アヴェスターにはこう書いている?
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河本英夫 『哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題』

感情は、使わないと消えてしまう。怒ること、怒鳴ることを控えて、まあまあと他人や事態を理解することばかりに努めていると、感情は消えてなくなってしまう。特に40歳以上になると、ことあるごとに努力して感情を動かすようにしないと、感情が消えてなくなってしまうのである。あえて感情的にならなければならない時期がある。現在、用いている感情の種類を数え上げてみてほしい。(p.20、本文でゴシック体の箇所は下線を付した。以下同様。)


確かにこうした傾向はあるかもしれない。よく10代や20代前半くらいの人について「このくらいの年頃に人たちは箸が転がっただけでも面白い」なんてことを言っていた上司がいたが、それと軌を一にするものだ。河本の構想では、感情は一つのシステムを形成しているから、それが年齢と共に作動の様式を変えていくと理解されているのだろう。理由は十分明らかではないが、経験的には納得できる見解である。



 そこで物に異なる言葉を貼り付けてみる。家を洞窟と呼び、ブロック塀をネコ渡りと呼び、庭木をエゾと呼び、電柱をハゲと呼び、トイレをハコと呼び、ボールをまりと呼んでみる。実にたわいもない言葉の置き換えだが、これでもずいぶんと生活の彩りは変わる。
 生活のなかに、通常の日常言語以上に似つかわしく、イメージ喚起力のある自分だけの語を一つだけでもつくってみる。例えばトイレに行くことは、ハコするであり、トイレから出ることは、ハコ出るであり、誰かが既にトイレを占拠している場合は、ハコ詰まりであり、トイレ付き車両は、ハコ場であり、便通の具合はハコ調であり、八分目固さですべて出きれば、ハコ快調であり、それがうまくいかなければ、ハコもたれである。およそこんな調子である。一つだけでもよいので、日常語のなかに自分だけの言葉を導入してみる。その言葉は応用可能性があり、次々と類縁語が発明でき、また、他の人にそれを使わなくともよいが、なんとなくわかるような語を一つ導入してみるのである。(p.22-23)


なかなか面白い。やってみる価値はありそうだ。



説明がどんどんと細っていく場合には深追いはしない。これは問いを立てるさいの基本である。説明が細るさいには、問いの設定が狭過ぎたからだとあっさりとその問いを脇に置くほうがよい。実は狭い問いに拘泥してしまって、どうにも前に進めなくなってしまう人はとても多い。(p.45-46)


確かに基本である。ただ、河本も言うように、狭い問いに拘泥して先に進めなくなる人が多いのは確かだ。学問的ないし哲学的な問題設定というよりも、日常の生活や仕事などでもそれは言える。



 見方を教わって、それに合わせて焦点を絞ってみる。これは焦点的意識であり、言い換えれば「注目すること」(既に見えているものをよく見る)である。ところが自分で何かを見いだすさいには、焦点的意識とは別のものが必要になる。寅彦は、この注意の能力が抜群だった。学校教育では、観察にさいして、注意ではなく、焦点的意識、すなわち知覚を教えている。最短距離で物事を修得するために、それが最も都合がよいからである。だがそれがよい教育かどうかは別問題である。新たなものを見いだすことは、知覚ではなく、注意が向くかどうかに依存している。(p.192-193)


知的な能力の展開についてみると、かなり多くの人が20代後半くらいに最大の伸びを示し、その後、30代に入って以降は成長率が停滞する傾向があると私はみているのだが、この経験的な観察は、ここで河本が述べている区別と関係があるのかもしれない。

20代のうちはさまざまなパラダイム(ものの見方)を修得するだけでも成長しているような感覚を感じるが、「普通の人」(凡人)はその要素が強く、ある程度の視点を学び終えてしまうと、それ以降、成長が感じられなくなる。

それに対して、注意の能力に長けた人は、パラダイムの修得だけでなく、次々と新しいものを見いだして発展していく力が強いので、その後も伸びていく傾向が強い。そして、大きな成果として開化することは40代以降になってからが多いが、それはこうした発展の能力を使っていた人が到達することが多いように思われる。しかし、そうした人は稀だから全体の傾向としては前者の人々の動きが主流として観察されるのではなかろうか。



感情が注意の働きを抑制したり、過度に促進したりする。それによって現実の幅がとても狭くなってしまうことが多々ある。(p.208)


確かにその通りである。最近のトピックで言えば、死刑に関する議論や税に関する議論などで、私と意見が対立する人々は明らかにこの傾向が見られる。

いずれも、一番目に付きやすいところだけを見て、それによって感情が動き出し、いわば認知が歪んでしまっているのである。私はWertfreiheitを身につける訓練を行う中で、そうした部分をコントロールするようにしてきたつもりであり、その点では多少のアドバンテージがあると自負している。



 観点や視点によって世界が捉えられているとするのは、まだ認識論の世界である。その場合は、見方を変えれば世界が変わるというような認識の枠が前面に出てくる。新たな見方を学び、新たな観点で物事を捉える仕方を学ぶという作業は、学習の基本に組み込まれているが、明日元に戻すこともでき、明後日再度新たな視点に切り換えてもよい。視点の切り替えができるというのは、認識論の大前提であり、そのとき正しい視点や観点を学習することが課題になる。(p.220)


このことはかつて認識論にかなり入れ込んでいた私が、河本から学んだ極めて大きな問題である。



 行為の特質は、常に選択肢に直面することである。(p.232)


河本の構想ではこの「選択肢」が極めて重要である。世界は必然ではない。
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河本英夫 『メタモルフォーゼ オートポイエーシスの核心』(その2)

オートポイエーシスの外形には、以上の五段階が含まれている。第一に生成プロセスの継続と物質の産出の同時進行であり、第二に生成プロセスの進行とそれに関与する物質そのものの区別であり、第三に生成プロセスの連鎖がプロセスのどこかに回帰することをつうじて、プロセスの継続と閉域の形成が同時に進行することであり、第四に産出的なプロセスの継続と、産出された要素からの構造の形成であり、第五にプロセスの継続と産出された物質による感知の機能の出現である。こうした外形の規定は少々入り組んでいるものの、経験に一切の無理を課すことなく行うことができる。それが外形ということの特徴でもある。オートポイエーシスの外形とは、五段階の二重作動の複合体である。外形としてみれば、オートポイエーシスはたんに二重作動の複合体にすぎず、どちらかと言えば平明で単純な姿をしている。二重作動の複合体の細部は、実験的にいくらでも詰めることができ、また細かな争点を競って細部を明確にすることもできる。またさらに高次の二重作動形態は、派生的にいくらでも導くことができる。それはすべて経験科学の課題である。ただそれだけのことである。(p.35-36)


簡潔なまとめとなっている箇所なので抜粋。



 第四の段階でプロセスの集合体であるシステムの構造が明確に区分されて出現していた。プロセスの集合は、通常機能や働きと呼ばれ、物質の集合は定常的な関係があるとき構造と呼ばれる。システムの境界は、このためつねに二重化する。脳の境界と活動する意識の境界は異なり、細胞の活動の境界と細胞膜とは異なり、視覚の境界と眼の境界は異なる。機能的自己(Sich)と構造的自己(Selbst)はつねに位相差を含む。機能はみずからで位相空間を形成する。そのため通常の空間内にみることができない。思考という機能が見えないだけではなく、消化や循環という機能も見えない。これに対して構造は構造の要素の占める空間内に判別できる。胃や心臓は空間内に判別できる。また胃潰瘍で胃を切り取った人は、ひととき胃が構造的空白となるが、周辺の器官を作り変えて胃の代用品を作り出していく。つまり構造は組替え可能である。とすると機能から組み立てていくシステム論が成立することがわかる。ルーマンがこの回路を採用し、支払いを単位とする経済システム、コミュニケーションを単位とする社会システム等の機能システム全般を導入し、システム論を普遍化することができた。(p.41-42)


機能と構造の関係を、二重作動によって明確に説明しており、注目に値する箇所。



 各システムは差異化を行う機能をもち、固有の二分法コードをもつ。法システムは合法/不法のに分法コードをもち、科学システムは真/偽、経済システムは支払い/不払い、宗教システムは超越/内在というようなコードをもつ。これらはシステムの作動を組織化し、システムそのものを固有化する。つまり特定の機能をもつシステムとして形成され、維持される。コードというのは、伝統的には体系に固有のカテゴリーと呼ばれていたものであり、ここではそれを二分法の概念対として設定している。これによってシステムがそれとして成立するさいの前提が浮かび上がる。たとえば観念論のシステムに固有のコードは、超越論的/経験的であり、個々の言明をこのコードに合わせて区分することで観念論が組織化され形成される。観念論がそれとして成立するための境界に当たるのがこの二分法コードである。(p.71-72)


個々のシステムに設定されたコードにはやや異論もあるが、考え方自体は興味深いものがある。この二分法がシステムの内と外を区分する働きをするわけだ。ただ、その際、この区分はシステムの構造として識別できるものとは別個のものである点には要注意だろうが。



 少し常識を働かせてみる。科学的な言明は、既存の業績と無矛盾で、新たな知見をもたらすものであれば、真偽とは独立に産出され維持される。言明の産出の条件は、既存の成果と接続可能で、新たな知見が含まれていることである。これはいまだ真偽とは独立である。分裂病の遺伝子が解明されたという発表がしばしばなされる。新聞に大々的に報道される。しかし検証実験が続けられ、多くの場合半年ほどで否定される。この段階で真偽のコードが発動され、科学的言明のネットワークから排除される。こうしてシステムの産出的作動(科学的言明の産出)と論理的コードに従う作動(偽である言明の排除)とは別のものであることがわかる。論理的コードにかかりうる言明は科学的であるが、コード適合的に産出的作動がなされるわけではない。言明間の接続可能性と、真偽コードによる境界の確定は、独立の機構による。そうなると論理的コードは、現実の作動に対していかなる指針もあたえないだけではなく、そもそも作動の結果を記述するための記述のコードに留まる可能性が出てくる。そして現実にそうなのである。システム-環境を問題にしたとき、行為の次元と観察者によって対象化され記述される次元とが食い違っていたが、この食い違いがコードについて現実の問題となってしまう。(p.73)


「システムの産出的作動(科学的言明の産出)と論理的コードに従う作動(偽である言明の排除)」の区別は極めて重要である。



一般に統合は、エピステーメに属する。統合の破綻も統合内の齟齬も、そのためエピステーメに属している。これに対して接続こそ、ポイエーシスの原理である。(p.124)


本書から得た大きな収穫となった部分である。



そこで第三に感覚と感情は、起源も由来も異なると考えてみる。感覚は経験の境界を区切る活動であり、それじたいで作動を継続しながら経験の境界を区切ると同時に、感覚経験の単位であるノエマの産出を通じて経験の境界を区切る。感覚のシステムがそれじたいの作動をつうじて経験の境界を区切ることは、作動を継続するものが本性上備えた機構である。感覚に特有なのは、このシステムの構成素がそれぞれに固有に境界を区切ることである。赤をそれとして、臭いをそれとして、形をそれとして区分する。これに対して感情は、この境界のうちに閉じ込められた運動の剰余だと理解することができる。この剰余は運動系であるが、境界のうちに閉じ込められたものの本性上、境界の変動とともに運動の速度やモードに変化をもつ。感覚のシステムに対して感情はいわば浸透しているのである。浸透しているものは、それじたい構成素となることはなく、構成素に色合いをあたえる。この色合いが情感である。感情がどこまでも未分化にとどまり、かつ時として予測のつかない作動を起こしてしまうのはこのためである。
 この場合感覚と感情は、特殊なカップリングを形成していることになる。というのも感情の側は、このシステム固有に独自に位相化することはできないからである。感情は、アンリとともに自動運動するものだとみなしてよい。この点での異論はない。だがそれ単独で位相化することができないのである。怖い顔を思い浮かべてみる。ここから怖さを引き抜いて、普通の顔に戻すことはdけいる。ところが怖さだけを残して顔を引き抜き、顔の位置にどのような顔も充当しないような離れ業は、病気にでもならない限りできない。怖さだけが単独で位相化することは通常の経験にはない。(p.151-152)


浸透やカップリングという事態については、なかなか十分に捉えることが難しい。感覚のシステムに対して感情は浸透しているというのは、浸透という事態を理解するためのモデルとして利用価値が大きい。

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河本英夫 『メタモルフォーゼ オートポイエーシスの核心』(その1)
「はじめに」 より。

パラダイム転換は、対象化された枠組みの切り替えであり、それによって経験は異なる見方を習得することはできているが、知識は増えても経験そのものが新たな形成回路に入ってはいない。物を捉える視点だけ増えても、なにひとつ経験が変わらないことがある。パラダイム転換を行うとはどのようにすることなのかが、パラダイム転換の議論からはまったく理解できないのである。しかもパラダイム転換が起きたと理解できるのは、すでにパラダイム転換が起きてしまい、それに対していっさいが手遅れになって以降である。変換ということの意味を知りうるのは、それに対してすべてが遅すぎる時期になってからであり、ここでも「物語文」の提唱者であるダントの鉄則があてはまっている。
 これに対して知のメタモルフォーゼで対置されたのは、経験が新たな形成回路に入り、別様な経験を実行することである。それはものの見方ではなく、経験が別様に形成される回路を探り当てることであり、それを実行することである。このとき経験そのものが形成されるのであって、それがメタモルフォーゼとなる。気がついたとき、すでに別様の経験ができるようになっていることが、メタモルフォーゼの課題である。(p.20)


この対比は河本の思想の基本となる構図である。河本の思想のすぐれたところは、テクストを読み進める中で、「新たな形成回路」に入らせる、それがどのような事態であるかに気づかせることにある、と思う。



二重作動の着想そのものは、オートポイエーシスから直接取り出されている。オートポイエーシスの提唱者マトゥラーナが使ったあの建築の隠喩である。建物を建てるさいに、職人を集め、見取り図も設計図もレイアウトもなく、しかも棟梁もなく、職人各人は当初偶然に持ち場につく。職人相互の関係でどう振舞うかが決められている規則があるとする。この規則にしたがって職人は行為を進める。設計図なしのこのプロセスの継続によっても家はできる。この場合職人は何を作っているのか自分で知ることなく家を建てたおり、しかも家が立ち上がったときでさえ、立ち上がったことに気づくことはないであろう。実際アリやハチが巣を作るさいに、事前に寄り集まって見取り図を前に談合を行っていたというような観察報告はなく、またそんなことをしているとも思えない。プロセスを自動的に経ることが、同時に別のことを行っているというのは日常に頻繁に見られることである。そして現在の人間の知識では、同時に進行している二つの事態を、統合することはできそうにない。・・・(中略)・・・。異なる事態が二重に進行するということは、この二重性が分離してシステムが新たな局面に入ってしまう可能性を含んでいる。二重に進行するもの相互は、相互に決定関係はなく、作動の継続の一点だけでつながっているからである。作動の継続さえ満たすことができれば、双方に可変性の余地が本来的に含まれ、しかも作動の継続をつうじてそれらは現実化していくのである。二重作動は、それじたいが別様のものになっていくメタモルフォーゼの中心的な機構である。そこでこの二重作動を基本にして、メタモルフォーゼのカテゴリーを整備していくことにしたい。(p.21-22)


本書の中心的な概念である「二重作動」について極めて簡潔に凝縮された説明がなされている箇所である。マックス・ウェーバーが描き出した「ある行為をするさいに主観的に思われている意図」と「その意図に基づいてなされる行為の意図せぬ結果」との区別にも通じるものがある点が私としては興味深い。

また、これによって、「作動」を担う構成素はリレーのように変わってもよいことなど、オートポイエーシスの基本的な考え方を理解する上で非常に役立った箇所である。よって、備忘録的に記録しておく。

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山本直治 『実は悲惨な公務員』(その4)

 このように前例主義は行政の行動を制約し、問題も多いのです。しかしながら、行政施策の継続性・公平性を維持したいという行政の意志の表れでもあります。前例主義の打破というのは、ある意味「最初の特別扱い(線引き)」を認めることです。(p.158)


こうした継続性や公平性といった基本的な価値や意義について、熱しやすく冷めやすい上に物事を熟慮することがない世論は思いを馳せることができない。そうした部分を抜きにして副作用だけを見て、原則を全否定しようとする議論が多いから要注意である。

前例主義とは別の事例では、予算の単年度主義に対して、「予算の使い切り」を迫るから不合理だという非難をする人がいる。確かにそうした副作用はあるが、そのような非難をする人(素人)が、単年度主義がなぜ導入されているのかということを考えることはまずない。知っていながら言わないというのではなく、なぜそのような考え方になっているのかを知らずに話している人も多い。そのような人間に財政や税を語る資格はないというのが、私がそうした人々に言いたいことである。



 お役所でも民間企業でも、何か悪いことが報じられたときに、私たちはついつい、怒りの矛先として「わかりやすいところ」である、現在の担当部局(担当者)を攻撃しがちです。たしかに、事件・事故の直接の被害者であれば気持ちは理解できます。しかし、原因が何年も前にさかのぼるような問題について、ともすれば実質的責任のない(少ない)現在の担当者ばかりを叩きすぎることは、責任追及のあり方として妥当なのでしょうか。
 もしかすると、そうした責任追及のあり方が、実はお役所に限らず多くの組織の不祥事隠蔽体質を強め、お役所、企業、ひいては日本全体への痛手を大きくする原因になってはいないでしょうか。相次ぐ食品偽装問題が、その証左です。(p.161)


本書の考え方をよく示している箇所であり、同意見である。

例えば、次の箇所などもそうした考え方を示している。

 ところで、公務員への責任追及論のなかでは、「民間企業なら事業に穴を開けたらよくて左遷、最悪ならクビだ。お役人もそういうふうにしろ」などという声が聞こえることもあります。ここでは公務員には身分保障があるから……というタテマエは置いておき、本当に公務員に失策の責任を取らせようとしたらどうなるかを考えてみましょう。
 そこで間違いなく出てくる結論は、失敗するくらいなら何もしないほうがいい――つまり、「事なかれ主義」に陥った行政の姿です。(p.169-170)


これくらいは当たり前のことなのだが、感情的に公務員や行政を非難する人々はこのあたりまでさえ想像する力がないらしい。そうした想像力がかけている人は社会的な問題についておおっぴらに語るべきではない。語るだけの資格がないから、勝手に内心で思うだけにしておけ、と言っておこう。その方が世の中のためになるから。

こうした傾向は政治家にも当てはまらないことはないが、政治家はそもそも票あっての政治家だから、何もしないということはない。何もしないということが彼にとってマイナスになるからだ。そう言うと、じゃあ官僚も投票して選べばという考えが出てくるかもしれないが、行政はその安定的な持続性が重要なので政治家と同じように官僚を選ぶことは不適切である。

それに、「民間では失敗したら即、左遷・クビ」というのも嘘だし、実際にそれをどんどんやっている企業はうまくいかないだろう。それは所属する個人が「失敗から学ぶ」ということができない組織であることを意味するからである。


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山本直治 『実は悲惨な公務員』(その3)

規制緩和などで特定のお役所の仕事をなくしたり移したりすれば、当然その裏で何らかの問題も生じます(第5章参照)。ただ中央官庁をスリム化すればいいというのは、その点を無視した議論であり、責任の押し付けのようなものです。(p.103)


その通りである。

著者は、社会は繋がっているという認識をどこかで持っている。この点で(システム論者でありネットワーク論者である)私の認識と共通するところが多い。



 たとえば環境問題云々で世の中が「自動車を減らそう」と掛け声をかけます。しかし、企業は経営上の理由で、個人は生活の利便上の理由で、自分から減らしたがらないでしょう。お互いが「君が車を捨てろよ、俺は手放せない」ということをいい合います。
 お役所の仕事をどう手放すか、というのも結局そういう話
に近く、お役所の三位一体改革(税源移譲・国庫補助負担金の廃止縮減・地方交付税の見直しによって国と地方の財布をどうするか)や、地方分権、道州制の導入で国家公務員を地方に引き取らせるという話も、ごく単純化していえば結局、「お金はほしい」「権限(仕事)だけもらうのはいや」「仕事を移すなら人はどうするんだ」という綱の引っ張りあい、荷物の押し付け合いなのです。
 結局、現在の中央官庁というのは、自動車(仕事)は減らないのに道路(組織・人員)だけがどんどん減っています。結果として渋滞(公務員の勤務時間・負荷、行政事務の遅滞)だけが増えているというのが現状なのです。(p.104-105)


この自動車の例のように考えると、「官庁は権限を手放さないからけしからん」という議論を世論が自分の事を棚に上げて言えるのかどうかということに思いをいたさざるを得ない、というのが私の考えである。

私の考えでは、官庁や行政が悪いので日本の社会がおかしいというよりは、世論がおかしいことのほうが遥かに問題であり、それを政治や行政の責任だとするのは、はっきり言えば責任のなすりつけであり、冤罪に近いものがある。

(80年代後半、特にプラザ合意から90年代初頭のバブル崩壊への対処は政治の責任だが、その後の不況はかなりの程度、政治家や行政というよりも、世論が悪化を食い止める方向を見出せていないことに原因を求めることができる。そして、今でも、どのようにすれば社会の問題が小さくなるかということについて、世論は明確な方向性を持っておらず、それゆえ、政治家もそれを打ち出すことができない。私の考えでは、よい方向に進めるプランは既に存在するが、政治家はそれを打ち出せない。なぜなら、世論が表面的に望むこととは全く異なる選択肢を示さなければならないからである。)

行政への「批判」なき「公務員バッシング」「行政の無駄遣い」論は、悪しき世論の典型である。そのことが「増税と歳出構造の改変」という、問題の解決策の実現を妨げているからである。(もう一つの改善策である労働法制の再編成は予算なしにできるが、企業との関係で注意が必要になる。)



どんなに工夫しても、規制緩和が副作用のない万能薬になるわけではありません。必ずといっていいほど何らかのデメリット(リスクの増大、格差の拡大など)は生じるものなのです。
 規制緩和にともない、そういったことをどこまで容認するのか――規制緩和にあたっては、産業界や世論の後押しがあり、国会や専門家集団(各種審議会)で開かれた議論を行い、世論の喚起されてきたはずです。しかしひとたび風向きが変わると、かつて規制緩和をやれやれといっていた応援団はどこかに行ってしまい、いつのまにか役所ばかりが矢面に立たされて叩かれるようになってしまいます。
 この話を、本書の「まえがき」で触れた「北風と太陽」の構図に当てはめてみましょう。
 ここでは寓話とは順序が逆で、先に太陽がさんざん照らされて汗だくになり上着を脱いでいた(=世の中のプレッシャーで規制緩和に応じた)ところに、突然北風が吹いてきて凍えてしまうようなものです。つまり、こうした「揺り戻しバッシング」も違う意味で「北風思考」といえるのではないでしょうか。
 一般的に、お役人(お役所)は失策の責任をとらないといわれ、それはある意味事実です。しかし「いいだしっぺ」がいつの間にか議論から逃げてしまい、すべての責任をお役所が被らされていることもあるのではないでしょうか。
 それにおびえて規制緩和を進められないお役所は、「太陽と北風」の挟撃を食らっている被害者なのです。(p.153-154)


これも同意見である。

とりわけ、ここで私が想起するのは、財政赤字の問題である。現在、世論としては、財政赤字がかなり気になる問題として存在している。そして、増税におびえる世論が増税を避ける為に(この動機は表立っては意識されたりかたられることはないが、この関係は確実に存在するといえる)公務員バッシングをしているという現状がある。

(つまり、「公務員・行政の無駄遣いをなくせ!」と言うために、あら探しをして「こんなに無駄がある」と言って「これでは増税には応じられない」と言うような議論がその典型だろう。また、「こんなに財政赤字が膨らんで庶民の負担が重い(→実は重くはないのだが、この手の人々は常にこのように言う)のは、官僚が庶民から富を収奪しているからだ」と言ってみたりする議論もそれに該当する。しかし、そのような構造を実証した議論を私は知らない(むしろ、全く別のアプローチからそれを十分に示すことができるから、そんな議論は無用であると言える)し、実はその手の議論のほぼすべては次のような構成になっている。すなわち、幾つかのニュースになった事例を見て「官僚はこんなに無駄・収奪をしている」と言い、そこから「もっと無駄遣い・収奪しているはずだ」と推測し、その推測がいつの間にか全般的な事実に置き換えられて「無駄遣い・収奪している」ということが強硬に主張するという、わけのわからない議論になっている。

現在の財政赤字は、世界の政治経済の構造の変化という日本社会を単位としてみた場合における外部要因の変化と、90年代以降の政策の組み合わせの結果であると言える。そして、その90年代の誤った政策を容認してきたのは一人ひとりの有権者である。とりわけ現在40代以上の人々の責任は重いはずである。90年代に増税をせずに歳出の拡大(これは別分野での歳出削減をしない限り、当然に長期債務の増発を意味する)を容認したのは彼らである。しかし、現在、彼らは何と言っているか?多くは、増税をせずに歳出を削減せよという。そして、自分達が主権者であることを棚に上げて「官僚が無駄遣いしたから赤字になった」とでも言わんばかの恥知らずな論調が世論に広く広まっている。少子高齢化が進み納税者が減っていく中で、過去の債務を増税なしで返済するなどという主張をすることがどのような帰結をもたらすのかについて、全く見識を欠いている、単に短期的に自分に都合が良いことを言うだけのご都合主義である。

政府は、有権者に対してスウェーデンが中学生向けに行なっている租税教育を施さなければならない。日本の有権者達は租税についての見識について、スウェーデンの中学生以下のレベルだろうから。

あと付け加えると、90年代以降の財政赤字が膨らんでいった政府間関係の構造(集権的分散システムの具体的構造とその法的基礎)についても有権者たちを教育する必要があるだろう。


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山本直治 『実は悲惨な公務員』(その2)

 さらに、高級官僚による厚待遇の天下り先として、国民やマスメディアから評判のよくない外郭団体の幹部ポストについても、大手民間企業に比べると給与水準が低いことが明らかになっています。(p.49)


本書はあまりデータが豊富と言うわけではないので、既に私が調べたり知っていたりする情報に基づいて書かれている部分が多い(例えば、公務員宿舎にしても、私は何年か前に国家公務員の友人の宿舎に泊めてもらったりしたこともあるので、家賃は安いがそれらが古いということや、良質な物件ではないということなどはある程度知っていた)。その中にあって、数少ない、私にとって未知だった情報の一つがこれ。そういうことでメモしておく。



 実をいえば、当のマスメディア自身も天下り天国であり、とても自分のことを棚に上げてお役所を非難できる立場にはないという指摘もあります。
 一例として、ジャーナリスト・岩瀬達哉さんの『新聞が面白くない理由』(講談社)にて、朝日新聞社幹部が多様な関連会社に多数天下りしている構図が暴かれています。
 もちろん、マスメディア以外の産業、すなわちメーカー・金融・商社・流通・運輸をはじめとする日本の大手企業も、直接の本業以外の事業を行なったり、あるいはもともと本社にあった福利厚生部門・情報システム部門などの非中核的業務を切り離すため、傘下に多数の関連企業を作ってきました。(p.81)


「天下り」に類することは日本に限らず、人間社会一般にとって不可欠なメカニズムであると考えるべきである。人間の社会的ネットワークはランダムネットワークではないのだから、社会を構成する各ノードの連結の仕方には当然に粗密があったり、また、各リンクには重み付けの違いがあることはネットワークの特性上、当然のことである。それなのに、社会はランダムネットワークであるべきだと前提して非難するのは全く建設的ではない。ランダムネットワーク的な社会ネットワークは大規模なものとしては持続不可能だからである。

その意味で、こうした各種の業界に同じようなパターンが見られるという指摘はそれなりに意味がある。



外郭団体の事業運営に効率性を求めること自体は結構ですが、なかには赤字であることを云々いっても仕方がないものもあるのです。外郭団体の存廃を議論するなら、その活動の意義や方向性から論じるべきです。(p.85)


その通りである。

ただ、「効率性」という言葉は多義的であり、また、測定の仕方も多様であり、測定の仕方によって、効率性の度合いも違ってくる。その意味で、効率性を求めること自体も、明確化した上でならば結構だが、明確にしない漠然としたイメージで効率性を言うのは不毛だということは付け加えるべきだろう。

また、「外郭団体の存廃を議論するなら」と言う部分も、行政組織やその業務一般に拡張できる話である。政治や行政は、単純な意味での「内部効率性」よりも、活動の意義や方向性こそ重要なのである。



公務員といえばいまなお誰もが九時-五時勤務で楽チン・グータラだ、という昔ながらのイメージを持つ人も多いのではないでしょうか。
 しかし、「組織には二割の優秀な人、六割の普通の人、二割の足を引っ張る人がいる」という法則が指摘されており、これは民間企業のみならずお役所でも当てはまることです。(p.94-95)


これと同じ議論を、私も先日、ブログに書こうとしていた。書こうとしたことがそのまま書かれていたので、ちょっと面白かった。「公務員」を「私とは別世界の人」と切り離して、「私」は安全な場所にいながら(というのは、「私」が「公務員」になる可能性はないという立場から)「公務員」をバッシングするというのが、公務員バッシングの基本的な構図なのだが、組織とか人間社会のあり方と言うのは「公務員」だろうと「非公務員」だろうと、恐らくそれほど変わるわけではない。

つまり、組織の目的や役割はもちろん違うが、「組織が作動するメカニズム」などは根本的には違わない。それらのどこが同じでどこが違うかと言うことをよく見定めた上で発言する必要があるのだが、実際の観察を省いて発言することになるから、公務員バッシングの多くは一世代(30年)くらい遅れたイメージが使われているように思われる。

実際、近年行なわれている「公務員バッシング」の言説の多くは、90年代初頭に流行した範型が雛形になっている点で15~20年位前のものである。行政学や行政組織の言動を詳しくチェックしてみると分かるのだが、98~01年頃から(財政の急激な悪化を受けて)行政組織の活動のモードはかなり急激に変化し始めている。70年代の革新自治体の時代と同じように変化は末端の市町村から始まっているが、それはあまり報道されていないように思われるから、知識として一般には広まっていない。

例えば、「予算の使い切り」なんていうのも、金のない自治体では行なわれない方向にシフトしてきている。むしろ積極的に「不用額を出せ」と指示されているのが実態であろう。しかし、バッシングの言説を見ると、いまだに「予算使いきり」がどうこう、という時代遅れの言説が十分に市民権を得て流通している。こうしたことは、公務員バッシングをしている人たちは公務員を観察していないということをよく示している。

なお、私は「公務員バッシング」ではなく「公務員(行政)批判」をしたいと思うので、公務員(個々の公務員というより、公務員をノードとするネットワークとしての行政組織の活動のモードや行政組織から発信される情報の意味とその変化)を観察するように心がけている。(ただ、私も最近は多忙などの理由によって、こうした地道な作業を十分行うことができず、行政組織が発した直の文書よりも、マスメディアを通じて流されるものが主たるものになってきたから、これはよくない傾向ではある。やはり実際の文書――可能であれば実地での観察や当事者との会話――に当たるべきなのだ。)

ついでに書くと、私としては政治よりも行政の方に興味がある。政治は「事件史」的だが、行政は「変動局面」的だと思うからだ。ただ、ブログという媒体は事件史の記録に適したものなので、変動局面を扱いにくいというところにちょっとしたジレンマがあったりする。



 とはいえ、お役所にいま見てきたような仕事の繁閑があるのなら、人員配置を工夫すればいいではないか、と思った方も多いでしょう。
 しかし、そう簡単にはいかない理由があります。お役所の人員配置はタテマエとしては「機構・定員(組織・定員)」という考え方のなかで、どのぐらいの量の、どのような仕事をするためにどのような組織・部署を構成し、そこにどのように人を割り当てるかという理屈のうえに成り立っています。
 というのも、行政の組織や定員は仕事の量にかかわらず肥大化していく傾向があるとされているため(パーキンソンの法則)、安易な肥大化を防ぎ、また民主主義的な観点(国民によるチェックが必要)から、行政の組織や定員はきちんと理屈を立てて法令などで規定されなければならないとされているからです。(p.101-102)



このあたりは「民間」のことしか知らない人にはあまり馴染みがないかもしれないが、行政学の教科書に出てきそうな内容である。(実際、この後、著者はこの原則的な考えに多少の批判を加える。)しかし、私としては上記の理由に留まらず、この「機構・定員」という考えの発想にも、行政の役割に特有の事情が反映していると見る。

というのは、行政のやるべきこととは「誰かがやらなければいけない最低限の保障」だからである。さらにいえば、それをやったからといって得をするようなことではないから、誰もやりたがらないようなことでもある。だから、「誰がそれを行なうか」ということを決めておかなければ、誰もやりたがらないことからは無責任に逃げることができてしまう。そのようなことがおきないために、誰がやるのかを予め決めておく必要があるのである。(だから、日本の場合、行政の事実上の末端組織である自治体には中央政府からの拘束・規制が膨大にある。)


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山本直治 『実は悲惨な公務員』(その1)

 もちろん、従来のバッシングに意味がなかったとはいいません。しかし、それが本当にお役所の改革につながったのかというと、私は疑問を禁じえません。
 一方で、お役所バッシングへの反論――つまりお役所を擁護する主張――も、さほど多くはないもののなされてきました。しかし、こうした論戦は、一部のジャーナリスト、評論家、あるいは官僚OBなどの手によって行われ、残念ながら一般市民の耳目を集めることの少ない“空中戦”となってきたのではないでしょうか。
 その結果として、世の中にはお役所の実像と虚像の区別がつかず、独り歩きしたイメージのみを信じて公務員にあこがれる人もいれば、批判している人もいるように、私には感じられるのです。(p.5)


このあたりは、ほぼ同意見である。

これを一言で言えば、お役所に対する「批判」が、一般には存在しないということである。批判が成り立つためには、何が正しいことで何が誤っているのかを切り分けることが前提となるのだが、そもそもそれすらなされていない議論がばかりが横行している。

それに対して、本書は適切な「批判」をしようというスタンスであり、共感できる。(もちろん、本書の内容や考え方には、私からもいろいろ批判はあるが。)


以下は余談だが、例えば、激しい増税忌避の願望の持ち主や税源移譲による所得税と住民税の税率の変更を「増税だ」と言い張るような連中、さらには批判になっておらず建設的でもない公務員バッシングの議論をする人々に共通して見られるものがある。

それは被害妄想である。「被害者意識」という、まだ正常の範囲内のものと取れるような形容では足りないくらいに「激しい被害者意識」であり、その「被害」を彼らに与えた主体(税金、公務員)に対する初歩的な事実認識(統計的な事実やその扱い方、さらに制度に関する諸々の知識)すら欠けているために、その被害者意識の向かう先が全く事実とは異なる方向に向けられているために「妄想」と呼ぶにふさわしい。



 これまでマスメディアや一般国民は、終わりの見えないお役所の不祥事に接するたびに、お役所のダメさ加減にはほとほとあきれつつ、北風のように厳しくバッシングする態度をとってきました。まさに“北風思考”です。
 しかし幾度のバッシングを経ても、不祥事はとどまる様子を見せません。
 なぜでしょうか。
 私は考えました。もしかするとこの態度は、公務員の士気を落とすばかりで、実は不祥事をなくしてよりよい行政活動を進めるうえで逆効果になっているのではないかと――。(p.6)


この「北風思考」というのは、「北風と太陽」の寓話をモチーフとするものである。なかなか「使える言葉」だと思う。

昨今の日本の社会に流布する言説は、この北風思考の発想に満ちている。言い換えれば厳罰主義と言ってもよい。「悪」だと認定したものに対しては、攻撃し、罰を与えることによって更生させようとする。これはイラク戦争に踏み切ったアメリカの発想とも同型だと言えよう。また、「拉致問題を解決/進展」させるために経済制裁を行なう、というのも同じである。ほとんど見込みがない。(そもそもこの問題は、「拉致問題の解決」とは何であるかが明確化されていない。このことは、そもそも日本政府には目標を達成する気などサラサラないことを示している。)

こうした発想に基づく対処法は、逆効果になることが多い。理由は簡単である。この方法により目的を達成できるのは、厳罰を与えられる側が与える側に脅威を感じ、厳罰を回避するために厳罰を与える側に対して抵抗することを諦めて、命令に従う場合に限られるからである。選挙で選ばれる政治家ならともかく、選挙によって選ばれるわけでもない行政に対して厳罰主義で臨んでも、それだけで成功する(行政をバッシングする者の意思に従ってコントロールできる)見込みなどないのである。



 よく、教育的配慮で人を叱るときには、言い方をどうするかとか、他の人が見ている前で叱らないようにするなど配慮すべきだといいます。お役所バッシングも同じで、生かすも殺すもやり方次第です。そしてその結果お役所がどのように変わるかは、まわりまわって国民に返ってくるものです。(p.18-19)


前半の比喩は必ずしも適切ではないと思うが、後半の「まわりまわって返ってくる」という発想は私も同じである。これは増税論にしても同じことで、増税すればその効果は「まわりまわって返ってくる」と言える。

(仮に国債の返済に充てられるだけだとしてもその効果はゼロではない。なぜならば、歳出削減は必ず福祉にダメージを与えるのが現在の日本の財政の構造だが、それをすることなく、基本的にプライマリーバランスの黒字が恒常化するならば、それは財政出動が必要になった場合に出動する余地が確保できるということだからであり、政策の選択の自由度が高まるという形でメリットを享受できるのである。もちろん、増税の分を他の政策に充てる場合はその政策の結果という形で返ってくる。なお、余談だが、増税すれば市中に流れる金が減るから景気が後退するというのは誤りである。もしそうなら、欧州は日本より常に景気が悪くなければいけないだろう。問題なのは、税の支払額の変化率とその変化率がどのように予想されるか、ということであろう。)

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豊下楢彦 『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交――』

 このダレスの議論には、これ以降の交渉において米側が展開することになる基本的な“論理”がうちだされている。つまり、占領期と同様の基地機能を維持することは米戦略にとって「根本的な問題」であるにもかかわらず、それをあくまでも「援助」として日本側に“借り”を負わせるかたちにしたうえで、その“代償”としていかなる「貢献」を日本は果たすのか、具体的には再軍備をおこなうのか否かを追及していく、ということなのである。
 ここでは、本書の冒頭でふれた西村の議論のように、日本が基地を提供しアメリカが日本を防衛することで「共同防衛の関係」に立つということ、基地提供の見返りにアメリカが日本を防衛することによって双方の“貸し借り”の関係が成り立つという論理が、日本の再軍備による「貢献」如何という問題に、見事に“すり替え”られているのである。(p.50)


これは1951年のことである。このときのアメリカ側の論理が、現在の「改憲派」や自民党の代議士の大部分が使用する論理とほぼ重なるものであることは注目に値する。

例えば、これは、現在言われる「国際貢献」が「アメリカへの軍事的な貢献」を意味することの淵源でもあるだろう。



 ダレスは、対日講和条約草案をはじめて公表した三月三一日のロサンゼルスの演説で、「もし日本が希望するならば、〔米軍駐留を〕同情的に考慮するだろうと公開の席上でのべた」と、ふたたび二月二日演説をとりあげたうえで、「安保保障にたいし頼むに足る貢献をなす能力を有する国は「無賃乗車」してはならない」と強調した。ここに、今日にいたるまで日米関係を“規定”してきた「安保タダ乗り論」の“起原”をみることができるのである。(p.75、本文の傍点部→引用文では下線)


恐らく「思いやり予算」もこの発想の延長上に位置づけられるであろう。

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野村達朗 『大陸国家アメリカの展開』

 大平原を舞台にカウボーイが活躍する西部劇でおなじみの情景が展開するのも南北戦争後のことである。乾燥した土地が農作物などを育ててくれるとは思えず、農民が進出する前の大平原の公有地でまず栄えたのは牛の放牧だった。しかし牛の放牧が発展するには、肉牛の市場としての北東部都市社会の拡大、生産地と消費地を結ぶ鉄道の伸張が必要だったのであり、「牛の王国」も資本主義的市場関係に支配されていた。そして放牧とロングドライヴは資本主義的な労使関係に立つ営利事業だった。カウボーイは放牧労働者だった。彼らは馬乗り、ロープ捌き、焼印押しの熟練をもった労働者であり、朝早くから過酷な労働に従事した。またカウボーイのなかには黒人やメキシコ人が多く含まれていた。(p.66-68)


アメリカ大陸の歴史にはどちらかというと疎く、ユーラシア大陸の方がどちらかというとよく知っているのだが、こうして「カウボーイ」についての記述を読むと、アメリカのカウボーイは、ユーラシアにおける遊牧民(例えば、トュルク系やモンゴル系の人々)と重なる存在であるように思われて面白い。そう思うと俄然親近感が湧いてくるから面白いものだ。

また、カウボーイは「資本主義」があってこそ存在しえたという趣旨の指摘も大変興味深いものだ。(なお、本書の言う「資本主義」とは恐らくウォーラーステインの「資本主義」概念に近いものだと思われる。)北東部の工業地域に都市が発展し、消費市場として機能しうる潜在的な需要と、そこへのアクセス可能性(交通)が確保されることの2点が揃うことで、市場経済的な事業として放牧が成立しうるわけだ。

もう一つ気づくのは、カウボーイには黒人やメキシコ人が多くいたとされていることである。これは何となく西部劇に出てくるカウボーイのイメージとちょっと違う感じがして面白いと思った。ただ、この一文は単に意外性があって面白いという以上の意味がある一文である。

というのは、黒人やメキシコ人が多くいたということは、カウボーイたちは北東部の工業地域に対して資本主義の秩序の中で従属的な地位に位置づけられることを示唆していると思われるからである。(この点ではユーラシアの遊牧民とは異なっている。)


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ヤスパース 『精神病理学研究Ⅰ』

 精神的過程は有機体が身体領域に持っている同一の独特な統一を成している。つまり部分は全体によって制約され、それ自身は再び全体を制約する。どの部分も全体の変化がこの変化を伴わないならば変化しない。この論理学者が目的論的と呼んでいる統一の分析は、言うまでもなく互いに交差する種々の観点に従って生ずるが、それらは相互に関与しないのである。さしあたり無意識に用いた分析の諸観点を意識にもたらし、またいっそう厳密な区別をすることが方法論の課題である。これは心理学的な分類に対しても必要であり、その分類は種々の痴呆概念や特に軽視されるが別に検査しなければならない知能のいろいろな部分機能の基礎である。
 このような分析を行ない、類型を立てることに、特別な『方法』の本質がある。このようにしてえられるものは、事実を描写して再現するという意味で『正しい』のでなく、思考産物の体系として役に立つのみであり、一方では観察がその思考の成立に関与し、他方では個々の観察が再びその思考産物と比較される。このような分析や構成は、たとえめったに承認されないとしても、知能や痴呆に関する研究論文のなかで至る所に見いだされる。このような分析を体系的に行なうことが、すでになされている試験の単に積み重ねでなく、それらの試験の関連を示すことであるならば、完全という意味でなく、――それには非常に多くの不備な点があるだろうから――他の体系と並んで何も無関係ではないという意味で、ある体系がきわだってくるであろう。このような体系的検査は、痴呆概念の発展の独自の方法であり、そして知能検査の結果を把握する貴重な補助手段であろう。(p.279-280、本文、傍点→引用文、下線)


ヤスパースの精神病理学は、一見すると、文献学的な印象を与える。病人を観察して診断するよりも、病人の観察に基づいてかかれて記録を診断するようなところがある。そのことはヤスパースの方法論の特徴を決定づける一つの要因であるように思われる。

ヤスパースの精神病理学における方法論は、基本的にマックス・ウェーバーの理解社会学の方法論を踏襲している。「了解」と「説明」の区別などはまさにその典型だと思われるが、この引用文の箇所ではウェーバーの理念型Idealtypusをほとんどそのまま転用している。

あまりにも「そのまま」なので、「こんなのありかよ?」と思ってしまうほどだ。

また、このほかに本書から得た収穫としては、20世紀初頭の精神病理学の水準がある程度見えたことであり、また、少なくとも19世紀以来、精神病理学による精神鑑定の類は19世紀にはすでに行なわれていたこと、犯罪と法律と精神病理学とが相互に関連性があるということ、それは現代にまで続いているということなどがある、そうした意味では科学史的な観点から本書を読むことができる。

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