アヴェスターにはこう書いている?
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谷崎光 『北京大学てなもんや留学記』(その3)

 あてにならない中国の記事や資料を基に理論を組み立てても、と思うが、理系ならともかく、政治経済で独自のことをするのは今なお(!)危険なのだと、後で気がついた。すでに定評あるものをなぞり、少量のオリジナリティを加えるしかない。
 既存の資料を駆使しつつ、実際の調査も丹念にやり、そこから矛盾や疑問をスカッと見渡せる、あー、なるほど、と人をうならせるような真実性のある理論を打ち立てる人は、中国を追い出されてしまうのかもしれない。経済学者の何清漣さんのように……。現在と関係ない考古学や古典文学でもないかぎり、法律も経済も真実を追求しようとすれば、最後は共産党の矛盾を突いてしまわざるを得ないし……。
 かくて大半の先生たちはあたりさわりのないテーマを選び、ポイントの周辺をごにゃごにゃやるということになる。
 この国で何かを研究したり発表しようとしたりしたら、いつも本当のことを隠すという表裏二重性を保持しておかないとダメなんだなー、とつくづく思う。(p.129)


言論に自由がないというのは大変なことだと改めて思う次第。



 中国文系の最高学府だし、ディベート研究、学者としての発表訓練、調査、分析手法の研究、フィールドワーク、ワークショップなどもやってるのではないか?と思っていた私もだんだんに、中国の学者が生き残るために一番に学ばねばならぬのは、研究そのものでなく政府の顔色を見るという別の処世術であることに気がつく。
 自分に危険が及ぶかもしれない議事録は作らないだろう。それでなくてもはねっかえり学生の多いこの大学で。
 中国の教育がいまだに大量の暗記、大量の本(内容は古い)の購読で、作文ですら型が決まっててはめ込むことを強要されるのは、これと無縁ではないと思う。(p.150)


これがどれくらい全体的な状況を反映しているのかはわからないが、こうした傾向はありそうなことである。



中国の各世代を見ていると、文革の爪あとなど、子供から青春時代の環境がいかにその人の一生に影響を与えるか、くっきりわかる。
 今の七十歳以上の青春時代は、戦争や苦しい時期もありとても貧しくはあったけれど、中国が建国の意気にあふれ、まだ理想を追うことができた一番いい時代だったそう。
 実際にこの世代の庶民は極端な拝金主義ではないし、思いやりもあり、別に日本の同世代とそう変わらない。日本が一番迷惑をかけたはずのこの世代から、一番戦争の非難をされない、とは長期滞在の日本人がよく言う言葉。
 文革後に生まれた三十代前半から二十代の若者も、反日洗脳や甘やかしを除けば清潔なところはずいぶんあり、正当な方法でしっかり働き、お金を儲けようとする若者も多い。親の苦労を見ているからガッツもある。
 が、二十歳になるまでの大半の時期を、最初は飢餓、次は文革の裏切り合い、殺し合いを見て育った四十すぎから六十歳くらいまでは、もう何でもあり。(p.191-192)


興味深い世代論。

70代以上の世代が戦争の非難をしないのは、必ずしも一方的なものではないということ――日本軍に従軍した兵士もある種の被害者であり、さらにいえば、戦争に動員されるということが各人の意思とは無関係に強制的な要素を持っていて、個人の力ではどうにもできないものであることなど――を身をもって知っているからだろうし、共産党が自己の権力を正当化するために「仮想敵としての日本」を強調する以前に教育課程を修了したからではなかろうか。



 払う税金も含めて考えると、日本は先進国の中でも医療費はそう高くない。海外に行き、初めてその有り難味がわかる。(p.206)


まぁ、そういうことだ。高くないから赤字になるのである。そこのところをすべての有権者が理解すべきである。



 中国は駆け引きで外に対しては軟化した様子を見せたり、その情報を日本の新聞社に流させたりするが、国外に向かって言っていることと、国内向け報道は基本的にまったく別である。(p.226-227)


どこの国の政府もやっていることであろう。ただ、確かに中国はこれが普通よりも露骨でもおかしくない。あれだけ言論が規制されているのだから。



 一般に今の日本のメディアは(私も含めて)、共産党が反日を仕掛けている、というが、中国人がよく言うのは、
 「国民が怒るから、政府は真実を言わないんだ。国民が喜ぶからメディアは反日を載せるんだ」
 外国人に向かって独裁政府をかばっているのか、本当に元来強い反日の気持ちがあるのか、はたまたそこまで洗脳されているのか……、答えはたぶん全部である。(p.228-229)


悪循環というやつですな。断ち切るのが難しいのだが、やはり共産党とメディアが流す情報を変えることが改善のために必要なことだろう。



 そのときにつくづく思った。
 国家や政治に個人の気持ちが振り回されるなんて、本当に心底うんざりだと。(p.262)


言論の自由が十分でないということは、こういうことである。言論が自由であってもナショナリズムに縛られているということはこれと同じ傾向を示すことになる。私がナショナリズムに与しないのは、こうした感覚を強く持っているからであると思う。


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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

谷崎光 『北京大学てなもんや留学記』(その2)

 そもそも私は学校を卒業後、中国商社に勤めていて、しばらくの間、週に二、三回習いに行っていた(もっとも残業でしばしば一回になる)。
 が、それが本格的な習得にはあまり役に立たないことは、本当に『できる』人ならみな知っていると思う。こういう教室はきっかけや自分で勉強するペースメーカーとして有効なのである。(p.90)


なるほど。

言語習得は通常の知識習得のような学習というよりも、スポーツなどの(身体感覚を伴う)技術習得に近いようだ、というのが私の現時点での考えなのだが、それとも合致する内容であるように思われる。

というのは、教室で教わる言語というのは、やはり文法知識や単語などについては知識の形にしかならないし、発音についても、重要なヒントを与えてくれることはあるにせよ、話せるようになるためには自らの感覚によって習得するしかないから、教室での学習そのものは、「本格的な習得にはあまり役に立たない」のである。ただ、継続的に学習する際の環境を整える点では学習者を個人として孤立させず、社会的なネットワークに組み込むことになる点では確かに有効だろう。



 いわゆる丸暗記の旅行会話の延長に、「話せる」はないと思う。(p.91)


フレーズを覚えるだけの学習では、所詮、知識を覚えるだけだからである。



 語学は勉強ながらトレーニングの要素が強くて、机上の知識でテニスができないのと同じで、若いほどうまくなる。が、いくつからでもできるようになるというのもテニスに似ている。(p.91)


私が上で書いたことと同じ意見のようである。もちろん、私はこの本を読んだ後で上の文を書いたのだが、このフレーズはブログに抜書きする予定ではなかったから覚えていなかった。

私が上の考えに到達したのは、河本英夫の「オートポイエーシス」の着想を言語習得に適用したからである。私自身は外国語がてんでダメだから、自分の語学学習の経験から語るわけにはいかないのだ…。ただ、それがこうしてきちんと話せる人の感覚と合致すると我ながら「おおっ!」とか思うわけだ。



たとえば今、中国語力ゼロのふつうの人が、一日十五分の勉強を十年積み重ねても、片言ぐらいはできても、まず『話せる』ようにはならない。ガーン。(p.92)


語学のトレーニングも大変なものである…。



単語暗記も、実はあれは慣れで、やればやるほど早くなる
 中国語は最初が一番大変で、ひとつの字に漢字、四声込みの発音、意味、さらに発音の仕方等を覚えないとダメで四苦八苦するが、逆に千字ぐらい読み方をおぼえちゃうと組み合わせることができ、しかも日本語と共通の言葉が多いので、日本人は突如として上達する。(p.93)


ふむふむ。なるほど。1,000字くらいならナントカなりそうな気がする。っていうか、1字覚えるのも声調込みだとちょっと大変だが、発音だけでももう少しマスターできればいけるかも知れない。歴史学とか社会学とか政治学とか財政学とかの勉強を一時的に(2~3年くらい?)中断すれば中国語は少し話せそうな気がする。問題は、そんなに知的禁欲ができるかということだ…。



先へ先へと進むより、拍子抜けするほど簡単なものを、よく理解して、くりかえして徹底的に頭と口に叩き込むのが話せる早道なのである。特に初期。ベストはそれを人間相手にやる。ママが子供に無意識にやっているのがこれ。ただし子供はこれで脳みそに自動的に文法が形成されるが、大人は違うので誤解なきよう。(p.94)


なるほど。私が通っている教室で他のメンバーに対して思うのは、先へ先へと進もうとしすぎることであり、また、「学習」に偏りすぎた発想である。まぁ、教室は所詮ペースメーカーなのだから、それでいいや、と割り切ることにする。自分のトレーニングを地道にやれば話せるようになるのだろう。

最近はチャットを利用してネイティブスピーカーの友人と会話(での練習?)を始めたところだったりする。これだけ環境がそろったということはやはり今は語学をがっちりやれという天の思し召しなのか???と思ったりする今日この頃である(苦笑)。



 私がよくやっていたのは日常、電子辞書を持ち歩き、言えなかったことなどすぐ引き、夜にその日の履歴を暗記。相手が友達だったらわからない時は書いてもらう。
 単語も、「反日対策」「ご飯」「引越し」などの同一テーマで括ると覚えやすい。(p.109)


電子辞書というものを使ってみて、思ったのは思った以上にいろんな機能があって、いろいろなことに使えそうだ、ということ。この履歴の使い方は非常に参考になる。やってみよう。



 つまり木にたとえると、発音は根、文法が幹、単語が葉っぱで、子供は根と幹が自然に成長するが、成人は固まってしまっているので(日本語の「木」がすでにある)、人為的に叩きこまないと、葉っぱだけ増やしてもいつまでたっても話せない。
 幼稚園児は話すスピードは遅いし、使える単語はわずかだが、基本の語順(文法)はすでにほぼ正確……。(p.114)


この箇所は本書を読んでいて私のツボにはまったところである。腑に落ちた。やっぱり根である発音をやるのが一番大事だと思い知る。文法ももう少しやらねば、とも思うが。

あと、私が知る日本在住の外国人で、日本人のコミュニティに参加していない人がいるのだが、彼はしばしば、自分は日本語の単語は沢山知っているが、それをどうやって並べたらいいのかが分からないので話せない、と言っていた。日本人のコミュニティに参加せずにいるから、日本語を学習していないためだろう、ということに思い至った。




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谷崎光 『北京大学てなもんや留学記』(その1)

コミュニケーションギャップって東西差より、その国の体制の差の方が大きいと思う。(p.35)


国の体制というより、情報の流通のあり方と情報・言論の自由度の違いが決定的だろう。それを決定する大きな要因のひとつが政治的な体制なわけである。



 どこの国でも多少の二枚舌はあろうが、これが生活全部、教育全部に沁みこんでいるのが中国。各大学にも、もちろん党の監視機関はある。
 自国礼賛を暗黙に強要する教師に囲まれ、評価してもらおうと遠慮しているうちにどこか中国に対する客観性を失っていくか、もしくはいろんな攻撃や葛藤に耐えかね、中国人の前では相手に「好听(聞こえのいい話)」しかしなくなる人もいる。
 特に日本人は、日本をけなせばけなすほど中国人にウケる。(p.38)


中国に限ったことではないが、中国の場合、こうした状況が内部に残っていながら、急速に国際的な地位を向上させているところが、周囲に脅威を感じさせるところであるように思われる。とりわけ日本の右翼(右翼的な考えの人々)が不安を感じているのはこの辺だろう。まぁ、彼らのメンタリティも民主的なものとは程遠いから、実は似たもの同士なのだが…。

ただ、教育・言論の状況に関して言えば、いわゆる「講壇禁欲」が守られていないどころか、政府(党)により積極的に「講壇禁欲」が禁止され、政府(党)に都合のよい方向に言論が方向づけられているということである。いわゆる理系的な学問ならば、これでも大した影響はないかもしれないが、人文・社会系の学問はこれでは国際的に通用するようなものは出てこないだろう。

逆説的に、政治的に特定の立場に偏りすぎているが故に、他のより自由な立場からは見えないようなものを見せる言説が登場することはありうるが、その立場自体は可変性が低いので、この手の発話者が持続的な影響を与えることは困難であり、短期的なインパクトを与える以上のことはできないだろう。



「ちがうよ。先生はその作品の価値も、君が取り上げた意味も全部わかっていると思うよ。でも政府が発禁と決めた本は、北京大学の教師としては教室では非難しなくてはいけない
「そんなもん?イマドキ?文革時代じゃあるまいし」(p.46)


「真理」に仕える教師ならば、政府が発禁と決めても自らの所信に基づいて評価・発言すべきなのだが、それができないのならば、学者などやっていてもしょうがないように思う。中国の教師達がこの本で言われるほどの状況に置かれているのかどうかは検証のしようがないが、こうした傾向があることにはあるのだろう。



 日本人からすると思いがけないことがこの建前に含まれていたりして、一度、
「一般の中国人の、中国メディアに対する信頼度はどのくらい?」
 と聞いたら、ふだんいっしょに共産党批判しているような子までが、新聞は読まないとか、君はどうしてそんな話題が好きなんだとか、何人もが言を左右にしてなかなか答えてくれなかった。(p.46)


興味深い質問である。メディアの自由堂が低い中東諸国と比べてロシアと中国は批判的である度合いが低いというのが私の感触である。

すなわち、中国やロシアと比べて、少なくとも同じくらいメディアの自由度は低いと思うのだが、中東の人々はそのことを明確に自覚していて、政府などに隠れて衛星放送の番組をみんなで見まくっているし、外国人と話をすれば、外国の話や外国人による物事に対する評価を聞きたがるが、ロシアや中国の人々はそこまで不信を抱いておらず、外国人から第三者としての意見を聞くというよりは、自分たちの意見が正しいと考える傾向が強いというのが私の観察した限りでの所見である。

だから、筆者が発した質問に対する中国の人々の「自己認識」には興味があるのだが、なかなか答えてくれないのか…。今度試してみようか。



 歴史問題は難しいし、各国人刷り込まれてきた情報も違う。
 が、公共の場でまともな議論ができないのは中国人学生だけである。韓国人も対日となるとヒートアップはするものの、まだ会話は成り立つ。が、中国人学生はただただ主張をくりかえし、そしてプライベートになるとまたころっと変わる。中国のこの世代は生まれてこのかた、一つの見方のみの情報を受けつづけてきたせいだと思う。(p.49)


私自身も中国の人に歴史問題を「吹っかけられて」似たような経験をしたことがある。

ここで述べられているような歴史問題に対する「中国人学生」の態度は、要するに、「知識」ではなく「信仰」を持っている場合に起こることである。教わった事柄を疑ったり、さらに別の角度から批判的に検討するということが許されないが故に、教わったことが客観的な知識となることができず、主観的な信仰箇条になってしまったのであろう。

ただ、私としてはこれが信仰箇条になるか知識になるかの程度に関しては中国の人の間でも個人差が結構あると思っている。ただ、全体的な傾向として、日本に関わる歴史問題に関しては、学校で教わった事柄が「信仰箇条」になっている度合いは他国と比較して著しく高いのは間違いないと思う。

こうした相手と友好的に交わり、摩擦を少なくするためには、思うに、真正面から歴史を検討するというよりは、それに触れないで済ますことであるように思われる。中長期的な視点を持って歴史を検討する作業を裏で交流しながら進めつつ、表では歴史には触れないで交流する(マイナスの情報が刷り込まれている相手にプラスの情報を与えていく)という二重の方向性が必要であるように思われる。



 みんなからどんな話題を振られても、何も答えなかった北朝鮮からの留学生は工学部へ進学していった。こういうおそらく軍事がらみの留学生もちらほらいて、理工大学に軍事レーダーの勉強に行くパキスタンの留学生なんかもいた。(p.50)


なるほどと思わされる。


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『絵画と写真の交差――印象派誕生の軌跡』

 現代の優れた絵画と写真には、ともに静けさがある。
 絵画にとって芸術的なるものとして評価を高めた作品の特徴が指摘できると思う。それは静けさの系譜である。フェルメール、モランディ、ハンマースホイ。20世紀から現代になって評価を高めた画家の何人かの名を挙げると浮かび上がってくる特徴である。いっぽう写真においても、同様なことがいえるのが不思議である。現代の写真作家は写真にある静止性を逆手に取ったような表現にこだわっている。そこで示されるのは、瞬間性ではなく、永遠性である。そうした永遠性を思わせる表現を獲得したとき、写真は写真独自の芸術的な表現を我が物にしたといえるような気がする。(p.277)


なるほど。確かにそうかもしれない。

70年代以降、様々な分野で流動化が進んできたが故に、それに対して変わらないものが求められているのだろうか?


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包慕萍 『モンゴルにおける都市建築史研究 遊牧と定住の重層都市フフホト』(その3)

 異口同音に「迷路の町」と評される帰化城の街路は、いったいどのように形成されたのだろうか。1998年の地図と複数の古地図を重ね合わせ、同時に歴史文献によって街路の造られた期間を確認する作業を行った結果、1850年代までに形成された街区を確定することができた。すると、街路が三つの種類に分けられていたことがわかった。一つ目は、「街」と名づけられた道幅約六メートルの大きな街路である。おおむね商店街はこの道に形成された。二つ目は、「巷」と名づけられた、街区を大まかに区画する「街」とほぼ垂直方向に街区内部に通じる道路である。「巷」(Hang)は細い道を表す山西方言である。帰化城では、「巷」の道幅は約三メートルである。大きな街区はこの「巷」によってさらにいくつかに区分された。三つ目は、「巷」よりさらに狭いことを示して「小巷」「一人巷」と名づけられた、「巷」からさらに裏へと通じる路地である。道幅はさまざまだが、一般的には二メートル以下である。住宅地の通路や店舗の裏道をなすこうした路地は、住宅の入口や店の裏口まで通じており、すべて袋小路になっている。すなわち、公共的な交通路である商店街からその裏側にある住宅地に通じる道路によって街坊が形成され、街坊内の通路「巷」からさらに細かく区分された区画に袋小路が分岐しているのである。道路は幅によって三段階に分けられ、また街区の外側から内側に進むに従って公共性もしだいに希薄となり、私的な性格が色濃くなってくる。このような街路組織は帰化城だけにとどまらず、モンゴルのほとんどすべての売買城では、こういった「街」と「巷」で街路が組織されたのである。(p.178)


中東の都市と非常に似ていると思われるのが印象的。また、このあたりは陣内秀信の影響が感じられる分析手法である。



 中国の城壁都市については多くの研究がなされているが、北京を始め、その大多数が八旗城である。しかし従来の研究においては、住宅地の短冊型の敷地構成、住宅の平面配置、王府が都市内に均等に分布しているといった特徴が、いずれも八旗城の組織に基づいていて形成されたものであることはあまり認識されていなかった。本節では、清朝の八旗制度が城壁都市の構造に及ぼした影響を明確にすることができた。清朝は八旗制度を都市に適用することによって、明朝の城壁都市の構造を基本から変容させ、新たな都市計画に基づく都市構造を築き上げたといえよう。(p.210-211)


社会組織と都市の構造の関係の一例として興味深い。



 元来、綏遠城が建設されたのは清朝が西モンゴルを制圧するための軍事拠点としてであったが、1757年に西モンゴルが征服され、1759年に新疆が創設されて外敵がいなくなると、軍事上の必要性がなくなってしまった。それ以前は、八旗軍の兵士は五年ごとに全国の駐屯地に転勤し、家族を城に同居させることは許されていなかったが、1761年に家族の同居が許されるようになった。つまり、西モンゴルが征服されたことを契機に、綏遠城は軍事的な機能を弱め、「行政的」な都市に変貌しはじめたと考えられる。その結果、1760年代から綏遠城に商業地が増設されるようになったと推論できる。そして、綏遠城に商業地が設置された時期に該当する1762年には、帰化城で都市税関が整備されている。すなわち、1760年代に双方の都市で大きな変容が起こったのである。(p.213)


政治的な動向が都市に与えるインパクト。



 この戦後のフフホト都市計画の基本案であった1957年の草案を、日本統治期の1938年に立てられた戦前の都市計画案と比較してみるとどういうことになるだろうか。結論を述べるならば、1957年の計画は明らかに1938年の都市計画案をベースに立案されていることがわかる。特に、商業区、娯楽区、工業区の配置、幹線道路の位置、緑地帯の設置は完全に一致している。一方、中央ロータリー地区に計画されていた環状道路は放棄され、直交した街路だけが継承されている。また、日本統治期に建てられた日本総領事館は、1950年代以降フフホト市政府として用いられているものの、1940年代の計画ではロータリーが設けられた中央大広場だった都市計画上の中心は、駅の北側の交差点に築かれた方形の新華広場に移された。綏遠城の西城門の城壁沿いに緑地帯を設ける計画は継承されなかったが、西城門前の三角地帯だけは緑地として残され、城門から見て緑地を挟んだ向かい側には内モンゴル博物館が立てられて、戦後のフフホトの都市景観を代表する場所とされている。(p.262)


フフホトの都市計画に日本統治時代の影響が残っている。




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包慕萍 『モンゴルにおける都市建築史研究 遊牧と定住の重層都市フフホト』(その2)

 イヘ・ジョーが建設されてから五年後の1585年にアルタン・ハーンが逝去した際、長子ドゥーレン・センゲ・ホン・タイジはダライ・ラマを迎えるためにイヘ・ジョーの東方100歩ほどの地点に新寺を建築した。これが、現在のシレト・ジョー(席力図召)の古本堂と考えられている。さらに1621年にはシレト・ジョーの東方100歩余りの地点にバガ・ジョー(小召)が建築された。1636年に南モンゴルが清朝の支配下に入って以降、1755年に清朝がモンゴル全体を支配下に収めるまで、南モンゴルは清朝によるハルハ・モンゴル、西モンゴルへの侵攻の前線基地となった。そのため、清朝はチベット仏教を扶植することによって南モンゴルの懐柔を図り、モンゴルの仏教寺院に対して理藩院から僧侶たちの仕俸や経典、職人などが提供された。こうして、兵役、徭役の義務がなく、納税も免除される僧侶が、モンゴル社会における階層を形成していった。その上、一家族に三人の男子がいたならば、そのうち一人は必ずラマ僧にするという法まで制定された。このような政策の後押しもあって、モンゴルにおけるチベット仏教寺院の数は一気に増加した。フフホトでは七つの大寺院、八つの小寺院、24の下級寺院が建設され、1727年には最後の大規模建築として五塔寺が築かれた。すなわち、1580年代から1630年代にかけてはフフホト、ひいては内モンゴルにおいてチベット仏教寺院が建設される時期であり、その後1727年代までは清朝治下でチベット仏教が定着した時期ということができる。1727年以後、フフホトでは、いくつかのチベット仏教寺院が新設されたが、いずれも小寺院にすぎず、既存の寺院の修復、増築にもっぱら力が注がれた。
 これらのチベット仏教寺院により、フフホトはハーンの都市から宗教都市へと変身していった。(p.69)


フフホトにおけるチベット仏教寺院の建設に関する歴史の概要。イヘ・ジョー(大召)、シレト・ジョー(席力図召)、バガ・ジョー(小召)および五塔寺のいずれもが非常に密集したエリアに建設されていることも興味深いが、時期的にも前三者はかなり近い時期に建設されており、それが清朝のモンゴルへの拡張と密接にかかわっていたというのは興味深い。



 1720年代に起こったもう一つの歴史的事件は、1727年に清朝とロシアがキャフタ通商条約を締結したことである。これによって、モンゴルは中国とロシア、中央アジアとの貿易の中継地となった。モンゴルで中継貿易に携わる商人たちは主に山西出身の漢人か回民であり、18世紀から19世紀にかけて彼らが形成した都市はモンゴルにおいて「売買城」と呼ばれた。いわば北アジアで形成されたチャイナ・タウンといえよう。(p.89)


山西商人が有力な商人となったことの理由がようやく分かった気がする。私にとってあの内陸にある山西商人がどうして有力でありえたのか、ということは長らく謎だった。陸路での北方・西方との交易ルートが形成されたことが、あの地域の経済が活性化した重要な要因ということか。



 漢人商人の四合院式の住居の場合、対称的な平面配置を示すことになる。二つ以上の四合院が続く場合、出身地である山西のように中軸線に沿って縦列に並ぶのではなく、売買城では横に並ぶのが普通である。山西の住宅に見られるような中軸線に沿って北側に延びる構成は、二世代以上からなる家庭における儒教的な家庭秩序を反映したものである。しかし、売買城を訪れた当初、商人の大部分はまだ独身で、商売が成功してから、初めて出身地から嫁を娶って家庭を持つ場合が多く、二世代が同居することはあまりなかったのである。(p.106)


フフホトの売買城における四合院建築は、原型は山西から入ってきたものであるが、全く同じ形にはならなかった。平遙で私が見た四合院はことごとく中軸線に沿って連なりを魅せる構成だったのが印象的で、これでもかと同じパターンが続くのに少し飽きてしまったのを覚えている。現在のフフホトで四合院建築を見ることができるかどうかわからないが、近々訪問予定なのでチェックしてみたいところである。



儒教より神仙を信仰する道教寺院の方が多いというのは、アジア各地における華人商業移民社会に共通する宗教的な特徴である。(p.148-149)


儒教は官僚などの政治的支配階層のものであり、民間の社会では道教の方が盛んだったということのように思われる。なお、儒教と道教の寺院の関係は、中国国内にも当てはまるのではなかろうか。中国を訪問したり歴史学などの本を読む際などに、この点に留意しておきたいと思う。



 都市におけるモンゴル仏教寺院の門前に注目すると、さらに共通する空間的特徴が見出される。それは、イヘ・ジョー、シレト・ジョー、バガ・ジョー、ネマチ・ジョーの門前に、いずれも商店街に囲まれたほぼ三角形をした広場があったことである(図78)。1690年代の記録によると、寺院前の空地は現在のものよりも広かったという。その後、寺院前の空地を侵食するように、商店街かが徐々に寺院に向かって拡張されていき、現在では三角形の広場だけが残されているのであるが、それ以上は商店街が拡張されなかったのはなぜだろうか。それは、寺院の前の屋外空間で年中行事や祭が行われたからである。1696年に康熙帝がフフホトに11日間滞在した際には、バガ・ジョーの前でモンゴル相撲や射矢などが披露された。その様子を描いた絵図はないが、バガ・ジョー門前の牌楼軒下の木鼻にはモンゴル相撲の力士像が据えつけられている(図79)。この特徴的な装飾は、この広場で相撲大会が催された名残であろう。また、20世紀初めのイヘ・フレーの絵図には、モンゴル仏教寺院の前で行われた相撲祭が詳細に描かれている(口絵の図F)。モンゴル仏教寺院の行事以外に漢人の祭日にも、門前の広場に仮設舞台を設けて芝居が上演されることがあった。このようにモンゴル仏教寺院の門前広場は娯楽空間としても利用されていたことから、寺院が商店街や居住街区の中心だというにとどまらず、社会生活全体においても中心的な存在であったことが窺える。(p.174)


寺院の前に広場があり、祝祭などが行われるということは、比較的広範に見られる現象であるように思われる。

ヴェネツィアのサン・マルコ広場やヴァティカンのサン・ピエトロ寺院の前のサン・ピエトロ広場、あるいは、イスファハーンの「王のモスク(イマームのモスク)」の前にあるイマーム広場、サマルカンドのレギスタン広場などが私の場合には即座に想起される。また、モスクワの赤の広場も隣にはワシリー聖堂があるし、パリのノートルダム寺院の前も広場になっているし、ハイデルベルクの聖霊教会の前にも(これは市庁舎前でもあるが)広場がある。

くり返しになるが、以上のように、これらがどのくらい祝祭に用いられているか、どれくらい庶民に開かれていたかは別としても、大規模な宗教建築の前に広場があり、そこが祝祭などに使われるということ自体は比較的普遍的に見られる現象であるように思われるのである。

まぁ、カイロのような超高密都市や日本の京都などは、これとは異なっているとは言えそうだが。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

包慕萍 『モンゴルにおける都市建築史研究 遊牧と定住の重層都市フフホト』(その1)

 フフホトを主要な研究対象にしたのは、以下のような理由からである。フフホトは現在の中国内モンゴル自治区の省都であるが、430年前に形成された時点からモンゴルにおける中心的な都市であった。モンゴル人の政治、経済の中心地である以外に、16世紀末以来モンゴルにおけるチベット仏教の中心地であり続けてきたし、18世紀以降は北アジアにおける遠隔地中継貿易の中心地となり、同時に清朝のモンゴル支配の政治拠点ともなった。その上、20世紀に入ると、キリスト教布教や商業活動を通して、西洋諸国からも影響を受けることになった。その後は日本の植民地となり、独立と統合の狭間で揺れ動いた末に、現在の内モンゴル自治区の省都となった。まさにフフホトは、モンゴルにおける政治権力の興亡の一大拠点であり、モンゴル史の歴史的舞台だったのである。(p.i)


フフホトという都市の歴史的位置付け。モンゴルにおけるチベット仏教の中心地であることや日本の植民地であったことなどは日本ではあまり知られていないかもしれない。



 このように、明朝と右翼モンゴルが朝貢貿易の関係を結んだことにより、長城の機能は、軍事的な防衛施設から貿易の税関へと変わっていった。双方向の貿易が活発化するにつれ、16世紀初めには長城内外の軍事拠点であった「城」はいずれも経済貿易都市へと変化していった。17世紀に張家口やフフホトなどが南の中国と北のロシア、西の中央アジアを結ぶ貿易の中継地となったのは、こうした基盤が築かれていたからであろう。(p.51)


「万里の長城」というと、北方の遊牧民から中国の領土を防衛するために築かれたというイメージがあり、それが有給の歴史の中で続いてきたと考えがちであるが、こうした指摘に出会うと、社会というものは常に変動しながら推移していくものである、ということを改めて想起させられる。

また、本書によると長城沿いに経済的な貿易都市が形成されたと言い、フフホトもそのひとつだとされるが、これは北方遊牧民との関係で語られる(漢民族の居住地域は北方遊牧民の脅威にさらされていたとする)ステレオタイプ的な中国のイメージとは若干異なる歴史の実像であるように思われる。

このあたりの歴史の流れ、地理的な関係についての理解が深まったことは本書から得た大きな収穫のひとつであった。



 都市を移動させる際は、事前に移動先をあらかじめ調査しておく。具体的には、部族の長、時にはシャーマン、ラマ僧などが、その季節において遊牧生活の条件を満足させる立地を選定する。ホトの営地は変わるが、その空間構成は一定である。以下、その空間構成について考察する。
 中心にはオルドかチベット仏教寺院が位置する。その南は広場になっていて、さらに南に空地が広がる。中心地から両側に、ゲルの街区が放射状に配置される(図12)。また、東西に列をなして並行にゲルの街区が配置されることもある(図13)。都市全体の中では北、西が上位の方角で、中心に近いほど上位となる。(p.63)


定住化が進む以前のモンゴルの都市ではこうした配置が色濃く残っていたらしい。現代でもチベット仏教寺院の南側には広場の名残が残っているなど、多少の残渣は見て取ることができそうであり、また、歴史的な遺構を見たりするときにはこの配置について知っていることは、有益な知識となりそうである。

移動先を事前に調査するという用意周到さは、モンゴルの軍隊が戦闘に先立ち敵方について綿密に調査していたとする説とも共通しており興味深い。やはり遊牧生活というものはかなりシステマティックに営まれていたと見るべきであろう。



 以上、ゲルの集合によって構成される遊牧都市の空間について述べてきたが、それらの特徴は次のようにまとめることができる。第一は、いうまでもなく、移動ができるということである。イヘ・フレーに例を取ると、1719年から1779年までの60年間に、19回も移動したという。第二は、都市空間のもっとも中心には政治的、宗教的な空間があり、その周囲にいくつかの部落や集団が上下の秩序に従って配置されていることである。それぞれの集団に属している住民の住居は、族長を中心に配置されている。一方、ラマ僧の住宅は所属寺院の周囲に位置しなければならない。ちなみに、チベット仏教寺院は単なる宗教施設ではなく、医療的、福祉的な都市機能をも担っている。第三は、居住区はハーンおよび活仏、貴族、平民という三つの階級ごとに、空間的な序列に基づいて配置されていることである。第四は、商業空間、娯楽空間は仮設建築によって広場に設けられることである。(p.64-65)


遊牧的な都市の構成についてのまとめの部分。

寺院が医療や福祉的な機能をもっていたというのは、中東やヨーロッパの宗教施設にも見られることであり、私の持論である「宗教とは政治現象である」というテーゼから言えば、宗教=政治の再配分政策的な側面を表現したものであるといえる。

空間的な序列があるというのは、ある意味、民主的な社会とは異なる部分ではあるものの、遊牧社会が強い秩序を持っていることを反映しているように思われる。




 モンゴル帝国および元朝の時代、チベット仏教のサキャ派が帝国の国教に定められたが、信者はモンゴル貴族に限られていた。1368年に元の順帝ドゴン・テムル(torun temur)が首都の大都を放棄して、北方のモンゴル高原に退いて以降、チベット仏教が衰退の一途をたどる一方で、モンゴルでは従来のシャーマニズムが信仰され続けていた。ところが、16世紀末にチベット仏教が再び導入され、モンゴルに根づき始めると、これまでには見られなかったほどの勢いでモンゴル人の間に信者を獲得し、現在に至るまでモンゴル人の主たる信仰として存続してきたのである。
 チベットとモンゴルとは、チベット仏教を介して密接に関係し合うようになった。モンゴルおよびそこに住む人々はチベットから大きな影響を被った。都市や建築についても例外ではなかった。チベット仏教の導入によって、ハーンのオルドを中心に形成された遊牧都市は、チベット仏教寺院を中心としたものへと変容し、寺院が都市形成の中核的要素になっていった。また、チベットの建築技術や意匠もモンゴルへと伝来し、17世紀から18世紀の前半にかけて、モンゴルの建築文化の重要な一部として定着した。その影響はモンゴルだけにとどまらず、モンゴルを経由して満州へも伝わっていった。1629年にはダライ・ラマの弟子が、満州の盛京(瀋陽)において当時の「金国」のハーン皇太極に説法を行ない、1636年には盛京にチベット仏教の寺院である法隆寺(俗称黄寺)が建てられた。こうしてチベット仏教は清朝の国教にまでなったのである。(p.65-66)


本書を読むまでモンゴルとチベットがこれほど深くかかわっていたと認識することはなかった。

モンゴルやチベットでチベット仏教が盛んになったことは、ある意味ではファーティマ朝やサファヴィー朝がシーア派を奉じたことを想起させるものがある。すなわち、イデオロギー的に外部との差異を構成しているように思われる。



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藤村里美 東京都写真美術館 監修 『写真の歴史入門 第2部「創造」 モダンエイジの開幕』

 写真はまず絵画と出会い、同じ方向を目指すことで「芸術」としての一歩を進めることになったのである。(p.17)


19世紀末には写真にとって絵画が規範とされ、絵画的な表現が追求された(ピクトリアリズム)。20世紀初頭頃には社会的にも図像的にもかなり近づいていた。(印象派絵画とも相互に影響をしていたりした。)

写真が絵画に近づいてきた頃には、次第に絵画から自立した独自の表現が追及される動きが胎動してくる。第一次世界大戦の前後で流れが変わる。(戦争による人的ネットワークの分断もその背景要因である。)ピクトリアリズムは第一次世界大戦で概ね終焉し、それ以後は、ストレートフォトとニューヴィジョン(バウハウス、ダダ、シュルレアリスム)の流れとして本書では解説される。

ストレートフォトは肉眼では捉えられず、あるいは捉えにくいものを写真だからこそ捉えられるものを捉えるということで写真の独自性を追求し、ニューヴィジョンは他の芸術分野での革新の動きの中で写真が取り込まれたものと思われる。ここでは「ただの写実」とは異なる新たな表現が創造され、追求された。



同時多発的に世界のさまざまな地域で変化が起きていた。
 変革の原因のひとつは技術的な進歩である。レントゲン(X線)写真、赤外線写真などは、不可視の光線がとらえる世界を可視化した。また二重露光、フォトモンタージュ、ソラリゼーションなど、現実にはないものを映像化することを可能にした。そして小型カメラの登場、高速シャッターなどの開発は、写真はあらたまって撮るものという概念を覆した。スナップショットの登場は、街や人の何気ない光景が美しいものであると、あらためて知らしめたのである。
 工業的な進歩は写真にかかわるものだけではなかった。機械化時代の到来は人々の生活を変え、経済を変え、社会状況を変えていった。第一次世界大戦で破壊された古い街は、都市へと再生し、そこには車が走り、飛行機が飛んだ。経済的に余裕のある層が増えカメラを持つ人々も増大した。そして工業化社会によってもたらされた高層ビル、工場、機械は写真家たちの創作意欲を刺激し、新しい写真の格好のモチーフとなった。(p.56-57)


1930年前後のことである。

スナップショットがようやく登場したのもこの頃らしい。デジカメの登場により急速に写真が身近なものになっている現在は、この時代の状況が拡大再生産されたようなところがある。

また、この時代には高層ビルや工場などが「新しい被写体・モチーフ」であったというのは、なるほどと思わされた。今まで何回か写真を展示する美術展を見たことがあるが、「これのどこが革新的なの?芸術なの?」と思ってしまうような作品に出会ったことが何度もある。私には普通に高層ビルを見上げて撮影したり、複数の角度から撮影しただけのものにしか見えなかったからである。そして、実際にそれだけのものだと私は今でも思っているのだが、上記の文章によって、その意味するところが理解できた気がする。すなわち、現在の視点から見ると別に何ということはないものであっても、それら(高層ビルや工場など)は、その時代以前には存在しなかった目新しいものだったのである。


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三井圭司/東京都写真美術館 監修 『写真の歴史入門 第1部「誕生」 新たな視覚のはじまり』

 51年、フランス政府は、国の歴史見直しと国威発揚のため、「歴史的記念物委員会」を発足した。(p.37)


写真は誕生してから間もなく、このように「国民国家およびナショナリズムの形成」に利用されることになった。その国の「歴史的遺産」が撮影され、「これが我々の遺産である」ということが刷り込まれ、また、オリエント(エジプトや中東)の歴史的遺産も撮影されることで、「彼ら」との対比の中で「われわれ」が形成されていく。考古学的調査・歴史学や東洋学・サイード的な意味でのオリエンタリズムとも連動し、それをさらに広めていくメディアとして写真は活用された。そこに各国の政府が絡んでいることも見逃せないだろう。

本書は写真の黎明期における技術や社会の中での位置づけなどがコンパクトにまとめられており、非常に参考になる良書だった。過去に美術館などを見てきた中で、20世紀には、絵画がエネルギーを持つ時代は終焉し、写真の方が遥かにパワーがあると感じたことがあるのだが、本書を読んで、写真の歴史も社会一般の技術の進展や他の芸術分野との連携もかなりあり、学んでみると面白そうな分野であるという認識を得た。


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立岩真也、尾藤廣喜、岡本厚 『生存権 いまを生きるあなたに』(その3)
岡本厚

 その不平等さ、格差をどれだけ小さくするか、一つは税制でもう一つは社会保障だとよく言われる。でも、実は税制は格差是正にあんまり効かないらしいんだよね。(p.90)


それはそうだろう。ただ、税制は歳入(納税者から見ると徴収)の面だけでなく、歳出(受給者から見ると給付)の面での是正効果もあるわけで、その一つが社会保障制度なわけだから、(岡本がどのような数字を元にして話しているかはわからないものの)単に歳入(徴収)の面だけで判断してはならないはずである。



 最近、ザカーリアというニューズウィークの編集長が書いた論文で面白かったのは、アメリカは没落するというけれど、そうじゃないと彼は言うのね。それは、アメリカはどんどん外から移民を受け入れる、それから高等教育が充実しているから世界中から若い人がやってくる、だから人口は減らないし、高齢化も進まない、次々と技術革新も生まれて来る、と。そしていま経済成長している東アジアは、日本も韓国も中国も、単一民族主義が強くて移民を受け入れられない、だから人口もやがて減り、高齢化も進み、衰退するだろう、と。(p.102)


一面の真理を突いていると思う。

アメリカは移民を受け入れることで活力を保つことができるという点は正しい。東アジア諸国、特に中国や日本が高齢化によって衰退する趨勢に入ることも確かにそうだろう。ただ、中国で高齢化が本格的に始まる前に移民を受け入れることができる体制になるかどうかは未知数である。もし移民を受け入れることになれば、中国は活力をかなり維持できるだろう。あとは、諸外国の人々から見てアメリカと中国とどちらが経済的および政治的に安定しており、魅力的だと映るかが両者の勝敗(?)を分けるだろう。

現状を見ればアメリカの方がよいに決まっているが、20年後の中国と20年後のアメリカはどうなっているか?というのは現状だけからは考えることはできない。1960年の日本と1980年の日本は世界的な地位を見てもかなり違ったものだったはずであるが、中国の経済成長率はこの時期の日本のようなものであるから。なお、移民を入れて活性化するという方向性については、日本はもうほぼ手遅れであると思われる。

なお、移民の受け入れの障害になるのは、「単一民族主義」のようなイデオロギー面であるというよりは、そうしたイデオロギーが人々の間で受け入れられてしまうような社会の構造にあると考えるべきである。イデオロギーは社会のありようが変われば比較的短期間のうちに(一世代まで行かずとも10~20年程度あれば)変化しうる。



ある程度豊かな社会になって、時間とお金がある教養層が生まれ、その層が厚くなって、民主主義を担う人たちが出てくる。文化的なものを摂取したり、作り出したり、連帯して社会を変えていく思想やエネルギーを生み出したりする存在、それが中産階級で、その中産階級を壊してるのが今の新自由主義だ。(p.104)


概ね妥当。



 規制緩和なんて、それで世の中の既得権、利権をなくすような幻想で行われたけれど、実は、利権のありかを移動させただけでしょう。規制緩和でどれほどのビジネスが生まれたか。かつてはピンハネと言われたのが「人材派遣業」であって、いまどれほどこのピンハネ業、人買い業が流行っているか。(p.109)


全く正しい。あのレトリックに騙されたやつはアホである。しかし、今も騙されているやつは多い。

例えば、税金を挙げても無駄に使われるだけだから増税は嫌だという人は、まさに規制緩和の場合と同じ感覚にもとづいて判断しているのである。行政が行う規制によって、行政に保護されている人びとに利権が配分され、彼らの既得権を肥大化させるだけだ、という論理と、行政が行う給付(歳出)は、行政のために使われるだけで、彼ら公務員の既得権になるだけだ、という論理であり、既得権の受け手が行政と関係がある一般人であるか公務員であるかの違いに過ぎない。

発言の根底にあるのは、自分のことしか考えない利己的な財貨蓄積欲(金を他人のためには支払いたくないという気持ち)であり、またそれを正当化する際に働いているのは、再配分の配分先に対する羨望である。

そこには社会というものを考える視点は全くない。私が社会科学を学ぶ中で得たことは、こうした狭い視野からの脱却であった。

新自由主義のあまりにわかり易すぎる単純化されきった図式が浸透してしまったことの弊害は、どれほど社会科学的な知見を単純化してもあそこまで単純化することはできず、それゆえ無学な(もう少し正確に言えば、政治的に成熟していると言いうる程度の判断を下すのに十分な程度の社会科学的な方法に基づく「事実」の認識方法を習得していない)一般人に完全に共有することは難しいために、社会科学的な考え方が普及する際の妨げになる、ということである。




 もう一つの問題は、こうした閉塞状態に対して発言するリベラルな大学の教授とか、ジャーナリストとか、労働組合とか、そういう人たちは、ある人びとから見ると特権層に見えるということ。そこから発せられる言葉は、何かきれいごとに聞こえるし、なぜかものすごい反発や憎悪を生みだしている。丸山真男をぶっとばしたい、とかね。10年も前に亡くなっているというのに(笑)。(p.111-112)


ここにこそ閉塞状態の閉塞状態たる所以があるように思われる。これが現代日本における言論の大きな課題である。



 なぜみんな増税がいやかっていうと、自分の払った金が、どこに使われるかさっぱり分からなくなっちゃうから嫌なんだよ。絶対に計算の合わない空港とか、費用対効果の怪しい高速道路になっちゃうから。税金は公平に使われず、特権のところにいくだけだと思うから嫌なわけで、確実に自分のところに戻ってくる、自分たちの社会のためになると確信をもって思えれば、多くの国民は払うと思う。
 つまり政府(政治家と官僚を含め)への不信が増税を阻んでいるわけで、日本の場合、増税を言って選挙に勝った試しはない。だから選挙のときに、政治家は国民を騙すようになるし、そうするとさらに国民は政治家への不信感を募らせる。悪循環だよね。社会保障を再建するためには、財政を再建することが必要だ、金持ちは増税を、金のない人は福祉の切り下げを我慢してほしい、といってスウェーデン政府は財政危機を三年で乗り切ったという。政府への蓄積された信頼がある場合とない場合のあまりの差じゃないだろうか。(p.117-118)


ここで重要なのは、例えば、「情報公開」をすれば使い道がきちんとわかるから税を払っても良いというふうになるかというと、そうではないということである。

公開された情報のどの部分が人びとに知らされるか、ということが問題なのである。

ここ20年ほどを見ている限りでは新自由主義の広まりと歩調を合わせて、「おかしな使い道」ばかりがクローズアップされ、あたかもそうした使い方しかなされていないかのように報道が続けられてきた。つまり、情報公開などしたところで、日々の生活に追われている一般市民にはそれを読みとくだけの余裕などない。所詮は研究者やジャーナリストやごく一部の市民運動家たちがそれを読解することになるが、彼らの多くは政府がやっていることが十分正しくないということを言う事に躍起で、正当な支出やさらに拡充することによってよりよくなる給付などについては全くというほど触れない。少なくとも、一般人の目に触れるような形で公表することはない。

NHKなりTBSなどのマスコミが右翼的な連中から槍玉に挙げられて、戦争への反省や憲法擁護などの議論を報道するだけで「偏向している」などと騒がれるが、日本のマスコミにおける「偏向」があるとすれば、その最大のものはまさに、財政の支出に対する「適切な批判が」行われていないことである。すなわち、重箱の隅にある小さな間違った仕方での支出をクローズアップして、それらをあたかも全体であるかのように人びとに思わせてしまったことにある。「批判」とは悪いことを非難することではなく、正しいことと誤ったことを適切に分けることである。マスコミ関係者に良心があるのならば、適切な歳出やそれの拡充についても、今までよりも積極的に語ってほしい。心からそう思う。

もちろん、それに便乗している小泉のような政治家連中の人気取りや、これを積極的に後押ししてきた、コソドロである元官僚・高橋洋一やケケ中のような連中には吐き気がするが、そうしたアホが居てもマスコミが揃ってあのような報道を続けない限り、彼らが評価されることはなかったことを考えると、言論状況の危うさにこそ危機感を覚えるのである。



MDっていうのはアメリカを守るためのシステムでしょう。しかもほとんど当たらない(笑)と言われている。アメリカの防衛産業のために何兆円も使う馬鹿馬鹿しさ。(p.119)


ここ数年の財政の歳出のうち最大の無駄はこれであろう。「マッサージチェア」を問題にするより、これを問題にしないようでは話にならんのだが、この話についてはこちらを参照されたい。



 日本の対北朝鮮政策が間違えてるのは、経済制裁をすれば相手は言うことを聞くだろうという発想だね。中国と韓国が援助してるから制裁は効かないし、そもそも困らせたら言うことを聞くだろうっていう考えそのものが間違えてる。それはたぶん自分の似姿なんだろうね。日本は、自分たちなら困らされたらきっと言うことを聞いちゃうと思うんだな。(p.122)


最後の、「自分たちなら困らされたらきっと言うことを聞いちゃう」というのは、なかなか鋭いアイロニーである。80年代から90年代にかけてアメリカ政府に実際にやられてきて従ってきたという事実からすれば、それは的を射た一番痛いところとも言えるからである。

ネオコンのような力の信奉者は力だけに頼るから失敗するのである。力というものは場を弁えて適切な時と場所で使わなければ意味がないのである。



新自由主義になって一番怖いのは、エリートたちが私利私欲に走りはじめたことだよ。(p.132)


同感である。


立岩真也、尾藤廣喜、岡本厚 『生存権 いまを生きるあなたに』(その2)
尾藤廣喜

そうすると、戦後の理想主義的な空気の中でかもしれませんが、「健康で文化的な」という文言があそこにぴしっとはまったことは、いま云々されている改憲論議のなかで、一字一句でも変えると大幅に崩れる可能性がありますね。(p.66)


これは尾藤氏の発言ではなく、インタビュアーの発言だが、同意見である。なお、「あそこ」とはもちろん憲法第25条第1項のことである。



それは、生存権の保障を分権化した場合にですよ、地方に財源がないということで、それで生存権の空洞化っていうのはあり得るわけなんで、私は地方自治の問題も実は二十五条と関連してるんだということを忘れちゃいかんと思うんですよね。あんまり言われてませんけど。自民党の案では、地方自治の条項の面で、そこが後退しているんです。(p.66-67)


これも同意見である。私は財政論議をする際に、地方政府への財源保障を確実に行ない、財政的に「地方分権」をすべきではないと、しばしば主張するのだが、それは尾藤氏とほぼ同様の問題意識を持っているからである。

特に福祉や社会保障の面に関しては、市町村レベルにかなりの事務が集中していると見ており、こうした財政的に自立できない小さな主体に福祉を委ねていることが、日本において福祉水準の低さが克服されない大きな構造的要因であると考える。

道州制の前に市町村合併が行われたことや三位一体の改革と称して地方交付税の削減――すなわち、地方間の再分配の縮小――が行われたことは記憶に新しいし、その弊害は現在もなお継続中である。

「地方分権」は未だに美名として使われているし、反対しにくい響きを未だに持っているかも知れないが、生存権の切り下げに直結する大問題であるということは銘記すべきである。



 この前も私は北九州市に行ってきて、福祉事務所の人たちと喧嘩してきたんですけど、そんな行政担当者、彼らはね、やっぱり保護を受けてる人たちを普通の市民と思っていないですよ。貧困層を市民と思っていないですよ。それは許せないです。だから権利もへったくれもなくて、窓口に来ても追い返す相手としか考えてないですよ。(p.73)


この批判は恐らく一理あるだろう。

ただ、私が別の本(『この国に生まれてよかったか 生活保護利用者438人 命の叫び』)で読んだところでは、地区担当員(生活保護ケースワーカー)には優しくしてもらっているという受給者のコメントも意外と多かったと記憶している(ブログには書いてないが)。

思うに、これらは両立しうる。窓口で追い返すのは、新たに申請しようとする人や受給中だが何か特別の需要が生じて一時扶助を申請しに来る人のことだろう。働くこともできなくてもうどうしようもなくなっている受給者に対しては、(一種の憐憫の情などがあるかどうかはわからないが)優しく接することが常態であるが、新たに金を引き出そうとすることに対しては警戒心が働くということは十分ありうるからである。

そして、ある「福祉川柳」で読んだことがあるが、「騙されても騙されても受給者の言葉を信じる」という主旨の川柳がどこかで紹介されていたのを見たことがある。裏を返せば、保護受給者がケースワーカーに対してどれほど多くの虚偽や隠蔽を行っているかということが推測される。上記のような申請(すなわち、金を引き出そうとする行為)の場こそ、嘘や隠蔽は行われるし、その意味も最大限に表れる場である。そうした行為が繰り返されるケースワーカーが受給者に対してある種の偏見を持つことは十分ありうることであろう。

生存権という権利擁護の制度であることから、証拠の提示を十分求めない法律構造になっていることや事務負担の重さがこうした事態の背景にはある。事務負担が減ってこれば、事後的に証拠の提示を求めるなどの手続きももっときちんと行うことができるはずである。そのためには人員を増やす必要があるが、実際に進んでいるのは受給者の増加に比べると担当者の増加は少ないというのが現実。

こうした背景のある行政担当者に対して、敵対的なスタンスを取ることは必ずしも得策ではない。行政担当者と受給者の不幸な関係に怒りを感じるのはわかるが、その背景にある要因を解明し、問題を除去するように働きかけることが学者の務めであろう。

実際、実務に携わっている人間を道徳的に責めたところで改善される見込みなどほとんどない。受給者の側にしても制度や運用が大きく変わらない限り、行政に対する姿勢には変わりは生じないだろう。制度や運用を変えることこそが問題である。厚生労働省の官僚や彼らに影響力を行使できる研究者らが、地方の現場の労働者(ワーカー)の意見や受給者の意見をどれだけ吸い上げられるのか、また、必要な財源をどれだけ確保できるのか、ということが課題であろう。



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立岩真也、尾藤廣喜、岡本厚 『生存権 いまを生きるあなたに』(その1)
立岩真也

これからの、保険なり社会保障なりっていうのが、自分の将来のためであるからこの話に乗ってちょうだいっていうところが、唯一そのシステムを正当化するロジックであったがゆえに、逆にそれが、だったら政府じゃなくてもいいみたいな話につながってきた部分があったんじゃないかとは一つ思うんですよね。(p.18)


日本の社会保障を削減するために、措置から保険への移行さえなされる中、「保険」に偏っためにこのロジックが一般化してしまい、保険は措置よりも市場化しやすい位置にあったことと相俟って、容易に新自由主義のロジック、すなわち政府の介入を排除するロジックによって正当性を奪われてしまったということか。



――そのときに、そういうことをすると高所得者が日本から逃げていくっていう話が出てくるわけですが。

立岩◎ それはやっぱり二つあってね、資本とか工場とかそういったものは海外移転が比較的容易ですから逃げていくというか移っていくっていう可能性は高い。それに比べての話ですけれども、人間っていうのは、それなりの、生まれた土地に対するしがらみであるとか、住み易さとか、そういうことがありますから、中にはそういう人もいるでしょうけど、そうたくさん、人そのものが流出していくことはないと思う。高額納税者が逃げていってしまう、というのは、累進税率をまあこのへんにしときましょうやっていうときの正当化のレトリックみたいな部分があって、かなりなんというかな、眉に唾して受けとめたほうがいいだろうというのが一つです。
 ただもう一つとして、資本の流出の問題であるとか、うんぬんっていうこともひっくるめて考えたときには、確かに再分配率の高いところから資金が逃げていき、あるいは端的に言って貧乏人が入ってくるっていう可能性は、それはやっぱり否定はできないんですよ。そうすると、世界中で分配率というのを、だいたい均しておけば、国による間の高低っていうのがなくなれば、それが原因での流出流入っていうのが減るはずですよね。
 ロジカルにはその解しかないはずです。それはそうだと言うべきだと私は思っているので、言ってはみています。ただそれは、どう考えたって難しいことであることは確かですよね。世界中で、協調してっていうのは厄介なことではありますから、そう簡単なことではないけれども、ただ向かうべき方向としては、そっちのほうに向かうように仕組んでいく。そっちの方向むいてやろうや、っていうことは可能なんですね。(p.21-22)


全く同意見である。

前段の部分の資本や工場の移転は行われるが、人の移転はそれと同様には行われないというのは、住居や言語の問題を考えただけでも容易に理解できる。また、80年代の多国籍企業の研究などでも、資本ですらその企業の出身国に集約される傾向が見られており、いかにその後のグローバル化が進展したにしても、単に税が安いなどの理由だけで他国に全面的に移ることは考えにくい。

資本家(投資家)も人間であり、言語や制度への精通度や影響力の行使のしやすさは、自らの出身国に対しての方が強い(人的ネットワークの数とその強さなどに規定される部分――情報の流通量と質の違いや個人的なコネクションによる影響力行使の程度の違いなど――があるため)と想定するのが妥当であり、そうであるがゆえに、パワーのある人は他の有利な土地に逃げるよりも自分の居るところを最適の土地に変えようとする傾向があるように思われる。

実際、90年代以降の経団連がどういう政策要求をしてきたかを想起すればわかりやすいだろう。彼らにしても、本当に外国の方が税金が安いから資本を移した方がいいと思うのならば、日本政府に圧力をかけるより、とっとと外国に資本を出した方がよかったということになるはずなのである。(まぁ、経団連は資本家というよりは経営者なので、違いはあることは認めるので、この例示は完全な妥当性をもつもであるとまでは主張しないが。)

さて、引用文で述べられた意見のうち、特に重要なのは私見によれば後段である。

資本の逃避や貧困層の流入という問題は確かに生じうるし、それに対する対処方法は国ごとの再分配の率をある程度均すことにあるという。立岩もこれを実現することの困難性は認めてはいるが、それでも目指すべき方向性を指示することには意味があると考えているようであり、私も同意見である。

実際問題としては、これはFTAや、ナショナルな広がりを越えてリージョナルに形成されつつある国際機関において条約を締結しながら均していくしかないのではないかと思う。EUやAUやASEAN諸国などの枠内でまずルールを設定していくのである。リージョンの境界には同様の問題は生じうるが、それが生じ易いエリアとそうでないところがあるはずであり、生じやすいところでは近隣との新たな協定を結んでいけばいい。全世界で統一的な基準を形成することはかなり難しいだろうが、絶対に不可能というレベルではない。

問題は、再分配政策は基本的に国内の経済や社会のあり方に対しての政策であって、それが外交に左右されることが、ある種の弊害をもたらす可能性も否定できないということであり、また、他国と揃えるようなインセンティブはそれほど生じないか、生じてもその温度差は国により異なるであろうから、それをどう調整していくのか、ということである。

立岩の意見には大賛成であるが、以上のやり方は困難を抱えているだけでなく、対症療法的な対策という側面が強い。根本問題は、ここ30年ほどで金融の規制緩和が物凄いペースで行われてきたことにあり、まずは金融資本の暴走を止める規制の方が先であるように私には思われる。



それは、生存権の保障にしてもなんにしても、それを保障するのは、広い意味での財ですよね。財というのは、人がなんらか働くという形で関与して、生産されて出てくるものである、という意味で言えば、生存権を保障するということはすなわち、国民のレベルで言えば、勤労の義務をもつと。全員の生存権を保障するための義務が、労働を提供できる人間にとってはある、っていうことが一般的に言えることだと思います。(p.40)


個別の人が働かなければならない具体的な義務を持つわけではなく、「国民――もう少し正確に言えば『法的に見て日本国籍を保有する諸個人』の総体――として」抽象的なレベルでの義務が存在するということか。

ある程度の重さの知的障害や身体障害を持つ人については当然、勤労の義務はないにしても、それほど重くない病気の人などは結構微妙である。病気の一つや二つは誰でも持っているわけで、生活保護の現場などで就労がうるさく言われるのも、こうした微妙なボーダーラインやそれ以上の健康状態にある人に対してである。(但し、保護受給者の大部分は高齢者と障害者、ある程度以上に重い傷病を患っている人であるため、こうしたボーダーライン以上の人の絶対数はそれほど多くない。)個別的には勤労の義務はないと言い切るならば、こうした人々にうるさく介入して「働かせる」必要はなくなる。

ただ、私の意見としては、やはり個別にも義務はあると考えなければ、全体としての一般的抽象的な「国民のレベルでは勤労の義務がある」という規定だけでは、この義務が存在すると言えるだけの実効性に欠けるように思われる。

その意味では、現場ではこの抽象的な規定をどのように具体化するかを巡って、常に「緊張関係」にあり、その時々の情勢により具体的な水準が決まっていくというしかないのではないか。


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