アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

山口修 『台湾の歴史散歩』

54年3月、蒋経国は第二期総統に、陳誠が副総統に選ばれた。陳誠は米国の援助によって、農地改革や工業発展の計画を推進した。
 しかし米国の政策転換によって、台湾への経済援助は1965年6月末をもって打ち切られた。これは台湾にとっては痛手であったが、米国にかわって日本政府が多額の円借款を供与することになる。日本との関係は、いよいよ密接となった。(p.29)


冷戦という構造のもとでの同じ陣営内では経済支援がなされた。東西のボーダー付近では特にこの協力関係は緊密絵であったように思われる。



 総統府および新公園を中心にして、(北)忠孝西路一段、(東)中山南路、(南)愛国西路、(西)中華路に囲まれた地域は、旧台北城内であった。(p.44)


旧台北城の位置。個人的には結構小さいという印象を受ける。



 かつてはほとんど人家もない湿地帯であったが、日本人によって西門や城壁がこわされ、さらに成都路の南に西門市場(現在)が開かれて以来、いわゆる西門町は繁華街として発展していった。その名ごりは現在まで伝わり、百貨店から飲食店、映画館などが立ち並び、とくに若い男女たちがあふれている。しかし現在では、市街の東部も開けるにいたって、西門町の雑踏も、往年のようなすさまじさは薄れるようになった。(p.47)


蘇州などは都市の西部に城門があることによって、その城門の外の市場が栄えたというパターンだったが、台北の場合は門が壊されたことによって発展したというのは面白い。



 萬華の地は、台北において最も早く開かれたところであり、台北市外の発祥地ともいうことができよう。古く、このあたり一帯を占めていた原住民は、西方を流れる淡水河に丸木舟を通わせて、交易を営んでいた。かれらの言語では、丸木舟をMounganと呼ぶ。やがて渡来した漢族は、この語を音訳して艋舺と漢字を当てた。この語で長く呼ばれたが、日本の統治時期に、同音の“萬華”に改めたのである。
 さて淡水河をさかのぼって進出した漢族は、艋舺の地に移り住みつき、原住民を追い立てて、しだいに市街地を形成していった。こうして19世紀の前半(道光年間)、艋舺は全盛期をむかえた。当時は淡水河の水深もふかく、船舶の往来も便利であった。大陸の沿岸から渡来した巨船も、みな艋舺の岸、いまの貴陽街と環河南路二段との接したあたりに横づけされた。人口がふえるとともに、市街地も東方にむけて広げられていった。
 しかし19世紀なかばすぎ(咸豊の初め)、福建省の泉州から移住した泉人と、その後に漳人との間に、勢力の争いが起こされる。争いに敗れた泉人の大部分は、北方に去っていった。このころから淡水河の水深も、土砂の堆積によって、しだいに浅くなる。船舶の出入りに不便をきたすようになって、交易の中心は北方の大稲埕(→p.53)に移ったわけである。(p.52)


台北市街の歴史的展開を語る上で出発点となるのはこのあたりか。

台湾北部の物資の集積地となった場合、淡水だけでなく、後背地の状況も捉えることが望ましいし、淡水の開港などの要因も同時に捉えたいところである。



しかも、ここの問屋街は、業種ごとに固まっており、南京西路に近い南のほうから、布地・薬種・乾物・雑貨・穀類というように、商品の種類が変わってゆく。かつて大稲埕では、19世紀の後半に同業組合を結成していた。その名ごりが、今日まで残っているといえよう。(p.55)


現在の迪化街についての説明。イスラーム世界のスークなどでもエリアごとに扱う商品が固まっているが、中東では場所と商品の種類にもある程度の相関関係があることが多かった。迪化街の場合はどうなのだろう。



台湾では「紀念」という文字が用いられている。もちろん日本語の「記念」にあたる。わが国でも、大正時代までは「紀念」と書いていた。この「紀念」は、日本でつくった新造語であり、中国の古典で用いられたのは「記念」である。つまり「紀念」は日本から逆輸入した表現である。(p.59)


中国語には日本語からの逆輸入が結構あるが、日本語と中国語で「紀念」と「記念」を相互に輸入して逆転して定着しているのは面白い。



 1895年に台湾が日本の領有となってから、基隆港は日本本土と結ぶ台湾の玄関口として、大いに発展した。当時、台北へ達するには、まず船で基隆港に上陸し、そこから縦貫鉄路によって台北へむかったわけである。
 当時の市街は、港湾をはさんで東西に区分され、西を大基隆、東を小基隆と呼んだ。大基隆は漢族の移住者によって、まず開かれた街区であり、鉄道の基隆駅もここに設けられた。これにたいして小基流には、日本人の居住者が多く、近代的な都市計画も日本人によって立てられた。こうした植民地時代の名ごりは、現在まで残っている。(p.92)


台湾と北海道を比較するという私の視角からすると、基隆と台北の関係は、北海道における小樽と札幌の関係と通じるものがある。本州からの玄関口である小樽とその背後に比較的早期に建設された鉄道で結ばれた政治的中心地に定められたところがあるというパターンは同じであるように思われる。歴史的な形成の順序などは多少違いがあるかもしれないので、今後、これらの都市の歴史をもう少し掘り下げてみたいが、その入り口として基隆-台北と小樽-札幌という着眼点は持っておきたい。

ちなみに、一応、素人目に見ても明らかに違うと思われる点は、小樽がその後の経済発展から取り残されて古い建築が結果として残ったのに対し、基隆はそうではないらしい、ということである。



 しかし日本が統治するにおよび、淡水河の上流域における山林の伐採が進められたため、土砂が流れこみ、河床が年ごとに高くなっていった。淡水の港内にも土砂が積もって、浅くなる。さらに基隆の築港が完成するにおよんで、淡水は貿易港としての繁栄をまったく奪われるにいたった。(p.97-98)


港が浅くなったというのが、台湾の歴史を学ぶとよく出てくるが、こうした背景をもう少し詳しく知りたいものである。




スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

姜尚中 『悩む力』

 二十世紀最大の社会学者と呼ばれるマックス・ウェーバーは、私が学生だった70年代の初め、「マルクスか、ウェーバーか」で議論が沸騰するほど熱い視線を集めていました。(p.17)


マルクス主義的な枠組みが現実世界の変化によって信頼を失ってきた時期にこの論争が起きたことに着目したい。日本ではウェーバーは「非マルクス主義」のパラダイムのひとつとして求められてきたものであるという点が背景にある。

90年代に私が所属していた研究室では、長老格のマルクス主義者のパラダイムが若い世代には受け入れるに足りないと感じられながらも、若い世代は自分たちのパラダイムを作り出せずに悩んでいたが、その際に、彼らがパラダイムを求めたのがやはりウェーバーであった。私が所属していた研究室のパラダイムは比較的古いものが残っていた領域だったから、この動きが20年ほど遅れて起こっていたと言えるかもしれない。



十九世紀末のヨーロッパでは、「世紀末的」と形容される病的で危うい文化が流行しましたが、現在のインターネットや仮想空間を見ると、似たようなものを感じます。(p.20)


これらの現象の背景には、金融自由化の世界的進展という共通の要因があると思われる。

今年の夏頃、「クリムト、シーレ ウィーン世紀末展」と題する美術展が割と近所であったのだが、忙しくて行けなかった。本書のような指摘を受けると、その時代の空気を実感する意味でも、見に行っておけばよかったと今更ながら後悔している。現在は大阪で開催中で、年明けには北九州で見られるようだが…。



自我が肥大化していくほど、自分と他者との折りあいがつかなくなるのです。(p.36)


確かにその通りだと感じる。自分の学生時代などを振り返るとまさにこういう感じだったかな、と。姜尚中もこの後でヤスパースの言葉を引いているが、私もその時期にヤスパースから同じことを学んだと思っている。



 letzte Menschen(末人)は、「最後の人びと」と訳されることもあり、なかなか含みのある言葉です。これは、ものの意味を考えるのをやめた人間の末路であり、それをウェーバーは「精神なき専門人、心情なき享楽人」とたとえたのです。


ウェーバーの超有名な台詞だが、意外とこのあたりは正確な意味が取りにくかったりもする。その参考としてメモしておく。



もともとは「お金のために働いたわけではない」人びとも、次第に「お金のために働く」ようになり、次第にそこも離れて「お金のためにお金が回っていく」ようになり、果ては「お金が回れば回るほどお金が増えていく」ようになる。(p.57)


お金の性質を考えさせてくれるよい(使えそうな)Idealtypusではなかろうか。



 そうした金融資本を人格化したようなキャラクターが話題になりましたが、グローバルマネーの冒険家たちは、かつてのように植民地を必要としているわけではありません。むしろ、そんな特定の領土に拘泥する必要がないのです。国境を越えて、この地上のいたるところにIT技術を駆使してグローバルマネーのネットワークを張りめぐらすことが、彼らに膨大な利潤をもたらすことになるのです。(p.58)


私見では、IT技術というよりも、主権国家体制が世界中にすでに存在しているために、比較的経済力の弱い政府に対して、金の力と資本の本拠地を擁する場所の政府の力を使って影響力を行使することで、利潤を上げられるようにできるということが領土を必要としなくなった要因ではないだろうか。



ばらばらに切り離された個人個人が、情報の洪水と巨大化したメディアにさらされ、何を信じたらいいのかわからない、何も信じるものがない、と無機質な気分になっているのではないでしょうか。(p.104-105)


ネット上で見られる「マスゴミ」非難などは、こうした気分が背景にあるようにも思われる。何を信じたらいいのかわからない、という不安定な感じを消すために、従前以上に「自分が信じたい情報」を欲しがる人々が、相対的に客観性を保持しようと努めているマスコミの報道に満足できずに非難しているという面は多々あるように思われるからである。もちろん、これとは逆に、相対的に客観的な報道をするよりも「視聴者が求める」情報を報道しようとする姿勢がメディア側に強くなり、それが批判されているという部分もあるだろうが。



人がいちばんつらいのは、「自分は見捨てられている」「誰からも顧みられていない」という思いではないでしょうか。誰からも顧みられなければ、社会の中に存在していないのと同じことになってしまうのです。
 社会というのは、基本的には見知らぬ者同士が集まっている集合体であり、だから、そこで生きるためには、他者から何らかの形で仲間として承認される必要があります。そのための手段が、働くということなのです。働くことによって初めて「そこにいていい」という承認が与えられる。
 ……(中略)……
 社会の中での人間同士のつながりは、深い友情関係や恋人関係、家族関係などとは違った面があります。もちろん、社会の中でのつながりも「相互承認」の関係には違いないのですが、この場合は、私は「アテンション(ねぎらいのまなざしを向けること)」というような表現がいちばん近いのではないかと思います。清掃をしていた彼がもらった言葉は、まさにアテンションだったのではないでしょうか。
 ですから、私は「人はなぜ働かなければならないのか」という問いの答えは、「他者からのアテンション」そして「他者へのアテンション」だと言いたいと思います。(p.122-123)


働くことの意味というのは、ひとつだけに修練することはできない多元的なものであると思われるが、姜尚中が指摘するようなアテンションというのも、重要な要素であるように思われる。経済的な必要性がもっともベースにあると思うが、それを満たすことだけが働く意味ではないし、著者も言うように「やりがい」などはさらにその先の段階の話であるというのも妥当である。このアテンションというのは、その中間にあって見えにくい領域であるが、本書は非常に重要な点を指摘していると思う。

ただ、働くことのできない障害者などに対する配慮が本書の論からは抜け落ちている。働くことのできない病人や障害者はどう考えるべきか?社会的には無用だと言い切ることには、たいていの人は躊躇するのではないだろうか。基本的には家族などのよりプライベートな関係にそれとは別の承認を求めることになるのだろうが、これらの人びとには医療や介護などを含めた公的な領域がかかわっているのであり、そうした人びとに対する視点が抜けてしまうところに、本書の指摘の弱みないし盲点はあると思われる。



 サービス業の大きな特徴として、「どこまで」という制限がないことがあります。(p.126)


なるほど!私の場合、今の仕事は明らかにサービス業なのだが、ある程度の線引きをしながら仕事をしなければ、度を超えてしまうということをよく感じる。その原因はまさに「どこまで」という制限がほとんどないことにあると思われるため、腑に落ちた言葉である。



 しかし、制約があったからこそ、それが「愛」なのか「愛ではないもの」なのかが、まだ見分けやすかったのです。たとえば、もし自分の意思とうらはらな伴侶を無理やりあてがわれれば、逆に、自分が真に心惹かれるのはどういう相手なのかわかったりもするでしょう。
 これに対して、何でも自由にしていいと言われたら、人は判断の基準を失って途方に暮れるのではないでしょうか。自由というのはたいへんな困難を伴うものです。
 愛する自由を手にしたことによって、愛からますます遠ざかっていくという皮肉がそこにあります。(p.135-136)


晩婚化などの傾向を「個人の自由」の進展から本書は切っているが、なかなか鋭いという感じがする。

愛について自由化が進んだために、愛というものが見えにくくなっていると著者は指摘している。そして、これは愛に限らず、さまざまなものが自由化によって見えにくくなり、確かなものがわからなくなってしまっている、という。そして、その中で「悩みぬけ」というのが本書の主張である。



 少々極端な話になってしまいましたが、いま、私自身が「愛」に関して実感していることは、結局「愛には形がない」ということです。形がないだけでなく、「愛のあり方は刻々と変わる」のです。
 「私にとってこの人は何なのか?」と問うことは、問いかけ自体が間違っているのではないでしょうか。すなわち、相手と向かいあうときは、相手にとって自分が何なのかを考える。相手が自分に何を問いかけているのかを考える。そして、それに自分が応えようとする。相手の問いかけに応える、あるいは応えようとする意欲がある、その限りにおいて、愛は成立しているのではないでしょうか。(p.140)


オートポイエーシスと非常に似ており、納得できる。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

近藤伸二 『反中vs.親中の台湾』

 政治大学の世論調査は継続性で定評があるが、同大学は1927年に南京で創設された国民党中央党務学校が前身で、蒋介石が初代校長を努めた。(p.23)


近日、台湾を訪問する際、政治大学も訪問予定だが、このスポットは日本のガイドブックには掲載されていないので情報が少なかった。そんなわけで、一応、ちょっとした予備知識としてストックしておく。



 「緑」と「青」が敵対の度を増すにつれ、台湾の南北対立も激化してきた。
 台湾では、北部は亜熱帯、南部は熱帯で、気候や風土が異なる。住民の気質も概して、南部の方が開放的でおおらかだ。そうした元来のちがいに加えて、台湾では戦後、台北に外省人が多く住み着いたため、外省人が多い北部と、本省人が多い南部という「族群」を下敷きにした地域対立に発展した。住民層も北部はサラリーマン、南部は農民が多く、いろんな面で競争意識が強い。(p.42-43)


台湾では南北の相違があることはさまざまな論者が指摘しているが、これもそのひとつ。本省人が北部に多く入ってきたという点はそれなりに重要なポイントの一つと思われる。



 政治家の金銭にまつわるスキャンダルが発覚するたびに、台湾では「緑」と「青」の激しい応酬が繰り広げられる。問題は、事件の再発防止のために法を改正したり、制度を改革したりするなど建設的な方向に議論が向かわず、互いの非難合戦に終始してしまうことである。(p.99)


「二大政党制」では、世論を少しでも味方につけたほうが絶大な権力を手にすることができる。小難しい政策論議よりもこうしたスキャンダルを利用したイメージ操作の方が世論を一方的に味方につけやすいため、政策論議よりもイメージ操作のための非難合戦が行われやすいと見ることができる。日本でも00年代以降、特にこの傾向が強まってきたように思われる。政策論なき非難合戦は、二大政党制と小選挙区制の弊害といえるのではなかろうか。



 台湾の産業構造転換がスムーズに進んだのは、中小企業が主役を演じてきたからでもある。台湾の産業全体の約98%を占める中小企業は、身軽で意思決定が早く、時代の移り変わりに機敏に適応することができた。
 台湾で中小企業が多いのは、大企業のサラリーマンになるより、小さな会社でも自分が「老板(経営者)」になりたがる台湾人気質に加え、外省人が支配する「省籍矛盾」のなか、多くの優秀な本省人は政治家や官僚の道を閉ざされたため、ビジネス界に身を投じたという社会情勢も背景にある。(p.141)


中小企業が多いというのは日本とも共通の構造であると思われ、興味深い。産業の構造転換には中小企業の方が機敏に適応できるという指摘には一応の説得力があるが、実証的には同なのか興味が引かれる。



 台湾は中国との貿易で稼いだ黒字で、他国との貿易赤字を穴埋めしているのが現実なのである。(p.147)


台湾の産業や貿易の構造を考える上で基本となる事実認識と思われる。経済的には中国との関係は密接であらざるを得ない状況になっている。冷戦時代は台湾海峡に東西の壁があったが、それがなくなったことによって、太平洋と中国をつなぐ位置づけとなってきたことが伺える。



 中国の国防費は08年度予算でも4177億6900万元(1元=約15円)で前年実績費17.6%増となり、これで20年連続2ケタの伸びを記録した。中国の国防費には兵器の研究開発費や海外からの武器購入費は含まれておらず、実際は公表額の2~3倍と指摘されるなど不透明さが際立っており、中国に隣接する日本と台湾が軍事面で協力を深めるのは自然の流れとも言える。(p.199)


中国に透明性を求めてもそれを担保する方法がない。必ずしも軍事に限らず、より広く外交面を見た場合、中国政府のエゴ丸出しの姿勢はある意味で非常にわかりやすい。私見ではこのエゴイズムは、国内での情報統制が比較的容易に行えることと対応しているように思われる。日本やアメリカなどでも自国の外交の現実については国内では報道されないことも多いのだが、中国の場合はそれに輪をかけているから。軍事面での透明性などに関しても、国内の情報や言論、報道の自由化を進めるところから着手する(させる)必要があるのではないだろうか。



民主化をリードしてきた民進党は、台湾人意識に訴えて支持を拡大してきたが、台湾人意識が定着するにつれ、それだけでは票を集められなくなった。08年の総統選挙では、人びとは経済発展や生活向上を求め、中国との関係でも安定を望んだ。(p.215)


民進党が台湾人意識に訴えるだけでは支持が得られなくなってきたというのは、現在の台湾の政治状況を分析する上でのひとつの重要な視点だと思われる。



テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

殷允芃 編 『台湾の歴史 日台交渉の三百年』(その2)

 十九世紀の台湾がたどった歴史の発展の跡を探すとしたら、大稲埕(現在の台北駅の西北方、淡水河に近い一帯。迪化街はその一部)は間違いなくうってつけである。
 現在の淡水河の九号水門、あるいは十一号水門沿いから市中心部方面に向かう大稲埕一帯は、建ち並ぶ建築物にも文化の多様性が随所に見てとれる。石を建材に使ったバロック風の洋館は、屋根の両側に山形の壁が高く突き出しているのが目立ち、簡単な幾何学模様を描いた壁、柱、手すりには、十九世紀ヨーロッパの近代的な理性の精神が垣間見える。ところどころに混じっている閩南風の小さな家は、反った屋根の頂上部を赤い瓦が彩り、軒が歩道を突き出し、赤い煉瓦と土の壁が人の目を引きつける。
 上海や日本の横浜、長崎がそうであるように、土地の様式に西方風の特色が入り混じったこうした建築には、東方の都市が近代西方に相対した時に受けた衝撃の歴史が刻み込まれているのである。
 大稲埕はもともと平埔族が住んでいたところであり、清代中期以前は少数の漢人と平埔族が農耕に従事していた。稲の籾を干す広い空き地(稲埕)があったことからこの地名がついた。
 1853年、大稲埕の艋舺(現在の万華)一帯にあった「行郊」で械闘が発生した。「行郊」というのは当時の台湾商人組織の名称であり、各種の商会(商業会議所に似た団体)の前身にあたる。貿易のために海を越えて台湾にやってきた商人は、商談をし、情報を交換し、資金のやりくりをするために、さまざまな「行郊」を組織した。業種中心の行郊には糖郊、塩郊が、また地縁中心のものには厦郊、泉郊などがあった。
 この時艋舺で発生した械闘は、福建省の同安人がつくった「下郊」と三邑人からなる「頂郊」との争いだった。結局「下郊」の同安人が負け、最初北方の大龍峒に逃げたが、そこに住む同安移民に受け入れられず再び大稲埕に舞い戻り、淡水河沿いに商店を開き、街並みをつくった。大稲埕は淡水河の水運があって交通至便だったため、たちまち各地の郊商がここに吸い寄せられてきたのである。
 1860年以前の大稲埕の勃興に見られるこのような足どりは、台湾の歴史においてはとりたてて珍しいことではない。
 河港であっても船舶が入れるほどに広く、相当規模の人口が収容可能な土地があり、勤勉な移民を擁し、加えて貿易による利益という共通の目的と、同郷同族からなるさまざまな「行郊」とを持つ大稲埕は、台湾の他の港町と同様、わずか十数年の間に台湾と大陸市場を結ぶ貿易圏に組み込まれていった。(p.169-170)


大稲埕の歴史。台湾経済が世界システムに取り込まれるプロセス。



 貿易による繁栄が台湾に利益をもたらさなかったもう一つの重要な原因は、貿易の利益が茶栽培農家や茶取引業者や台湾中南部の樟脳商人の懐に入らなかったことである。金融を支配するという手口で台湾の輸出貿易をがっちり握っていたのは、実は外国の貿易会社であった。
 茶産業の例では、中国人業者が業界の競争に参入する以前には、台湾茶の加工から輸出に至るまで、イギリスの貿易会社の一手独占だった。貿易会社が茶の供給を支配する手段に使ったのは茶栽培農民に対する貸付であり、農民は金を貸してくれる会社に頼りきりになった。……(中略)……
 1870年以後になって中国人業者が取引に参入すると、イギリスの貿易会社は策略を変えた。中国人が経営する茶行は、扱い量こそ多かったが規模は大きくなかったから、イギリスの会社はやはり仲買商的な「媽振(マーチェン:マーチャントの音訳)館」なるところを通して、これら小茶行に融資をした。……(中略)……。次々と資金が転貸されたあげく、結局利息を全部払わされるのは茶葉の生産者である農民であった。
 外国の商人や貿易会社は、このように金融を独占するという手段で台湾茶の輸出をがっちり握ったばかりでなく、砂糖や樟脳などの輸出でも同様の方法を使って利益を独り占めした。後の日本統治時代にも、商社がやはり金融を通じて砂糖の生産及び運搬・販売の全プロセスを押さえたのであった。
 台湾の開港は、台湾経済に一時は新たな高揚をもたらしたものの、当時は便利な交通網が建設されていなかったために、台湾経済はさらに発展してゆくチャンスを逸した。(p.177-178)


19世紀後半から20世紀前半は金融を用いた権力行使が世界中で自由に行われた時代であり、台湾にもそうした動きは波及していた。



 交通による連絡が不便だったことが、この時期の台湾経済のいま一つの特色を生み出した。それは、経済が個別に拠点型の発展を遂げ、さらに場所によってきわめて大きな差異が生じたことである。台湾大学歴史学部の呉密察教授の分析では、日本による統治以前の台湾の経済形態は、基本的には一つ一つの貿易港がそのまま市場を形成し、それぞれの港がその後背地を貿易品の生産・消費地にするというものであった。(p.179)


台湾という島は陸続きであるため、あたかもそれが一つの単位であるかのように扱われることがしばしばあるが、日本による統治以前には経済圏としてはまとまったものではなく、それぞれの港とその後背地が別々のシステムの一部であった

こうした状態は台湾に限らず、よくあることであった。



 福沢が求めたのは「文明」ではなく「覇権」にほかならなかった。(p.271)


なかなか日本の著作家はここまで直截に福沢諭吉を評することはないだろうが、彼が求めていたのは「文明」という衣装をまとった「覇権」であったと思われる。



 康寧祥に言わせれば、当初倭人統治をよしとしなかった台湾人の「漢人意識」は、日本軍の台北入城を前に自分たちが生き延びる道を求めた時から、一部の人の間で漠然とながら「台湾人意識」に転じていったという。(p.288)



これは上で引用した「日本による統治以前の台湾の経済形態は、基本的には一つ一つの貿易港がそのまま市場を形成し、それぞれの港がその後背地を貿易品の生産・消費地にするというものであった」ということとも関連する。台湾島には共通の経済圏が形成されておらず、全島的な統治組織も存在していなかったため、同じ島に住んでいても特に共通の利害によって結ばれることもなかったし、あったとしても意識されるような情報が流通することもなかった。よって、「台湾人」という意識は生まれなかった。

しかし、下関条約によって「台湾」が単位として清国の領土から日本の領土へと組みかえられることによって、「台湾」という土地に共通の利害関係が生じ、その利害関係が多くの島民に意識されるようになった。この利害関係の意識がこの時期の「台湾人意識」なるもののコアの一つであると思われる。

但し、この「台湾人意識」はすべての島民に共有されたようなものではない。



 台湾の隠田は、清朝の統治システムが緩やかで、支配能力が脆弱だったことを象徴する存在である。土地は民間での売買や強奪を通じて封建制度の一部を形成していた。(p.300)


なるほど。



 台湾大学医学院の現在の建物は建て直されたものだが、医学校時代のフランス・ルネッサンス風の漆喰建築は、記念のために特別に保存されている。(p.306)


機会があれば見てみたい。



 台湾における日本当局の教育の重点は、徹底した短期実利主義に立って実学を重んじ、当局に忠実で法を守る国民を育てることにあった。植民地人民の思想啓蒙は顧みられず、従って台湾人子弟が政治学、法律学、哲学などの人文科学、社会科学などを学ぶことは禁じられた。(p.350)


当局が道具として使いやすい知性を啓蒙し、当局に批判的になりやすい知性は与えようとしなかった、と言い換えてもよいだろう。

実学重視というのは北海道大学の特色でもあった。北海道と台湾の類似性に着目する私の視点からすると、この点は興味を引く。



 日本は台湾で中等・高等教育を施すことには積極的ではなかった。台北帝大にしても1928年になってようやく創立され、しかも南洋侵略の人材を育てることが主目的であった。台湾が中国本土の華南や南洋にきわめて近い地理的位置にあるので、これら地域を侵略するための調査と研究には好都合だったのである。(p.351)


教育機関の設立目的や機構などから、当時の政策の方向性を見るのは興味深い着眼点であるように思われる。



テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

殷允芃 編 『台湾の歴史 日台交渉の三百年』(その1)

 大陸への肉親訪問が自由になってから、多くの台湾育ちの知識人は手ひどい打撃を体験した。漢や唐の隆盛を受け継いだはずの中国が、もはや再び漢や唐にはなりえないという残酷な現実に、直面せざるをえなかったからである。地理や歴史の教科書に繰り返し描かれてきた中国、豊かななりわいと輝かしい文化に恵まれた中国は、とうの昔に存在しなくなっていたのである。(p.2)


本書の原著は91年に出版されているが、その頃の台湾から見た中国の印象。



地球を半周してやって来た数百人のオランダ人が、はるか遠方の見知らぬ島にやすやすと住みつくことができた何よりの理由は、当時の台湾には組織というものが全くなかったためである。(p.44)


台湾の原住民が政治的な単位をなしていた限りにおいて、「組織」が「全く」なかったというのは、やや強調しすぎであろうが、「高度に組織化された権力機構がなかった」という意味では正しいだろう。

話は横道にそれるが、こうした状況が世界中の多くの土地に見られたということが、帝国主義時代に植民地が世界中に作られることを可能にした条件の一つであった。金融資本が政治権力を利用して金融資本の支配力が及ぶ自らの版図を広げようとするとき、政治的権力機構が未整備な土地に政治権力(軍事力)をもって介入するよう働きかけるインセンティブが働く。それに対し、現代の金融のグローバルな自由化が帝国主義時代のような領土的植民地獲得の運動と異なるのは、曲がりなりにも世界中に主権国家体制が遍く存在するようになったためであろう。



オランダ東インド会社も宣教師をかかえており(将兵あがりの宣教師も少なくなかった)、彼らの信仰するカルヴィン派キリスト教の布教にあたった。宣教師たちは軍隊の後について原住民のコミュニティーに入っていった。武力の威嚇を利用した宗教の使者であった。彼らはまた学校を設け、原住民にローマ字の表記法を教えて教師の役目を兼ねた。宣教師によっては、司法官になったり行政の手助けをするなどで、原住民社会を隅々までコントロールした。いったん宗教を受け入れてしまえば、原住民がオランダ人の統治に反抗を企てる余地はなかったのである。(p.45)


武力を背景として宣教師がコミュニティに入り、その宣教師が教師となり、司法官となり、コミュニティを支配するようになる。宗教現象は、政治の問題として捉えるとスッキリと説明できる(なぜならば、宗教団体は政治団体であるから)というのが私の持論だが、この台湾のケースはまさにその典型的な事例のように思われる。



この時代は根なき時代であり、学者の分析では1860年前後になってようやく移民開拓社会から定住社会に移行していったという。それまで二百年もの間、台湾の島に住む住民には「台湾人意識」などはなく、自分たちは広東人や福建人であり、あるいは泉州人や漳州人であり、さらには泉州安渓人や漳州漳浦人であるとさえ考えていた。(p.114)


ここでは定住化したことにより、「台湾人意識」が生じたことになっているが、単に定住しているというだけでは「台湾人」意識は生じない。実際、原住民は恐らく定住している人も多かっただろうが、彼らは必ずしも「台湾人意識」を持っていなかったであろう。また、いわゆる「ユダヤ人」がイスラエルを建国した場合のように、定住していなくても共通のアイデンティティを持つこともありうる。むしろ、アイデンティティは「共通の利害があると感じる範囲」に深くかかわっているように思われる。



 鉄道が西方の国家に与えた最大の影響は、ヨーロッパ主要地間の交通時間が十分の一に短縮され、一国の政府が統治可能な地域が十倍に広がったことであった。(p.166)


最近、私も鉄道に若干興味を持つようになったので気になった箇所。なお、鉄道に興味といっても鉄道オタクになったわけではない。鉄道自体に興味があるというより、鉄道が果たした社会的役割とその変遷などに興味が出てきたのである。その意味でこの叙述は簡潔で的を射ている。

19世紀から20世紀初頭の「国民国家」形成期において、帝国(ハプスブルク帝国、オスマン帝国、大清帝国、ロシア帝国など)が相次いで崩壊し、国民国家が成立していったことの要因の一つとして、交通や通信手段などの技術革新があったものと思われる。すなわち、「国民国家」のサイズまでの範囲内で人を強力に動員できるシステムを形成したことが「国民国家」が「帝国」を駆逐した要因であろう。






テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

伊藤潔 『台湾 四百年の歴史と展望』(その3)

その後、1965年に援助が打ち切られたのちも、米の生産コストが高いことと、対米輸出の黒字を削減する必要から、台湾は米国の小麦を輸入してきた。これが台湾の米作農業に大きな影響をおよぼすと同時に、台湾人の食習慣を変え、パンや饅頭(マントウ)など小麦食品が嗜好されるようになった。(p.193)


戦後に於けるアメリカとの関係は台湾社会の多くの部分を規定する要因として作用している。



 台湾経済の工業化の展開をかえりみれば、1950年代の輸入代替工業化、60年代の輸出志向工業化、70年代の重工業化、80年代のハイテク産業育成の過程をたどり、90年代はハイテク産業を軌道に乗せ、技術先進諸国に伍すだけの競争力の確保をめざしている。(p.201)


簡潔な要約。



…(前略)…「台湾関係法」は中国の台湾に対する武力侵攻と、国民党政権による台湾住民の人権抑圧を念頭においている。
 中国の武力侵攻はさておき、「台湾関係法」の第二条のC項には、「すべての台湾住民の人権を守り、かつこれを促進する合衆国の目的をここに改めて表明する」と記されている。これを受けてレーガン大統領が、1985年8月に署名した「外務授権法(1968-87年度)」には、「台湾における民主主義」の項目がもうけられている。それには「台湾における民主化運動のいっそうの発展は、米国が台湾関係法で規定されている道義的、法律的な義務を継続するための支えとなる……台湾関係法の精神にもとづき、その目的に向かって、台湾が力強く前進するよう、米国は台湾当局に勧告する」と強い調子で明記されている。このいずれも、後日の台湾における民主化に大きく寄与している。(p.209)


アメリカの国内法で台湾との関係が扱われることによって、台湾の民主化が劇的に進展することとなった。本書でもこの少し後で「国際社会で孤立を余儀なくされている台湾、とくに国民党政権にとり、米国こそは頼みの綱であり、民主化の要請は無視できなかった」(p.210)と述べられている通りである。このプロセスは、歴史的にも非常に興味深い事例ではないかと思う。そして、一つ念を押しておきたいのは、独裁政権の下で、自ら内部的な要因によって民主化が進んだわけではないということである。



中国政府は香港とマカオの「一国両制」を「台湾統一」のモデルと位置づけているが、総督の立法に関する諮問機関に過ぎない、立法評議会の民主化でさえ認めない「一国両制」を、民主化の進んでいる台湾住民が受け容れるはずはない。しかも植民地支配下の香港とマカオは、日常生活物資の大半を地続きの中国に依存しており、軍事的にも中国に対抗する意思も能力もない。香港やマカオは「一国両制」を受け容れざるを得ない事情があり、台湾とは同列視できないのである。
 1992年の中国人一人あたりのGNPは380米ドルほどで、台湾の1万200米ドルとは25倍もの開きがある。また、中国政府は「社会主義市場経済」のもとで、今後も政治の民主化を拒否することから、経済的にも政治的にも中国と台湾の格差は拡大するであろう。これほどの格差が存在する限り、中国の台湾統一は非現実的である。(p.228-229)


前段は説得力がある。香港・マカオと台湾は一国両制(一国二制度)では前提条件が異なっており、香港・マカオに対してできたからと言って台湾に対しても適用できるわけではない。

後段は17年前には中国と台湾の間にはこれほどの差が存在していた。2008年には中国の一人当たりGDPは3,266ドルであり、初めて3,000ドルを超えたという。これに対し台湾は30,911ドルとなっており、約9.46倍にまで縮まっている(ちなみに、日本は34,115ドル)。恐らく、中国沿海部の省の平均的なレベルは中国全体の平均より高いだろうし、一人当たりGDPという指標は人口が少なめの方が高くなりやすいとも思われるため、あと10年あまりで中国東部の平均レベルは台湾と大差ない状態にまで到達すると思われる。そうなると、統一について「非現実的」という条件がかなり緩和されることになると思われる。

また、「社会主義市場経済」だから経済的格差が開くと予想するのは言葉に騙されているとしか言えない。社会主義市場経済であると言うこととと、社会主義市場経済であることとは別のことであり、また、社会主義という形容詞が意味を持つ形で現実に作用しているかどうかを考えると、中国の場合、それを肯定する材料はほとんどないのではないか。この部分の予想は2009年現在から見ると大きく外れている。ただ、政治の民主化の程度という点については台湾と中国の差は大きく開いたとは言えるだろう。




共産党の一党独裁を堅持する、重症の「民主恐怖症患者」の中国政府にしてみれば、民主化は恐るべき「洪水猛獣」であり、「台湾化」は「台独」または「国独」への道と映る。(p.232)


民主恐怖症患者というのはなかなか毒があるが的確な表現でもある。

台湾のみならず、新疆やチベットとも問題を抱える中国政府には経済成長という追い風があるため、ソフトランディングしやすい環境があるが、それがうまく行くかどうかが、今後20~30年ほどの中国の見所であると思う。





テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

伊藤潔 『台湾 四百年の歴史と展望』(その2)

ちなみに、この巡撫衙門は台湾民主国の独立式典の会場でもあり、日本統治下で台北公会堂に改築され、さらには第二次世界大戦に敗戦した日本の、中華民国国民党政権に対する降伏式の式場となった。日本の降伏式は国民党政権の台湾始政式でもあり、その後、台北中山堂と改名されて今日にいたっている。この建物こそ台湾の変遷のあれこれを眺めつづけて来た、物言わぬ歴史の「証人」であろう。(p.73)


近日訪問予定の場所についての説明なのでメモしておく。



「土匪」の鎮圧の難しさに加えて、言語の問題もあった。日本政府は台湾人が中国語(北京官話)に通じていると思い込み、中国語の通訳を台湾に派遣した。(p.79)


第三代台湾総督・乃木希典の時代またはそれまでの期間についての記述。

国民国家化し、そうでないあり方を想像しえなくなっていた日本側と、国民国家化していない清国・台湾の状況が垣間見える。



従来の旧式製糖技術の革新にも腐心する後藤は、新渡戸稲造を台湾に招聘した。(p.93)


新渡戸稲造が台湾に来ていたことを私は比較的最近になってから知ったのだが、それが後藤新平による招聘だったということを本書の記述で知った。我ながら勉強不足ではあるが、昔の日本の政治家や学者などについては、あまりこれまで調べてこなかった分野であるということを痛感した。最近、日本に対する関心が私の中で比較的高まってきているので、このエリアに関する歴史や人物などについても少し調べを進めていこうと思う今日この頃である。



 今日の台湾人年配者に多く見られる親日感情は、これら日本人教師の存在に負うところ大である。日本が台湾を放棄した後、新たな支配者となった国民党政権は、日本植民地下の教育を「奴隷化教育」ときめつけているが、それは近代的な市民意識に対する認識を欠く為政者が、みずからの独裁と腐敗の政治を隠蔽し、責任を転嫁するための口実に過ぎない。(p.118)


大無縁妥当な評価と思われる。

今回の台湾訪問ではこの日本語世代の台湾人の家に泊めてもらう予定になっているので、その時代の思い出話などを聞かせてもらうことを通して、この時代の様相を少し具体的に知りたいと考えている。



 台湾人の悲劇は、日本統治下で体得した「法治国家」「法の支配」の精神を、国民党政権にも期待し、幻想を抱いたことである。知識人の多くは「治安警察法違反事件」(1923年)を経験しており、政府を批判したり抵抗しても、「悪法」とはいえ法にしたがって裁判と処罰を受けている。ところが「祖国」には、「法の支配」の概念のカケラさえなく、ただあるのは、批判や抵抗する者を容赦なく「鉄砲で裁く」ことであった。(p.157-158)


私の評価としては、日本による植民地統治の方が国民党による独裁時代よりも幾らかマシのように見えるのだが、このあたりにその大きな要因があるように思われる。というのは、曲がりなりにも「法治」がなされていれば、悪法であってもそれを改正(を要望)することができるし、さらには実際の運用と条文の関係をチェックしていくことによって、ある程度までは改善の見込みが立つが、「鉄砲による裁き」が平然と行われる場合は、改善のための手段が被治者の側には全くというほどなく、統治者の側には法的及び政治的には、そうする誘因もないからである。

台湾ではなく、大陸の共産党独裁では未だに法治が十分行き渡っていないようだが、恐らく資本のグローバルな移動が中国にも及ぶようになってからは、徐々に改善を余儀なくされているように思われる。このように、経済的な要因により法や法の運用の改善が求められることがありうる。近未来にそのあたりの実情を少し調べてみたい気がする。



 「二・二八事件」に関連して、一ヵ月余の間に殺害された台湾人は、国民党政権のその後の発表によれば約二万八000人を数える。これは当時の台湾人の200人に一人が犠牲になったといえ、日本の50年間の統治において、武力抵抗で殺戮された台湾人の数に匹敵する。(p.159)


上の引用文のように国民党独裁下で「鉄砲による裁き」が行われたことの最も象徴的な事件が2.28事件だろう。



国民党の性格は共産党とほぼ同じで、革命が成就、つまり「三民主義」(孫文の主張する「民族主義」「民権主義」「民生主義」)が、全中国に実現するまで「革命」をつづける「革命政党」であり、党首(蒋介石のときは総統、その後は主席)に絶対的な権力を集中させた。(p.171)


現在は国民党の性格も変わった部分があると聞いているが、冷戦時代とそれ以前においては国民党が共産党と「同じ性格」であっても驚くにあたらない。

当時の世界システムにおける半周辺的なステイトの統治機構では、中核に対する防衛的な態勢を整えるための政治運動であり、「外敵」と対峙するために「支配域内」の資源を集中的に動員できるようにする必要があったのである。イデオロギーの違いは表面的なものに過ぎない。



 中国の政治文化には「投票箱から政権が生まれる」という発想はない。毛沢東がいったように「鉄砲のもとで政権が生まれる」のが、中国政治の真髄である。(p.177)


「中国の政治文化」なるものを不変の実体のように扱うとすれば、最初の一文は私としては大いに批判すべきタイプの言論だが、民主主義というものの方が、むしろ歴史的に見ると、かなり特殊な「政治文化」であるということは指摘しておこうと思う。「投票箱から政権が生まれる」よりも、「鉄砲のもとで政権が生まれる」という方が歴史的には常態だったのである。もちろん、言うまでもないことだがここでの「鉄砲」は武力の象徴であって鉄砲そのものではない。



1970年代まで、軍事費の予算は総予算の50%を超えており、公共建設などの社会資本への投下にしわ寄せをきたしている。そればかりか国民党も共産党同様に、軍人や兵士に対する「政治教育」を徹底しており、国民党と蒋介石父子の「私兵」となったため、国民党政権への批判勢力を敵対視している。(p.178-179)


支配域内の資源を集中的かつ強制的に動員する際に必要になるのが、こうした暴力装置の掌握であり、暴力装置に頼らなければならないが故に「鉄砲による裁き」とならざるをえない。

経済的な豊かさが人々に行き渡ると、一般の人々の「権力」が強まる(経済力は「財を処分する権力」であり、民衆の経済力がつくということは民衆が動員できる財の質量が増えるということである)ので、政権中枢の権力が相対的に弱くなるため、武力による支配の度合いが減じ、デモクラティックな体制に移行しやすくなる。もちろん、経済的な要因だけではなく、域外との関係なども重要な要因になるが。




テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

伊藤潔 『台湾 四百年の歴史と展望』(その1)

 スペインの台湾占領は短かったが、この間に北部開発の労働力として、中国からの移民を招来し、先住民とともに開墾・開発にあたらせ、ことに台北近郊の北投における硫黄の採掘に力を入れた。硫黄の採掘は、台湾北部の開発に先鞭をつけたといえる。また、先住民や移住民に対するカトリック布教のために、『淡水語辞典』を編纂し、布教医療としてのマラリアの治療を通じて、西洋医学の知識をもたらしたことなど、南部のオランダによるキリスト教の布教と同様に、台湾の文化史の上で大きな意義をもつ。(p.21)


台湾の歴史というとどうしてもオランダによる南部支配に重点が置かれがちであるが、スペインの動きにも興味深いものがある。北投には温泉があるはずだが、硫黄がとれることと関連があるのが見えて興味深い。また、キリスト教布教と言語、医療の関係も興味を引かれる。ヨーロッパ諸国による植民地におけるキリスト教布教には政治的な意味があると思われる。共通の道徳観念を持つことにより、統治しやすくなる面があることや教会組織を通じた情報の流通などもその役割だし、互助組織として活用することで福祉行政的な意味合いも教会にはあったものと思われる。言語も医療もこうした側面と関連がある。




 反清復明を国是とする鄭氏一族が台湾に移ると、清国政府はすぐさま台湾に対する封鎖を断行した。「遷界」と「海禁」である。遷界は広東、福建、浙江、江蘇、山東沿岸五省の住民を沿岸から30里(清代の一里は576メートル)の内陸に移し、この間での居住や農耕はもとより立ち入りを禁じ、海禁は漁船や商船の出入港を禁止したものである。ところがこの封鎖政策は、かえって中国との密貿易を必要とさせ、台湾の海上貿易の発展をいっそう促した。台湾は台中貿易の一大拠点となり、貿易の利益は増大した。また、皮肉にも封鎖政策に苦しむ中国沿海ことに福建、広東の住民が、ぞくぞくと台湾に移り住み、台湾の人口増加の一因となっている。(p.31-33)


海禁政策の意図せざる結果。この場合は単に「意図せざる」というより、逆効果が大きいため、政策の失敗というべきかもしれない。

台湾の歴史について書いている書物では、清はほとんどの場合、否定的に評価されたり、否定的なイメージで捉えられることには注意しておく必要がある。



テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

NHK「美の壺」制作班 編 『明治の洋館』

 屋根上の塔やベランダのついた洋館が全国各地に次々と建てられるようになったのは明治の初期。その背景には、明治政府の思惑もあった。当時、安政の不平等条約を一刻も早く改正しようと躍起になっていた政府は、欧米諸国と同レベルの近代的な洋風建築物を早急に建て、日本が欧米諸国と対等の文明国であることを誇示することが、交渉成功には不可欠であると考えたのだ。(p.9)


日本政府が欧米と対等であろうとしたことは確かだろう。そして、洋館を建てるには、欧米の建築技術なども学ばなければならず、立派な洋館があることは、それを学んだということを示す標識にはなる。この傾向は植民地における建築でも同様であり、西澤泰彦の『日本の植民地建築』において、より詳しく且つ適切に指摘されている。



 ただひとつ問題点を挙げるなら、明治初期の日本にはまだ建築家という肩書きを持つ日本人の専門家が存在しなかったこと。
 幸か不幸か、この人材不足こそが明治の洋館ならではの意匠の面白さと味わいを生みだす鍵となったのだ。(p.9)


なかなか面白い着眼点。西洋建築を学んでいない大工や左官などが洋風の建築を見よう見真似で作っていったのだが、従来の日本の建築の技術などをふんだんに用いて、知恵を絞り工夫を凝らして作られていることが見出されるわけだ。本書を読めばその具体的な中身もある程度見えてくる。



 新撰組を題材にした劇場やドラマで必ずといっていいほど登場するのが、池田屋騒動の階段落ちのシーン。傾斜のきついまっすぐな階段からいっきに転げ落ちるのがおなじみの演出だが、西洋建築が入ってくるまで、日本の階段といえば、どれも池田屋と同じようなタイプで、まっすぐな階段、もしくは梯子段だったとか。
 踊り場付きの折れ曲がった階段は、開国により西洋建築とともにもたらされた。(p.23)


確かに言われてみれば、日本の古い建築で踊り場つきの階段というのは、見たことがないかもしれない。日本ではレンガや石造の建築はあまり多くなかったことが関係しているようにも思われるが、中国や中東の古建築はどうだっただろうか?もし、これらの地域にもないとすれば、踊り場つき階段というのは、むしろローカルなスタイルだったのかもしれない。どこで発明されたものなのだろう?

建築を見たり体感したりする中で、いままであまり階段というものに注目したことがなかったので、本書を通して新しい見方、新しい着目点を得たように思う。



 階段が曲がっていると、見る角度が変わり、単調さがなくなる。さらに、視界に入る内部の景観が次々と変化し飽きることがない。階段は、洋館の魅力を余すところなく味わうための舞台装置として機能するのだ。洋館を訪ねたら、ぜひともその醍醐味を、存分に味わってほしい。(p.23)


ヨーロッパの宮殿などに行くと必ずと言ってよいほど壮麗な階段があり、そこでは天井にはフレスコ画のようなものが描かれていたり、豪華なシャンデリアが飾られていたり、手すりや壁面などに装飾が施されていることが多く、観光客はいたるところで写真を撮ったりするのだが、やはり人が写真をとりたくなるということは、訪れる人々に何かを感じさせるものがあるということだ。

景観の良い都市には坂と海があることが多い(例えば、函館、香港、ナポリ、イスタンブールなど)というのが私の経験だが、階段は坂と同じで、場に高低差をつける装置であって、その高低差が空間のダイナミズムを形成するのに一役買っているのではないか。ちなみに、建物内部の景観において、「海」に相当するのが天井や壁面などであろう。



フランス積みのレンガ壁に出会ったら、その建物はかなり古いものと思ってよい。(p.62)


フランス積みというのは、同じ段の中に長手と小口を交互に並べて積むレンガの積み方で、フレミッシュ・ボンドとも言う。なお、「フランス積み」という言葉は誤訳が定着したものだという。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

佐藤啓子 『赤レンガ近代建築 歴史を彩ったレンガに出会う旅』(その2)

 イギリス人の意識では、今でも、煉瓦造りと言えば、どこか「簡便なる建築」という感じに受け取られていて、それは日本人が赤煉瓦に抱く、ある種の高級感とは、まったく正反対のところがある。(p.149)


石造建築が主流か木造建築が主流かという点が、この感覚の相違の一つの要因だろう。レンガ造はこの中間程度の重厚さを感じさせる。また、日本以外の多くの地域ではレンガ造の建築は中国でも朝鮮でも中東でもヨーロッパでも比較的一般的に見られ、材料としても近場で比較的安価に作られる(石材や木材を調達するよりは一般に低コストであろう)から、「特別なもの」という印象はないと思われるが、日本では風土などの問題もあってレンガ造の建築は根づいていないからレンガ造建築にはどこか「特別のもの」「舶来もの」という感じが付きまとい、それが「高級感」に結びついているものと思われる。



 さて、我国では、建築は基本的に「屋根」から進化してきたもので、壁というものは、歴史的にあまり考慮されなかった。・・・(中略)・・・。
 なにぶん、煉瓦建築は「壁本位」の建築であって、構造的に窓を大きくできないので、イギリスのような冷涼な、そして乾燥した夏を持った国には適切でも、日本のように高温多湿な夏の国では、どう考えても、適応から外れるのであった。まさに兼行の看破したとおり、「夏を旨とすべき」家が、煉瓦で造った場合は、「冬を旨として」造られることになるのだから、そこには居住の快適性機能性の上で大きな問題があったわけである。
 ・・・(中略)・・・。
 しかし、工場とか倉庫とかいうような耐火性能を問われるような建築物には、鉄筋コンクリート以前の時代、煉瓦は真向きの材料であった。窓が小さいということも、あの伝統的蔵造りと同じく、こうした用途にとっては好都合だったのである。それゆえ、現在残っている多くの煉瓦建築が、こうした非居住目的であるのは当然であった。(p.149-150)


かなり興味を引かれた箇所。

日本では建築は屋根から進化したというのは、かなり大雑把というか雑な把握の仕方であるということはできるのだろうが、寺院建築などを中国の建築と比較して私が感じたこととも通じる面があるように思い興味が引かれた。すなわち、日本の寺院建築は中国のものよりも屋根が大きく、雨を防ぐ機能が重視されており、かつ、美観の上でも屋根が建築の美しさを高めているという印象を強く持っていたので、「屋根から進化した」と言われると、そういう面もあるかもしれないと感じられる。

雨が多く、湿気が多い気候から、確かに雨を防ぎ、風通しがよい建築が求められ、それは屋根に重点があり、壁はできるだけ少なくなるというのは納得できる。

レンガ建築が工場、倉庫、鉄道関連施設、軍事施設などで使われたのは、引用文で指摘されている耐火性のほか、基本的には安価で修復等もしやすいなどの経済性(日本の場合、時刻で生産できる体制が整うまでは高かった時期もあるようだが)や堅牢性、耐久性なども大きな要素だろう。これらの施設にはこれらのいずれもが求められる。



 そうして、よくよく考えてみると、現在はまた価値観が一順して、モダニズム、あるいはポストモダン的なものが行き着くところまで行き着いてしまって、かえってレトロスペクティヴなものに対する憧憬、いわゆる懐古趣味が脚光を浴びるようになってきた。
 各地の港湾倉庫などを、取り壊さずに、これを補強復元して、さまざまの目的に再利用していくという趣向の伸長は、とくに近年めざましいものがある。

 ただ、私はちょっとそこに危ういものを感じるのは、イギリスのたとえばテムズ河畔の工場・倉庫群の再利用などと比べると、日本のそれが、どうも「観光客」本位という感じがしてならないことである。・・・(中略)・・・。


同感である。

まずは、現在、モダニズムもポストモダニズムも行き詰っており、レトロスペクティヴなものが再評価されているという点。日本はこの傾向が顕著かもしれない。(中国の都市部などではポストモダニズム的な奇抜な高層ビルが次々と建てられており、必ずしも引用文の見方は全肯定はされない。それでも美しい小鎮(村)を残して観光地化しようという動きはあるようで、日本などと同様の傾向は見られる。)

これはグローバル化が進む中、ある種の防衛反応として、ナショナリズムや土着性への回帰へと人々の意識が向けられていることと無関係ではないように思われる。モダニズムやポストモダニズムのような国籍や歴史とは切り離されたイメージのあるものではなく、土着の歴史にアイデンティティを見出そうとする動きが世界各地で見られる。

建築に限った話ではない。歴史教育や歴史学などを見ても、90年代以降の中国で排外主義的な傾向を持つ愛国主義的な教育がなされていたことや、台湾でも、それまで教えることがなかった「台湾史」が1997年頃から学校で教えられるようになったり、日本でも「愛国心」や国旗・国歌などがやたらと称揚される傾向が90年代頃から急速に強まった。EUではフランスとドイツの歴史教科書の共同研究などが見られたが「国」単位ではなく「ヨーロッパ」を単位として、それを土着のものとして再定義していく方向性があるのではないか。

私自身も確かにこうしたレトロなものに関心が高まっているのだが、建築にかんしては、明らかに近隣諸国を旅行したことが反映しているのであり、その意味ではグローバル化の一部(国境を越えた人の往来の自由化)が土着のものへの関心を高めているとは言える。そして、現代が金融グローバル化の時代であるが故に、同じく金融グローバル化、金融自由化の時代であった19世紀後半から20世紀前半に関心を高めているのであり、これもある意味ではグローバル化へのリアクションである。


さて、引用文の筆者が懸念する「観光客」本位の保存という傾向にも同感である。これについては次の引用文で的確に批判されている。




 ただ、観光客にだけ受けようという再生の陰で、観光の目的にかなわないロケーションにあるものは、容赦なく破却されていく、という現実を目の当たりにしながら、その破壊する者の視線と、ただただ西洋の象徴として憧憬するばかりであった者の視線とには、根の深いところで共通するものがあるように、私には思える。
 それは、建築というものを、私どもの歴史的環境として着実に視認するのでなくて、一過性の流行的オブジェクトとして使い捨てにするという、まことに非歴史的な視線と心根とを感じるからである。(p.153)


西洋の象徴として憧憬するばかりであった者とは、文明開化の時代の日本の人々のことを指している。

これらの現象の背後もやはりグローバル化があると私には思われる。

「観光客」本位というのは表面上にすぎず、実際には「経営者」本位または「投資家」本位というのが、観光産業の現状であり、「観光産業によるレトロなものの保存と破壊」のバックグラウンドであり、レトロな建築は彼らの金儲けのための手段にすぎない

過去の「西洋化=近代化」を目指した時代に、西洋風の建築は、対外的には欧米列強に認められるための手段として建てられた面があり、対内的には権威を誇示するための手段でもあった。

いずれも建築の日常的な用途とはズレがあるという点では同じである。ただ、後者の方がやや持続性はあるようには思うが。



テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

佐藤啓子 『赤レンガ近代建築 歴史を彩ったレンガに出会う旅』(その1)

 サッポロビール博物館は、明治二十三年、札幌製糖工場として建てられたものだ。札幌麦酒会社(現サッポロビール)が買収したのは十三年後。(p.12)


台湾と北海道の類似性について最近興味を持っていたところだったので、この叙述に引っかかった。同じ時期、台湾でも製糖業が盛んだったはずだからである。

ウィキペディアでサッポロビール博物館を調べてみると興味深い事実が書かれていた。記載されていた内容に私の知識を加えてまとめなおしてみる。

まず、札幌農学校に来ていたお雇外国人であるクラーク博士(Boys, Be ambitious!のフレーズで有名な人)が北海道における甜菜栽培と関係があるということ。すなわち、彼が学長をしていた大学であり、札幌農学校がお手本としていたマサチューセッツ農科大学は、当時「全米屈指のテンサイ製糖技術を持っており、クラークもテンサイの栽培を北海道へ定着させようという希望があった。クラークの帰国後、開拓使は北海道内でのテンサイの導入に着手」したという。

その後開拓使は1878年、札幌農学校へテンサイの栽培を委託し、1879年に紋鼈製糖所を建設するなどした。その後製糖所は民間へ払下げとなる中で、1888年に札幌製糖株式会社が創立され、1890年にテンサイ糖の工場が建設された。この工場が今のサッポロビール博物館である。

しかし、1895年の日清戦争後、日本が台湾を植民地化した。台湾はもともと製糖業が盛んであったが、日本の資本が入って以降は更に製糖業の生産体制を整えていった。また、台湾をめぐる交易ルートは日本による領有以前は中国大陸との交易が多かったが、植民地化以後は日本向けの移出に切り替えられたため、日本「内地」(北海道も含む)の甜菜製糖業は台湾糖業に対抗できず衰退し、「札幌製糖株式会社のテンサイ糖工場も解散となるが、札幌麦酒会社が1903年にこれを買収。建物に増改築を施し、製麦工場として運用した」とのこと。

私としては、台湾と北海道の類似性に気づくようになってから両者についての興味が増していたところだったが、ここでは類似性というより関連性が見えてきて興味深いところであった。

ちなみに、クラークから直接教えは受けていないが、開拓使から甜菜栽培を委託された札幌農学校の第二期生である新渡戸稲造は「民政長官時代の後藤新平の下で台湾の製糖業の再編に協力している」。



 本書で登場する赤煉瓦建築は、鉄道施設や工場、倉庫、軍事施設など幅広い。都心部の庁舎や銀行、洋館などは思いのほか少ない。この傾向は、現在まで残った建築の種類や本書の嗜好にもよるのだろうが、歴史的な必然性も併せもっている。
 幕末から明治半ばまで、洋風建築の中でも官庁や銀行など格調高い建築は石造風仕上げや漆喰塗り仕上げが好まれた。構造は煉瓦を積んでつくったもの(煉瓦造)であっても、表面を石積み風、あるいは漆喰塗りで仕上げていたのだ。煉瓦をそのまま外壁に露出した建物は、工場や倉庫、鉄道施設や軍事施設などに多かった。旧日本銀行京都支店、東京駅、大阪市中央公会堂など、都市部に華やかな赤煉瓦建築が建つようになるのは、主として明治後半から大正半ばのことであった。それでも赤煉瓦のオフィスビルは以前少数派で、倉庫や工場が主流であることに変わりはない。
 こうした歴史によるのか、「レンガ」よりも「煉瓦」という表記に親しみを感じる世代の方の話をうかがうと、刑務所や工場など、煉瓦に対してネガティブなイメージをもっている場合が少なくない。また、日本で有名な煉瓦造建築は原爆ドームや浦上天主堂など、戦争遺産であることも多い。時代によって煉瓦に対するイメージが変化し、いまや現代建築が失いかけている魅力を備えた材料として、憧れや回顧の対象となってきたのだろう。(p.101)


酒井一光氏のコラムより。

前段については、私も本書を読んでいて赤レンガは建築の用途が産業遺産や戦争遺産などに多く、それ以外のものは少ないと気づいたときに、このコラムを読み「やはりそうか(赤レンガ建築には用途的に特定の方向性を持っていたのだ)」と思ったところである。

また、レンガ造の建築物でも「幕末から明治半ばまで、洋風建築の中でも官庁や銀行など格調高い建築は石造風仕上げや漆喰塗り仕上げが好まれた」というのも、思い当たるフシがあると、なるほどと思えた。例えば、日本銀行旧小樽支店は竣工が1912年であり明治と大正の境目にあたるため、この記述とは時代的には多少のズレがあるが、石造に見えるように仕上げられている。レンガ造よりも石造の方が重厚な印象を与えるため、権威を示す必要がある建築にはレンガよりも石造の方が向いているということだろう。

レンガがそのまま露出しているものは、権威や富を誇示するための金をかける必要がない、より実用的な建物に多いと考えれば、納得がいく。

明治後半以降にレンガ造の建築が都市部にも建設されるようになった原因については説明されていないように思うし、私としても疑問に思うところ。ただ、レンガはそれまでの日本で主流だった木造などと比べると重厚な印象を与えることができ、その頃には国産のレンガも製造可能になっていたことなどから、石造や石造風仕上げをするほどには金をかけずに、それなりの威厳がある建物を建てるというニーズがあったのかもしれない。少なくともレンガの国産化はかなり大きな要因だろうと思われる。

また、レンガのイメージが時代と共に変わってきたとする指摘も鋭いと思う。

モダニズムのような装飾のないものは面白みに欠け、ポストモダニズムのような装飾はどこか浮ついていて落ち着かない(バブル時代のような熱気で浮ついた時代には似つかわしいだろうが)という時代に、レトロなもの、復古的なものに魅力を感じ始めている人が増えているのではないか。

また、幕末から明治時代と現代との間に重なるものを感じる人が増えているのではないだろうかという感じもする。赤レンガには明治の「香り」を感じているのではないか、という気がする。そして、明治と現代の類似性はあながち外れていないのではないか、というのが私の見立てである。というのは、いずれも「グローバル化」が進展した時期であり、特に金融や資本移動や貿易などにおいて「強者の自由」が増大した時代であるという点で共通であり、そうであるが故にいずれの時代も未来が不透明な激動の時代であると感じられており、同じ「激動の時代」への共感が呼び起こされているのではないか。

人々がどのように感じているか、という部分についてはなかなか実証することが難しいが、建築意外の分野でも似たような動きがあるということを指摘していくことはそう難しくはないと思われる。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌