アヴェスターにはこう書いている?
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本山美彦 『金融権力――グローバル経済とリスク・ビジネス』(その2)

 第二次世界大戦後、ブレトンウッズ体制下では、通貨の先物取引を貿易業者以外の者が行うことは禁止されていた。そうした禁止を押しのけて、シカゴ商品先物取引所(CME)に通貨先物取引市場をニクソン・ショックの翌年の1972年に創設したのが、レオ・メラッド(1932~)であった。それは、貿易と結びつかない純然たる利益取得目的で通貨を売買してはならないとしたブレトンウッズの精神を完全に葬り去ることであった。(p.110)


ブレトンウッズ体制には確実に継承すべき面があった。それをどのように再生するべきかの道筋がまだ示されていないことが現在の問題であるように思われる。



 フリードマン=マネタリストと言われるほど、通貨とフリードマンは結びつけて語られている。しかし、現実には、マネタリズムの成功例は皆無である。フリードマンが利用されたのは、彼のマネー理論によるものではない。マネタリズムの政治的含意、つまり、政府介入を拒否するというところだけが利用されたのにすぎないのである。(p.130)


的確である。



 しかし、「ノーベル経済学賞」だけは、正確に言えば、ノーベル賞ではない。スウェーデン国立銀行が、1968年、設立300周年を機に、ノーベルを偲んで設立した賞であり、正式には「アルフレッド・ノーベルを記念するスウェーデン国立銀行による経済科学賞」という。(p.137)


これは意外と知られていない事実かもしれない。

ノーベル経済学賞の政治色の強さは他と比較して際立っているから、この賞を受けている学者の説は、むしろ胡散臭くて信用できないと以前から思っていたが、本書の説明を読んで、そうした直観が誤っていなかったという思いを強くした次第だ。



 スウェーデン銀行が、経済学を「科学」だとしたのは、経済学の政治性を隠蔽するためであった。経済学は、数学的な中立性を装っている。これは、経済学が、政治的には中立的であることを示したいからである。「価値フリー」を装って政策を指導するためである。
 経済学は、300年にわたり人を欺してきた「蛇油」(注、街頭で香具師が売りつける偽油)と同じものである。経済学の理論は証明不可能なものであるのに、強国の指導者が、経済学を使って、世界の政策決定に関与し、世界の為政者を植民地の人間のようにしてしまうのである。(p.140)


数学的であること自体が誤っているわけではないが、数式を利用する際の前提について深い省察が必要であり、その省察に基づいて数式が適用できるための条件やその条件が持つ政治的な含意までをも自他に対して明示することが「価値自由」であるためには求められるはずである。しかし、経済学の理論は、それをしないまま仮想世界の「ユートピア」(経済学理論)を現実にもそのまま当てはまるかのように振舞ってきた。そこに欺瞞がある。



 ドゥール教授は、さらに、こうした間違った「科学」による経済学賞が40年間も続いたのは、科学者が他の領域の人たちを批判しないことをエチケットと見なしているからであると語っている。(p.141)


かなり鋭い意見である。

しかし、単にエチケットの問題ではなく、他の分野を批判するためには、自分の研究に割く時間と労力をそちらに割かなければならず、そこに割いた労力が自分の業績につながりにくいという現実的な業績の評価方法の問題も関わっていると見るべきだろう。



 現在の人間生活に恐ろしい脅威を与え続けている金融システムに対抗するためには、まず、システムを支配する新自由主義のイデオロギーから私たちは自らを解放しなければならないと訴えたい。金融権力から人間生活を取り戻す方策も、生活者の視点を復権させることにあると訴えたい。その意味において、経済学は平板な科学であってはならないのである。(p.142)


ここは本書(著者)のスタンスが端的に語られている箇所の一つだろう。

日本では特に強く根づいている新自由主義のイデオロギーから人々を解放しなければならないという点には強く同意する。

ただ、そのイデオロギーが金融システムを支配しているかどうかという点については若干疑問はある。



 第二次大戦直後の日本には、儲かる産業と儲からない産業とを区別した、それぞれの業態に応じた金融組織の棲み分けがあった。このような合理的な金融組織が、「護送船団方式」の打破という、アメリカ発のスローガンによって破壊され、金融のデパート化を目指した自由化によって、金融組織は、儲からない「モノ作り」から離れ、儲かるファンド投資に傾斜することになった。(p.183)


この「合理性」を復原することは現在の状況下では容易ではないように思う。このように、政策の変更は時に不可逆の変化を起こしてしまう。だからこそ、あまりに過激な変更は必ずしも好ましくないのであり、むしろ、変化は緩慢な方がよい場合が結構あると私は考える。変化の急速さをよしとする風潮はこの点で極めて危険であると私は考える。小選挙区制によってこのリスクはこの上なく高まったといってよい。



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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

本山美彦 『金融権力――グローバル経済とリスク・ビジネス』(その1)

 銀行の仲介機能の衰えは、アジア通貨危機後、顕著になった。IMF統計によれば、世界の国内金融における銀行融資の全資金調達に占める比率は、1997~97年に52%であったが、2000~2001年には40%にまで下がった。他方で、国内起債は、5%から31%にまで急増している。アジア通貨危機が結果的に何をもたらしたのかは、この数値が如実に示している。格付け会社が欧米だけでなく、アジアや世界の新興市場に広汎に活動を展開するようになったのは、97年のアジア通貨危機以降である。格付け会社だけではない。アメリカの金融コンサルタント、アメリカの大手会計事務所、投資銀行、保険会社等々が相次いでアジアに進出してきた。これは、銀行という仲介機関を通す間接金融から、証券を機軸とする直接金融に金融システムが変えられてしまったことの帰結である。そして、これら各種金融機関は、「人脈」によって、相互に深く結ばれている。(p.6-7)


間接金融から直接金融へと金融システムが変えられることによって、アメリカの格付け会社やその他の金融機関が世界中(アジア)に進出したという構図は、世界経済を読み解く上で、かなり基本となる事実認識であるように思われる。



つまり、円を借りて、国際金融市場で運用する場がなくなったので、とりあえず円は返却しておこうというのが、このサブプライムローン危機の中での円高なのであって、けっして日本経済の先行きを楽観することから生じた円高ではない。(p.28)


それまでの政策のツケを払わされている面もあると言って良いだろう。これも小泉が首相だった時代、すなわち新自由主義的政策が行われた時代のツケということになるのではないか。



 1999年の「金融近代化法」によって、それまで「グラス=スティーガル法」(1933年)によって分離されていた銀行、証券、保険業務を傘下にもつことが許されるようになったアメリカの金融機関は、巨大なコングロマリットとなった。アメリカには、日本の天下りよりももっと壮大な権力機構を構成するシステムがある。金融界の大御所が財務長官になるのである。
 また、外国の企業がアメリカで上場する場合、会計監査業務のほぼすべてを握っている四大会計事務所に依頼せざるを得ない。重要な企業内情報はここでアメリカの会計事務所に筒抜けになる。そして、会計事務所の上級調査員が各種ファンドを設立する。会計事務所の幹部はアメリカ証券取引委員会(SEC)の幹部にもなる。格付け会社がこれに加わる。この格付け会社が企業の生殺与奪の力をもつ。ウォール街の証券会社やアナリスト、そして、法律事務所と政治家。こうした組織が結びついて、金融権力を構成している。構成しているだけではない。彼らの人脈は深くて広い。社会のあらゆる分野と結びつき、世界の重要人物との関係を彼らはつねに密接に維持している。こうした状況があるにもかかわらず、理論の世界で、金融人脈分析が行われることはほとんどなかった。財務諸表で公表されている数値だけが分析対象になっているに過ぎない。経済は生きた人間が動かしているという、明白な事実も顧みられることが少ない。(p.39-40)


ここに描かれている人脈の連鎖は恐るべきものである。



 格付け会社は、コーポレート・ガバナンス(企業統治)の監視者としての役割をはたしてきたと言ったのが、ボブ・ウッドワードである。彼によれば、格付け会社は、執行役員制や社外重役制など、当時のクリントン政権が推奨するコーポレート・ガバナンスの実施状況を、格付けに反映させていたという。しかも、資金調達方法もチェックの対象であり、日本やドイツ企業のような間接金融に依存する企業の格付けは低くされた。格付けこそ、コーポレート・ガバナンスが、アメリカ流に正しく施行されているかのバロメーターとなっていたのである(Woodward[1994])。(p.43-44)


こうした格付け会社の持つ機能を本書はかなり重視しているが、私が本書から学んだことのうち最も大きなポイントの一つでもあった。



 「比較されたときの不満=相対的剥奪感」は、潜在的機能の代表例である。アメリカ軍の中で、空軍の将兵の昇進がもっとも早いという客観的な事実があるのに、昇進に対する将兵の不満は空軍でもっとも強いという調査結果がある。なまじ昇進が早いという現実があると、昇進に対する期待感が他の軍よりも大きくなる。このときに昇進が遅れると不満が非常に大きくなるというのである。期待の大きさに比べてそれが実現しないときの落胆が「相対的剥奪感」とされる。良い職場であるがゆえに、こうしたマイナスの不満を呼び起こしてしまう。これは「潜在的機能」の一つである。(p.65)


日本の人々の幸福感が諸外国と比べて低いという調査結果がよく新聞に出ることがあるが、これは世界第二位のGDPを持つという事実によって豊かな生活に対する期待感が他の国よりも大きくなるが、実際のところ1人当たりGDPではそれほど高いわけではないという現実によって、期待が裏切られた結果、「幸福感」が小さく生活に不満が感じられるということであるように思われる。

余談だが、最近起きた「政権交代」にも「相対的剥奪感」という潜在的機能があるように思われる。何ヶ月か後にどうなったか確認してみよう。まぁ、自民党があまりに酷かったので、民主党が多少ヘタレでも、それほど不満は高まらないかもしれないが。



 完全市場を前提にして、金融の自由化を声高に叫ぶ人は、歴史を規制と自由とのせめぎあいとして理解する人が多い。本書第四章3節で触れるミルトン・フリードマンをはじめとして新自由主義の提唱者には、権力が規制を求め、市場がそれを跳ね返して自由を獲得するという勧善懲悪劇のような歴史観を前提にものごとを説く人が多い。(p.101)


この馬鹿っぽい「市場=善、政府による規制=悪」という善悪二元論の世界観こそ、社会を理解しない一般の人間が安易に新自由主義に加担してしまう要因の一つである。

付け加えれば、「政府による規制=悪」と書いたが、「政府の活動=悪」とさらに拡大する方が正しいかもしれず、公務員バッシングはまさにこの世界観に基づくものであるということは指摘しておこう。そして、民主党が「脱官僚」を掲げ「政治主導」ということを言っているが、これもア・プリオリに「官僚が大きな力を持つこと=悪」としている点で同じ世界観に基づく発想であるということも指摘しておこう。ア・プリオリに前提していないのだとすれば、専門知識や政策や法務の蓄積を持つ官僚が権限を持つことの何が悪いのかを、まず先に微細なまでに提示してほしいものである。まぁ、これができる人間はほとんどいないと思うが。



 金融市場は、好調なときには政治権力を批判するが、苦境に立てば直ちに政治権力にすがる。しかし、自由化を進めるにせよ、救済を求めるにせよ、瞬時に政治権力の庇護を受ける体制作りに、金融界は余念がないのである。そして、自らが金融権力として市場に君臨する。(p.105)


極めて的確である!


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おくだかおり 『やっぱり旅はやめられない 中国編』

 いっしょに旅をしている相手が体調不良になるのは、よくあることだ。医者に行くほど症状がひどければ大変だが、環境の変化からくる疲れや下痢、軽い風邪程度なら、寝ていれば治ることが多い。そういう時はずっと付き添うより、ゆっくり寝させてあげる方が回復が早いと思う。
 友達同士で海外旅行に行けば、たいていずっといっしょに行動をともにし、友達が体調を崩してしまうと、普通は観光などに行かずに付き添うだろう。そうすると、「ずっと付き添っていて観光できなかった」と、後で不満をこぼすことになる。
 以前、私は疲れから熱が出て、旅先で寝込んだことがあった。その時、私はいっしょに来ていた友達に、「付き添ってくれなくてもいいから、一人で観光に行ってきて」と言ったのだが、彼女はずっと付き添ってくれた。でも、逆に私は人の気配や申し訳なさで、ゆっくり眠ることができなかった。
 そんな経験もあるので、冷たいと思われるかもしれないが、ただ寝込む程度であれば、私は付き添うことはせず、あえて部屋を出て行くことにしている。このまま明日も彼の調子が悪ければ、私は一人で万里の長城に行くことになるだろう。(p.24)


著者の意見に賛成である。私が初めて海外旅行したときには、旅の相棒が寝込んでしまったが、私は気にせず観光に出かけていった。おかげで著者が述べているような不満を感じずに済んだし、友人も私がいなくても、同室の外国人旅行者とうまくやっていたようだった。

気は使えば使うほど良いというものではないのである。



 ツアーでは、参加者同士が交流しないのが普通なのだろうか?他人に気軽に声をかけてはいけないような、そんな雰囲気に私は息が詰まりそうだった。
 いつもの一人旅だと、旅先で日本人を見かければ、話しかけていっしょに食事をしたりして、「なぜこの国を旅しようと思ったのか」、「これまでどんな国を旅してきたのか」などと話をする。そんなことを話していると、その人の旅に対する思いなどが分かり、その人の人生の一部を聞いているようで、相手のことをより深く知ることができる。そして、数時間いっしょに過ごすだけで、帰国後も連絡を取り合うような親しい仲になることもある。(p.83)


バックパッカーなどとしてしばしば外国を一人旅したことがある人ならば、著者の考え方はかなり標準的なものであるように思われる。ただ、パックツアー参加者にもたまになかなかの強者がいることがあると聞いたことがある。そういう意味ではツアーも侮るべきではないのではないか、とも私としては思っている。とはいえ、日本発のパックツアーに参加するかと言われれば、まずしないだろうが…。



中国の大都市ではだいたいそうなのか、街の中心には歩行者天国の大通りがあり、その両側にはたくさんの店が並び、とてもにぎわっている。(p.88)


確かに、中国の大都市には街の中心に歩行者天国の大通りがあるかもしれない。

北京の王府井、上海の南京路、蘇州の観前街、広州の北京路などが思い浮かぶ。西安にはあったかな?

これらは恐らく政策によって作られたものであるように思われる。



「九寨溝からチベット族の村をなくし、すべてのエリアを自然遺産にしようと、中国政府が残っている民家に20万元(300万円)で移転を勧めていることもあり、九つあったチベット族の村は三つに減っています。そのうちに、三つの村も政府から強制的に移転させられるでしょう。」(p.109)


いかにも中国という感じである。



 一人旅をしていると、常に自分で考えて動かなければならない状況に置かれ、今まで知らなかった自分の力を発揮し、自分を試す場でもあるような気がします。(p.301)


同感である。旅は修行である。外国では地元の人たちと比べて、言葉も通じにくいし、その地の情報にも疎いなど、いろいろと弱い立場に立つことになる。だから、克服すべき課題が多く立ちはだかる。しかし、これこそ旅の醍醐味であると私は考える。



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内藤朝雄 『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』(その3)

 学問系にせよ技術習得系にせよ、あらゆる認定試験に共通の原則として、学習サポート業務と資格認定業務を分割することが必要である。この分割によって、教員(学習サポート・サービスを提供する従業員)は、「おまえの運命はおれの評価しだいだ。おれの気分のいいようにしろ。おれのことをないがしろにしたら、どういうことになるかわかっているだろうな」といった、誇大気分の役得をむさぼることができなくなる。(p.230)


学問や資格に関する評価では、こうした修得過程でのサポートと評価を別々に行えるため、その方が確かにベターではあるだろう。

私がこれを読んですぐに思いついたのは、普通の仕事における評価は、少し前まで成果主義や能力主義などということがうるさく言われていたのだが、悉く失敗した感があるということであり、仕事における成果主義の適正な運用は事実上不可能であるということである。

上記の引用文の考え方で言えば、仕事においては、仕事を一緒に行ったり上司としてチェックしたりする業務と、業務の実績を評価する業務とを全く別のところで行うということは事実上不可能なことが多いのである。(売上高などが明確に出る営業などの極めて限定的な業務で、しかも、その同じ業務を行っているものの間だけでの相対評価は外部の者でもできるかもしれないが、それでも売り上げを上げた後のクレーム件数や顧客の満足度の違いのようなものがある可能性は否定できず、そこまで視野に入れて評価することは外部の人間にはほぼ不可能である。)



 従来の学校を愛する人は、旧学校型ユニット抱き合わせ団体にバウチャーを払って参加することもできる。
 このように考えると、現在の共同体型の学校生活に慣れていて、それを好む人々は、評価と指導が分離するという点以外では、これまでとまったく同じ学校生活を送ることができる。ただ、選択の自由があるだけである。(p.234)


もっともらしい説明であるが、バウチャー制の説明で隠されている点がある。それは選ばれる側の教育サービスにはそれぞれキャパシティがあるということである。共同体型の学校とそれとは違うタイプの学校が選べるとしても、それぞれのサービスを提供する側のキャパシティによっては、自分が選択したい側のサービスを受けられないということが頻繁に起こるだろうと予想される。サービス提供側からすれば、低コストで提供でき、利益が上がりやすいもののキャパが増える一方、短期的に見て利益が出ないようなものは、どれほど教育を受ける側の需要があったとしても(少なくとも民間主導でサービスが提供される限り)十分なキャパシティを持ちえないであろう。



 全体主義の核心は、個に対する全体の、人間存在の深部(ふかいところ)にまでいたる圧倒的優位である。そのうえで、その優位を成立させる制度・政策的な道具立て(たとえば一党独裁や秘密警察やしつこいイベント動員など)が問題になる。
 この全体の圧倒的優位は、個の存在様式(ありかた)に対する余儀ない浸透性(貫通性)の深さによって示される。ファシズム、ナチズム、スターリニズム、戦中の天皇教日本国家主義などの国家全体主義と単なる独裁とを分けるメルクマールは、ひとりひとりの人間存在を変更する集合的イベントへの動員が、日常生活を覆い尽くす度合いである。あるいは国家によって無理強いされる、距離をゆるさぬ「根がらみに生きる」様式のきめ細かさである。
 ここで注意したいのは、全体主義は単なる独裁とは異なる、ということだ。独裁国家なら、現在でも世界にあふれている。このような国では、非公式の暴力組織や秘密警察があり、政権に逆らう者は投獄されたり殺されたりする。だがそれだけであれば、多くの人々は政治に関心を持とうとせず、人生のそれ以外の面によろこびを見出そうとするだろう。「お上に逆らいさえしなければよい」のである。かつての南米諸国のように国家が独裁者に支配されていても、人々が日常生活のなかで「国家的共通善」への献身に動員される傾向が少ない場合は、独裁国家であっても全体主義社会ではない。
 つまり、全体主義は単なる外形的な服従にとどまらず、人間存在の根底からの、全人的なコミットを人々に無理強いする。(p.242-243)


なかなか興味深い区別である。ただ、学問的に見たとき、この「全体の圧倒的優位」をどのように客観的に測定するか、という問題は残るように思う。



 ナチス・ドイツや天皇教日本帝国や全体主義国家群は、一見中間集団を破壊し、巨大な国家と「砂粒」のような個人との二極構造のもとで強大な支配を行ったかのようにイメージされがちであるが、実際には違う。
 これらの全体主義社会では、中間集団が個人に対して過度な自治と参加を要求する。そして個人に対して徹底的な締めつけを行う。(p.244-245)


興味深い指摘である。

ネットワーク論の立場から見ても、個人に対して強く干渉する為には中間団体的なものが要請されるように思われる。


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