アヴェスターにはこう書いている?
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キャロル・デイヴィッドスン・クラゴー 『建築物を読み解く鍵』

ゴシック復興はピクチャレスクといさらに大きい運動の一部で、造園もピクチャレスクの対象だった。(p.42)


私はゴシック建築が好きなのだが、リバイバルにも少し興味をひろげてみようかと思う今日この頃。ピクチャレスクについて、具体的にどのような運動だったのか、少し余裕ができたら調べてみることにしよう。



 イングランドでは、愛国心の表現として重要視されたのがゴシック復興様式だった。中世後期の信仰の篤さと市民の徳性を具体的な形にしようと試みたわけである。したがってロンドンの王立裁判所(図)や国会議事堂など、イングランドで19世紀に作られた主な市営建築物の多くがゴシック復興様式を採用した。(p.43)


ゴシックリバイバルが愛国心を表現するものとされた、という話はしばしば耳にしたことがあったのだが、なぜそうなのか、という点は結構曖昧だった。この説明で一応の理解はできたように思う。ただ、ゴシックのような市民的ではない教権制的権力における支配層が用いた様式を、一般市民のものとして再解釈するというのは、どうも的外れのように思われる。



レンガはローマ帝国全土で用いられていたが、その後ヨーロッパ北部ではレンガに関する技術が失われ、中世後期になるまでそのままだった。(p.52)

初期のガラスはすこぶる高価で大きなものを作るのが難しかったため、ガラス板1枚のサイズは小さかった。古代ローマ時代にはガラス窓が使われていたが、中世にさしかかる頃にはほとんど姿を消してしまった。(p.62)


以上はほんの例にすぎないが、ローマ帝国とヨーロッパ北部(概ねアルプス以北の地域)とは文化的、技術的、知的などの面でほとんど連続性がないのである。一時的にローマ帝国の版図に入っていたことがあるのは事実であり、そこから文化的な影響があった時期があるのは確かだが、支配するために南部からやってきた人々が彼らの生活スタイルを維持しながら(そのための技術等を伴って)やってきたというだけであり、現地に住む先住民たち(支配下に入った一般庶民)に深く浸透したわけではない。

しばしば「ギリシャ・ローマの文化はヨーロッパ文化の源流」などと言われるが、こうした見方は皮相的な誤ったものであるといわざるを得ず、ギリシャやローマの文化は西ローマ帝国の滅亡の前後に北方への流入は止まってしまい、大部分が失われた、という認識は持たなければならないだろう。こうしたフレーズが言われるようになる理由はむしろ以下のような動きによるところが大きいのである。

すなわち、

 18世紀の半ば、学者のあいだで古代建築をくわしく調べる研究が始まった。(p.86)



といった動きである。

もちろん、12世紀前後のイベリア半島(いわゆるレコンキスタが行われていた)におけるアラビア語文献を介したギリシア・ローマの文献のラテン語への翻訳運動やイタリア・ルネサンスを経由して伝播したものがないわけではないが、上述のような言説はむしろ、18世紀頃に国民国家化が進展する中で、「国民」としてのアイデンティティが模索され、歴史研究や考古学的な研究の中にその材料が求められる中で、「われわれヨーロッパの優れた文化」の祖先として古代ギリシアやローマ帝国の文化が、「われわれ(ヨーロッパ人)」にとっての「古典」であるとして発見、意味づけされ、また、実際に模倣したスタイルの建築が次々と建てられていく中で作り出されてきた言説であろう。(この過程では「われわれ」の文化とギリシア・ローマの文化のどちらが優れているか、という議論などが交わされていたことが思い出される。)

建築についても、ギリシアやローマのスタイルを積極的に取り入れるようになったのは、新古典主義が流行した時代であり、それ以前はルネサンス様式が北方で受け入れられた限りで見られたにすぎないと思われる。ルネサンス様式はイタリア半島で比較的流行したもの、即ちアルプス以南の様式であり、イタリアにおいてはローマの遺産は北方よりは多くの程度引き継がれていたことを考えると、その時代のイタリアの真似をしたからといって、北方の地域がローマの後継者とは言えないだろう。それは日本が明治維新の時期にヨーロッパのスタイルを多用したからといって、「日本の近代建築のルーツはローマ帝国であり、ローマ帝国の建築は日本の(近代)建築の源流である」というのは無理があるのと同じである。これは間接的にローマのスタイルが入ってくるとしても、あくまでも同時代の他地域からの影響にすぎない。

これと比べると、上記引用文の場合は、直接、古いギリシアの建築などを研究してそこからスタイルを借りてくるわけだから、古代ギリシアからの影響を受けて作られた、とは言える。ただ、それは歴史を通じて脈々とヨーロッパ北部に流れ込んできたものではなく、その時代になって国民国家形成の際のナショナル・アイデンティティを形成するプロセスにおいて、「これがわれわれのoriginである」として捏造されながら取り込まれたものであろう。

これはゴシックリバイバルが上記のコメントで述べたように、的外れな形でアイデンティティ形成に利用されたことと同質的な現象であると思われる。



ジェファーソンは王権や帝政と結びつけられがちなローマ様式ではなく、民主主義的なイメージのあるギリシャ様式を意図的に選んだ。(p.210)


新古典主義(18世紀後半に流行)がローマよりギリシャの神殿などを模したものが多いことの理由がはっきり分かった気がする。

国民国家とは異なる原理で運営されている帝国のイメージがあるローマ様式ではなく、デモクラシーが行われていたというイメージのあるギリシャ様式が、特に共和制の、王のいない政府にとっては似つかわしいと考えられたということ。アメリカやフランスがその典型。

これに対し、皇帝や封建諸侯や王権が存在していたドイツやイギリスは、むしろゴシック・リバイバル(18世紀後半から19世紀に流行)の方が新古典主義より勢いがあったように思われる。


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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

国立編訳館 主編 『台湾を知る 台湾国民中学歴史教科書』

 台湾が文化の上で多元的であるということは、当然、四方近隣との関係が密接であるということである。(p.4)


この教科書では台湾の文化の多元性が強調されている。いわゆる「近代」以前については、「原住民」(日本語と異なり、中国語ではこの語にはほとんど差別的なニュアンスがなく、台湾の先住民はこの名で呼ばれている。)の文化を尊重しようとするスタンスが強く見られる。「近代」以降はオランダ、スペイン、日本、福建や広東、アメリカ、中華民国が台湾に来た際に渡ってきた「外省人」など複数の影響があることも踏まえて多元性が言われている。



当時の日本政府も台湾へ派兵して活動していたことから、日本が16世紀末期には、すでに台湾侵略の野心を持っていたことがうかがえる。(p.20-22)


16世紀末期には確かに、豊臣秀吉が「高山国」(台湾)の王に入貢を促す書状を送っているが、当時の台湾島には統一的な政治権力機構は存在せず、不調に終わったという。

その意味では、当時の豊臣政権が外への拡張を指向していたかもしれないが、この教科書ではあたかも日本政府が一貫して「台湾への野心」を持っており、それが19世紀末に実現したかのような印象を与える書き方になっているのは、その後の江戸時代の防衛的な鎖国政策などを考えれば、やや妥当性を欠くように思われる。



オランダ人はさらに、キリスト教を用いて原住民統治に有利な環境を作り出し、また宣教師を原住民統治の行政官にした。(p.25)


このブログで何度も繰りかえし書いているが、「宗教」なるものは基本的には政治的なものであるというのが私見だが、そのことを裏づけるかのような一文。(自説の根拠とできる事実は他にも世界中のあらゆる地域に多々あるが。)



 当初、総督府はつねに残酷な報復性の鎮圧を行い、無辜をみだりに殺害していたが、しかしそれがかえって多くの民衆を抗日の戦列へと駆り立てた。・・・(中略)・・・。1898年、総督の児玉源太郎は、一歩進んでアメとムチの策略に切り替え、一方で警察力を拡充するとともに壮丁団の協力を利用して武力鎮圧を進め、一方で招降方法を制定し、抗日分子に投降を誘って慰撫した。1902年、各地の抗日勢力はことごとく瓦解し、民間が私有する武器はすべて没収された。この7年間に抗日に参加したため戦死、もしくは捕えられて殺されたものは、1万人余の多きに達する。(p.72-73)


報復性の鎮圧に頼ることで、逆にゲリラを補強してしまい、逆効果にさえなりうる。アメリカがアフガニスタンやイラクで武力を使ってもゲリラ戦術に手を焼いたのと同じようなものであろう。その点、アメとムチの策略はゲリラ戦術のような手段で抵抗を試みる勢力には有効な手段であるように思われる。

ゲリラ戦は、統一的な官僚制的な組織によらない、ネットワーク的な組織・集団による抵抗だから、それらのネットワークのうち、有力で目立ったノードはムチで狙い撃ちして除去しながら、同時にアメによってノードを一つずつ除去していき、ハブとなるノードまでも離反させるところまで至れば、ネットワークの結合力は格段に低下する。そうして結合する力が弱まっているところで、目立ったハブをムチで除去していく作業を続ければネットワークを破壊することができる。

ムチで見せしめを行うことにより、抵抗することのデメリットを認識させた上でアメにより抵抗をやめることにメリットを与えることで、ノードが抵抗勢力から離反する可能性を高めるわけである。そうして離反可能性を高め、影響力の高いノードを離脱させることができれば、ネットワーク全体の持つ力を急速に低下させることができる。


さて、日本による台湾の征服の際、7年間で1万人ほどというのは、後の中華民国の2.28事件だけと比べても少ない。(ウィキペディアによると28,000人が殺害されたという説が紹介されている。)だから良いというわけではない。ただ、強権政治であり、警察政治であり、言論統制等もあり、台湾人に対する差別もあったなど、数え上げればきりがないほど問題を含むものではあったが、日本による台湾の植民地統治は、中華民国による植民地的統治(戒厳令の時代)よりは、やはり幾らかマシな部分は多いように見受けられるとは思う。台湾の日本語世代もそうした感覚を持っているようだが、若い世代の台湾人は必ずしもそう考えていないフシもあるので、そのあたりについて、台湾を訪問する際には現地の人たちに聞いてみようと思う。



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若林正丈 編 『矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」精読』(その2)

 すでに知られているように、「植民政策学」なるものが日本のアカデミズムに成立するのは、日露戦争後においてである。明治維新後の「北海道開拓を背景に端緒が形成され、台湾領有とともに体系化が模索されはじめた日本の植民政策学は、日露戦後の植民地帝国の成立(南樺太の領有、中国・関東州租借地の獲得、朝鮮の保護国化および南満州の勢力圏化の推進)という外的状況に促されて一個の学問として社会的に認知されていった」のである。大学においては、1907年東北帝国大学農科大学に「植民学」講座が設けられ、1909年東京帝大法科大学に「植民政策」講座が開設され、前に触れたように新渡戸稲造が講座担当教授に任命された。この講座は、かつて台湾総督府民政長官として児玉源太郎総督の下で統治確立に辣腕を振るった後藤新平が呼びかけて集めた「故児玉源太郎記念寄付金」二万一千円で実現したものであった。本書にも登場するように、新渡戸は民政長官時代の後藤新平の下で台湾の製糖業の再編に協力している(1901年-03年。官職名は煩瑣に変わり最後は臨時台湾糖務局長)。(p.349)


ウィキペディアによると札幌農学校(現在の北海道大学のルーツであり、引用文にある東北帝国大学農科大学の前身)にはすでに1891年に日本最初の「植民学」講座が設置されていたという。まさに北海道を開拓していく中でその基礎が形成されたものが、台湾をはじめとする植民地獲得により需要(必要性)も増大して行ったことが見て取れる。

最近、北海道と台湾の間に多くの共通性があることが、私の興味を引いているのだが、植民政策学の展開から見ても、北海道「開拓」の際にはあまり統治技術的な部分は必要とされていなかったように見える。北海道の開拓(征服)の歴史についても少し調べる必要があるかもしれない。

新渡戸稲造というと『武士道』の著者であり、国際連盟の事務次長を務め、5000円札に肖像が描かれたことなどが想起されるが、台湾で活躍していたという事実はあまり注目されていないように思う。実際、私も台湾について調べるまで知らなかったようなものであるが、北海道で実学教育を受け、それを台湾で実際に活用するという順序になっている点など、新渡戸稲造という人物の経歴も植民政策学や日本の植民地統治の現実が反映していると見ることができ、興味深い。



 近年よく読まれているベネディクト・アンダーソンのナショナリズム論『想像の共同体』では、近代の文化的人造物としてのネイション(nation)が主権的な共同体として「想像される」にいたる際の歴史的基盤の一つとして、かつて植民地であった地域における「植民地的巡礼圏」の存在を指摘している。植民地統治地域を一つの中心とヒエラルキーをもって覆う行政官僚システム、それと相似形の植民地教育の体系、人生においてそこを、多くは周辺から中心へいわばらせん状にそのヒエラルキーを上昇しながら旅していくことになる一群の土着エリートの形成、これらが植民地大の政治的境域においてネイションを「想像」させる社会的基盤となるのである。(p.373)


本書のこのあたりの解説は、非常に噛み砕かれており分かりやすい「ナショナリズム論入門」(ここまで言うとちょっと大げさだが)となっており、一読を人に勧めたい箇所である。

もっとも、巡礼圏の議論だけではネイションの「想像」を説明しきれないため――例えば、非エリートはこの上昇プロセスを経ないので、エリートと同様の経験をしないため説明されないまま残ることになる――別の議論と必ず組み合わせる必要はあるのだが。


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若林正丈 編 『矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」精読』(その1)

 なお、台湾総督府は、占領部隊の台北入城後、旧台湾省巡撫衙門および同布政使衙門に置かれた。その後三回移転し、1919年総工費280万円、七年の歳月をかけて完成した、中央に尖塔を持つルネサンス式洋風建築に移った。1944年10月以降の米軍の空襲による火災で損傷したが、戦後日本の手を離れてから修復され、1949年12月以降中華民国総統府となって今日に至っている。(p.10-11)


総統府の建築についての解説。このあたりの詳細は『日本の植民地建築』という本でもっと詳しく読んだが、総督府の建築が建てられたのは、武力による大規模な反乱がほぼ治まった後の、統治がある程度安定し、総督府の財政が潤った後の時期であることがわかる。

また、第二次大戦中にはアメリカが台湾に空襲をしたということも、この件から知ることができる。この事実は、戦後、台湾は日本から切り離され、さらに「戦勝国」である中国の側に所属したこともあり、日本では全くというほど触れられない事実であると思う。



 以上、政府との直接的関係において独占企業の成立したるを見た。内地大資本家の進出による帝国的独占に対し、むしろ台湾限りの地方的独占企業において、特にその関係が著しくある。けだし権力は資本の躊躇する所においても独占を創造する。(p.116)

経済的主体(企業等)と政治的主体(政府)は一見すると経済と政治という別の分野に属しているように見えるが、このような「分野の壁」は学問の分化によって観念上で作られたものにすぎず、人間活動をシステムとして捉えた場合、ここに壁は存在せず、容易に連結することができるものである。

企業等が、自らの活動のみでは有利な場を形成できない場合などに、政治的な権力を活用して利益を得ようとすることは、経済活動の常態であり、「独占」や「資本主義」などの用語を持ち出すまでもないし、逆にこうした用語を用いることで現実に遍く存在する一般原則が見落とされる危険すらあると思われる。



由来植民地企業は英国のSouth Sea Companyやジョン・ローのCompagnie d'Occidentを始め投機的分子の多きものであるが、経済的に投機的危険を有する事業を国家が保障して投機的たらしめないのが近代帝国主義的植民政策の特徴である。経済的投機の政治的止揚である。そして国家が保障するとは結局誰が保障するのであるか?また事業の失敗に対し何人が責任を負うたのであるか(p.118)


前のエントリーで原書の152-153ページを引いてコメントをつけたとおりである。政治がその道を開くことを支援するところの投機的なマネーの暴走によるバブルの崩壊の責任は、実際にマネーゲームに興じていた人々というよりも、より広く納税者一般に負担がかかることとなり、こうして負担を支払うという形で納税者に責任が転嫁される。



概して直接税は財産及び所得に対する負担であり、間接税及び専売収入は主として一般庶民の負担である。従って上述の如き台湾の財政制度が資本家保護、庶民無産化の結果を来たし、資本家的企業の勃興、台湾の資本主義化に貢献したるところは明白である。(p.151-152)

現代の日本では盛んに「消費税」の増税が叫ばれ、それに見合う形で法人税が下げられ、所得税も税率構造がフラット化されてきたのだが、まさに一つ前の引用文に見られるバブルの責任を納税者に押し付けるのと同じく、
80年前と現代でほとんど同じことが繰り返されている
のを見ることができるだろう。

ちなみに、当時の台湾では専売収入がかなりの歳入を潤していたようである。



植民地の結合及びこれに根拠する世界経済への積極的進出並びに植民地内の民族運動の処置、これ帝国主義国が持つ世界戦争後の課題である。ここにおいてか植民地内の民族運動を抑えつつ、あるいはなだめつつ、植民地と本国との結合を鞏固にし、更に植民地を根拠とする世界経済への帝国主義的進出を策するは当然の帰結である。これ台湾統治の内地延長主義である。そは帝国主義の新衣装である。(p.302)


一つ前のエントリーで原書の187ページから引いた箇所のすぐ後の箇所である。

こうした民族運動などの反発が強まりが、文治的な方向へと植民地政策が転換したことの背景にあったのだが、それらが支配階層が自らの支配を維持しようとする対策であることを喝破している点は妥当である。



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矢内原忠雄 『帝国主義下の台湾』(その2)

 自由主義経済学者は本国貿易総額中植民地との貿易の占むる割合の小なることを指摘し、植民地貿易の利益の為めに一般外国貿易上の損失を招くを不利なりとし、外国との葛藤を生ずる虞ある植民地領有は資本家に取りても不利なりと論じた。英仏米等の諸強国に於いても其植民地市場は外国市場に比して一般的にも価値が小である。併し乍ら特殊の産業部門特に木綿製品及重工業製品にとりては植民地市場の価値は一般商品以上に重大である。例へば米国の植民地に対する輸出は全輸出額の9分の1であるが、木綿製品については5分の1、鉄製品については6分の1を占む。而して木綿及鉄は代表的なる資本家的大企業であり、各国間の市場競争最も激烈なるものであるから、之に関して植民地市場が重要なることは、本国にとりて一般商品輸出額の合計に於て見たる比率以上の重要さを植民地に与ふる。蓋し経済的にすべての資本家は一階級を為すといへども、政治的には其中にありて最も資本の集中したる個々の大企業家が政策の決定権を有する。之れ植民地市場の帝国主義的意義がその表面的一般的数字以上に重要視せらるゝ所以である。而して我植民地について見れば綿織物市場としての価値は外国市場と同程度であるが、それにしても独占的地位を有するものであり、重工業肥料工業にとりて其価値は極めて大である。要するに帝国主義にありてはその支配的地位にある産業部門資本家の評価に従ひて植民地市場の価値は認識せられるであらう(拙著『植民及植民政策』256-8頁〔第一巻209-11頁〕Moon, P.T., Imperialism and World Politics, pp.528-534.参照)。(p.135)


植民地による利益を測る単位は「国」や「国民経済」ではなく、「最有力な資本家の資本」であり、その資本にとっての利益の有無、利益の大きさによって植民地市場の価値が主張されることになる。

ブレトン・ウッズ体制崩壊後の世界の秩序は19世紀後半から20世紀初頭の秩序に近いものになっており、まさにこうした図式は現代にも蘇っていると思われる。

なお、当時と現代の違いは、確定された領域内に主権を有するものとして機能している「国民国家」が全世界にくまなく浸透していることであり、そのために露骨な植民地的侵略は困難になっていることである、というのが私見である。この相違がどのような違いをもたらしているのか、そして今後もたらしていくのか、非常に興味があるところであり、今後、研究していきたい問題である。



勤勉なる本島人農民の人口稠密なる西武台湾に於いて、内地人農村を建設せんとするは恐らく至難のことに属する。東部台湾に於ては之に反し住民は蕃人、未墾地は多く、人口密度は粗なるが故に、とも角数個の内地人農村が建設せられ得た。東部台湾の人口9万人中、平地蕃人4万5千人、本島人2万7千人、内地人1万5千人にして、本島人の割合は三割、内地人は一割七分である。之を台湾全島に於ける人口百分比本島人は九割二分五厘、内地人は四分六厘なるに比すれば、東部台湾人口が比較的本島人的にあらずして内地人的たるを見る。而して内地人の居住する農村は花蓮港庁下に於て吉野豊田林田三村、台東庁下に於て旭村鹿野村鹿寮の三村、人口合計約三千八百人である。花蓮港街の如きは純然たる内地的市街である。事実、東部台湾は著しく内地的にして、西部とは全然旅行の印象を異ならしむ。西部に比すれば遥かに内地人の民族的移住地が建設せられたることが認められる。(p.140)


現在でも台湾の中南部や東部と北部とでは日本語の通用度や日本語が元になっている単語の状況などが異なっている(日本語の通用度や日本語起源の単語が多い)というが、それはこうした状況が歴史的背景としてあるのだろう。

「旅行の印象」が現在ではどうなっているのか、時機を見て確かめてみたいものである。



更に文化的価値の問題としては日本文化の発展、特殊の科学的及歴史的研究を見るべく、殊に新設台北帝国大学が南洋史の研究を以って其の特徴と為すが如き、台湾に拠る我国南向帝国主義の文化的表現とも見られ得る。(p.147)


台北帝国大学は現在の台湾大学の前身。

北端の帝国大学である北海道帝国大学(現北海道大学)は実学を重視しているが、これは北海道開拓という現実的な要請とも深くかかわっていただろうし、日本においてはロシア研究なども比較的盛んだと言えるわけで、大学の研究の方向性と時の政府の政策の方向性というものを比較対照しながら見るというのはなかなか興味深い見方かも知れない。



 台湾三銀行の救済は台湾統治の救済である。且つ台湾島内及び南支南洋に於ける経済的帝国主義の救済である。二億三千七百余万円の内地一般国民の負担は明白に帝国主義の費用である。植民地統治上若くは植民地的発展途上必要とは、国民負担を泣寝入して承認せしむる合言葉である。併し乍ら帝国主義的植民政策が一般国民に取りて相対的に(独占資本家に比して)不利益たるのみならず、時に絶対的損失の原因となることは、我植民地中最も高度の資本主義化を遂げたる「帝国主義下の台湾」が最近吾人の眼前に展開したる事実である。(p.152-153)


グローバルな金融資本の自由な活動は、過剰な流動性を実現し、半ば必然的に恐慌を引き起こすが、その恐慌から立ち直るためには金融機関等への公的資金投入などの方策が必要となる。グローバルな金融資本の自由化による利益の大部分は資本家・投資家が得ることになるが、その失敗に際しての損失は一般庶民の税金によって補填される。矢内原が本書を出していた時期(1929年)と現在とに共通する現象である。いずれもグローバルな金融自由化が背景にある。



 以上を通観するに歴代台湾総督の施政方針として訓示せる処は大正七、八年の交を以って前後二期に分つを得る。前期は児玉後藤政治を基調とするものにして台湾社会の特殊性認識に基き社会的には旧慣尊重、政治的には本島人に対する差別的警察専制統治、政治の内容は治安の設定島内産業の資本主義的発展、内地人の官僚及資本的勢力の確立、及び教育施設に対する冷淡に存した。後期は明石総督以後昨年(昭和三年)新任の川村総督に至る迄十年間に総督を替ふること六度の頻繁に上ったが、其の一貫せる基調は田総督の訓示に求めうる。即ち台湾社会の特殊性認識より転じて内地延長主義同化主義に移り、教育尊重、文治政治、民族的融和を説くと共に、経済的には島内産業の開発より進みて特に台湾と内地との連結及び南支南洋への発展を高調するに至った。前期を日本帝国主義下の台湾の警察政治的建設時代といはば、後期は文治的発展期に入れるものである。要するに帝国主義が島内にありては従前よりも稍々柔軟なる衣装を著ると共に、島外に対する積極的なる経済発展を高調すること、之れ近年台湾統治政策の特徴である。(p.187)


本書からは、大正8年(1919年)頃から台湾政策に大きな政策転換があったことが読み取れる。

世界的には第一次大戦が終わったすぐ後にあたり、ロシア、朝鮮、中国などで民族主義的な運動や共産主義などの社会運動が高まりを見せていた時期である。日本でも大正デモクラシーの時期にあたる。日本の台湾占領のプロセスから見ると大きな反乱をほぼ平定し終わった時期にあたる。こうした背景と政策転換との具体的な結びつきについて、今後、調べてみたいという好奇心を刺激された箇所である。

ナショナリズムという観点から見れば、前期の「台湾の特殊性認識」は日本の側から見ると、日本側の「ナショナリズムの防衛的な側面」がやや強いのに対し、後期の「内地延長主義」では「ナショナリズムの攻撃的な側面」が前面に出ているのが興味深い。

すなわち、前者は台湾側からの抵抗に対して台湾を囲い込んで攻略するような方向性を示しており、台湾の人々を「囲い込んで飼いならす」ことによって、日本側に安全圏を設ける形になる。ここでは内地人と本島人とはいわば別々の「ネイション」として扱われている。これに対し、後者は既にある程度「飼いならし」が済んだ台湾の人々を積極的に帝国内に取り込み、帝国の周辺(辺境)から帝国の半周辺(半辺境)へと押し上げながら、帝国の領域を対外的に拡張しようとする志向が読み取れる。つまり、本島人を内地人と同一の「ネイション」に取り込もう(同化しよう)としている。

なお、「警察政治的建設時代」について矢内原が「教育施設に対する冷淡」を取り上げている点は、彼の考え方を示しており興味深い。矢内原は内地延長主義には批判的であり台湾の特殊性認識を基礎とするべきだと考えていたと思われ、その点ではこの警察政治的な時代の考え方と共通するところがあるのだが、彼はもちろん警察政治を是認するわけではないし、教育に対しても特殊性認識に基きながら内地人と本島人を同じレベルまで行うべきだと考えていたと想像される。そうした理想をもっていなければ、「冷淡」であるという事実(手厚い教育の欠如というような「欠如している事実」)はなかなか見えにくい。そうした「欠如態」を明示的に指摘している点に、彼の考え方なり理想とするものが見えて興味深い。



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矢内原忠雄 『帝国主義下の台湾』(その1)

 当時にありては台南地方一帯の海岸線は深く東方に湾入し、台南城市の西端は直に海に瀕み、一内港を形成して居た。この内港を台江と称した。その外屏として数個の小嶼沙洲断続し、鹿耳門は外海より台江に入る水路であった。当時の台江は「汪洋浩澣にして千艘を泊すべし」との良港であった。オランダ人は之を占領し、その外屏の一島嶼たる一鯤身(今の安平)にゼーランデア(Zeelandia)城を、又之と相対せる台江の内岸赤嵌(今の台南)にプロヴィンチア(Provintia)城を築いた。台江はその後地盤隆起及泥沙堆積のためその地形を一変するに至ったものである(伊能嘉矩著『台湾文化志』上巻997頁以下)。(p.11)


当時とは1624年頃のこと。台南も近日訪問予定なので、その歴史にかかわる記述として記録しておく。

地形が現在とは違ったという点は押さえておきたい。



 1858年天津条約による台湾の開港以来英米独等の資本が台湾に接触し、清国商人の勢力を凌駕して貿易及金融の権を掌握するに至った。彼らは多く厦門を根拠地と為し、当時の台湾貿易は大部分対岸及香港に対するものであった。我が領台の効果はこの商権を移して内地資本家の手に帰し、貿易路を転じて内地に向けしむるにあった。(p.34)


欧米の勢力が台湾に来た際にも、欧米諸国の目的地は中国本土であったために、台湾の経済は大陸と結びつきが強かった。日本による領有はこの関係を大きく変えた点に一つの大きな意義がある。このことによって、後日、台湾が冷戦体制における「西側」に配置されることが相対的に容易になったものと見られる。



 次に、茶の輸出は1869年英国商人ジョン・ドット(John Dodd)が約21万斤を紐育に直輸したるを嚆矢として頓に盛となったのであるが、爾後厦門を根拠とせる洋行が茶輸出を独占し一面金融機関として強大なる勢力を有したるを以って、製茶売買価格は洋行の為めに独占的に決定せられその利益は壟断せられた。即ち徳記其他の洋行は厦門の外国銀行より資金を仰ぎて之を媽振館に、媽振館は更に茶館に、茶館より生産者に前貸し、之に対して製茶の一手買取を約せるものである。(砂糖買取についても同様のシステムであった)。而して洋行に対して金融を与へたる銀行は主として香上銀行であった。かの東洋に於ける英国資本活動の中枢たるHongkong & Shanghai Bankであったのである。台湾がイギリス帝国主義の圏内にありしことを知るべきである。之に対して挑戦せる我資本の戦士は三井物産及野沢組であって、明治40年頃より茶貿易に従事し、外人商館は英商3、米商1を残すのみとなった。(p.35)


台湾がイギリス帝国主義の圏内にあるということは、当時のイギリスが中国へ進出を目指す野心とその実力を持っていたことの反映として捉えておくべきだろう。

また、本書から触発されて興味が引かれたのは、台湾における「三井物産」の活動である。恐らく台湾に限らず活発に活動していたものと考えられるが、当時の日本の帝国主義的な活動を追っていくあたっては、政策や行政体制、言論状況や社会における差別の状況などに注目しがちだが、こうした「民間」の「資本」の動きがどのようであったかということも同時に注目しなければならない。その際の具体的な研究対象の一つとして、三井物産は極めて重要な位置を占めているように思われる。



又総督府は航海補助金として近年は毎年140万円を交付して命令航路に従事せしむ。内地台湾間の受命会社は日本郵船及大阪商船にして各々三隻の汽船を就航せしめ、何れも一万噸級の善美快速船である。日本郵船の二隻は昭和三年迄六千噸級の老船であったが、最近同じく一万噸級船を以って之に代へた。蓋し総督府は補助金交付標準を高むることによりて内台間の連絡を改良し、遂に一万噸級の就航を要求せるものである。かくして今や欧洲航路米国航路に勝るとも劣らざる高級客船が六隻も神戸基隆間を航海しつつある。(p.82)


日本郵船は「国策会社」であったということを先日、この会社の建築についての本(『近代商業建築を観る』)を読んで知ったところだったので興味が惹かれた部分。

この会社は1890年代頃から1930年代頃にかけて非常に勢いがあり、1937年には保有船腹量で世界一となったのだが、台湾への航路拡大に関するこの会社の動きも、これと全く軌を一にするものである。政府の政策によって就航し、船舶も補助を受けて大きくなっている。船が新しい大型船に変わった昭和3年は、西暦1928年であり、まさにこの会社が最盛期へと向かう時期である。


若林正丈 『台湾――変容し躊躇するアイデンティティ』(その2)

 「台湾関係法」は、アメリカの国内法であるから、アメリカ議会の意志で改廃される。アメリカの公民やアメリカの法律に認められた個人・団体は、マス・メディアの利用やロビー活動により、アメリカの法と慣習とに従えば、「台湾関係法」の執行の監視を議会に働きかけることができ、それを通じて国府に圧力をかけることができる。一方、国府は、中国から自立した存在を続けていこうとするなら、断交後も依然としてアメリカに依存せざるを得ない。国府はアメリカに背を向けるどころか、中国大陸に比した「自由」「進歩」のイメージをいっそうアメリカの朝野に売り込んでいかなくてはならない。
 こうした状況下で、反国民党派のアメリカ在住本省人の対議会ロビー活動がしだいに活発となった。それによって、台湾の人権状況がアメリカ議会で取り上げられることは、台湾内の「党外」勢力にとっての保護幕として一定程度有効であり、その有効性が確認されると、「党外」はさらに体制への挑戦をエスカレートさせることとなった。(p.136)


アメリカが中国の国交樹立、台湾との国交断絶をしたが、台湾との関係はアメリカ国内法である「台湾関係法」によって規定されるようになったため、台湾の民主化に追い風が吹いたという因果関係は興味深いものがある。



「憲政改革」の方針と対外政策方針とはワンセットのものであった。「反乱鎮定動員時期」を終結させれば、中華人民共和国は「反乱団体」ではなくなり、反射的に台湾の「中華民国」とはいったい何かを定義しなければならず、同時にその何かである台湾の「中華民国」と中華人民共和国の関係、そして広く国際社会との関係一般を定義しなければならない。そこで、李登輝は「憲政改革」の準備と並行して「大陸政策」の準備を進めた(次章参照)。このように、李登輝が手をつけたのは、ひとたび内部の制度を変えるや、それがただちに国家のアイデンティティ(国際社会における自己定義、位置付け)に響くことになるような改革であり、内外に複雑な波紋を呼ぶのだが、ここでは、まず内部過程に焦点を絞っていくことにする。(p.165)


中国の内戦が朝鮮戦争を契機として冷戦構造と重なることになり、台湾海峡に東西の境界線(本書の表現で言えば、海のアジアと陸のアジアの「気圧の谷」)が引かれることになった。しかし、中国がアメリカとの関係を改善させることにより、台湾海峡にあった東西の境界線が揺らぎ始めることとなり、台湾は「アメリカで理想とされるもの」により近い政治体制や社会体制を求められるようになった。それまで東西の境界線近くにあった台湾が政治的に、より「西側」に深く入り込むことになり、中国が境界線の上に立つことになる。(境界線が西側にシフトした。)

台湾では、こうして長期戒厳令の存続は困難となり、内戦の名残である戒厳令とその基礎にある「反乱鎮定動員時期臨時条項」の変更が必要となる。中国との法的関係がこれにより変わることになる。冷戦構造の中に位置づけられる内戦関係から、冷戦構造の境界線が中国と台湾の間にはない状態での内戦関係となるが、実質的には異なる領域を支配する別々の政治体となっているというのが現実であり、冷戦構造があったが故に内戦の虚構は維持されていたが、その外枠がなくなったため、現実と建前との乖離を処理しなければならなくなった

ちなみに、中国はその真上に境界線がある状態が続き、社会主義ないし共産主義を標榜する東側の建前を維持しながら、実態として西側の経済体制に組み込まれていくこととなった。そのための漸進的な政策の方向性を示してきたのが「改革開放」路線であろう。そして、近年に至りChinamericaとかG2と呼ばれるようになったということは、冷戦終結により、東西の政治的及び経済的な分断がなくなったことの帰結でもあるだろう。ただ、ここで残された大きな問題は、中国の政治および政治体制の民主化はいつ、いかにして起こるか、あるいは起きないのか、ということであり、更に言えば、そのプロセスは混乱なく進むのかそうでないのか、ということであると思われる。



 民主化は、政治権力の分配方式を変更するが、同時にそれに付随する政治的自由化は、それまで押さえられていたさまざまな社会集団の自己主張をかなりの程度まで解き放つから、台湾の多重族群社会のあり方にも当然インパクトが及ぶ。民主化期の台湾社会が経験したのは、小規模ながらエスニック・リバイバルと言い得る現象、つまり、台湾の多重族群社会の諸族群が、それぞれ政治的・文化的自己主張を展開する過程であった。(p.188)


デモクラシーはナショナリティやエスニシティを刺激する「バイアス」がある政治体制である。

中国で民主化が進展し、デモクラシーの体制が整備されるとどうなるか、非常に興味が引かれるところである。



李登輝政権下では、94年に中学校のカリキュラムの改訂方針が決まり、新たに『台湾を知ろう(認識台湾)』という科目が設けられることが決まっていたが、この教科は97年度の試行を経て、98年度から正式に始まっていた。(p.233)


この教科書は邦訳されており、そう遠くない時期に、このブログにも登場する予定である。


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若林正丈 『台湾――変容し躊躇するアイデンティティ』(その1)

「海のアジア」とは「外に開かれたアジア、交易のネットワークで結ばれた資本主義的なアジア」であり、「陸のアジア」とは「内に向いたアジア、郷紳と農民のアジア、農本主義的アジア」であり、この二種のアジアの境界はあたかも「気圧の谷間」のように歴史的に動いてきた。・・・(中略)・・・。
 巨視的に見れば、台湾史とは、このような意味での「海のアジア」と「陸のアジア」の「気圧の谷間」が台湾という「場所」を行ったり来たりした歴史であると比喩することができるだろう。この「気圧の谷間」が台湾海峡より東にあれば台湾は中国大陸の影響力におおわれ、西に動けば中国の影響力低下の間隙をついて海洋勢力などの影響力が伸長する。(p.18-19)


台湾という場所に注目して歴史を概観する場合に有益な図式。

もっとも、台湾に中国の影響が強く及んでいた――「気圧の谷間」が台湾の東にあり、台湾が「陸のアジア」に属していた――のは、主として清代くらいのものであり、それ以外の時期は基本的に海洋との結びつきが強かったようである。特に下関条約により日本の植民地となってから冷戦が終結するまでは、「海のアジア」に属してきたと言えるが、冷戦終結により台湾と中国の関係も大きく変化しつつある中で、ある程度の説明する力を有する図式である。

しかし、この図式をそのまま使って未来に当てはめると少し誤った判断をくだす部分がある。というのは、冷戦後は台湾は上記引用文が規定するような意味での「陸のアジア」になるわけではないからである。むしろ、中国が「海のアジア」に包摂される格好になっているのであり、そのようにして台湾と中国との間を隔てていた壁がなくなったということなのである。



 「黒船」を率いて江戸太平の眠りを醒ましたアメリカのペリー提督は、江戸幕府の返答を待つ間、部下を台湾北部に派遣して港湾や炭坑の調査をさせていた。(p.26-27)


当時のアメリカ政府がどのような目的で太平洋を渡ってきたのかが伺えるエピソードと言えよう。



 18世紀の乾隆期以降、台湾への移民が急増すると農業資源獲得の競争は厳しくなった。より有利に土地開発を進めるため移民は出身地別の村落を形成することになり、土地や水利をめぐり日常的な緊張がこれらの村落間に生じる状態のなかで、些細なきっかけから、泉州人、漳州人、そして客家人が武器を持って集団で争闘する事件が頻発した。これが台湾史上に知られる「分類械闘」である。「分類」(「類」、つまりある特徴によって集団に分かれる現象)は、これら三者のそれぞれの間に、さらには如何なる組み合わせの間でも生じた。したがって、この時期、台湾社会においては、漢族・先住民族関係に加えて、泉州人・漳州人・客家人の間に、社会的政治的に意味のある境界が存在したといえる。これは、出身地と言語をもって分かれるのであるから一種のエスニックな境界であったともいえよう。
 しかし、19世紀に入ると移民の波も下火となり、かつ清朝の地方行政機構も次第に整備され、社会秩序も落ち着いていった。これとともに、漢族移民の中には、台湾の移住地に祖先を祀る祖祠を建立する傾向が現れ、「唐山祖」(唐山は中国大陸のこと)を祀るのではなく、「開台祖」(台湾での血縁集団の基を築いた祖先)を祀るような宗族組織の形成が進み、「分類械闘」が発生しても、出身集団別のものとならず、宗族間対立によるものが増えていった。大陸社会集団の直接の延伸ではない、台湾に根をおろした漢族社会組織の成熟が進んでいったのである。(p.34-35)


このブログでもたびたび宗教という現象は、信仰の問題というよりも政治団体としての教団の形成から考える方が理解できると書いてきたつもりだが、後段の部分はまさにその好例であるように思われる。

台湾に根をおろした後は、大陸よりも島内でのネットワークの方が経済的政治的な利害に結び付くようになっていくため、宗教による集団形成もそうした利害関係に基づいて再構成されたということだろう。

なお、前段は「台湾人」というナショナリティ(アイデンティティ)が昨今求められているようになりはしたものの、そうしたものは過去のこの島には存在しなかったということを示している点で重要な意味を持っているといえよう。ちなみに言えば、日本もその点は同じであり、他の国もほぼ同様である。

なお、台湾に一つの政治的な単位として成立するようになったのは、確か本書でも指摘されていたと思うが、実質的には日本統治期に入ってからである。



 アヘン戦争の結果、清朝は南京条約により広東、上海、廈門など五港を開港させられたが、英仏との第二次アヘン戦争(アロー号戦争)の結果、1860年北京条約で開港場追加を余儀なくされた。その中には台湾の台南と淡水が含まれており、その後まもなくそれぞれの「子港」として、打狗(後の高雄)と鶏籠も開港された。(p.39-40)


近々、台湾を訪問するが、台南と淡水には行ってくる予定になっている。その際の予備知識としてメモしておく。



 また、この時期の経済発展は、台湾の社会経済の重点を開発の起点だった南部から北部に移すこととなった。北部には茶の生産に適した丘陵が多く、樟脳の原料採取に適した森林は北部から中部にかけて存在していた。このため、北部にはこれらの集散地として小鎮が発達した。そして、それらの集散地からの産品輸出のための商業地区として、台北盆地を流れる淡水河河畔に艋舺(後の萬華)が、ついで大稲埕が栄えることになったのものこのためである。日本統治下に入っても、戦後の中国国民党統治下でも、萬華や大稲埕は台湾的特色の強い区画として外来の統治者の治める首都で土着の息吹を発散し続けることとなった。(p.41)


「この時期」とは北京条約(1860年)以降、特に1870年代以降の時代を指す。

茶や樟脳が北部の小鎮に集積され、それが台北の淡水河に面した地域である萬華や大稲埕に集まって取引されるようになったということ。淡水河の下流には北京条約で開港された淡水がある。台北の発展はこの淡水の開港と深くかかわっていそうだ



地域的には、中央政府機関や高等教育機関が集中する北部と、そうでない中南部では、社会における国語や母語の使用頻度に大きな違いがあり、また同じ本省人でも社会における多数族群である福佬人と少数族群である客家人とでは、こうした事態への対応の仕方も違った。客家人のほうが言語的同化には総じて積極的にならざるを得なかったと思われる。(p.114)


日本統治期の言語政策による対応も地域や族群によって反応が異なっていた。



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西澤泰彦 『日本の植民地建築 帝国に築かれたネットワーク』(その3)

 建築を語るうえで必要なことは、植民地建築が支配とどのように関係しているか、あるいは、支配を進めるために植民地建築をどのように作ったか、という問題である。言い換えれば、植民地建築が存在することを前提に、支配を語る危うさが存在しているのである。台湾総督府や朝鮮総督府による支配を語るとき、そこでは、総督府庁舎がすでに存在しているものとして語られることが多く、本書が示したように両庁舎とも長い歳月をかけて建てられたこと、その歳月が支配する側にとって意味があったこと、総督府庁舎よりも優先的に先に建てられた建物があったこと、などは無視されるのが常である。そこには、植民地建築が支配と関係するという前提を、そのまま結果として語る危うさが存在している。したがって、植民地建築と支配との関係は、支配のうえでの必要性を具体的に論じ、それと植民地建築の具体的な中身との関係、そして、植民地建築をどのように作ったか、という問題を語ることで、初めて明確になるのである。(p.186)


知識が不足している段階では、特にこうした推論をしやすいので気をつけたいところである。



台湾総督府や朝鮮総督府、関東都督府や満鉄が建てた建物から判断すれば、これらの機関は、日本建築を規範とする建物を裂けていたと考えられる。これは、当時の日本の支配が、欧米諸国との強調によって認められていた東アジア支配の枠組みの中でおこなわれたものであり、そこでは、日本の支配能力が試されることとなった。したがって、香港、上海、天津など東アジアにおける欧米諸国の支配地に建てられていた建物と比肩しうる建物を建て、欧米諸国の人々に目に見えるかたちでの支配を示すためには、西洋建築を規範とする洋風建築で支配に必要な施設を整えていくことが有効であった。(p.191-192)


本書の主張のうち最も興味深かった箇所の一つ。

植民地建築において洋風建築が建てられた理由の一つとして、こうした外国に対するアピールがあったとする。これは以下に述べられていく論もあわせると、さらに興味が引かれる。

 このような傾向が大きく変わるのは、1930年代後半であった。台湾や朝鮮半島、中国東北地方のいずれでも、台湾建築、朝鮮建築、中国建築に用いられる屋根携帯を模した屋根を持った庁舎や駅舎が建てられていく。(p.192)


これらは植民地建築を見る際に、注意してみてみたいところである。

 このような形態の屋根を持った建物の出現は、台湾総督府庁舎や朝鮮総督府庁舎にみられる西洋建築を規範とした洋風建築を建てる必然性が失われたことを意味している。それは、満州事変以降における欧米諸国と日本との間に生じた東アジア支配の構造的変化と関係している。満州事変以前における日本の東アジア支配は、欧米諸国との協調の下で認められていた支配であり、欧米諸国の支配の枠組みに組み込まれていた。したがって、その支配能力が問われ、それを示す一環として、西洋建築を規範とした建物を建てる必要があった。
 しかし、満州事変によって、欧米諸国による東アジア支配の枠組みからはみ出した日本は、他国に支配能力を認めさせる必然性はなくなり、東アジアにおける欧米諸国の建築と比較されるべき建築を立てる必然性を失った。(p.193-194)


欧米諸国の視線を意識して洋風建築を建ててきたが、欧米諸国と協調する体制からはみ出してきたために、欧米諸国の視線をあまり意識せずに済むようになったというわけである。



 前田松韻が、ヨーロッパの著名な市庁舎を参考に大連民政署を設計した例にあるように、左右対称の正面の中央に塔屋を載せることは、官衙の外観では常套手段であり、これらの形態は、19世紀後半から20世紀初頭に流行したネオ・バロックの手法であった。その典型は朝鮮総督府庁舎であった。そして、台湾総督府庁舎や朝鮮総督府庁舎のように、規模の大きな庁舎の場合、正面中央に塔を立ち上げ、その後方に鉄骨造ガラス張りの屋根を架けたホールを設け、その両側に中庭をとる手法は、ヨーロッパでもドイツ帝国議会議事堂(1894年竣工)など、規模の大きな建物で用いられた手法と同じであった。
 そして、これらの外観を見ると、台湾総督府庁舎や奉天駅に代表されるように、赤煉瓦むき出しの外壁を地とし、窓や出入り口、付け柱などに白色系の部材を付して図とした「辰野式」と呼ばれる外観の建物がある。これらは、19世紀のイギリスで流行したクィーン・アン様式の延長線上に位置づけられている。すなわち、西洋建築史の枠組みの中でこれらの植民地建築を位置づけると、それらは、いずれも、19世紀から20世紀にかけて流行していた建築様式の影響を受けていた。(p.200-201)


当時の欧米の流行の影響を受けたことは、欧米諸国の評価を得られるよう、欧米諸国の眼差しを意識して建てられていたとする前述の説と表裏一体であろう。



様式の普遍性は、19世紀末から20世紀初頭におけるそれぞれの地域での煉瓦造、組積造建築の普及によって裏打ちされていたのである。(p.201)


なるほど。




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西澤泰彦 『日本の植民地建築 帝国に築かれたネットワーク』(その2)

 このように、満州国政府の建築組織の設立経過を見ると、支配地での活動経験のある人物を組織の中心に据えるという方法がとられ、それは、満鉄がその建築組織を作ったとき、その総帥に小野木孝治を置き、人材の確保にあたったことと同じであった。組織の設立とともに活動を始めなければならない組織にとって、個々人の活動経験が重要な意味を持っており、支配地での活動経験は欠くことのできないものであった。満鉄や関東都督府の設立から四半世紀、台湾総督府の設立から35年を経て作られた満州国政府の建築組織も、同様の方法がとられたことは、支配地における建築組織の設立方法が確立したことを示していよう。(p.123)


本書の特色が現れている箇所の一つ。このように建築家やその所属組織にまで視野を広げて建築を見ていくことは、確かに個々の建築だけを見るよりも、新たな発見ができそうな気がする。

ただ、そのためにはある程度建築を見るための基礎的な素養が先にないと、ここまで頭に入れておくことはできない。また、近代以降の建築だからこそ、こうしたことまで追うことができる可能性があるのであって、何百年も前の建築ではそれはほとんど不可能とも言える。こうした見方は近現代の建築だからこそ可能であるところの独特の見方だというべきだろう。



 一方、台湾、朝鮮半島、中国東北部という東アジアの日本支配地で成立した植民地建築では、いずれも赤煉瓦が主要な建築材料となった。いずれの地においても、日本国内で西洋建築を学習した建築家たちが植民地建築成立の中心にいたことがその理由の一つであり、支配地に共通した赤煉瓦普及理由の一つであった。しかし、それぞれの地で成立した植民地建築において、赤煉瓦が積極的に導入された理由は、違っていた
 台湾では、19世紀末、台湾総督府が設立当初に建てた建物には、台北医院をはじめ木造の建物が多くあった。また、台湾銀行本店をはじめ、市街地に新築された民間の建物にも木造のおのが多くあった。ところが、これらの木造建物は、シロアリの被害に遭い、建築後10年程度で建て替えを余儀なくされた。
 1911年に台湾総督府技師となった井出薫は、1936年1月に「改隷40年間の台湾の建築の変遷」と題した文章を『台湾建築会誌』八巻一号に記し、被害に遭った木造建築についてシロアリの「餌食」となったという旨の報告をしている。そこで、台湾総督府では、基礎に「防蟻コンクリート」と呼ばれた厚さ四寸(約12センチメートル)のコンクリートによるべた基礎を用い、さらに上部構造を木造とせず、煉瓦造建築を大量に建てていくこととなった。台湾総督府は、1900年に台湾家屋建築規則とその施行細則を作ったが、そこではシロアリ被害が想定されていなかった。そこで、1907年の改正によって、この防蟻コンクリートを奨励した。しかし、建物全体を鉄筋コンクリート造とするには普及に時間がかかるため、上部構造として、煉瓦造が普及していった。
 中国東北地方では、関東都督府も満鉄も、徹底的な煉瓦造建築の普及を図った。それは、煉瓦造建築の普及によって都市全体の不燃化をめざし、結果として洋風建築が軒を連ねる街並みが出現することを狙っていた。関東都督府も満鉄もそのために煉瓦造を前提とした建築規則を実施した。したがって、煉瓦の生産は、それらの前提となるものであり、重要な産業であった。(p.136-137)


台湾の近代建築=植民地建築を見ていくにあたっては、こうしたシロアリ被害という、風土に根ざした問題を念頭に置く必要がありそうだ。(なお、この結果、台湾は日本本土よりも早く鉄筋コンクリート造建築が普及することとなった。)

中国東北部の不燃化のための煉瓦という発想は、小樽の運河沿いの倉庫群や北のウォール街とも呼ばれる地域をなす銀行建築群が木骨石造建築となった理由と同じであり、興味深い。日本では煉瓦が少なくなったのは地震が多かったためであろうが、中国東北部はそうした問題がなかったということが差異の要因の一つであろう。



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西澤泰彦 『日本の植民地建築 帝国に築かれたネットワーク』(その1)

 すなわち、建物を見ることは、その建物だけでなく、それが建てられた土地の歴史を見ることであり、そこから、人は平素の生活では味わうことのできない感動を得、また、知識を増やしていく。これが正しく、観光である。ところが、日本ではいつの頃からか、名物料理を食べ、特産品を買い込むことを観光と呼ぶようになった。言い換えれば、このような観光客の行為は、訪れた地の現況を味わって帰るだけであり、その地に培われた歴史を見ているわけではない。(p.3)


前段に関しては全く同意見である。建物を見ることは、その土地の歴史を認識することに通じる。もっとも、建物を知るためには「見る」だけでは不足であり、「体感する」必要があるというのが、私の持論だが。

後段の「観光客」に対する批判については、著者の心情はよく分かる。私自身も各地を観光をしていて、他の観光客の姿を見て、あまりにももったいないと思うことが多い。しかし、私は筆者の見解には与しない。名物料理や特産品にも、歴史的な経緯や背景、地理的な要因やそれらを背景とする流通の状態、経済の成り立ちなどが隠されていることが極めて多いからである。

その意味で名物料理や特産品などを買う行為を軽く見てはならない。ただ、それを何の意味も分かろうとせずにその場の感覚の充足のためだけに買い込む行為は、事柄の表層しか見ていないために「もったいない」のである。建物を見るのも同じであり、ただ、建物だけを見て、「大きかった」とか「綺麗だった」という程度の感想しか持てないような観光は、同じく表層的で「もったいない」のであり、どちらも同じようなものである。

単に気分転換のために旅行するという人なども多いとは思うが、大枚をはたいて「気分転換」だけしかできないようでは、「無駄遣い」と言われても仕方あるまい。経済的にはそれで潤う人もいるだろうから、完全に無意味というわけではないにしても、私が見る限り、そうした旅行の仕方をしている人はあまり旅行のリピーターにはなっていないように思う。彼らにとってはコストパフォーマンスが低いからである。



 「建築はもっとも雄弁に時代を語る存在である」(p.11)


これは村松貞次郎という人が書いた言葉を筆者が引用した箇所であるが、なかなかの名言である。



別の表現をすれば、建築はすべて目的があって建てられるものであり、「無目的な建築」は存在しない。(p.12)


確かにそうかもしれない。増改築や修復・復原なども、それぞれの目的があって行われるわけで、それらは建築当初の目的とは必ずしも一致しないが、そうした様々な意図の絡み合いと、それらの意図に基づいて建てられたものが実際にもたらした効果を切り分けるということは、建築について他人に説明などを行う際に重要になってくるかもしれない。



 外壁の意匠について、長野案も実際の庁舎も赤煉瓦の壁体を地とし、開口部廻りや胴蛇腹に相当する部分に白色の部材を図として置く、という基本は似ている。ともに、20世紀初頭の日本国内で辰野金吾が得意とした手法である。後世の建築史家はこれを「辰野式」と呼ぶが、世界的に見れば、19世紀後半のイギリスで流行したクィーン・アン様式を基調とし、そこに西洋古典建築の要素である円柱やペディメントを付して飾っていくものであり、それはフリー・クラシックと呼ばれる。
 典型例は、辰野金吾の設計によって1914年に竣工した東京駅である。ただし、「辰野式」とイギリスで流行したクィーン・アン様式との差異は、建物の飾り立て方、周囲との関係である。「辰野式」は東京駅に見られるように、左右対称の正面を持ち、中央と両端部を手前に張り出しながら、屋根にはドームを設けるなどして強調する手法がとられる。あるいは日本銀行名古屋支店(1910年竣工)のように両端部のみを手前に張り出し、ペディメントをつけて強調する場合もある。敷地が角地であれば、建物の角にドームや塔屋を立てて強調し、市街地においては、周囲に比べて目立つ建物になるように設計されている。
 しかし、クィーン・アン様式では、市街地に溶け込むように外観が作られ、建物の中央や端部に目立つような高いドームを立ち上げることはない。そもそも、19世紀後半のイギリスで流行したクィーン・アン様式は、市街地に建てられる事務所建築や店舗と集合住宅の混在したいわゆる「町場の建物」に用いられることが多く、そこでは、当然、周囲の街並みへの配慮が求められるので、その建物だけが目立つようには作られない。(p.23-24)


こうした説明があると、建物の見方がだんだん分かってくるから面白くなる。日本の建築や近代建築などには私はあまり興味を持っていなかったので、こうした分かりやすい説明がある本書は非常に有益だった。



 以上のように、支配機関が使う庁舎そのものの新築は、いずれの支配機関の開設当初にはおこなわれず、その主たる原因は、それぞれの支配機関に共通した問題として財政難であった。しかし、それだけでなく、どの支配機関においても庁舎よりも、実際の行政を担う組織の建物、あるいは、住民の生活に直結する建物の新築が求められ、それらが優先された。また、転用可能な既存建物の有無や、建築材料確保の問題、とも連動していた。(p.47-48)


本書で指摘されていることだが、庁舎が支配機関の開設当初には建てられず、ある程度の機関が経過してからようやく建てられたという点に着目することには意味がある。支配と建築との関係を、後から類推する場合、往々にしてこれらの建物が最初から建っていたかのように想像されてしまうことが多いからである。

逆に言えば、こうした「立派で威厳のある」庁舎が建てられた場合、建設時点までに、ある程度の統治体制が整ったということを示す標識の一つになるように思われる。



 ところが、庁舎全体の外観は、台湾総督府庁舎が「辰野式」であるのに対して、朝鮮総督府庁舎はネオ・バロック式である。これは、両庁舎の設計時期の違いに起因していると思われる。台湾総督府庁舎の設計競技がおこなわれていた時期は、日本国内で「辰野式」が流行していた時期であった。それに対して、朝鮮総督府庁舎の設計と設計変更がおこなわれた1910年代は、イギリスを中心にエドワーディン・バロックと呼ばれるバロック建築が流行していた。(p.48)


設計時期の流行が様式の相違に影響するという視点は、建築を見ていく上で重要なポイントの一つであるように思われる。どこの何に影響されたか、ということを知ることは、建築家や施主の関心を反映すると考えられるからである。

なお、台湾総督府庁舎の設計競技が行われたのは1907年である。



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胎中千鶴 『植民地台湾を語るということ 八田與一の「物語」を読み解く』

なかでも八田の師にあたる広井勇は、小樽港の築港を指揮し、のちに東大教授となった人物で、「技術者は、技術を通しての文明の基礎づくりだけを考えよ」ということばを残すような「法学部出身の官僚的な出世主義をきらった」人だったという。(p.13)


広井勇という人物にも私は若干興味を持ち始めたところなので、今後の参考としてメモしておくことにする。

広井に関しては、ここの注で以下のようにあったので、同時にメモしておく。

 広井勇(1862~1928)、高知県出身。札幌農学校(現在の北海道大学)卒業後、工部省勤務などを経てアメリカ留学。帰国後札幌農学校教授に就任。1893年、小樽築港事務所長に就任し、小樽港の築港に従事。ブロックを傾斜させ並置する「斜塊ブロック」という独特な工法を採用し、1908年、日本初のコンクリート製長大防波堤を完成させた。(p.46)





特に日本統治期に高等教育を受けた当時の台湾人エリートたちは、国民党政府への失望と憎悪の反動として戦前の日本統治を引き合いに出し、それを肯定的に評価する場合が多い。つまり彼らの親日感情は、自身の世代と人生に対する強い自己肯定の表明としてとらえることもできるのである。李登輝はそうした「日本語世代」を代表する存在といえよう。(p.19)


台湾の「日本語世代」を理解する際に、理解しておくべき背景。この世代との交流ができるのももうそれほど長い時間は残されていない。近々台湾を訪問したいと考えているが、その際にはこの世代と少しでも話をしてみたいと考えている。



日本が近代国家として植民地を統治するためには、キリスト教の代わりに医療と衛生がその「文明」の役割を果たす、と高木はいっている。「医衛」をいわば「恩恵」として与えることで、支配者の支配者たる正当性を、被支配者に示すことができるからである。(p.34)


こうしたやり方で支配の正当性を確保するという考え方は植民地支配に限ったものではなく、普遍的に見られるものである。(イスラーム世界のワクフ財産なども一部は同じような役割を果たしているし、主権国家内での再分配政策もこうした側面を強く持つ。)こうした支配者側の利益を明示することは有意義であり、ある種の道徳的な立場からこれを非難することも容易であろうが、そうかといって、全面的に否定されるべきものとも言えないところに若干の難しさがある。



 私はかねてから植民地統治の最大なる罪悪は経済的基盤の破壊や物的収奪にはなく、むしろ人間の破壊にこそあると考えている。言語の三重生活、母の言葉をもぎとられ、奴隷的思考に自ら堕してゆくこと等、植民地統治の罪悪の深さを深く深く人びとは知るべきだ[載 1976:243]。


 「人間の破壊」という、台湾の人々の内面をえぐるような傷痕は、おそらく現在の台湾社会にも、さまざまな形で残っているはずだ。第二節で述べたとおり、確かに近年の台湾では、民主化・本土化の流れのなかで台湾史が認知されつつあり、日本統治期を含む近現代史そのものへの見直し作業も続いている。しかしそれは、これまで自らの歴史から疎外されていた台湾人が、あらためて主体的に歴史を問い直すための試みである。これらの作業が決して植民地支配への肯定的評価をめざしているわけではないことを、われわれは知っておくべきだろう。(p.35)


最後のコメントは特に日本の保守派・右派の「自慰史観」に対する批判であろう。



 台湾の民間信仰には強い現世利益指向があり、霊験あらたかと認知されたものならすべて信仰や祈願の対象となる。死者はもちろん、それが行き倒れた無縁仏の遺骨であれ、犬、猫、ブタなどの動物、あるいはかまどなどの無機物であれ、御利益があればみな「神様」とみなされる。
 ・・・(中略)・・・。
 こうした台湾の民間信仰の特性を理解したうえでみると、戦後も墓と銅像を守ってきた住民たちが、八田を地域の守り神のひとりとして敬っているとしても不思議ではないことがわかる。(p.39-40)


 台湾には日本人警察官が祭られている神社などがあるという記事などを目にしたことがあるが、それらもこうしたものとして理解すべきだろう。つまり、現地では「日本人である」八田としてではなく、「地域の」守り神である八田として理解されているわけだ。

日本の保守派・右派の「自慰史観」は、こうした点を理解せず、「日本人」が祀られているとして「日本人としての誇り」を持つことを説いたりするが、それは現地の人々の意識とはかけ離れた独りよがりな考え方にすぎないのである。

本書が全体として指摘しようとしていることの一つは、まさにこの点にある。



 植民地社会は、支配者側の利益を最優先して形成された差別に基づく社会である。もちろんどんな社会にも「いい人」がいるのは当たり前で、植民地にも「いい日本人」は数多く存在しただろう。しかし逆にいえばそのような善意の人が大勢いたにもかかわらず、日本は50年にもわたって台湾を植民地として支配したのである。私たちはそうした当時の日本の植民地主義という価値観そのものを、まず考えるべきではないだろうか。そして、そうした視点から八田與一をみると、彼を「真の国際人」として位置づけることよりも先に、民族差別を嫌ったであろう八田が、それにもかかわらず植民地主義のシステムのなかで生きざるを得なかったことを自体にまなざしを向けるべきだということがわかる。(p.44-45)


「いい人」がいたということを以って「植民地支配」を正当化しようとする保守派・右派に対する批判。



 1980年代後半から民主化・本土化の道を進んできた台湾では、日本統治期の歴史を台湾人の主体性という観点からあらためて問い直そうという試みが続いている。その流れのなかで、台湾人の八田への認識は、もはや「日本」や「日本人」の枠組みからいったん切り離された地域の歴史、すなわち「台湾史のなかの八田與一」という存在に変化しつつあるようにみえる。(p.46)


台湾人の主体性という観点から日本統治期を見るということは、日本に抵抗した現地人という観点からの抗日運動に焦点化されていくことが予想される。この事例はやや安易な焦点化であるとは思うが、こうした方向がクローズアップされるとなれば、日本による統治は相対的に否定的な対象として描かれることとなっていくだろう。

「台湾人」が一つの単位として選択されることの是非を私としては問いたいところがある。確かに、国民党統治期以後は、一つの単位となりうるように思われ、また、日本統治期は単位としての側面が形成されていく時期であろうが、それ以前は単位とはなりえないように思われる。

これから台湾の歴史関係の本を少し続けて読もうと考えているので、その際の問題意識として持っておきたい。


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大江健三郎 『沖縄ノート』

人類館事件から、現在の、沖縄では英語が日常語か、と訊ねるたぐいの、およそグロテスクなほどにも歪んだ「現実そっくり」の様ざまな神話が、沖縄には数かぎりなくころがっていて、本土の日本人の、無知による、沖縄イメージの単純化は広くゆきわたっている。そこからくる差別の積み重なりの総量は膨大なものだ。(p.190)


こうしたことは「本土」と「沖縄」の間だけでなく普遍的に見られる。例えば、中国で2005年にいわゆる「反日デモ」が起きた頃には中国の人々のほとんどが「日本」を嫌っているかのようなイメージが流布したり、9.11テロの直後にはイスラームというと「怖い」というイメージが流布したり、といったものは比較的記憶に新しいところであろう。

「無関心を背景とする無知」が、こうした事態の背景にほとんど常にあるように思われる。「知らない」が故に、共感もできず、他者として認識される。この区別と「『無』関心であり、知ら『ない』」という否定が常に同時に存在するため、単なる「区別」では終わらず、否定的な評価を伴う「差別」になってしまう。

こうした「差別」は現実の利害関係と結び付くとき、単なる価値観や認識の問題を超えて作動し始める。


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北川佳枝 『近代商業建築を観る 旧日本郵船株式会社小樽支店の再生』

 佐立七次郎が初めてこの小樽の地に立った時、町はかなり悲惨な状況にあったと思われる。1903年(明治36年)4月手宮町の大火で約750戸焼失し、その際日本郵船の木造倉庫及び事務所も失われ建替えの契機となった。さらに翌1904年(明治37年)5月の大火では海岸線に沿って約2千数百戸を焼き尽くされ、焼け跡には辛うじて難を逃れた石造倉庫のみが点々と残っていたという。以後この教訓を生かし、町には袖壁をもつ木骨石造商家が増えていき、小樽の町並みの特徴的な景観となっている。(p.14)


木造家屋が密集していたため火事が多く、その被害が甚大であったことが、現在に残る都市景観に繋がっている。

袖壁によって火事が隣家に広がるのを防ぐようにしており、外壁を石造にすることで外からの火にも強くなるということである。

ちなみに、小樽の建築は一見すると石造なのだが、内部の構造は木造になっていて、その外壁部分だけが石造や煉瓦造になっているのが特徴の一つである。相対的に安く建てることができることができることのほか、もしかすると寒冷地であることも要因だろうか?



そして南浜、北浜、色内の海岸線沿いに船舶、海運、倉庫業者、その裏手の色内通りには海産物問屋や諸銀行、その山の手に小売業商店街と、小樽に於ける特徴的な業種が分化定着し、1899年(明治32年)区制施行の頃には現在に至る大まかな町並みが形成されていた。(p.15)



海岸線に並行して、等高線的というか層状に業種が分布しているのが面白い。今年の春にNHKの番組で「職人坂」が紹介されていたのを見たのだが、「職人坂」も海岸線に並行して走っている道であり、これもまた同様の業種分布であるように思われる。



 建物がもつ奥行きの中に、その建物の歴史だけでなく素材の歴史をも探索できる楽しみがある。特に近代建築は、建築材料が明治に入って急激になだれ込んで来た外国製品と、その国産化初期製品とが混在して成り立っており、その技術や意匠の比較や発展が興味深い見所の一つでもある。(p.26)


なるほど。ただ、ここまで深く知るためには相当深くそれらの建築にかかわらなければ分からない点が多いように思われる。ただ、こうした視点を持ちながら見れば、いわゆる近代建築も面白く見ることができるかもしれない。

私の場合、12~18世紀頃のヨーロッパと中東の建築に最も興味を持ってきたので、日本の近代建築はちょっと物足りないといつも思っていたのだが、こうしたかなりマニアックな(?)視点を持つことにより、建築を観る面白さはかなり広がるように思う。



また私は藤森輝信氏の「鍛えた目玉(観察眼)を備えれば近くの街が楽しい旅先へと変わるはず」という視点にも共感する。(p.43)


至言である。上で述べたような点(素材の歴史)を見極めることができることなどは、まさに「鍛えた目玉」を持つということだろう。


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