アヴェスターにはこう書いている?
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弓場紀知、長谷川祥子 『美術館へ行こう やきものと触れ合う[中国・朝鮮]』

 唐三彩の形に共通する特色は金銀器の影響、もしくはその模倣である。唐代の器の主流があくまで金銀器、銅器であったことは発掘例などからよくわかる。(p.34)


やきものの形状は他の素材で作られていたものの影響を受けていることが結構多いようだ。特に古い時代のものほどそういう傾向が強いように思われる。



 俑は秦・漢時代に墓室にさかんに副葬され、権力者達は俑の数の多さによってその力を誇示した。秦始皇帝はその典型で、自らの墓のまわりに万余の土製の兵隊を配した。漢代も規模は小さいが兵士の隊列に墓を守らせている。しかし南北朝になると軍隊の俑は少なくなり、文人や女官、シャーマンなどがふえてくる。それが唐代になると、美しく着飾った女官や侍女、大道芸人、儀仗兵などが中心になってくる。それにあわせて墓室には官女の列や庭園図、狩猟図など遊興図の壁画がえがかれることとなった。平和な時代だったのだ。(p.36)


ここでは、像(俑)の造型において何が象られるか、ということが時代性を反映していると見られている。確かに、そうした面はあるかもしれない。

また、俑の形が、兵士などから女性などに変わって行ったというのは、私がこれまで見てきた様々な博物館の展示でも見て取ることができる。いわれてみればその通りだ、という感じである。



「陶をもって政を知る」という諺がある。天下が安定した時代にはいい陶磁器が生まれる、という意味だ。(p.104)


陶磁器に限らず、「金のかかる造形芸術」は政治経済がそれなりに繁栄していなければ良い物は(少なくとも大量現象としては)作りえないように思う。

その最たるものは建築だろうけれども、彫刻や絵画などもこうした傾向があるように思われる。



 モンゴル族の支配した王朝である元時代は100年に足りない短い期間だが、中国陶器が世界的な広まりをもった時代である。宋代に活発にやきものをやきつづけた華北の諸窯が急激な衰退をみせた一方、陶磁貿易に大きな力をそそいだ龍泉窯や景徳鎮窯はいちじるしい発達をとげている。(p.181)


モンゴル帝国の時代は陶磁器に限らず、ユーラシア大の貿易が活発化した時代であり、ユーラシア世界がそれ以前には見られなかった規模と深さで結び付いていた時代であったように思われる。陶磁器についてもそれと同じ傾向が見られたようである。華北の窯が衰退し、長江以南の(海岸沿いとは言えないが、内陸というには海に近い地域の)窯が発達したのは、これらの商品が海運によって運ばれたことが表れているように思われる。



とりわけ康熙帝と乾隆帝はヨーロッパの科学、芸術に強い関心を持ち、雍正、乾隆帝が建てた北京郊外の離宮、円明園がその象徴である。ヨーロッパのバロック様式に中国趣味を加えた建築で、清朝皇帝のヨーロッパへの傾倒の深さがしのばれる。また乾隆帝は自らが書、絵画をものし、一種の美術コレクターとして宋代以来の書画、骨董の蒐集に力を入れた。清朝磁器の理解には、そうした背景を考えに入れなければならない。(p.189)



ヨーロッパにおけるシノワズリーに相当するような現象と言ってもよいだろうか?ヨーロッパと中国のいずれ社会においても、社会的上層部では相互に関心が高まっていたことだけは確かだといえそうである。



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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

周婉窈 『図説 台湾の歴史』(その3)

このように台湾人日本兵が経験した境遇はそれぞれ異なっていたが、よく生きながらえて帰郷できた人も、また共通する運命を甘受せざるを得なかった――日本のために戦ったという気まずい過去と口にできない万腔の苦しみを抱えながら、新しい社会の中で沈黙を強いられて生きることになったのである。歴史は彼らを嘲笑うかのようであった。想像してほしい。あなたは歳若い身で国家のために出征し、戦場で勇敢に奮闘し、目の前で同胞が一人一人と死んでいく。ところがある日突然戦争が終わり、するとあなたたちはたちまち国籍を失い、次の日からはまったく別の国の国民として生まれ変わる。しかもその新しい国というのが、今まであなたが命がけで戦ってきた敵国〔中国〕なのだ。そんな目にあえば、歴史があなたを笑い者にしているのではないかと思わずにいられないだろう。(p.154-156)


第二次大戦の末期には、台湾の人びとも日本兵として徴用されたということだけでも日本ではあまり知られていないのではないように思うが、少なくとも、こうした人びとがいたということは、「記憶」として留めておくべきであるように思われる。



 前述したように、白色テロは台湾で始まったわけではないし、また台湾人のみを特定の対象としたものでもなく、「共匪」(共産分子)を殲滅し、その影響を除去するのが目標であった。(p.188)


「白色テロ」というのは、何となく「台湾で起こったこと」というイメージがあったので、すっかり引っかかってしまうところだった。(やはり知識が足りない分野については注意しなければならないと思い知らされる。)

白色テロに繋がる強権政治は1948年5月に当時南京にあった国民政府が「動員戡乱時期臨時条款」を公布・施工することで、憲法の条文を一部凍結することができるようにしたことに始まるが、国民党が台湾に逃げ込んできたのは1949年であり、それより前に白色テロの体制は既に準備されていたわけである。



われわれは国民党政権の台湾移転とは、元来は広大な国家を統治するサイズの政府機構が、この微々たる小島に到来したことを意味したことを認識せねばならない。国民党政権は中国大陸で惨敗したとはいえ、その軍隊と警察の情報・治安系統をもって台湾を統治するのには、十二分の余裕があった。(p.188)


説得力がある。

十分な量の暴力装置を持ち込んで台湾に来たが故に、その暴力装置の密度は高く、強権政治を容易に行ない得たということか。



 ここでわれわれが注意しなくてはならないのは、この白色テロの時代、すべての人が同じように白色テロの脅威を感じとっていたわけではないと言うことである。統治集団及びそのイデオロギーを忠実に守ろうとする人びと(若者や学生たち)は、まったく恐怖を感じることなく、悠遊自在に謳歌することができたのだ。このため、国民党教育の枠組みで育った優秀な学生は、大学卒業後、立派に立身出世し、その枠外で起こった具体的な事物や知識に接する機会のなかった人物の場合、とりわけ白色テロ及びそれが「他者」に及ぼした傷痕について、30年経った今でも理解することはないだろう。明瞭に異なる歴史経験は、まったく異なった歴史的記憶を生み出す。「他者」の被害の歴史を知り、それを自己の記憶に組み入れることは、ある種の想像力と、現在の自分を超越する普遍的な理解力を必要とするものである。(p.192)


台湾は理解しようとすると、かなり複雑な社会であるように思われる。

後段の「他者」の被害の歴史を知るための想像力や理解力は、歴史を学び、また語る人間にとって常に必要とされるものであるように思われる。



廈門はすでに陥落し、中共の軍隊はいつでも海峡を渡って攻撃できるという時、アメリカは傍観の態度を決め込んでおり、台湾の情勢は非常に危ういものとなっていた。「運よく」6月に朝鮮戦争が勃発したため、アメリカは急遽、中華民国を支持することを決定し、第7艦隊を台湾防衛のために派遣したのであった。アメリカの軍事保護とそれに伴う物質的援助の下、中華民国の台湾における統治は、急速に安定に向かった。(p.201)


第二次大戦直後の、冷戦へと向かう世界秩序の中でアメリカの果たした強力な役割は、世界中に及んでいる。

台湾も日本と並んで「冷戦構造によって経済的恩恵を得ていた地域」である。



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周婉窈 『図説 台湾の歴史』(その2)

 現代の私たちには、故郷の生活方式がこんなにも大きな決定力を持っていたということを想像するのは難しい。しかし、近代以前の社会では、ほとんど人びとが字を知らず、個人の生活技術は父親や隣人から学んだものであり、一生に一種類だけの技術しか学べず、別のものに変えることができなかったということを、理解しておかなければならない。もしある男性が漁撈を学んだならば、それを農耕に変えさせることは非常に困難であった。仮にもしすぐに生活を維持しなければならないならば、「黔驢の技」(自前の拙い技を発揮すること)を使うしかないであろう。当時、現代社会の「就職前教育」のようなものはまったくなかった。識字教育が普及することで、工業・商業に従事する基本労働力が養成され、労働力は空間的な流動性を持つようになったのである。たとえば、現在、A地方でデパートの店員をしていた人は、短期間のうちにB地方で工場の勤務に転ずることが可能である。しかし、前近代社会にはどこへ行っても通用するような普遍的就職前教育はなく、人びとが移住する時は、それぞれ各自の「一芸」を持って移動したのである。(p.68-70)


参考になる。

しかし、こうした事情は「前近代」のような「普通教育」が普及する以前の時代にのみ当てはまるわけではないように思われる。現代であっても、教育水準の低い人にとっては事情はさして変わっていないのではないだろうか。

私が具体的に思い浮かべているのは、土木作業員や建設現場で働いている労働者や交通整理の誘導員などの仕事をしているような人々(私が知っている人びと)である。彼らは「普遍的就職前教育」の機会は与えられてはいたものの、それについて行くことができなかったのか、もしくは、しなかったのか、というような人が多い(もちろん、上記のような職業に従事している人が皆そうだなどと言っているわけではない)。教育を受ける機会自体はあり、実際に形式的に教育を受けはしたものの、修得の度合いは低く(つまり学業の成績は悪く)、それが経歴として現れるために(中卒などの低学歴等なので)就職の際にも不利に働く、という傾向が見られる。これは、私自身がこういった人たちと実際に会い、彼らの経歴等を見てきた中で、強く感じてきたことである。

相対的に高学歴な人とこうした人々の間の職業選択の可能性や、転職等の経歴を見比べてみると、明らかに状況は異なっている。「不利な人々」はあたかもこの引用文で描かれている「前近代」の状況に近いのである。

昨今では公共事業を削減しつつも、介護職(一昔前はIT産業)などで雇用を拡大しようなどという論調も一部にあるようだが、そもそも公共事業の削減で職を失った人たちが、介護やましてやITなどの産業に、大量現象としては転職できるわけがないのである。引用文の指摘は雇用の確保といった現代の政治や社会の問題を考える際にも通じるものだといえる。



基本的に、「内地化」論者は、台湾が中国内地に同化する脈絡を強調し、「土着化」論者は漢人移民のこの台湾へのアイデンティティを強調する。・・・(中略)・・・。興味深いのは、これらの両者が共に台湾社会の変化を認め、その時期を1860年前後、つまり台湾割譲の40年足らず前に起こったとしていることである。(p.92)


1860年前後に台湾社会に大きな変化が起きていたとする共通認識があるようである。この時代は東アジア地域に「ヨーロッパ列強」が進出してきた時期でもある。例えば、アヘン戦争は1840年~1842年だし、アロー戦争は1857年~1860年であった。

このあたりの関係については今は性急に結論は出さないでおくが、興味深い変化が起きていた時期であることは間違いなさそうだ。注目しておきたい。




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周婉窈 『図説 台湾の歴史』(その1)

しかし東アジア諸国の相互認識は、観光と大衆文化のレベルにとどまったままで、歴史の深みに欠けているように思われる。現在問題になるいくつかの事件は、東アジア各国の戦前の歴史的経験が、今も依然として作用していることを教えてくれる。(p.6)


確かにその通りである。但し、批判的な歴史認識に耐え得ない人々も多いことを考えると、あまり「強い個人」を仮定してはならない。強いて言えば、やはり報道(特にテレビと新聞)や政治家の発言が深い相互認識に裏打ちされたものになることがまずは必要であるように思われる。

そこが正されれば、自ずと一般人の認識も同じ方向に導かれる傾向を示すであろう。



21世紀の初めは、戦争を経験した世代が、その経験を深く考え、語り伝えることのできる最後の機会であり、戦後の各世代が過去を正しく理解し、正負の遺産を直視することによって、冷静さと公正さを保ちながらも、積極的に東アジアの平和と共生の道を求めることのできる新しい時代である。(p.6)


ここでの「戦争」とは第二次世界大戦を指すのだろう。「戦後」にもベトナム戦争やそれ以後にも中東などでは戦争は続いていたことを考えれば、それらの地域では事情は異なっているから。

21世紀初頭は第二次大戦を経験した世代が経験を語りうる最後の時代であるという指摘は非常に重要である。特に歴史学者やメディア関係者にとっては非常に重要な指摘であるといえる。今後は「史料」の提供を受けることができなくなるのだから。

歴史を完全に総決算する事はできないにしても、政治の力などによって隠されてきた、見えなくされていた事実を当事者が語ることには大いに意味がある。そうした仕事を大いに進め、広く知らしめてほしいものである。



私たちは、オランダ東インド会社の統治地域が台湾南部を中心としており、その勢力もしくは「教化」が南部に限られず、細々ながら北部の若干の拠点と卑南地方〔台湾の東南沿岸部〕一体にも及んでいたとはいえ、中部・北部及び中央山脈以東の大部分の先住民にとって、オランダ東インド会社の存在は、あまり関係のないものであった。私たちが「オランダ時代」と呼ぶとき、オランダの支配の及ばなかった「地域」や「人間」までもその中に囲い込んでしまっていないだろうか。この種の強引な歴史区分に対して、私たちはしっかりと問い直さなければならない、「これは誰の歴史なのか」と。(p.10)


正しい。

日本史でも例えば「奈良時代」と呼ばれている時代は東北や北海道に当時住んでいた人々にとっては、その時代のこととして描かれている事実は、あまり関係のないことだっただろう。特に「国」を単位として歴史を考えてしまうと、常にこうした誤った理解を誘発する事態に頻繁に出会うことになる。以前は現在の人間が自然と思い浮かべるような「国」などなかったからである。

台湾の歴史における「オランダ時代」も日本史における「奈良時代」も、いずれも「文字を持つ支配階層の歴史」である。「誰の歴史なのか」という問いかけは、いわゆる社会史などが一般化してきた、最近30~40年の歴史学の動向からして当然の問いであり、本書のような一般読者でも読めるように意図された本でも指摘される機会が増えてきているのは良い傾向である。



人びとの経験は日に日に一致する傾向にあり、お互いが同じ時間の流れに生きていることを比較的想像しやすくなっている。しかしこれは現代社会特有のものであり、われわれが過去を想像するとき、できる限りこうした「同質化」を過去に当てはめてはならない。(p.11)


同意見。

過去の人の目にその時代の出来事がどのように映っていたかを考えるとき、必ず想像力に頼らなければならないが、その際に注意すべき点の一つである。なお、20世紀初頭の台湾でさえ「同質化」を当てはめることは慎まなければならないことが本書のこの箇所では例示されている。



まず私たちが必ず理解しなければならないのは、私たちが属する時代はナショナリズム(nationalism)の隆盛の時代であり、世界を構成する単位は国家なのである。それは必ずしも国民国家(nation state)である必要はないが、帝国ではなく、また部族でもない。ナショナリズムという公理のもと、帝国は必ず瓦解する運命にあり、一方部族は建国せぬわけにはいかない。(p.12)


こうした点に注意を促した後、著者は「一つの国家あるいは国家たらんと希求する社会は、「自己」の歴史を必要とする」(p.12)と述べ、このように「地理的空間から一個の社会的集団〔原文は「社群」〕あるいは国家民族〔原文は「国群」〕の共同の歴史を追憶するのは、近代社会に普遍の現象である」(p.13)と指摘し、「台湾史」を叙述する際に、どのように民族集団と歴史単位の問題を処理すればよいのか、と問題を提起する。

地理的な範囲を特定して歴史を叙述する場合、この問題には究極的な答えは得られないのではないだろうか。範囲を設定したこと自体が、そして、その範囲がなぜ選ばれたのか、ということ自体が理論付加されたものだからである。

この問題については「なぜその範囲を選ぶのか」という理由を自他共に明示した上で叙述をするという姿勢がきわめて重要であるように思われる。その点、本書は政治的な主張は行わない、などと随所で断っておきながら、叙述の基本的な方向性は「台湾独立派」に近いと考えられる点で、やや不誠実さを感じる。

例えば、従来の「台湾400年の歴史」という考え方は漢族のものであり、原住民を視野の外においてしまう傾向などを指摘したり、台湾が中国の王朝に組み込まれたのは実質的に清代だけであり、清朝も台湾への関与は消極的なものにすぎなかった点を強調することなどは、「台湾は中国の一部ではなかった、一部であっても大陸とは基本的に異なっていた」という政治的主張に根拠を与えるものであり、これは台湾独立派に好都合なロジックであり、また「事実」でもある。本書の叙述にはこうした方向性を示すものが多い。

ここで振り返って、本書が「台湾の歴史」として書かれる理由は、「台湾」が現在、実質的に一つの政治単位として作動しており、それは実質的には一つの「国」と呼びうる状態になっているという現状認識があるはずであり、それを前提として「台湾史」が構想されている。そこから大陸との関係に着目することとなり、上述のような事実が導かれてくるという流れになっており、上記のとおり「なぜ台湾史なのか」を明示しておくことで本書のスタンスをより明確化させることができるように思われる。

(同じく「台湾史」を描くにしても、例えば、エスニシティに着目して、台湾の住民のほとんどが「漢族」であることを強調すれば、「台湾は中国の一部」という主張に好都合な事実を集めやすいだろう。もっとも、こうしたやり方で主張を組み立てたとしても、総合的に見れば、本書の立場の方が妥当性は高いと私には思われるが。)



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片倉佳史 『台湾に生きている「日本」』

 台湾総督府による統治機構が完成しつつあった大正期は、治世の安定とともに、各種産業が発達した時代でもある。この時期には数多くの産業施設や公共建築が設けられた。中でも官庁舎は台湾総督府内に設けられた営繕課が設計を担い、威厳を強調した建物が各地に建てられていった。
 建築物については、当初は赤煉瓦建築が大半を占めていたが、1923(大正12)年の関東大震災以降は耐震構造への関心が高まり、鉄筋コンクリート造りの建築物が増えていくようになる。(p.16)


近々台湾に行く予定だが、建造物の構造や材質が時期により変化している。現地で見てくる際には、こうした点にも注目してみたい。



現・国立台湾博物館(旧・台湾総督府博物館)

 植民地における博物館というものは、等しく統治者の視点で運営される。ここもその例外ではなく、総督府が自らの治績を内外に向けて宣伝しようとする意図が随所に感じられる。つまり、日本人が台湾統治の妥当性を強調するための展示空間だったともいえる。
 しかし、この建物を前にすると、その風格は為政者たちの思惑をすっかり超越してしまったかのようである。また、統治者の目線とはいえ、文物や収蔵品を民衆に閲覧させるという教育的観点が当時、すでに備わっていたことも注目したい。そして何より、当時の日本の建築水準がいかに高いものであったかを知ることができる。そう考えれば、この博物館を訪ねる意味は決して小さくない。(p.50)


この建物については、私が行った際、現地でどのように感じるか楽しみである。

日本の植民地化は――他の植民地宗主国では宗主国化であったのに対し――「日本化」ではなく「西洋化」であったと周婉窈という台湾の歴史学者は指摘しているが、この建物がギリシア建築風なのは、まさにそれを最もよく示すものかもしれない。



現・台北市当代芸術館(旧・建成尋常小学校)

 建物の正面に立ってみると、左右対称のシンメトリーが美しい。正面の屋根部には鐘楼が設けられている。かつての教室は展示室となっており、小部屋がいくつも並んだ様子は、確かに学校らしい雰囲気である。建物は二階建ての赤煉瓦造りだが、屋根には黒瓦が載せられており、やや独特な印象だったという(現在は改修済み)。
 この赤煉瓦と黒瓦の組み合わせは、台湾では各地で見ることができた。日本式の屋根を抱いた赤煉瓦建築とでもいおうか。現在も68ページで紹介する台北高等商業学校(現国立台湾大学法律学院・社会科学院)のほか、新竹州庁舎(現新竹市政府)や台北帝国大学(現国立台湾大学)の一部などに同系統の建物が見られる。(p.64)


左右対称で中央に鐘楼があるというパターンは明治の頃の日本の大学の校舎建築などでも見られたパターンであるように思われる。それと似たパターンが小学校でも用いられているのは興味深い。

また、赤煉瓦と黒瓦を組み合わせた「日本式の屋根を抱いた赤煉瓦建築」というのも、どんなものなのか気になるところ。



旧・台北州立公共浴場(現・北投温泉博物館)

 公共浴場は二階建てだった。一階部分は煉瓦造りだが、二階部分は木造という構造だった。これはハーフティンバーと呼ばれ、台湾では大正時代から昭和初期に多く見られたスタイルである。(p.82)


台湾で建築を観る際の知識としてメモしておく。



総督府は基隆や台北などの北部から支配体制を固めていったため、治安の安定した北部と政情不安な中南部という構図ができあがってしまった。そんな状況を受け、鉄道は中南部の攻略と物資輸送に大きな役割を果たすことになる。
 ・・・(中略)・・・
 不安定な政情の中、縦貫鉄道は物資の輸送のみならず、統治機構の中枢である台北と中南部の各都市を結び付けた。大規模な輸送能力を誇る鉄道は、人員や物資の輸送を円滑にする上で、想像をはるかに超える重要な役割を担っていたのである。(p119-122)


縦貫鉄道が開通したのは1908年である。日本が統治を開始したのは1895年であり、しばらくの間は台湾の統治は安定していなかったことがわかる。

治安の安定した北部と政情不安な中南部という構図ができあがったという点は重要である。抵抗運動と統治機構とのせめぎあいがあり、ある種の均衡を保っていたことになる。鉄道はそのバランスを大きく支配者側に傾かせることになったものと思われる。



台南駅

 この駅舎のスタイルは昭和時代初期に多く見られたもので、当時の典型的なターミナル建築と言えるものである。箱形の建築母体を組み合わせたデザインで、装飾を排してすっきりとした外観になっているのが特色だ。これは赤煉瓦を用いた古典的な西洋建築の様式から、機能性や耐震性を重視したモダニズム建築への過渡期によく見られるスタイルである。
 こういった駅舎は台湾では現嘉義駅や旧台北駅にも共通している。そして、外に目を向ければ、上野駅(1932年)や小樽駅(1934年)、旧大連駅(1937年)などにも繋がりが見える。これらは整然と並んだ窓枠が美しく、館内の最高が考慮された造りとなっている。いずれも交通の要衝として栄えたターミナルで、時代性が感じられる。(p.140)



モダニズム的な駅舎というものは、かなりシンプルなので、あまり興味を持たずに見ると、何も気づかずに素通りしてしまう。これらの駅舎のスタイルが古典的な西洋建築の様式からモダニズムへの過渡期のスタイルだというのは、言われてみれば確かにそうかもしれない。

また、窓枠の美しさなども、例えば小樽駅などでは現在はランプが吊るされていて、なかなか良い味を出しているので観光客が良く写真を撮ったりしている。上記の指摘には納得させられるものがある。

なお、台南駅の駅舎が竣工したのは1936年であり、上野、小樽、大連とほぼ同時期のものである。



 戦後、日本では「怨みに報いるに徳を以ってする」という言葉とともに、蒋介石は寛大な人物というイメージが一人歩きしていた。この「聖人」の実態は、公共財産を私物化したり、言論弾圧を施したりと、国民党政府が台湾で行ってきた無数の暴挙を考えれば、見当違いであるのは明白だ。しかし、多くの日本人がこういった認識を抱いていたという事実は忘れてはなるまい。(p.235)


 最近は蒋介石と言ってもピンと来ない人の方が多いかもしれない。名前だけは知っている、とか。



北京語で育ち、北京語しか話せない若者が社会に出た後、多数は言語である台湾語の必要性を痛感させられるという話はあとを絶たない。(p.240)


先日知り合った新しい台湾の若い友人も、仕事をするようになってから台湾語が必要になって少し勉強していると言っていた。こうした多言語社会について日本にいるとあまり想像できないのだが、世界的に見ると、かなり多くの地方は多言語社会であるように思われる。

インド、イラン、中国などがすぐに思い浮かぶ。アメリカもそうかもしれない。

ふと思ったのだが、日本では翻訳書が多いが、これは出版業界が保護を受けてきたというだけでなく、日本が実質的にはほぼ単一言語の社会になっていることも要因なのかもしれない。




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原田曜平、余蓮 『中国新人類・八〇后が日本経済の救世主になる!』

上の世代には「モノ派」が多いけれど、八〇后は「モノ派」と「コト派」にきっぱり分かれる。それが、上の世代と八〇后とのちがい――。八〇后自身も、そのことを感じていることがわかりました。(p.91)


本書は、中国の1980年代生まれの世代の消費行動を「計画的-衝動的」と「モノ派-コト派」という2つの軸によって4タイプに分類し、それをもとにして今後の中国でのマーケティングの手法などについて考察している本である。

モノ派とは「モノそのものやブランド品などをほしがるタイプ」(p.64)であり、コト派とは「体験や価値観を実現させるために消費を行う人々」(p.64)である。

いわゆる「先進国」と呼ばれるような地域ではコト派が多くなるとも言われているが、上記引用文で述べられているように、中国ではいわゆる「発展途上国」で多く見られるモノ派が主流だったが、次第に「先進国」型の消費形態が現れてきているということになると思う。

私自身の観察から言っても、この傾向は見て取れるように思われた。というのは、私はここ2年ほど頻繁に中国を旅行してきたのだが、中国では20代から30歳前後のバックパッカーが凄いペースで増えている。パッカーと言っても国内旅行者なのだが。旅行というのは消費としては「モノ」ではなく「コト(体験)」を買う行為だから、「コト派」的な消費をしているのを私は目撃してきたことになる。

モノというのは、最低限の生活が十分維持されていれば、それ以上は必ずしも必要がなくなってくる。そのレベルが満たされるまでは「モノ派」であらざるを得ない。だから、「発展途上国」ではモノ派が大多数になる。生活が満たされた後は、自分のステイタスを示す商品(ブランド品などの高級品)などを買おうとするか、または、消費する対象は「コト(自分の価値観を実現するものや体験)」になっていくのは、ある意味では必然的とも言えるかも知れない(貯蓄にまわすとか投資するとかいう選択肢も当然あるが)。

中国の生活水準があるラインを超えたことを八〇后の消費行動は示しているとも言えるかもしれない。

ちなみに、本書の分類を用いれば、私自身は「計画的なコト派」(透明族=自分に投資する人)にあたるようだ。



この「2007年度省別GDPランキング」からもわかる通り、安徽省は中国でちょうどまんなかあたりに位置する、中庸的な省です。今後の中国における地方都市戦略を考えるうえで、モデルとなり得る省といえるかもしれません。(p.133)


地方都市戦略を考える必要があるということがこの指摘の背景にあると思うが、確かに、日本の企業にとっては有意義な考え方であろう。




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筧文生 『中国の都城6 成都・重慶物語 花は重し錦官城』

 “沃野千里、天府の土(くに)”である四川省は、三峡の険をはじめ、周囲を天然の要害によってまもられているがゆえに、王朝の交替期には、しばしばここに独立王国を誕生させ得た。しかし中原の地が治まると、遅かれ早かれ滅ぼされるのも、また蜀に拠った政権のたどる運命であった。
 人間の生活にとって必要なものはすべて四川省内で生産されると、よくいわれる。しかし、このことは四川に住む人々に平和で豊かな生活をただちに約束するものでは決してなかった。むしろその逆でさえあったことを歴史は証明している。(p.261)


四川は相対的に閉鎖的な領域であることがこのようになる要因の一つだと思われる。


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倉都康行 『金融vs.国家』

 サブプライム危機は、米国を発端としながらも即座に欧州に波及し、さらに中東やアジアなど世界中に伝播することになった。世界の金融市場では、資金移動のボーダーレスだけでなく、金融技術という共通プラットフォームの下での同質化という現象も起きていたのである。(p.14)


この同質化があるからこそ、金融グローバル化の下では強い者が一人勝ちできるわけだ。



 輸出入に規制をかける経済制裁はたしかに効果があるが、闇ルートが存在する限り致命的な結果を期待することはできない。だが銀行を通じた資金の受け渡しができなくなる金融制裁は、国の存亡にかかわるものとなる。(p.16-17)


金融が持つ力の大きさを我々はよく認識しておく必要がある。



 現在、金融や経済は民間にすべて任せるべきだとの風潮が強まっているが、以下の章では、金融や経済に関する歴史を振り返りながら、金融の発展が国家などの社会的権威を借りて育成されてきたことを概観しつつ、国家戦略が金融の発展、ひいては経済発展に実に大きな影響をもつものであることを示してみようと思う。(p.41)


金融と政治権力との間には、切っても切れない関係がある。金融の歴史をたどりながら一般読者にこのことを示そうとしている点に本書の存在価値があるように私は思う。

私見では金融だとか経済だとか政治という分野ごとにわけた思考自体が誤っているのであり、物事を捉え損ねているものと考える。金の持つ権力も政治権力もいずれも権力の一現象形態にすぎず、権力が作用する際に場合に応じて形を変えたものに過ぎない。もちろん、権力を行使する「器」はその時と場に応じて変わるのであり、これらの「権力の受け皿」の間の利害関係というものも当然存在しうるが、所詮、それらは交替可能なものであることが多いのである。



 大航海時代にインド洋に築かれたポルトガル海上帝国、それを打ち破ったオランダの連合東インド会社、そして大英帝国の礎を作った英国の東インド会社という3世紀にわたる交易時代は、まさに国際金融の曙であった。だが、それらはすべて政府が背後にいて指揮をする、国家プロジェクトだったのである。国際金融は、外交と同じように近代的な国民国家と共に生まれ育ったといってもよいだろう。(p.50)


「ヨーロッパ中心主義」的な歴史観ではあるものの、本書の基本的な考え方を示している箇所である。

国際金融は近代的国民国家と共に生まれ育ったという指摘は特に興味を引かれるところである。

金融史を学んでいく中で、この指摘の妥当性および、関係性のあり方について認識を深めたいと思う。



実質的にポンドの凋落を決定付けたのが1931年の金本位制からの再離脱であり、また政治的にポンドが主役の座から引きずりおろされたのが1944年のブレトンウッズ体制の成立であった。
 このポンドからドルへの基軸通貨の移行は、経済と金融における中心が英国から米国に移ったことを裏づけているが、それは一方で「1国1通貨」という概念を社会に定着させるものでもあった。この1国に独自の通貨が存在するという考え方は、太古の昔からあったとは言い難い。
 そもそも欧州における近代国家の概念は、1648年のウェストファリア条約以降に固まったものである。ドルの覇権確立は、「英国=ポンド」から「米国=ドル」という構図を、あらためて通念として現代社会に浸透させることになった。
 英国が没落して米国が台頭したから基軸通貨もポンドからドルへ変わった、という印象は今でも強いが、そもそも国家と通貨とは同一ではないし、金本位制のもとでの自国通貨とは、金への兌換性にもとづいて存在するにすぎない仮想概念である。それが国家の経済力や金融力を象徴する通過として認知された背景には、欧州の各国が19世紀以降ナショナリズムの昂揚中央集権国家の建設への手段として通貨主権を利用してきたという事実もある。

+強い通貨は国益にかなう

 そもそも金貨や銀貨が流通する社会においては、自国通貨という考え方は現在のように一般的だったわけではない。・・・(中略)・・・。
 こうした国家主権を背景とする各国の通貨発行が徐々に「1国1通貨」の考え方を定着させていくことになる。実は、20世紀に英国から金融覇権を奪取する米国も、19世紀半ばまではメキシコ銀貨や、英国のソブリン銀貨、ブラジル金貨などさまざまな国の貨幣が流通する社会であったといわれる。米国が独立してすぐに「ドル社会」になったのではない。ドルが法定通貨となったのは1861年のことであり、FRBが設立されたのもそれから約半世紀も経過した1913年であった。(p.77-79)


通貨発行権を中央政府が独占することが「国家」としてのまとまりを形成する上で役立った。ある域内で流通することを法的に許される貨幣が一つになり、それを発行する権限を政府のみが持てば、一つの排他的・閉鎖的な領域を形成することができることは容易に理解できる。その過程で、人々の間では「1国1通貨」という観念も共有されることになる。

「1国1通貨」という今ではあまりに当たり前の考え方が、それほど長い歴史を持たないというのは、かなり興味深い事実である。様々な「伝統」は、実は近代以降の新しいものであるというホブズボームの指摘の一つのバリエーションであるとも言える。



注目すべきことは、日中などの外貨準備の増大をもたらした大量のドル買い介入には、反対取引となる「自国通貨売り」が必要であることだ。外貨準備が増えることでそれに相当する国の借金も増えているのである。(p.132)


このあたりの議論は本書でも最も面白かったところの一つかもしれない。



 日本市場は世界の中心にあるわけではない。国際金融の文脈を、日本中心の座標で観測してはいけない。国際金融市場は大西洋を視点に据えて世界を見るのである。その観点から日本の潜在力や成長性が再び評価されれば、改革の有無は関係なく資本流入は再開されよう。(p.207)


国際金融の中心が大西洋にあるという指摘は極めて重要であり、全うなものである。

本書の示す金融史の歴史観は著しく「ヨーロッパ中心主義」的なバイアスを持っている点には若干の不満はあるものの、この視点の置き場所は、現在の世界情勢と国際金融とを絡めて考える際には外せないところの一つであると思われる。



リアリズムの金融観でいえば、郵政民営化は日本の金融力の現実を見ない理想主義に走った幻想であった。運用環境に恵まれず、運用能力に乏しく、運用商品が限定されるなかで、民営化による運用透明化で財投改革を行うという方法は、政治が金融を対官僚政治闘争に利用したものにすぎなかった。
 ・・・(中略)・・・。
 結局、不明瞭で非効率的な公的金融は不要だというイメージだけが先行し、公的金融はどうあるべきかという議論への手掛かりがつかめないままに、「郵政民営化選挙」に突入した。・・・(中略)・・・。
 郵貯や簡保を、民間を補完するという意味での公的存在意義の観点から再評価することは不可能ではなかった。公的金融制度の厚い欧州のみならず、市場を重視する米国ですら公的金融の役割は小さくないのである。先進国に公的金融は不要という主張は、明らかに金融の本質を読み違えている。「官から民へ」という言葉の罠に嵌ってしまった郵政民営化のプロセスは、日本の金融制度設計力の乏しさを露呈した、後味の悪い小泉劇場の終幕でもあった。(p.211-212)


同感である。

本書は金融史をたどりながら、金融と政治権力とが近代においては常に密接な関係を保ち、それによって金融及び政治的な権力を維持してきたことを明らかにし、今後も「金融を国家プロジェクトとして捉えなおすことが必要」(p.244)と結論付ける。

本書の主張は概ね妥当であり、金融には政治や行政がかかわらず、市場に任せるべきだという一般に広まってしまった通念よりは遥かにまっとうである。




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