいる。それを一箇所に集めて、この冬をどうしても過ごせないような「紹介所」襲撃や「市役所」押掛けの常連をそれらの貨車に三百人ほど住み込ませて、一日一回だけ「粥」の支給を始めたのである。――ところが、それは思い掛けない程の歓迎をうけた。ジメジメした長屋よりガッシリしているし、暖かかったし、それよりも何よりも「お粥」の支給がある!みんなは別人になったように温なしくなってしまった。
 警察からは交代に巡査がやってきて、その辺を見廻って歩いた。
 毎日の新聞がそのことを書き立てた。それからO市では「失業貨車」という言葉が、大流行になった。市の色々な名士が見学にやってきたりした。(p.11-12)


これはまさに現代日本における「年越し派遣村」とほぼ同じものである。ただ、これは行政が主体なので、昨年末から今年にかけての「官製派遣村」ということになるが。

やはり昭和初期の頃と現代とは社会の状況に類似が多いということを再確認させられる。

もっとも、この「失業貨車」というものが実際にあったのかどうかはわからないが、同じ発想があったということだけは確実である。



「銀行の話」より。

 ――銀行と産業企業がこのように網の目に入り交じってくると、銀行は大事な金を入れ注いでいる「産業企業」をただそのままに放って置くことが出来なくなります。債権者の立場と特権を持っている銀行は、当然会社の企業を「監視する権利」を持っている。するとそれを土台にして、今度は積極的に会社を「統制する」権利までも得る。何しろ依存関係が関係だから、これは当然そうなるわけである。――と、どういう事になるか?
 皆さんも知っている通り、「重役を入れる。」こいつを行うのです。重役を入れるというのは、自己の「財閥」の代表者をその会社の重役にさせることです。こうなれば占めたもので、ここに所謂「閥」というものの網が張られるわけです。今迄資本の物質的な依存関係から絡がっていたものが、この結果更に人的なつながりででもつながってくる。――まことに念の入った水も洩さない結合関係が出来上るのです。
 日本の三井、三菱、住友、安田と数えて来て――これ等の銀行の各々が一体どれだけの会社へ重役を入れているか、それは中々素晴らしいものです。(p.45-46)


元銀行員・喜二の面目躍如といった感がある。

現代の金融権力の強大化は100年前とは若干様相が異なっているが、基本的な仕組みは大差ない。「金融」にカテゴライズされる勢力は、会社を「格付会社」や「株主総会」などの場において圧力をかけたり、監視・介入したりしようとする。金融勢力から企業に対する監視と統制が一体になって行われるところは何ら変わっていない。

人的なネットワークが形成されることについては現代の状況について詳細はよくわからないが、多喜二が指摘する銀行と企業との間の関係とは別の形態をとっているように思われる。株主が経営者を決めるという形での統制や大投資家同士が人的ネットワークを形成することによって、相対的に優位に立ちやすくなるということもありうる。

金融による権力生成プロセスについてはさらに学んでいく必要がある。





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浜林正夫 『「蟹工船」の社会史 小林多喜二とその時代』

 北海道では明治三十年ころから国有地の払い下げがしきりに行われるようになり、これに乗じて大農場をもつ不在地主が増加してくるが、この争議の相手方磯野進もその一人であった。
 彼は小樽で海産物商を営み、東京にも店をもち、小樽商業会議所(現商工会議所)の会長も勤める地元財界の中心人物であった。
 富良野にあったその農場は広さ約250町歩、うち50町歩を北海道大学の演習林に与えていたので小作人に貸していたのは約200町歩であった。(p.62-63)


北海道での明治30年(1897年)頃からの土地の払い下げが行われたことの背景となる要因ないし社会の変化は今後の調査対象としたい。

小林多喜二の小説『不在地主』のモデルとなった磯野進。彼の所有地の一部が北大の演習林となっていたとは知らなかった。ただ、現在は富良野には演習林はないようだ。

余談だが、北大の演習林は2001年より「北海道大学北方生物圏フィールド科学センター森林圏ステーション」というのになったらしく、これも知らなかったので驚いた。国立大学が国立大学法人になったのは2004年からだが、それを見越して組織を改組したのだろうか?



 蟹工船がどうして植民地的搾取なのかという疑問があるかもしれないが、これは北海道が植民地として意識されていたためである。
 現在は変わったかもしれないが、北海道の人は本州のことを「内地」と言う。つまり、自分たちは「外地」に住んでいるという意識である。多喜二のころには、北海道をはっきりと「植民地」と書いている文献もある。そして、この北海道という未開の植民地は、すでに述べたように、まず囚人労働によって開拓され、ついで監獄部屋という強制労働によってそれが引き継がれ、その後さらに、中国や朝鮮から強制連行された人々が、これを受け継いだのであるが、そこでは「内地」にはないような搾取が行われていた。(p.89-90)


北海道が植民地である(少なくともそうであった)ことについて、最近私の関心は向かっているのだが、大正時代前後にはやはりそうした意識は比較的強く残っていたらしいということがわかり参考になった。なお、「内地」という言葉はまだ残ってはいる。

囚人労働、監獄部屋、強制連行という歴史については、隠蔽されがちなので、北海道の歴史を紐解いていく際には意識的に拾っていかなければならない事実であると考える。



 北海産物と関係が深い缶詰製造は輸入技術だったので、日本では1873(明治7)年に初めて試作され、日本の近代技術の多くがそうだったように、まず軍需で実用化された。77年の西南戦争から軍隊の携行が始まって、日清・日露の戦争を通じて拡大する。北海道でも76年に開拓使の工場が石狩町に設けられて翌年鮭缶を試作、86年には民間の工場も紗那・石狩・千島などにできて、90年から鮭鱒缶詰が海軍に買い上げられるようになった。後に輸出の花形になる北海の缶詰も、先に軍需の歴史が始まっていた。(p.161)


缶詰など現在ではローテクに見えるが、わずか130-140年前にはちょっとしたハイテクだったようだ。

軍需で利用できるものだというのは、なるほどという感じがする。携行できる保存食などとして活用できるから。

なお、この後の叙述を追っていくと、蟹の缶詰が実業化したのは1905年前後であったが、高価であるためはじめから輸出産業として成立した(p.163)というのは、当時の日本と世界の状況が反映しており興味深い。蟹工船は近海での資源枯渇や海水による蟹缶製造技術の確立などの要因が揃ったことにより、1920年代に実業化していくという。多喜二の小説『蟹工船』が発表されたのは1929年だから、当時としては最新の話題をとり上げていたことになろうか。



 1885(明治19)年から97(明治30)年までの12年間の在監囚人数は第1表のとおりであるが、彼らはどのような仕事をさせられたのであろうか。仕事の種類には製造(鍛冶、土工、藁工、炭焼きなど)と労作(農耕、採鉱、土方、運搬、伐木、大工など)と雑役があったが、一般的には囚人の仕事は獄内の仕事が主なものであったのに、北海道の場合には労作という外部の仕事が60ないし75%を占めていた。労作のなかでも明治20年代の中ごろまでは鉱山や土木事業が多く、それ以降は次第に農耕へ比重を移していった。これはおそらくそのころから監獄部屋が広がり始め、鉱山や土木の仕事は監獄部屋の土工夫に移されていったためであろう。(p.203)


北海道「開拓」の時代、炭鉱の開発や道路や鉄道の建設などには、こうした暗い歴史が隠されているようである。



 監獄部屋はいつできたのだろうか。これには明確な答えはない。なぜなら、監獄部屋というのは俗称であって、以前からあった土工夫の宿泊施設がいつの間にか監獄部屋と呼ばれるようになったからである。では、そう呼ばれるようになったのはいつごろからかというと、いろいろな説があるけれども、北海道では鉄道敷設工事が始まったころからと考えられている。ただし、北海道の最初の鉄道は1880(明治13)年に開設された幌内・手宮(小樽)間の鉄道であるが、この敷設工事に囚人や監獄部屋の土工夫が使われたことはなかったようだ。(p.205)


囚人や監獄部屋が整う以前に作られたからであろうか。一つ前の引用文からしても、監獄部屋が広まったのは明治20年代半ば以降ということだから、明治12~13年ころにはまだ十分な数が揃っておらず、それらを利用するという発想に至らなかったのかもしれない。

ただ、この場合、誰が作ったのか?(作業を担ったのはどのような人々か?)という疑問は残る。



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杉森久英 『新渡戸稲造』

 明治十年代の北海道は、全道鬱蒼とした密林と湿地帯で占められ、およそ人間の住める土地ではなかった、という。森には熊が棲んでいて、ときどき人を襲い、文明社会から隔離されているので、住民は原始生活に甘んずるしかなかった。
 政府がこの土地を開拓する方針を樹てたのは、広大な土地に眠る森林資源や鉱山資源(石炭)や水産資源(鰊、鮭、昆布等)を活用して、国富を増やそうという目的もあったが、また、北方からアジアへ進出してくるロシア帝国に対する防備を固くするためでもあった。
 ロシアがシベリアを東へ進んで来て、太平洋へ達し、千島、北海道の周辺に出没するようになったのは、幕末のころである。それまでの日本は、北海道から先は自国の領土という意識もなく、自然のままの荒れ地として、放置していたが、ロシア人が現れるに及んで、はじめて侵略の危機に曝されているという意識を持つようになった。政府は北海道へどしどし住民を入植させて、農耕に従事させると共に、侵略に対する防衛の任務にも当らせることにした。
 つまり北海道は当時の日本にとって、重要な地域なので、政府はこの振興には金を惜しまなかった。札幌農学校はその作戦本部でもあれば、将来の幹部要員の養成所でもあったのである。
(p.54-55)


明治十年代に人が住める土地でなかったというのは、誇張しすぎであろう。それ以前からアイヌの人々は住んでおり、中国などとも交易していたのだから。

ただ、日本政府が北海道開拓という名の植民地支配を強力に進めた理由の一つとして、ロシアの東進及び南下に対する備えがあったというのは、恐らく正しいだろう。当時の世界情勢は国民国家・主権国家の体制を取らざるを得ない情勢下にあり、北海道は権力の真空地帯(強力な中央権力が不在)であったため、日本政府はいち早くこの島を「領土」に組み入れることとしたわけである。このあたりは江戸幕府が直轄地にした頃からの政策の延長上にあるといってもよいだろう。

また、石炭に関しては、幕末から白糠炭鉱や茅沼炭鉱の採掘が行われていたが、明治5年に幌内炭鉱の存在が開拓使によって認識されたことは大きかっただろう。日本でも4番目の鉄道が幌内から小樽の手宮まで敷かれたこと(明治15年全通)などにも、時の政府が金を惜しまなかった姿勢が見て取れる。また、明治初期の「お雇い外国人」もかなりの数が北海道に来ていた。

札幌農学校に関しては、確かに将来の幹部要員を育成しようとする意図はあったと思われるが、実際には札幌農学校やその後の北海道大学の学風はリベラルなもの(ないしは民主主義的な権利の平等性を重視するもの)となり、当時の政府が意図したものとはズレがあったように思われる。クラーク博士の精神やキリスト教の精神がこうしたリベラリズムの土壌であるかのように語られることがあるが、私見では、開拓のための「実学」を重視した帰結として、権威主義が排除されやすかったことがリベラリズムへの共感を醸成しやすかったのではないか、と思われる。また、北海道が僻地であった(ある)がゆえに、学生や教官たちは「中央からの視線」ではなく「周辺(辺境)からの視線」を(中央の学校よりも)持ちやすく、それがリベラリズムにつながったのではないか。



 実をいえば、『武士道』の記述にはまちがいが相当ある。……(中略)……。
 しかし、このような欠点は、この本がベストセラーズになることの妨げにならなかった。世間一般の読者は、書物に学問的正確さを期待したりはしない。日本なんて、地球のどこの果てにあるか、誰も知らなかった国である。それが大清帝国と戦争をして、負かしたという。それだって、日本人が有頂天になって喜んでいるほど、世界じゅうに知れ渡った出来事ではない。軍人とか、外交官とか、貿易商とか、新聞記者とか、そういう連中がすこしビックリしただけで、はて、日本とはどういう国だろうと思っているところへ出版されたのが『武士道』である。世界じゅうの各国語に訳されて、日本の歴史はじまって以来、はじめて、自分たちの書いたものでも外国人に読んでもらえるという自信をつけてくれた本である。その後、日本人の著作で外国でベストセラーズとなったという話はあまり聞かず、『武士道』をもって空前絶後とするらしいが、それにはそれだけの理由があったと思わねばなるまい。(p.135-136)


『武士道』の内容は学問的に正しくない部分が多いというのは同意見である。

100~150年前には、日本なんて世界(というか欧米)では知られていなかったという認識は当時の世界情勢を考える際には比較的重要な視点であるように思われる。



われわれが君に期待するのは、長らく海外にあって、進んだ文化を見てきた君が、その目のまだ肥えているうちに、思うがままに描く理想像である。現実現実というけれど、現実を見すぎると、目が痩せてきて、理想像が描けなくなる。空想といわれようが、実行不可能といわれようが、かまわないから、君は君で、自由奔放な夢を描いてもらいたい。(p.151)


新渡戸稲造が台湾に招聘され、台湾の管内を一巡するとすぐ、その上司である児玉源太郎と後藤新平が新渡戸に台湾振興策の具体案を作るように催促してきた。それに対し、新渡戸がもっと調査させるよう意見したことに対する、児玉と後藤の返答の一部である。

現実を見すぎると理想像が描けなくなるというのは、確かに一面の真理である。理想実現を妨げる要因が見えてしまうからはじめから制限してしまうわけである。それによって実現すべき目標が低く設定されると、さらにそれを実現しようとする際に理想から遠ざかり「現実」に迎合してしまうという現象が起こりがちである。そうならないためにまずは細かな制約などが十分に見ていていない段階で理想像を描いてみるというのは悪くない。

これを書いていてふと思い至ったのは、昨今の政治における「マニフェスト」についてである。現実的でないものを掲げることで民主党はよく批判されている。それが現実的でないとしても理想的なものであり、到達すべきものを示しているならそれはそれで意味はあるのかもしれないとも思える。しかし、同党のマニフェストは、理想的なビジョンを与えているとは思えないし、理想を掲げた後に現実的な修正はやはり必要になるはずだが、それを十分経ずに実現しようとしたりしているところがあり、やはり問題は大きいように思われる。もっとも、これは民主党のみに限ったことではないが。



 入学式における校長の訓示といえば、忠君愛国とか義勇方向とか、古い道徳観念を強制する、紋切り型のものが多かったが、新渡戸の訓示は、日常卑近の生活に密着した、平凡きわまる教訓に過ぎないにもかかわらず、それがかえって青年の心に新鮮に響いた。
 時代の思潮も大きく変わりつつあった。日露戦争でおびただしい戦死者を出し、ようやく敗北を免れたものの、国土と人心の荒廃に、敗北以上の悲惨を経験しなければならなかった日本人は、空疎な民族的自尊心よりも、平穏な日常生活の幸福を求めるようになっていた。(p.175)


新渡戸稲造は明治39年(1906年)に第一高等学校の校長に就任する。その翌年の入学式での訓示についての記述。

日露戦争が終わって間もない時期の世論の変化を指摘しているのは興味深い。大正デモクラシーなどにつながる方向性であるように思われる。もっとも、こうした説明ではこの時代の思潮の変化の説明としては不十分だろう。



 日本は日露戦争ののち、しばらくは軍人全盛の時代だったが、次第に民主主義、人道主義、平和主義の時代に移り、軍人の影が薄くなった。軍服を着て、サーベルをさげて歩いていると、反戦の若者に白い目で見られ、軍人志望者が激減した。
 ところが、すこし前から、風向きが変わりはじめた。満州事変や上海事変で、日本軍の勇敢な戦いぶりを知った国民は、改めて軍人に感謝の心を抱くようになった。新聞やラジオは軍人や軍隊のことを報道し、町には軍歌が流れた。若い娘は軍人に憧れの目を向けはじめ、軍人は自信を取り戻した。(p.334)



1900年頃から1930年代頃の世論ないし世相の変化はかなり大きな変化があるように思われ、当時の社会情勢及びその背景についてはよく学んでおく必要が在るように思われる。現代とかなり似たところがあると思われるからである。


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北河大次郎、後藤治 編著 『図説 日本の近代化遺産』

 近代化遺産という言葉は、1990年(平成二)から文化庁がその全国総合調査を始めるにあたり造語したもので、正確には、幕末期から第二次世界大戦期のあいだに建設され、わが国の近代化に貢献し、近代的手法でつくられた産業・交通・土木にかかわる建造物などをさす。(p.6)


近代化遺産という言葉が官製のものだったとは知らなかった。まぁ、その前から誰かが唱えていたのを文化庁が採用したのかもしれないが。

高度成長期が終わって過去を振り返る機運が高まり、第二次産業による成長に限界が見える中で、地域の歴史や文化を観光へとつなげていこうとする動きが出てきた70年代以降の世相や、政治史や経済史だけでなく身の回りの事柄を扱う社会史などが流行しはじめた80年代の歴史学における動きなどが、こうした言葉の登場の背景にあると思われる。



また、個別のデザイン的な価値よりも、複数の構造物が構成するシステム自体に価値をもつことが多い近代化遺産の特質を明らかにするために、周辺の関連施設もあわせて紹介している。(p.6)


本書の編集における方針を述べた箇所であるが、「近代化遺産」というものの性質として重要な点を指摘しているので抜粋した。個人的には、本書から得た大きな収穫がこの指摘であった。

近代化遺産は観光する場合にも、政治や宗教における重要な建造物や大資本家たちの持つ豪邸などのような「派手さ」はない。近代化遺産は実用的な目的のために作られたものであり、実用的なものは複合的な状況の下で特定の問題を解決するように機能する。従って、個々の近代化遺産が機能していた前提となる複合的な状況を理解して初めて、それが果たしていた機能を理解することができる。近代化遺産は形状だけを見ても、それほど面白いものではないことが多い。その機能を理解するためには材質、形状、制作年代、使用者などを理解し、また、実際にそれが機能していた状況を把握して初めてその面白さや意味が理解できる。このように考えてみていく必要があるように思われる。



 土地や景観については、周辺の土地が建造物と一体的に残る旧手宮鉄道施設では、扇形の機関車庫をコンパクトに建設することで、狭小な土地を効率的に利用しようとしていたことが理解できる。(p.15)


この旧手宮鉄道施設は小樽市総合博物館にあるのだが、3年ほどの修復を終えて2010年の春から公開されるという。是非見てきたいところである。



 わが国は、資源の少ない国とよくいわれる。けれども、石炭が主要なエネルギーであった時代には、それなりの資源をもった国だったのである。わが国が驚異的な速度で近代化を達成し先進国の仲間入りを果たせた理由の一つに、こうしたエネルギー事情があったことを忘れてはならない。(p.39)


なるほど。明治から昭和の半ば頃まで石炭は重要なエネルギーだった。その間、日本には九州と北海道の炭鉱がそのエネルギー需要を支えた。もしこれがなければ、日本政府はいわゆる「近代化」を進めようとする際に、より多くの外貨を必要としたわけだ。明治の途中までは日本政府には外貨がそれほどなかったことを考えると、「近代化」の初動期に外貨なしである程度のエネルギーを確保できたということは、それなりのアドバンテージとなっていたと言えるだろう。



1914年といえば、同じ年に赤レンガの東京駅が完成しているが、当時の駅は大部分が木造で、レンガ造によるものはごくわずかであった。
 これは、駅舎のように将来の需要予測がむずかしい建物は、とりあえず最小限の規模で建てておき、必要に応じて拡張すればよいとする考え方が一般的であったためとされ、結果的に簡単に改築でき、工事費のかからない木造建築が主流となった(p.51)


1914年は大正3年だが、昭和初期にはもうコンクリート造の駅舎が作られ始めるから、レンガ造の駅舎というのはそれほど長い期間は作られなかったことになる。大正12年の関東大震災が大きな影響を及ぼしたのだろう。



寺院や神社への参拝というと昔ながらの習慣のように感じられるが、寺院や神社が観光の対象となり、最も参拝者が集まるようになったのは、意外にも近代のことなのである。(p.53)


寺院や神社などを訪れていたのは、どのような人だったのか、歴史を紐解いてみると意外なことが分かるかもしれない。仮説としては、「近代化」以前は相対的に身分の高い人が訪れていたのではないだろうか?もちろん、宗教によっても違いがあるだろうし、社会によっても違いがあるだろうし、時代によっても変わるだろうが。



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北海道新聞空知「炭鉱」取材班 編著 『そらち炭鉱遺産散歩』

 明治30年代半ばごろには道内石炭生産量の9割以上を北炭が占めていたという。その他は比較的零細な炭鉱企業だった。
 その後、当時国内最大の石炭生産地であった九州の筑豊炭田を中心に採炭していた三井、三菱、住友の財閥系炭鉱資本が良質炭を豊富に埋蔵する道内炭田に注目し、開発に着手し始める。(p.34-35)


日本の明治以降を考えるとき、石炭の果たした役割の大きさというものは、少し重視する必要があるように思われる。

私は小樽に着目したところから空知の炭鉱にも若干の関心を持つに至り、本書を手にしたのだが、そこから当時のエネルギー政策や産業の状況等へとつながるところが見えてきたし、また、こうした財閥の動きなどから金融や資本の動きとも結びつくところが見えてきた。世界的に見るとミクロな動きに過ぎないのだが、そこからマクロな動きも見えてくるところがこうしたエリアスタディーズ(地域研究)の面白いところである。



 時の政府による戦争遂行を地の底で支え、多くの犠牲者を出した空知の炭鉱。その歴史の検証は戦争と平和を考える上で、将来とも不可欠だ。しかし、旧炭鉱地の多くが、博物館など炭鉱の歴史を紹介する展示施設を持つが、強制連行・労働の史実に触れる施設はごくわずかしかない。(p.318)



ここでの「強制連行・労働」とは、第二次大戦中に朝鮮人や中国人が空知の炭鉱に騙されたり誘拐されたりして強制的に連行され、強制労働させられた事実などを指す。

不必要に憎悪を掻き立てる必要はないし、そのようになることは逆効果とも言えるのだが、事実を客観的に伝える努力は行うべきだろう。特に北海道の歴史には、日本の他の地域より暗部は多いように思われるので、このような努力は重要ではないか。

「不都合な真実」は闇に葬り去るのではなく、できる限り客観的に叙述し、過去の過ちを繰り返さないための教材とすべきであろう。

このための具体的な方法論を、歴史叙述に関わる人々や教育者、研究者はもっと考えていかなければならないのではないだろうか?


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渡辺悌之助 『小樽文化史』

 爾来小樽は、札幌の外港となって、日に進む石狩平野の開発と共に、その物資を呑吐する西海岸の重要港にのし上がったが、その反面札幌もまた、小樽のみなと在って出現したとも云える。(p.76)


石狩平野に札幌が建設されるに当たり、小樽という天然の良港の存在も一つの要因となったであろう、ということ。小樽と札幌は互いに他方を必要として建設されたと見ることができる。ただ、戦後は小樽の重要度は低下したため、様々な都市機能が札幌に集中しているため、2010年度、小樽は過疎地に指定されるまでになった。



 小樽は背後に山を負い、丘陵が海に迫って平地がないため、人々は手宮・於古発・入船・勝納の諸川のうちで、最も大きい勝納川の河口に集っていた。
 従って、勝納の河口を中心に海に平行して延嘉・勝納が先ず拓け、その裏に延嘉裏町と遊女屋のコンタン通りが出きた。(p.77)


明治10年代までは勝納川河口が集落の中心であったが、明治14年のコンタン町の大火により市街の中心は入船川の河口、現在の通称「メルヘン交差点」周辺に移った。メルヘン交差点が幾つもの通りが集まっているのもこうした歴史の反映なのであろう。



 ところで当時すでに開港場(7月)に指定され、人口61,893人を擁する国際貿易港となって、函館に次ぐ本道第二の大都であった小樽港にして、有権者の数は何と295名に過ぎない状態であった。
 これには三年以上定住しないと、選挙権を認めない条件もあったが、殆んどの市民が区税の負担に堪えられなかった訳で、貧富の差が甚だしかったことが分る。
 ……(中略)……。
 第一回の選挙に当選した区会議会の氏名は次の通りで、その過半数が商業会議所議員(明治29年創立――会頭山田吉兵衛)を兼任しており、文字通り当時の小樽政界を代表する人達であった。(p.106)


小樽港は明治32年に開港場(外国貿易港)に指定されているが、この都市、小樽に区制が施行され、小樽郡から小樽区になり、議会が設けられた。有権者は人口の5%にも満たず、区議会議員のほとんどが大商人で、区長・市長も同じく大商人、そうした豪商兼政治家の中からこの地域の国会議員も出るという状況であった。

こうした貧富の差というか、一部の豪商による政治権力及び経済的利益の集中と、彼らに使われる大多数の貧しい労働者の対比の存在が、最近ブームになった『蟹工船』で有名な小林多喜二の作品などに反映されていると見てよいだろう。



 小樽市史によれば、当時札幌在住の憲政党支部長――浅羽靖〔衆議院議員・札幌区長、また北海中学の創始者で、小樽の名望家二代井尻静蔵の舅に当る〕は、党勢拡大のため、区制直前の小樽の総代人選挙に、大芝居をうったと云はれる。
 浅羽はまず石狩・空知・樺戸・雨竜方面の大地主に応援を求めて、小作人多数の本籍を小樽に移して選挙人名簿を作成し、また小樽町内の選挙資格を有する党員の地区配分を行って、町内八地区の全部に亘り、改選総代人を憲政党で独占しようというのである。
 しかも当時、総代人選挙規則はあったが頗る杜撰で、どのような解釈も成り立ったから、支庁の方でもそのまま受理登録して、敢えて違法とは思わなかったようである。
 かくて選挙日八月二十五日直前の十五日の調査では、有権者が456人であったのに、二十三日の調査では、1,607人になり、実に、1,151人が増えていたという驚くべき事態になっていた。
 これを知った小樽港民の憤激は、大変なものであった。(p.108)


こうした今では信じられないような政治工作が行われたために、選挙権付与のためには3年以上定住していることという条件があったのかもしれない。



 旅順港の閉塞(徴用した御用船を港口に沈め、敵艦隊が出られないように封鎖する)は前後三回に亘って行われ、参加商船二十一隻を数えたが、このうち第二回閉塞(三月二十七日)の千代丸・福井丸・弥彦丸・米山丸の弥彦と米山は、小樽の板谷商船の持舟であり、第三回閉塞(五月三日)の出動船十二隻のうち、九番船の小樽丸は、藤山海運の所有船であった。
 更に樋口委員の調査によれば、広瀬中佐で有名な福井丸も、小樽に出店した北陸海運の覇者右近商事の所有であったから、然れば旅順港閉塞の御用船二十一隻のうち、その四隻までが小樽の持舟であったということになる。
 これはある意味で、商船王国としての当時の小樽の、ランクを示した証左となろう。(p.113)


こうして船を徴用に出すことによって多額の徴用金を得た板谷宮吉や藤山要吉は「船成金」と呼ばれるようになったという。日露戦争の結果、南樺太が日本の領土となったことによって小樽は樺太との交易の中継点として飛躍的に発展することになるのだが、その戦争自体にも小樽の資本家たちが関係(協力)していた。これらの大商人たちにとっては日露戦争の勝敗は、彼らのビジネスに直結する一大事であったということを考えれば、彼らの行動も理解できる面がある。また、軍事、政治、経済は分野を区切って語れる性質のものではないということがこういうところからも分かる。



 大正時代の小樽の繁栄を代表したものに、豆撰(マメヨリ)女工と呼ばれるものがあった。
 これは第一次世界大戦が勃発して、菜豆類の主産地であったルーマニヤ・ハンガリー・オランダ等が主戦場になったので、日本からの雑穀、澱粉の輸出が急増して、これに検査規格が設けられたため、小樽市内に豆撰工場が続出し、そこに働く女工が毎朝列をなして通勤し、壮観を極めたものである。(p.131)


当時の世界経済がいかにグローバル化していたかが見て取れる。小樽という都市の歴史を見てみると、経済の展開は、戦争によって大きく左右されていることがわかる。特に日露戦争と第一次大戦では恩恵を受け、第二次大戦は衰退要因を準備している。



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荒巻孚 『北の港町 小樽――都市の診断と小樽運河――』(その2)

 これらの建造物は明治以前、何らのみるべき施設もない未開の土地に入ってきた商人たちが、その後手にした豊富な資金を使って建てたもので、当時としては最高の建築物であった。そのため、小樽の町々を歩くことは日本近代建築史を、そのまま見るようだとよくいわれている。(p.144-145)


前段はやや誇張しすぎという感じもするが、小樽の町並みが日本近代建築史を見るようなものであるという指摘はそれなりに的確な部分があるし、小樽が現在、観光都市としてある程度までの成功や知名度を得ている所以でもあるだろう。



 また、小樽付近に適当な石材が多かったことも、石造り建築が発達した大きな理由であった。(p.148)


小樽の古建築(特に倉庫)の多くは「安物」である。植民地の商業拠点に設けた出張所のようなものである。石材が地元産であるということも、それを示す一つのメルクマールであるように思われる。



 この建物の特徴的なことは、石という古い素材を使って洋風に建てていることや、古来の日本建築の技法を生かしてつくられていることである。このほか保管庫としての石蔵(文庫蔵)や、降雪時に雪囲いの役割を果たしたと思われる飾り袖など、小樽独自の建築様式がみられることも、きわめて貴重なものといわなければならない。
 こうした、石造り建築物は明治30年代以降のものが多いが、これは焼失戸数が2000戸をこえる明治37年の小樽中心街の大火をきっかけとして、盛んにつくられるようになったからである。また、建物の屋根には瓦をつかったものが案外多い。瓦は四季の寒暖の差が大きく、しかも雪が屋根につもる北海道のような気候風土のところでは、あまり適したものとはいえないが、水産物を本州に運搬した帰りの空船が、そのバランスをとるために瓦を載せてきたことが、瓦屋根を使うきっかけとなったらしい。瓦のなかには石見(いまの島根県)のものもあり、かなり遠くから運ばれてきていたことが知られる。(p.149)


小樽の石造(木骨石造)建築の特徴を比較的短くまとめているので抜粋してみた。



 このように、地名一つにしても町の文化遺産として重要である。地名が名づけられた経過についても良く調べ、その付加価値を高める努力をしなければならないだろう。(p.154)


興味深い論点である。



 運河の主たる目的である人工の航路として盛んに建設され、利用されるようになったのは、いまから200年ほど前のイギリスの産業革命以後ということになる。しかも、今日では大規模運河を除いて、中小の運河は鉄道や自動車にその機能を奪われ、人工航路として水運に利用されているものを見かけることはほとんどない。(p.170-171)


運河は、古代から存在するが、その多くはいわゆる近代化とともに使われ、現代に至っては鉄道や自動車に取って代わられている、まさに「近代化遺産」である。

本書は1984年の古い本だが、逆に、古いからこそ今の論者とは少し異なった視点から物がかかれており、面白いと思える点が結構あるように思う。


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荒巻孚 『北の港町 小樽――都市の診断と小樽運河――』(その1)

 また、和人との物々交換意外にアイヌたちは漁獲高の二割を場所請負人に納めることになっており、これを二・八制度といっていた。漁獲期が終わると、運上屋をひらく場所請負人の関係者が各漁場を見回り、漁獲高の査定をして、場所代を徴収した。この見回りを「納屋改め」といっており、アイヌの不正が判明すれば漁場の権利を没収したという。したがって、このような場所請負制度の確立によって、そこに住むアイヌ人は漁法の指導のほか、図2のように和人から慶弔時に心づけや支給品を受けたり、漁具や生活用などの鉄製利器や日用必需品を得ているうちに、交易人から漁場労働者の立場に追いこまれ、アイヌとしての自立と自治が次第に失われていったのである。(p.22)


場所請負制の確立によってアイヌは構造的に不利な方向へと追いやられたという側面があった。



 ところで、この小樽は北海道の開拓拠点として明治二年(1869)、札幌に開拓史の役所が置かれるようになってから、その外港としてクローズアップされ、積極的な町づくりが行われるようになった。その意味で小樽もまた札幌と同じく、政府の指導のもとで拓かれた、一種の官制都市であったともいえる。(p.25)


重要な指摘であるように思われる。少し前に読んだ「おたる案内人」のテキストなどでは、天然の良港があり、鰊の需要が高い時期に安定した漁獲があった地域であり、石炭の積出港となったことなどが小樽の発展の要因であるとして説明されていたように思われ、あたかも民間資本の力によって成長してきたかのような印象を抱かせている。

しかし、札幌に開拓使が置かれた外港として位置づけられたことや、鉄道や港湾開発も政府の施策であったことなども含めて考えると、やはり官制都市であったという側面は過小評価すべきではないだろう。イメージが悪いので観光客にはあまり知らせたくないのだろうが。



 この手宮駅のあった手宮町、末広町、錦町、豊川町などのいわゆる手宮地区は、明治の頃は小樽の中心地であって、海陸の物資の中継点として賑わった地域でもある。ここには鉄道の管理事務所、機関庫、操車場などがあり、近くに日本郵船をはじめとする海上運輸の事務所も数多くできて賑わいをみせ、図5のように地価の高い地域であった。(p.30)


旧日本郵船小樽支店や小樽の倉庫の中でも古い明治20年代の倉庫などが北運河(手宮地区の方面)に多いのは、こうした事情によるのかもしれない。ただ、明治の頃には、この地域は「小樽」ではなく「高島」であったように思われるが。



 札幌と小樽との間の鉄道は、明治五年(1872)、新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開通してからわずか八年後のことであって、全国でも三番目に古い。また、1830年、イギリスのマンチェスターとリバプール間に世界最初の汽車鉄道が走ってから、わずか50年後のことであった。こうした鉄道敷設の創始期には多大な資金調達の困難さと住民の誤解からくる抵抗と、既存の輸送利益集団からの反発などが付きまとうものであるが、北海道のような新天地での鉄道敷設では、このような障害もほとんどなかったという。(p.30-31)


札幌-小樽間の鉄道がいかに早期に建設されたかということがわかる。こんな片田舎に鉄道が普及するまでに50年しかかかっていないという事実から、鉄道普及の速度に驚く。(もっとも、当時の鉄道の主要目的は公共交通機関というより産業用の輸送手段という側面が現在と比べると遥かに大きいということは考慮すべきであろう。)

幌内鉄道は日本で三番目とよく言われるが、この数ヶ月前に岩手県の釜石に開通した鉄道があり、本当の三番目はこの「釜石鉱山鉄道」である。ただ、これは数ヶ月くらいしか運行しなかったので、あまり有名にならなかったということらしい。

北海道での鉄道敷設にはほとんど障害がなかったということについては、当時、北海道は人口が少なかったことや当時は北海道の人々には選挙権もなかったこと、現在よりも遥かに強権的であっただろう政府の施策として鉄道が敷かれ、そこに商機や雇用機会を求めて移住した人がほとんどだったことを考えると、反対が起きないことも当然であろう。



 明治の中頃まで、海運ルートによって全道を掌握していた函館商圏は、釧路や旭川や名寄まで鉄道が開通することにより、小樽商圏に吸収されて、図7のように小樽商人に道央や道東に進出する機会が与えられることになったのである。(p.31-32)


大雑把に言って北海道の東は函館、西は小樽の商圏であったが、海運だけでなく鉄道網の発達は、函館よりも小樽に有利に作用した。明治20年代から大正期(昭和初期)まで小樽が急速に発展していく要因の一つとして、北海道の鉄道網の発達も挙げられるようだ。



 ところで、北海道での市制施行が本州の都市と違って、なぜ遅れたのだろうか。日本では明治21年(1888)に市町村制が公布されたけれども、北海道には適用されなかったからである。翌明治22年には大日本帝国憲法も発布され、23年には第一回帝国議会も招集されているが、北海道の人々には沖縄県民や小笠原諸島の住民とともに選挙権すら与えられなかった
 このことは、北海道が依然として北海道長官の専制権力のもとにおかれた植民地であったということができるだろう。


小樽や札幌に市制がしかれたのは大正11年(1922年)のことで、34年ほど本州より遅れている。当初は北海道や沖縄の人々には選挙権が与えられなかった。植民地であったという事実をこれ以上に鋭く語る事実もないのではないか。



 しかし、明治10年代の小樽は海産物のほか商取引もほとんどなく、町中が活気に溢れるのは夏場だけという状態が続いた。明治20年以降は石炭積み出しの設備や船舶も近代化され、さらに、大規模な埋め立て工事も行われるようになったが、そこに税関・水上警察署などの港湾機関や倉庫など建てられはじめ、道内への鉄道網ものびると、小樽の商圏は急速に拡大していったのである。

穀物輸出に湧く町

 したがって、小樽の目ざましい動きは日清戦争を契機とする、明治20年代後半以降といえるかもしれない。しかも、日露戦争で南樺太が日本領になると新しい開拓地の中継拠点として脚光を浴び、大正三年(1914)にはじまった第一次世界大戦の頃からはヨーロッパに向けての道内の農産品(澱粉・豆類)の輸出港として注目を集めはじめたのである。(p.39)


小樽という街の経済の発展をきわめて簡潔かつ的確に示していると思われる。

小樽の経済の展開を見ていく場合、戦争を契機として一挙にステップアップしていったという側面は無視できない。特に日露戦争による南樺太の獲得ほど大きな要因はないだろう。明治15年の幌内鉄道の全通により石炭の積み出し港となる基礎が固まり、明治20年頃に港付近の埋め立てもかなりの程度完成し、明治22年に特別輸出港、明治32年に外国貿易港に指定されることで制度上も繁栄の基礎が固まった。明治41年に完成した北防波堤などもあり、大正時代の前後が小樽経済の絶頂期であったと考えられる。

ここでは指摘されていない点は、この時期を一貫して鰊の移出港としての側面があったことくらいだろうか。



とくに交易の対象地を失った日本海沿岸の諸都市の衰退は著しいものがあった。(p.76)


戦後の日本の経済の情勢をマクロに見たとき、日本海側の諸地域は従来の交易の対象地が「東側諸国」であったために、交易地を失い経済的に苦しい状況に置かれることとなった。西側に組み込まれたためにアメリカや太平洋に開かれた地域が相対的に有利となった。

このあたりの事情は、台湾を見るときに経済圏のボーダーが台湾の東にあるか(太平洋を経由した貿易圏に入るか)西にあるか(中国との交易が主となるか)によって経済状況が変わってきたという議論と共通した見方ができ、興味深いものがある。台湾の場合、主要な港湾が基隆と高雄であって、南北の端にあるので、島内の東西という見方にはあまりならないが、日本の場合はそれとは異なっている。

ただ、冷戦後になると日本海側は交易圏がいくらか回復しているという点では良い状況におかれることになるのだが、日本列島自体が持っていた地政学的な優位性が失われるため、プラスマイナスすると結局マイナスになるところが多いようにも思われる。小樽の場合、ロシアや中国の東北部などが商圏だったと思われるが、ロシアの極東は比較的貧しい上に、以前は売れまくっていた中古自動車も高額の関税がかけられてから交易は停滞したままであって、あまり明るい見通しは今のところなさそうである。



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別枝篤彦 『戦争の教え方 世界の教科書にみる』

 私は同じ民族の国であるオーストリアにひどい傷を負わしたくなかった。不必要な苦い感情や復讐心を決して残してはならないと思った。ヨーロッパという大きな舞台を考えれば、われわれはどうしても友人でなければならない。
 もしオーストリアがひどく傷つけばそれは当然フランスの味方となり、ことごとにわれわれに敵対してくることは明らかである。プロシアに復讐するためには、その伝統的な反ロシア的感情でさえ捨ててこれと結ぶ恐れがある。われわれの仕事はただプロシア王の指導下でのドイツ諸国民の統一の確立にある。(p.94-95)


ドイツの教科書でビスマルクの回想記を引用している箇所からの抜粋。

すでに敵対している勢力に対しては中立化し、敵対していない勢力に対しては味方につけるということが、外交と安全保障における考え方の基本(自らの立場をより有利にしたいのならば基本的に採用すべき方針)だと思うが、ビスマルクはまさにそうした考え方をしていたようだ。南京事件などを引き合いに出して中国の人などから日本が非難されることがあるが、これは残念ながら当時の日本政府や日本軍がこうした基本的な事項をよく踏まえていなかったために起きてしまっている不必要な摩擦である。(当時の日本政府や日本軍は馬鹿なまねをしてくれたものである。)

本書によると「つねに政治を軍事に優先させること」がビスマルクのやり方であったそうだが、当時の日本はまさにそれができていなかったということである。



 ところで奇妙に思われるのは共産圏諸国の教科書である。
 たとえば中国の国定の高校用「簡明世界史」(北京大学編、1974年初版)では、太平洋戦争を終了させたのは原子爆弾の投下より、むしろ中国人民の勇戦、ことに1945年8月9日、毛沢東が「これこそ最後の一戦」と全軍を激励して日本軍に総攻撃をかけた結果であるとしている。原子爆弾投下の事実にもふれてはいるが、「原子爆弾だけが日本を降伏させたのではない。原爆だけで中国人民の闘争がなかったなら、原爆といえども空弾に過ぎなかったのである」との毛沢東の言葉をかかげている。まして原爆の被害の詳しい記述などは少しもみられない。
 この教科書は、もちろん全体がマルキシズムのイデオロギーで一貫して述べられてはいるが、原爆の具体的事実をもっと記述してはどうかと考えられる。それとも自国で核兵器を開発中の中国としては、故意に詳しい記述を避けたものであろうか。いずれにしても他国の教科書の内容を批判する前に、まず自国の教科書が史実の客観性に忠実であるかどうか(たとえばさきの8月9日の毛沢東の総攻撃命令は、それが事実としても広島・長崎への原爆投下後であることは何ひとつふれていない)を考慮すべきであろう。その他ソ連など共産圏諸国の記述については後述する。(p.174-175)


当時の中国の教科書に対する妥当な批判であろう。中国の場合、ここまで酷いかどうかは別としても、現在もこうした傾向は引き継がれているであろうから、昨今のように中国の勢力が台頭している状況を考慮すると、客観性に乏しい世界(歴史)認識を有する人々が勢力を増していることにはある種の危うさを感じる。



侵略者は何かを獲得するために戦争へ突入するのであるから、協定によって平和的にそれを得る準備も、すでにできているのが常である。(p.190)


確かにその通りであろう。その意味では戦争というのは先に攻撃した側が道徳的には悪いとしても、攻撃された側にも政治的な落ち度がないとは言えない。戦争が始まってしまった後、どのように収めるかということは、まさに政治の領域に属する。

また、第二次大戦以前のように政府対政府の対立で、政府がその国に属する国民を動員して戦うという場合、意思決定も政府にほぼ一元化されているため、まだよかったが「テロとの戦い」などでは、協定する相手が存在しないという点で以前の戦争よりも遥かに難しいものとなっているように思われる。



 近年ヨーロッパ各国の間では外交的な配慮から当事国がたがいに「歴史の恥部」を教科書から削り去ろうという動きもみられる。たとえば現在西ドイツとポーランド両国の間では委員会が設けられて、たがいの使用教科書を改訂する作業が進められている。これは両国の平和的共存が進行するにつれて、たがいの憎悪をかきたてるような記述をやめたいという願いから出たものである。(p.206)


本書は1983年に単行本が出ていたので、「近年」というのは70年代頃のことであろう。

ここで紹介されているのは賢いやり方の一つであるように思われる。

ただ、「歴史の恥部」を全く教えないとすれば問題だろう。そうした「歴史の恥部」を教えることによって、未来へ向けた反省を促すということは重要な教育である。ただ、そうしたものを教えることによって――中国の愛国主義教育などがわかりやすいが――「敵」への憎悪を掻き立て、むしろ「反省」ではなく「復讐」へと向かうとすれば問題はより深刻である。

「歴史の恥部」を客観的に示した上で、それを未来へ向けた「反省」という帰結に導くように教えなければなるまい。それは事実を客観的に教えない右翼の「自慰史観」とは全く異なるものである。また、「歴史の恥部」を教えるとしても、右翼的な論者が「自虐的」であるなどと形容することも不当である。反省することと虐げることとは別のことだからである。



そうしたなかでわれわれは各々のナショナリズムが互いを模倣しつつ成長し、また互いに恐れあっていることを発見するのである。(p.241)


ナショナリズムが模倣しつつ成長するというあたりは、例えばベネディクト・アンダーソンのモジュール論などにも示されており、割とよく言及される性質であると思われるが、ナショナリズムの感情を抱く人々が「互いに恐れあっている」という指摘は、思うに、ナショナリズムという「社会化された情緒」の根幹となる要素を指摘しているように思われる。



――私は国が常備軍をもつことに反対する。それは多人数で政府の強い片腕となるからである。私としては個人的人間であることが第一で、従属者となることはそのあとの問題だ。単に政府のすることに何も考えずに協力する人間は、真の良心をもたないといえるだろう。(p.279)


これは19世紀中期のアメリカの詩人兼自然観察者ヘンリー・ソローの意見である。

個人の自由を尊重する立場からの典型的な意見であるように思われる。単に政府のすることに協力する人間も、単に政府のすることに反対する人間も、実際には似たようなものである。ただ、単に政府のすることに協力する人間は、権力を強化するという点で危険性も大きいのであり、その意味では協力する側を主として取り上げることにはそれなりの意味があるように思われる。



 『戦争の教え方』刊行の背景には1980年代初頭の教科書問題があったことをみておく必要があるだろう。80年1月から8月にかけて、自由民主党の機関紙「自由新報」は「いま教科書は 教育正常化への提言」という記事を十九回にわたって連載し、主として国語と社会科の教科書が「偏向」しているという宣伝を展開しはじめた。(p.309)


伊ヶ崎曉生氏による文庫版への解説より。

自民党のこうした動きは、特に90年代以降の右傾化の傾向に乗って勢力を増し、安倍晋三内閣による2006年12月の教育基本法改正によって部分的に成就されてしまったわけだ。理性的とは言えない彼らの主張が30年にもわたって繰り返されている…。


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小野洋一郎 『最新版 小樽歴史探訪』(その3)
小樽市庁舎

 小樽の自治体としての発足は、明治三十二年十月の北海道庁の告示をもって、札幌・函館・小樽に区制が施行されたことに始まる。この時以来、小樽区では、一級、二級、三級の三段階の納税資格によって分けられ、各九名ずつの計二十七名の議員が選出されたのであった。その頃の小樽の人口はおよそ六万二千人、小樽は函館に次ぐ北海道内第二の大都会であった。しかし、それにもかかわらず有権者の数は少なく、わずかに約三百人を数えるに過ぎなかった。その訳は、選挙権付与の条件として二つのことが要求されていたからであった。一つは三年間以上小樽に定住していること、もう一つは決められた額の区税の納入を完了していることである。当時の小樽区は、それほどまでに、住民の出入りが激しく、その貧富の差も甚だしかったのであった。住民の大部分は、区税の負担に堪え得ないほどに貧乏だったのである。また一方、そのことは、小樽区の政治がほんの一握りの富に恵まれた有力者に牛耳られていた、ということに他ならなかった。(p.142-143)


選挙権付与の条件のうち、三年以上定住することが定められていたのは、区制が実施される直前のある事件が影響しているのではなかろうか。すなわち、ある有力者(浅羽靖)が他の地域から人をかき集めて選挙人として登録させ、自らの勢力を議員に就けたという、今ではちょっと考えられないような事件が問題となったことがあったのである。このあたりのいきさつは『小樽文化史』(1974)という本に割と詳しく載っているので、後日、その本を取り上げる際にコメントすることにしたい。

最初の小樽区議会議員の過半数は当時の商業会議所(現在の商工会議所)の議員を兼務していたということは、当時のこの植民地都市の統治の状況として、経済的な権力と政治的な権力がいかに密接に結びついていたかということを示して余りある。

小樽を観光すると、ガイドは「かつてはこの街は栄えていた」として紹介することが多いように思うが、その陰には暗い面もあったことは銘記されるべきであろう。



年間を通じて西風の吹くことが多く、平均風速三メートルの小樽では、特に冬の積雪・融雪期に強風が吹き荒れるのを常として、大火はいずれもこの時期に起きている。(p.144)


明治期の小樽では頻繁に大火が起きたというが、風土の影響があったらしいことがわかる。

小樽の大火の背景となる要因としては、この地域には平地が少ないために建物なども稠密だったのではないか、と想像する。小樽の歴史を調べていて思うことだが、多くの問題についてその背景にある地理的な要因は平地の少なさにあるのではないだろうか?明治期の港の埋立問題然り、小樽運河建設時の政治闘争もこれと絡んでおり、さらには昭和の小樽運河保存運動の際の道路建設もまた同じ問題が背景にある。小樽の特徴である木骨石造倉庫や「うだつ」を持つ商店建築などの背景にある大火の頻発という問題もまた、同じように地理的な問題(平地が少ない)ところに求めうるのではないだろうか。もちろん、それだけが原因であるなどというわけではないが、ブローデル的な「ほとんど動かない歴史」の作用とでも言おうか。

この問題は、私が小樽の歴史を認識する際のかなり重要な仮説である。



 小樽区の理事者たちは、この大火(引用者注;明治37年の稲穂町の大火)を機に、市街地の防火対策と建築規制についての取り組みを強化することを真剣に考え始めた。第一(日銀前通り)、第二(駅前中央通り)、第三(竜宮神社通り)と、三つの防火大通りの実現はこの後のことであった。その他、現在に残る小樽の、古い街並みの特色は、多分に、この頃の施策から生まれたものである、とも言えよう。石造りの倉庫や家屋、隣家との境に設けられた防火袖壁、石造家屋との間に置かれた木造家屋、これらは、当時の庶民たちが考え出した、生きるための生活の知恵でもあった。(p.145)


この3本の大通りは確かに、自動車が走るより前に作られた通りとしてはかなり広い幅を持っていて、防火帯として設けられたと言われれば、なるほどと思わされるものがある。

ただ、三本の防火帯は明治14年に設定されたというが、この稲穂町の大火で第二防火帯(中央通)が拡張されたようだ。ちなみに、中央通は都市景観を改善する観点から2003-2004年頃にさらに拡張されているため、現在は当時の広さとは違う。



右近倉庫

 大正三年には、色内町に営業用の倉庫を所有し、大正から昭和にかけては、倉庫業をも営んだ。だが、その活動の主体は、明治末から盛んになった樺太向けの物資の保管と輸送にあった。その頃の小樽は、樺太経済を動かし、外からそれを支配する重要な役割を担っており、樺太への生活物資を送る門戸であった。(p.191)


大正三年というと第一次大戦が始まり、小樽の経済が戦争の特需で最後の繁栄を謳歌することになった時期であるが、それよりは日露戦争により樺太を経済圏に納めたことがこの都市の繁栄の基礎となっていたようである。



蘭島海水浴場

 明治三十五年に北海道鉄道の蘭島駅が設置され、翌三十六年には蘭島駅と小樽中央駅との間が開通した。同三十八年になると、諸施設が整備されて、海水浴客の訪れが増加した。(p.237)


これと類似の現象は、台湾の淡水という町でも起きていたことに気づくし、元を辿ればイギリスでも同じような現象が見られた。帝国主義(グローバルな金融と資本移動の自由化)による経済の拡張が交通機関の普及につながり、それがレジャーなどにも波及していく様は非常に興味深いものがある。




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小野洋一郎 『最新版 小樽歴史探訪』(その2)
篠田倉庫

 ところで、明治三十年に保税倉庫法が発布されて、全国的に倉庫業を営む者が多くなった。大正二年十一月に、砂糖輸入の必要から小樽でも保税倉庫の開始を見ることとなり、その倉庫の指定も行われた。
 その後、第一次世界大戦期の輸出入の増加と小樽港沿岸の修築による倉庫地帯の拡大によって、倉庫も続々と建っていった。そのうちの一つが、篠田倉庫であった。
 大正末から昭和にかけての不景気は倉庫業者間の競争を激化させ、昭和十年代の事変傾向で活況を呈し始めはしたものの、同十五、六年頃の太平洋戦争勃発前に政府の指導により統制合同を促され、同十九年七月に、市内十七倉庫業者によって小樽合同倉庫株式会社が設立され、合同するに至った。終戦直後の同二十年十一月の解散後も合同したまま残るものがあった。同二十一年六月に発足を見た大同倉庫株式会社がそれである。篠田倉庫は、一時期、この会社に所有されていた。(p.50-51)


倉庫というもの一つをとっても歴史の展開がある。



 明治から大正にかけて、道内や樺太への繊維製品の集散基地としての役割を担っていた小樽では、繊維商人は、海産物商人や雑穀商人と並んで、三大花形の一つに数えられていた。その繊維関係の花形商人たちの結集した小樽問屋同盟会の有力メンバーの一人が、呉服問屋小堀商店を経営する小堀鶴吉であった。(p.80)


海産物や雑穀が小樽の商業で重要な位置を占めるのは割と理解しやすいが、繊維関係もそうだったというのは、意外と理解しにくい気がする。少し理解を深めたいところではある。



堺町本通り概説

 小樽は「坂の街」と言われているが、それは山々を崩して街づくりをしたことによる。
 ここ堺町と言われる土地も、かつては水天宮の山が海岸線に迫っていたのである。そこを、開拓史の時代に山を崩して麓の海岸を埋め立て、港と街を造成したのであった。(p.86-87)


「天然の良港」と石狩平野が小樽の都市を形成する方向に作用した地形的および地理的な要因であったが、都市の形成を困難にする要因としては平地の少なさがある。その阻害要因を減らすために「山々を崩して街づくりをした」のであり、これはなかなか的を射た表現と思われる。

明治時代前半まで海岸の埋め立てが行われ、現在残っている古い倉庫の多くがこの埋め立てられた土地の上に建っていることは、小樽の歴史の本ではよく語られている。しかし、この要素はもっと新しい時代にも効いてきている。というのは、小樽運河が現在のような景観になったのも、この「平地がない」という要因によって制約されているからである。つまり、余市方面と札幌方面を繋ぐ主要な道路が国道5号線しかなく、バイパス的な道路を作る場所がなかったため、運河の一部を埋め立てて道路を作ったのだが、その地理的な背景因も、結局は同じところに帰着する。

ちなみに、この堺町通りの山側は切り立った崖になっている。これを見ると「山々を崩して街づくりをした」というのが視覚的に納得できるだろう。もともとはこの通りの辺りが海岸線であったらしいが、そのことも容易に納得できる。



そして、同(引用者注;明治)二十年代に、林有造や岡野知荘など民間の事業家によって色内町、手宮町の大規模な埋め立てが行われ、砂崎町、南浜町、北浜町が誕生した。やがて、そこに商家が建てられ、石造倉庫が続々建ち並ぶことにもなっていった。(p.87)


埋め立てられるとすぐに続々と倉庫が建ち始める。当時はそれだけの必要に迫られていたことがわかる。



木村倉庫

木村商店(明治四十四年十二月には、本社を稲穂町に置く木村合名会社)が営業倉庫業者として台頭するのは、大正の時代に入ってからのことで、折からの海運ブームや雑穀ブームの波に乗ってのことであった。鰊漁の盛時には海産物を収納していた倉庫が、今度は、米・麦・玉蜀桼・大豆・小豆などの農産物で溢れるようになったのである。第一次世界大戦によるヨーロッパの食糧不足が、このような現象を招来したのであった。(p.92)


こうした産業の変化の詳細も今後調べてみたいポイントの一つである。



寿原邸

 小樽では、明治二十九年の大火以後、商人や実業家たちの間で、店舗とその住居を分離し、住居は眺望のよい高台に建てることが流行した。この建物は、その好例で、大正元年に、和風の木造二階建ての住居として、小樽港を見下ろすことのできる水天宮の高台に建てられたものである。(p.108)


流行したのは何故だろうか?



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小野洋一郎 『最新版 小樽歴史探訪』(その1)
はじめに断っておくと、「最新版」と銘打っているが、本書は1999年のものである。

小樽駅舎

 開拓使によって敷設された北海道炭礦鉄道会社の経営下に入っていった。それから十年、民間において「函館-小樽間の鉄道の実現」を要望する声が高まった。そうした世論を背景として、渋沢栄一や北垣国道らの尽力と苦労の末に、同三十二年十月に開かれた会社創業総会において、北海道鉄道株式会社が設立されることとなった。経済界の不況及び企業としての収益採算に疑問を抱き投資を渋る者が多く、資金難に遭遇しながらも、やっと政府の補助金を獲得できる目処がついて、同三十四年に鉄路の敷設に着工することができたのであった。これには、日露両国間の情勢の険悪化が微妙に作用していた。時の陸軍大臣は、閣議において『北海道鉄道の軍事上の必要性』を強調し、「旭川の兵鎮と函館要塞とを連絡して動員及び兵站輸送とを自由にする」ことを力説したのであった。(p.14-15)


現在の「小樽」駅は、日本の一般営業用鉄道として3番目に作られた幌内-手宮(小樽)間は北海道炭礦鉄道会社が営業していた手宮線では使われておらず、現在の函館本線にあたる別の鉄道路線(この引用文の北海道鉄道㈱によるもの)で使われており、駅名も「小樽中央」駅だった。

この路線が作られる際に補助金が一役買ったようだが、その背景には日露の関係悪化(実際、この駅ができた1903年の翌年に日露戦争が勃発する)とそれを念頭に置いた軍事的な思惑があったという話。

もちろん、このときの駅舎は現在のものではない。現在のものは昭和9年(1934年)竣工の3代目である。



小樽の旧ウォール街概説

銀行の小樽への進出は、三井銀行や日本銀行がいち早く、それ以外の銀行も大部分が明治時代末年から大正を経て、昭和の初年にかけてであった。この間に、小樽の大発展が見られたことを雄弁に物語っている。国内商業活動は勿論のこと、外国貿易にあっても進展はめざましかった。第一次世界大戦の頃には雑穀の輸出が盛んとなり、第二次世界大戦が勃発するまでそれは続いた。小樽の活況に歩調を合わせるかのように、各銀行も隆盛の一途をたどった。しかし、第二次世界大戦が敗戦に終わり、樺太の喪失や沿海州をはじめとする諸外国との貿易の途絶に近い状態等は、その後の小樽の港と街の衰微を招く元ともなった。やがて、陸上運輸の著しい発達もあり、北海道経済界の札幌への中心移動があって、昭和三十六年の住友銀行を皮切りに、各銀行は小樽から支店を続々と引き揚げていった。(p.22-23)


詳しくはわからないのだが、三井銀行が早期に小樽に進出したのは、明治15年に開通した幌内-手宮間の鉄道の払い下げを受けて経営していた北海道炭礦鉄道会社が三井財閥のグループであったことと関係しているのではないだろうか?

また、肥料として高く売れていた鰊の価値が下がってきた頃に、第一次大戦によって雑穀という商品が入手できたことによって経済的な繁栄をある程度続けることができたことも、この街の歴史を見ていく上では重要なポイントになる点だろう。

昭和36年(1961年)頃から急速に斜陽化が進むようだが、これは恐らく戦後の統制経済によって行政の機能などが札幌に集中したことによる効果が現れたためではないかと推察される。また、絶対的貧困が存在した戦後まもなくの時期と比較すると経済的にも自由化が進んだことによって「優先的選択」が行われた結果、隣に札幌という大都市がある小樽からは容易に経済主体が退出し、札幌へと移転することができたのだろう。



梅屋商店

 大正四年頃に結成された伝統ある繊維関係の小樽問屋同盟会は、既得権や積立金計算の問題などがからんで、一切の新規加入を認めていなかった。そこで、加入できない新興の洋物問屋仲間は、寿原英太郎を会長として、小樽洋物卸商組合を設立して対抗した。梅屋は、建物自体の建築年代は古いけれども、洋物の扱いは新しく、その新興の卸し問屋の一つであった。隣の塚本商事とは、何かにつけて対抗関係にあった。(p.39)


こうしたエピソードを知りながら現地を訪ねると面白さも倍増するだろう。



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