アヴェスターにはこう書いている?
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内藤朝雄 『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』(その2)

 公私の峻別については、たとえば仕事や勉強をすること(公)と「仲良く」すること(私)を峻別する社会システムのなかで、はじめて個人の人格権が保障される。「仲良く」しなければ仕事や勉強にならない社会では、生きていくために「へつらう」、つまり上位者や有力なグループに自分の生のスタイルを引き渡さざるをえない。それに対して公私の明確な区別は、職務や認定試験の公的基準に達していれば、私的な感情を売り渡して「仲良く」しなくても、身の安全が保障されるという安心感を与える。この安全保障が、卑屈にならなくても生きていける人格権を保つ最低ラインだ。(p.210-211)


100%完全な線引きということは恐らく現実には困難があるし、それができるとしても全面的に望ましいとはいえないだろう。しかし、公的な領域が確保されない空間というものの息苦しさを、著者は的確に指摘している。



 教育用の特殊貨幣を、収入の多い人には少なく、収入の少ない人には多く配分すれば、教育に関する機会の平等を確保することができる。しかも学校に児童生徒を強制収容する囚人の平等とちがって、平等と自由が両立する。この収入に逆比例するバウチャー制は、教育の自由化と平等化の相乗効果を経済的に下支えする。(p.226)


私は基本的に教育のバウチャー制には懐疑的な立場であるが、収入に逆比例するというやり方にはかなり賛同できる。ただ、教育水準的にも所得水準的にも下層に属する人々というのは、物事を判断するための基本的な素養が少ない傾向が非常に強いという点を考慮すると、収入に逆比例するバウチャー制だけでは、まだ足りない。また、学校を選ぶことができる自由があっても、それぞれの学校には入ってみるまで本当に合うかどうかはわからないという選択における不確定性はあり、途中で抜けて外に移ることができるとしても、既に形成されたネットワークに新しく加入することと、最初からその構成メンバーとなることには違いがある。自分で選択できるということは基本的には良いことだと思うが、「絶対的な善」ではなく、「強制収容」にもそれなりに利点はあるように思う。時間がないのでこれは今は掘り下げない。



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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

内藤朝雄 『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』(その1)

 いじめ論がこのような矛盾におちいってしまうのは、素朴なことばのフィーリング(素朴な自然言語的了解)に依存しすぎており、何をもって「濃密」-「希薄」、「幼児的」-「大人的」、「秩序」-「無秩序」というのか、といった概念の検討が不十分なまま理論(素人理論)をつくりあげようとするからである。
 結論を先に言えば、こういう思考の混乱は、秩序を単数と考えることから生じる。秩序を、Aタイプの秩序、Bタイプの秩序、Cタイプの秩序というふうに複数と考えれば、右記の難問は解決する。(p.18-19)


「素朴な自然言語的了解」によって「理論ならぬ理論」(素人理論)が作り出され、往々にして誤った理解が共有されるということは非常によくある。政治や経済など、社会科学が研究対象とするような領域においては、特にそうである。いじめに関する言説もその一つであろう。

後段の秩序の複数性についての指摘は、なかなか興味深い。「秩序がある状態」と言うと漠然と単数の秩序を想起してしまうが、現実には複数の秩序が同時に併在していると考えるわけだ。もっとも、秩序なるものも「事実fact」として言語によって作られている側面もあり、複数の秩序の組合せというもの自体、さらに複数のやり方で捉えうるという点にも留意しておきたい。



 ノリの秩序によれば、ひとりひとりの人間存在は、その場その場の「みんなの気持ち」、あるいはノリの側から個別的に位置づけられて在るものであって、人間が「人間である」というだけで普遍的に与えられるものではない。人間は諸関係の総体である。いじめで盛り上がる中学生たちは哲学的な思考などしないが、近代実体主義を超えた徹底的な関係主義と社会構成主義を「いま・ここ」で生きている。(p.43-44)


本書ではこうした指摘が繰りかえし為されているが、この点こそ、私が本書から見て取った中で最も興味を引かれた点の一つである。こうした関係主義、社会構成主義は概ね70年代以降に勢いを増し始め、80年代以降の「ポストモダン」と呼ばれる潮流の中でもてはやされてきた考え方とかなり重なると思われるからである。

それに対する批判が90年代後半から00年代にかけて次第に高まっているということを私は感じているが、こうした「いじめ」というテーマの本でもそれが見られることに少し驚くと同時に、こうしたアクチュアルな話題を本気で扱う人たちの間でこそ、こうした関係主義や社会構成主義を批判する動きは強いということを改めて思い知らされた。後者の点は、サイエンス・ウォーズで社会構成主義的な科学論者に対して現場の科学者達がそれを批判した構図と似たところがある。

ただ、違いは、本書ではその社会的に構成された個別的な「私」がいじめの現場に現に存在していると捉えられ、それがネガティブなものとして描き出されている点である。サイエンス・ウォーズでは社会構成主義的に描き出された科学研究のあり方自体、現場の科学の営みとは大きく異なり、現実的でないとして批判されることが多かったように記憶しているため、この点には相違点があるように思われる。



何をいったやっていたならば叱られずにすむのか、その目標というものがわからない。(p.129)

実際、過酷な集団心理-利害闘争に投げ込まれた人々は、「なりきる」以外に生きるすべがない(このことは、学校の集団生活にかぎったことではない。たとえば、後出の【事例19・中国の文化大革命】〔249ページ〕にみられる「なりきる」姿は、女子中学生が学校の「友だち」グループに「すなお」であるさまと、よく似ている)。(p.12-130、本文でブロック体の箇所は下線を付した)


前者の文は、支配が「客観的」になされない、専制的な社会秩序の中で極めて助長されやすい傾向である。権力が恣意的に行使されるところでは、権力を操作する術を持たない者は、それをやり過ごすために多くの労力を要し、権力に狙われないような行動様式を身に付ける。本書が示す「いじめ」の構造はまさに、いじめだけに適用されるのではなく、もっとマクロな社会のあり方と通じているというのは、筆者も言っているが、私にもそのように思われた。



 たとえば、法執行機関(警察)が目の前に迫ってきたり、あるいは「警察を呼ぶ」「告訴する」「あなたの行為は、刑法○○条に触れている」といった法の言葉が発せられたりするだけで、それは、強力な場の情報(「解除キー」)になる。そして、人々の現実感覚は、聖なる集団生活のモードから、市民社会のモードへと、瞬時に切り替わる。「キレ」たり大騒ぎしたりしながら、集団心理-利害闘争にふけることが「生きることのすべて」となる教育の共同体では、何を言われようと残酷ないじめを繰り返すモンスターたちが、市民社会の論理に貫かれた「普通の場所」では、おとなしい小市民に変わる。
 ちょうど催眠術にかかった人が、ある「解除キー」となる言葉によって一気に醒めるように、法には、人を市民社会に連れ戻す「解除キー」としての働きがあるのだ。(p.201)


私の場合、仕事の場で使えると思って興味が引かれた箇所であるが、まぁ、それは措いておく。

このように、集団的なノリが支配する場から、より普遍的な市民社会の論理が働く場へと現実感覚を移行させる「解除キー」として法が機能しうるためには、その法自体が「客観的」に運用されていなければならない。それがなければ「市民社会」は成立し得ない。この点だけは付け加えるべきである。

文化大革命の時代の中国で法に訴えたところで市民社会の論理が現実感覚化はしなかっただろう。現代の中国では当時よりはマシだが、今の日本と比べると法の執行は恣意的な面が強い。更に言えば、昨今の日本は次第に法が恣意的に運用されたり作られたりする傾向が強まっているように私には感じられる。小選挙区制によって人々の支持の程度と政治の場の勢力配置に大きなズレが生じるため、支配者のやりたいことを実現するためには世論とのズレが生じやすく、それでいて、優位に立った政党には、彼らのやりたいことを暴力的なまでの仕方でありながら合法的に実現するだけの巨大な権力が与えられてしまうからである。

なお、2005年に誕生した「小泉チルドレン」や今回の総選挙で民主党が圧勝することが伝えられているが、民主党の新人議員が誕生することは、現行の小選挙区制ではほとんど避けられない。しかし、そうした新人議員ばかりが議席を占めながら、一つの政党だけがやたらと多い議席を占める場合、数の力(強大な権力)は、優位な党のごく少数の人間の手に委ねられてしまうことを意味する。国会議員の影響力は一年生議員と既に各方面にネットワークを持っているベテラン議員では同じではないからである。

(もう少し具体的に説明しよう。衆議院480議席のうち、民主党が300議席をとるとしても、新人議員やそれに近い議員が200人近となるが、彼らには党を運営するだけの権力は与えられない。残りの100人の議員のうち、既にできている議員間のネットワークの上位に立つ恐らく20人前後が300議席の動向を決める決定権を持ち、それが480議席の衆議院の意思を決定するに当たって極めて大きな権力を持つことになる。もちろん、それ以外の要因も絡むにせよ、その場合でも、「有力議員」には勝ち馬に乗る形で権力が上乗せされる傾向がある。郵政選挙以降、自民党が暴走したのは「自民党だから」ではなく、現行の選挙制度の帰結なのである。これを変えない限り、同じことは今後も繰り返されるだろう。



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芦澤礼子 『我愛成都 中国四川省で日本語を教える』

 ヒロシマ・ナガサキについてはどう思っているのだろう。日本は加害者だから原爆を落とされて当然、あるいは原爆のおかげで戦争は終わったから良かったと考えているのだろうか。(p.41)


確かに気になるところではあるかもしれない。アメリカ政府の立場は引用文中の後者であるようだが。

中国で南京事件とか大戦中に侵略したことについて聞かれることはたまにあるし、話をしなければならないこともたまにあるが、次からは聞かれたことに答える代わりに相手方には上述の質問を投げかけてみることにしよう。

とはいえ、「日本」に対する中国国内での関心が、ここ1,2年くらいの間に急速に低下しているように感じられるので、今後は上記のようなことを質問されることも減っていくかもしれない。



七時から30分間の中央電視台ニュースは全国ネットだが、トップはいつも共産党首脳陣の動向。社会面的な記事はあまりやらない。海外ニュースも中国がらみのものが多いので、情報量は少ない。(p.57)


これは1994年の日記的な叙述の部分だが、基本的な傾向としては変わっていなさそうな気がする。「社会面的な記事はあまりやらない」と、ないものを明記している点は重要だ。変化があるかどうか、少し注意してみてみたい気がする。



 ただつくづく思うのは、中国では教育はすべて「国の発展に協力すべく為されるもの」だということ。鋭い批判力を持つ崔くんもこのことにはまったく疑問を持ってない。私は教育は個人の人格の育成と、人生を豊かにするためのものだと思っているから、「国家のため」というのはすごく違和感がある。
 それにしても、学部生・大学院生の作文や周さんとの会話は、この国の現在をくっきりと映し出してくれる。無邪気そのものの短大生と、しっかり考える学部生・大学院生。(p.64)


前段については、筆者の意見にかなり共感できる。中国では教育に限らず、何事も公の言説の中では「国家のため」という理由をつけて述べなければならないという圧力があるように思う。その結果、批判的な思考を展開すること自体が封じられている

中国の人々の個人個人の行動はどちらかというと「公共心に溢れる」ものというよりは、明らかに「利己的」なものがかなり多く見受けられるから、中国の人々が、皆いつも「国家のため」とばかり考えているとは言えない。(中国でしばしば見られる人びとのマナーの悪さや、狡賢い商売の蔓延などは、権力が恣意的に行使される傾向が高いこと、即ち、法が客観的に運用されないことに大きな要因があるというのが私の見方である。)にもかかわらず、「国家のため」という言説ばかりが個人からも発せられるのは、公共の場で本音を展開して述べたり、それを耳にすることもなく、さらに外国語で話すという微妙なニュアンスの伝えにくい場合には、余計に本音が出てきにくいため、当たり障りのないありきたりの言説を流用せざるをえないのではなかろうか。

ただ、筆者の意見とは異なり、義務教育などの教育制度というものは、そもそも人道的な目的というよりは、政府の都合のために作られた側面は否定できず、カリキュラムや共通語(標準語)の設定などを通して、ナショナリズムを半ば自動的に形成してしまう側面も持っているということについては、冷静に見て取る必要があるとも思う。その上で、義務教育を通して形成されてしまうナショナリズムが極力、教育を受ける側にとって中心的な考え方になり得ないように、例えば、より普遍的な人権や個人の尊厳などの考え方を修得できるように行われることが重要なのだと私は考える。

後段の無邪気な短大生と考える大学生という図式は、学生の家庭環境、つまり出自の社会層のあり方を反映しているように思われる。後者はエリートとしての意識をある程度持っている家庭・社会層の出身であることが反映しているのではないか。恐らく「80后」世代では大学生でもそこまでのエリートではない人も多く出てきているはずなので、この辺の意識は(短大生ではなく)大学生の方でかなり変わってきていると予想される。



 授業が終わっても毎日補修授業です。これは生徒の親から毎月15元納めてもらってやっているのです。半分は学校の、半分は教師の収入になります。でも、私は小学生に補習なんてする必要ないと思うんです。しかし、中国では教育の予算が少ないから、学校にお金がありません。今、政府はこういう補習を禁止していますが、どの学校もまだやってますよ。お菓子代も親が出します。お菓子は学校の付属の工場で作るんです。これもいくらか教師の収入になります。お金を集めるのも教師の仕事だからたいへんです。
 教師の仕事はとても忙しいのに給料は低いんです。ひと月で200元、補習授業やらお菓子代やらを含めてもやっと300元です。農村の学校はもっとひどいんです。農村はお金がないから、ある四川の農村では教師の給料が半年間も未払いになっているんです。だから、そこの先生はストライキしています。これは四川だけじゃなくて、全国の農村にあることです。(p.110)


これは90年代初頭の中国の状況だが、過去の中国の教育を見ていると、未来の日本の教育の状況に見えてくるから不思議である。

「民営化」とか「経営の自由化」といったことを教育の分野で行うと、どうしてもこういうことになっていくだろう。最近は選挙の際の人気取り政策として「子育て支援」ということが各党で言われているが、「子ども手当て」のようなものを個人に配るより、学費を完全無償化に近づけていく、それも高等教育でもそのようにしていくということが必要である。ひと月数万円の金が親の手に入っても、教育のために使われる額なんてほとんどない。その分の額を子どもの将来の学費(高等教育すなわち、高校や大学の学費)として貯蓄するというのが「正しい使い方」ということになるが、別のことに使われるというのは、目に見えている。(そうした個人向けの補助金は半分くらいは別のことに使われると言われているそうだ。)

ついでだから時事ネタに脱線するが、この点では私は民主党の政策には反対である。というか、残念ながら今回の総選挙では民主党の政策にはまともなものはあまりない、というのが私の見方である。自公には退場してもらうしかないが、民主党も全然ダメであり、他の野党は選挙制度の弊害によって権力を奪われているため、何を訴えようとも主たる権力行使主体になりえないため、まともな選択肢は一つもないという政治的貧困状態に陥っているのが、日本の政治の現状である。まずは小選挙区制度を廃止しない限り、この隘路から抜け出ることはできないだろう。

しかし、一度作られた小選挙区制は大政党に有利であるため、ここで権力を手にした大政党が自らそれを放棄しようとするインセンティブは小さく、改革が難しいというジレンマがある。よって、小選挙区制の弊害が大きいという世論が高まることが必要だが、そのためには政党が期待できない以上、権力の監視を役割の一つとするマスメディアの良識が必要とされているように思われる。残念ながら、現在は目先の選挙結果などに関心が向いているようで、全然そうした批判的な視点からの報道は目にしないのが残念である。選挙後にでも出てくることを期待したい。まぁ、当面は無理かな、という気がしているが。



 成都は展覧館(毛沢東像)を中心に同心円状に一環路、二環路があるが、私が1994年に初めて成都に来たときは二環路は完成して間もないころで、その外側はほとんど畑だった。今や畑はほとんど消え失せている。集合住宅や郊外型レストランが建ち並び、「○○花園」などと書いてあるところは、必ず高級マンション。今回買った最新版の地図を見てみたら、六年前には影も形もなかった「三環路」が出現していて驚いた。市街地の面積は90年代に倍以上になったというから、急速な都市化に目が回りそうだ。(p.125-126)


都市化は、市街地の拡大という文字通り目に見える形で進んでいるわけだ。



 成都の食べ物といえば、唐辛子味で有名。これは、盆地で湿気が多く夏が暑かったため、風土病を防ぐためと言われている。特に有名なのは「火鍋」と「小吃」だ。(p.150)


四川料理の辛さは、こうした風土との関係から編み出されてきたというわけか。



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内藤利信 『住んでみた成都 蜀の国に見る中国の日常生活』

近年の激しい近代化の波も、沿岸部から徐々に伝わっていく。世相、人情は今も古い時代の影をとどめ、往古のさまを色濃く残す遺跡の数々、牧歌的な風景と相まって、中国らしさを彷彿させるもっとも中国らしい都市ということができる。中国を知るには、四川を知らなければならない。(p.2)


本書は1991年に出版されたものだから、現在と比べるとかなり様子が違っている。現在では恐らく成都もかなり「近代化」してしまっているはずであり、遺跡にも「往古のさま」が残っているかどうか疑問がある。

しかし、それでも上海や北京や広州といった「先進的」な大都市だけから中国を判断するよりは成都のような内陸部の都市からの方が、いわゆる「近代化」の進行状況を見るには良いのかもしれない。古いものと新しいものの交錯が見えやすいというか。

まぁ、現時点の私の考えでは河南省とか湖南省とか江西省のような、日本ではあまり注目されていないような地域の方が、見てみたい気がしていたりもする。

ただ、「中国を知るには、四川を知らなければならない」というフレーズからは、某か重要な含意を引き出せそうな気がする。



 文革当時より格段に生活レベルが向上しているから文句はあるまいという論理が、党・政府側のいい分である。しかし、不満はそういう座標軸から発しているのではなく、横軸から見た不公平感にある。開放がすすめばすすむほど経済格差は増大してくるだけに、騒ぎを起こす火種がなくなることはないだろう。(p.35)


天安門事件の直後に党・政府側から出されたメッセージに対する筆者の批判。

中国政府は結局、改革開放による格差拡大の不満を封じるために、90年代は政治的な統制(情報統制など)を引き締め、ナショナリズムに訴えたと考えることができる。

その帰結の一つが、「反日デモ」という形をとったりしたわけだが、フランスのカルフールへの不買運動など排外的な動きは00年代以降しばしば見られるようになった。こうした副作用に中国政府は対処しなければならなくなってきたと考えられる。

また、「中華民族」という仮想のナショナリティは結局、「漢族」を中心としたものであり、権力の中枢にアクセスしやすい人が多い漢族に比べて、経済的にも政治的にも不利な立場にある少数民族、特にウイグル族やチベット族にカテゴライズされる人びとの不満は抑えきれなくなってきており、結局、天安門事件当時の不満と同じものが、新疆やチベットの問題として、形をやや変えて再現している部分はあるように思う。

ただ、グローバル化した世界経済の下では、安価な労働力を潤沢に持つ中国には資本流入は当面は止まらないから、「中国」という統一性を持っている方が、「少数民族」にとっても有利であるという側面はないわけではない。そのあたりの認識がどの程度、「少数民族」の側が持つようになるか、また、その情勢にどのような変化があるか、ということが、今後の中国の「民族問題」の鍵になるような気がする。



 日本ではあまり知られていないが、中国の九年生義務教育の制度は、1986年7月1日が正式スタートである。(p.106)


意外と新しいんだな。

現在「80后」と呼ばれる世代は、初めてこの義務教育が実施された世代でもあるということは、覚えておいて良いかもしれない。



 中国建国40年の歴史は、知識、インテリを否定し続けてきた歴史であったような気がする。(p.143)


今年は建国60周年だが、今でもそうした傾向は間違いなくあると言える。かなり形は変わっているし否定の度合いも小さくなっているが。

というのは、現在でも中国では言論の自由が十分ではなく、それによって知識人一般の権力行使の可能性が狭められているからである。特に政治的な事柄について。

こうした知識人否定という歴史は、かつて、特に毛沢東がいた時代、改革開放前の時代には、国内の権力闘争を中心に政治が回っていたことの反映である。

ちなみに、冷戦という比較的硬直的な国際政治的枠組みが存在していたために、外交面での他国の干渉がやや抑えられていたことは、これを可能にした枠組みの一つであろう。それ以前の帝国主義の時代(グローバル化の時代)のような時期であれば、この権力闘争に国外の勢力が干渉する事となり、混乱のあり方はかなり違ったものとなっていたであろう。


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須田慎一郎 『下流喰い――消費者金融の実態』

 新聞の経済面は、しきりに02年2月から景気が拡大し続けていると報じていた。
 だが、それを心底から実感している人が、いったいこの日本にどれだけいるというのだろう。(p.11)


ごくひと握りのヒルズ族などと言われたような連中や一部の輸出産業の経営陣や大株主くらいであろう。



勤労世帯の平均実収入も全国的に減少しており、札幌の平均減収額は東京(約1万5000円)の三倍以上、沖縄にいたっては四倍以上である。(p.12)


「格差」ということが言われ始めた頃、こうした事態が進行していたのである。



 現在の消費者金融業界は、たとえるなら10人に貸付け、うち二人からは返済されないというリスクをあらかじめ金利に折りこみ商売をしている。
 果たしてそんなシロモノを、まっとうな「ビジネス」と言っていいのだろうか。(p.83)


確かに。



 これらのデータをみても分かるように、いまや消費者金融大手の主たる顧客層は、実態として「低収入の若年男性」の方にシフトしてしまっている。(p.86)


非正規雇用の増加などの影響であり、いわゆるロストジェネレーションと深く繋がっていると見られる。



 04年3月期に当局に提出された貸金業者業務報告書を集計したところ、前貸金業者(6060社分)中、消費者金融大手四社の占めるマーケットシェアは54.5パーセント、上位10社では89.6パーセントとなっている。
 バブル景気後、業者数は減少傾向にあり、さらに大手によるマーケットの寡占化が進んでいる現状が、これで読者にもご理解いただけたであろうか。


金融グローバル化、金融自由化の進展により、金融業界全体がこうした寡占化の方向にシフトした。消費者金融も例外ではなかった。



 おおよそ金貸しの世界において、借り手と貸し手の双方がともにハッピーになるなんて、まず考えられない。(p.179)


至言である。



 要するに貯めてから使うというカルチャーが、圧倒的多数派だったのだ。そして当時は、「借金イコール悪」という概念が一般的でもあった。
 そうしたカルチャーが一変したのが、80年代半ばである。(p.192)


金融自由化の影響が、日本において一般人の生活の中にまで深く浸透してきたのがこの時期だった。バブル経済の時期がそれにあたる。



 今、業界に求められているのは、アリバイ工作的に「ご利用は、計画的に」などという意味のないスローガンを声高に繰り返すことではない。むしろ、「貸出しは、計画的に」ということを業界内部に徹底的に浸透させることだろう。(p.213)


そして、このためにはモラルではなく法による規制が必要であろう。


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柴辻政彦 『塼塔 中国の陶芸建築』

中国北方地方には「塼」の塔が多いのに対し、南方には「木造」の塔が多く、それも木造の特徴を生かして跳ね上がる屋根の優美な建築が目立ちます。(p.29)


北方は西方(中央アジアを経由した中東)との繋がりが相対的に強いこととも関連しているように思われる。



北京市は昔から北東地区にくらべて北西地区が開けています。(p.105)


北西方面は交易の重要な地域だったことを反映している。



 紀元645年、玄奘が16年かけたインド-中央アジアの旅から帰国し、新たな経典と七体の塑像仏を持ち帰ったことが、唐の仏教建築と美術に一層の刺激をもたらうことになりました。長安の都に「大雁塔」が建設され、玄奘が持ち帰った経典が納められ、皇帝によって仏教が庇護され奨励されます。つまり、寺院に免税措置がとられる換りに、帝室を支援し、民衆を善導するという治安の政策と軸を一つにしました。(p.150)


宗教とは信仰である以上に、人間集団を構成する際の形式の一つであり、それ故に政治的なものである。「合理化」された教義は、現代の政治におけるイデオロギーに相当するものであったと言って良いだろう。



 しかし、唐の仏教は「聖」と「俗」が混同され始めます。
 仏教寺院の伽藍や仏教仏画を依頼する富裕な人々は、お釈迦さまの脇に侍る「脇侍仏」や「飛天」を自分たち一族に擬えて描かせるといういうことに傾斜していきます。石窟の仏壁画さえ、まるで宮廷生活そのものの華麗な風俗画のように伝えられるものが少なくないのはこのためでしょう。(p.150-151)


どちらかというと、どこにでもある現象と言えそうである。宗教なるものが政治的であることがここにも反映しているといえるだろう。現在なら芸術としてカテゴライズされる作品群のパトロンが常に金持ちであることは仏教でも同じである。



明・清時代の塼塔は、やきものの釉薬技術が反映してどの塼塔もきらびやかな「瑠璃塼」で彩色されましたが、隋・唐時代の塼塔は無釉の「土の呈色」のままです。(p.163)


これは塼塔を見る際の、時代識別のメルクマールの一つになるだろう。


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高田明典 『難解な本を読む技術』

 教養としてその思想を理解したいのであれば、翻訳でほとんど何の問題もないはずです。私たちが使っている言語は、実は極めて曖昧なものであり、多少の誤解をあらかじめ想定しながら、私たちはコミュニケーションを行っています。翻訳の問題も言語の曖昧性の範疇にあります。(p.15)


概ね同意する。専門書を読んだ人が書いた解説と自分が翻訳を読んで読み取ったものがほとんど違いがないということは往々にしてあるとすれば、翻訳によって大まかな理解は十分できたということであると言っても大きく間違ってはいないはずである。

ただ、翻訳書を読むときは、キー概念くらいは原語で押さえておいた方がよいとも思う。たえず原語を透かして見ながら翻訳を読む。私の場合は英語かドイツ語が原語の本を読む場合はそうしたことを心がけている。フランス語の場合は、そもそもフランス語がわからないので無理であるため、若干、理解しにくいと感じることが多い。



 「開いている」本を読み進めるとき、私たちは少しイライラする感覚を覚えることがあります。それは、前述のように読者に対して、思考のための素地を提供することに主眼をおき、著者自らの思考や論理が強制されることのないように注意が払われていることによります。・・・(中略)・・・。そのような本を読むと、「で、何なの?」という印象を持ったりします。つまり、その「で、何なの?」という問いに対しての答えを、読者自らが創出することを想定して書かれている本が「開いている」本です。(p.19)


こういう本があるということを意識させる上ではこの「開いている」本という概念は有用だと思う。

ただ、本書ではこうしたタイプの本をどちらかというと高く評価する傾向があるのは気になる。

こういうことは、小説や文学などでやれば良いことであって、「思想」でやる必要はないというのが私の考えである。思想の本で他人に考えさせることを主眼に置く必要はない。明確な主張があっても、それに従うことはしないのが思想の本を読む人間がやることだからであり、著者が明確な主張をしても「そんなことないだろう」と批判的に取り組みながら思考を展開させるというのは、誰しもやっていることではないだろうか?むしろ、思想の本が「開いている」と、著者は読者からの直接の批判を免れることができ、対決から逃げることになる。



ここでも重要なのは、「自分の目的」もしくは「自分がどこまで理解したいと考えているのか」ということをしっかりと自覚して読み進んでいくということです。(p.70)


この辺は「読書論」の本なら必ずというほど書いていることだろう。



さらに言えば、質問をするというのは、その相手を判断するための最もよい方法です。繰り返しますが、わかっている人間に質問しなければ、有効な答えは返ってきません。当たり前のことです。そして、一般に「わかっている」とは、その「わかっている」ことを「使っている」人間のことです。(p.103)


使うことができるということと、説明することができるということは、次元が異なる話なんだが(著者もこの直後にそれについて断っている)、大雑把に言えば、ここで述べられているような考え方も役立つだろう。

要するに、質問するならその知識を「使っている人」の中で「説明できる人」に質問しないとダメということだ。しかし、私としては「使っている」が「説明できない人」からは、言葉以外の方法で「知識」を習得できるとも考える。そして、そっちの方が実は結構重要なことが多かったりするような気がするのだが、「思想」を念頭においている本書ではそれは語られない。これはまさに、いわゆる「現代思想」が陥っているのと同じ盲点である。



「できる人間ほど、やっているところを見せる」というのが鉄則です。(p.104)


なるほど。まぁ、「能ある鷹は爪を隠す」とも言うけれども、質問相手として「見つけやすい」のは、やっているのを見せている人だとは思う。



フロイトの思想のうちでラカンやジジェクがことさらにこだわるのは、フロイトの「自我」についての思想であり、「私」がいかにして成立(発生)するのかということである。つまり、それこそが、フロイトが現代思想につながるポイントであるとも言える。(p.205)


本書におけるフロイト思想の現代的意義についての簡単なスケッチは、なかなか的確なように思われて参考になった。まぁ、現代思想が言説の範囲内で動いている限り、この問題(自我など「何ものかの生成や同一性がいかに可能か」という問題)は決して解決されないだろう、とだけは言っておくことにしようか。「システムの作動」を捉えない限り、この問題は解決できないだろう、とも。


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新渡戸稲造 (須知徳平 訳)『対訳 武士道』

 激しい戦闘の恐怖の真只中においても、愛と憐れみの感情をよびおこすことを、ヨーロッパではキリスト教が教えた。それをわが国では、音楽と詩歌の愛好がこれを果たしたのである。(p.96)


ここに見られるように、本書に示される考え方の多くは、「欧米におけるキリスト教の日本における代替物」を求める発想が基本となっているものが多い。「武士道」なるものは、そのようなものとして(事後的に)構築された面があると見てよいだろう。

1899年に出版された本書のこうした考え方は、20世紀初頭において展開されたウェーバーにおける宗教社会学的研究の発想とも通じるものがあり、世界の中核たる欧米の側からの視線によって形成されたオリエンタリズムの所産とも言える。



富と権力との分離は、富の分配を均等に近づける。(p.120)


個人的に気に入ったフレーズ。

富と権力の分離は、同様に、権力の分配をも均等に近づけるであろう。なぜなら、富とは権力が経済的な形象をとったものに過ぎないからである。


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