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岩田正美 『現代の貧困――ワーキングプア/ホームレス/生活保護』(その1)

今日、「貧困が増えた」と騒ぎ出して、どのくらい増えたか証明しようとしても、以前はどうだったのかを示すデータがないのは、こうした事情による。
 だが、冒頭の例でも分かるように、70年代も80年代も、その気になれば日本でも貧困を「発見」することは可能であったと私は思う。「豊かな社会」や福祉国家を実現させてきた国々のなかには、日本が貧困をきれいさっぱり忘れてしまったのとは対照的に、貧困という言葉の意味を再定義しながら、しつこいほど繰り返し「再発見」してきたところもある。それは「豊かさ」が実現した社会にも「あってはならない」状態が存在し、それを個人の問題として封じ込めるのではなく、社会の問題として「再発見」していくことが重要だとする判断があったからであろう。
 その意味で、格差社会論の延長線上に貧困を見つめる眼差しが生まれてきたことは、日本において長く封印されてきた貧困という問題を、本格的に「再発見」していく契機として歓迎すべきことである。だが、長い空白期間があったせいか、現在の貧困をめぐる議論には、いくつか気になることもある。
 第一は、格差と貧困を区別しない議論が少なからずあることだ。貧困と格差には強い関連があるが、両者は意味の異なる言葉である。格差は、基本的にはそこに「ある」ことを示すだけでも済む。場合によっては「格差があって何が悪い」と開き直ることも可能である。だが、貧困はそうはいかない。貧困は人々のある生活状態を「あってはならない」と社会が価値判断することで「発見」されるものであり、その解決を社会に迫っていくものである。(p.8-9)


「貧困」は「あってはならない」という価値判断をすることで「発見」されるものであり、「発見」された「貧困」はそれを解決するという問題を社会に迫るものであるという論点は、本書を一貫して流れている考え方であり、学ぶべき考え方である。



 むろん、貧困が問題視されなかったのは、「豊かな」時代になったからだ、と多くの人は言うだろう。まさに貧困の時代から高度消費の豊かな時代に移り変わったのである。これは、もっともらしい説明である。だが、「豊かさ」や中流化の実現、社会保障制度の整備は、他の先進諸国でも同様であった。そして、他の「豊かな社会」、他の福祉国家では、しつこいほどの貧困の「再発見」が行われている。
 だから、貧困の「再発見」をしつこくやったか、きれいさっぱり忘れたかは、社会全体の「豊かさ」とは、実は関係がないのである。
しつこくやったか、忘れたかの違いは、「豊かさ」の中に潜む貧困を「再発見」しようとする「目」や「声」が社会にあったかどうかにかかっているのではないか。
 もちろん、どこの国でも政府や経営者団体は、貧困問題を取り上げたがらない。貧困は政治の失敗、市場の失敗を表しているからである。他の先進国で貧困の「再発見」がなされるのは、現政府の失敗をあげつらって政権交代に持ち込もうとする勢力が強いからだともいえる。
 日本では同じ政党の長期政権が続き、おそらくはそれとの関係で、対抗勢力としての野党や労働組合、マスメディア、さまざまな市民団体も、貧困に無関心であった。(p.26-27)


日本で「貧困」が忘れ去られたのは、政治的な要因が大きい。この説明には説得力がある。


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朝日新聞「自衛隊50年」取材班 『自衛隊 知られざる変容』(その2)
MD導入について。

 日本の防衛産業は、F15などの歴代の主力戦闘機の導入に見られるように、米国製のライセンス生産で技術を学び、生産ラインを維持してきた。
 その構図が揺さぶられている。自国の技術覇権を守るためには、たとえ同盟国相手であれ、ライセンス生産を容易に認めない。米国の戦略的な姿勢がはっきりしてきた。MDの導入は、日本の兵器体系を根本から変える可能性をはらむだけに、その衝撃は大きい。(p.243)


MDを巡る情勢として一応押さえておきたいところ。



 もう一つの特徴は、米国の情報への依存である。警察、内調、外務省はいずれも米中央情報局(CIA)との情報交換を行っているが、日本側にはCIAの情報を検証する能力がない。独自の外交政策を打ち出すには、各国との真の情報交換を可能にする独自情報源の確保が必要だが、その基盤はまだ弱いのが実情だ。(p.348)


今の日本の政治家などの状況から考えると、こうした情報を確保しても、その情報を適切に使ってくれるかどうかという疑念が払拭できないが、しかし、こうしたアメリカへの情報依存も冷戦構造の内部でこそ機能しえたものである。そう考えると、独自情報源の獲得はやっていかなければいけないとは言えるだろう。一市民の立場から見て重要なのは、問題はその情報の使い方であり、情報を適切に使うための仕組みの整備であろう。

その点で、後藤田正晴へのインタビューで彼が次のように述べているが、私もほぼ同意見である。

 「謀略はすべきでない。かつて坂田道太・防衛庁長官が『ウサギは相手をやっつける動物ではないが、自分を守るために長い耳がある』と言ったが、僕は日本という国を運営するうえで必要な各国の総合的な情報をとる『長い耳』が必要だと思う。ただ、これはうっかりすると、両刃の剣になる。いまの政府、政治でコントロールできるかとなると、そこは僕も迷うんだけどね」(p.365)





 朝鮮戦争では、米軍の要請で、海上保安庁は秘密裏に「特別掃海隊」を編成して参加した。延べ1200人と掃海艇など25隻を投入した。死者1人、負傷者18人の犠牲者を出したが、当時は一切公表されなかった。(p.367)


チベットや四川省の地震の報道などで中国を批判したりする人は多いが、日本もそれほど大きくは違わないという認識を持つことは重要だろう。むしろ、そうした他人の振りを見てわが振りを直さなければならないというべきだろう。

現在の日本でも、ここで引用したような隠蔽が行われていても何ら不思議ではないと思う。


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朝日新聞「自衛隊50年」取材班 『自衛隊 知られざる変容』(その1)

 多国籍の世界での活動を通じて、自衛官らは一様にこんな印象も抱く。
 「日本だけが制約のある国ではない」
 有志連合に参加している国は、それぞれの法律や政策上の制約を持っていて、その範囲で活動している。「米軍に基地を提供した」というだけの貢献で、胸を張って参加する国もある。米中央軍の将校も「各国の軍に制約があるのは当たり前。できる範囲のことをしてくれればいい」と言う。それを知って、自衛官らは目からうろこが落ちたような気持ちになるらしい。
 尾崎が言った。
 「ここに来て感じたのは、『普通の国』なんてないということ。それは幻想だ。米国こそが特殊な国、日本は『制約がある』と最初に言うのではなく、自信を持って『これが出来る』と言えばいい」
 65分の1の自画像が、旧来の同盟でもたらされた固定観念の呪縛を解き始めている。(p.58)


「『普通の国』なんてない」というのは重要な認識である。

なお、余談だが、「65分の1」と書いているのは、アフガニスタンへの侵攻のための有志連合に参加していた国の数が65あったことから来ている。自衛官らは、米軍以外の軍隊の活動を見ることによって、自衛隊や米軍のあり方が相対化されたわけである。



 1999年から1年間、米陸軍大学(AWC)に留学した。そこでの体験を、番匠は忘れられない。
 現代戦で最も重要とされる戦場の情報を、米軍が各国とどこまで共有できるのか、教官が同盟国の信頼度を示す三重の同心円を示した。
 中心に米国、英国、ドイツ、フランス。次の円内にはイタリア、オーストラリア、カナダ、オランダ。日本は最も外側の円の“others”(その他)にあった。(p.101)


米軍にとって日本(自衛隊)というのは、それほど重要なパートナーではないということである。「日米同盟」の結束の固さを誇る日本の支配層の人々の認識となんと大きな隔たりがあることか!



 冷戦後に欧米の軍は、大規模な削減努力を続けてきた。日本とは安全保障環境が異なるとはいえ、1990~2003年の間、自衛隊の2%減に対し、欧米の軍は30~51%も減らしている。(p.195)


人員について欧米では激減しているが日本はほとんど変わっていない。

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阿部彩、國枝繁樹、鈴木亘、林正義 『生活保護の経済分析』

第1に、支出目的別に生活保護費をみると(図0-2)、総額約2.5兆円のうち、被保護世帯の医療支出に充てられる経費(医療扶助)が51.9%と半分以上を占めている。その一方、生活保護という言葉からイメージされる日常生活のための経費は、45.7%(生活扶助33.5%、住宅扶助12.2%)と半分にも満たない。第2に、受給世帯総数の構成比(図0-3)は、高齢者世帯46.7%、母子世帯8.8%、傷病者世帯24.8%、障害者世帯10.3%、その他の世帯9.4%となっており、高齢者と傷病・障害者世帯で約8割以上を占めている。第3に、条件さえ整えば稼働能力があると考えられる受給世帯(母子世帯およびその他)は受給世帯総数の2割以下である。公的扶助制度は、しばしば労働インセンティブとの関わり合いで批判されるが、このように就労が現実的な問題となる受給者が我が国の生活保護に占めるウェイトは小さい。(p.10)


これは2004年度のデータである。生活保護に関して考えていく場合、基本的な現状認識として上記の点はいずれも重要であると思われる。とりわけ、医療扶助への支出割合が高いことと、労働可能な受給者は2割程度しかいないということは重要である。

医療扶助に関してはやはりカテゴリー別の扶助制度に分立させるべきであり、生活保護制度から切り離すのが妥当な選択であろう。



格差は、所得や消費などの生活水準の分配の状況を単に記述するものであり、計測方法やデータの変化に伴うテクニカルな判断を要するものの、その格差が適度であるのかという価値判断を含んではいない。一方で、貧困は、社会の中で「許されるべきでない」状況を表す概念であり(岩田 2005)、そこには、何が「許されるべきでない」ものなのかという価値判断が存在する。(p.23、本文の傍点部に引用文では下線を付した。以下同様。)


岩田2005とは岩田正美の『現代の貧困』である。このブログでも後日取り上げる予定なので、細かいことはその際に書くことにするが、この「格差」と「貧困」の概念の相違は重要である。

貧困は明確な価値概念であるが、格差はそれが明確ではない。しかし、本書の著者や岩田は、価値判断を含んでいないと言っている点については、厳密に言えば誤りである。なぜなら、「格差」の概念にも「何が比較されるべきか」という価値判断は含まれているからである。(ついでに言えば、どのように比較されるべきかという価値判断も含まれている。)比較されないものは、違い(格差)があっても無視されてしまう。違いがあってもどうでもいいものは問題にされない。「何が問題なのか」ということは格差の概念にも含まれているのである。



必要な防貧機能が維持されるためには、常に、貧困に面している人々がどのような人々であり、どのような制度が彼らを対象にしているのかを把握したうえで、ニーズにマッチした制度改正を行う必要があるのである。(p.30)


政策を考える上での基本である。事実の積み上げから対策を見出すこと。

ただ、認識論的に言えば、「事実」というものは理論負荷的である点はあまり素朴に捉えてはならない。そこには上の格差と貧困の概念の所で述べたような価値判断が常に潜んでいる。したがって、絶対的に妥当な政策というものはありえない。「何が価値あるものであるか」を選択していくことが政策を作るという行為には伴うのである。



日本の政府移転は他国に比べて、貧困層に比較的に重い負担と低い給付、非貧困層に比較的に軽い負担と手厚い給付を行っている。(p.48)


これが実証的な分析の結論である。

社会保険料や税についてもっと累進的に課税すべきであり、給付について貧困層により手厚い給付をすべきである。上記の事実は、私の持論を支持する事実であると言える。



 労働供給に関する文献においては、働くか否かという就労の選択をextensive marginと呼び、何時間働くかという労働時間の選択をintensive marginと呼ぶが、EITC、WFTCおよびSSPの労働供給への影響に関する実証結果は、extensive marginに関する労働供給の弾性値は相当大きいものの、intensive marginに関する労働供給の弾性値は小さいことを示している。(p.64)


EITCとはアメリカの低所得者への補助金であり、WFTCとはイギリスの母子世帯を対象とする就労税額控除である(2003年に対象が拡大されWTCになった)。また、SSPはカナダの母子家庭を対象とした社会実験であり、週30時間以上働いた者に目標金額と実際の収入の半分だけ給付金が払われるという条件で、労働時間などがどう変わるかを実験してみたものである。

上記の引用文が示しているのは、こうした低所得層への金銭的な優遇措置による誘導は、「就労するかどうか」には関係が深いが、「何時間働くか」にはあまり関係がないという結果になったということである。この事実については、このブログやメインブログでも過去に取り上げたことがあったと思うが、一般には十分に区別されずに粗雑な使われ方がされている事例が多いように見受けられる。



生活保護の医療扶助について。

 したがって、この外来医療にモラルハザードによる無駄な医療費が存在しているのであれば、自己負担導入よりも「アクセスコントロール」で対応するほうが現実的であると思われる。アクセスコントロールについては、本来、1節で説明したように医療券・調剤券制度と要否意見書制度が存在しているが、現状は都市部を中心に「なし崩し」の状態であり、ほとんど機能していない。・・・(中略)・・・。
 この背景には、福祉事務所が医療機関よりも医療の専門知識に乏しく、アクセスコントロールの責任が取れないために、医療機関と患者の言いなりにならざるを得ないということがある。したがって、このアクセスコントロールを再び機能させる一つの方法は、イギリスの国民医療制度(NHS: National Health System)のようにゲートキーパー医を設けることである。イギリスの国民医療制度は全額公費で行われる代わりに、患者は勝手に医療機関を選択することができない。ゲートキーパーという主治医をまず受診し、その医師の判断によって、さらに別の専門的な医療機関にかかれるかどうかが決められる。現状でも、生活保護制度には指定医療機関制度があるが、その協力関係をさらに強化・法制化することにより、各地区にゲートキーパー医を設けてはどうか。そして、事前に協力謝金などの形で医療機関の協力を予算化することにより、頻回受信者を注意したり、不必要な診療は拒否、認めないようにする。こうしたアクセスコントロールは、医療の専門家のみが可能な制度なのであり、これまで福祉事務所に権限があったことがそもそもの間違いなのである。(p.164-165)


大変よいアイディアであるように思われる。緊急の入院が必要な場合などはこうした手順を踏めないかもしれないが、通常の場合はこの制度でやった方がいいように思われる。

ただ、ゲートキーパー医に不要な診療を拒否する誘因があるかどうか(実際にどの程度、頻回受信者への注意のようなことが行われているのか)という点がやや気になる。専門知識に基づいて客観的に判断することができるとい前提に立っているが、イギリスではこのあたりはどうなっているのだろうか?非常に気になるところであり後日調べてみたいところである。



 しかし、公的扶助制度を国際比較する場合は、国によって公的扶助の守備範囲が異なることに注意する必要がある。公的扶助は最後の安全網であるが故に、その守備範囲は他の社会保障制度がカバーしない「残余」の部分となる。例えば、他の安全網が充実していると公的扶助の守備範囲は小さくなり、また逆に他の安全網が貧弱であると、公的扶助の守備範囲は大きくなる。(p.240)


この指摘は基本的であり、それゆえに重要であろう。忘れてはならないこと。



 地方公共団体による生活保護事務は、生活保護法や社会福祉法などが規定する法定事務である。生活保護受給にはさまざまな要件があり、これらの要件を確認するためにケースワーカー(生活保護担当の現業員)は資力調査を行う。このような保護決定・保護費給付事務は、救護施設整備に加えて、法定受託事務とされる。もちろん、生活保護事務はそれだけではなく、社会福祉法によって現業員は「本人の資産や環境等を調査し、保護その他の措置の必要の有無及びその種類を判断」するだけでなく、「措置を要する者等の生活指導を行う」ことが求められる。つまりケースワークであるが、これは法定受託事務とされていないため、(法定)自治事務とされる。(p.242-243)


生活保護の事務はすべて法定受託事務かと思っていたのだが、その核心ともいうべきケースワークが法定受託事務ではなく自治事務であることに、単純に驚いた。


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新藤宗幸 『新版 行政ってなんだろう』(その2)

 小泉政権による政府規制の緩和は、じつに多方面におよびました。経済をいかに回復するかが背景にあったのですが、政府は成長部門と衰退部門を区別し、成長部門にお金が流れることを重視しました。いまや銀行と証券業の垣根はないのに等しくなりました。銀行の窓口で投資信託が販売されるようになりましたが、それは銀行預金や郵便貯金への貯蓄を防ぎ、成長企業へ家計のお金が流れるようにするためです。実際、銀行預金の利子は日銀のゼロ金利政策によってないのに等しい状況がつづいてきましたから、これは「一定」の成果をおさめたともいえます。しかし、多面で産業分野間や地域間の「格差」の拡大をもたらしたばかりか、市場のモラルを荒廃させたともいえます。それは21世紀になって続発したマネーファンド事件にみることができます。(p.139-140)


貯蓄から投資への流れは、企業に金を流すものだということは誰にでもすぐにわかることだが、それをより正確に言えば「成長部門の企業」に金を流すものだという本書のように理解する方が妥当だろう。



 政府規制をどのように考えるかは、エピローグでもう一度述べることにしますが、少なくともここでいえることは、社会的規制を重視して政府規制を組み立てなおすことだといえます。一般的にいって、政府規制には二つのカテゴリーがあります。一つは経済的規制といわれるものであって、各種の産業に対する規制です。もう一つは、社会的規制といわれるものです。たとえば、一つの企業が特定の市場を支配し価格を自ら決定してしまうような状況を排除したり、企業が商品の価格や内容を協定するカルテル行為を規制し、市場の公正な取引を実現することです。また、同一労働・同一賃金の原則のもとに労働条件に公正な基準を設定し、その実現に向けて監督することです。商品やサービスの安全性に基準を設けそれを実現すること、大気や水質の汚染を監視し自然環境の保全をはかること、土地利用に一定のルールを設けることなども、重要な社会的規制です。
 ところが、日本の政府規制では、この二つがきちんと腑分けされないばかりか、経済的規制のなかに社会的規制が取り込まれてきました。業への規制緩和とともに社会的規制をも葬ってしまうのではなく、社会的規制こそが政府規制の中心におかれるべきでしょう。(p.143-144)


社会的規制というのは、市場経済における市場以外部分、それも市場が機能するための土台のような部分の基礎固めのようなものである。そこを切り崩してしまっては元も子もないのだが、現実には沿うした方向の「カイカク」が進められてきたわけだ。

そうした点が見えやすくなるという意味では、社会的規制と経済的規制という概念区分は意味がある。しかし、現実に、具体的なある規制を社会的規制と経済的規制に厳密に区別することは困難を極めるだろう。その意味で、現実的な解決能力をそれほど高めるものではないようにも思う。

こうした限界はあるが、この概念区分は一般的な世論には現時点では浸透していないから、まだ使う余地はかなりあるだろう。



 日本の公共事業予算のなかでつねに問題視されてきたのは、道路整備費が抜きんでたシェアを維持してきたことです。実際、2000年には9兆4307億円のうち2兆7766億円と約30パーセントのシェアを誇っていました。ところが、2006年度には1兆6105億円と1兆円以上の削減となっています。この一方で、増加が目立っているのは、住宅都市環境整備です。これは小泉政権が進めた都市再生プロジェクトによるものです。このプロジェクトは、密集市街地の再開発事業や老朽住宅耐震改修などを中心としているのですが、三大都市圏内の道路の整備もふくまれています。こうして、たしかに道路整備費としてはシェアをさげ、予算も削減されているのですが、都市再生プロジェクトという別枠で道路整備がおこなわれているのです。(p.154-155)


表面上の数字だけを見ていては実態はわからない。ニュースなどでは道路整備費はこんなに要らないという論調で一色だったが、そのときの攻撃材料も似たような「表面上の数字」による印象操作がかなり多いということは一応釘を刺しておく。

その上でもう一つの論点は、ここで見られるような道路事業の「付け替え」は、大都市圏への公共投資の増加と大都市圏以外への公共投資の減少という形をとっていることである。これは本書のp139-140の部分の引用で示したところの「成長部門」と「衰退部門」を政府が区別し、「成長部門」だけに金が流れるようにしたということの典型である。

むやみやたらに道路事業を減らせ、特定財源を減らせという主張をしてきた人びとにこうした内容についての見識がどれほどあったのか?本当の問題は道路ではないのだが、そのことに気づいていた人がどれだけいたのか?金の流れに偏在が生じるということは、金が流れない地域では自給自足経済にでもならない限り生活できなくなることを意味する。財政を用いた公共サービスもなくなっていくことを意味する。それは一つ前の引用文で言う社会的規制をなくしていくことと同じようなものである。市場によって調達できない公共的要素を供給することがその本分なのだから。

政策批判をする場合、こうした大きな流れと同時に細部にも目を配って行わなければならない。専門書でも読まない限り、そうした言論とはなかなか出会えない昨今の言論の現状には危惧を覚える。



市場化テストについて。

 政府やこの導入を推進する学者たちは、あたかも日本独自のアイディアであるかのように語ってきましたが、これは第Ⅰ章の1で述べたイギリスのサッチャー=メージャー保守党政権による「強制競争入札制度」をモデルとするものです。
 日本の場合、2007年度に対象とされたのは、ハローワーク(職業安定所)関連業務、国民年金保険料徴収業務、統計調査業務でしたが、2008年度には、国立病院の未収金や公営住宅の滞納家賃の徴収、上下水道の管理業務など22業務がくわえられ、全体で40業務となります。
 政府はこれによって公的支出を削減できるばかりか、新たな市場の開発ができるとしています。しかし、先行したイギリスでは、民間落札業者によるサービスの低下や従業員の労働条件の悪さなどが問題視され、ブレア労働党政権のもとで大幅に修正されました。たしかに、公共機関の現業部門の担い手がかならずしも公務員である必要はないかもしれません。とはいえ、右のような業務は、個人のプライバシーに密接に関係する分野が少なくありません。守秘義務をどのように順守させるのか、入札の仕様書に質の保証をいかに書き込み、サービス水準の維持をはかるのか、労働条件をいかに適正に守らせるのか、課題は山積しているのです。野放図な「市場化テスト」による公共サービスの「市場化」は、あってはならないことです。(p.198-199)


全く同意見である。


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新藤宗幸 『新版 行政ってなんだろう』(その1)

 官僚制(bureaucracy)ということばが、ヨーロッパ諸国で使われるようになるのは十八世紀末以降であり、それほど古いことばではありません。(p.44)


官僚制という言葉が使われるようになったことは、フランス革命によって支配階層が変化していわゆる近代官僚制を整備する必要が生じたり、啓蒙専制君主がその家産官僚制を強化していった時代の状況を反映していると思われる。すなわち、中央集権的な「国民国家」が成立していくプロセスの中で、統治の機構として不可欠なものとして官僚制化が進行したという事態を反映しているのではなかろうか。



 政治はつねに、私たちの雇い人たちの集団作業である行政を、統制していかなくてはなりません。それは強調してもしすぎることはないのです。けれども同時に、行政の機構、仕事の処理方法や手続き、仕事の公開と市民による統治のしくみなどについて点検し、行政国家の問題を克服した新たな行政のシステムを設計することが必要となります。そこに、政治を学ぶのとは相対的に区別された、行政を学ぶ意義があるといえるでしょう。(p.53)


行政学を学ぶことの意義。私の考えでは、こうした「行政の機構、仕事の処理方法や手続き、仕事の公開と市民による統治のしくみ」を知ることは、望ましい政策のあり方を考える際に重要な知識であると考える。実施の方法まで考えられるからである。



 しかも、閣議で議論が交わされることはありません。ニュースなどでいう閣議での議論というのは、閣議後の閣僚懇談会でのものです。閣議では閣僚は粛々と「花押」といわれる書判(草書体で書いた署名をくずしたもの)を、閣議決定文書に記載していくだけです。そして、この閣議決定案件は閣議の前日(定例閣議は火曜日と金曜日)に開催される事務次官会議で調整されたものです。事務次官会議は、高級官僚OBである内閣官房副長官(事務)を主宰者として、各省の事務次官から構成されています。事務次官会議にはなんらの法的な根拠もありません。慣例として設けられてきましたが、ここで全員一致した案件が、閣議に送られるのです。ここにもまた「所轄の原則」がおよんでいます。そればかりか、後にまた考えますが、官僚機構の影響力の大きさがうかがわれます。(p.71)


このように見ると、事務次官会議はけしからん、という話になる。実際、本書でも著者は事務次官という職自体を廃止するべきだとまで言っている。しかし、敢えて言えば、そうした極端な意見は「民主主義」というイデオロギーの原理主義的な適用ではないか。「民主原理主義」とでも呼んでみようか。

民主主義というイデオロギーが重要なものであることは私も否定しないが、すべてがこのタテマエの下で進まなければ、それは非民主的であり否定されるべきだという短絡は有害だと言える。そのような二項対立の単純な世界観は現実と齟齬をきたして当たり前なのであり、その単純な世界観と一致しないものを排除するという発想は健全なものとは思えない。


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杉村宏 編著 『格差・貧困と生活保護 「最後のセーフティネット」の再生に向けて』(その2)

 しかしわが国では、資産調査が資産の調査のみではなく、むしろ稼働能力の活用や扶養義務の履行などの調査を厳しくする傾向があり、OECDの調査によれば、わが国の資産調査はもっとも厳しい国のグループに属するという。
 最近では、稼動年齢にあるというだけで申請書を交付しないとか、扶養義務調査を厳しくすることによって保護の申請を思いとどまらせるなど、いわゆる「水際作戦」が横行している。このようなことが起こる理由は複合的であろうが、制度そのものがオープンでしかも包括的な保障であることも一因と考えられる。一般扶助による包括的保障のシステムを、運用によってこのように歪曲することは好ましくなく、本来の機能を発揮するように運用することが必要である。
 また、生活保護制度は、所得保障にとどまらず最低限度の生活保障を行うこととされており、事実上の社会生活全般のナショナルミニマム保障制度となっているが、このことが各領域におけるミニマムの追求を鈍らせてきた面があることである。(p.82-83)


水際作戦が起こる一因として制度が包括的なものであることを挙げているのは慧眼である。一度保護を開始してしまえば給付を行う側はそれだけ大きな財政的および事務的な負担を抱え込むことになる。受給者が際限なく増えれば、それだけ負担は大きくなる。

現在、私が読んでいる最中である『生活保護の経済分析』によると、情報の非対称性が存在する場合には、日本の生活保護のような包括的な保障よりも、分野や給付対象者のカテゴリーを限定した給付を分立させるほうが効率的であるという実証結果があるとされている。そうであるならば、現在の日本で問題になっているような不正な運用(水際作戦や辞退届強要など)を防ぐ上でも、カテゴリーごとに分立した制度の方が有効なのかもしれない。(なお、引用文の最初に指摘されているように日本の生活保護のミーンズテストが厳しいのは、包括的な給付であることに起因する面が大きいと思われる。水際作戦が行われるのと同じ誘因に基づくものであろう。)



 そして現在、わが国の社会保障の諸制度は、社会福祉構造改革路線により極端な保険主義に陥っている。(p.85)


極端な保険主義というのは的を射た表現である。



 123号通知は、生活保護を利用しようとする者および利用している者に対して無差別に不正受給との疑義をもたせ、調査件数を競わせてきた。福祉事務所は生活困窮問題解決のための第一線現業機関から、「取り調べ室」ないしは「調査機関」と化した。・・・(中略)・・・。
 しかし、123号通知に拘束力があるわけではない。自治体側が監査で追求や指摘を免れるため違法行為を行っていることになる。元々、関係先調査については、生活保護法第29条に根拠をもつとしているが、条文にはどこにも全件調査しろとは規定されていない。ただ「必要があるときは」とあるだけである。一方、123号通知の内容には、提出書類や家庭訪問により疑義が生じた場合に調査を行うことができるとしか記述されていない。したがって機械的・一律に調査を行うことは明らかに調査権の濫用にあたる。また、金融機関等と生命保険会社に関しては、会社側は福祉事務所からの照会に回答することができるのは、本人届け出の印鑑と同意書の印鑑が一致した場合のみである(このことは銀行協会に確認済みである)。したがって、いずれにしても必要最小限度の関係先調査しかできないのである。(p.211-212)


金融機関や保険会社に対する機械的で一律の調査に対する批判。123号通知は本物を読んでみる必要があり、その上でコメントするのが妥当なのだが、現時点での考えを記しておく。

確かに一斉調査をすることには問題はあるだろうし、どこにも明示されていないというのは恐らくそうなのだろう。しかし、受給の公正さを保つには、行った方がよいとも言えるのではないだろうか。

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杉村宏 編著 『格差・貧困と生活保護 「最後のセーフティネット」の再生に向けて』(その1)

 2003年8月に、生活保護制度の在り方に関する専門委員会が設置され、2004年12月最終報告書を発表した。その詳細や評価は別にして、報告書がこの「開始時手持ち金」の問題を提起している。
 資産活用の在り方の預貯金の項目で、「保護開始時に保有可能な預貯金の額について、保護開始後の運営資金としての必要性や自発的な家計運営の有用性の観点から拡大することにより、結果的に早期の自立につながりやすくなる。その具体的な限度額については、たとえば新破産法にかんがみ、最低生活費の3ヶ月分までは保有可能とすることも考えられる」としている。
 新破産法とは、2005年施行の改正破産法のことであり、ここでは自己破産をした場合の本人の手元に残す金額として、標準生活費の3ヶ月分をめどとしている。生活保護の最低生活費は標準生活費の約7割といわれている。せめて自己破産並みの扱いをというわけである。
 ・・・(中略)・・・。
 厚生労働省保護課は、委員会報告を尊重して開始時手持ち金を最低生活費の3ヶ月分に改正すべきであろう。(p.32)


生活保護の開始時手持ち金として現在認められるのは、最低生活費の1/2までである。月16万円の最低生活費であれば8万円ということだし、10万円なら5万円である。そこから最低生活費分だけが支給される生活が続く。

生活保護を受給している人びとの声(例えば、『この国に生まれてよかったか 生活保護利用者438人 命の叫び』など)によれば、冠婚葬祭などが保護受給者にとっては非常につらいものになっていることがわかる。つまり、知人の葬式などの臨時の出費にすら耐えられない生活を送っている人がおり、生活保護受給者にはそれは少なくないのである。

そこまでギリギリの生活をしている以上、保護費を受給する状態から抜け出すことは容易なことではないことは想像に難くない。不正受給を防ぐことは重要だが、経済的に自立できる世帯(高齢者や障害者の世帯以外)にまで、その可能性を奪うような制度設計には問題があるといえよう。例えば、資格を取ることで就労の可能性や収入増加の可能性が高めたりすることも現行の制度ではやりにくいが、資産保有をもう少し認める制度設計になっているならば、経済的自立を助長する制度としての機能を果たしうる。



 以上の結果からわかることは、今日の被保護層は国民全体の1%程度にすぎず、稼働能力を失った高齢者や傷病・障害者世帯が大多数を占め、経済的な自立によって生活保護から脱け出していくことが困難になりつつあるということである。その結果、生活保護受給期間は長期化し、5年以上生活保護を受けている人は50%近くを占める状況にある。さらに世帯規模は極小化の傾向にあり、全体の73.7%が単身者であり、2人世帯と合算すると90%に達する状況にある。
 職場や家族、さらには地域からも切り離された状態が、今日の生活保護世帯の実像であり、その特徴は社会的孤立である。
 このような状況は、稼動年齢層を「適正化政策」によって締め出した結果、ワーキングプアといわれる稼動貧困層の生活保護利用が困難になっていることもその一因である。(p.42)


生活保護の現状について簡潔にまとめられている。

とりわけ、保護受給者の特徴として社会的孤立が挙げられている点は興味深い。これはある意味では、補足性の原理の帰結だとも言える(誰からも援助を受けられない人であればこそ、水際作戦を突破して生活保護を受給できる)が、資産やちょっとした予備費すら用意するのが難しい生活を強いられている保護受給者には交際費すら十分でないことを反映している。実際、保護受給者の声を集めた前掲書でもそうした声が多数掲載されていた。

そして、このように社会的に孤立してしまった人は、人的なネットワークを活用できなくなるということだから、何をするにしても困難な状況、不利な状況に陥りやすいのである。こうして悪循環に入っていくわけだ。



 社会保障審議会福祉部会の「生活保護制度の在り方に関する専門員会」の検討報告(2005年12月15日)では、「入りやすく出やすい制度(利用しやすく自立しやすい制度)」へと生活保護制度の改革の方向性が示される一方で、生活保護の自立の考え方として経済的自立のみを自立として狭くとらえるのではなく、保護制度を含め、さまざまな社会保障・社会福祉の諸制度を活用しながら社会的自立や日常生活自立をめざすことも生活保護における自立に含まれることが確認された。しかしながら、制度運営のレベルにおいては、保護を受けさせないこと、保護から脱却させることこそが生活保護における自立であるという従来の考え方に基づいて、リバースモーゲージの活用を半ば強制することで、高齢者までも生活保護制度から排除しようとしている。(p.48)


ここで述べられているような自立の概念についての理解が深まった点が本書から私が得た最大の収穫であった。こうした考え方が中央の審議会で出ているということはある意味画期的なことであるようにも思われるが、しかし、実施する側から考えたとき、経済的自立以外の自立を促すインセンティブは非常に低いように思われる。(現場のケースワーカーにしてみれば、日常生活的に自立しているケースに対しては手がかからなくなるから歓迎されるだろうが、それすら出来ていない人が、「まっとうな」生活が送れるようにすること自体、とてつもないエネルギーを必要とすることが想像できる。)

こうしたことを考えると、「制度運営のレベル」においては、従来の考え方が前面に出てくるのは半ば必然的とも言えそうである。問題は、これをどのようなやり方で改めていくか、ということであろう。



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小林多喜二 『蟹工船、一九二八・三・一五』
『蟹工船』より。

 北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木もそれはそのまま一本一本労働者の青むくれた「死骸」だった。築港の埋立には、脚気の土工が生きたまま「人柱」のように埋められた。――北海道の、そういう労働者を「タコ(蛸)」といっている。蛸は自分が生きて行くためには、自分の手足をも食ってしまう。これこそ、全くそっくりではないか!そこでは誰をも憚らない「原始的」な搾取が出来た。「儲け」がゴゾリ、ゴゾリ掘りかえってきた。しかも、そして、その事を巧みに国家的富源の開発ということに結びつけて、マンマと合理化していた。抜け目がなかった。「国家」のために、労働者は「腹が減り」「タタき殺されて」行った。(p.65-66、原文の傍点には下線を付した。以下同様。)


鉄道の枕木が労働者の死骸だったという表現は強烈である。

この少し後のところに次のように書かれている。

 ――内地では、何時までも、黙って「殺されていない」労働者が一かたまりに固って、資本家へ反抗している。しかし「植民地」の労働者は、そういう事情から完全に「遮断」されていた。(p.69)



「そこでは誰をも憚らない「原始的」な搾取が出来た」というのは、北海道という「植民地」は、本国の法が十分に適用されない半ば無法地帯であるから、むき出しの権力が暴力的に搾取することが出来たということであろう。そして、その結果、「枕木」が労働者の「死骸」であるような状況が現出するのである。

このあたりは、本国と植民地という地理的な捉え方から切り離し、実質的な意味を問うてみると「規制緩和」の多くは、とりわけ労働に関する規制緩和(派遣労働を認めたことなど)は、本国である地域を、上記のような「半無法地帯」という意味での「植民地」に変えることを意味する。その帰結は、枕木が死骸であるような状況である。その際の理屈は、「日本全体の活力」というようなことが言われていたが、それは上記の引用文の「国家的」富源の開発とほとんど違いはない。

こうした現代に通じることが多く書かれているのがこの小説が今見直されている所以であろう。このように現代に当てはまる事態が多い理由は、ブレトン・ウッズ体制が崩れたことによって経済面で資本移動の自由化が進み、それに加えて冷戦構造が崩壊したことによって資本移動を妨げていた東西の政治体制間の壁が低くなったために、ブレトン・ウッズ体制崩壊後から進んでいた資本移動の自由化が劇的に加速したことにある(このことが「グローバル化」と呼ばれてきた)。その結果、冷戦崩壊後の世界は第二次大戦以前の状況と極めて近い状態になったのである。

そこでは資本移動の自由化によって資本家(投資家)の選択の自由は増大し、それに対して経営者の立場は相対的に弱くなり、労働者の立場はさらに弱くなる。そこでは社会と経済が不安定化するために、イデオロギー面でそれを糊塗する形でナショナリズムが高揚する。そこには社会不安が反映している。

(19世紀後半にロマンティシズムやナショナリズムの高まりがあり、その後、社会不安を背景にするような著作が――ヨーロッパ諸国や世界システム論でいう中核に近い地域では――多く受け入れられたと私は見ている。ナショナリズムをもってしても結局は資本の力による社会システムの破壊という現実を合理化しきれなくなるために、社会不安が高まらざるをえなかったからである。具体的には、キルケゴールやニーチェ、ハイデガーなどがそうであり、また、デュルケームの『自殺論』やウェーバーの『プロ倫』などにもその要素があり、また、この時代のロシアの文学なども恐らくそうした要素があるのではないだろうか。)


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花崎皋平 『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』

 松浦武四郎が、「北海道」という名称の名づけ親であるというのは、別にまちがいではないが、正確な事実はこうである。彼は、明治二年(1869年)七月七日、「道名の義につき意見書」を政府に提出している。そのなかで彼は、日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北道、千島道の六つを原案としている。そのうちの北加伊道と海北道とを折衷したようなかたちで「北海道」が正式名称にえらばれるのだが、彼が北加伊道を案とした理由は、アイヌ民族が自分たちの国をカイと呼び、同胞相互にカイノー、またはアイノーと呼びあってきたからというところにあった。北加伊道が北海道に変えられたとき、そこにこめられた大事な意味も消された。その名づけを産んだ流れは、武四郎一人の力や思いではどうにもならない滔々たる濁流となって、この近代百年を押し通してきているものであった。武四郎は、明治に入るとすぐその流れの外に身を置いてしまう。(p.11)


北海道の名の由来がこうしたところにあったとは知らなかった。アイノーという語とアイヌという語は恐らく関係があるのだろうが、そうならHOKKAIDOのAIはアイヌのアイとも関係があることになりそうだ。



 明治の初め、開拓に入った人びとの苦労話に必ず出てくるきまり文句に、人跡未踏の原始の森林を拓き、不毛の地を沃地に変え、というものがある。いまにつづく開拓のイデオロギーである。それに比べて、ここで武四郎が開陳しているこの地の見方は、なんとちがうことか。「菜根植え百穀を種に」すること、つまり「開拓」よりも、「洪徳を植種し」、アイヌの「人員漫延」を計れという考え方の方が、どれほど人間的であることか。(p.119)


私は生まれも育ちも北海道だが、確かに「北海道の開拓」というと、ここで述べられているような決まり文句のイメージがどこかにある。しかし、北海道の地にはもともとアイヌの人びとが住んでおり、彼らなりの社会を形成していたのだから、こうした「開拓のイデオロギー」はかなりの程度虚構であるというほかない。



 私には、この歴史的事件にまつわる忘れがたい記憶がある。それは1983年の夏のことであった。オーストラリアから、一人のアボリジニーの反核運動家が北海道を訪れた。彼は、オーストラリア政府と先進国多国籍企業とがウラン鉱開発を進め、そのため先住民族の聖地が冒されていることを訴える目的で、ヨーロッパをまわって日本にやってきたのだが、北海道へは、おなじ先住民族で、同化を強いられて苦しんできたアイヌとの出会いをつよく希望して訪れたのであった。
 私は、一夜、夜と数人のアイヌの人びととの対話の仲だちをつとめた。彼は、その席で自分たちの歴史をこう語りはじめた。「1788年に、イギリスから千名余の流刑囚をのせた船が、私たちの地に着きました。それまで、私たちアボリジニー諸族は、平和な暮しをたのしんでいたのですが、その白人船の到来以来、私たちは狩猟の標的とさえされるようなひどい扱いを受け、人口は減ってゆきました。その年から、私たちの不幸の歴史は始まったのです。
 これを聞いたアイヌは、「その翌年の1789年は、私たちの先祖が、和人の暴虐に抵抗して立ち上った最後の組織的蜂起の年だったんですよ。私たちの抑圧の歴史はさらに昔からのものだったんですよ。でも、近現代の歴史はおたがいにほんとに似かよっていますねえ」と涙を流した。アボリジニーの彼も、おたがいの歴史の共通性の「発見」にいっそう心をひらき、両者抱きあって涙にくれたのである。
 おそらく、こうした被差別、被侵略の歴史の同時性は、被差別民族同士が歴史を語りあってみれば、まだまだいくらでも見いだされることだろう。そうした歴史の共有にもとづく被差別、被抑圧民族の復権の営みこそ、これからの民衆の世界史の核心となるべきではないか。(p.190-191)


同じような時期にこうした侵略的な抑圧が起こったことは偶然ではないだろう。19世紀は「移民の世紀」などと呼ばれることがあるが、それは世界システムがグローバルな規模にまで広がったことを受けて、労働力の再編が起こったことを意味する。その直前の時代にあったことは、世界システムがグローバルな規模にまで拡大するという過程があったのであり、上記のような「被侵略の歴史の同時性」は、その際に地球上の各地で起こったことを表わしていると位置づけることができる。

繰り返すと、19世紀までは西ヨーロッパに端を発した世界システムは地理的な拡大が可能な時代であり、この地理的な拡大の際に侵略的な抑圧が各地で起こった。19世紀には地理的な拡大が不可能になったので、世界全体の内部で労働力の再編が必要になったため大量の移民が生まれた。

引用文の最後の部分で筆者が述べている見解は、80年代頃から日本でも学会で広まり始めた社会史を重視する歴史観と軌を一にしている。本書は1988年に出されたものだから、時代的にも完全に一致している。なお、花崎氏の考え方は、基本的に90年代に左派的な思想陣営の一部で流行したポストコロニアル・スタディーズの典型的なものだと言える。

私の立場を言えば、ポストコロニアルは存在しないよりはあった方がよい思想ではあるとは考えているが、それは現状を変革していく理論ではなく、積極的なビジョンを示すことができる思想だとも思えないため、多少距離を置いている。もちろん、ナショナリズムや帝国主義やネオリベラリズムなどと比べれば遥かに親和的ではあるが。

なお、ポストコロニアリズムが積極的なビジョンを語れない原因は、この思想が観察者の立場から記述を行う後向きのものであることにあり、その中でさらに侵略や抑圧に対する抵抗という観点から描かれるために局所的な現象を記述の対象に選んだ上での理論構成にならざるをえないことにある。反省的な理論の場合は大局的な見方をする方が見取り図としての役割を果たせる。行動や変革の理論は局所から出発してよいと思うが、変革をなしうるシステムの作動を捉えた上で、それをプログラム化しなければならない。



 「チャランケのときは、相手にひとつだけ逃げ道をのこしておいてやるもんだ。」
 つまり百パーセント追いつめてしまうような、相手の名誉を損じない負かせ方をせよ、ということである。なんと私たちはこういう知恵から遠ざかってきたことか。(p.301)


チャランケというのは談判とか論争という意味のアイヌ語だそうだ。

確かに論争のときに逃げ道を残してやるというのは、良好な関係を続けながら論争したい場合には必要な知恵かもしれない。


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全大阪生活と健康を守る会連合会 編 『この国に生まれてよかったか 生活保護利用者438人 命の叫び』

 日本では全国最低賃金制が確立されておらず、「最低生活保障基準」を示すものは保護基準でしかありません。従って、生活保護基準が引き下げられることは「健康で文化的な最低生活水準」が引き下げられることであり、賃金、年金などあらゆる所得の低下につながる恐れがあります。(p.210)


本書の別の箇所でも指摘されているのだが、実際に、生活保護の基準が各種の公共料金等の減免措置や児童手当など他の福祉政策の水準のバロメーターとなっている面がある。その意味で、生活保護の基準は極めて重要な意味を持つ指標である。



 政府は、被保護人員が142万5900人(1.2%)になったと大騒ぎしていますが、この数字は欧米諸国と比較してもかなり低い数字です。2002年の社会扶助の国民費比率(日本の生活保護にあたるもの)は、スウェーデン4.85%、フランス5.49%、ドイツ8.8%、アメリカ1.78%です。(p.242)


日本の福祉の水準が低いことはよく知られた事実だが、それを充実させるためには税や社会保障負担を増やさなければならないことについては、ほとんど取り上げられることはない。本書でもそうした主張はまず聞かれない。税や社会保障費を増やすことこそ、福祉の充実にとって必要条件であることが認識されなければならないと私は考える。(どのような形で、どの程度増やすかは、どの程度の保障を行うかによって決まる。)そのために、日本では義務教育だけでなく大人に対しても租税教育が必要だということを、ここ数ヶ月、特に強く感じるようになった。租税や社会保障費の意義について、まともな理解がなされていないため、一面的で重箱の隅をつつくことしか知らないマスコミ報道にいとも簡単に流されてしまっている。



 これもヨーロッパの比較で見てみると、事業主(公的事業を含む)が負担する税と社会保障負担が、各国の国民所得のなかで占める割合は「(2000年度)日本が12.3%(1990年14.2%)に対して、イギリスは16.0%(1990年15.3%)、ドイツは17.7%(1990年15.7%)、フランスは23.6%(1990年23.0%)」(新日本出版社発行 社会保障総合研究センター編 『福祉国家に立ち向かう』187ページより)です。1990年と比較して企業負担が減っているのは日本だけです。この間、「国際競争力に打ち勝つ」ことを理由に44.3%だった法人税を1999年には30%に引き下げ、12%だった法人事業税率も9.6%に引き下げられています。75%だった所得税の最高税率(1974年まで)も1999年には37%まで引き下げられています。(p.243)


90年代に政治と財界の関係が変わったことが端的に現れている。一言で言うと、政界と財界の一体化が進んだ。最近少し変化が見られるが、この政治と財界の関係を変えない限り、「福祉政府」を樹立することは不可能だろう。



 1960年代後半に大阪府と大阪市は、大生連が要望して生活保護の夏と冬の一時金という独自施策を制度化しました(しかし2005年に大阪府・大阪市とも一時金を廃止)。この一時金は大生連との交渉で毎年引き上げられてきましたが、90年に入ってから引き上げはなくなり、逆に90年代中ば(ママ)からは引き下げられました。その理由は「財政難」と「自治体の独自施策の廃止」です。(p.247-248)


自治体が財政難になれば、こうした「独自施策」が廃止されることになる。それは(少し前にメインブログにも書いたが)福祉の分野に多いから、当然、福祉の縮小になる。これを防ぐ最も基本的な考え方は、地方交付税の充実である。その分、中央政府の歳出は増えるが、その財源を増税でまかなうことである。


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湯浅誠 『あなたにもできる!本当に困った人のための生活保護申請マニュアル』

 81年、当時の厚生省が生活保護に関する通達を出した。知る人ぞ知る「123号通達」である。
 事の発端は和歌山県だった。暴力団員による生活保護の不正受給が問題になり、厚生省が通達を出した。それには資産調査のための「同意書」を取ることなどが指示されていたが、それ以降実際に行われたのは、生活保護の受給者一般に対する申請の抑制策、いわゆる「水際作戦」だった。(p.37)


 この123号通達はまさに知る人ぞ知るものであるらしい。生活保護関連の本を読むと結構出てくる。暴力団員などによる不正受給を防ぐために受給のためのチェックが厳しくなったことが、それ以外の人にも及ぶと「水際作戦」になるのはある意味では仕方ないのではないかという気もする。申請自体が抑制されるというのは、恐らく運用の問題なのだろうが、不正受給を防ぐ趣旨の通達があることで、そうした運用に根拠を与えてしまうという面は否めないだろう。

暴力団関係者だということが事前にわかるならまだしも、そうでない以上、不正受給を防ごうとするならば申請や審査の時点でチェックが厳しくなることは当然ではないだろうか。生活に困っている人が申請するのが普通だから、そこにジレンマが生じる場なのだろうと推測する。つまり、不正受給と「おにぎり食べたい」の間のギリギリの所で運用することが必要なものだから、現場で問題が生じるのは仕方ないのではないかというのが、この手の本を幾つか読んでみての感想だ。そこには絶対的な解決策はない。常に手探りしていくしかない。

その際に問題を大きくしていると思われるのが、前回のエントリーで取り上げた『プロケースワーカー100の心得』で指摘されていた現場のケースワーカーや面接係員が専門職ではないという事実だ。生活保護の現場でケースワーカーらが嘘をつくとよく言われているが、恐らく、嘘をつこうとしてついているだけではなく、正確な知識がないまま現場に立たされている人間が言ったことが結果的に嘘になっているという事例が多いのではないかと推測できるからだ。これらの職種を専門職として養成していれば、そうしたミスは防ぐことができる。日本では全般的に福祉制度が充実していないことがその根本にあると言ってよい。

ただ、生活保護のような最後のセーフティネットに至る前に、年金や医療保険などの制度が充実していれば、生活保護は本当に最後のセーフティネットとして限定的な申請者のみを相手にする制度として運用できる。特に年金が少ないために生活保護を受けなければならない高齢者などがいなくなれば(つまり、誰でもよほどの障害や重病でない限り生活できるだけの年金が支給される制度になっていれば)、生活保護の運用も特殊な事例だけに限定して行えるようになるから、不正受給自体がしにくくなり、結果として適正に運用できるようになるのではないだろうか。



 たとえ借金があったとしても、生活保護は受けられる。借金は生活保護が始まってから、「整理」すればいい。生活保護のお金から一度に全額返せなどと言っているわけではない。法律家の協力を得て、自己破産なり任意整理などをやってしまえばいいのだ。
 「そんな金はない」と思うだろう。たしかに弁護士・司法書士などの法律家にかかる費用はべらぼうに高い。しかし、救済措置も用意されている。(財)法律扶助協会の「法律扶助制度」を利用すればいい。これだと法律家費用を、月々3000円とか5000円で分割返済することが可能となる。(p.54)


この本はこうした具体的な対策が結構載っているので、他の類似の本よりお勧めである。他の類書は、かなり偏った視野の狭い主張と法律の丸写しのような内容と、方法論として乏しいものが多いので、あまり薦められる本には出あえなかった。本書は類書の中ではかなり良質なものだと思う。



 日本の野宿者は、03年の厚生労働省調査で2万5296人。路上でこれだけの人たちが夜を過ごす国というのは、いわゆる「先進国」の中では日本くらいで、他の国には、いろいろ問題があるにしろ、本人が望めば泊まることのできるシェルター(避難所)というものがある。日本の「ホームレス」は諸外国に比べれば少ないほうだと言われるが、とんでもない。日本は路上で夜を明かさざるを得ない人たちがとりわけ多い野宿者大国なのだ。「ホームレス」が少ないように言われるのは、単に他国と「ホームレス」の定義が違うからにすぎない。他国並みの広い意味に「ホームレス」を解釈すれば、日本だって少なくとも数十万人単位で「ホームレス」、つまり「適切な住環境に置かれていない人たち」は存在する。この一事を見ても、日本のセーフティネット、社会保障がどの程度のものか、想像できるというものだ。(p.114、本文ゴシック体の部分に下線を付した。以下同様。)


ホームレスの問題はあまり私は関心を払ってこなかったが、他の分野の福祉の水準から推して容易に想像できるものがある。



 大きな力に押さえつけられ、その末端で相談者と相談員がにらみ合う。一方は、生活保護を奪い取らなければどうにもならないほど追い詰められた側。もう一方は、仕事に終われて余裕なく、相談者の立場になって考えることすらできなくなっている側。
 これは悲惨な図式だ。「なんで、この人とやり合わなきゃならんのだ?」と思うこともしばしばだ。
 もっと大きな相手を動かす必要がある。国やらお先棒をかつぐマスコミやら御用学者やら。それには時間もかかるし力もいる。キレイごとを言わせるだけではダメだ。実際に予算を取らせて、現場の福祉事務所職員が余裕を持って働けるように、相談する人に丁寧に接するように、必要な人には周りを気にすることなく生活保護を適用できるように、制度の運用全体を変えていかなければならない。
 奇妙に聞こえるかもしれないが、そのとき、相談員やワーカーたちは「ともに戦う同志」にならなければならない。彼らの職場状況が改善されなければ、結局生活に困った人たちにしわ寄せがいくからだ。(p.196-197)


同意見である。

そして、これは生活保護に限った話ではない。そこまで話を拡大すれば、私が増税の必要を説くことの意味がわかるだろう。予算を取らなければならないのが多くの分野にわたるのならば、パイを大きくしなければならなくなると考えるのが自然というものだろう。配分するパイを大きくするとは増税が必要であることとほとんど同義である。そこで累進課税を使えといっているのである。極めてまっとうで当たり前の主張だと思うのだが、世論はそうなっていない。

世論を変えるためには、マスコミを動かすことが必要だが、政治的な動きだけでなく、新自由主義のイデオロギーの理論的支柱となっている新古典派経済学的な発想を学問の世界で打ち破る人々が出る必要があるとも考えている。私は複雑ネットワーク研究を応用した経済学が登場すれば、容易にその19世紀的な世界観(新古典派経済学の世界観)を打破することができると考えているが、まだ道は遠いようだ。



しかし私が感じるのは、とにかくこの国で自分が生活に困っていることを認めるのは、とてもエネルギーがいる、ということだ。(p.201)


本書の中でしばしば繰り返される指摘であり、非常に重要な指摘である。


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柴田純一 『プロケースワーカー100の心得 福祉事務所・生活保護担当員の現場でしたたかに生き抜く法』

 「息子さんたちとは、どんな具合なんですか?」などと初めはもっとあいまいな質問でいい。yes・noで答える質問をしてはならない。
 相手が「はぁ……、あのぅ……」などと、どう言っていいかわからないくらいでいいのである。
 これで、相手は言いたいこと、感じていることを自由に表現することができる。(p.47)


相手の言いたいことを引き出すときには、こうしたやり方をすべきだろう。



 法第六十条は「被保護者は、常に、能力に応じて勤労に励み、支出の節約を図り、その他生活の維持向上に努めなければならない」と規定している。被保護者とは通常の社会生活から逸脱したものであるという前提にたった規定である。
 これは、法第一条に自立助長を図ると規定された保護の目的と連動して、被保護者に対して指導・指示を行う根拠となっている。
 例えば、体が不自由で、家事が思うようにできず、部屋も非衛生的で栄養状態も悪いような高齢者に対して、ホームヘルパーの申請をするようにという指導をしたり、金銭管理のできない被保護者に対して、扶助費を(担当者に)預けて、週ごとに取りにくるようになどの指示が行われる場合がこれにあたる。
 また被保護者には保護を受給するための前提として、法第四条の補足性原理にもとづく、資産・能力・扶養義務・他の法律などを活用することが義務づけられている。そこで、収入の申告を行うように、あるいは公共職業安定所に行って求職活動するように、などの指導・指示が行われることになる。
 前者の指導・指示は「生活の維持向上のため」のものであり、後者は「保護要件を充足するため」に指導・指示がおこなわれるものである。(p.115)


この制度について学び始めたばかりの私としては、この二種類の指導・指示の根拠のあたりで、ようやく生活保護制度の基本的な構造が見えてきたように思う。保護を受けるためには、まずそのための要件を充足しなければならず、その条件を充足した上で「生活の維持向上」に努めることが望まれているという構造になっている。

普通の制度の解説本ではなく、こうした実務マニュアル的な本のほうが物事の内在的な理解に適しており、科学哲学におけるブルーノ・ラトゥールの手法を行政(学)に応用できるのではないか、ということもあって、こうした本を読んでいるわけだが、私の目算はそれほど誤っていないようだ。



 世帯単位原則については、概念そのものがあいまいなうえに、要件事実そのものを挙証することが困難である。したがって、この原則の中で法を適用していく際は、これをもうひとつ上位の補足性原則に合致するように考えていく必要がある。
 つまり、親子で同じ家屋に住み別生計などの主張は、補足性原理の中の扶養義務者の扶養の優先という原理が優先することにより、無効とされなければならないということである。
 いずれにせよ、居住と生計の同一、このことばかりに気をとられてしまうと、現実からかけ離れた決定をしてしまうこととなる。
 実施機関の実力が問われるところでもある。(p.124)


法解釈の基本だろうが、どうやらこの生活保護という制度はかなり曖昧でアドホックなものであるらしいことがわかってきた。上記は、そのありようを典型的に示す箇所だと思う。



 当然のことを、「してあげる」と言えば、相手はできないときも担当者の判断で「してもらえる」と思い、客観的な基準の存在を理解することができない。
 ・・・(中略)・・・。
 そのための方法のひとつとして、何ごとに対しても「する」と言わずに「なる」と言うことである。例えば保護を廃止するときは、「廃止にします」ではなく、「この場合廃止になります」という表現を用いることである。私がするしないではなく、あなた(相手方)ができるのかできないのか、給付されるのかされないのかの視点で考えるとそれができる。(p.182)


事実factの理論負荷性を覆い隠すことで、客観性を装うというわけだ。ある意味ではセコイ手だが、一つのテクニックとして、別の業界でも応用可能な手法であろう。ただ、factの世界だけでなく、Wirklichkeitの世界には常に注意を払うことが必要なことは言うまでもない。


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木全和巳 『私たちはソーシャルワーカーです 社会的な相談・支援の実践をつくる』

社会福祉分野においては、「すべての国民が社会保障の心、すなわち自立と社会連帯の考えを強くもつこと」が強調された1995年の社会保障制度審議会の「勧告」を画期として、「日本型福祉国家」の解体をもたらしつつ、進行しています。(p.26)


日本における新自由主義的政策による福祉の破壊は、80年代の「増税なき財政再建」の頃から始まったと私は見るが、90年代に入りそれが完全に政府の中枢にまで浸透したことの認識根拠の一つをこの言説は提示していると思われる。

なお、「増税なき財政再建」というキャッチフレーズは現在の政府は使っていないが、むしろ世論がそれを求めているということは何とも皮肉なことである。もともと「小さな政府」であった日本政府はこの路線によって「小さすぎる政府」になり、行政の機能不全として顕在化し、そのために行政から給付が受けられる実感が人々の間に共有できないために、実際には人々の税の支払いは少ないのに「重税感」だけが共有されているという状態になっているのが現在の日本の状況である。そうした状況では、税の支払いをしないですむ方向に進めれば進めるほど、行政の機能不全はさらに悪化し、人々の生活状況の改善からは遠のくのに、それに気づかずに目先のガソリンの値段などで騒いでいる世論のおかしさに気づいている人の少なさに懸念せざるを得ない。

財政赤字の原因について言えば、「無駄遣い」とか「公務員の給与が高すぎる」ということではなく、むしろ、税金が安すぎることが財政赤字の原因だというほうが遥かに実態に即しているのだが、愚かな世論はそのことからは目をそらしたくて必死になっている(集団ヒステリー状態に近い?)ように思われる。

(当然、これだけが原因ではない。というのは、これは歳入側の主たる要因であって、このほかに歳出の決定構造――歳出自体の構造というより歳出の決定構造というほうが適切であり、「無駄遣い」と言われるもののある部分は、このことが「表面に現れている現象」に過ぎないから、「無駄遣い」を、それを出現させる構造に触れずに問題視する理解は底が浅すぎる――にも同程度の大きな原因があるからである。いずれにせよ、税や財政に関して世論として流布している言説には、ほとんど適切なものはない、ということだけは確かである。)


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ダンカン・ワッツ 『スモールワールド・ネットワーク 世界を知るための新科学的思考法』

 アルファモデルからわかることは、世界は、孤立したドームのように、小さなたくさんのクラスターに断片化されることもあれば、誰もがつながり合っている一つの巨大な連結成分になることもある、ということだ。しかし、例えば世界が均等に二つかそこらの大きな連結成分に分かれることはありえない。この結果に驚くかもしれない。なぜなら、世界はしばしば地理的、イデオロギー的、または文化的なラインに沿って、いくつかの大きな相容れない部分――西洋と東洋、黒人と白人、金持ちと貧乏人、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒――に分けられるように思えるからだ。このような分割による亀裂がわれわれの認識を動かし、われわれの行動に影響を与えたとしても、ネットワークには適用されないことをアルファモデルは教えている。すべて結合しているか、まったく結合していないかのどちらかで、中間的な状態といったものは、実際には存在しないのだ。(p.93)


アルファモデルはワッツとストロガッツが考案した社会ネットワークの数学的モデルであって、世界そのものではないから、ここに書かれていることはそのまま現実世界を現わすものとして受け取るだけの根拠はないと思うが、それでも示唆的な内容を含んでいる。二分法で割り切れるネットワークというものは、まずないということ。

ただ、例として使われている事例はあまりよくないものが多い。黒人と白人という二分法には、黄色人種は?という疑問が生じるし、金持ちと貧乏人はスケールフリーモデルで説明すると分極化の傾向を指摘できて、平均的な所得水準の人はあまりいない(平均以下の人が多い)ということを示すことができる。(世界は少数の大金持ちと大多数の平均以下だがそこそこの暮らし向きの人々と貧困な人々とのグループに分ける事は不可能ではなかろう。)



 他者が示した考えに呼応して自分の考えを変えるのは、意志の弱さや情報不足ばかりが原因ではない。1960年代と1970年代にかけて、西ドイツでは画期的な研究がおこなわれた。その中で政治学者エリザベス・ノエル=ノイマンは、二度の国政選挙に先だって人々が交わした政治的会話で、自分を多数派だと思っている人が自分を少数派だと思っている人を抑えて、次第に声高に主張を強めていくという一貫したパターンが見られたことを示した。ここで注目すべきは、「自分を~と思っている」という表現である。ノエル=ノイマンによると、二つの政党に対する支持は、国民個人の表明によれば、概して違いはなかった。違ったのは、多数意見、すなわちどちらの政党が優勢かという彼らの予測であった。ノエル=ノイマンが「沈黙のらせん」と名付けたこの現象では、少数派はどんどん自分の意見を公にしなくなり、それによってますます少数派の立場が確実なものとなり、さらに意見を述べづらくなった。(p.261、本文の傍点部に下線を付した。以下同様。)


インターネットなどによって他人の意見やそれについての情報を知りやすくなったことは、この種の判断に大きな影響を及ぼすことになるだろう。その意味で、ネット上のニュースにコメントをつけられるようになっているサイトがあるが、そうした運営の仕方は、人々の意見を操作することに繋がるように思われる。そのサイトの影響力が大きい(そのサイトを通じてニュースをチェックする人が多い)場合。(特にYahoo!のニュースなどを念頭に置いている。)



 物事の結果は、他者の意思決定や行動にリアルタイムに反応している個々人間の相互作用という点からしか正しく理解できないという見方は、われわれがふだん慣れ親しんでいる因果関係の見方とは別の見方を提供する。元来、あるものやある人が成功した場合、その成功の度合いはそのものが持つ優秀さとか意義といった尺度ではかられると考えられている。成功した芸術家は創造における天才であり、成功したリーダーには先見の明があり、ヒット商品はちょうど顧客が探し求めていたものだったというわけだ。しかし、成功とは事後にのみ語られるものである。つまり、われわれが一般に持っている結果主義の世界観は、成功をそれがたまたま備えていた資質に帰そうとするものである。しかし、それが特別な資質だと事前に認識されていたわけでは必ずしもない。
・・・(中略)・・・。このように、現実には偉大さ(や霊感や名声)は常に事後になって語られるにもかかわらず、何か大きな変化が起こると、そのもとになった性質のものが前々からそこにあったかのようにわれわれは認識するのである。
 しかし、ある特定の事態がどんな結果を生み出すかが事前にわかることはまれである。それは、偉大さ(例えば、天才)を見抜くことが難しいとか見誤りやすいからだけでなく、偉大さはそもそも固有の性質などではまったくないからだ。偉大さは、むしろ、多数の個人によってもたらされたコンセンサスであり、個人が独自に判断したり互いの意見を考慮したりした結果なのである。人間は単純に他人が信じているからという理由で信じ、他人が噂しているから噂し、他人が結集しているから結集するのだ。このような偶発的意思決定が情報のカスケードの本質を形成しており、これが最初の原因と最終的な結果との関係をとことん不明瞭なものにするのである。(p.298-299)


インプットとアウトプットは比例関係でも固有関係でもないとワッツは中略した部分で書いているが、全くその通りである。なお、「成果主義」による人事評価がうまくいかないのも以上のことが要因となっている。

個人の力や資質というより、その個人が力を発揮した状況や「背景」が極めて大きく効いてくることがある。


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