アヴェスターにはこう書いている?
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野村證券金融経済研究所、山口正章、郭穎 『チャイナマネーの時代 世界を動かす中国経済』

 「世界一」という結果は、一般の中国人にとっては耳触りよいものかもしれない。しかし、中国経済の舵をとる政策当局は、頭が痛い問題であることを理解している。中国の世界経済に占めるプレゼンスが高まれば高まるほど、中国の存在が「池の中の鯨」にたとえられる状態となり、持続的な成長が難しくなってしまうという事実である。高度成長期における人口がおよそ一億人であった日本では高度成長を持続することができたが、十三億人の人口を抱える中国が、日本と同じ成長モデルをとることができないことを、政策当局者はよく理解している。(p.10-11)


中国の経済的な水準は国を単位とするとすでに大きなものになっているが、個人の生活水準などはそれほどではない。その意味では上記の表現にはやや誇張はあると思うが、エネルギーなどの資源が不足気味になっていく(入手困難になっていく)という意味ではそれなりに的を射ていると思われる。



 チャイナマネーの影響力が今後高まることは間違いない。しかしながら、人民元改革が完了する(すなわち、人民元が完全な変動相場制に移行する)までは、オーバープレゼンスとも言える状況を作り出されてしまう可能性がある。影響力を増すチャイナマネーを活用して中国が国力を増していくのか、円高バブル時の日本がそうであったように、チャイナマネーの暴走を許してしまうのか。現時点では、その見極めは難しい。中国全土十三億人から選ばれた指導者が、日本の失敗を教訓にし、チャイナマネーとどう格闘していくのか、今後の五年間に注目していきたい。(p.254)


ここで示されている二択について言えば、どちらかというと前者の可能性が高いだろう。後者の現象はより事件史的なレベルの問題として表面化すると思われるが、前者は変動局面的なレベルの問題として進展するだろう。

私見では、むしろ問題は、20数年後の中国で人口構造が現在の日本のように高齢化した頃に、流動性、人民元の相場、財政状況、そして医療・社会保障制度の整備状況がどのようになっているか、というところにある。その頃までは大局的に見れば中国経済は順調に進むことができるはずである。


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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

楊世英 『中国経済――経済成長と労働力移動――』

そして、農村経済改革の推進によって農業労働力の移動条件が生まれてきた。しかし、1984年以前は中国の都市経済改革がまだ始まっておらず、農村労働力の都市への移動はまだ厳しく政策によって制限されていた。当時農業過剰労働力の存在と都市で新しい就業の場が提供できないという二重の圧力の下で、中国特有の郷鎮企業の枠組みが現れてきた。(p.33)


80年代の中国の経済の状況を簡潔に示している。当時、生産請負制が実施され、人民公社が解体されたことで、農村の労働生産性は向上し、労働力が工業に向かうことができる条件ができてきたが、戸籍制度が現在よりも厳格に機能していたため、そうした労働力が都市に流出することができなかった。そのため、農村の内部で工業化が起こり、雇用を吸収した。そこで大きな役割を果たしたのが郷鎮企業だったというわけである。



 以上の数字から見たとおり、1996年以降中国は、主に固定工を中心とした就業構造から契約工を中心とする就業ルートの多様化へと転換している。(p.121)


日本でも非正規雇用化は80年代に萌芽があったものの、90年代末から一挙に進んできたのだが、ほぼ中国と歩調を合わせているといえる。それはもちろん偶然ではなく、この動きは一国レベルの政策によるものではなく、世界経済の変動局面(コンジョンクチュール)を反映したものだったからである。

そして、90年代末に金融危機の連鎖が起きたのは偶然ではない。どちらも金融グローバル化が規定する変動局面の中で起こった事件なのである。



 第二に、高度の同質性・群体性・集中性が見られることである。急速な経済の市場化を背景にした中国の貧困層は群体性を持っている。通常であれば、貧困層の分布は各階層に一定の割合で分布している。しかし、中国の場合、企業倒産による従業員が失業者となり、次第に貧困層に転落するケースが多い。工場の規模が大きく、数千人が同時に失業したケースもあった。この人々は、同じ生活経験を持って、さらには同じ地域に集中して住んでいる。伝統的意味での貧困層とは違い、貧困層には一種天然の身内意識がある。この現象は、伝統産業が集中している都市や地域にとくに目立つ。これらの特別の性質をもつ人々が一極に集中した結果、自らの利益を追求する動機が極めて強く、彼らの動きは徐々に社会の不安定要素となっているのである。(p.201)


この「群体性」の根拠となるデータは本書には示されていないため、多分にイメージやミクロレベルの観察経験に基づくopinionであると思われるが、もし、こうした要素があるとすれば、中国の政治的な不安定化要因と言えるであろう。その意味で興味深い仮説だと考えられる。


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三矢陽子 『生活保護ケースワーカー奮闘記 豊かな日本の見えない貧困』

 私の見知ったご老人たちのなかで、若いころの話しをにこやかに長々とおしゃべりなさる方というのは、比較的裕福な生活歴の方が多いように思う。こういう方は一方では交際も豊かで、余暇の過ごし方もたけている方が多い。逆に口数の少ない方には、苦労なさった方が多いようだ。こういった方は交際も限られていて、余暇の過ごし方も手慣れておられないご様子である。(p.45)


裕福な生活歴と交際の豊かさと社交的な性格というのは相互に関連している。これは私の観察ともかなり一致する。



そのなかで気づくのだが、クライエントのなかには「いったん生活保護を受給すれば、将来にわたって保護により最低生活は保障される」と誤解(錯誤)なさっている方が意外と多いことに驚かされる。これは、すでに保護を受給なさっている方のなかにも多いのではないか?
 生活保護は、やむをえぬ事情・状況下で最低生活を営むことができない期間に適用は限られる。(p.98)


生活保護を受給している世帯は、高齢世帯や障害者・傷病により稼動できなくなった世帯が多いから、こうした世帯は事実上、持続的に受給することになることになるだろう。

それ以外の世帯(母子家庭や失業中の若者など)が、こうした錯覚に陥っているとすれば、それは問題だろう。モラルハザード論について、私はマクロレベルの認識としては支持しないが、ミクロレベルではゼロではないとも考える。

私見ではこうした人々と上記のような人々は制度を分けて運用すべきだということである。前者はある程度持続的に給付することを前提とする代わりに受給の要件を限定的にし、後者は「受給しやすく自立しやすい」制度設計にするべきであろう。



 今ひとつの現象は、経済的困窮が増せば増すほど自立阻害要因が増すという事実である。それは世帯員が多ければ多いほど、そして困窮度が増せば増すほど自立阻害要因(つまり世帯の問題や悩みのタネ)が複数・複合化していくという事実である。(p.100)


この観点からも公的扶助を二層化(困窮の程度について軽度用と重度用に制度を分割)することは支持されると私は考えている。



要するに一億総中流という言葉が使われ始めた1965(昭和40)年ごろから「豊かさのなかの貧困」と呼ばれる「相対的貧困」へと時代は移り変わっていったのである。貧困が明確には目にみえなくなってきたのだった。

●資産の保有問題

 日本経済が低成長期に移行し、保護基準が一般世帯の消費水準の60パーセントに達し、低所得者層(保護に該当しない準要保護世帯層イコール、ボーダーライン層)と生活保護者層の性格格差が縮まり始めると生活保護行政に向ける社会の目は一層厳しさを増していった。(p.111)


生活保護制度ができてしばらくの間の給付水準は、一般世帯の消費水準の40~50%程度であったが、それが70年前後に60%に達し、以後、この水準を維持しているが、このように水準が相対的に向上することによって批判も強まったという。なかなか興味深い見方である。

しかし、私見としては、70年代に特段の増税なしで福祉の充実があったために、80年代には財政再建が必要になり、そのときにも主として政治家の都合から「増税なき財政再建」をしようとしたために、生活保護の給付水準の「高さ」が槍玉に上がったという方が妥当だと考える。現在の生活保護制度の給付水準を見ても、財政的な要因がなければ批判されるほどの水準だとは思えないからである。

(ただ、医療費や介護費を丸抱えで給付しているのは、むしろ受給者たちが制度から自立することを阻害する要因になっていると私には思われる。医療や介護は生活扶助とは別立ての制度にする――医療保険や介護保険の制度の中の最低保障の枠組みを導入し、生活保護とは別立てにする――ことが望ましい。

生活保護受給者への批判という点よりも興味深いのは、絶対的貧困を救済してきた生活保護制度が、社会的な背景が変わったことによって相対的貧困者をも救済する制度であらざるをえなくなったことによって、資産調査や収入調査の重要度が増してきたということが、ここに続いて述べられるのだが、これには興味深いものがある。

これが現場に次のような葛藤をもたらしている、いや、もともとあった葛藤を強めていると指摘されている。

 生活保護法では、国民に対する「最低生活の保障」と「自立の助長」という二つの目的があげられていることは周知のとおりである。これはいいかえると、「国家扶助――最低保障――経済保障」と「社会福祉――自立助長――ケースワーク」という本質の異なる二つの制度を内包していることを指す。・・・(中略)・・・。
 もとよりケースワーカーは相反するこの二目的の上でバランスを保ちながら業務を進めているわけで、それこそ諸刃の刃の上でアクロバット的に作業をしているのに等しい精神状態下に置かれていることを認識すべきである。(p.121-122)


不正受給がないか審査することと困っている人を助けることという種類の異なった業務を同一人物が担っている中で、不正受給の審査に政策的には力点が置かれてきているのが現状であるが、この方向を徹底すればするほどケースワーカーと受給者の信頼関係は崩れていき、自立助長とはかけ離れていく。そして、受給者の大部分は大した不正などしていないというのが現状だとすれば、そこで生じる葛藤や無駄は相当大きいということになるだろう。

公的扶助の二層化(軽度と重度に制度を分ける)は、ここでも有効な方向性を示しているように思われる。

例えば、重度の困窮者は就労や収入を得る可能性が限りなく低いから、不正受給の調査をそれほどする必要なく、社会生活自立や日常生活自立のためのケースワークに集中することができるはずである。軽度の困窮者は基本的に就労が可能な人を対象とするから、無届稼動などの不正受給の調査や自動車の保有などの資産調査をより徹底して行うべきであり、現行の生活保護受給者の中でこれらの人々の占める割合はそれほど多くないことから、これらの人々だけを専門に扱う制度の方が調査するにも効率的だと言えるだろう。

また、軽度の困窮者については、「自立」に向けてのケースワークも経済的自立すなわち就労に関するものが多いだろうから、現在の制度よりも専門性も高まるので良いのではないかとも思う。

(現行の制度では、ケースワーカーは医療や介護、高齢者福祉についての制度や施設についての知識のほかに、就労に関しても知識が必要となり、カバーすべき知識の範囲があまりに広すぎるために、専門性が十分に発揮されないだけでなく、現場で多くの間違った発言がなされていることが、利用者側の立場に立つ書籍などから読み取れる。)


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杉本信行 『大地の咆哮 元上海総領事が見た中国』(その3)

 先に、日本が中国の軍事費拡大を避難し、中国がそれに耳を貸さないからといって中国に対するODAを終了するのは得策でないと述べた。中国の軍拡に対する批判を、台湾統一を国是とする中国は内政干渉としか受け取らないからだ。それよりも、「草の根無償資金協力」による小学校建設や教材購入支援などを行い、その実績をもって、中国がいかに基礎教育をないがしろにしているかを世界に訴えていくことができる。
 もう一つは、環境対策という視点。周知のとおり、中国国内ではいまさまざまな公害問題が起こり、被害が出ている。たとえば、汚れた河川を浄化するために、「草の根無償資金協力」で簡易浄化装置を設置していく。
 それを続けながら、「こんなに経済発展して外貨準備高もあり、世界的にプレゼンスが高まっている中国が簡易浄化設備に回す予算がないのはおかしい」と訴えれば、中国の人たちは、それを否定できないわけだし、彼らはいずれ予算取りをせざるを得なくなる。
 私が主張したいのは、中国が抱えるさまざまな問題を放置しておくならば、中国人自身が将来、途方もない負担を背負うのは不可避なのだが、それを隣国として看過せずに、援助することによって、問題提起をしていくということである。われわれが積極的に対応して問題提起をしていくことにより、中国の予算の優先度を変えさせる力を蓄える。私はそういうかたちで対中ODA予算を使っていくべきだと思っている。(p.174-175)


こうした地味でニュースバリューの小さなものの積み重ねは大事だと思っている。本書のこの主張は外交官ならではのアイディアであり、最も参考になった箇所の一つである。ただ、こうした地道な努力がしばしばくだらないパフォーマンスのせいで台無しになることもあるのが歯がゆいところだろう。もちろん、これは小泉の靖国参拝などを念頭に置いている発言である。



 これら任期五年の党大会のサイクルの中で結論を出す必要に迫られている指導者たちにとり、五年間で成果をあげるために一番てっとり早いのは、工場や住宅建設を中心とする固定資産投資を積極的に行うことにより経済成長率を上げることだった。不足部分については外国企業に頼ることで、短期的な経済成長の目標を達成してきた。
 こうして経済成長率を高めることが、国家レベルから地方レベルまでの各指導者の至上命題となり、その達成度が評価基準になった。消費が伸びなくてアンバランスであろうが、固定資産投資を伸ばせば一定の成績を上げられることから、彼らはそうした政策に走らざるを得なかった。
 だから、不良債権の処理についても、本来とは逆の方向にベクトルが向いてしまった。
 貸出総額(分母)のうちの不良債権(分子)を減らすことが本来の姿なのだが、彼らは経済成長という至上命題を与えられているため、逆に分母を増やして、結果として不良債権比率を下げようとしたのである。
 朱鎔基は98年末に人民銀行の大区分行(支店)制改革を行ったが、これはかえって人民銀行地方分行の国有商業銀行地方分行に対する監督機能を弱めることになった。権限を地方分行から大区分行に集中させたことにより、人民銀行の地方分行長の行政職ランクが国有商業銀行の地方分行長よりも下位になったのである。
 この結果、地方レベルにおける人民銀行と金融機関の関係は以前より希薄となり、代わりに地方政府と金融機関の癒着が強まることとなった。(p.309-310)


かつての日本が土建国家化したのとかなり似たパターンだと言えそうである。世界中から資本が集まってきても、それを短期間のうちに有効に使うのは容易ではなく、どうしてもこうした手法にならざるを得ない部分があるのだろう。



 けれども、当時の中国人社会では法輪功の登場はある意味当然なことだといわれていた。改革・開放は結局貧富の差を拡大し、貧しい者の将来の社会的保障をどんどん奪い取っていった。病気になっても医療保険が使えないならば、気功で予防する。そういう仲間たち、とくに老人たちが互いに元気かどうか確かめ合うために集まる。来世は健康で元気に生きていこうという運動が共感、共鳴を得て中国全土に広がっていったということではないだろうか。
 だが、共産党は法輪功が大宗教運動になり、かつての義和団のような存在となることを極度に恐れて、徹底的に弾圧を始めた。(p.349-350)


社会的セーフティネットが公的に整備されていない状況で市場化が進んだために、新しくコミュニティを形成する必要が生じているという状況があり、法輪功はその状況へのリアクションの一つだという解釈。なかなか興味深い。



 だが、意外なことかもしれないが、ドイツ政府が日本のように国の責任として他国に謝罪したことはないのである。それは、反人道的な犯罪行為は「ナチスというきわめて特殊な集団が行ったものである」という立場をとっているからなのだ。だから、ドイツ国軍の行った戦争に関しては追咎されることもなく、また謝罪も行われていないのである。(p.374)


ドイツが政府として謝罪したことがないから日本も謝罪や反省をする必要が無いとはいえないのだが、それぞれの状況がその後の経路に影響するという点では興味深い指摘ではある。



 この議論(引用者注;教科書問題ばど歴史認識の問題)でもっとも歯痒いのは、やはり戦後の日本が努力した平和への取り組みについて中国ではまったく知られておらず、評価の対象となっていないことだ。極端なことをいえば、中国人の頭の中ではいまだに日本は戦前のままなのである。(p.376)


「中国人の頭の中ではいまだに日本は戦前のまま」というのは、なかなかうまい表現である。すべての中国人にとってそうだとは言えないまでも、中国国内で知らされる「日本」の表象の多くは、特に歴史に関しては戦前までしか知らされない傾向があるだろう。今後、本当に未来志向で関係を作っていくならば、やはり中国国内で「戦後の日本の歩み」についてもっと理解を深めてもらうことは必要なことであろう。特に、昨今の中国の状況がかつての戦後の日本とかなり類似点があると私は考えているので、そうした意味でも中国にとって戦後の日本の歩みは参考になると思うのだが。

もちろん、戦後の日本も確かに平和への努力をした面はあるだろうが、国連などでの対応を見ると、それほど誉められたものでもないのは確かなのだが、それでも戦前のイメージが突出して強い中国の人々に対して、異なる側面をも見えるように発想を柔軟にしてもらうためには、戦前の悪いイメージとは対極的な戦後日本の良いイメージを強く前面に打ち出すのは戦略的には悪くないだろう。

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杉本信行 『大地の咆哮 元上海総領事が見た中国』(その2)

 ここで、円借款はなぜ民間の融資と区別され、「援助」と呼ばれているかをおさらいしてみよう。
 日本の円借款は、経済協力開発機構(OECD)の下部機関である開発援助委員会(DAC)の定義に基づくODAとして国際的に公認された政府対政府の「援助」である。
 DACによれば、「援助」がODAとして認知されるには次の三条項を満たす必要がある。政府ないし政府の実施機関によって供与されるものであること。開発途上国の経済開発や福祉の向上に寄与することを主目的とすること。供与条件として贈与要素(Grant Element=GE)が25%以上であること。
 GEとは、DACがODAの国際比較を行うため、援助条件の緩やかさを表示するために決めた指標である。金利10%の商業条件のGEを0%とし、金利、返済期間、据え置き期間が緩和されるに従いGEの比率が高くなり、贈与の場合、これが100%となる。
 79年から97年の円借款の平均金利は2.78%であり、この20年間あまり常に市中金利を下回っており、世界銀行のIDA(国際開発協会)を除けば、他のいかなる国、国際機関の資金供与より低金利である。償還期間も据え置き10年で30年(注:環境プロジェクト等40年に及ぶものもある)の長期間である。
 このような対中円借款の条件に従い計算すると、対中円借款のGEの平均は65%であり、GEに相当する部分が実質的に贈与されることになる。別の角度からいうと、中国に譲許性の高い資金を提供することにより、中国が市中金利で借り入れた場合の差額を実質的に中国に贈与していることを意味する。
 これに対して、中国政府内には「返済するカネなのだから」とか「日本にも利益がある」との主張も根強い。
 だが、はっきりいってこの考えは誤りだ。右の説明のとおり、ODA総額約三兆円のGE(贈与要素)の割合は65%、つまり、約二兆円は真水として実質的に中国に「供与」されていると国際的に認定されているからだ。
(p.92-93)


円借款は中国に対して贈与された部分がかなり大きいという話。なかなか興味深い。

ただ、「日本にも利益がある」というのは幾つかの意味で正しいのではないだろうか。日本政府から中国政府にカネが渡されるということは、当然、中国政府にとっては利益になるのだが、日本政府にとっても常に「損」であるとは限らない。次の引用文に示された考えなどは、その一つではなかろうか。



 円借款をきっかけにして、欠けている交通インフラ、エネルギー政策の体制づくりが始まった。石炭を日本に売って外貨を稼ぎ、インフラ整備に再投資する。そうなれば、次には民間投資が始まる。実際には、最初に入ってきたのは華僑資本であった。それに日本の民間投資が続いた。
 初めのうちは、きわめて廉価な労働力をフル活用して生産するアパレル分野がメイン。安価でリーズナブルな品質の製品を輸出して稼いでいたが、年を経るにつれ、食品加工、電子部品、半導体、自動車と産業の裾野が拡大し、その好循環が二十年にわたる平均10%近くの驚異的な経済成長を支えてきた。当時の中国人の誰に想像できただろうか。
 その意味で、中国の発展の基礎をつくったのは日本からの円借款であることは、否定できない事実なのである。
 中国が経済発展すればどんどん軍事力を増すので、日本にとり脅威だと指摘する向きもある。しかし、よく考える必要がある。あのまま中国を放置しておうけば、現在の北朝鮮のような存在になっていきかねず、そちらのほうがより脅威になっていたとはいえないだろか。
 01年12月にWTO(世界貿易機関)にも加盟し、いまや自国通貨の人民元の為替レートが他国に及ぼす影響を慎重に見極めながら決めなければならなくなった中国は、国際的な経済秩序に縛られ、当然ながら、関係諸国と相互依存関係にあり、身勝手なことができないようになってきている。(p.97-98)


 このように相手国を経済的に安定させることによって脅威となることを防ぐという効果も考えられるのである。

仮に中国が脅威になることがあるとすれば、それは中国がブレトン・ウッズ体制と冷戦構造が存在していた頃のアメリカ並みの覇権を手にしたときであろう。ただ、私見ではそこまでの力を中国が手にできるかどうかには、やや疑問がある。

確かに中国が今後、覇権を手にする可能性は否定できないが、覇権を手にできるほどの経済力を手に入れる頃には、中国の人口構造は現在の日本並みかそれ以上に高齢化が進んだ状態になっているはずである。覇権国はかつてのオランダやイギリスやアメリカのように移民が大量に流入する傾向があるが、中国にそれが起こるだろうか?中国の政治が抱える問題の一つが少数民族を統合する問題であり、歴史的には存在していない「中華民族」というイデオロギーを用いて、統合を維持しようとしているところに移民が大量に流入することができるかどうか、かなり疑問がある。



 国際的に孤立する中国の最大の弁護者として、懸命の努力を重ねた日本の姿をごく一部の中国人しか知らないことは非常に残念である。(p.117)


中国政府と日本政府の関係が良好になり、中国政府が自国内における日本のイメージを向上させる必要が生じたとき、こうした姿は伝えられるであろう。90年代後半以降について考えると、江沢民と小泉純一郎という政治的リーダーを持ってしまったことは、双方の国の人々にとってマイナスだったように私には思われる。



 よく台湾植民地50年と朝鮮半島植民地36年との比較で、「台湾人が親日的であるのに朝鮮人は反日的であるのはなぜか」との問いが出されるが、その理由の一つに両者の歴史の違いが挙げられよう。
 台湾総督府は、台北市のど真ん中の、もともと何もない野原に建設された。朝鮮総督府は李朝の王宮の前に王宮を隠すように建てられた。この違いが象徴しているように、台湾の植民地は中国から「化外の土地」として見捨てられていた島に、日本がいわばゼロから近代都市を建設したのである。(p.119-120)


ゼロからというのはやや誇張だと思うが、日本が進出する前の台湾と朝鮮では状況が大きく異なっていたことをうまく言い表わしている。さすがは(元)外交官と思わせる文章である。



 中国では、地方政府が一定規模以上のプロジェクトを計画した場合、ある程度の自己資金を準備するほか、中央政府の認可が必要となる。各地方から中央政府に毎年数百件の申請があり、国家計画委員会(現在の国家発展改革委員会)が資金手当ての関係から第一次審査を行う。外国からの無償資金協力を利用することが適当と判断した場合、それを採用するかどうかの判断は、対外経済貿易部に委ねられる。
 同部に集められた地方政府からの数百におよぶ申請案件から、最終的に日本政府の無償資金協力を利用すべきかどうかの判断は同部の国際合作司に任されている。
 したがって、地方政府の側からすれば、プロジェクト遂行に足りない資金が中央政府の予算から手当てされるのか、外国政府の援助によるのかは第二義的な関心となる。それよりも、同部国際合作司が当該プロジェクトを他の地方から上がってくる数百件に及ぶ案件の中から選定してくれるか否かが最重要関心事となるわけである。
 極端な言い方をすれば、地方政府は別にどこからカネが出ようが関係ない。足りない分を出してくれる決断をしてくれた部署、担当者に対し感謝の念が集中するのである。そのため、あのようなごますり接待をすることになるのだ。
 以上のように、無償協力資金の窓口の対外経済貿易部の担当者と接触し、調査を進めてみてはじめて、このような背景が浮き彫りになり、先方もそれを認識することになった。(p.151-152)


日本が金を出したODAに対して中国側が相応の敬意を払わないということが問題とされることがあるが、そのメカニズムはこうしたところにあったようだ。このあたりを踏まえると、単に「敬意を払わない」という表面上の現象だけを見て感情的に反発するような、日本でよく見られるタイプの議論がいかに愚かであるかがわかるだろう。


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杉本信行 『大地の咆哮 元上海総領事が見た中国』(その1)

 中国は日本にとって、時としてやっかいな隣国である。しかし、だからといって日本は引っ越すわけにはいかない。中国が日本にとって好ましい存在になるように全力を尽くすのが外交の要諦だと考える。少なくとも中国の失政のつけが日本に回ってこないよう賢明に立ち回ることが大事だ。(p.14)


敵を減らし味方を増やすことこそ外交の基本原則というべきであろう。やたらと好戦的な「タカ派」と呼ばれる人々は現実的には「バカ派」と呼ぶべきであるのは、このような初歩的な原則に反していることによる。



 中国の人たちは、76年の天安門事件以前を知る人と、それ以降に生まれて、以前の実態を知らない人、それから、文化大革命の十年を知っている人とそうでない人で、考え方、意識がまったく違っていて非常に興味深い。
 ・・・(中略)・・・。彼ら(引用者注;文革時代の酷さを知っている世代)は共産党が何をしてきたかを自分の目で見、体験してきたわけで、意識的に共産党のスローガンに対してものすごく醒めている。
 だから、政治が躍起になって、戦争で日本がどれだけ悪かったかという教育を一生懸命してみても、その片方で彼らは「だけど、共産党はもっとひどかった」と平気で語る。もちろん、絶対に信用できる人間に対し、隠れてではあるが。(p.56-57)


中国の人々の意識について考える際、この世代間の差異は考慮に入れるべき枠組みであろう。



 そこで78年、小平は改革・開放政策に大きく舵を切った。復活翌年のことだった。
 路線変更した一つのモデルとして、小平は中国人民に日本を見せた。訪日した小平が視察する日本の最新鋭工場の映像が中国国内に何度も流された。日産自動車の座間工場でロボットが精密に動いて自動車がつくられていく現場を見せて、「これが現代化である」と説いた。時速二百キロ以上で疾駆する新幹線を、中国の人々は未来世界の映像を見るような眼差しで眺めた。
 80年代初めに、中国で頻繁に放映された日本の映画やテレビの作品も、中国の改革・開放を後押しする役割を担っていた。(p.85)


最後の一文で想起されるのは、中国で日本のアニメが初めて放送されたのはこの頃であり、「鉄腕アトム」がその最初の作品だったということである。



 対外援助に関し、それ以前の中国は、共産圏の先輩のソ連一辺倒で、外国からの資金や物資援助、投資、借款を受け入れない「対外貿易三原則」の立場を貫いていた。
 ところが、50年代後半から始まった中ソイデオロギー対立のあおりで、60年7月にソ連側が対中援助協定を突然破棄した。同時に派遣していた1390名のソ連人技術者全員を一斉に引き上げた。そのため、当時着工中であった257の経済プロジェクトはすべて停止の憂き目を見た。
 さらに中国側を苦しめたのが、建国直後の50年代に友好国ソ連から受けた総額14億ドルにのぼる借款であった。ソ連は利払いを含めて借款を全額返済するよう中国に迫った。
 60年、中国は大飢饉に見舞われるが、自国民が飢え死にしても食料を輸出して借款を返す、いわゆる「飢餓輸出」という悲惨な経験をした。このときに中国は、外国から金を借りることについての危険性を嫌というほど味わったといえる。
 その後も中ソ対立が続く一方で、西側との関係が回復する前は、ココム(対共産圏輸出統制委員会)より厳格な中国向けの技術の輸出規制「チンコム」を課されており、西側からの技術支援は望めない孤立した状況にあった。
 そうした国際環境を踏まえて、中国は自力更生の道を選ぶ。極端な国有化政策をとり、国民の土地を取り上げ、全国に人民公社をつくって、集団生産を行う計画経済を進めた。60年代後半は、外国から一切借款、援助を受けず、内債も外債も持たなかった。だが、その後十年間続いた文革の混乱により、国内経済は完全に疲弊してしまった。(p.89-90)


50年代から60年代の中国の暗い時代の国際的な状況は、どことなく昨今の日本と似たところがあると言えないだろうか。この時代の中国の事例は、特定の一国との関係だけを強化し、他との関係が弱いことがどれほど脆弱であるかをよく示していると思われる。


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荻野三千雄 『愉快・痛快・不可解――中国南京一人暮らし――』

いずれにしてもよそ者が自分の国のスケールで物事をわけ知り顔に判断するのはよくないことだと言えるであろう。(p.76)


概ね同意見だが、「スケール(尺度)」を「国」で区切る必要はない。というか、「国」によって規定される「スケール」もありうるが、そうでないものも多い。

判断主体と判断される対象との関係において、判断する主体が対象の「他者性」を排除してしまっていることが「よくない」のである。ここでは判断主体が発言する世界についての言明は、判断主体が予め備えている枠組みで完結した閉じた世界を形成することになる。しかし、世界はこのように閉じたものではないために、世界と認識のズレが大きく、さらにそのズレが固定化する傾向を有することになる。それによって認識主体と世界との調和が乱れることになるなどの問題が考えられる。



 日本の病院で点滴を受けている人の一般的なありようといえば、ベッドに静かに横になって暗い憂鬱な顔をして、ひたすら終わるのを待つというもので、周りの人とお気楽におしゃべりするなんて考えられない。言い知れぬ病気の恐怖にとらわれ、じっとしているだけで、話したり笑ったりする気分や余裕は持ち合わせていないだろう。それに比べればこの国の人たちのこの明るさや楽しげな雰囲気はどこからくるのか?中国語では、日本で言うところのいわゆる「病院」は「医院」と表現される。「医」には治す・治療するという意味がある。だから、中国人は「医院」は病気を治してくれるところだと考えているから通院することを躊躇しない。日本のように「病院」と表現するのでは、まさに病んだ人の行くところで暗く不安な気持ちになるのは当たり前かもしれない。共通の文字としての漢字を共有する中国と日本が、その表現方法において似て非なるところがあることは民族や文化の考え方の差異がうかがえて面白い。(p.92-93)


hospitalを「医院」と捉えるか「病院」と捉えるかという違いが点滴を受けているときの患者の行動の違いを引き起こしているのだろうか?そうではあるまい。私のこの意見が妥当だとすれば、著者の見解はやや飛躍があることになる。ただ、著者は語学の教師だけあって言語の意味などについての解釈は面白く読める。

最後の一文はそれなりに共感できる部分もあるのだが、捉え方が逆であろう。言語の用法の違いが積み重なったものを大局的に観察したとき、それが文化の違いとして認識されるのであって、ア・プリオリに文化や民族の考え方があって、そこから言葉の用法の違いが出てくるのではない。



 初めて見る中国語を漢字の意味から類推して、日本語ではどんな意味になるのか考えるのは頭の体操になるばかりでなく、その意味が分かったときは中国に親近感を覚える。そして、日中両国が精神的にも文化的にも共通の風土を持っていることをしみじみ感じるのである。(p.238)


私も最近中国語に興味を持っているので、ここで述べられているような感覚には共感するところがある。特に、頭の体操になるというのは同意見だ。また、私はヨーロッパの人が英語を勉強するのは日本語話者が中国語を学ぶときの感じに近いのだろうか、などとも想像する。というのは、文法は若干違うが、意味が共通の単語が多いので明らかに英語などを学ぶより勉強しやすいと感じるからである。これならドイツ語話者が英語を学ぶほうが、日本語話者が英語を学ぶより身につけやすいのではないかという感覚に囚われるのだ。実際にどうなのかはわからんが。



私を中国へ駆り立てるのは中国の友人や在中の日本人との再会の楽しみだけではない。路地や裏通りに一歩足を踏み入れると、まだまだそこには素朴で人間味溢れる人々の生活の息吹を感じさせる空間が確かに存在していて、角に一人佇みながら物売りや通行する人々の姿をわけもなく眺めていると、日本では見ることのできなくなってきた「人間が主役の世界」が目の前に広がり胸を熱くさせてくれるからだ。(p.255)


著者の見解からはある種のノスタルジーのようなものやオリエンタリズムの欠片を感じるが、同時に共感するところもある一文である。

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和田一雄 『中国サル学紀行 黄山に暮らす』

 浮渓の小学校の生徒一人は、一カ月に二日間、先生に食事を提供する約束である。新明家は息子と娘の二人がやっかいになっているので、一カ月に四日間先生を食事にむかえなければならない。かくして先生は一年中、浮渓の家々を行脚して歩くことになる。その結果、先生は浮渓の出来事を細大もらさず聞くことができ、生徒の家庭内の事情を十二分に理解できることになる。先生の家庭訪問を年中やっているわけだ。・・・(中略)・・・。
 ・・・(中略)・・・。食事行脚の原因は給料の安さにあった。・・・(中略)・・・。
 1987年十月に浮渓に来るとなつかしい彼女の姿はなく、四十代の女性が寨西から東に三キロメートル離れた湯口鎮に去った。湯口鎮に新しくできた、逍遥賓館のスタッフの方が収入がよいので、そこに移ったのだ。・・・(中略)・・・。
 浮渓は他の安徽省内と同じく1985年に人民公社を解体し、浮渓隊としての資金を持たないので、公的なものへの投資能力はほとんどない。したがって小学校の先生の給料を補助する財源はないのである。人民公社の閉鎖は別の問題をひき起こしたのである。(p.32-34)


80年代後半の中国の農村の教育現場の状況。



日本人は魚食民族だといわれるほど頻繁に、多様な料理法で魚を食べる。しかし、ごく最近、昭和の初めまでは鮮魚の消費は沿岸域に限定され、がちがちに塩漬けされた魚が内陸で祝い事のときのみに食べられるだけであった。それが冷蔵庫の普及、保冷車の整備拡大につれて鮮魚消費が爆発的に拡大した。(p.65-66)


「伝統的な日本食」の代表と見なされるような「刺身」や「寿司」なども、やはり「創られた伝統」であると言えよう。



 研究面でもう一つ大きな問題は外国からの学術雑誌や書籍がごく少ないことである。安徽大学ではサルも含めた哺乳類関係の雑誌は皆無だし、最近出版の書籍はないに等しい。中国科学院北京動物研究所と同院昆明動物研究所は別格で、かなりの数の外国専門誌と書籍がそなえられているが、他の研究機関へのコピーサービスは行っていない。安徽大学も含めたこれらの機関にある外国雑誌は、大部分中国国内で復刻された、いわゆる海賊版である。日本でも問題になったことはあったが、公立機関に堂々と並べられたことはなかっただろう。日本関係では代表的な自然科学関係の雑誌が多くコピーされている。外国書籍は新華書店内に内部用として別の売場をもうけ、外国人はしめ出して販売されているが、辞書、外国語学習用教科書、自然科学の教科書が多い。外貨の乏しい中国のやむを得ない方策である。中国政府は1992年に国際出版条約と中米知識産権条約に加盟したので、このような事態はしだいに姿を消すことになるだろう。(p.197-198)


本書は80年代後半から90年代前半にかけての中国での見聞記である。当時の中国の状況が垣間見えて興味深い。公立の研究機関でまで海賊版が出回っているというのはなかなかすごいものがある。

しかし、今は中国は世界有数の外貨保有高のある国である。短期間にすさまじい変化があったことを痛感する。



 物の豊富さと情報の自由さの面で、日本は中国に較べて優れているといえるかもしれないし、その点で生活し易いだろう。政治・経済の面から管理されている情況は、日本の方が中国に較べて社会的にはるかに整備されている、言い換えると人間の生き方からみると制限されているということになるだろう。
 中国の文化大革命は国内戦ともいえるほどすさまじいものだった。日本では起こり得ないエネルギーの奔騰であったのだが、一つの原因は社会の隅々まで管理されておらず、したがって不満が蓄積可能な社会的隙間があることを示したとも思えるのだ。中国の一つの省は広さや人口の規模からみて一つの国といえるわけで、それを北京の中央政府がすべて掌握するのは容易なことではない。それを行なうため、中国語千年の官僚組織をフル回転するのだが、簡単なことではない。その掌握度が、くらしやすさと逆比例の関係にあるのではないかと思う。それは暮らしやすさが浮渓、合肥、上海、または北京と息苦しさを増すことに示されているからである。(p.237-238)


しばしば「一党独裁」と形容され、息苦しいイメージで捉えられがちな中国だが、著者の捉えるところでは、日本の方が管理社会としての度合いが強く、中国には官の力が及ばない領域が大きいというのは興味深い。

もっとも、問題をもう少し明確に切り分けなければ、このような問題は論じることが難しい話であり、この形のままの問題設定では、単なる印象論に陥るのがオチであろう。単なる滞在記での問題提起としてはここまでで良いだろうが、社会科学的な分析を施すには問題の再設定が必要である。



 当初は理想に近い形で始まった共同研究は延長に際して、いささか雲行きが変わり、どうやって研究を発展させるかではなく、いかにたくさんの研究費を日本側に出させるかの方向に傾斜した。儲けるはずの金額を私が出すことになったのはこれまでで初めての経験で、彼の給料分を私がまかなうのならと素直に了解したのだが、とまどったことだった。
 私の場合はまだいい方で、ある例ではジープ二台と、五年間の調査費として数千万円を約束させられたのがあった。こうなると、研究ではなく、動物調査を一つの商品として外国との共同研究を考えているといわれてもしかたない。ジャイアントパンダ研究では数百万ドルの費用がWWFなどの基金から支出されているが、これは成立の経過から違うので比較できない。ふつうの共同研究は、いかにして研究を発展させるかという視点から計画されるべきものである。
 中国側のこのような態度の原因の一つは、共同研究成立に関して中国側研究者の発言力が弱いことにある。
研究の意味や実情にうとい行政が決定権を握っていては、採用に当たって判断の基準が金額の多寡に流れてしまうのはしかたのないところである。研究者は研究遂行に関して決定権をもつことが必要で、行政からの相対的独立が望まれる。(p.254)


日本の研究者は今後、かつての中国の研究者のような状況に変わっていくのではないかと私は見ている。直接的な権限が行政に握られるというより、補助金という形で誘導されるのではないだろうかと見る。私はここで国立大学の独立行政法人化を念頭に置いているのだが、その弊害を先取りした事例として興味深い。


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村上哲見 『中国の都城4 蘇州・杭州物語 天に天堂 地に蘇杭』

 紀元三世紀、漢が衰えたあとの魏と呉と蜀の対立は、小説の『三国志』(『三国演義』)の物語として名高いが、三国鼎立とはいっても、基本図式としては黄河流域の、いわゆる中原を支配する魏に対し、長江下流の江南地方を占めた呉が対抗する南北の対立であって、蜀はその間に介在する第三勢力だったのである。つまり江南地方が黄河流域の中原と対抗できるほどに成長したのであり、これよりのちには、しばしばこの南北対立という情況が起こることになる。(p.44-45)


適切な図式であると思われる。



 この五代十国の乱世の半世紀は、杭州にとっては都市として一段と発展した時期である。覇権争いの焦点となった中原から遠いという地理的位置が幸いし、この地域は十国のひとつ、呉越と称する王国が支配して比較的安定した状態が続き、杭州はこの王国の首都として栄えた。呉越王の銭氏は、もとより王室の繁栄、財源の確保のためではあるが、杭州の治水に充分に心を砕いたのである。(p.165)


杭州に限らず、江南地方はこうした華北・中原の混乱期にこそ、経済的な基盤を固めていったようである。政治的な力を持っていた華北地方が疲弊している間に、相対的な平和を享受している地域が経済発展したわけである。



 女真族の金は、開封を占領し、二帝を捕えてはみたものの、広大な華北の農業地帯を恒常的に支配する自信はなかった。強力な騎馬兵団によって軍事的に勝利を得たとしても、農民を恒常的に支配するシステムについては無知であるし、だいいち広大な中国大陸に浸透するだけの人口がない。このあたりは、1937年から8年間にわたって、中国大陸のかなりな部分を占拠した日本の場合と類似関係がないではない。
 こういうときに侵略者が思いつくのは、かいらい政権である。金は、はじめは張邦昌の楚、のちには劉豫の斉という国をつくって華北を治めさせ、吸い上げるものは吸い上げようとするが、どちらもうまく行かなかった。日本が華北政務委員会や南京国民政府をあやつろうとして失敗したのとよく似ている。(p.194、本文傍点部は下線を付した。)


なかなか興味深い対比である。

火器が発達する以前は遊牧民が軍事的に力を持っていたが、それ以後は海に面した地域の方が相対的なパワーが増してきた。こうした傾向は16世紀ないし18世紀頃から世界的に見られたが、19世紀に決定的になった。かつては北方遊牧民が行ったことを20世紀には日本が行ったというのは、そうした世界システム的な変動局面を反映しているように思われる。



 翌年、宋と金との間に講和条約が成立した。それは、黄河と長江の中間の淮河を境界とするのは、いわば現状維持であるからしかたがないとしても、宋の天子は金の天子に対して臣下の礼をとり、かつ「歳貢」、毎年銀二十五万両と絹二十五万匹をさし出すという、屈辱的な不平等条約であった。しかしいかに屈辱的な条件であったとしても、とにかく講和が成立したので、秦檜はこのあとも、亡くなるまで十数年のあいだ権力を独占し、栄華をほしいままにした。
 後世になると、岳飛は愛国の烈士、民族の英雄として尊敬を集めるいっぽう、秦檜は奸智にたけた売国奴として憎まれ役となる。今も杭州の岳墳にみられる光景が、そのことを如実に示している。
 しかしながら、感情をぬきにして平静に考えてみると、秦檜の人物はともかくとして、このとき彼が平和をとり戻した功績はやはり大きい。このあと、十三世紀の終わり近くになってモンゴル族が侵入してくるまで、百数十年の間というものは、時おり戦端が再開されたことはあるものの、おおむねは平和が続いた。その間に江南の経済的発展はおおいに進み、臨時首都となった臨安すなわち杭州をはじめ、江南の諸都市は空前の繁栄を享受することになった。
 条約は不平等にちがいないが、それが当時の宋と金との軍事力の差の結果であるとすれば、必ずしも秦檜の責任ではない。天子が金帝に対して臣と称するなどは、庶民にとってはどうでもよいことであるし、歳貢、毎年大量の銀と絹をさし出す負担はもちろん小さくないが、平和を金で買ったと考えれば、高いか安いかは一概にはいえない。平和でさえあれば、宋と金との間の貿易、商人同士の取り引きは盛んにおこなわれ、それはつねに茶などを中心に宋の輸出超過であったから、大きい目で見ればとり上げられたものを貿易でとり返すことになっていたのである。(p.199)


この評価について、ほぼ同意見である。

私も去年、杭州にある岳飛廟に行ってきたが、岳飛の何が偉いのかがよくわからなかった。岳飛が「民族の英雄」として称揚されているのは、アヘン戦争以後の中国の状況について、中国では諸外国から被害を受けたという考え方が強く広まっており、「外敵(非『中華民族』)」に対して徹底抗戦するという姿が「愛国的」なものとされてきたことを反映しているにすぎないというのが私の認識である。




 考えてみると、ヨーロッパで印刷、出版が発展するのは十五世紀半ば、グーテンベルク以後のことであるし、日本では法隆寺に残存する百万塔の無垢浄光大陀羅尼経が、八世紀後半に印刷されたことが確かめられることを自慢にしているが、これは一枚の刷り物にすぎず、技術的には初歩的段階に属する。書物の出版ということになると、寺院における仏典の出版などは十一世紀あたりからはじまってはいるが、町の本屋の営業出版ということになると、江戸時代に入ってから、十七世紀以後にさかんになるので、十一、二世紀の宋代における営業的出版は、世界的にみて異常に早く発展したといわねばならず、世界における出版産業の元祖といえよう。そして杭州、臨安はその一大中心地だったのである。(p.233)


ヨーロッパでも一般の庶民にまで出版の成果が広まったのはもう少し後だろう。宋代にどの程度の所得階層まで出版の成果を享受したのかは分からないが、かなり早い時期に、ある程度広い層に向けた出版が行われたということは事実だろう。

これも中国の経済力や文化水準が世界的に見て高かったことを示しているように思われる。


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伊原弘 『蘇州 水生都市の過去と現在』(その2)

好むと好まざるとにかかわらず、われわれはエリートに社会の指導を委ねざるをえない。政治の技術をたたき込まれたテクノクラートは、社会にとっては必要欠くべからざるものである。今日の複雑な社会の運営がすぐれたエリートに委ねられていることは、疑いのない事実である。それだけに、良質のエリートの創出が重要な問題であることも事実である。われわれはいたずらにエリートに疑いをかけ、かれらの手を縛り続けるのではなく、よりよいエリートの創出と管理、さらにはほどよい交替に心掛けなくてはならない。(p.182)


表現としてはややきわどいが、私もほぼ同じような意見を持っている。最初の一文などはウェーバーの「寡頭制の原理」を表明したものに過ぎない。こうした傾向が存在することを否定することはほぼ不可能だろう。それゆえにエリートの適切な管理の方法が重要なのである。

昨今の国内での議論を見ていると、適切な方法というよりも、単にそのエリート達が自分より恵まれているかどうかという視点で断罪するだけであり、まさに筆者が言う「いたずらにエリートに疑いをかけ、かれらの手を縛り続ける」状態になっているように思えてならない。

そして、適切な管理のために必要な第一歩こそ、「断罪なき情報開示」である。断罪つきの情報開示では情報を隠して当たり前である。情報を開示しても断罪はしない、完全な犯罪行為は除外していもいいかもしれないが、基本原則として断罪なしで公開を求めることこそ必要である。官僚の行為について言えば、それが政争の具にもなっているために、冷静な議論を阻まれている。その点で民主党など野党にも健全な議論を妨げている大きな責任があると言うのが私の見方である。

客観的な情報の開示とその情報に対する分析があってはじめて客観的に建設的な方策を考案することができる。実際にできるかどうかは別としてもそのように考えるべきではなかろうか。



一般に、貿易港といえば海に面していると考えがちである。だが、それは、必ずしも正しくない。古来、世界の貿易港の中には内陸に栄えたものが少なくない。フィレンツェ然り、ロンドン然りである。今日のような確固とした輸送手段が確立されていない時代にあっては、ある程度の内陸部まで船で運び込んでおく必要があったのだ。(p.244)


歴史的に都市を見、考えていく上で、参考になる見方である。


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伊原弘 『蘇州 水生都市の過去と現在』(その1)

 この大運河がいち早く機能しだしたことは、隋末の混乱が象徴する。山西省の太原から起きて天下を狙った唐が洛陽の確保に執心するのは、そこに江南からの穀物が貯蔵されてあったからである。含嘉倉城とよばれるこの穀物倉庫は、現在も洛陽駅構内にある。近年、発掘されたその倉庫は大規模で、しかもすぐれた貯蔵システムをもっていた。穀物と一緒に埋蔵されていた塼(せん)には、発送から到着の次第が記されている。これは唐代のものであるが、唐の建国にあたって洛陽が争奪の場となったこと、雄大な貯蔵庫があることこそが、大運河のすみやかな活動を示すのだ。(p.31-32)


政治的な勢力と経済の動向とを組み合わせた分析。こうした見方は重要なものである。



 ところで、このすぐれた物流システムである大運河ゆえに存在意義の高まった江南ではあるが、それゆえの欠点も指摘しておきたい。それは、大運河が中国の東側に偏っていることである。中国は奥が深い。にもかかわらず、このインフラ的な投資は海岸線に近い東の部分に偏っていた。これは、江南の開発と突出に有利であったが、一方で過大な負担をかけることにもなっていた。江南は大運河によっていっそう栄えたが、大運河によって頚木をかけられたともいいうるのである。(p.33)


興味深い見方である。中国の歴史的な展開を見ていく上で極めて重要な着眼点であると思われる。



 ここで、宗教と芸能の関係について一言しておきたい。宗教は現世に深い関係と意味をもつ。強大な権力と権威の成立には強烈なイデオロギーが必要である。古来、宗教がその役割をしばしば果たしてきた。ここに、宗教の重要性がある。しかも、権力や権威は、自らを飾ることを好む。・・・(中略)・・。技術者の存在なくして権力と権威の確立はありえない。(p.37-38)


宗教には集団を形成し、共通の儀礼(それを正当化するのが教義=イデオロギーである)によってそれを維持させる機能がある。それゆえに政治性があるというのが私の捉え方である――デモクラシーの制度が普及してからもこれはほとんど変わっていない(公明党やアメリカのキリスト教原理主義の影響力、イスラーム世界の情勢などを見てもそれは分かるであろう)――が、ここで述べられている筆者の見解とも共通するものはある。

なお、美術や建築などと権力の関係についてはほとんど同意見である。



つねづね指摘してきたように、都市の問題とは街路の問題である。都市にとって、街路とは人間の神経や血管にもあたるものである。都市とは街路の集まる場所なのだ。それは、今日でも同様である。だからこそ、行政当局は街路の保持と整備に心を砕く。
 道路にゴミを捨てる日はいつ、道路に車を置いてはならない、また長時間止めてもいけない、道路に物を勝手に置いてはならない、屋根や看板を張り出してもいけない。行政当局は道路の保持に並々ならぬ配慮を示す。それは、街路が都市の機能を守る重要な要素だからである。そして、これは、前近代においても同様だった。(p.74)


筆者の独特な見方は参考になる。都市とは街路の集まる場所であり、その保持と整備は都市の機能を守ることである。

街路と非街路を区別するものとしての建築が街を形成するというのが普通の感覚だが、それを裏返しているところが興味深い。そして、その裏返った認識によって、流通や治安(秩序維持)という側面が浮き出てくるところが大変面白いところである。

昨今の日本では「ハコモノ=建築」や「道路」が「無駄」の象徴の様に扱われているが、そうした意見が世論に無批判的に定着してしまっている現状は、かなり危険なものであると見なければならないであろう。



 なお、ここで一言しておきたいのは、最近の東西交通路をなんでもシルク・ロードとよぶ風潮である。当初のシルク・ロードは西域と中国を結ぶ陸路をいった。だが、近年、この語をさまざまなルートに使用するようになっている。しかし、これでいいのであろうか。たとえば、南海ルートでは陶磁器が珍重されてきた。絹が積荷にないわけではないが、むしろ陶磁器や香料、宝石などの重要性の方が高い。その意味では、従来の陶磁の道という言葉の方が本質に近い。したがって、このような安易な語の使用は、歴史的意味を忘れさせることにはならないだろうか。絹と陶磁器の違いは、西方各国におけるアジアの産品への憧れと要求の差異とも関連していることを念頭においておかねばならない。なぜなら、それは、社会構造の差異や変化とも関連するからである。(p.139)


同感である。シルクロードという言葉に限らず、ある対象をどのように呼ぶかを選ぶ際には、その言葉にどのような理論が負荷されているかということに注意しなければならない。



 これほどひとびとが憧れた絹は、それゆえに重要な戦略物資でもあった。現在の米国が穀物や石油を重要な戦略物資としているように、かつての東ローマ帝国は絹を重要な戦略物資としていた。蛮族の酋長たちは、東ローマ帝国皇帝より下賜されたあこがれの絹をまということによって自らの権威を誇示したのである。また、東ローマ皇帝は絹を巧みに下賜することにより、これまた権力と権威を誇示したのである。(p.139-140)


いわゆる「近代国家」が成立する以前の「国家」というものは、現在の基準から見るとかなりの程度、有力者達の「家産」(一族の財産)であったと言える。それゆえに、こうした権力者個人ないし家族間の贈与関係が「国際関係」として重要な意味を持った。東アジアの朝貢関係もそうしたものであろう。


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