アヴェスターにはこう書いている?
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福沢諭吉 『学問のすゝめ』

 学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。・・・(中略)・・・。されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。(p.12-13)


『学問のすすめ』は明治5~9(1872~1876)年に世に出たものであるが、私が上記の箇所を読んだ際に即座に思い至ったのは、同時代のアメリカにおけるプラグマティズム(実用主義などとも訳される)との符合であった。

パースやジェイムズなどにより「形而上学クラブ」の活動が行われていた時期が1870年代であったからである。もっとも、アメリカでプラグマティズムが流行するようになるのは、世紀の変わり目頃だったはずだが、こうした思潮が勢いを増していった背景の一つとして、科学自体の変化があったと見ることができる。科学が実証的で実用的なものへと向かっていく傾向があった。(専門分化の進展により、それとは一見すると逆に見える傾向もあったが、それらも結局は研究したのとは別の人間によって実用的な方向に転用されていった。)

日本では福沢が説く「実学」の発想、アメリカではプラグマティズムがこの時代に広く普及した大きな理由の一つとして、国民国家化の進展およびナショナル・デモクラシーとしてのデモクラシーの普及があるように思われる。これにより「普通教育」の普及が社会的に要請されることになるからである。基本的な読み書きや計算は誰もができるようにならなければ、「国民」という意識は育てにくいし、デモクラシーへの参加も困難だからである。



然るに、無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は飲食と寝ると起きるとのみ、その無学のくせに慾は深く、目の前に人を欺きて巧みに政府の法を遁れ、国法の何物たるを知らず、己が職分の何物たるを知らず、子をばよく生めどもその子を教うるの道を知らず、いわゆる恥も法も知らざる馬鹿者にて、その子孫繁栄すれば一国の益は為さずして却って害をなす者なきに非ず。かかる馬鹿者を取扱うには、とても道理をもってすべからず、不本意ながら力をもって威し、一時の大害を鎮むるより外に方便あることなし。これ即ち世に暴政府のある所以なり。独り我旧幕府のみならず、アジヤ諸国古来皆然り。されば一国の暴政は、必ずしも暴君暴吏の所為に非ず、その実は人民の無智をもって自ら招く禍なり。・・・(中略)・・・。故に曰く、人民もし暴政を避けんと欲せば、速やかに学問に志し、自ら才徳を高くして、政府と相対し同位同等の地位に登らざるべからず。これ即ち余輩の勤むる学問の趣意なり。(p.28-29)


人びとの教育水準が低いと暴政を許すことになるという点は正しい。しかし、社会的な教育水準を高く維持できるかどうかには、逆に政治のあり方や経済情勢などが深く関わっており、そうした条件が整っていなければ、学問をしようとしたところで、また、学問をするよう勧めたところで、たいした効果は上がらない。

政府には暴政を働くインセンティブもあるが、同時に統治のための「国民統合」の必要性も当時はあったのであり、そちらの側面が強く働けば、国民統合のための国民教育の必要性が説かれることになる(現在でも右翼的な政治家の方がやたらと「教育改革」を訴えるのはほぼ同様の動機だと言ってよかろう)。これにより教育機関が整備されるかどうかが決まってくる。教育機関がなければ、学問をしようとしても容易には普及しない。また、家計にある程度の余裕がなければ、教育を受けることはできない。学費が無償であっても、家計を助ける者が減るだけで最低限の生活が維持できないようでは、学問をすることなどできまい。

福沢の論はこうした(これ以外にも無数にあるであろう)学問を可能にする条件を無視しながら暴政を正当化し、人民の側に非があるものとしているのは不当である。



 人民は既に一国の家元にて国を護るための入用を払うは固よりその職分なれば、この入用を出すにつき決して不平の顔色を見(あら)わすべからず。国を護るためには役人の給料なかるべからず、海陸の軍費なかるべからず、裁判所の入用もあり、地方官の入用もあり、その高を集めてこれを見れば大金のように思わるれども、一人前の頭に割付けて何程なるや。日本にて成人の歳入の高を全国の人口に割付けなば、一人前に一円か二円なるべし。一年の間に僅か一、二円の金を払うて政府の保護を被り、夜盗押入れの患いもなく、独旅行に山賊の恐れもなくして、安穏にこの世を渡るは大なる便利ならずや。凡そ世の中に割合よき商売ありと雖ども、運上を払うて政府の保護を買うほど安きものはなかるべし。(p.77-78)


財政の持つ意味を福沢はよく弁えている。昨今の日本で跋扈するアホな「無駄遣い」論との比較で言うとかなり健全な議論である。



然るに近日世上の有様を見るに、いやしくも中人以上の改革者流、或いは開化先生と称する輩は、口を開けば西洋文明の美を称し、一人これを唱うれば万人これに和し、凡そ智識道徳の教えより治国、経済、衣食住の細事に至るまでも、悉皆西洋の風を慕うてこれに倣わんとせざるものなし。(p.158)


90年代から小泉時代頃までの日本もまた同じことを繰り返していたことが想起される。



凡そ人間世界に人望の大小軽重はあれども、かりそめにも人に当てにせらるる人に非ざれば何の用にも立たぬものなり。(p.176)

人を当てにせざるはその人を疑えばなり。(p.177)


確かにその通りである。しかし、例えば、仕事などではこの「自然な」流れに任せていると駄目なことがある。「疑わしい」ゆえに当てにできない人を用いて、その人に可能な仕事を与え、それについての責任を与えれば、自ら動き、一定程度まで信用を回復することがありうる。そうやって、信用できる人間を創ることもまた重要なことである。福沢のこの言説はその一面での正しさゆえに、こうした反対の活用法を隠してしまう言い方になっているのが悔やまれるところだ。


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ジョナサン・クレーリー 『観察者の系譜』

歴史そのもののなかには連続も不連続もなく、そういったものは歴史記述のなかにのみ存在するということは、ここでわざわざ指摘するまでもあるまい。だから、かなり長い期間を記述の対象に据えるこの研究は、「本当の歴史」を目的としたものでもなければ、「実際に起こったこと」を記録のなかに蘇らせることを目指すものでもない。ここで賭けられている賭金は全くちがったものだ。どのように歴史を区分するか、あるいはどこに切断を置いたり、切断の存在を否認したりするかは、まったくもって、現在自体の構成の仕方を決定する政治的な選択なのである。(p.23-24)


歴史の中で生起する出来事の連鎖には連続や不連続といった区分は意味がないが、それを外側から観察する歴史叙述においては、ある出来事と他の出来事などの間の連続性や不連続性などが取り沙汰され、それらが政治的なものであるという点には同意する。

ただ、本書が提示する「観察者」というものも、一種の理念型であって、ここで宣言されているようにフィクションなのだが、著者は別のところでは19世紀前半に視覚が大きな変容を被ったとして、それが事実であるかのように語っており、走したところに本書の矛盾ないし不徹底さがあるように思われる。



 芸術史家たちは、全く当然のことだが、芸術作品に関心を示す傾向がある。だから彼らの大部分は、絵画や複製版画の形式的構造を決定するうえでカメラ・オブスキュラが演じていた役割の可能性という観点から、この器械を考察してきた。カメラ・オブスキュラについての多くの論考(とくに18世紀を扱ったもの)は、模写のために芸術家がそれを用いるという点から、あるいは絵画制作の際の補助道具としてのみ、この器具を考察する傾向がある。そこにはしばしば、芸術家は自分たちが本当に望んでいたもの――そしてそれは写真機という形で、すぐに登場することになるのだが――の不完全な代用物で何とか間に合わせていたのだ、という暗黙の前提が認められる。カメラ・オブスキュラのそういった側面を強調すれば、一連の20世紀的な前提、ことに生産主義的な論理を、絵を生み出すことが第一義的な機能ではなかったこの装置に押しつけることになる。カメラ・オブスキュラでもって模写を行うこと――つまりこの装置が生み出す映像(イメージ)をなぞることによって、映像を固定し永続化すること――は、数ある使用法のなかの一つにすぎず、18世紀の中葉になっても、多くの重要な論考のなかで、このような使い方には強調点が置かれてはいなかった。(p.60)


カメラ・オブスキュラが使われていた当時の使用法やこの器具に対する観念と、後代の歴史家たちが、彼らの観点から見て叙述する内容の間の差異。



「知覚の純粋客観性」を手に入れるために「注意力を高める」べく、ショーペンハウアーが身体をめぐる知を応用するとき、それは、創生期にあった19世紀の生理学的心理学と本質的には同一の可能性の条件をもつプロジェクトとなっているのである。この新しい領域(ディシプリン)の重要な部分として、注意力、反応時間、刺激の閾値、そして疲労といった観点からなされる眼の計量的研究があった。こういった研究は、人間主体の生産的労働への適応化に関する知(人間の労働を合理化し、効率的にするrために、最適量の注意力は不可欠の条件だった)の必要性と、明らかに結びついていた。反復行為を遂行するうえで眼と手を素早く運動させることに対する経済的要求は、人間の視覚能力や感覚能力に対する正確な知を必要としたのである。新しい産業生産モデルの文脈では、労働者の「不注意」の問題は、経済的、規律的に望ましくない帰結を伴う、深刻な大問題だった。(p.130-131)


こうした社会的条件に関する考察を、本書ではもっとたくさん行ってほしかったものである。こうした叙述の少なさが私から見た本書への不満の一つになっている。



だが、物体のあいだのなにもない空間に対してターナーが与えた実在性、そして諸形態の統一性と自己同一性とに対する彼の挑戦、これらは物理学の新生領域と軌を一にしていたのだ――すなわち、科学における場(フィールド)理論と熱力学である。(p.205)


こうした平行性は興味深いものであり、私がかつて非常に強く関心を持っていた問題である。意味空間の理論によってこれは説明される。すなわち、専門的な理論は、その時代の一般的に流布した常識となっている言説によって張られる意味空間の上に構築される上位の意味空間の中で展開されるのであり、それぞれの専門が異なっていても母体となる日常言語の意味空間は共有しているために、理論言語の意味空間も相同な形式をとるのである。



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伊野上裕伸 『人間はウソをつく動物である 保険調査員の事件簿』

 それからもう一つ大事なのは、調査においては100パーセントの真相解明を目指さないことです。不正の根拠を八割方押さえ、相手が観念したと察しがついた段階で手を引くべきです。あるいは、「もう一歩でなんとかなりそうだ」と考えても、自分の手には負えないと見極めがついたら撤退すべきです。一民間人でしかないわれわれが調査する対象は、ほとんどの場合、民事であって、刑事ではないからです。
 両者の違いとしては、刑事では完璧な物証が求められますが、民事は状況証拠で十分な場合が大多数であるということが挙げられます。また、民事の場合は裁判になったとしても、最後は話し合いで解決することになるのが圧倒的に多いため、相手方との話し合いの余地を残しておくためにも無理をしないほうがいい結果が出ると考えられます。(p.80)


度を超えて「手を突っ込む」と失敗することが多い、ということであろう。

私が仕事で行う調査の場合、そもそも個々の調査に入れ込むだけの余力がないことが多いので、半ば必然的にこうした状態に置かれることが多い気がする。私の感覚としては、交渉する上で確実に優位を確保できるだけの証拠は押さえることにもう少し力点を置きたくなる点で著者とは少し優先順位が違うかもしれない。まぁ、職種や調査内容の違いが反映している面もあるかもしれない。



患者にとって名医とは、必ずしも、病気を見つけるのが上手で早く治せる医者のことではなく、患者の訴えを素直に聞き、希望どおりの治療をしてくれる先生なのです。(p.123-124)


こうした評価の基準は医者に限ったことではないが、医者の場合、彼らの専門知識(や専門家集団であり利益共同体である「医師会」など)が外部から彼らを守ってくれる点で「手強い」ところがある。


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山口仲美 『日本語の歴史』

現在のように、一音に対して一つのひらがなに決まったのは、カタカナと同じく明治33年(1900年)の「小学校令」によってなのです。(p.74)


意外と新しいことであることに驚く。



カタカナは、文字というものは一点一画を重ねてできるものだととらえているから、万葉仮名の部分を取る。それに対して、ひらがなは、文字というものを連続体ととらえているから、全体を書き崩すけれど、部分をとったりはしない。同じ文字に対して、異なる側面からとらえたために、カタカナとひらがなという二種類の文字の系統ができあがったのです。(p.74)


分析的なカタカナと全体論的なひらがなという対比とでも言おうか?なかなか面白い。



 第二に、文言一致の文章がなかなかうまく行かないことです。日本語では、話すように書くという場合には、必ず人間関係のあり方が表現に直接にかかわってきてしまうのです。(p.186)


このあたりは日本語の大きな特徴のように思う。外国人にとって日本語、特に敬語が難しいとされる要因はここにあるだろう。



繰り返しますが、日本語は決して非論理的ではありません。論理的に話を進める訓練がなされていないだけです。(p.219)


納得。


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