アヴェスターにはこう書いている?
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巴比典憧 『内モンゴル・チベット一人旅』

わたしは在野にあって、泥まみれになって中国を世界を旅行し野人の本音を人々に伝えたいのです。(p.117)


このあたりの感覚は私も一人の旅行者として共感できる部分である。



 「ぼくは少数民族を研究しようとは思いません。一体全体一つの民族を研究対象にしていいものでしょうか。仮にチベット族の人が日本民族を研究対象にしたらあなたはどう思いますか。ぼくは彼らと親しくお付き合いできればそれでいいと思っています」
 結局岡助教授も学者であった。ある民族を科学的理論的に解明してなんになる。その業績は国家という代物に利用されて、民族間の闘いの図に発展しないとも限らない。大谷隊やスタインの業績をみればわかる。彼らはタクラマカン砂漠を旅行し文物を盗み自国に利したではないか。直接的ではないにしろ、権力に利用されないよう気をつけねばならない。(p.117-118)


本書の旅行記は正直言って、あまりどうということはない文章であり、インターネットによる旅行記が溢れている現在においては、ほとんど何のアドバンテージもないという程度のものである。ただ、この箇所はなかなか良いレトリックを用いていると思われたので引用した。

「日本民族」なんてものがあるかどうかは別としても、ある「民族」を抽出して、その人間集団全体の特徴や性質などを捉えようとするとすれば、それも、著者が「科学的理論的に解明」と書いていることから読み取れるように、民族の特徴や性質などを、ある種の普遍的な理論としてその全体を描き出すことを想定しているとすれば、確かに著者の批判はかなり当たっている。ただ、こうした本質主義に対する批判は、ある意味たやすいし、ありふれてもいる。

また、科学が権力に利用されることへの警戒もまた重要なことである。

ただ、「彼らと親しくお付き合いできればそれでいい」としても、そのためには「彼ら」と知り合っていく必要がある。例えば、「彼ら」が概ね共通してタブー視しているものを知らずにコミュニケーションをとると、その都度相手を傷つける(相手の気分を害する)ことになりかねない。もちろん、それも「お付き合い」していく中で理解していくことになるわけだが、そうやって蓄積される知識を、他の人々と共有しようとすれば、その知識のあり方は自ずと研究者が行うようなものに近づいていくのではないだろうか。

また、人類学や民俗学や東洋学などが植民地支配などを正当化するための理由付けに利用されたことは否定できない。しかし、誤ってであれ、意図的にであれ、悪意を持って形成されたイメージを偏見として広めることとなり、それが相互理解の妨げとなることはありうるとしても、全く無関心で傍らを通り過ぎるよりは相互理解の上でも役立つ、少なくとも役立ちうるとは言えるだろう。

客観化ないし普遍化を志向する反省的な知というものは、否定されるべき要素を大いに含んでいるのは確かであるが、全否定の対象とはならない。




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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

小長谷有紀、シンジルト、中尾正義 編 『中国の環境政策 生態移民 緑の大地、内モンゴルの砂漠化を防げるか?』

 以上の事実からわかるように、西部大開発の「西部」とは、文字どおり地理的に「西」にある地域ではなく、東部との対置においては政治的には非中心、経済的には非農耕、文化的には非漢字(語)、民族的には非漢民族の住民あるいは彼らの居住地域を意味する。それゆえ、東部を中心としてみた場合、西部は「辺境」的であり、「異質」なものとなる。(p.17)


「西部大開発」には対象地域として重慶市や四川、貴州、雲南、チベット自治区、陝西省、甘粛省、青海省、寧夏回族自治区だけでなく、内モンゴル自治区、広西チワン族自治区のほか、湖北省や湖南省や吉林省の一部なども含まれていることを受けて、その対象地域の性格を規定している。



 たしかに、共和国成立以前の1947年に生まれた内モンゴル自治区は、中国が諸少数民族を国家に統合する過程で、民族統合のモデルとして起用されてきた。同様に現在進行中の国民統合の過程においても、内モンゴルは少数民族地域における国民統合のモデルとしての役割を果たすことが期待されており、その役を内モンゴル自治区政府は演じようとしている。(p.24)


「国民統合のモデル」という内モンゴルの位置付けは興味深いものがある。近々訪問しようと考えているところなので、こうした観点からも観察して来たいと思う。



「東部」の人びとの関心にあわせ、その不安を解消するかのように、これらの記事は、生態系を破壊した「遅れた」牧畜業がいかに廃止されており、牧畜民がいかに都市に定着しているか、それを成果として描写することに報道の重きをおいている。牧畜や牧畜民といった「異質」な存在が内モンゴル草原から減り、消えることが「東部」の基準に一致すること、「均質化」することを意味する。そういう意味で、内モンゴルは異質な「西部」が均質化されていく過程の新たなモデルとして位置づけられているといえよう。(p.25)


「生態移民」に関する内モンゴルに関する報道の関心・観点は「東部」からのものである。


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堀敏一 『中国通史 問題史としてみる』

 漢族・漢人の呼称は、民族意識の統一をある程度しめすものといえるかと思います。これにたいして統一的な国土の名称は、なかなか定まらなかったように思います。それは国土というものが、実際上は支配者王朝側の領域であって、それは政治的に伸縮するものであったからでしょう。例えば王朝を超越する「中国」の語の使われ方をみますと、それは本来真ん中の国、いわば“中つくに”を意味する言葉であって、西周時代には周の直轄地を指していました。春秋時代になると、諸夏の同類意識の成立にともなって、諸夏の国々のある中国北部のいわゆる「中原」地方を指すようになりました。したがって中国統一にともなって、その語は中国全体を指すようになりそうなものです。ところが中国の語は、ひきつづいて中原を指す用法が多いのです。それはこの語が依然“中つくに”という原義にそって使われたからでありましょう。こういう用法は清代にまでおこなわれていました。そうすると、中国の語が実際に全中国の呼称として確立するのは、近代になってからではないかと思いますが、この点は今後もうすこし考えてみる必要があります。(p.55)


「中国」の語がさす地理的範囲は歴史的に見ると、基本的には「中原」であって、現在の中国の領域を指すようになり、それが後半に使われるようになったのは100年前後の歴史しかない。



 こういうように漢人の先進的な知識・技術・労働力が、五胡諸政権には重要であったので、五胡諸国を統一した北魏は、建国初期に先進地域に住んでいた漢人の官吏・民衆や諸民族の人口36万、手工業技術者10万余人を都(平城、今の大同)の周囲に強制移住させたといわれます。このように先進地域からきた知識人が政治の顧問になり、また民衆が建設事業の労働力を提供するという構図は、やはりこのころから日本に移住してきた渡来人の役割と同じです。日本の渡来人も大陸の人口移動の余波であったわけです。(p.149)


このあたりの人口や技術、労働力の移動に関しては、以前、「雲崗石窟についての覚書」を書いたときにも触れたことがある。

このことは、日本の渡来人にも当てはまるわけだ。



 唐帝国が滅びると同時に、北アジア(内陸アジア世界の東方地域)にはキタイ(契丹)族によって建てられた遼国が生まれます(916年)。この遼は、中国史上の征服王朝とういうよりも前に、北アジア自体の歴史においても画期的な国家だったといえます。
 というのは、それ以前には匈奴からウイグルにいたるまで、いずれも部族連合的な国家であって、その君主権はそれほど絶対的な力をもっていたわけではありません。例えば突厥は興安嶺からイラン国境にいたる大領土を形成しましたが、その国家全体を統合する大可汗の下に、東面可汗・西面可汗がおり、さらに小可汗が各方面に割拠していて、しばしば大可汗位の継承をめぐって争っていました。だから隋の介入をうけると、簡単に国家が分裂し、大可汗の家が交替することになりました。それにくらべると、キタイ族も部族連合から出発しましたが、しだいに君主権を強化して、中国式の年号を建て、独自の文字をつくり、遼という中国式の国号をとるまでになりました。それはかれらの君主権が、中央集権的な中国の皇帝権力に比肩できるという自覚をもつようになったことをしめすものでしょう。
 キタイ族の国家がそれ以前とちがうもう一つの点は、以前の国家がいずれもモンゴル高原の中心部に位置したのにたいし、キタイ族はそれより東方、草原地帯の東端にあり、かれら自身は遊牧民でしたが、農業可能な地域にすぐ接していたことです。遼のつぎの金もやはり東北アジアでおこるのですが、なぜこのように勢力の中心地が東方に移ったかといえば、九世紀の中頃、ウイグルの国家が解体してから、モンゴル高原に強大な勢力がいなくなったからです。(p.258-259)


遼ではどうして中央集権的な権力を形勢・維持できたのか?

また、遼、金、清は草原地帯の東端のあたりから出てきたわけだが、この地政学的な位置付けはどのようになされるべきか?

以上の2点が私として解くべき課題となる。



 唐の三省や宋・元の中書省のように、省というのは元来中央官庁の名称で、現在の日本の中央政庁の名前もそれをついでいるのですが、中国では河北省・山東省・江蘇省などというように、地方行政区画を「省」とよんでいます。それは元朝が行省をおいた名残なのです。(p.274)


少しだけ疑問に思っていたことの理由がわかったのでメモしておく。



 琉球は明の初め山北・山南・中山の三国に分かれて、それぞれ明に入貢していましたが、十五世紀になって中山王に統一されました。中山王ははやくから明の冊封をうけ、中国から船舶・人材を供給されて中国貿易に従事し、明への朝貢回数は断然諸国を引き離していました。明は海禁政策を施いて以来、南海諸国の物産が思うように入手できませんでしたので、琉球は東南アジアと中国との間の有利な地の利を占めて、中継貿易で栄えたのです。
 明末には民間商人の貿易が許されて朝貢貿易は衰えるのですが、琉球の貿易は国営でしたから、明末まで一貫して朝貢を続けました。しかし中国商人が直接東南アジアに進出するようになりますと、琉球の中継貿易の利益は減少いたしました。そこへ日本の薩摩の軍が侵入して、琉球の服属を強いましたが、中国への服属をも認めましたので、琉球は次代の清朝にも朝貢を続けました。これは幕府も公認したのですが、日本は鎖国後もこれによって、琉球を介して中国商品を入手する便をえていました。中国との交易は長崎貿易だけではなかったのです。(p.320)


琉球の占めてきた中継貿易地としての役割には興味深いものがある。


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杉山正明 『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』(その3)

 ともなく、わたくしたちは、自力航行できる動力船が出現する19世紀なかば以前と以後とを、明確に「別世界」として考えなければならない。(p.223)


歴史を考えるにあたり、動力船の出現は大きな画期であることは間違いない。海での流通を特に重視する必要が生じるのも、この時期からだろう。もちろん、それ以前から海は流通の重要なルートだった(陶磁器などの流通を見ればよくわかる)が、その重要度が格段に上がったと見るべきであろう。



なお、フランスに帰ったルイは、中東で目にしたイスマーイール教団の堅固な山城に強い印象をうけ、たとえばカルカソンヌ城を大改修して、西欧に本格的な城郭要塞都市を生みだすことになる。(p.239-240)


西欧の様々な文化や技術はこの事例のように、中東からのインパクトによってもたらされているものが頗る多い。西欧にオリジナルなものを見つけることは、なかなか困難でさえある。



 ひるがえって、その大元ウルスは、「中華」という枠組みでいうならば、小さな中華から大きな中華への大転換をもたらした。(p.293)


中国の王朝の支配領域を見ていくと、意外と(?)「大きな中華」と呼べる範囲を治めた時期は短いことがわかる。唐、元、清以降が主にその時期だが、元は漢民族の主たる居住エリアを100年にも満たない期間しか治めていない。中国のエリアは広さの割に意外と人が居住できる場所は狭いのだが、そうした条件があるために、防御には適しているが外部には膨張しにくいという地理的な要因があるのかもしれない。また、朝貢など周辺諸国に対して自治を認めてきたことも、こうした要因と関連している面があるのかもしれない。



 1838年から42年の第一次アフガン戦争においては、一万を超えるイギリス侵攻軍をアフガン遊牧軍が全滅させるほどであった。ほぼ同時期のアヘン戦争において、イギリスは周知のようにダイチン・グルン側を簡単に屈服せしめる。かたや険阻な山岳戦、かたや圧倒的な戦力差のある海上戦が主だったとはいえ、アフガン軍の威力が知られる。19世紀にあっても、展開力と攻撃力にとむ遊牧騎馬軍団は、近代武装の歩兵軍と十二分に対抗できたのである。(p.319)


戦闘というのは、どのような場で行われるかということも重要であり、シチュエーションを抜きにして「純粋な強さ」を比較してもあまり意味はない。ただ、「かつては圧倒的に強力だった遊牧騎馬軍団も19世紀頃になると一方的に負けた」というような印象を持ってしまいがちであるが、それは誤りであることがわかる。


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杉山正明 『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』(その2)

 遊牧という生活技術・再生産の体系は、しばしば語られがちな「放浪」「さすらい」「根なし草」といった印象とは異なり、厳しいほどにシステマティックでダイナミックなものであった。(p.61)


このあたりについて、もう少し詳しく知りたいものである。ユーラシアの歴史を理解するために、これにかかわる知識は非常に重要であると思われる。



たとえば、ともすれば地中海域は11世紀以降、いわゆる十字軍の連続的な中東襲来によって交通・交流が活発となってきたかのようにいわれてきたが、それはほとんど純粋無垢な精神からの誤解・思い込みである。事実は、地中海は13世紀においてもなお、閉ざされた海に近く、組織的な航海はむずかしかった。(p.100-102)


やや強調しすぎの感もあるが、興味深い指摘ではある。どのようにそして、どの程度、開かれていたかという点について、もう少し理解を深めてみたいところ。



近年、中華人民共和国や台湾を中心に、鄭和の航海についての異常な高評価と莫迦げた空想が横行しているが、鄭和の航海それ自体はモンゴル時代の継続・遺産にすぎず、むしろこれを最後に、中華とアジア東方は組織化された海への展望を急速に失ってゆくことのほうが重大なのである。(p.103)


このように中国が海への進出をしなくなったことが、ヨーロッパ諸国が海を制することができた重要な要因となっていたということであろう。とすれば、北方の遊牧民の勢力は、結果的に、それを側面から支援したとも言えなくもない。



 ロシア人史家たちの愛国主義は、かなりはげしい。そして、おおむねはロシアのことだけを見つめがちであり、あまり他の要素・状況・データを気にしない。率直にいって、やや歴史的センスに欠ける。結果として、彼らの主張は、妥当さと説得力を欠くことが多い。
 とりわけ、根本的な問題として、後世のロシア年代記を鵜呑みにして、それを史料とするからである。最近、きわめて誠意にあふれた栗生沢猛夫の著作が正面からその点をきちんと分析したように、13世紀当時のルーシ年代記はきわめて数少なく、かつはモンゴルの破壊・虐殺もほとんど語らない。ところが、時代がくだるにしたがって、ルーシの被害はどんどん「立派」となり、モンゴルは、神がくだした天魔として巨大成長してゆく。そうすることに意味があり、そのほうが嬉しかったのである。
 ギリシア正教とロシア・ツァーリズムという名の創作であった。そうしたいわくつきのものをもって、根本史料だとしてルーシの不幸、モンゴルの悪逆を語るのが常道となってきたのであった。モンゴルは、ロシアを「遅らせた」張本人とされ、そのおそるべき災厄からロシアを救い出したツァーリ以下の権力者・宗教者は聖なる存在とされた。ロシア民衆にとって、モンゴルは一貫して悪魔であり、権力者にとってはみずからを正当化してくれる麻薬なのであった。
 ここにおいて、客観的な歴史像などは、はるかに遠い。知の虚構は、歴史の虚構であるとともに、政治的パワーや演出への仕掛けともなる。ロシア帝国以来、ソ連をへて現在にいたるまで、ロシアにとってモンゴルは愛国の炎を燃えさせる便利な手立てのひとつなのである。(p.163-164)


「愛国主義」的な歴史観にほぼ普遍的に見られる傾向を的確に指摘している。

例えば、中華人民共和国の現代の歴史も、ルーシに対してモンゴルが占める位置を、日本やヨーロッパ列強に置き換えると、かなり似ていることがわかるだろう。また、日本の右派による「自慰史観」でも、被害を与えたことを軽視し、植民地化した地域の人々の「利益」を強調しようとしたりするが、これはルーシに対してモンゴルが占める位置を「植民地化された現地の政府」に置き換えれば、かなり似ているといえよう。

こうした共通性は、引用文で「ロシアのことだけを見つめがちであり、あまり他の要素・状況・データを気にしない」と喝破されていることに起因する。愛国主義者たちは彼らが愛する「国」のことだけを見つめがちであり、他の要素・状況・データを気にしない、それどころか、都合の悪い要素・状況・データを意図的に隠滅・改変することすら行う。そうすることで、彼らが愛する「国」の権力者を正当化しようとし、そのために「敵」が必要となるため、同様のパターンが繰り返されるのであろう。



 ちなみに、1820年代といえば、かのドーソンの『モンゴル史』が刊行されて評判をとった時期であり、フランスをふくめた西欧列強が、いよいよ東方への本格的な拡大・侵略・植民に乗り出す矢先のことであった。このころのヨーロッパは学者も気宇壮大で、たとえばドイツの歴史学者ドロイゼンが1836年にいいだした「ヘレニズム」なる用語・着想は、哲学者の山内勝利によれば、ただ正統的なギリシア語あるいはそれを尊重することを意味していたが、はるかにそれを超越する歴史概念として巨大化した。だが、本来は、特殊な用例にもとづいた「誤用」に近いものだという。
 この手のことは、しばしばある。いったん、ある考え方やことばが普及・定着すると、当否をこえて、それを前提に話やイメージがつくられ、さらにしばしばより肥大化してゆく。この場合、とくにイル・ハン朝などといういい方は、イスラーム王朝史の脈絡にある王朝のひとつだとする思い込みがそこにある。だが、フレグ・ウルスはイスラーム王朝だったのか。
 すでに述べたように、フレグ・ウルス治下には、ネストリウス派やヤコブ派のキリスト教徒も、かなり広範に存在した。そもそも、当時のイラン地域やさらには中東が、見渡す限り一面の純然たるイスラーム世界であったなどということは、全くない。中東とイスラームとをそのまま重ね合わせるのは、近代主義といっていいが、近年ではそれも否定する考えさえ提出されている。まして、フレグ・ウルス君主をはじめ、この権力体の中核・主力をなす人たちのなかに、はたして真正のムスリムはどれほどいたのか。(p.214-215)


「事実」は言葉によって「作られる」。

さて、フレグ・ウルスはイスラーム王朝だったのかという問いに対して否定的に答えている件は、他の「イスラーム王朝」とされている王朝でも同様のことが言えてしまうように思われる。例えば、カイロのイスラーム化が完了したとされるのは14世紀だが、人々の宗教が何であったかを基準とするならば、それ以前のファーティマ朝やアイユーブ朝は「イスラーム王朝」ではなかったことになる。ただ、このようなhとびとの宗教がどうだったかによって王朝の性格を規定するという発想は、「国民国家」とこうした「王朝」とを同様のものとみなす前提に基づいており、問題があるように思われる。



モンゴルは、大カアンの帝都としてのカラ・コルム、大都、上都、中都(カイシャンのとき)、ジョチ・ウルスのふたつのサライ、そしてフレグ・ウルスのスルターニーヤと、新しい権力の象徴・政治装置を営むのを常とした。セルジュク、オスマンなどでは見られず、モンゴル以来の伝統として建築を好んだティムール、ムガルでも、まったくのさら地に帝都を零から新造することはなかった。(p.218)


更地に帝都を建設するというのは、あまり効率的なやり方とは思えないが、それはどのような発想や論理からなされたのか興味があるところである。

ちなみに、本書を読んで、スルターニーヤのオルジェイトゥ廟には是非行ってみたくなった。できれば数年のうちに久しぶりにイランに行きたいと考えている。



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杉山正明 『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』(その1)

 ひるがえって、1920年のいくらか前、そしてすこしく後、ユーラシアに存した幾つかの帝国があいついで消えうせた。(p.18)


モンゴルの大帝国が分裂した後、ユーラシアに幾つかの帝国の基礎が築かれ、それは紆余曲折をへながらも20世紀初頭まで存続したとされる。言われてみればそうかな、と思える指摘である。

ただ、モンゴルの影響を強調するあまり、イランの地におけるササン朝やアッバース朝、ビザンツ帝国などの位置づけが軽視されているようにも感じられる。モンゴル帝国以前にこれらの、比較的広大な地域を治める帝国が存在しており、そうした基礎がなくてはモンゴルの分裂後の幾つかの「まとまり」の形成も異なったものになっていただろうことは、もう少し強調されて然るべきではないかとも思う。

16-17世紀頃に萌芽が見られ、19世紀頃に急速に展開した「国民国家」の権力によって、古い時代から存続しており、モンゴル帝国の遺産を多かれ少なかれ引き継いだ諸「帝国」は、第一次世界大戦の頃を境として帝国としての存立が不可能となったという点は参考になるものを含んでいる。



 当たり前のことだが、世界史は海陸を問わずに展開した。時代を逐って重要性をます「海への視線」も大切だが、「陸での論理」も不可欠である。だが、たとえば、スキタイ・匈奴以来、歴史を貫く滔々たるユーラシア国家の伝統などはもとよりのこと、モンゴル時代とそれ以降のアフロ・ユーラシアの総合的把握についても、西欧中心主義の従来型歴史像は、しかるべき知識の集積、分析の視角、歴史の全体像への見通しなど、ほとんどを欠いている。つまるところ、西欧の拡大と、それによる「世界の統合」というゴールに落ち着かせればよしとする構造になっている。
 それは、今から100年ほど前に、ヨーロッパ、ことに西欧で体系化された枠組みにそのまま依拠しているからである。・・・(中略)・・・。
 もちろん、これでいいわけがない。だいいち、時と思考が19世紀末でとまっている。従来型は、20世紀になってからのことを「現代史」として別枠扱いにして、つぎ足した。「現代史」の部分は、各国の利害が錯綜し、なかなか世界史にならない。だから、なんとなくボンヤリと尻すぼみになる。つまり、歴史と現在がつながらない。
 ところが、「現代史」はもとより、「現在史」も、過去の歴史からの延長線上にある。それどころか、第一次大戦の終了より現在にいたるまでの約90年ほどの間についても、歴史の文脈はまさに生きている。たとえば、さきに触れた「帝国史」の流れは、依然として今もなお、滔々とつづいているかに見える。
 すなわち、ロシア帝国はソ連から現ロシア連邦に、オスマン帝国は現在も混沌たるままの中東に、ダイチン・グルン帝国は中華民国をへて現中華人民共和国に、ティムール・ムガル連続帝国は現インド、パキスタン、アフガニスタン、中央アジア諸国という不安定な枠組みに、そして「ドイツ国民による神聖ローマ帝国」は現ドイツさらにはEU全体に、それぞれ正負両方の影を濃密に落として、今という時代がつきすすんでいる。「帝国」めいたかたちを保持するもの、混迷のなかに大いなる変貌の可能性を秘めるもの――。いずれにしても「帝国の記憶」は、現在と今後への見逃せない動因でありつづけている。(p.28-29)


次第に台頭してきた「海洋史観」に対する批判を含むが、それ以上に、従来の西欧中心主義的な歴史観は、それがパラダイムとして確立した19世紀末で思考がとまっているという指摘は鋭い。「現代史」はそれに接木されて収まりが悪い点の指摘も納得。



のちに述べるように、イタリア半島を中心とするいわゆるルネサンスなるものの本格的な展開、そして14世紀になって急速に活発となる地中海交易と航海技術の進展とは、実はモンゴル帝国そのものからの直接の刺激もふくめて、この特別の時代環境と物心両面からの影響なくしては到底ありえないものであった。(p.32)


同意見である。モンゴル帝国による緩やかな政治的な統合が「13世紀世界システム」を実現させ、そのシステムの作用の副産物としてルネサンスなどの活動が生じたと見ることができる。



 また、中東にあっては、モンゴルによるアッバース朝の消滅と、それにともなうイスラームなるものの相対化はもちろんのこと、モンゴルのフレグ・ウルスが統轄する広義のイランをはじめ、現在のアゼルバイジャン、アフガニスタン、トゥルクメニスタン方面、およびそれ以東の地は、ペルシア語文化を主体とする「東方イスラーム圏」となり、モンゴルと対峙したマムルーク朝がおさえるエジプト以西がアラビア語文化の「西方イスラーム圏」となりゆく形勢がさだまった。いずれも、現在に通じる現象であり、さらにテュルク・モンゴル系の軍事権力が中核となって「イスラーム国家」なるものがつくられるパターンも、ここでゆるぎなくなった。(p.33)


マシュリクとマグレブの区分が、「順モンゴル」と「対モンゴル」のような位置づけで捉えられている。なかなか興味深い指摘。一考に値する。



 それでも、近年かつてとは格段にちがう水準とひろがりで、研究が急展開している。しばらく前であれば、当たりまえとされていた「大事実」が、いくらでも廃棄処分になっている。「新事実」の提出は、大実証・中実証・小実証いずれのレヴェルでもふんだんに見られる。率直にいって、牽引するのは日本である。世界史の根本にかかわる分野で、日本発の歴史像がスタンダードとなるのは、おそらくはじめてのことだろう。
 ただし、それが可能となったのは、政治・国境・史料の壁がとりはずされたここ20年あまりのことである。中国の開放政策、ソ連の崩壊、東欧の民主化をはじめ、ユーラシア中央域の相対的自由化、アフロ・ユーラシアのかなりな国々にみられる引き締めの緩和と政治的・歴史的タブーの減少、さらにはいわゆるボーダーレス化・グローバル化のプラス面として調査・研究・閲覧・交流などの便宜の良化といったことが挙げられる。ようするに、世界情勢の変化の賜物である。逆にいえば、そのくらいモンゴル帝国とその時代にかかわることについては、旧ソ連圏を筆頭に、嫌悪・禁忌・拒否の姿勢が色濃かった。そうしたことの根底には、作られた負の遺産としての虚構のイメージがあった。
 モンゴル帝国については、昔から中華文化人やムスリム知識人たちは悪口がふつうだった。それは、みずからを「文明」とし、他者を「野蛮」とする定型パターンにくわえ、自分たちはモンゴルの被害者であったといいたい気分がそうさせがちであった。事実においては、中華文化はモンゴル時代においてもっとも輝いた。また、イスラーム近代の低落と苦難は、自分たちのせいではなく、モンゴルの破壊のためだとする主張も、実はまったくの虚像・すりかえであることは明白となっている。自尊とさげすみによる「なぐさめの図式」は、人間社会によくあることであり、むしろ後世の歴史家・思想家などがこうした伝統的な言説を真にうけるほうが奇妙だろう。(p.36-37)


昨今の歴史学をめぐる状況について、モンゴル帝国とその時代の研究において、日本の歴史研究者たちがリードしているというのは興味深い。研究するための基礎的な素養としてのの語学の面で、欧米の研究者よりも有利な点は一つの要因だろう。

モンゴル帝国に対して作られてきたマイナスイメージに対する批判も、本書や最近のモンゴル帝国研究ではしばしば強調される。中東の美術史などの領域でも、「モンゴルによる破壊」が強調される文献にしばしば出会った事があるので、それらはどのように書き換えられるべきであるか興味があるところ。

また、ここで批判されている「なぐさめの図式」を、近年の日本における「歴史論議」で政治的に右寄りの人々が持ち出しており、その図式の観点から従来の現代史を「自虐史観」などと非難しているが、歴史学の領域ではヨーロッパやロシアなどでつくられた「なぐさめの図式」を批判している人が多い地域で、一般人や歴史学者ではない文筆家たちが積極的に「なぐさめの図式」(自慰史観)を主張しているというのは、皮肉なものがある。歴史学者たちには、素人による「なぐさめの図式」をもう少し正面から批判してほしいものである。

もちろん、右派たちの「なぐさめの図式」が知的には取り上げるに値する価値がないことは重々承知ではあり、そこにコミットすることが政治的な立場を表明することにも繋がるなど、阻害要因があることも理解できるが、それを乗り越える者がもう少し出てもよいのではないか。


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岡田英弘 『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』(その2)

 さて、ここで一つ断っておくことがある。いま、「ローマ皇帝」とか「ローマ帝国」とか言ったが、実はローマに皇帝がいたことはなく、従ってローマが帝国であったことは一度もなかったのである。
 いわゆる「ローマ帝国」の正式な名称は、ラテン語では「レース・プーブリカ」であって、「元老院と民衆の共有財産」を意味する。「レース・プーブリカ」は英語の「リパブリック」、フランス語の「レピュブリーク」の語源だが、この言葉が「王国」に対していわゆる「共和国」の意味になるのは、十八世紀末のフランス革命からあとのことである。
 またこの「レース・プーブリカ」に実力で君臨した「アウグストゥス」たちの資格は、正式には「元老院の筆頭議員」でしかない。元老院は中国にはなかったから、「アウグストゥス」を中国式に「皇帝」(光り輝く天の神)と訳すのは、完全な誤訳である。ローマの「プロウィンキア」(「属州」)には、元老院に属するものと、アウグストゥスに属するものとの二種類があった。この両方をひっくるめたものが「レース・プーブリカ」、いわゆるローマ「帝国」であった。
 日本語の「帝国」は、英語の「エンパイア」、フランス語の「アンピール」の訳語である。どちらもラテン語の「インペリウム」のなまりだが、「インペリウム」はラテン語では「命令権」の意味である。ローマ人の官吏は、その地位によってそれぞれ命令の及ぶ範囲がきまっており、これが「インペリウム」であった。つまりローマ「帝国」の中には、官職の数だけの「インペリウム」が存在した。この言葉が実際に「帝国」の意味に使われるようになったのは、十四世紀の初めのことで、しかも当時のドイツの神聖ローマ帝国を指した。
 また英語の「エンペラー」、フランス語の「アンプルール」は、日本語では「皇帝」と訳されるが、いずれもラテン語の「インペラートル」のなまりで、「命令する者」の意味である。しかしこの「インペラートル」は、ローマ時代にはアウグストゥスの称号ではなく、外敵に対して勝利を収めた将軍が部下から受ける非公式の称号で、将軍が「インペラートル」の称号を帯びるのは、ローマに帰って凱旋式を挙げるまでの間だけであった。
 そういうわけで、ローマ「帝国」とローマ「皇帝」はどちらも誤訳で、明治時代の日本人が、中国史の知識をあてはめて西洋史を理解しようとした苦心の産物ではあるが、こうした誤訳は、現在に至るまで、日本人の世界史の理解を誤るという、悪い影響を残している。(p.151-153)


各語の意味の歴史的変遷については、私には詮索するだけの力はないが、この叙述には一面の正しさはあるものの、著者が言葉遊びに耽っているようにも見える。

日本に「インペリウム」の派生語(エンパイア、アンピール)という語が入ってきた時点では、その派生語は「帝国」の意味に使われていたのだから、その時代の欧米の文献を訳すに当たって「帝国」の概念を用いることはあながち誤りとは言えないだろう。

それに「皇帝」は「光り輝く天の神」の意味だというが、過去も現在もそんな意味で「皇帝」の語を使っていたものがどれだけいたのか大いに疑問である。中国の「皇帝」を本当に「光り輝く天の神」だと思っていた臣下はどれだけいたのか?また、周辺の漢字を用いる文化圏で中国の王朝の「皇帝」を「光り輝く天の神」だと思っていた人々(特に政府高官)はどれだけいたのか?その意味では、そうした象徴的な意味が「皇帝」なる概念に含まれているということには一定の留意をすることが必要な場合もありうるにせよ、この概念を転用して王国とも共和国とも異なる比較的広大な領域に対する支配権(命令権)を有する君主を指すものとして利用すること自体はそれほど大きな問題があるとは思えない。

ただ、ローマ「皇帝」とされる「アウグストゥス」をそうした概念で一律に表記することの危険性を指摘している点は正しいと思われる。ただ、元老院と「アウグストゥス」との関係は、ここで著者がふれているような「筆頭議員」という位置づけがずっと続いたかどうかという点では大いに疑問がある。少し検索してみただけでも、ウィキペディアによれば「正当な皇帝を承認する機関へ、そして皇帝の諮問機関へと、段階的にその性格を変えていった」とされているのであって、元老院が諮問機関であって、「アウグストゥス」が専制的支配権を持っている状態であれば、現在の用語で言う「皇帝」を当てはめても特段の支障はないといってよかろう。ただ、その時点で「ローマ」に「皇帝」がいたかどうかは別問題だが。しかし、中東から見るとビザンツ帝国が存続していた地域――アナトリアなども含む――は「ルーム」と呼ばれたのであって、その意味ではやはり「ローマ」に「皇帝がいた」ということになろう。

個人的に興味を持ったのは、「レース・プーブリカ」の派生語の意味が18世紀末以降に「共和国」の意味になったこと(但し、「共和国」の「共和」などは古い中国の文献から持ってきたものであって、現在の「共和国」の「共和」とは意味は異なっていたはずであるが…)と、「インペリウム」の派生語が14世紀初め頃に「帝国」の意味になったことである。政治体制の変動によって概念の意味も変わったわけである。

モンゴルとの関係で言えば、14世紀初頭はモンゴルによる世界の統合が崩れてきた時期であり、世界各地のサブシステムが諸帝国によって緩やかに統合されて行った時期に該当するし、18世紀末のフランス革命以降は帝国とは異なる「国民国家」が本格的に成立していった時期に該当する。



そのジュシェン人の建てた金帝国の制度は、キタイ帝国の制度をほぼそのまま引き継いだものであった。ただし帝国の南部は、宋から奪い取った華北の中国人地帯で、この地域では商業が高度に発達していて、通貨の需要が大きかったので、新たな問題が起こった。それまでの通貨は銅貨であったが、金領に入った華北には銅の鉱山がなかったので、銅貨の鋳造ができず、流通の絶対量が常に不足した。そのため金帝国は、通貨供給の補助手段として、約束手形を大量に発行した。これが信用取引の慣行を促進する結果となり、信用を基礎とする資本主義経済の萌芽を生み出した。このことも、来るべきモンゴル帝国での商業の繁栄の原因となり、ひいては世界の経済の変化を決定することになるのである。(p.207)


世界経済の趨勢を捉える上でこの時期の変化は非常に重要である。



 これとは対照的に、1949年に成立した中華人民共和国は、清帝国の旧領土のすべてを支配している。例外は独立を保った外モンゴル(モンゴル国)だけである。なかでも、1950年に住民の意思を無視して、軍事力を使用して併合したチベットについては、中華人民共和国は、チベットは古来、中国の領土であったとして、領有権の合法性を主張している。その論拠は、元朝と清朝の時代に中国の一部であったからというのであるが、これは事実ではなく、論理としても成り立たない。元朝も清朝も、中国を支配した王朝ではあるが、中国の王朝ではない。その上、両王朝とも、チベットを直接統治したことは一度もなく、まして中国人にチベットを統治させたこともなかった。モンゴルのハーンも清朝の皇帝も、チベット仏教の保護者の立場を守り、チベットの内政に介入せず、チベット人の自治に委せていたのである。もし元朝時代の関係を引き合いに出すならば、現在のモンゴル国こそ、中華人民共和国に対して、中国を領有する権利を主張できる立場にあることになる。(p.231)


元朝も清朝も「中国の王朝」ではない、というのは、「漢民族が支配者であった王朝」ではない、という意味だろうか?筆者の言う「中国」という概念の意味がよくわからない。私の場合、「中国の王朝」というものを「中国」と呼ばれる大まかなエリアに支配的影響力を行使した王朝として理解し、その支配者がどのような「民族」であったかなどとは切り離して考えている――「民族」なる用語で指示される対象が、そもそも各時代にどのようなものだったかということも問題だが、どの地域にいた人々とのネットワークが強いと推定できるかを認識する際の標識としては活用できると考える――のだが、筆者はここで「中国」なる用語をどのように使っているのかよくわからない。まぁ、筆者としては、「中国」のエリアの外側から来た支配者が支配したという意味なのだろうが、実際に支配されていた人々の大部分が外から来たわけではない以上、「中国の王朝ではない」と言ったところで象徴的な意味しか持たないように思われる。

この著者はこのエントリーの最初の引用文のように、やたらと細かな用語の詮索をすることがある一方で、こうしたいい加減な用語法や、いい加減な用語法を使った非論理的なレトリックを随所で使っている点で信用に値しない。

例えば、インドには「歴史」がなかったなどと筆者は言うが、そういう場合に「歴史」を極めて狭い意味に解釈し、それをプロクルステスの寝台として利用し、中国と地中海世界以外に「歴史」がなかった、として「事実」を半ば強引に作り上げ、そこから筆者が望む結論を導き出すという論理にそれが端的に現れている。

チベットについては、中華人民共和国の支配のあり方は大いに問題であり、恐らくは政治的な安定等を考えればチベットは独立した方がよいのだろう。しかし、既に半世紀にわたる支配の中で相当に中華人民共和国側の一部としての側面も強まっているだろうから、そう単純には行かないだろう。その意味では今よりも「高度の自治」を得ることがチベットにとっては有益だろうが、中華人民共和国側からすればそれを認めるのは難しかろう。こうなると新疆ウィグル自治区の問題とも絡んでくるからであり、これらよりは安定した地域でさえ十分に社会が自由化されていないなかで「なんとかやっている」状態なのだから。


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岡田英弘 『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』(その1)

 「歴史」という言葉は、漢字で書いてはあるが、中国語起源のものではない。現代中国語で「歴史」(リーシー)というのは、日本語からの借用である。日本語の「歴史」は、英語の「ヒストリー」の訳語として明治時代に新たに作られた言葉で、それを1894~95年の日清戦争の後、日本で勉強した清国留学生たちが、中国に持ち帰ったのである。(p.82)


英語やドイツ語などの欧米から取り入れた概念の多くは、これと同じように日本から中国に入ったものが多いようだ。

いわゆる欧米列強は中国を目指して東の果てまで来ていたはずなのに、当の中国の人々は、欧米の世界で流通していた概念をあまり直接は取り入れていないというのは興味深い。その原因は何か?



 今のところ、夏国の遺跡や遺物と確認されるものは見つかっていないが、東南アジア系の文化を北方に持ち込んで、後世の中国文明のもっとも古い基層を作ったのは夏人で、南方から水路を舟で上って来て、舟の着いた河南の各所に都市を建てたのだろう。大洪水の伝説も、「卵」から生まれた「蛇」の国造りの物語も、最初の都市国家が、水と竜に関係の深い、東南アジア系の人々(東夷)の建設したものであったことを示している。(p.90)


筆者によると、長江より南の川は「江」と呼ばれるが、これはタイ語であり、また、南方の中国人の言語にはタイ語の痕跡があるという。

中国の南方と東南アジアの地域に住む人々は、古代から深い関係があったということ。



 以上の「殷本紀」の物語から見ると、殷人が北方の狩猟民(北夷)の出身であることは疑いない。女神が野外の水浴の場で、天から降りてきた鳥の卵を呑んで妊娠し、男の子を産むというのは、北アジアの狩猟民や遊牧民に共通の始祖伝説の型である。女神の名前も狩猟民を意味する簡狄である。殷が実在した都市国家であったことは確かであるが、恐らくモンゴル高原から山西高原を通って南下して、河南の夏国を征服したのであろう。(p.91)


神話や伝承には共通のパターンがあるということから、人間集団の関係を推定するのは興味深い方法。



 しかし司馬遷の主張とは裏腹に、『史記』自体の叙述を素直に読めば、五帝は神々としか思えないし、最古の王朝になっている夏は、東南アジア系の文化を持った「東夷」であり、その夏を征服した殷は東北アジア系の狩猟民「北狄」であり、殷を征服した周は北アジア系の遊牧民「西戎」であり、その周を征服した秦も同じく西戎である。つまり、前221年の秦の始皇帝による「天下」の統一以前には、中国と呼べるような世界がまだなかったばかりか、中国人と呼べるような民族も、まだなかったことになる。(p.96)


秦による「天下」の統一があっても、「中国人」と呼べるような「民族」が登場するわけではない。支配層がどの地域やどのような文化圏の出自であるかということと、その支配者達に支配される側の人々が同一の出自をもつと考える必要は全くないし、一つのグループをなしていると見る必然性すら全くない。



 この「正統」の観念のもう一つの表れは、時間の数え方である。君主の在位年数を基準にして年を名付ける年紀法では、即位の年(即位称元)、もしくはその翌年(踰年称元)を元年とするが、これは君主が時間の支配者であることを示す。(p.99)


元号にはこうした象徴的な意味が付されているのか。







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愛宕松男、寺田隆信 『モンゴルと大明帝国』

 分裂時代を通じて北朝側に進行した、このような南朝との違和状態は、元朝90年の統一期間では、とても匡正し回復させることは無理であった。ことに元朝そのものが漢人王朝ならぬ征服王朝だとすれば、なおさらのことであろう。こうして元朝には、統一王朝とはいいながら、統一に消化され尽くさない二つの形態、江北と江南が底流として存在しつづけていた。それは、統一と分裂の抱合体とでも称しえられようが、要するに、総体としての不統一の名を免れえないものなのである。
 元朝が歴代中国王朝に伍して、もっとも特異な存在であった理由は実にここにある。したがって、宋明間に位する元朝の役割は、統一王朝という外観によるものではなくて、どうしても払拭しきれない南北朝の延長という実質に即して見きわめられなければならない。(p.61-62)


南と北に違いがあることについてはよく指摘されるが、元代などは制度的にも大きく違っていたようだ。



 政治権力に支えられた旺盛な購買力をもって一大消費地として栄えた畿内(腹裏)と、産業の開発、豊饒な物資を背景とする経済力によって栄えた江南とにはさまれて、こういった貧弱な河南行省が介在していたという不均整は、統一国家としての元朝にとって重大な欠陥をなしていたことは疑いない。河南行省それ自体という局地的立場からしても、このような経済的独立性の弱い官佃戸の多数を擁していたことは、つねに社会的不安定を内在させていたことを意味する。この事情は、元末の動乱にさいして、この河南行省がまっさきにその舞台となるところに遺憾なく露呈されることであろう。(p.194)


元朝というものをやや19世紀的な「国民国家」の観念に近いものとして捉えすぎではないかというきらいはあるものの、モンゴルが統治した「グローバル化」が進展したこの時代にも、経済的な格差が拡大したのだとすれば興味深い。



 「後期倭寇」が活躍した十六世紀の中期は、ちょうど、スペイン、ポルトガルなどのヨーロッパ勢力が、中国沿海にあらわれた時期にあたっている。倭寇が武装をともなう密貿易業者であるとすれば、ヨーロッパ商人の登場によって、国際貿易の気運はいっそうたかまり、その構造もより多彩なものとなったのは疑いない。倭寇の終息と明朝の「海禁」解除以後、東アジア海域は、各国商人が入り乱れて活躍する国際貿易の舞台となった。(p.379)


興味深い指摘。この背景要因としては何があるだろうか?



 当時の商人は、遠隔地間の交易に従事する「客商」と、地元商人である「土商」、店舗商人である「座賈」に大別されるが、概して客商に大商人が多かった。この間にあって、商業界に君臨したのが、「山西商人」および「新安商人」とよばれるグループである。前者は山西省出身の商人をさし、後者は安徽の徽州府(新安は旧名)出身の商人をいうが、ちょうど、日本で「近江商人」などというのと同じ呼称である。かれらのうち、大商人と認められるものは五十万~百万両の資金をもち、中商人でも三十万~四十万両を所有していたといわれている。
 山西商人が大をなした事情については、北防問題と密接な関係がある。すなわち、明朝は、北辺の軍事的消費をまかなうため屯田をもうけて糧食を自給させるとともに、開中法を実施した。開中法とは、商人に米を運ばせ、その代償に塩の販売権をあたえる方法であるが、故郷山西が辺境に近かったから、地の利をえていたかれらは、米穀商と塩商をかねて活躍し、巨富をえたのである。塩は国家の専売品であり、莫大な利益が保証されていた。(p.436)


当時というのは、明代で銀を主力とする貨幣経済が発達してきた時期であるから、15世紀後半から16世紀頃だろうか。

商人の3つの区別は、中央アジアや中東のいわゆるシルクロードの交易を行った商人たちの区分と似ているように思われ興味深い。

山西商人と新安商人が繁栄していたというのも、今からすると少し不思議な感じを受けるが、山西商人については納得のできる説明がなされている。新安商人は客商が多く、それが塩商などになったと説明されているが、なぜあの地域に客商が多かったのかという説明が欲しい。大運河の南端という位置が大きいのかもしれない。

これらの商人の繁栄ぶりは、世界遺産になっている平遙古城や同じく世界遺産になっている安徽古民居群に行けば目にすることができる。ある意味では、政府の政策や北方の脅威という状況があったために栄えたからこそ、政策や状況が変わると歴史の流れから置き去りにされたような格好になり、その遺構(?)を見ることができるわけだ。



 このように、明代における商人の活動は、その中期=十五世紀以来、きわめて活発であったが、大商人の多くは、政府と結んだ政商であった。塩商がその典型である。当時、最大の消費者は政府であり、国家はまた、税役の銀納をつうじて、最大の銀の所有者でもあったので、これと結んで利権を獲得することは、致富の最良の方法であった。したがって、かれらは同郷の団結を重んずるとともに、子弟を官界に送ったり、みずから官職を買うことによって、立場を有利なものとするのに熱心であった。高級官僚のなかに商人の子弟が多いのは、明代の特徴である。(p.437)


政商が大きな力を持つというのは、恐らく普遍的な現象ではなかろうか。もちろん、それの程度は時代や地域などによって異なっていただろうが。



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