アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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鈴木謙介 『サブカル・ニッポンの新自由主義――既得権批判が若者を追い込む』(その1)

 要するに、昨今の自民党政治に対する批判には「改革を止めろ」というものと「もっと改革せよ」というものが相乗りしているのである。注意しなければならないのは、主張の内容は全く反対方向を向いているにもかかわらず、両者が同じ対象を批判しているということだ。なぜそのようなことが可能になるのか。それは、いずれの立場も、より平等な社会を作るために、現在の状況を批判せねばならないと考えているからだ。

既得権批判の構造

 なぜ矛盾する二つの主張が、同じ同期に基づいて、同じ対象を批判できるのだろうか。そのことを理解するためには、なぜ小泉改革が必要とされ、支持されたのかを思い起こさなければならない。彼が「抵抗勢力」と呼んだのは、改革に反対するすべての勢力であり、具体的には郵政関連団体や公務員、族議員、野党などがそこに含まれていた。彼らが有している既得権を解放することで、国民の下にその利権を回すことができる、というのが、そこでの主張の中心だったのだ。
 ・・・(中略)・・・。
 既得権批判の中心には、景気が停滞し、多くの人々が苦しい状況に置かれているにもかかわらず、以前と変わらない立場を守られている人々がいることへの不満がある。彼らが不当に保持している権益を、国民の下に還元しなければならない。そうした認識に基づいて、一連の「改革」は支持されていたのだった。
 ・・・(中略)・・・。
 そのため、ロジックとしての「既得権批判」は、自らが不利益を被っているのは、不当に権益を保持している人間がいるせいだ、と言えばあらゆる場面で成立することになる。(p.18-20、本文傍点部は下線を付した)


同意見である。

「既得権」に対する非難という点で、「反新自由主義≒左派・リベラル」的な立論も、新自由主義≒経済右派・市場原理主義」的な立論も共通している。私見では両者が間違っているのは、①「既得権」をもっているとされている人々が本当に「既得権」と呼べるものをもっているのかどうかが疑問である場合が多いこと、②「既得権」を持っている人々からその利権を奪いとった場合、それが他の人々により平等に分配されるという保障はない――むしろ、「既得権」を持つ者が変わるだけであり、その際、一般的に言って、既に有利な立場にいる者ほど「解放された既得権」から多くの権益を得られる(ゆえに、行使可能な権力・利権にマタイ効果[富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる]が働いてしまう)――のに、両者はいずれもそれを見据えていないということ、であると考える。

特に二点目(「利権」が解放された場合、その「利権」は平等に分配されることはなく、政治的・経済的・社会的な権力に富む者をますます富ませること)は、極めて当然の認識だと考えるが、それが世間の常識になっていない面が強い。

「利権」が解放された場合、その「利権」は平等に分配されることはなく、政治的・経済的・社会的な権力に富む者をますます富ませる(※)ということは、冷静に考えれば(客観的に、ないしメタ認知を働かせて考えれば)大抵の人には理解できることだと思われるが、「多くの人々が苦しい状況に置かれているにもかかわらず、以前と変わらない立場を守られている人々がいることへの不満」というネガティブな情念によって駆動されているため、「(自分たちのおかれた状態をよくすることではなく)他人の足を引っ張ること」というネガティブな言動として発露してしまうためだと言えよう。

※ 複雑ネットワーク研究の用語を用いれば、既得権を非難する「反新自由主義型」の議論も「新自由主義型」の議論も、いずれも各ノードが平等にリンクを張るランダムグラフのような関係を前提した上で、それぞれの「平等」を理想としていると言える。しかし、人間の社会は、ランダムグラフよりもスモールワールドやスケールフリーなどの特性を持つネットワークが多く存在しているとすれば、人間社会におけるノード(個人)がランダムネグラフのようなつながり方になる可能性は限りなく低いと見做さざるを得ないのではないか、と私は考える。(なお、両者の論者が「ランダムグラフ」を想定しない場合でも、それに類するものが暗に前提されていると私には思われる。)




「既得権」を問題視し、非難する議論は、「既得権」を持つとみなされる人々の足を引っ張ろうとすることによって「より平等」な社会を主観的には目指すものだが、客観的にはより不平等な社会を実現していく、という構図がそこには存在する。それはリベラルや左派の議論であっても同じであり、この種の「既得権」非難のうち、悪質なものの筆頭は「公務員バッシング」や「増税しても『政官財癒着』のために浪費されて『国民』には還元されないから増税に反対だ(その前に徹底的な歳出削減ないし「無駄」の削減が必要だ)」とする類の「増税忌避論」ないし「無駄をなくせ論」である。(だからこそ、私は論理的に見れば「カス」としか言えない程度の議論であっても、しばしばメインブログなどで取り上げて批判を行ってきたつもりである。)



さて、話は変わるが、上記の引用文を読んだ際、私にとって明確になった点は「ロジックとしての「既得権批判」は、自らが不利益を被っているのは、不当に権益を保持している人間がいるせいだ、と言えばあらゆる場面で成立する」という指摘である。

そして、この点から見ると、「既得権批判」は、いわゆる「陰謀論」と同型の議論だということになるということである。いわゆる陰謀論との違いは、意図的に「悪」を働いている人がいるとみなされるか、結果的に(意図に関わらない状態として)「悪」をなしている人がいるとみなされるか、という違いにすぎない。いずれも「悪者」さえ設定してしまえば常に成り立つ「形而上学的研究プログラム(metaphysicl research program)」であると言って差し支えないだろう。



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ディオゲネス・ラエルティオス 『ギリシア哲学者列伝(中)』

また、彼はしばしば、しかも非難の調子をこめて、「アテナイ人は小麦と法律を発見したが、小麦は使用しているのに、法律は使用していないと言ったものだった。(p.26)


第5巻第1章 アリストテレス より。

「法律を使う」というのは、非常に重要な観点である。



 弟子の一人があるとき彼に向かって、ノートをなくしてしまったと泣きごとを言ったら、「紙の上にではなく、心のなかにそれらを書きとめておくべきだったのだ」と彼は言った。
 鉄は錆によって腐食されるが、それと同じように、嫉妬深い人は、自分自身の性格によって蝕まれるのだと彼はよく言っていた。(p.112-113)


第6巻第1章 アンティステネス より。

このブログはまさに、「ノート」みたいなものなんだが、これが消えてしまっても良いように、心のなかに書きとめなければならないと思わされる。しかし、それをすべてについて行うことは不可能であり、その意味でこうしたメモ(ノート)も役立つ部分がある。時期ごとの自分の考え方の変遷をたどるということもできる。しかし、「書かれたもの」よりも、「書くために必要な思い」の方が多くの場合に重要であり、言うなれば上位にある。その意味で、アンティステネスの言葉は妥当だと思われる。

第二の文は譬えとしても面白いが、自分自身の性格によって自分自身が蝕まれることがあることについて鋭い指摘を行っている。実際、心の病に罹っている人などと接すると、こうしたことが起こっているということを感じることが多い。



 金銭への愛はあらゆる禍の母国であると彼は言った。(p.151)


第6巻第2章 ディオゲネス より。

うまいことを言うもんだ。






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陣内秀信 『東京の空間人類学』(その2)

 江戸時代に描かれた名所図会や浮世絵を見ると、<景>を巧みに修めるということが日本人独特の才覚としてはっきり現れているように思われる。そのなかで建物の占める役割を考えるならば、建物一棟だけがシンボリックに描かれるといことはほとんどなく、むしろそのまわりの町並みや自然的な要素、例えば都市部では掘割、海などの水面、ちょっと郊外に行くと山並み、丘、雑木林などといっしょになって、まわりの複合的な環境とともに建築の存在もとらえられている。全体としての景を巧みに一つの構図に収め、まとまりのある世界が描かれている。近代的な意味での建築家という存在もそこにはなく、建築も環境を構成していくおさまりのいい存在だったと思われる。それに対し、明治の名所案内には、文明開化のシンボルである大きな建物そのものを堂々と描いているものが多い。文明開化の好奇心をそそる存在として、公共建築、学校建築、さまざまな世俗建築が、こんどは都市の名所になった。つまり社寺や水辺の盛り場にかわって近代建築が名所になったのである。建築自体が市民に愛着をもたれ、絵の主要なテーマにもなってきたのである。
 だが一方で、景を修めるなかで建物をつくるという伝統的な意識は次第に失われていくことになった。巨視的に見るならば、現代東京の個々にはすぐれた建築も少なくないが、都市全体としてはちぐはぐで何ともまとまりがないというアンバランスな状況も、実はこの明治初期の動きのなかにすでに先取りされていたようにさえ思える。(p.207-208)


興味深い対比。中国の山水画なども<景>を修めるというパターンに該当するように思われる。



 これらの傑出した城郭風の塔屋に次いで、明治の東京には西欧から輸入した時計を用いて、数多くの<時計塔>が登場した。初田亨氏の指摘するように、前述の城郭風の塔屋をもつ建物はむしろ物見としての性格をもったのに対し、これらの時計塔は「天にたなびく」上昇性の強い、下から仰ぎみる、より西欧的な塔の性格を確かにもっていた。しかし、建物全体の中での塔のとりつき方、あるいは都市の中での塔の配置などからすると、いかにも異文化の要素を別の文脈のなかに移し植えたときに生まれる独自なデザイン、空間構成を生み出したのである。
 当時の時計塔は、その用いられ方、配置構成などから次の二つに大別できる。まず、軍事施設、官庁、大学、学校など、公共的建築にしばしば時計塔が用いられた。前田愛氏はその理由として、兵営と学校と官庁とが、明治のもっとも早い段階で定時法にそくした規律を要請された社会集団であったことをあげている。だが西欧都市でも、中世以来、鐘楼や時計塔をもち市民に時を告げるのはもっぱらこれらの公共建造物に集中していたのであって、明治の東京でもまずこういった建物に時計塔が多用されたのはごく自然だった。(p.210-211)


確かに古い公共建築には時計塔があるものが結構ある。札幌で言えば、北大農学部にもあったし、札幌の時計台などもこうした時計塔の一つなのではないだろうか。

こうした知識を沢山持っていると街歩きが楽しくなりそうだ。

ちなみに、明治時代の時計塔のもう一つのタイプは、町人地の流れを汲む市街地の民間の建物に登場したもので、その多くは店の宣伝のために塔を載せた時計屋であった。



 このような近代の屋敷構えをもつ公共建築の考え方は、役所ばかりか大学にも全く同様に導入された。<門>から伸びる<軸線>の上に<左右対称>の建物を置く、という明快で象徴的な構成は、神田錦町に登場した学習院(図89)や本郷の東大医学部をはじめ、大学建築を設計する上での定石となった。そして立身出世の象徴として学校建築によく使われた時計塔がここでも中央に晴れがましくそびえ、モニュメンタルな構成をいっそう効果的なものにしている。しかし、すでに見たように、こうして登場した<時計塔>は、都市の公共空間に開かれたシンボルとして立つ西欧のそれとは全く異なり、東京では個々の敷地の奥に独立して置かれるという形をとり、自己完結的な性格を強くもっていたのである。それだけいっそう、おごそかで格調の高い雰囲気を生み出していたともいえよう。
 ・・・(中略)・・・。
 また、人力車そして馬車によるアプローチのための馬車回し(ロータリー)が門と玄関の間に置かれるようになると、軸線の視覚的効果は弱まることになったが、そこに植えられた樹木の奥に建物の正面が見え隠れするといった構図は、日本人の感覚にはむしろふさわしいものだったと思われる。(p.240-245)


ここで大学建築の定石とされている構成は、見事なまでに上述の北海道大学の正門から農学部に至る部分の構成と一致している。正門と農学部の間にロータリーがあり、ロータリーから農学部の間には道の両端に並木があるのである。



 明治の国家のデザインから大正・昭和初期の市民のための町づくりへと変遷するなかで、都市のシンボリックな空間として注目されたのが<広場>であった。すでに述べたように大正年間に西欧の広場の考え方が紹介され、日本の都市においてもその必要性が説かれていた。
 実際の都市のなかに定着したのは震災復興事業においてであった。しかし、いわゆる西欧都市にみられるような象徴的な広場は結局のところ日本には実現せず、もっぱら「交通広場」の範疇に入るものが東京に登場することになったのである。まずその第一が橋詰広場であった。
 しかし大正・昭和初期は、東京にとって、都市構造や交通の体系の上でのまさに過渡期にあたっていた。市電、自動車、乗合バス、そして鉄道の発達によって<水>から<陸>への転換がおこり、都市空間のあり方に大きな影響を与えたのである。こうして、水に面した橋詰ばかりか、陸の側にも新しい町の顔となる都市空間が生まれた。それがすなわち「交差点広場」である。(p.273)


大変興味深い指摘。これもまた、町歩きを楽しくする知識だといえる。



 都市論、とりわけ、東京論が広く論じられるようになったのは、70年代から80年代にかけて、いわゆるポスト・モダンと呼ばれる時代になってからである。国家論やイデオロギー論が次第に力を失ってきたことと対応している。都市や東京といった新しい概念のほうが、現代社会や現代生活を考えるときに、有効になってきたのである。(p.324)


これは河本三郎氏による文庫版への解説からの引用である。

このあたりの関係はさらに深く考えてみたいところである。


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陣内秀信 『東京の空間人類学』(その1)

 そもそもヨーロッパ都市と比べると、江戸では宗教施設の立地の仕方そのものが正反対の性格を示していた。ヨーロッパでは、都市全体の宗教上の中心、カテドラルが大きな広場の頭の位置に堂々とそびえている。また、各教区の教会は宗教施設であるばかりか、住民の戸籍の管理、税金の徴収といった、ちょうど今日の役場と税務署をあわせたような機能をも兼ね備え、住民の日常生活の中心である広場の一画にたっている。いずれも、厚い壁と一枚の扉で隔てるだけで、市街地の俗の場のなかに聖なる空間を創り出している。またギルドや職人組合も、しばしばその守護聖人をもち、宗教的絆で結ばれていた。こうして日常的な都市社会を組み立てていく上で、宗教が非常に重要な役割を果たしてきた。
 ・・・(中略)・・・。
 江戸ではむしろ、宗教的な空間は、都市の少し外側、ふだんの商業活動、生産活動の地、あるいは居住内の少し外側につくられたという傾向がある。多くの宗教空間は市民の日常の生活の場からは離れ、他界と結びつく聖なるイメージをもった場所を慎重に選びながら、市街地から奥まった丘陵の緑や水辺に寄りそって登場したのである。そこに至るまでのアプローチ、そして静寂に包まれた荘厳な境内がこうした宗教空間を成り立たせる上で重要な意味をもつのはいうまでもない。このことを通じて、ヨーロッパと比べると、むしろ非日常的な、ハレの空間という色彩が日本の宗教空間には生まれてくる。日常の生活空間とそれ以外の非日常的なものとの切換えが、意識の上でも、都市の空間あるいは地理的な場所の分布の上でも表現されているのではないかと思われる。(p.129-131)


この対比は、職業的な聖職者がどの程度の権力を持っていたかということと深く関わっている。ヨーロッパの場合は、官僚制が聖職者階層によって担われてきた期間が長かったことが反映している。日本の場合は、聖職者の権力は相対的に抑えられていた。

それはさておき、非日常的な空間としての性格を生み出す装置として、そこに至るまでのアプローチがあげられているのは興味深い。私はある程度世界を旅するようになって以降は、まだ日本の寺院などをそれほど見ていないが、境内地図などで見る限り、確かに寺や神社にはそこに至るまでの道がそれなりの距離続いていることが多いように思われる。近々、そうしたものを見てこようと思っているので、注意してみてみたい。



 しかし一方で、現代の都市は容赦なく発展し、冷酷な改造を次々と企てる。街区の中にもはやすき間や裏を残さず大きな建造物ですっぽりおおってしまう。本来の町といえば、店と住まいが複合した町屋が並び、そこには渾然一体となった環境が見られたのだが、都市改造でまず商業ビルへ、そしてスマートなオフィスビルへと置換されるのである。こうなると都市の猥雑な空間はついに地上から姿を消さざるをえない。商店、飲食店、風俗的要素は行き場を失い、結局地下へもぐることになる。こうして都市の地上と地下とで、明快な機能の分離が貫徹し、日本独特の<地下街>が誕生するのである。
 これは確かに、車優先、機能・効率のあくなき追求の結果生まれたゆがめられた都市文明の一つの断面であり、都市における人間の側の屈服を象徴的に示すものに違いない。だが見方を変えれば、これほど見事に近代化した都市の中枢にも、隠れた地下に臓腑空間を組み込み、地上の管理された業務空間に、混沌とした深層の世界から常に生命のエキスを供給して、人間集団の知と情のバランスを巧みにとっている、とも考えられる。(p.194-195)


「地下街」が成立するまでのプロセス。



 ヨーロッパでは人間の力で都市を築こうという意識がたいへん強い。・・・(中略)・・・。
 したがって、ヨーロッパ都市をいま観光で巡ってみても、コースに含まれる名所はどれも、カテドラルや美術館、広場のような人間がつくった建築物ばかりである。(p.196-197)


意識が原因かどうかということについては批判すべき点があるが、ヨーロッパ都市の名所は人間が作った建築物ばかりだというのはその通りであると思う。

もっとも、都市の名所というのは、ヨーロッパに限らず人間が作ったものが多いのは当然だろうが、ヨーロッパでは名所は都市に多いと思う。山や滝や川や海などの自然景観もあるにしても、他の地域の方がそうしたものが多い傾向はあると思う。例えば、中国などでは桂林や石林などのカルスト地形がつくる奇観や聖なる山とされるような山などの観光名所もかなり多いが、ヨーロッパはそうしたものが相対的に少ないように思われる。

そうした印象を持つのは私だけではないらしい。



西欧都市では、狭く絞られた道から町の中心の<広場>に流れこむ時、まばゆいほどにはなやかな解放感を体験できる。(p.202)


陣内さんは描写がうまい。ヨーロッパの都市において多くの人がする経験を見事に表現していると思う。




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茂木健一郎 『思考の補助線』(その2)

一方、「仮想」は、異なる感覚のモダリティにまたがる一致を持たない。目を閉じて、創造の世界のさまざまなイメージを楽しむことはできるが、それらの空想の世界の住人は、複数のモダリティの合致によっては支えられていない。むしろ、そのような一貫性が見られないからこそ、仮想は自由なダイナミクスを持つことができるのである。
 「仮想の自由」の中に、高度な文化を生み出す人間の精神の可能性も、またときに悲劇をもたらす脆弱さもある。そう考えれば、仮想と現実の交錯に緊張感を持って向かい合わなければならないのは、何も青少年だけではない。自らは「現実」という「安全圏」にいると思いこんでしまうことは、人間らしい生命の躍動から離れてしまう精神の惰眠への道である。(p.90)


「仮想」と「現実」についてよく言われる「現実」の立場からの「仮想」への非難に対する批判。



 「差別」や「平等」という言い方は、一種の序列構造を前提にしている。・・・(中略)・・・。
 「差異は上下という関係に写像される」という世界観の下では、できるだけその差異を隠蔽して、均質なものとみなそうという動機づけが生まれる。そこに立ち現れるのは、世界がお互いに比較などできない多様なものによって構成されているという豊潤さへの感謝ではなく、むしろすべてを中央集権的に価値づけようという「神の視点」につながる野望である。・・・(中略)・・・。
 差別語とされる言葉をことさらに使う人は品性下劣であるが(特に相手が嫌がる場合には、あえてそのような言葉を使う必要はないと思う)、その一方で思想警察のごとき極端な「差別語狩り」には、以前から違和感を持っていた。その根本的な理由は、以上述べたような、差異をことさらに隠蔽しようとする思想の背後にある、画一的なメンタリティにある。(p.98-102)


これはどちらかというと左派やリベラルの側に対する批判だと言えよう。

茂木の言うように、「差別」や「平等」の概念には比較可能性が前提されているから、当然、ある基準に基づく序列構造を前提している。「差別語」が「差別語」である限りは、「差別」があることを前提とするから、序列構造を前提せざるを得ない。

その上で茂木の議論に対して一つの可能性を提示するとすれば、ここで「差別語狩り」と呼ばれている差別語批判をしている論者は、「差別語」を「差別語」としては考えていないとしても、社会的な通念としては一般にそこで前提される序列が想像されていると想定でき、差別語を用いることによってその差別が正当化されるようなことになれば、社会的に望ましくない効果が生じると考えられる場合に批判が行われるということは十分ありうる話であって、その場合の批判者のメンタリティは茂木が言う「画一的なメンタリティ」とは異なっていると思われる。

まぁ、茂木が言っているのは「極端な」ものについてだから、そうした人には確かに「画一的なメンタリティ」がこびりついている傾向があるとは思うが、むしろ、そうしたメンタリティないし価値観から脱け出そうとして格闘している最中の人が、比較的極端な「差別語狩り」をする傾向があるように思われる。それはその人自身が頭の中で常に格闘している敵であるため、他の人からその言葉が発せられた場合に、自分の頭の中での闘争を自分の外にも持ち出してしまうからであると思われる。

例えば、私の友人でナショナリズム批判に目覚めた人がいたが、彼は自分自身の中にあるナショナリズムやファシズム的な価値観を否定する闘争をしている間、「国家」とか強権的な政治手法などに対して過激なまでに強く反応して批判していたという事例がある。



しかし、思想運動を、それにまつわる心情においてとらえたとき、特に日本においては、いわゆる「ポスト・モダン」という言葉でくくられた言説には、「どうせ全体など引き受けられない」という事態を前にした、ヤケクソの気分が強かったのではないか。フザケ、フマジメ、脱構築という心の動きは、スパイスとしてはどんな思考者にも必要なことではあるが、それをメインディッシュにされてしまったのではたまったものではないと感じるのは、私だけだろうか。(p.152)


ポストモダンと言われる思想にはどこか浮き足立ったところがあった。しばしば、それはバブル経済との相関が言われたりもする。そうした側面はあっただろうが、60年代頃までの学問に存在した、比較的確固としたパラダイムが次々と崩れていったことに対して、どのように対処してよいのか分からないという茫然自失状態を背景として、新たなパラダイムを探すために知見よりも、華やかな言葉を探してしまった、それに出版業界や論文書きのような人たちがひきつけられたという面が大きいのではないだろうか。もちろん、こうして出版業界などが乗ってくる背景には経済の好調さというものはあっただろうが。

茂木の言うヤケクソの気分は、知見ではなく言葉を探してしまったということを心理的に解釈するとかなり近いところを突いたことになるような気がする。




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茂木健一郎 『思考の補助線』(その1)

「知る」ということが実にやっかいだからこそ、真理を熱心に探究する気持ちも強くなる。自分の志望する大学に入ったくらいで知の探求をやめてしまうような人は、もともと情熱の総量が足りない。本当に知るということの恐ろしさを知っている人は、無限を前にただ呆然とたたずむしかない。
 「理系」「文系」などというくだらない腑分けにこだわっているうちはまだ、情熱の程度が低い。そもそも、学部で卒業したとして、長い生涯のうちたった四年間に何をしたかということだけで、自分の一生の知的志向性が決まるとでもいうのか。学生時代に専門性を突きつめることは大事である。しかし、大学の四年間でやらなかったことがあるのだとしたら、卒業してから勝手にやればいいだけの話であろう。(p.12)


このあたりの感覚は、一般人のものというより大学人のものだと思う。「知のデフレ」に対して怒りを抱くという感覚を、会社に勤めたりしている人たちはそれほど持たないだろう。

ただ、学生などを相手にしていると、こうした思いが脳裏を何度も行き交うのはわかる気がする。そして、情熱を燃やして生きようとしている人から見ると、「学」とか「知」ということとは別として、同じようなことは他の分野でも言えるように思う。情熱の総量が足りなかったり、程度が低いと、ここで茂木氏から怒りの矛先が向けられているようなことが往々にして起こるということである。



 近隣諸国の政治的ふるまいや文化に対する批判的言説を表明すること自体は、表現の自由の範囲内のことである。しかし、批判の対象となる相手に趣旨が正しく到達し、反論があればこちらからもそれを真摯に受け止めるという双方向性のプロセスがあってこそ、批判はその社会的身体を全うする。国際関係に関する言説の事実上の読者が、批判の対象になっている国の国民ではなく、批判することはあってもされることのない、いわば安全圏にいる「身内」でしかないことは、これらの批判的言説のアクチュアリティを著しくそぐとともに、論者たちの知的モラルを低下させる事態を招いてしまうのである。(p.58)


日本で「右翼」ないし「保守」とされる論者やネット上での意見などに対する評価として妥当であり、概ね同意見である。彼らの言説にはアクチュアリティはないし、論者の知的モラル(知的に限らないが)も低いと見做さざるを得ない。



 厳密にいえば、ある概念の普遍性は、その概念の翻訳可能性と一致するとは限らない。たとえば、世界の中のある言語圏だけが到達し、把握している普遍性が存在するということはありうる。それでも、私たちは往々にして翻訳可能なものだけを普遍項として立てることを当然だとみなす。流通性と普遍性を安易に等式で結んでしまいがちなのである。(p.63)


確かに普遍性と翻訳可能性は一致するとは限らないだろう。ただ、「ある言語圏だけが把握している普遍性」なるものが、「ある言語圏だけが把握できる普遍性」と異なるとすれば、それは結局、他の言語に翻訳可能なものであることになると思われる。そして、「ある言語圏だけが把握できる普遍性」などというものがあるかどうか、かなり疑わしい。

私見を述べると、「ある言語圏だけが把握できる心的事実」位はあるかもしれないが、事実factは(Wirklichkeitと違って)言語によって異なるものだから、定義上、factは普遍的ではないのである。Wirklichkeitは絶対的なものとして感知されるから、それが普遍的であると錯覚されるが、それが「完全に」共有されることはないと思われる。だとすれば、共有されえないものは「いつでも、どこでも、誰にでも」当てはまるものではありえず、普遍的ではない。



 日本の論壇で、「個性」の行きすぎということが「戦後民主主義」とからめて批判的に議論されたときがあった。私は、そのような論者に基本的にうさんくさいものを感じて、同調するどころか、まともに取り合う気にすらならなかった。
 民主主義が、否定されるべきものとして議論に出てくること自体、何を言いたいのかわからない。「戦後」という限定詞を付けたからといって、なぜそれがネガティブなニュアンスになるのか?
 「戦後民主主義」の中での「個性」や「権利」の行きすぎを論ずる論客に至っては、最低限の論理的整合性すらないように思われた。「個性」が輝いたり、「権利」が認められたほうが、よいに決まっている。「個性」や「権利」といった、人類が長い歴史の中で勝ちとってきた価値を否定的に議論している論客は、自分の論文が凡百の雑文と同等に扱われたり、財産が恣意的に没収されても、かまわないとでもいうのか。おそらくは、自分だけは例外というわけなのだろう。(p.76-77)


健全な意見である。

民主主義が否定されるべきものとして出てくるのは、貴族主義的な保守政治を理想とし、その体制を擁護する議論として論じられているからである。貴族主義と書いたが、ここでは、一部の権力者が固定的に権力の座を維持し、その他大勢はその権力中枢に近寄ることができないようなシステムという意味合いで用いている。その特権階層にとっては、民主主義は否定されるべき脅威というわけであり、人民によって「個性」や「権利」が主張されることは、彼らの恣意的権力が制限されること意味するのであり、だからこそ否定されるべきものとして俎上に上るのである。

「戦後」という限定詞が付されるのは、論者にとっては「敗戦という(彼らにとっては)屈辱的な経験によってもたらされた」という意味があり、それゆえ否定されるべきという感情が喚起されることと関係しているように思われる。

茂木は「「個性」や「権利」といった、人類が長い歴史の中で勝ちとってきた価値を否定的に議論している論客は、自分の論文が凡百の雑文と同等に扱われたり、財産が恣意的に没収されても、かまわないとでもいうのか」と書いているが、なかなか良いイロニーである。

こんなことを書いている論者の論文など凡百の雑文にも満たない屑だからである。そして、ヘナチョコな論者たちは、恣意的に財産が没収される側というよりは、恣意的に財産を没収する側にいるものとして自分を位置づけた上で発言していることへのあてつけとして茂木が上記のように書いたのだとすれば、さらに的確というべきだ。



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水内俊雄、加藤政洋、大城直樹 『モダン都市の系譜 地図から読み解く社会と空間』

 明治維新以降を取り上げる第2章とも関連するが、都市の作り手、統治権力を意識しながらも、比較都市史の観点から、明治維新を越えて次のようにオールドシティ=城下町を見通してゆく必要がある。一般に歴史的都市では、①オールドシティ内部の空間構成は、作り手の意図が明確に反映されている場合が多い。同時に、オールドシティの周辺や境域の外側の隣接空間には、権力との関係がアンビバレントな、地理的にも社会的にも周縁の地区が存在すること(特論1A)。②権力の誇示のために必要とあればオールドシティの入り組んだ街路網は直線道路などによって大幅に改造され、壮麗、祝祭の都市景観が生み出されること(第2章、特に京都)。③近代的都市計画の空間的反映は、オールドシティの空間構成とその周辺の開発状況に規定され、また権力が制度の導入をどのようなきっかけで取り込むかにも条件づけられること(第2章)。そして、④大火、地震や戦争の被災地域の復興といった緊急事態に対し、権力は都市改造に遺憾なくその能力を発揮すること(第3章)。以上の4点である。
 これらの点は、世界的に見ても、多くの近代都市の発展過程で、19世紀から20世紀前半にかけて連続的に生じてゆく。だが日本の場合は、明治維新という(都市)政治体制の大転換、そして城下町という計画都市がすでに存在していたという特殊性により、①から④の連続性を前提としないのである。このことは帝都東京に、よりはっきりと見られる。(p.16-17)


都市を歴史的に見ていくための一つの基本的なモデルを簡潔に説明している箇所と思われるので抜粋しておく。

オールドシティとその外部との関係性については、本書により「インナーシティ」の問題として教えられることが多かった。オールドシティが政治権力によって大改造されるというのは、ナポレオン三世の下で行われたオスマンによるパリの大改造などが最も有名な事例だろうが、他にもかなり沢山の事例があるようである。これまではあまり気にしていなかったが「言われてみれば」という感じがする。



 明治30年代後半は、1906(明治39)年の国有鉄道法の影響もあり、民間資本の投下先は電力や都市郊外鉄道に向けられつつあった。1905(明治38)年の阪神電気鉄道、1910(明治43)年の箕面有馬電気軌道、京阪電気鉄道が相次いで大阪で誕生し、それぞれ、梅田、天満橋と、当時の市街地の最前線から、神戸、箕面・宝塚、そして京都に向けて敷設される。
 それまでの鉄道は、官営・民営を問わず、都市間の長距離客貨輸送を目的としていた。駅間距離は数km以上にもおよび、列車の運行間隔も1時間以上といった、日常の移動を前提とした経営ではなかった。ところが、この時期以降に登場した民営鉄道は、小ぶりの駅を多数設置することで駅間距離を短くし、そして比較的機敏に電車運転を行うことで、都市と近郊を結びつけることになる。なかでも、箕面有馬電気軌道(のちの阪急)は、小林一三の卓抜なアイデアで、郊外、ひいては大都市圏の誕生をうながす画期的な牽引車となる。当時、登場しつつあった俸給生活者(サラリーマン)をターゲットにしたメディアによる喧伝が大きな力となり、市外居住・郊外生活は、都市生活者の新しいライフスタイルとして紹介された。(p.83)


鉄道の役割・位置付けの変化があったわけだが、私がここを読んで真っ先に思い出したのは現代の中国のことである。

現在でも中国では列車(火車)は、都市間の簡単な移動手段と言うよりは比較的長距離の都市間移動のための交通機関として位置付けられている。もっとも、昨今は少しずつ様相も変わってきているが、基本的には隣町に行く場合、彼の地ではバスを使うのが一般的で、列車はあまり利用しない。

上記の日本の事例でも官が主導でインフラを整備し、その後で民間が活躍できるようになったことは容易に見てとれるが、民間企業が活躍できる状態になってから、ようやくそうした日常的な用法が定着することになる。政府としては開発や経済活動のためのインフラとして鉄道が利用されてきた面が大きいのに対し、民間企業は、より日常的な活動の中から利潤を上げようとするビジネスモデルを採用しやすいということが反映しているのだろうか?

また、このように書いてきて気づいたのだが、日本は他国と比較して列車が利用しやすい環境が整っているかもしれない、と思い始めた。

例えば、ヨーロッパでは駅が都心にまで入り込めない点で不便を感じることが多いのに対し、日本の場合、駅前は繁華街やビジネス街に近いことが多い。また、中東はそもそも帝国主義の時代にイギリスと他の帝国主義列強が争っていたため、安定的な権力が存在しなかったためインフラ整備が進まず、そもそも鉄道網があまり発達していない。そして、インドやアフリカの鉄道網については(私は実地では経験していないが)資源を海に運び出すルートは作られたが、都市間を結ぶものとしては構築されていないということを読んだことがある。最後に、中国は上に述べたとおりだ。

世界各地を巡る中で、こうした事柄についての知見ももっと深めていきたいものだ。



 既存の商店街が歓楽の巷となる、つまり遊歩の舞台として盛り場化するきっかけをつくったのは、百貨店へと業態を転換した呉服店であった。呉服店から百貨店への移行は、単に取り扱う商品や販売方法を改めただけといのではなく、それにあわせて建築の様式も変更していたことに注意されたい。意外に思われるかもしれないが、明治~大正前期における各種商店の建築様式は、実のところ現在とはまったく異なり、買い物の仕方まで違っていたのである。
 ・・・(中略)・・・。
 江戸期以来、商店では店主や店子があがりの畳に座して来店する顔見知りの顧客の求めに応じ、商品を棚や蔵から選り抜き手にとって見せる「座売り」が一般的であった(図6-3)。横溝の回想は、住居兼用の小商店のあり方を教えてくれる。しかしながら、都市化の進展、なかんずく都市部への人口の集中とともに、この販売方式はきわめて不都合なものとなったにちがいない。というのも、「座売り」は商品をいちいち出して客に見せる対面販売である以上、不特定多数を相手にする方式としては必ずしも合理的だったわけではないからである。また客としても、気軽に商品を見ることを、そして手に取ってみることを望んだであろう。
 そこに、商品を購入することなく、ただ見るだけという「素見」の可能性を存分に開示する消費施設が登場してきた。それは、明治30年代半ば(1900年代の初頭)にいち早く商品を陳列して販売する方式を取り入れた三井呉服店、のちの三越百貨店である。・・・(中略)・・・。
 百貨店への移行は、単に陳列販売の採用のみならず、商店建築の物理的な改変をともなうものであった。すなわち「日本の百貨店では、明治二十年代後半から四十年代前半にかけて販売形式が座売り方式から陳列販売方式へと切り変えられていき、それと平行して店前にはショーウィンドーが設置され」(初田亨『百貨店の誕生――都市文化の近代』ちくま学芸文庫、1999年)るという流れができあがる。商品を陳列し値札をつけること(「正札販売」)は、顧客ばかりの商いから、都市大衆を客とする商いへの移行を意味していた。(p.155-156)


この部分は本書の中でも最も興味深かった箇所の一つである。

ここでも私が想起したのは現在の中国であった。中国では(中東などもそうだが)今でも結構、対面販売で値段交渉などが行われる。もっとも中国も都市部の繁華街などでは上記のようなショーウィンドウや正札販売が定着してきているが、商店は比較的小規模な個人経営と思われる店が結構多く、しかもその店の構成が次に引用する文章のように、間口が狭く、奥に長い構成になっている。(こうした傾向は、中東のスークなどでも見られるのではないだろうか。)日本やヨーロッパでは、個人商店でも比較的道路に面する面積が大きいと思うが、それとは異なっている。

対面販売と値段交渉と間口の狭い店舗建築のセットと陳列販売と正札販売と間口の広い店舗建築のセットは、確かに合理的な組み合わせであり、都市をとおして社会のありようを考察して区上で重要な視点を提供してくれるように思われる。(間口が狭い方が店舗の面積は小さく済ませやすいと思われる。)



 「縦の商店街」と称された百貨店の登場――それは、大都市の百貨店の支店展開にもよっていた――は、後述するように都市における新しい消費行動の様式(ウィンドーショッピング)を定着させる契機となっただけでなく、百貨店化することのない各種商店にも少なからず影響をおよぼした。つまり、各地の商店もまた販売方式の転換に取り組みはじめたのである。間口が狭く奥行のある「町家」式の店舗は、この時期、「陳列販売」方式を採用するために間口を広くとり、建物の前面にショーウィンドーを、そして店内には陳列スペースを設けるようになった。(p.158)


店舗建築の形式が変わったことは上述した。こうした相乗効果的な変化があったこともまた興味深い。そして、この相乗効果的な変化のうちで最も興味が引かれたのは次の引用文の箇所であった。



 商店会の積極的な活動の背景には、当時、ひとつの社会問題となっていた「百貨店対小売商」という対立図式があった。たとえば、十三は「〔最近2、3年来〕近接地百貨店ノタメニ圧迫」されているといい、生玉でも「〔最近10年来〕百貨店、公設市場ノ重圧ニ苦シム」という状況が報告されている。「高島屋ト十合ノ開店ニ依リ衰微」した道頓堀が打ち出した対策は面白い。アーケード化シテ平面ノ百貨店街トスル」ことを構想したのである。・・・(中略)・・・。「百貨店」に対抗する「平面の百貨店」というわけだ。(p.161、本文傍点部は引用文では下線を付した。)


百貨店や大型のデパートが進出してきたことによって小売商が打撃を受けるということは確かに現代でもあると思われる。それに対抗するために商店会が打ち出した対策としてアーケード街や商店街を形成したというのは、なるほどと思わされた。

私の住む市や隣の大都市などについてみても、市の中心部にアーケード街や地下街があり、当然その近辺には大きなデパートがあるという構図になっている。こうした商店街の形成とデパートの存在とは恐らく切り離せない関係があるのだろうと想像される。

ちなみに、一言付け加えると、百貨店と商店街とは必ずしも対立的な関係にあるわけではない。例えば、私の住む市ではアーケード街に面してデパートが建っていたが、そのデパートが撤退したことによって商店街が打撃を受けたとよく言われている。そうだとすれば、このデパートと商店街が共存共栄の関係にあったとも言えるだろう。

なお、デパートが撤退した原因は、市外の中心部から離れたところに巨大商業施設ができたことにあるとされ、そちらも実は経営的にかなり苦しいとされており、商店街、市街のデパート、近郊の巨大商業施設の三者がまさに共倒れの状態にある。これは私にとっては都市計画の重要性を感じさせられる事例である。



 戦災といえば、爆撃による消失が主であると思い込みがちであるが、実は戦災を被る前から人員疎開ならびに、建物疎開と称して全国で55万戸に上る建物の除去が行われており、200万人分の市街地が強制的に取り壊されていたという事実がある。疎開は、第2次大戦開戦時にイギリス政府が使用した‘evacuation’の訳であり、当初は防空意識をそぐということで「避難」と訳されていたものの、1943(昭和18)年の戦況の悪化による10月15日の閣議決定「帝都及重要都市ニ於ケル工場家屋等ノ疎開及人員ノ地方転出ニ関スル件」で「疎開」に転換される。(p.212)
「疎開」って意外と新しい言葉なんだな。それ以前から言葉としてはあったのかも知れないが。

あと、直接の爆撃などが行われる前から建物疎開などという形で都市が壊されていたというのは、普通に語られる中ではあまり出てこないために想像すらされないことであり、こうした指摘は貴重である。なお、本書によるとこうした除去のほかに軍事施設などが各地に作られたことによって都市の様相が変化したことなどが指摘されており、興味深いものがあった。


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佐藤喜彦 編著 『【中国からの留学生】 ニッポン見たまま感じたまま』(その2)

 日本では、国旗掲揚に反対する人もいるといことを聞いて、不思議でたまらない。
 ・・・(中略)・・・。
 日本人の「愛国心」は今日本人の間でも話題になっているが、中国人の私から見れば、それは議論の余地もない大切な問題だと思う。
 外国に行けば愛国心が強くなるという言葉を聞いたが、それはもっともだと思うようになった。国があって個人なので、外国に行くとほとんどの場合、国の名前が自分の代名詞になるからである。
 国を愛していないということは、自分自身を愛していないということではないだろうか。(p.88-89)


「日本の右翼」と「中国人」の奇妙な一致というべきか。ま、どちらもナショナリストなので奇妙でもなんでもないんだが。

この議論で根本的に間違っているのは、「国があって個人」という認識である。物理的に触れることができる「個人の身体」なしに、触ることが絶対にできない「国」という観念があるはずがないのである。(デカルト的な独我論に立ってさえも、これは当てはまる。)

「愛国心」の対象として思い描かれるところの「国」と呼ばれているものは、常に「観念」でしかない。それは決して触れることができず、想像されることができるだけである。「国」として表象されるものが現実に何かの物理的な作用を生じさせると考えられているとき、その作用を生み出しているものは、「国」として表象されるものとは常に別の「者」である。

具体的な組織としての「政府」のことを「国」と呼ぶことがあるが、「愛国心」を重要だと言う人は「愛政府心」を主張しているわけではないだろう。また、地方政府とは別の中央政府を「国」と呼ぶこともあるが、「愛国心」を重要だと言う人は「愛中央政府心」を主張しているのでもないだろう。あるいは、自分の故郷である地方や地域のことを漠然と指す「国」という言葉もないわけではないだろうが、その場合の「国」は「日本」とか「中国」といった「国」とは別のものであり、「国旗」とか「国歌」とも必然的なつながりを持たない対象である。強いて言えば、「日本」とか「中国」といった「国」のエリアに包摂されている地方であるとは言えるかも知れないが、「全体」を象徴する「国旗」や「国歌」との必然的なつながりは存在しない。そのつながりを想定するときは「愛国心」の対象となる「国」が前提されるが、その「国」は「観念」にすぎず、具体的な対象ではない。

さて、留学生は「国を愛していないということは、自分自身を愛していないということではないだろうか」と言っているが、これも逆なのである。自分自身を愛していないから愛国心などを持ち出さなければならないのである。

「国」などという「意味不明な観念」を愛しているヒマがあれば、具体的な対象を愛するべきであり、自分自身を愛している人ならばそのように振舞うであろう。大事なのは(「愛国心」のような)観念を抱くことではなく、どのように(具体的に人々を愛する)行為するか、ということだからである。

さらに、外国では国の名前が代名詞になるというのは、ある意味ではその通りだが、事柄の一面でしかないものを全体に当てはめている点で間違っている。人間対人間の関係が成り立ってしまえば、国の名前は代名詞にはならない。相手を全くというほど知らないという疎遠な関係のときに「国の名前が代名詞」になり、アルバイトの面接が拒否されたり、話をしても国に関することを話すことになるのである。

なお、日本の左派やリベラルなどが国旗掲揚に反対するのは、国旗が「国」なるものを象徴するものとされることによって、「国」というものがあたかも身近にあるかのように錯覚させる効果を持っており、旗を掲揚することは、そのようにして存在することとされた「国」なるものを称揚する行為であるからであり、その上で、歴史的に見て、大日本帝国の臣民は「国」なるものを愛するように仕向けられたために、具体的な諸個人が犠牲にされてきたからであろう。

実際に「国を愛せ(愛すべき、愛して当然だ)」というのは、「国」の名をかたる「政府」にとっては非常に都合のよい言説である。例えば、「国」の名をかたる「政府」が「個人」をその「軍隊」という「組織」に引き入れることに対する抵抗をしにくくさせる。そして、「組織」に入ってしまえば、会社の命令や指示に逆らいにくいのと同じように、いや、それ以上に組織の上から来る指示には逆らえなくなり、政府ないし軍隊の上層部の人間に操られる大量の人間が出来上がる。ここでは個人は犠牲にされても文句を言うことができない。このように個人の生命や尊厳を「集団・全体・組織」といったものに従属させる思想であり、それは「個=自分自身」を大切にしていないことを意味するのであり、「自分自身を愛していない」ことになるのである。国旗掲揚に反対する人々は、おおよそこれと共通する考えを持っているように思われる。

一言でいえば、国旗掲揚反対派は、個人の価値・尊厳を重視し、「国」という名をかたる「政府」という組織にそれを従属させることを批判しているのである。



 世界のどの国でも歴史を学校の欠かせない授業科目にしているのに、どうして中国の歴史教育を日本側は反日教育だといっているのか、正直私は理解できない。
 歴史的事実はひとつだけであり、その事実を正しく子どもたちに教えるのが学校の役割であり、そのあとは子ども一人ひとりに、自分なりの考えを持たせればいいと思う。(p.114)


恐らく、これは本書に表示されている属性や年齢などから推測して、上の引用文を書いたのと同じ学生による意見である。

一つ前のエントリーで私は中国の情報統制や言論統制が比較的成功していることについて述べ、「自国の内部の状況が他国と比べてどうなのか、といことを十分に知らないために、自分たちのおかれた状況を相対化できていない」と書いたが、この学生の意見は、その典型であろう。

確かに世界の大半の国では歴史を教えているだろう。問題は何を教えているか、ということであり、中国の歴史教育が「抗日戦争」に重点を置きすぎていると見えること(実際に、他の国々で教えられる歴史での日中戦争の扱いと、中国におけるそれとの違いは極めて大きなものではなかろうか)に一つの原因があるはずである。その上、中国共産党の立場から歴史を叙述していることも大きいだろう。

私自身は中国の歴史教科書は読んでいないので断定的なことは言えないが、南京大虐殺祈念館に示されている歴史認識が、中国政府が認める歴史観と同型であるとすれば、日本に対するイメージは悪くなるように描かれているとは言えるだろう。特に、戦後、日本による貢献がほとんど紹介されていないというような偏りがあるとすれば、適切な扱いとはいえないだろう。

「歴史的事実はひとつだけ」というのもあまりにナイーヴというほかないだろう。「事実の理論負荷性」について思いを馳せるべきであり、学生に対しては、その中で歴史叙述がいかにして「客観性」を保ち得るか、といった問題に取り組むことを勧めたい。どのような価値観・考え方に基づいて叙述する対象を選択したのかといったことについて、自分と読者に対して明確に示さなければならない。それが欠けているために「客観性」が担保されていない実例だといえる。

私は中国の歴史教育が「反日」を目的にしているとは考えないが、付随的な効果としてそうした観念の形成を助長するものであるとは考えている。



中国にいるとき、テレビや本を通して日本人の生活水準の高いことや日本が便利な社会であることを分かっていたつもりだったが、実際に来てみると想像以上のことがあまりにも多い。(p.128)


逆に日本から外国に行くと、不便に感じることが多い。だから、日本からの旅行者は(ある程度旅慣れていない人は)外国では何もできない傾向があり、パックツアーなどで行く人たちについては、目を覆いたくなるような惨状だったりする。犯罪に対する備え(配慮)などが圧倒的に足りない傾向がある。



 しばらくして日本の新聞、雑誌にはカタカナで表した外来語があふれているのに気付いた。あるとき日本人のクラスメートに新聞に載っている外来語の意味をたずねたら十個のうち三個しか分からないのには驚いた。
 これはつまり、日本人が理解できるよう日本語化されていない語がまかり通っていることを意味している。このように外来語になかば独占されている現象を「日本人は母国語に誇りを持っていない」ととらえたら日本人は腹を立てるだろうか。
 中国人は母国語をはじめとして自国の文化に誇りと自信を持っている。(p.181)


このように「誇りを持つ」ことを是とする価値観の人は、中国には確かに多いようだし、日本でもここ10~15年ほどの間にかなり増えたと思われる。

しかし、私に言わせれば、「母国語」や「自国の文化」に「誇り」を持ったら、一体何の得があるのか?何のメリットがあるのか?と尋ねたくなる。いたずらに他者蔑視に結びつくリスクが高まるだけで何のメリットもないように思われる。「自国の文化」に自信や誇りを持つことによって「他国の文化」を尊重できるというような綺麗ごとは言葉では言えるかもしれないが、それを実行することは「達人倫理」に属する。それに「母国語」も「自国の文化」も権力者の側から作られたものであるという歴史があることに思いを馳せれば、上のようなナイーヴな意見を抱くことには大いに違和感を持つべきだとさえ言えるように思われる。




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佐藤喜彦 編著 『【中国からの留学生】 ニッポン見たまま感じたまま』(その1)

 最近の急速な経済の発展によって、中国の一般勤労者の所得は着実に上昇しているとはいえ、ひと握りの富裕層や北京・上海の高額所得者を除けば、月収にしてせいぜい千元~二千元が平均だ。留学のための支度金は五年~十年分の収入に当たり、一般労働者の親がこれを用意するのは容易なことではない。Tさんの場合は、技術者の父親と事務員の母親が十年以上もかけて貯金した十万元すべてを留学のための支度金に注ぎ込んでくれたのだった。(p.10)


中国からの留学生はかつては国費で留学していたと聞いたことがある。今もそういう学生はいるのだろうが、私費で留学するのはかなり大変なことのようだ。私が学生時代に所属していた研究室では、ネパールやインドネシアなど東南アジア諸国やドイツなどヨーロッパからも留学生が来ていたが、それほど悲愴感のようなものは感じなかった。この本を読んで、経済的にそれほど豊かではない国から、より経済的に豊かな地域に留学するのは並大抵のことではないらしい、ということに思い至った。

先日、まさに「中国からの留学生」から中国語を習ったのだが、先生からそうした悲愴感的なものはまったくというほど感じられず、いつも屈託のない笑顔であったような印象だったので、その背後にはこうした苦労や親の期待などもあったのだろうか、などという思いがよぎった。

(この本を買ってみたきっかけも、「老師」が、日本に来て驚いたことなどを少し話していたのを聞いて――私がよく外国に行き、それを通して自分の生活についてReflexionをするのと同じように――外部の目から見て語られるニポンの印象や感想などに耳を傾けることは、私が属する社会(これは日本という国民国家と同じではない)の様態を認識する上で役立つのではないか、と考えたからだった。このほかに、「中国現代社会論」としても本書は活用できそうだと考えたことも理由であるが。)

しかし、一歩引いてみたとき、日本の大学や大学院なんかを卒業して、それを得るために犠牲にした(金銭的、労力的な)コストに見合うだけのキャリアが約束されているのだろうか?という疑問も同時にあったりする。日本なんかに来るくらいならアメリカの大学に行った方が良いんじゃないの?という気がするからであり、また、中国の最高峰の大学に入る方がエリートコースとしては良さそうにも思うからである。

で、ここまで書いていて思ったのは、「そこまでは受験競争に勝ち残れないが、それなりのレベルのエリート」にとっての留学先なのかもしれない、ということだ。まぁ、このあたりは想像にすぎないが、疑問は尽きない。それだけ我々は留学生という人々の実情を知らないということでもある。



 何人かで談笑したり、小さな鏡に向かって化粧をしたり……そんな中で寸暇を惜しんで本を広げている高校生を見ることは本当に少ない。
 私が中国で高校生活を送ったときは、ひたすら大学に合格するための受験勉強で毎日がすぎていった。おしゃれに全く関心がなかった。
 ・・・(中略)・・・。このような国情の違いがあるにせよ、勉強をそっちのけにして、おしゃれ、携帯……にばかり感心の向く日本の高校生を見ながら、「これが経済大国の若者かな」と、不思議に思う。(p.41)


確かに、通学中のJRやバスの中で本を読んでいる高校生などあまりいない。「本」を読んでいても、漫画や小説がせいぜいというところか。あまり気にしていなかったが、これは日本の社会でよく見られる傾向だといえるかもしれない。

この留学生の意見で「『これが経済大国の若者かな』と、不思議に思う」という思いの前提には、恐らく、「経済大国」では人々は、必死に努力して勤勉に働いているから金持ちになれる、という観念があるのではないだろうか。だから「不思議に思う」のだろう。しかし、経済的に豊かであれば、そうした事柄への関心が高まる傾向になるのは、半ば必然であり、何も不思議なことではないだろう。



 日本の小学生が「将来の夢」を書いている新聞のコラムを興味深く読んでいる。大工さんになりたい、マンガ家を目指す、お笑い芸人になって人を笑わせたい……などバラエティーに富んでいる。これこそ十人十色だ。
 同じテーマで中国の小学生に書かせたらどうなるかと考えてみた。多分、男の子も女の子も「社長になりたい」が圧倒的に多いと思う。・・・(中略)・・・。
 日本の子供や若者は伸びやかだ。いろんな道に進んでさまざまな職業についても生活できるという「安心感」がそうさせているように見える。だから幸せの価値観が一人ひとり異なるのも、こうした背景があるからではないか。(p.48-49)


現在の日本ではこうした「安心感」は過去のものになりつつある。子供たちにまでそれが深刻な問題として突きつけられてはいないのかも知れないが…。

さて、この留学生は「日本の子供や若者は伸びやかだ」と肯定的に評価しているが、国際的に比較したアンケートなどでは、日本は日常生活についての満足度や幸福感は低いという結果が出ることが多いと思うので、それほど「伸びやか」といえるようなものではないだろう。



 留学生が一番歓迎するアルバイトは、時給が高く、日本語の勉強にもなる「一石二鳥」の通訳か日本語講師だ。(p.51)


本書から得た一番の収穫は、留学生たちはアルバイトをしようと思っても門前払いされることが多く、生活を維持すること自体が大変だという事実を知ったことである。

そうした中にあって、通訳や語学の講師であれば、彼らのスキルを生かしたアルバイトでもあるし、手に入る給料の額の多少は別としても、確かに時給は高いから本文である学業への影響を小さくできるし、日本語の勉強という意味でも他の職業よりも有利かもしれない。上で私の「老師」の話を少し書いたが、上記の引用文から、なぜ「老師」が中国語の講師をしているのか分かった気がした。



 日本を含めて欧米諸国から、中国は言論の自由が厳しく制限されて大変不自由ではないのかと思われているようである。しかし、ほとんどの中国人は、そうは感じていないし、思ってもいないだろう。(p.67)


ある意味、意外な感じもするコメントであるが、私が実際に中国に行って現地の人々と話してみた実感や私が知る限りでの中国での言論(特にマスメディアを通じた言論)の状況から考えても、この留学生のコメントは妥当であるように思われる。

メディアの状況としては、言論統制は確かにあるのだが、共産党を批判したり、共産党の「影」の歴史(天安門事件や大躍進政策など)に触れない限りは、それなりの自由はあるようだし、また、現地の人々と話した実感としては、外国の実態についての関心が低く、「自国=共産党」の利益になることについて無批判的な傾向があるからである。要するに、自国の内部の状況が他国と比べてどうなのか、といことを十分に知らないために、自分たちのおかれた状況を相対化できていないのである。だから、話をしていると、相手の世界観が非常に閉じたものだと感じられる。(これはロシアなどでも感じたことである。)

言論統制がかなりひどいアラブ諸国やイランなどでは、状況は異なっている。彼らは自分たちの政府が流している情報がかなり統制されているということを自覚しており、そうであるが故に国外の出来事や情報に目を向ける。そして、外国人の目から見た自国の状況や、(より情報が統制されていない)外国人の目から見て「アメリカ大統領であるブッシュについてどう思うか?」といったことに関心を寄せる。

これは中国の言論統制・情報統制はそれだけ巧妙に行われているということでもあるのだろう。メディアや教育による観念の操作もこの巧妙な手口を構成する一つであることは確かであろう。



留学生にとってお金のことはもちろん大事であるが、それよりもいかに寂しさをしのぐかがもっと重要なのである。
 突然自分が全く知らない世界に入ると、一人で新しい環境に慣れるのが精一杯なのである。加えて両親や友人と離れ、周りに話のできる相手が一人もいないと、自分が隔離された世界で生きているようで、自分の気持ち、自分の考えを聞いてくれる人が一人もいない。すぐに孤独に陥ってしまう。(p.80)


個性や置かれた環境などにもよるが、確かに日本で生活する外国人と接する際に注意すべき点であるように思う。



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