アヴェスターにはこう書いている?
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小樽多喜二祭実行委員会 編 『ガイドブック 小林多喜二と小樽』

 1880年、北海道最初の鉄道が手宮・札幌間に開通以来、小樽は北海道の玄関口として発展の一途をたどった。石炭、木材、海産物などが小樽港から内地府県へ積み出され、かわりに米・酒・衣料・金物・雑貨など、あらゆる消費物資が小樽に陸揚げされた。小樽商人は日本海沿岸から利尻・礼文・オホーツクの知床西岸にまで足を伸ばし、北海道東海岸一帯を支配していた函館と商圏を二分した。1899年、小樽は開港場に指定され、朝鮮、中国、ロシアと結ぶ国際貿易港になった。(p.8)


鉄道により石炭だけでなく北海道の内陸部との物資の交易ができるようになったため、北海道と道外とを結ぶ結節点となったことにより小樽は発展した。これ以降1930年代までが繁栄していた時代である。

小樽の商人が知床まで足を伸ばしていたということには少し驚く。また、函館との棲み分けがあったことも興味深い。

国際貿易港となった交易相手の多くが旧共産圏であったことも、戦後の小樽が「斜陽化」した背景因の一つだろう。昨今、ほぼ1年前である2009年2月に小樽とソウルの江西区が友好都市提携したことや中華圏からの観光客が増えていること(香港や台湾が多かったが、今後は中国大陸からも増えるだろう)などは、冷戦時代が終結して再度、極東の経済的結びつきが強まっていることを示しているようで興味深い。なお、1,2年前まではロシアへの中古車の輸出が小樽港のかなり重要な輸出品目となっていたが、ロシアが関税を上げて急速に冷え込んでおり、これも小樽の地理的な位置からはユーラシア東部との往来が如何に重要かということを反映していると思われる。

その意味では、冷戦時代よりは現在の方が小樽の「地の利」は相対的には良いのかもしれない。



 1905年6月、ポーツマス講和会議に先立って日本はあわよくば樺太(サハリン)全土を手に入れようとにわかに樺太上陸作戦を開始した。7月、小樽を出港した樺太侵攻艦隊は難なく樺太を制圧して軍政をしいた。この後樺太から軍が撤退する8月下旬まで小樽は軍港化され、樺太作戦の重要な補給基地となった。(p.8)


小樽港が軍港化された時期があるということは、あまり語られない事実である。

いわゆる帝国主義の時代に、日本政府のその時代に即した行動によって植民地化されながら日本に取り込まれた北海道だったが、国民国家の国境内にあることが完全に固まった後は、その北海道自体が外部拡張の足場となった。小樽は国内取り込みの際にも海外進出の際にも拠点となった場所であり、日本のいわゆる「近代」や「帝国主義」の歴史的記憶が豊富に残っている都市として貴重である。

このあたりが私が小樽という地域を研究する際の基本的な視座のひとつとなりそうな気がする。



 石川啄木は1907年9月に『小樽日報』の記者となり、急成長する小樽の町のあわただしさを記事にした。(p.10)


啄木は小樽をあまりよく思っていなかったようだが、当時の小樽は、昨今の中国の都市部のような急成長ぶりだったであろうから、現在の小樽の「少しゆったりしたレトロな雰囲気」とは相当違っていたものと想像される。



 北海道には内地府県にはない特異な風土と環境があった。………それは近代日本の中で、最もおくれた前近代的な強烈な抑圧と搾取が公然とまかり通っていたということである。出稼ぎ・移民・タコ労働者………北海道の開発はそれら生身の人間の無残な使い捨ての上に強引に進められてきた。(p.10-11)


こうした環境であったからこそ、多喜二の文学作品が生まれ得た。本書を読むとその点がよく理解できる。



 第一次大戦当時、小樽商人は海運ブーム・雑穀ブームなどの戦争景気に酔いしれた。船腹の不足で船賃が上がり、老朽船もフル動員。中小船主も大いに稼ぎまくった。ヨーロッパの雑穀産地が戦場になり、グリンピースなど豆類の輸出が急増し、思惑買いも重なって雑穀相場は高騰した。十勝の青豌豆や小豆などの雑穀が小樽に集められ、おおぜいの豆撰女工の手で等級ごとに選別された。小樽の商品取引所(地図I-9)で相場が立ち、小樽港からぞくぞくとヨーロッパへ向けて輸出された。小樽の相場はロンドンの市場に直結すると豪語したものである。
 ……(中略)……。小樽の活況は函館をしのいで全道一、そののち1930年代半ばの「昭和恐慌」までつづいた。小林多喜二が創作活動に入ったちょうどそのころが小樽の黄金時代。(p.21)


それ以前は石炭と鰊が重要な輸出品だったが、鰊が大正後期には次第に不漁と代替肥料の登場による需要減などが重なって商売にならなくなってきたが、鰊が取れなくなる前に日露戦争で樺太という商圏が拡大され、第一次大戦によってヨーロッパの穀物市場にまで手を伸ばすことが出来たのは、商人にとっては幸運だったと言えるだろう。この時期に巨万の富を得た商人は多かったようで、現在に残る小樽の歴史的建造物も彼らが残したものは少なくない。



 運河にかかる橋が7本。荷物を満載した艀が橋の下をくぐって通れるように、橋桁は水面から3.5メートル以上にかさ上げされていた。どの橋もみな橋の袂には土を盛って、路面がゆるく隆起していた。昔の形を残しているのは、今はこの北浜橋ただ一つ。運河と艀と倉庫と、港湾荷役の三位一体の仕組みを知ることができるのは、この一画だけである。(p.42)


道道臨港線を作る際の運河埋め立ての工事に合わせて、運河の橋はよりフラットな形に変わってしまった。艀の通路という機能を失ったことを象徴しているとも言えよう。



 いわゆる明治・大正の建物も、近ごろようやく歴史的建造物として評価の対象となってきた。かつて北海道一の商都を誇った小樽の町並みは、太平洋戦争中さいわい戦災をまぬがれた。戦後嵐のような列島改造の中で、幸か不幸か高度成長の波にとり残され、小樽の歴史的な町並みとエキゾチックな建造物の多くは、無残な破壊を免れて今日におよんでいる。
 ……(中略)……。
 小樽はそっくりそのまま日本近代史の生き証人であり、日本資本主義発達史の貴重な実物教材となっている。(p.57)


戦災を免れ、高度成長による破壊をも免れることで生き残ってきた明治・大正の建物と町並み。それが日本の近代の歴史の「貴重な実物教材」であるという指摘は同感である。この点に関しては、台湾も同じであると私には思われ、両地域が最近の私の興味を引いているわけだ。


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小笠原克 『小樽運河戦争始末』

 小樽倉庫は明治26年、当時の船会社経営者や、地主ら七人の共同出資で建てられた歴史的風格ある石造倉庫だ。屋根には八基のシャチが躍り、小樽のシンボルとして親しまれてきた。
 城下町でもない小樽に、しかも、倉庫にシャチホコがあるのは全国的に珍しい。倉庫が町発展の核としての役割を果たしていたことを物語るもので、当時の小樽商人の心意気をも示している。(p.14)


小樽倉庫は現在、「運河プラザ」や博物館の別館などが入っている建物で、小樽駅からまっすぐ坂を下っていくと運河と出合うところにある。昭和60年(1985年)に92年ぶりに復元されたというから、今は普通にあるように思えるシャチホコだが、実は長いことない状態が続いていたらしいということを本書で知った。



 そこへ、明治13年、色内・手宮地区を貫く幌内鉄道が開通したことは、その翌年の大火で勝納一帯が灰燼に帰したことも伴って、小樽の市街地が北へ動く変化をもたらし、入船地区から色内地区にかけて官民の施設が移り、賑わいを見せてきた。
 港も急速に発展した。その機能拡充の必要から、大規模な海岸埋め立てが進められ、オコバチ川から手宮地区にかけて、南浜、北浜地区3万8000坪、さらに南接する砂留、有幌地区9000坪が埋め立てられ、新たな船入澗と市街地が造成されたのである。明治20年から26年にかけてのことであった。そして、早くも23年には、南浜に小樽倉庫(シャチホコのある倉庫)の石造倉庫一棟が新築落成したのである。(p.24)


港の機能拡充のための埋め立ての時期と現在の運河周辺(当時は運河はない)の倉庫群の初期のものの造成が同時期であったということは銘記しておきたい。



 運河の山手にある倉庫は明治年間のものが多く、明治ということでお判りのように運河の出来る以前のものです。(p.32)


運河より先に倉庫があったというのは、現在の情景からするとちょっと想像できず、意外性があるように思う。

また、運河の山手にある倉庫と海側にある倉庫で年代が違うというのも面白い。



 統計によりますと、明治24年には小樽市内の石造営業用倉庫は41棟、明治31年には108棟、38年では141棟、41年で171棟というのがピークです。(p.32)


小樽の経済の最盛期は日露戦争終結後の1905年(明治38年)から1930年代頃までなので、倉庫の数のピークは小樽の経済のピークが始まる頃であるということは、その後の発展のための基礎的な投資がなされた後、ビジネスモデルが変化しながらも繁栄を続けたように見受けられる。

北前船のビジネスが終焉を迎えるのは明治末期だから、北前船から西洋型の蒸気船での運搬が主流になることによって倉庫は不要となっていったものと思われる。また、第一次大戦の際に小樽は雑穀をヨーロッパに売ることで儲けた商人が出たというが、船がそれまでの間に変わっていたということもその背景をなしていたのだろう。



 屋号を調べること、それがどういう人であるかを調べることは、同時に、小樽の商業の歴史を調べることです。……(中略)……。
 こうした屋号は、函館ではもう無くなりましたし、札幌では探そうたって無理です。小樽でしか出来ないことであります。(p.33-34)


興味深い論点。



 それから、この計画に携わった人の中に、田辺朔郎という人がいます。この人は琵琶湖の疏水を作った人です。実はあの疏水は田辺さんの卒業設計だったのです。それを直ちに京都の知事がとり上げたものなんです。当時の工学学士というものは、実に偉いものだた、ということを感じます。
 小樽運河では広井勇さんが有名ですが、この田辺さんが上司にいてかなりの決定権を持っていたことは、余り知られていないので、この機会につけ加えたいと思います。(p.34-35)


昔の学士は偉かったと言っているが、当時はそれほどまでに人材が不足していたということであろう。

広井勇は小樽港や小樽運河の絡みでは非常に良く出てくる。しかし、土木工事というのは個人で出来るものではないのだから、英雄史観に陥らずに叙述されるべきだと思われる。そして、これは建築に関しても言えることだろう。

ただ、旅行ガイドや簡単な解説などではどうしてもわかりやすい方に流れてしまいがちであり、その辺のバランスというか紹介の仕方というのは実はなかなか難しいものがあるように思われる。



 “銀行の去った町”というタイトルのテレビが放映されたことが雄弁に物語るように、昭和36年の住友銀行を皮切りに、協和、勧銀、三和、第一、東京、三菱、富士などの大手都市銀行が、10年以内にすべて札幌へ支店を移してしまう。一方では、機械や施設の近代化で、艀に頼る沖荷役から埠頭での接岸荷役に切り替わり、鉄道から自動車へと主役が変わる。このような状況下で、“運河無用論”がささやかれ始める。運河は小樽斜陽化のシンボルだというわけだ。(p.36)


1960年代の10年間で小樽から銀行が去っていった。昭和41年(1966年)に運河の埋め立てが決定されるが、確かにこれだけのペースで銀行が去っていく状況下では、行政や経済界が焦るのもわかるような気がする。



 もともと、昭和41年に事業決定した道道臨港線の当初計画では、運河埋立ては49年4月と予定されていた。しかし、あのオイルショックによる国の公共事業抑制策のあおりを受け、工事が一時ストップされていた。出遅れていた保存運動に“時の氏神”がほほえんだかのようだった。(p.60)


幾つもの要因が複雑に重なることによって事件が推移したことがわかり興味深い。



 この動きを見ると、≪守る会≫陳情を、道議会が採択し、その意を体して道教委が小樽市教委に<調査、対策>を通達したことの重さが、設立総会にはずみをつけ、反面、小樽市当局に本格的な“守勢”を取らせたありようがうかがえる。(p.92)


設立総会というのは、昭和50年6月24日の「小樽運河を守る会」の設立総会のことである。

昭和50年3月14日に道議会は守る会の陳情を本会議で採択し、5月23日に道教委から市教委あてに通達が出ている。

市民運動の陳情の効果が波及していくプロセスというのはなかなか見えにくいものなので、興味深いものがある。



 運河、石造倉庫群、歴史的建築物の沿革、現況を説明するなかで、「色内通りに沿って南北には商社や問屋、裏には回漕店、倉庫業、港湾の諸施設、西には小売商店がひろがり、そのままの様相で現在の市街地構造として引き継がれている」と結び、木骨石造建築物を基に市街地形成の過程をはっきりとどめているのは全国に例がない、と結論づけています。(p.112)


市街地の展開。



 さて、あえて運河保存を表明しない、というのが≪ポート≫であった。小樽市民、そして近郊や札幌の人々が、楽しむために運河べりに集まってくることが第一義で、≪ポート≫は結果として≪運河問題≫を考える場の提供となればよい、という一種の役割分担策を建前とした、と眺めることができる。
 実行委員長の渡辺さんは、「今後、小樽の観光資源を考える会などをつくってポート・フェスティバルの精神を持続させたい」と語った(『北海道新聞』)。
 保存派がらみではなかった実行委員にも、たしかな手ごたえが残った。“小樽の顔”である運河の“観光価値”を強く実感した人々が自然とふえてくる。まつりは終わったが、運河問題を含めてこれからの小樽をどうしていくか。斜陽の町から抜け出すために、≪ポート≫をやり遂げた精神を持続しなくては――。
 こうして一ヵ月後の53年8月13日、≪小樽夢の街づくり実行委員会≫(略称=夢街。委員長は佐々木興次郎さん)が誕生した。(p.157)


少し前に「おたる案内人」のテキストを読み、小樽運河問題の際にいくつかの市民運動の団体が出来たことを知ったのだが、テキストを読んだだけではそれぞれの団体の意味やポートフェスティバルの持っていた意味などが十分理解できなかった。本書によってようやくそれらの位置づけが見えてきた感がある。

「ポート・フェスティバル・イン・オタル」というイベントは運河周辺に人を呼び出すことで「実績」を作り、また、その中で運河問題を考える場を作るという形で保存派の中核である「守る会」をサポートし、運河問題に関心を持つ人の裾野を広げることが目的であり、観光による街づくりという観点から運河を活用するという方向性でそれを展開していくのが「夢街」ということなのだろう。

また、本書の著者が所属していた「小樽運河問題を考える会」は運河とその周辺の木骨石造倉庫群を「文化財」として捉えることで、保存しようとする文化人の集まりであり、とにかく運河を保存するという一点だけで集まろうという「守る会」とは観点が若干異なっていたということも本書を読んでわかったことである。

市民運動を展開する際、複数の視点から複数の団体が立ち上がり、それぞれが独自性を持ちながら連携していくというのは、難しい面もあろうが興味深い戦略でもある。



 幅40メートルの運河を17メートルに狭め、六車線の自動車専用大幹線が、歴史的文化財的町並みのド真ん中を昼夜疾駆したならば、景観との<共存>も<有機的結合>もあったものではない。児戯に類する机上の作文を楯どる小樽市当局の≪文化≫感覚の貧寒さは、まさに痴呆的である。(p.201-202)


飯田勝幸氏によるいわゆる「飯田構想」に対する筆者の批判であるが、飯田構想が現実化し、そこに多くの人々が観光客として来ている現状から見ると「批判のための批判」に聞こえてしまうし、最後の一文などは単なる誹謗中傷でしかないことが露呈してしまっている。

残念ながら、これが当時の保存派の、しかも「文化人」として保存を主張していた人による当局批判の実情なのである。



 運河と石造倉庫群の町並みについても、市長や市教委は、これを≪文化財≫と認めることを避け通してきながら、いつの間にやら(天下の大勢に押されて)しぶしぶ認めた形になっているのも、主体性の無さを物語る。(p.202)


この箇所などもまさに「批判のための批判」ないし「非難のための非難」であるように思われる。むしろ、保存派の主張する文化財としての価値を当局が認めたならば、それを積極的に評価し、当局はどのように、また、どの程度まで文化財としての価値を認識しているのかを問うべきであるのに、著者は単に自分と意見を同じくしないというだけで当局を全否定しようとするかのような姿勢となっている。こうした独善性は「守る会」の終盤における分裂などにも見られたものであるように思われ、当時の保存派は半ば原理主義的なセクトと化してしまっていたようにすら見える。



 しかし、この<保存運動で培ったもの>を、何に、どう活かしてゆくか、そこに≪小樽=運河≫に寄せた全国各地の人々の耳目が集まっている。いわば新しい≪教科書≫づくりの行方が問われているのだ。私が、≪運河戦争≫は終わったが≪小樽運河問題≫を終わらせてたまるか、と素志の持続を想望するゆえんでもある。(p.270)


運河戦争は終わったが運河問題は終わらせてはならないというメッセージは非常に重要である。


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田村喜子 『小樽運河ものがたり』

 「札幌の創生川や京都の高瀬川、それにアムステルダムやロッテルダムの運河は、荷物を内陸に運ぶ水路として開削されたものだ。本来の目的は運輸路だ。小樽運河の場合はそれと少し違うことがわかるだろう?」
 飯田は学生たちに語りかけた。
 「山から土を持ってきて海に島をつくったのだ。そのとき元の海岸線との間に海面を残した。その幅が40メートル、この運河だよ。小樽の場合は沖で荷を艀に移し変え、この運河を利用して陸に運び込んだのだ。だから、幅は広いが長さは1キロ余りの短いものだ。ただね、この運河は直線じゃなく、自然の地形、つまり海岸線にあわせて緩くカーブしているだろう。この湾曲したところがいいねえ」(p.55)


小樽運河の特徴を簡潔に記している箇所。ここが観光名所たり得ている所以も、この湾曲した景観によるところが大きいように思われる。



 鉄道や自動車が未発達の時代、運河は人や物資を内陸部へ運ぶ交通路だった。アムステルダムやロッテルダムなどヨーロッパの運河は、あるときは緑濃い森を抜け、またのときは彼方の丘に古城を遠望し、沿岸の家並みを水面に映しながら、現在も内陸部への輸送路として機能している。小樽運河のように海岸線にほぼ並行し、艀専用につくられた運河は世界的にも珍しいといえる。しかも小樽運河の本来の使命はとうの昔に終焉を迎え、水面の風情や楽しさといったものは失せ、臭気と不衛生を漂わせているにすぎない。“水面”と呼ぶことさえはばかられる現状である。
 町は生き物だ、と飯田は考えていた。(p.64)


小樽運河が再生される前にはヘドロなどで臭気を放つ不衛生な場所であった。その時代に保存を訴えた保存派の人々の先見の明には恐れ入るものがある。

ただ、保存派の人々からは非難され続けていた「道路派」の人々も同じように再生への見識を持っていたということを本書は示している。小樽運河論争に関してはどうしても「保存派」の意見が多く出版されてきた経緯があるように思うのだが、その点、本書は現在の小樽運河のほぼそのままのデザインを考えた飯田勝幸氏(当時、北海道大学助教授)と志村和雄・小樽市長(当時)を主人公としてこの問題を描き出すことによって、「保存派」の意見だけでは見えてこなかった側面を描き出している点が評価できるように思う。ただ、作家の文章なので、どこからどこまでが創作なのか、あるいはノンフィクションなのかといった部分では疑問に思うところはあるのだが…。

「町は生き物」というのは、かなり適切な捉え方だと言える。機能を活かしうるものについては、それを活かすことが求められ、機能を失っているものについては、もともとの機能とは別の形であっても、他の要素と有機的に組み合わせながら活用するという方向性が見出されうる。その点、(木骨)石造倉庫と湾曲した運河の景観を残すことによって観光資源として活用でき、同時に日本と北海道の近代の歴史をも示しうる遺構として小樽運河が残ったということは、それなりに評価されて良いように思われる。

行政の当初のプランではほとんどすべて埋め立てられてしまうという点でこうした効果は期待できなかったし、「保存派」の全面保存という主張が通っていた場合、逆に今のものより「絵にならない」情景であっただろうから、歴史の証人としての価値は現在のプランよりもずっと高いとしても、観光資源としての価値は現在のプランより劣るだろう。「歴史の証人」というのは「振り返って事柄を認識させるもの」ではあっても「未来に向けて人の活動を継続させるもの」とは違うという点で弱みがあるように思われる。

運河や倉庫はいわゆる「近代産業遺産」であって、何らかの形で活用され続けなければその価値を維持できないのではないか。やや単純化して言えば、古代の遺産は単に「ある」というだけで価値があるが、近代の遺産は必ずしもそうではないのではないか、というのが現時点での私の考えだが、この点についてはまだ十分認識が深まっていない。今後、考えを深めていきたいところである。



 近年盛んにつくられているモダニズムの無機質で冷たくて没個性の建物や町並みとの違い……、と考えてみて、中世のように道路の狭い心安らぐ石づくりの街、小樽に行き着いたのだった。直線的で明快で近代都市のモデルといわれている札幌とはまるで対照的な、あの温かみや情緒性こそ、小樽の財産だと思い当たったのだった。(p.65-66)


中世の町並みとは正直言って小樽の町並みは違うと思うのだが、街路などもあまり計画的に作られた感じがしないという点では札幌のような「碁盤の目」状の都市とは大きく異なっているのは確かだろう。小樽の観光地である「堺町通り」などもかつての海岸線沿いに通りが走っているので、適度に湾曲しており、道も狭く、情緒性を醸し出すエリアだとは言えそうである。

引用文で指摘されている小樽の「情緒性」は、小樽の市街に明快なプランが見えにくいこと、古い道の狭さ、坂の多さなどのために、歩きながら景色が変わるというところにあるように思う。歩いていると景色がゆっくりと変わっていくので情緒が刺激されるのではないだろうか。私は以前、イスタンブールのスレイマニエ・ジャーミィのある丘の上やガラタ塔からの景色などを見ながら、観光都市には坂があることが重要なポイントとなると感じた経験があるが、小樽の場合もまさにそれが当てはまるように思われる。



幅54.54メートルある公用地の海側に19.54メートルの幅で運河を残します。その脇に5.5メートル幅の運河沿い散策路をつけ、道路とのあいだに4メートル幅の境界を入れました。これは排気ガスや騒音などの交通公害の軽減を図るためで、ここに緩衝緑地を設置することで車道部分と分離し、運河の水辺との接触を深めるために、散策道路は緩衝緑地から一段下げました。水面は20メートルに少し欠けますが、散策路の幅を入れますと約25メートルとなり、ゆったりとした水辺空間を修景すると思います。(p.88)


これは現在の小樽運河のプランについての説明の一部である。散策路を一段下げる効果についての説明は、なるほどと納得させられた。細かいところまでいろいろと配慮がなされているということを知ると、実際に行って観察・体感してみたくなってくる。



 反対派は、小樽市の将来のあるべき姿を描いての反対でなく、信念もなく、流行りで行動しているにすぎないと、飯田は歯がゆかった。(p.107)


なかなか興味深い見解である。「反対派」というのは運河を残せと言う「保存派」のことで、「小樽運河を守る会」などの複数の市民団体などである。小樽運河問題は主に「保存派」が文章を書いてきたように思われ、彼らの文章の中ではこうした評価がなされることはなく、むしろ、小樽市当局などに対する非難の声ばかりが書かれるのだが、確かに、マスコミを味方に付けていたという点などでは保存派の方が時流に乗っていたとは言える。

とはいえ、シロウトの市民がやっていた運動としてはそれなりに対案を出すなどの行動はしていたことなどから判断して、「将来のあるべき姿を描いての反対でなく」というのは、必ずしも当たらないのではないか。少なくとも保存派の一部は彼らなりの将来像を持っていたと評価してよいだろう。

ただ、現在の時点から当時の対案を見ると現行案の方が良いように私には見え、その点で「道路派」などと呼ばれていた当時の保守系の人々の見識に対しては、当時の保存派のように一方的な非難をするのではなく、もう少し敬意が払われてよいのではないだろうか、というのが私見である。

「飯田構想」を市当局に必要とさせたという点で保存派の運動には意味があったし、彼らの運動なくして現在の運河はないのだが、だからと言って現在の運河は彼らが作ったというわけではなく、市当局は保存派が非難するほど最悪の選択をしたわけでもなく、むしろ行政は行政なりの将来像をしっかり持っていたと評価したいところである。



 「守る会」は40メートルの運河の幅をそのまま保存しなければ意味がない。20メートル幅に狭められた運河には価値がなく、観光客を呼ぶ目玉にならないと主張しつづけた。
 しかし、先述したように、運河が再生されて以降、観光客数は急増し、20年間で五倍に達した。観光客は運河のほとりの散策路を歩きながら癒され、水面に映る古い石造倉庫群を眺めながら、この街の歴史に思いを致している。(p.156)


40メートル幅の運河でなければ「意味がない」とか「価値がない」という主張は、今から振り返るとやはり行き過ぎた主張であると言わねばならない。「守る会」は観光客を呼ぶ目玉になるかどうかということよりも、歴史や文化などの面から、彼らの「心のふるさと」が失われるというような観点から反対していた節もあるので、観光客が増えても「意味がない」とか「価値がない」と言い続けるのかもしれない。

ただ、そうだとしても小樽運河は周辺に住む人々の「心のふるさと」にするために造られたわけではない。単に副次的効果としてそうした心情を持つ人が現れたにすぎない。この点に保存派の主張の根本的な弱みがあるように私には思われる。

観光客に見せ、多くの観光客が来るということは、やってくる観光客にとってはその場所が彼らの「心に何かを残すもの」たり得ているということではないのか。小樽運河の場合は道内のリピーターが多いので、そう言っても誤りではないだろう。そうであれば「意味がない」「価値がない」というのは言いすぎである。

本当に意味も価値もないのならば、映画や写真やテレビなどで宣伝をしたとしても誰も見向きもしないだろう。

40メートルの幅で残ったとしても、かつてのように艀が行き交うという可能性はゼロであると言って良いであろうし、その意味では完全に元に戻ることはあり得ない代物である。目的を変えて地域の観光資源ということを主目的として活用しても、それは運河の価値を貶めることにはならないように思われる。

また、市民の憩いの場とするという目的もありえただろうが、その場合、市民がそこに足を運ぶ目的がなければならない。市民は彼らが住む市内ではほとんど観光をしないというのは、ほとんどどこでも成り立っている事実なのだから、運河が「市民の憩いの場」となるためには、運河は「見せる」ものではなく、そこで「日常生活に関わること」ができなければならない。もともとそうした場ではないのだから、そのためには巨大ショッピングセンターの出現など(?)大幅な改編を余儀なくされるのであり、そうなれば場は大きく変容せざるを得ない。その場合、運河の持つ情緒性はむしろ失われる可能性が高いのではないだろうか。

かつて保存派の人々やその思想や実践を受け継いでいる人々は、恐らく、かつての保存派の立場からはすでに脱却しているのだろうし、現在の状況をより前向きに活かすにはどうすればよいかを考えているのだろう。小樽では昨今「まちづくり観光」ということが言われているそうだから、恐らくそうであるに違いない。



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野口敏 『誰とでも15分以上会話がとぎれない!話し方66のルール』(その2)

 「弱さ、いたらなさ」はその人の持ち味でもあります。必死で隠そうとすると、結局、自分の個性を殺すことになるのです。(p.78)


話をあまりしない人というのは、基本的にその人が育ってきた環境の中でこうした「弱さ、いたらなさ」を表に出すことができなかった人に多いように思われる。

例えば、子供がそうしたものを言ってしまうと、親がそれを馬鹿にしたり否定したりするといったことなど。親は何気なく話しているつもりだろうが、それが積み重なっていく中で子供はそうした弱さを人前に出すと自分が傷つくということを学んでしまい、結果として様子を見ながら、また、人から否定されないような発言をするよう警戒し続け、その姿勢が身についてしまうことになる。

こうしたケースの場合、問題を本人の努力だけで解消するのはきわめて困難であり、よほど良い環境と意識的な努力とが重ならない限り、解決は難しいように思われる。ただ、難しくとも、本書のように問題点に対する理解を促すことは問題解決への糸口となるため、有益ではあるだろう。



 このように“情報質問”で自分なりのイメージをつかむと、もう聞くことがなくなり話がバッタリ止まってしまうのです。
 情報質問ですと、話し手の答えも短く終わりがちなので、聞き手は常に次の質問を用意しなければいけなくなります。こうして、しだいに苦しい状況に追いこまれていくのです。(p.92)


「事実」だけでは会話は進んでいかない。人の行動のエネルギー源は基本的に「気持ち」にあるため、そこを刺激しなければ相手は動かないというわけだ。本書によれば「気持ち」に焦点を当てると相手のエピソードが出てくるようになり、そうなると相手の中で次々と連鎖反応が起きるため話が出てくる、という。

人との会話というものひとつとっても、意外と合理的にできているものだということに本書を読んで感心させられた次第である。



 それなのに、自分の価値観だけが正しいと決めつけて相手を変えようとすると、人間関係はとたんにおかしくなります。
 こういうときは自分の価値観は横において、「あなたは……なのですね」という言い方をマスターしましょう。……(中略)……。もし彼(彼女)の考えを正すのであれば、叱るよりも質問してあげるといいでしょう。(p.226-227)


これはかなり有効な方法。



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野口敏 『誰とでも15分以上会話がとぎれない!話し方66のルール』(その1)

それは、会話で伝え合っているのは自分と相手の「気持ち」だといことです。(p.4-5)


本書でさまざまに語られていることの根本はここにあるように思われる。

私が始めて外国に旅行した際、コミュニケーションというのは「言葉」によるのではないということを体感したのであり、あのときに学んだ一番大きなことのひとつだったように思う。日常のコミュニケーションにおいて、それをどうやって実践していくかということが本書では書かれている。

本書に書かれていることの多くはある意味では「当たり前」のことが多いのだが、「わかっているけどなかなかできない」ことでもあるように思う。



 相手が話す材料を持っていなければ質問しますが、まずは沈黙して待つことを選びます。
 なぜなら「質問」は、質問者の「聞きたいコース」に話し手を誘導するものであり、「話し手」の「話したいコース」から外れてしまう可能性があるからです。(p.44)


誘導尋問という言葉があるが、質問というものは必然的に質問を発する側の考えを含み、それに方向付けられているという指摘。会話というのは、相手が話したいことを話させることで発想が繋がっていき会話が繋がるため、質問者の聞きたいコースに誘導するのではなく、「話したいコース」を話させる必要があるわけだ。

一般論として「話し上手は聞き上手」であると言われるが、こうやって理屈がわかると、それを実践しようとする際にもわからないよりは少しは忍耐強くなりやすいように思う。



 多くの人が沈黙を恐れて、そこから逃れようと躍起になるものです。
 しかし、沈黙はどんな間柄の2人にも必ずやってくる訪問者です。
 もし、相手が話しに詰まったときであっても、表情やアイコンタクトで、「大丈夫ですよ、そのうちなんとかなるでしょう」という気持ちを伝えられたら、相手もふっと心を和ませて、ゆっくりとした時間を過ごさせるでしょう。(p.55)


会話は気持ちを伝えるものだというが、アイコンタクトは本書を読む限り、かなり重要であるようだ。やはり気持ちを伝える上で表情などを通して伝わる情報は多いという事だろう。アイコンタクトはそうしたもののうち、意図的にコントロールしやすく、かつメッセージ性も強く出せるものだということだろう。



「事実」の後にちょっとした「気持ち」をプラスする。(p.61)


この方法論はかなり使えるかもしれない。私の中に馴染んでいるWertfreiheitとも矛盾しないところが良い。



 よくよく考えてみれば、どんな人でも1日のうちで、ちょっとだけムッとしたことや、小さな喜びを感じたことが数回はあるはずです。問題はそのわずかな感情をつかまえきれているかどうかにあります。(p.62-64)


まずは自分自身の感情に敏感になること。多忙すぎる毎日の中ではこうしたことは疎かになりがち。

私の友人(非常におしゃべりがうまく、また、おしゃべり好きな人)が会話をする際「今日は何をした?」という何気ないことをどんどん聞いていって話をするといっていた人がいるが、その人のやり方はこうした問題を整理させる効果があるのだろう。





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小樽観光大学校運営委員会 編 『おたる案内人 小樽観光大学校認定 検定試験公式テキストブック』

 さて、小樽観光の現状を見てください。観光客の歩くところには市民は歩いてはいません。観光客と市民との交流がないということです。宝の持ち腐れとはまさにこのことをいうのではありませんか。ここに交流が促進されれば悲観は希望に変わるのです。終わりは始まりに変わるのです。そして交流するには文化が必要です。マーケットに進出するにはブランドが必要です。何故なら問題意識のない者に何を言っても馬耳東風だからです。
 だから小樽の歴史を学び今の小樽を学ぶのです。(p.21-22)


市民が「案内人」となって観光客と交流していくことを薦め、その際に市民側には小樽観光の目玉であるこの都市の「歴史」ないし「文化」を学ぶ必要があることを説いている。小樽の場合、観光の目玉はやはり運河とその周辺の建造物や北のウォール街の古い銀行の建造物や堺町通りの古い町並みであり、これらを語り案内するためには歴史的な知識が必要になる。そうした点についてはかなり説得力があると私には感じられる。

ただ、観光客の歩くところには市民が歩いていないということは過度に悲観的に捉える必要はないように思われる。なぜならば、観光地というものは、そもそも一般市民が普段の用事で行くような用途がない場所だからこそ古いものが残ってきたからであり、この基本的な原則は世界中の多くの場所に共通なのである。一般の市民が普通に歩くような場所でも観光客が足を運ぶ場所はあるが、それは大抵は現在も使用されている商業施設群(中東のスークやヨーロッパのマーケットなど)であり、小樽の観光地はこうしたものではないのだから。もちろん、現在の小樽の観光地は堺町通りでガラス工芸品やオルゴールなどを購入する場ともなっており、商品売買の場でもあるのだが、これらは一般市民が使う日用品ではないので、一般市民が足を運ぶ必要性がないのである。

愛郷心のある市民を「案内人」として観光客との交流を促すというコンセプトは悪くないと思うが、一般市民と観光客の交流の少なさを過度に嘆く必要はないのではなかろうか。



 北前船という素朴な構造はそもそも江戸幕府が奨励しながら同時に制限もしていました。それは他藩がその船を軍事的に使用しても知れた範囲という制限です。(p.44)


こうした制限を設けることで江戸幕府による統治が維持されていたため、「黒船」の圧力に抵抗することができなかったということがわかる。



 これほど多くの船絵馬が残されているということは、それほど危険がともなう商いであったということでしょう。それは北前船交易が衰退後、保険会社にその資本が投じられていく例をみても明らかです。(p.52)


北前船交易にはさまざまなリスクがあったということから説明されているが、商人たちは商業上の情報や情報網を持っていたということも、保険会社への資本移転がなされていった要因であろう。17世紀末のイギリスで情報交換の場となっていたコーヒーハウスから保険会社が設立されてきた経緯と似ている。



昭和48(1973)年のオイルショックを契機に、高度成長の代償として失ってきたものの大きさを顧みる機運が高まっていました。日本で歴史的町並みを保存する制度ができたのが同50(1975)年ですから、ちょうど小樽運河の保存運動が立ち上がった直後です。(p.110)


昭和48年頃から昭和50年代にかけて小樽運河の埋め立てを巡って論争が巻き起こっていた。この問題の背景には、低成長時代に入り、それ以前の開発優先であった高度成長路線への批判的な機運が高まっていたことがあった。歴史的な遺構のうち、近代化遺産などと最近言われるようになったものは、こうした政策や世論の転換によって今も残されることになったものが多いのかもしれない。今後、こうした点にも注目してみたい。



 この火事がきっかけとなって駅前中央通りと龍宮通りとの中間に防火帯として、もう一本の道路を開削することになり、その結果誕生したのが船見坂でした。この坂ができたことにより、三角山斜面一帯の開発が進み、高級住宅地富岡が出現しました。(p.169)


この火事とは明治37(1904)年の稲穂町の大火である。かつての小樽では相当火事が多かったらしく、大きな火事によって町の中心が移転していくなど大きな変化が生じていた。駅の裏の高台にある高級住宅地が形成されてきた歴史的背景を知ると、また、テレビなどで小樽が紹介される際にもしばしば使われる船見坂からの景色もまた違った味わいをもって鑑賞できるような気がする。

なお、防火帯として道路が設けられたというのは、札幌の大通公園とも共通しており興味が引かれる。



 人が一度に認識できて感覚的に理解できるのは15文字以内と言われます。小樽の魅力を15文字以内で表してみましょう。(p.265)


数年前に多々行われてきた「ワンフレーズ・ポリティクス」を不覚にも想起してしまったが、何かを売り込もうとする際にはキャッチコピーが重要なのは確かであり、観光においてもそれは同じだということだろう。

15文字以内という短いフレーズの中に魅力を表現するのは、確かに相当考えを練ったり感覚を研ぎ澄まさなければ出てこないように思う。観光ガイドにはこうした訓練は必要かもしれない。



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白井恭弘 『外国語学習の科学――第二言語習得論とは何か』(その2)

 インプット(聞くこと・読むこと)を理解するには背景知識が重要になります。ただでさえ、外国語を理解することは難しいのですから、日本語でもわからないような教材を使ってもむだです。ですから、自分で学習教材を選ぶ時には、自分の興味があってよく知っている内容を、読んだり聞いたりするといいでしょう。(p.164)


こうした点からもサブカルチャーやポップカルチャーに関心がある人は教材を探しやすくてよいのだろう。私が中国語を学ぶ場合、なかなか適した教材がないのが問題である。社会科学や歴史学などに関心があっても、中国はこれらがあまり良好な状態ではない。マックス・ウェーバーなど私が比較的熟知している学者の古典的なテクストの翻訳書は結構入手しているのだが、これを読んでどれくらい勉強になるのか、ちょっと試してみたいところではある。

ただ、英語なら時事的なニュースでも関心が持てるものが探せるので学習しやすそうだ。



 リスニングは、聞いても20パーセントしかわからないような教材を聞くより、80パーセント以上わかる教材を何度も聞いたほうが効果があります。インプットを理解することが言語習得のカギですから、わからないものを聞いても効果は低いのです。(p.165)


繰り返し聞くというのも一つのポイントと思われる。これがなかなかできていない、というか、適切なレベルの音声教材が少ないのが現状である。最近はネイティブの友人が送ってくれた童話の朗読の音声ファイルを使っているが、こうしたものはなかなか得がたいので、今後どうしていくかが課題だろう。



 第二言語のデータベースを増やし、自然な表現を身につけるために、特に母語と第二言語の距離が遠い場合は、よく使う表現や、例文、ダイアローグなどを暗記することが効果的でしょう。単文を暗記しても良いですが、それだと一文以上の情報を司る談話能力や、社会的に適切な表現を使うための社会言語額的能力が身につかないので、ダイアローグの暗記のほうが効率がよいと思います。(p.167-168)


語学の力が超低レベルの場合は単文暗記をある程度やるのもそれなりに効果があるのではないか。長すぎるものは覚えにくそうなので。大学で使っているテキストをもっているのだが、それはダイアローグの暗記には使えそうだ。



 アウトプット(話すこと・書くこと)は、毎日少しでもやるべきです。……(中略)……。
 日記をつけたり、ひとりごとをテープに録音したり、外国語学習の仲間と電話で話す、学校や、英会話喫茶などに通う、インターネットでチャットをする、など。また、インプット教材を聞いたり読んだりしたあとに、その内容について何か外国語でコメントをするのも効果的でしょう。そうすると、インプットのときの処理レベルが高まるはずです。(p.168)


以前、中国語の先生からは音読をすると良いと薦められ、できるだけ毎日行うよう心がけており、それなりに効果的な学習法だと思っている。音読はインプットとアウトプットの両方をやっている形にはなるからなのだろう、と今は考えている。ただ、アウトプットは発音などの自動化のためのアウトプットが主体であって、自分で文章や考えを構成するものではないから、その点が弱いかも知れない。文法などにもう少し意識しながら音読することのほか、何かアウトプットをする習慣をつけた方がいいのだろう。

たまにネイティブの友人とチャットをしているのだが、これはかなり効果がある。頭の中でリハーサルをする癖はだいぶついてきているのがわかる。外国語で毎日コメントをするというのもなかなかよさげだ。毎日、何を勉強したかブログやツイッターなどでつぶやいてみるのもやってみる価値があるかもしれない。



しかし、外国語の単語を覚えるのはとても大変です。じつはこれが大変なのは、母語と外国語のつながりに、ほとんど意味がないからです。……(中略)……。ですから、単語を覚えるときは、なんとか自分の持っている知識構造と関連づけて、有意味学習をする必要があります。……(中略)……。日本語教育で、初級の学生にひらがな、かたかなを教えるのに、絵を使って覚えさせる教材がありますが、これも、使わない場合に比べてずっと早く覚えられることが実験でわかっています。
 単語を、文脈の中で覚えるようにするのも、そのひとつです。(p.170-171)


単語をイメージを介して覚えるというのは確かに効果があると思う。これの効用は単に覚えやすいというだけではなく、外国語の単語が直接イメージに変換されるようにすることで、母語を介さずに「直接的な理解」する習慣が形成されるところにあるように思われる。

また、文脈の中で覚えるというのは、単文やダイアローグの暗記によって行うとよいのではなかろうか。中国語の場合、日本語と語彙がかなり重複しているものが多いので、割と有意味学習がしやすいので覚えやすい。ただ、声調は無意味学習になるので覚えにくい。これを有意味学習にする方法はあるのだろうか?あれば是非やってみたいところである。今のところ音読によって体に浸み込ませるしかない、というのが私見である。つまり、単文やダイアローグ暗記の際に音読しながら覚えるしかないのではないか。



 音声に関しては、難しい発音の仕方(とくに日本語にないlとr、bとvの区別など)は、確認しておき、意識すればできるようにしておきます。練習としては、意味、構文をすでに理解しているテキストのテープを使って、発音、リズム、イントネーションなどできるだけ正確にまねて何度もリピート、もしくはシャドウイングをするといいでしょう(シャドウイングとは、外国語の音を聞きながら、少し遅れて同じように言う練習のこと)。音読も効果があるでしょう。(p.173-174)


まずユニットである音節は「意識すればできる」状態にしてから、既知の文章を真似しながら声に出して繰り返し読む。これは実践しているかも知れない。かなり効果がある方法である。一つ前の引用文に対してつけたコメントの考え方でよいということだと解釈している。



 また、完璧な発音を目指しても、大人の学習者の場合、完璧な発音を身につけるのはほぼ無理だ、ということも意識しておくべきです。ただ、日本人英語でいい、通じればいい、といって最初から目標を下げておくと、それさえ達成できないでしょう。ですから、目標は高く努力し、なるべくターゲットに近づける、そしてそれができなくても、がっかりせずになるべく模倣する、という現実的なアプローチが大事です。(p.175)


正論なのだが、完璧にはできないとわかりながらそれに近づくことを目指し続けるというのは、相当のモチベーションを必要とするように思う。



 それから、発音については、個々の母音や子音に注意が行きがちですが、実際母語話者にとってわかりやすく、不快に感じない発音という観点からいくと、イントネーションとかリズムの方が個々の音の発音よりも重要だという研究結果が大勢を占めています。(p.175-176)


これは銘記しておきたい。これは「お手本」に忠実に、繰り返し声に出して読んだり、実際に会話する中で身に着けていくしかないように思う。



 文法は、基本的なもの(たとえば英語なら中学から高校一年程度のもの)について、文をつくれるレベル、つまりアウトプットできる程度までマスターしておくとよいでしょう。さらに、インプット理解のために、もう少し高度な文法も余裕があれば。
 ただし、説明を読んでも理解できないような難しい文法は無視してもかまいません。(p.176)


中国語の場合、どの程度の文法なのだろう?



 授業の中心となる活動は、その日に導入された文法項目を使った学生どうしのインタビューです。会話内容は、自分のことや、クラスメートのことで、友人、出身、趣味、家族、授業、先生、自分のアパート、冬休みの予定、などについて、お互いにインタビューし、インタビューで得た情報をノートにメモしておいて、宿題でクラスメートや自分のことについて書く、というものです。
 各課ごとに、よく使われる構文・表現が多数はいったダイアローグがあり、それを暗記して、言語のデータベースを増やします。評価も重要なポイントで、学期末試験の一部として実際に15分の会話をさせ、それが成績の10パーセントを占めています。学習者は学期末には15分話せないといけないことがわかっているので、リハーサルをするようになるでしょう。(p.181)


かなり効果がありそうな授業である。インプットを与えて、それを実際に使ってインタビューし、その内容について書くことによってもアウトプットしなければならず、また試験でもアウトプットの必要性が意識されるようになっているため、「インプット理解とアウトプットの必要性」の両方を充足する授業が行えるわけだ。


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白井恭弘 『外国語学習の科学――第二言語習得論とは何か』(その1)

外国語の知識があまりないうちから、積極的に話すと、変な外国語が身についてしまう可能性があるのです。(p.16)


自分の話としてちょっと危険性がある問題だと思われたので自戒のためメモしておく。



つまり、大人の学習者がネイティブのように話せるようになるには、ルールを覚えてそれを適用するよりも、膨大な数のフレーズを覚えて使いこなすことがより重要なようなのです。(p.61)


試してみたい。



人間に興味があれば、言語に興味があっても不思議ではありません。(p.65)


女性の方が男性よりも語学に向いていると言われるそうだが、心理学の実験で女性の方が生まれつき人間への関心が強い傾向があることが示されているという。そのため女性の方が男性よりも言語への関心も強く、語学もうまくいくことが多いようだ。確かに、私の知人・友人を見まわしても、明らかに男性より女性の方が語学に堪能な人が多いことに気付かされ、なるほどと納得させられる。



 日本人が英語ができない、もうひとつの大きな理由には、動機づけの弱さがあります。つまり、日本にいれば、英語が使えなくても実際問題としては困らないのです。(p.73)


同感である。本書ではフィリピンやインドやシンガポールなどでは状況が異なっていることが例示されているが、明らかに日本とこれらの地域では状況が異なっている。

なお、日本人が英語ができない理由は複数あるが、そのひとつは日本語と英語の言語間の距離が離れていることである。ヨーロッパの言語などと比べて日本語は英語と構造が相当異なっているため習得が難しいということ。中国語を少し勉強してみて、いかに英語が日本語と相性が悪いかということを私も実感として感じているが、その実感と一致する。



つまり、学習対象言語を話す人や文化に好意をもっている学習者が外国語学習に成功する、ということです。(p.75)


「統合的動機づけ」というそうだが、これも頷ける。実際、やたらと外国語がうまい人はこういう傾向があることが見て取れる。そう考えると、私の中国語学習はあまり成功しないかもしれない…。ただ、中国語話者の友人が割と多いことは、私にとっては統合的動機づけに一役買っているかもしれない。



 ところが、三単現の-sだろうが過去形の-edだろうが、とにかく教えさえすればすぐに使えるようになると教師や学習者が思っていたら、非現実的な期待をしてしまうわけです。「自分は情けない」なんて自己嫌悪に陥って英語が嫌いになってしまう中学生もいるでしょう。だから、このような研究は重要なのです。(p.128)


文法項目は習得できる筋道が概ね決まっているのだという。だから、説明を聞いて頭で理解していても、それを使いこなすのは習得する順序が来てからでなければ難しいということ。教師から教わってもそれが必ずしも実際に使えるわけではない、ということを知っているかそうでないかによって、教える側も教わる側も心の持ち方が変わってくる。なるほどと思わされる。



 よって、現状では使える英語力を身につけるという目標を達成するには、インプットの量が不足しています。日本語に訳してからその日本語を読んで意味をとる、というのは、自然な言語習得に必要な「インプットを理解する」という機会を学習者から奪っていることになるのです。(p.134)


本書によると、言語習得に必要な条件は、インプットを理解することとアウトプットの必要性があることだという。私が思っていたよりもアウトプットについては重要性が低いというのが少し驚いたが、アウトプットの必要性があるという状況の重要性は、過去の英語学習と最近の中国語学習を比べて納得できる。この必要性があると明らかにその言語で考える機会が多くなって、さまざまな疑問がわいてきたりする。

また、学習法についてもインプットをもっと増やすにはどうしたらいいか、ということを現在考えているところである。



 インプットを理解することがなぜ言語習得につながるのでしょう。ニューメキシコ大学のジョン・オラーによれば、その言語の「予測文法」が身につくからだ、ということになります。(p.136)


本書は、このように学習法の根拠となる事実や仮説などをきちんと示してくれるのが非常に良いところである。本書にはこれに類する記述に満ちている。

予測文法が身についているかどうかは、早い(自然な)スピードの発話を聞き取れるかどうかということとも関わっているように思われる。



 テキサス工科大学のビル・バンパタンは、文法習得を引きおこすのはアウトプットではなくインプットであるという立場から、大事なのは理解の過程で、文法項目を実際に処理させることである、と主張しています。……(中略)……。よって、教師がインプットする文をコントロールして、ちゃんと文法を処理しないと理解できないような材料を与えてやることが必要なのです。(p.143)


確かに、私は中国語の文法をあまりやっていないので、文法を処理できていないと感じる。単語だけで意味が理解できるような文は聞いて理解することができるが、文法の処理ができていないため比較的簡単な文でも理解が曖昧なことが多い。インプットによる文法習得が必要であると実感する。その際、このエントリーの2つ目の引用文にあるようにフレーズを覚えたりするのが良いのかもしれない。



 ただ、注意すべきことは、多くの実験研究が行われているにもかかわらず、アウトプットそのものが言語能力の向上につながった、という結果はあまり出ていないことです。「話せるようになるには、話す練習をすればいい」という考え方は、一見理にかなっているようですが、研究結果を見ると必ずしもそうではありません。(p.149)


確かに、アウトプットすることでは新しい変化が起きるわけではないから、学習効果はあまりなさそうだ。既に知っていることを話していても新しい知識が習得できないというのと似たようなものだろう。ただ、アウトプットによって、「自動化」の効果はあるようだが。




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北海道高等学校日本史教育研究会 編 『札幌・小樽散歩24コース』(その3)

当時は支店の前面には専用の船入澗があって貨物を積んだ艀が出入りし、裏側に鉄道が走る絶好の場所であった。(p.122)


旧日本郵船株式会社小樽支店(国指定重要文化財)についての解説より。

かつての船入澗だった場所は現在、広々とした公園となっているが、船入澗の跡がわかるようにブロックで区別されているため当時の状況を想像することができる。また、現在、この建築の前にある電線を地中化するという話が出ており、それが実現すればさらに景観は良くなるだろう。

この記事から気付いたのは、その裏に鉄道の旧手宮線の線路が走っていたことである。前に港、後ろに鉄道という場所を選んで建てたのだろう。



現在、商業中心地は野幌に移り、JR江別駅付近の商店街にはかつてのにぎやかな面影はないが、石狩川へ合流する千歳川の河口部であったことから、鉄道と水運の中継地点であり雑穀や木材の集荷地、生活経済の中心地として、この千歳川沿いには古い石造りやレンガ造り倉庫など、歴史的な建築物が多く残っている。(p.122)


江別が占めていた歴史的な位置づけ。道央地方は札幌も含め幌内鉄道沿いの地域のうち、地理的に流通上の優位性を持つ地域が経済的に発展したことが見て取れる。



場所請負制

 商場知行制から転化し、江戸時代中期以降主要となってく蝦夷地経営の形態。1696(寛文9)年のシャクシャインの戦いを機に本格的な商場知行制を確立した松前藩は、元禄期(1688~1704)ころから運上金をとって商場の経営を商人にゆだねる場所請負制を行うようになる。享保期(1716~36)、これが広く一般化するなか、ついに18世紀半ばすぎには蝦夷地全体が商人の請け負うところとなっていく。また、このころになると本州における商品需要の変化とあいまって、その経営内容も変化し、アイヌとの交易から魚場での大規模な漁業生産活動が経営の主体となっていくが、その過程でアイヌは交易の相手から雇われ労働者に転化させられ、松前や東北地方からの出稼ぎ者も数多く投入されるようになる。(p.160-161)


15世紀後半以降、明との交易ができなくなってからアイヌの和人に対する優位性は次第に失われたというが、18世紀以降はそれが加速した様子が見て取れる。

商場知行制はほぼ封建制度の枠組みをそのまま蝦夷地経営に持ち込んだイメージが強いが、領主たちが商人に場所を請け負わせるというスタイルは、どこかイギリスによる東インド会社を通したインド経営/統治などを想起させるところがある。制度のディテールがどのようなものだったのか、また、その導入の経緯などについて、もう少し知る必要がありそうだ。



 札幌を中心とする石狩圏は、幕末のロシア接近のなかで、樺太経営の前線基地としてクローズアップされた。明治時代となり北海道の内陸部を含めた開拓がすすめられ、札幌に開拓使本庁が置かれて政治・経済の中心となり、小樽はその外港として発展する。エネルギー源としての石炭採掘が空知地方で始まると、輸出港として小樽の手宮を基点とした幌内鉄道敷設となり、日本最初の横浜・新橋間の開業に次ぎ、1880(明治13)年には手宮~札幌間が、2年後には幌内(現、三笠市)まで鉄道が開通した。1905年には日露戦争が終結し樺太南部が日本領土になると、樺太開発の基地として小樽はさらに発展し、金融機関が集中し「北のウォール街」と呼ばれるようになる。(p.194)


北海道、特に小樽の近代における経済的繁栄がいかに樺太と深く関わっているかということがよくわかる。第二次大戦後に小樽が「斜陽」となるのも、こうした関係を念頭に置くことで理解が容易になる。(ちなみに、当然ながらエネルギー政策の転換により石炭が使われなくなったことも大きいと思われるが、その直接的なダメージは夕張などの炭鉱の町でもっとも顕著であり、小樽や札幌の場合は炭鉱の町ほどの打撃を受けたわけではない。)

つまり、樺太がロシア領となり、ロシアとは冷戦により経済的な交流が長期的に小さくなったということが第二次大戦後の斜陽化の背景の一つである。冷戦後、日本の中古車がロシアに輸出されるようになり、それが小樽港を活性化したが、1-2年前にロシアが高額の関税をかけるようになってからその輸出は急速に小さくなった。中国や韓国の港へは日本の南部の方がずっと近くそれほどの地の利はない。この辺りを考えると、やはり北海道の日本海側の国際貿易(つまり、小樽港を介した貿易)においてはロシアの果たす役割は大きそうである。


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北海道高等学校日本史教育研究会 編 『札幌・小樽散歩24コース』(その2)

JR篠路駅周辺の倉庫群は、丘珠・篠路地区で収穫された札幌タマネギとして有名な品種「札幌黄」などを全国にむけて出荷する基地となっていた。東口をでて左手にみえる3棟の石造りの篠路高見倉庫は、1943年に最初の1棟目がつくられた。(p.45)


札幌は日本におけるタマネギ栽培発祥の地であるらしい。早期に開設された鉄道があったことが、これを流通に乗せる上で有利に作用したであろうことは想像に難くない。札幌の外港である小樽から国内やアジアに出荷されていたものと推測される。



 北運河から運河沿い散策路の1本山側の道道小樽臨港線沿線には、メルヘン交差点とよばれる堺町の七叉路付近まで、寿司屋や土産物店がたちならんでいる。その交差点付近はかつてのオタルナイ場所の中心であったが、1881(明治14)年の大火を契機に勝内川周辺からこの地へ移動する人が激増したため、山をくずして海を埋め立て、市街地が造成された。(p.57)


小樽の「メルヘン交差点」が「オタルナイ場所」の中心であったとは知らなかった。ただ、そう言われれば広場状になっている地形などからかつて交通の要衝として機能していたであろうことは容易に想像できる。もっとも、これは明治41年以降に大量に人が移ってきた後にこのようになったのだろうが。

メルヘン交差点は小樽の観光スポットの中では小樽運河に次いで華やかな場所であると思われるが、こうして時代を超えて何度も栄える場所があるというのが興味深い現象である。



この辺り(引用者注;メルヘン交差点付近)は旧入船川(のちの暗渠)の河口で船入澗があった。堺町郵便局のところが史蹟オタルナイ運上屋跡である。江戸時代に和人とアイヌとの交易所だったのが運上屋で、オタルナイ場所とよばれた商場の行政・交易拠点だった。明治~昭和期もこの辺りは物資流通の要となり、銀行・商店・倉庫などがあった。(p.63-64)


オタルナイ場所があったのは入船川があったからであることがここからわかる。明治期以降にも物流拠点であり続けた要因の一つは明治14年の大火により人がさらに集まったというところにありそうに思われる。こうして入船川に沿った場所に新しい道路と市街地が作られていった。

その後、明治37年の稲穂町の大火を契機として色内(いわゆる「北のウォール街」のあたり)や堺町(メルヘン交差点と北のウォール街を繋ぐ通りのあたり)の方へと中心が移っていったらしい。そして、明治後期から大正の人口が急速に増えた時期には市内に幾つかある川に沿って市街地が展開していった。

市街地の展開プロセスをまとめて叙述した資料は少ないので、どうもすっきり理解できていないのだが、もう少し基礎知識がついてきたら、一度こうしたプロセスをまとめてみたいものである。



 1912(明治45)年建築の米穀商社共成株式会社の社屋を利用したもので、木骨レンガ造りの2階建てで、建物の内部は総ヒノキ造りの大ホールとなっている。北海道での稲作の歴史は浅く、明治・大正期はほとんどの米を青森、秋田、山形、新潟からの移出にたよっていたため、小樽の米穀商は大きな利益をあげることができた。共成は富山県出身の沼田喜三郎によって設立された東北以北最大の米穀商社である。喜三郎は農地の開墾にも力をいれ、旧所有地は空知管内沼田町にその名が残っている。1940(昭和15)年には北海道の海藻類を利用した製薬業も業務に加え、薬品部門は1955年に設立された共成製薬株式会社に引き継がれて現在に至っている。(p.104)


小樽オルゴール堂についての説明より。

小樽は富山県など本州の日本海側の地域との結びつきが強いが、この会社の沼田喜三郎もそうした流れの中に位置づけられる。米の産地である北陸の方から米穀商社がやってきて、北海道の玄関口であった小樽の交易の中心地のひとつであった現在のメルヘン交差点に店を構えるのは納得がいく。もっとも、この建物は明治45年建造なので、明治37年の稲穂町の大火によって市街地の中心が移動しつつある時期だったと思われるため、その前からこの商社が進出(?)していたのかどうかはやや気になるところではある。ちなみに、会社の設立は明治24年である。

米などを扱う商社から海藻類を利用して製薬業へとシフトしたというのも面白いが、これは北海道でも稲作が行われるようになったことなどにより業種転換が必要となったのだろう。



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北海道高等学校日本史教育研究会 編 『札幌・小樽散歩24コース』(その1)

アイヌは道南で和人と接し、東北地方とも交易活動を行い、樺太や大陸でもその地の諸民族と交易を行っていた。14世紀末には樺太へ進出し、明との朝貢交易でいわゆる唐物を得ていた。しかし15世紀後半に明がアムール川流域から後退すると、アイヌはそれらを入手できなくなり和人との交易の優位性を失ったという。(p.7)


15世紀前後というと、世界全体として経済が不活発だったと思われるが、そうした不況の時代(?)には、末端的なところから順に苦しくなるというパターンがあると私は考えるのだが、このアイヌの和人との交易での優位性喪失もその一例であるように思われる。



 1604(慶長9)年、松前氏は徳川家康より黒印状をうけ蝦夷地交易権を得るとともに江戸幕藩体制の一員となった。米のできない松前藩の存立基盤はアイヌとの交易独占権であった。そのため藩の所在する和人地と交易する場所としての蝦夷地を区分し、さらに蝦夷地を東西に分け、交易場としての商場を設定、それを藩主一族や上級家臣に知行地としてあたえた。知行主は交易船をだして商場地域のアイヌと物々交換し、入手した産物を本州商人に売却して知行とした。……(中略)……。その後イシカリ川流域の商場での場所請負制確立は享保期(1716~36)で、オタルナイ場所の開設も享保期という。(p.7)


幕府より松前藩がアイヌとの交易独占権を与えられ、松前藩は蝦夷地に商場を設定して家臣に知行として与えて、そこで交易を行わせたが、さらにその商場を商人に請け負わせてその収益の一部を家臣たちが吸い上げるというシステムへと変容していった。政治的な管理が次第に弱まり、民営化的な方向へと進んだ。

しかし、18世紀半ばにはロシアの南下に備えて蝦夷地は幕府の直轄となり、19世紀には一度松前藩に戻された後、再度直轄化されるなど、政治的な要因によって統治体制がかなり変わっている。しかし、場所請負制自体は残っていたようであり、経済的な活動の規模が政治のみによって統御できる規模を超えていたことが推測される。



島は開拓当初より計画的な都市造りを進め、街を大通りで南北、大友掘で東西に分けるという碁盤都市を想定し、大通りの北側は官公地、南側は商業地という基本的な街並みはこのときに決定された。(p.8)


判官・島義勇の時代の都市計画(構想)が現在の市街を規定している。なお、大友堀とは現在の創生川である。大通りの北には北海道庁などの官庁があり、北海道大学や駅などがあり、南には狸小路や薄野があるが、この配置はまさに島の構想が現在にも生きていることを示している。



1887年ごろになると北前船にかわって西洋型帆船や汽船が入港するようになり、1889年には米・酒などを輸出できる特別輸出港、1899年には国際貿易港となって横浜、神戸につぐ貿易港となる。この年小樽に区制が施行され、1885年の人口約1万3000人が約6万2000人に急増している。さらに日露戦争後は南樺太への消費物資供給地としても繁栄し、貨物の増大に対して1923年には運河が完成された。(p.10)


小樽の経済が恐らく最も急速に発展していった時代がここに記述されている時代ではなかろうか。ちょうど日清戦争と日露戦争、そして第一次世界大戦の時期と重なっている点には注意が必要だろう。特に日露戦争により南樺太が日本領となったことは小樽の経済発展において極めて重要な意味を持っていたようである。



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森川清 『権利としての生活保護法 その理念と実務』(その4)

 預貯金調査では、現在の預貯金ではなく、最近1~2年間の異動状況を調査すべきである。ちなみに破産手続においては、破産者は最近2年間の預金の異動状況の提出を求められる。
 これにより、直近に解約された預貯金や負債の状況、生命保険の加入状況、稼動収入の状況も把握することができる。(p.166)


生活保護申請時の預貯金調査が申請時点の状況を調べるだけであることに対する批判。こうして過去からの金銭や資産の状況を調べることにより、被保護者の負債の状況をより的確に調査することができるとともに、不正受給の防止にも相応の効果が期待できると思われる。即座にこの方式を導入すべきであろう。



 例えば、高校進学支援プログラムを行っている板橋区福祉事務所における被保護世帯の中学卒業者進路先は、実施前の2004年度には未進学が6.8%であったが、2007年度には3.5%に減少した(p.217)


どのような内容のプログラムなのか興味があるところである。



 貧困は、単に生存権の剥奪だけではなく、自由権や参政権の行使も困難にし、民主主義社会を蝕み、戦争をしやすい構造を生み出していく。自由、民主主義、平和主義とも密接に結びついているのである。(p.220)


かなりマクロな見方をすればこうした関連性はあるだろう。しかし、貧困の問題を取り上げる場合、対象とすべきは生活保護ではないというのが私見である。それ以前の段階の社会的セーフティネットが重要である。



 その中で、生活保護についていえば、ほかの制度に主役を任せ、生活保護の役割が小さくなるような社会を実現していかなければならない。(p.221)


上で述べた私見と同じである。生活保護の制度や運用を云々する前に、まずその前の段階の社会保障を議論すべきである。「格差」が取りざたされるようになって以降、私も「貧困」の問題の重要性に気づき、生活保護などを少し調べるようになっているのだが、生活保護を調べれば調べるほど、ここをいじっても社会はほとんど改善されないという現状が見えてきている今日この頃である。


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森川清 『権利としての生活保護法 その理念と実務』(その3)

 なお、2007年の生活扶助基準に関する検討会でも級地格差が大きいことが問題となったが、級地格差を拡大したのは1985年であって、ちょうど国の負担割合を80%から70%に変更した年である。低い級地の市の財政力が乏しいことを考慮して、負担金増額分を級地格差拡大で補ったのではないかと勘ぐりたくなる。(p.70)


著者の「勘ぐり」に同感である。



 そして、優先する他法他施策の請求権のうち、請求権が確定していて、要保護者自らの行為によって請求が可能なものについては、資産又は「その他あらゆるもの」(法4条1項)に該当する。(p.100)


年金の受給権などはこれに該当するということだろう。



 通院すべき指定医療機関の選定は福祉事務所の権限であるが、保護の実施に支障のない限り、患者の医師に対する信頼その他心理的作用の及ぼす諸効果を合わせて考慮して要保護者の希望を参考とすることとしている(生活保護法による医療扶助運営要領に関する疑義について 昭和48年5月1日社保第87号厚生省社会局保護課長通知・問3)。(p.117)


生活保護の現場ではこのあたりの考え方は実際の運営とかなり乖離していると見られる。医療扶助の支出が極めて大きいということを生活保護行政に関して行政側が問題視しているが、このあたりの運用を制度の通りにすることで、かなりその目的を達することができると思われる。もっとも、その場合、受給者側の「満足度」は下がるだろうが。



 被保護者を国民健康保険の適用除外としているのは、地方財政的な配慮の問題で性質上適用除外とされているわけではない。国民健康保険の自己負担額が5割から3割に変更するときに、それまで生活保護を利用しながら国民健康保険を利用できていた人達が国民健康保険から完全に排除された(1963年3月31日国民健康保険法改正)。(p.124)


本書はもっぱら「人権擁護」の立場からの立論が多いのだが、財政の側から言えば、地方財政的な配慮がなされなければならないほど生活保護受給者の医療扶助の負担は大きいと言う事もできるだろう。人権を擁護すべきという理想を掲げるのは良いとして、そのために必要な財源の支払いを主権者が拒否している場合どうすべきか、ということも人権擁護論者は考えなければならないだろう。この点への考察なしに人権擁護の議論だけをするのは偏っているし、現実的でもない。それは道徳と政治の混同であり、政治的幼児の意見である。



 違法な窓口規制を行う福祉事務所は、相談係長及び相談員に生活保護実務経験がない、又は乏しい職員を配置する傾向がある。違法な手続をするためには、生活保護制度を理解していない相談員の方が好都合だからである。
 本来、福祉事務所の入り口に立つ相談員には生活保護手続及び他法他施策、疾病・障害についての高度の理解が要求される。相談係長及び相談員は、生活保護実務経験を十分に有する職員が配置されなければならない。
 しかし、生活保護実務経験を十分に有する職員が違法な窓口規制を希望することは少ないので、結果的に相談員に生活保護実務経験のない者が配置されることになりやすい。(p.152)


最初の一文はなるほどと思わされるが、それ以降の論理は一見、整合的に見えるものの幾つか疑問符がつく。

まず、違法な規制をすることが目的であるとは考えにくいということ。むしろ、経験がない職員を配置した結果として、制度についての知識が不足する部分については「彼らの常識」に頼った判断がなされることとなり、結果的に違法行為となる、という側面は否定できないのではないか?

また、人事については職員が希望するかしないかということで決められるわけではないであろう。「生活保護」という枠だけで考えると一見論理的であるが、人事はそれぞれの組織の論理で動く面の方が強いと見るべきではないのか?



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森川清 『権利としての生活保護法 その理念と実務』(その2)

 統計的にも、1973年から1984年まで12年にわたって19、20万世帯台で推移していた生活保護開始件数が、1985年には17万世帯台、1986年には16万世帯台、1987年には14万世帯台、1988年には13万世帯台と急速に減少していった。その後、バブル経済の影響もあってバブル崩壊まで減少傾向は強まったが、バブル経済の影響が出る前にすでに減少が始まっており、経済的要因では説明ができない。(p.41)


保護の新規開始件数が1985年から急に減少しているが、経済的要因だけでは説明できないという指摘は重要。



 1981年の123号通知とともに保護抑制に大きく働き、違法行為を助長したのが、地方の財政負担の増加である。被保護世帯及び保護率が減少に転じた1985年に、国の負担が80%から70%に変更されたのは偶然ではない。(p.42)


一つ前の引用文へのコメントに付け加えるならば、経済的要因ではなく財政的要因が保護開始件数減少の大きな要因である、ということになる。

生活保護制度がナショナルミニマムを保障するものであるとするならば、その水準を維持するためには中央政府の財政負担割合が高い方が望ましい。財政的には中央政府の全額負担で、実施責任も中央政府(厚生労働省)というのが、恐らく一番適切に運用されるやり方ではなかろうか。(財政責任が中央政府で実施責任が地方政府である場合、逆に濫給となる可能性が高い。)



 アメリカでは、TANFのほかに生活困窮者を対象とした制度として、フードスタンプ(食料)、メディケア(医療)、EITC(勤労者への税からの割り戻し給付)などの制度がある。また、連邦以外でも、州レベルでGR(General Relief)という給付があったりする。そのため、TANFを打ち切られても、ほかの制度による援助が受けられる可能性がある。
 しかし、日本にはこのような給付は存在しない。このまま生活保護が有期保護になれば、有期保護期間を経過した者は、ほかの給付を得ることができず、最悪の事態に陥る者がアメリカ以上に増えることとなる。
 そのような事態を回避しようとすれば、地方自治体が給付制度を創設しなければならなくなる。実際にアメリカでは州が給付制度を創設している。日本では、地方自治体が有期保護導入を求めているが、国に肩代わりして新たな支援策を講ずる覚悟はない。有期保護制度は地方の財政負担を大きくする可能性が高い。(p.45)


TANFとは、アメリカの公的扶助制度であるTemporary Assistance for Needy Familiesの略で、有期の生活保護のような制度である。

昨今、日本でも議論がされ、地方自治体が提唱することが多い有期保護制度について、それが逆に自治体の財政負担を増やす可能性があるという指摘は興味深く、一考に値する。

私見では、公的扶助を受けられない者が続出する事態が生じることになったとしても、自治体は新たな支援策を講じないのではないか。一つには、当然財政的な問題があるが、さらに自治体の政策形成能力は極めて低いという事情が加わるからである。地方政府は日本の場合、中央政府の手足であって頭脳ではない。もちろん、自治体にも政策を形成・決定する能力は全くないわけではないが、70年代頃の「革新自治体」の時代とは状況が異なっている。

革新自治体の時代は、財政が拡大していく局面であり、歳入が増えるということを見込んだ上で新しい事業として何を始めるか、という選択肢が自治体の側にあった。それが市町村長の政治的な思惑と結びつくことによって新しい福祉政策などが次々と出てくることになった。しかし、現在は財政を縮小しなければならず、言うなれば翌年は今年よりも削減しなければならない、というような客観情勢である。つまり、自治体は「何を削るか」を常に求められる状況であり、新しい問題が生じてもそれに対処しようとするインセンティブは働かないのである。また、政策形成能力が低いとしたのは、自治体は手足として中央政府から使われているのだが、手足を構成する自治体の人手が不足傾向にある(新規採用を控える形で人員削減が進んでいる)からである。政策を立案したり新しい問題に取り組む人材面の余裕がない。これは自治体の政策立案能力が弱い根本的な理由の一つである。巷でありがちな「自治体の職員は質が低い」などという測定不可能な偏見を表明しているのではなく、「制度的に中央政府の手足として使われるという他律的な状況の下に置かれながら、財政的な理由で人手不足により手仕事に忙殺される傾向が強まっているために、新しい政策の構築などできない状況である」と言っているのである。


その意味では有期保護制度が導入された際のしわ寄せは必ずしも自治体財政に行くとは限らず、中央政府の財政かまたは公的扶助を受けられない人々か、彼らを助けようと立ち上がるNGOなどが負担を被る可能性は十分あるのではないだろうか。


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森川清 『権利としての生活保護法 その理念と実務』(その1)

 ケースワーカー必携の『生活保護手帳』の多くの頁は、「このようにすべきだ」という方向を示してくれても、「なぜそうするべきなのか」という「疑問」に明確に応えてくれない場合も多い。そのため、「このようにすべきだ」と「このようにしてはいけない」という二つの規範に間隙があると、誤った方向に解釈されて、権利侵害を起こしたり手続の統一を妨げたりすることもある。
 また、理由がわからないまま事務が行われると、偏見がある場合、「このようにすべきだ」という規範自体をねじ曲げて、違法な行為が行われることとなる。
 そのため、なぜそうするべきなのかという「疑問」に対する回答が重要になってくる。(p.4)


生活保護行政の場合、すべての事を予め想定してマニュアルを作っておくことは不可能であろう。その意味でこの分野では「すべき」と「してはいけない」との隙間は必然的に生じてしまう。運用の統一性と合法性を保持させるには、個別の規範の背景に整合的な論理を見出し、それを明示して個々のケースワーカーに理解させることが有効であるという考え方である。

著者の見解には一理あるが「強い個人の仮定」を前提しているため、これによる効果は限定的だろう。どちらかと言えば、制度を専門分化させる方が効果は大きいように思われる。運用コストや制度改正自体によるコストはもちろんかかるが、著者が問題視するような状況は、受給者(制度利用者)のほとんどあらゆる問題への対応を行っている現行制度では不可避の問題であろう。



 必要十分な人員が確保されていなければ、援助、調査に支障を来し、違法な行為が行われやすくなり、不正受給の防止も困難になるから、福祉事務所の実施体制をみるには、標準配置数が充足されているかをチェックするところから始まる。(p.26)


妥当である。企業でもリストラで製品の安全性や品質などが必ずしも確保できなくなることがある。仕事の種類によってはアイディアを出すことで相当の効率化が可能になることがあり、効率化が作業の質の改善すらもたらすことがあるが、対人社会サービスで人員が削減され仕事量だけは増えるという状況では健全な運営が難しくなるのは当然である。



 福祉事務所において事務を行う職員は、所長の指揮監督を受けて庶務をつかさどる。
 決定された保護費の給付事務、公印の管理、人事・出納・文書管理などの庶務を行う。
 保護費支給事務の電算化によって人員削減されてきたところであるが、電算化の前は決定された保護費のチェック、通知の送付などを担っており、不正防止には大きな役割を果たしてきた。庶務担当を大幅に削減したことは、今日の職員の不祥事・不正の増加に影響がないとはいえないだろう。(p.27)


福祉事務所の体制の中で補助的な事務を行う職員は軽視されがちであるが、実はそれなりに大きな役割を果たしていた。非常に興味深い指摘であり、望ましい実施体制を考える上で参考になる。



 負担金については、現行法が制定された1950年に国の負担割合は80%であった。起草時の保護課長によれば、当時は国の負担率を更に高くすることが論議されていた。
 しかし、1954年1月、緊縮財政に向けて、生活保護費における国の負担を50%にするという提案がなされ、時の厚生大臣が辞任し、最終的に80%が維持されるという事件が起きた(なお、国負担80%維持のため、保護基準は凍結され、保護基準の引き上げは朝日訴訟東京地裁判決を待たなければならなかった。)。(p.29)


保護基準が比較的低位に差し置かれていたことの背景。



 なお、地方交付税算定のため、都道府県の生活保護費の財政需要の測定単位として町村部人口、市部の生活保護費の基礎財政需要額の測定単位として市部人口によるものとされている(地方交付税法12条1項。福祉事務所を設置する町村については、特別交付税に関する省令3条2項)。単位費用は、人口1人につき、6630円(都道府県、町村部)、6610円(市部)となっている(地方交付税法12条4項、別表1、平成20年度)。
 地方交付税算定の基礎とされていても、標準団体行政規模に基づくものであるため、保護率の高い自治体や被保護者が急増している状況には対応しきれない。例えば、2008年度は、人口10万人の市において1050人が生活扶助を受けている計算であって、保護率は1.05%の想定である(都道府県もほぼ同じである。)。
 被保護者が急増している状況における地方自治体の財政への圧迫は極めて大きなものとなる。(p.30)


保護率1.05%という想定が如何に現実から離れた数字であるかということは、一つ前のエントリーに記録した釧路市の保護率が現在5%を超えているということを挙げれば容易に了解されるだろう。もっとも、釧路市はやや極端な例だが、それでも保護率が増えれば増えるほど末端の自治体の財政が圧迫される構造は、「水際作戦」のような対応を助長しているのは確かだろう。もちろん、中央政府の財政も圧迫されるのだが、その場合には厚生労働省自体が圧迫されるというよりは、そのしわ寄せの多くは財務省に寄せられるので、厚生労働省は自治体と比べると保護費削減の方向には傾きにくい傾向がある。そうした観点からも中央政府の負担割合がもう少し増えること(全額負担とは言わないまでも)が望ましいだろう。

ただ、私は現時点で生活保護の基準の引き上げや母子加算や老齢加算の復活には否定的である。全体的に社会の生活水準が下がっている現状では、生活保護に至る前の段階の社会保障制度を手厚くすると同時に累進的な構造を持つ税制を構築しながら増税することによってそのための財源を賄う必要があるのであって、生活保護制度に手をつけるのは手順としては一番最後にするべきだろう。あるいは、社会保障制度を構築する過程で生活保護制度の一部をその制度に組み替えてしまうべきだろう。



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釧路市生活福祉部生活福祉事務所編集委員会 編 『希望をもって生きる 生活保護の常識を覆す釧路チャレンジ』

 自立生活支援員の新田は、「長く失業状態にあったり、世間に出る機会が少なかった人は、社会に出て行くのが怖い、あるいは社会へのハードルが高いと思っている」と、地域にあるさまざまなボランティア先=「社会的居場所」に参加している受給者に接して実感しています。生活保護を受ける状態ということは、「経済的な問題」にとどまらず、その人を取り巻く人間関係や有形無形の社会資源から切り離され、社会的な位置や役割の喪失、日々の生活と社会とをつながらなくなっている状態が実在していることだといえます。釧路市の自立支援は、そのことをふまえ、受給者の自尊感情を回復することから始めています。(p.60)


生活保護受給者の心理的および社会的状態をかなり的確に捉えているように思われる。ただ、おそらくこうした状態はどちらかというと、生活保護受給者という括りよりも、学歴の低さと相関関係を有しているのではないかという仮説が浮かんでくる。そうだとすれば、同様の問題を抱えている人は生活保護受給者に限られないであろう。

本書は釧路市における生活保護制度の自立支援プログラム活用の取り組みについての考え方や取り組みについて紹介した本だが、生活保護制度では現在、自立の種類に「就労自立」「社会生活自立」「日常生活自立」があるとされているが、自立支援プログラムによる社会生活自立や日常生活自立のための取り組みは生活保護制度の枠内で行うのではなく、制度が言う「他法他施策」として行われるべきであろう、というのが私見である。



人は決まった時間に出かける場所や「仕事」、楽しい「イベント」があると、前もって準備をし、身づくろいをするものです。誰かに「生活をきちんとしなさい」と言われても気のりしませんが、自分の内側から出る意思で行動するぶん、生活リズムが整い、それが習慣となって身についていくのです。(p.78)


生活保護制度における日常生活についての「指導」は、金がらみの問題や介護保険活用により解決できる問題を除けば、ほとんど効果を上げることはないと思われるが、自立支援プログラムにより社会の中に受給者の「居場所を作る」ことにより、そうした面を改善しうる。かなり説得力がある。



就労に近い人で、自信をもてないでいる人に対して一番効果があるのかなと自分では思っている。(p.114)


ボランティアなどに参加する場を設けることで、社会の中に居場所を作ることを通して自尊感情を涵養することが、その後の求職活動の成功に結びつく可能性があるということを指しているのだとすれば、私も同意見である。就労に向けた支援をしていくにあたり、自信がないことが「阻害要因」になっている場合、ボランティア活動への参加がそれを緩和することはありうるだろう。ただ、自立支援プログラムではボランティアに参加する時点で国費からNPOに金が流れる仕組みになっているようだが、それに見合う効果があるかどうかは疑問がある。場合によってはその分の金で仕事を一つ作り(一種の公共事業)、それによって就労しているという実績をつくり、その実績を以って後の就労可能性を拡大させるという考え方だってありうるだろう。



ケースワーカーじゃない人が、自分のことを一生懸命考えてくれるというのがいいみたい。新田さんが、社会の人とのかかわりの橋渡しをしてくれているととらえている。ケースワーカーというのは、やっぱり指導される人と捉えられがち。でも、新田さんはそうじゃないということが、参加者にわかる。(p.117)


新田さんというのは、本書執筆当時の釧路市の自立生活支援員。私見では生活保護においてはケースワーカーの業務は適正な扶助費の支給に集中すべきであり、それ以外の部分は制度の外部で行うべきであると考えるのだが、自立支援プログラムに基づく支援員ではなく、他法他施策に基づく支援員が置かれるべきであると思われる。

まぁ、それはさておき、ケースワーカーと受給者のような権力関係が存在する場ではないところでのケアが社会的自立等に向けては有効だという点は重要な指摘であるように思われる。



 仕事に就けました、自立しました、という成果は一つもない。ただ、自信をもった人はいた。そっぽを向いていた人が向かい合うようになったり、向かい合って話をしていた人が一緒に並んでいろいろ相談しながらやっていけるようになった。(p.118)


社会参加型の自立支援プログラムは経済的自立に直接結びつくものではないが、受給者の態度は変わりケースワーカーとの関係性は改善しうるという指摘。なかなか興味深い。しかし、数百万円から一千万円単位の税金を投入してこの程度の効果では納税者は納得しないように思われる。

もちろん、こうした成果主義的な発想自体が税の使い方や福祉という分野に馴染まない面が強いということは重々承知しているのだが、生活保護制度というものが経済的に生活できない人だけが受給できるものであり、生活できるようになりうる人については、自立して生活できるように「自立を助長」するべきものであるということを踏まえると、それを諦めたかのようなスタンスはやはり取るべきではないようにも思われる。たとえば、釧路のように有効求人倍率が低いなど労働市場にミスマッチがあるならば、仕事がない地域から仕事がある地域への移動もさせてしかるべきではないのか、など。



生活保護を受けなくていいような人は「溜め」がある人。新田さんのところでつくっているのは「溜め」かも。それがないと上(就労)につながっていかない。(p.123)


この「溜め」という比喩的な表現で指示されているものをもう少し具体的に内容が把握できるようにできれば、対外的な説明の説得力は上がるだろう。これはR.パトナムの「ソーシャル・キャピタル」などとも近い概念であるように思われる。



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