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C.G.ユング 『結合の神秘 Ⅱ』(その3)

 人が耳を傾けようとしない賢者は、阿呆と見なされ、世間一般の愚かさを最初に最も声高に代弁して告知する阿呆は、預言者ないしは指導者〔総統〕と見なされる。幸いなことにときおりこれと反対のケースも見られる。さもなくば人間はその愚かさのゆえにとっくの昔に滅んでいたことであろう。
 精神的不妊によって特徴づけられる「精神病者」が「真理」を語らないのは、彼が一廉の人格者ではないからというばかりではなく、彼がコンセンサスを見出さないからでもある。ところがコンセンサスを見出しさえすれば誰でも「真理」を語ったということになる。形而上学的問題においても、通用するもの、妥当性をもつものが真理であって、それゆえ形而上学的発言にはいつも承認と妥当性に対する並はずれて強い要求がつきものである。というのもその発言の成否はそれが真理であることが証明されることにかかっているが、妥当性こそその証明の唯一の可能性からである。形而上学的な証明要求はすべて避けがたい「論点先取りの虚偽」petitio principii〔論証さるべきものを論証されたものとして前提する虚偽〕であって、これはたとえば神の存在証明の場合を考えれば、分別ある者なら誰でもすぐに分かることである。
 ある形而上学的真理を打ち立てるにはもちろん妥当性の要求だけでは十分ではない。この要求に応える、多くの人々の同じように強い欲求がなければならない。このような欲求はつねに精神的窮境から生ずるものである以上、形而上学的発言の解明にあたっては、当の形而上学的発言に説得される人間の心的状況も考察されなくてはならない。するとこういうことが明らかになる。霊感を受けた人間の発言はまさしく、世間一般の心的窮境に対して補償的関係にあるイメージや観念にほかならないということである。このようなイメージあるいは観念は霊感を受けた人間が意識的に考え出したり思いついたりしたものではなく、体験として彼にふりかかってきたものであって、彼はいわば進んで、あるいは嫌々ながらその犠牲になったのである。ある意識超越的な意志が彼を捉え、これに対して彼は首尾よく抵抗することができなかったのである。もっともなことながら彼は自分を屈伏させたこの優勢な力を「神的」と感ずる。この呼び方にはわたしはまったく異存はないが、しかしどう努力してもわたしには、これを超越的な神の存在を証明するものと見なすことはできない。善意の神が実際に救済をもたらすある真理を霊感として吹き込んだのだと仮定しよう。しかしそれならば、生半可な半真理、いやそれどころか禍い多き妄想が吹き込まれ、この妄想が進んでこれを迎える信奉者を見出したような場合が過去も現在もいろいろと見られるが、この場合はどういうことになるのだろう。この場合はおそらく悪魔の仕業だということになるのであろう。それとも――「悪はすべて人間から」omne malum ab homineという原則に従って――人間それ自身に責めが帰せられるのであろうか。このような形而上学的な「あれかこれか」という論法を適用するのはつぎのような事情からいってやや無理がある。すなわち大抵の霊感はこの両極端のあいだで生じ、まったく真でもなければまったく偽でもなく、したがって――理論的には――その成立を善の力と悪の力の協同に負うているからである。こういう事情が成り立つためには、半分だけ善であるようなある目的に向けて両方の力が協力計画を立てたと考えるか、あるいは一方の力が他方の力の仕事に横合いからちょっかいを出したと考えるか、それとも第三の可能性として、人間は神の意図、すなわち完全な真理を――半真理など問題外であろう――霊感として吹き込むという神の意図を、いわゆる悪魔的な力でもって無に帰せしめることができると考える以外にあるまい。しかしそうなると、いずれの場合も神の全能はどういうことになっているのであろうか。
 したがってわたしにはつぎのような態度で臨むのが、まことに旧式な評価の仕方ではあるが、より賢明であるように思われる。すなわち、どんな場合もほかならぬ最高の形而上学的要因なるものは考慮に入れたりせずに、もっと控えめに、人間的なものの範囲内にある無意識の心的な、ないしはサイコイド的な要因を霊感やこれに類する諸事象の源と見なすのである〔サイコイドは、集合的無意識の最深層に属する、本能と結びついた、心に類似した何ものか、またその領域〕。(p.361-363、本文で傍点の箇所に下線を付した。)


前半の部分は、形而上学的な真理の問題ではなく、世俗的世間的な主張におきかえるといっそう興味深く読める。

「世間一般の愚かさを最初に最も声高に代弁して告知する阿呆は、預言者ないしは指導者〔総統〕と見なされる」というのは、まさに小泉が首相として迎えられたときの世論の状態であり、また、安倍晋三や橋下徹の過激な発言が、むしろ期待を持って受け止められたことに相当する。

それは後段の次の箇所を見ると一層その並行関係が際立ってくる。すなわち、「ある形而上学的真理を打ち立てるにはもちろん妥当性の要求だけでは十分ではない。この要求に応える、多くの人々の同じように強い欲求がなければならない。

そして、次の言葉は非常に示唆に富む。

「霊感を受けた人間の発言はまさしく、世間一般の心的窮境に対して補償的関係にあるイメージや観念にほかならない。」

小泉の「改革」へのポーズや安倍・橋下の強気で過激な発言がある種の熱狂をもって受け入れられたということは、彼らが示したイメージは「世間一般の心的窮境に対して補償的関係にある」と考えられる。それは、現在の状態に何か鬱積した不満があるということであろう。だから、それを激しくぶち壊してくれそうなものを熱烈的に支持するのだ。(だから、リーダーがその期待に応えないことが明るみに出ると、支持率は急落する。)

彼らとは一見反対の小沢一郎による民主党の「生活」重視路線が受け入れられたことにも、恐らく同じ面があるが相違もある。同じ面は、今の状態を劇的に変えてくれそうだという期待を背景にしていたという点である。相違は、上記の自民党系の連中が過度に観念的であるのに対して、民主党の場合はメッセージの方向性としては、より現実的な方向に目を向けているという点にある。そして、現実的な方向であったが故に、それは熱狂的な支持とはやや異なり、支持も地味なものになっていると思う。だから、自民党がダメだから民主党に、という「次善の策」として支持される形になっていたと思う。

しかし、私はこうした地味な支持の方が持続性の面で優れており、カリスマ的なリーダーを輩出しようとするよりも戦略的に見て正しいと考える。ウェーバーのカリスマ論の文脈で語れば、カリスマは日常化するのが常だからである。ただ、私から見ると民主党の問題は、生活重視がどれだけ貫かれるか疑問があるというところにある。

世論は単にそれとして存在するものではない。何らかのアクションに対するリアクションとして反響するものである。現代日本の政治においては、アクションはアメリカ、政府、与党からマスコミを通じてやってくる。権力がマスコミを制御していることがかなりネックになる。マスコミは民間企業だからコントロールしやすい。極論すれば、売れるものしか売らないからだ。メディアに公共性を持たせるように権力とメディアと大衆の関係を変える必要がある。そのためにどうすべきかという全体像は、今の私には描けないが、記者クラブ制度の打破は、政治行政とメディアの権力関係を変化させるものであり、最重要課題の一つではなかろうか。



教会の教義が、宿命的に敵対関係にある心理学を同化することができれば、それは教会の教義の生命力の証である。なぜなら生命とは同化作用にほかならないからである。もはや同化する力のないものは死ぬ。(p.398)


政治運動や社会運動などもそういうものかもしれない。生命は同化作用だけではないにしても。



ユングは次のオルダス・ハックスリーの言葉に共鳴する。

十七世紀の終わり頃には神秘主義思想は、古くはキリスト教において有していたその意義を失ってしまい、今日では半死半生という以上の状態にある。<それがどうしたというのか>と尋ねられるかもしれない。<なぜ死んではいけないのか>、<生きていて何の役に立つのか>。――これらの質問に対する答えはこうである。ヴィジョンなきところでは、人間は死ぬ。そして、もし地の塩である人々がその塩の風味を失えば、地を殺菌状態に保持してくれるものはもはや何もなく、地が完全な腐敗に陥るのを防いでくれるものは何もない。神秘主義者たちは、真の現実に関する多少の知識が無知と幻覚に満ちた人間世界に濾過されてくるフィルターである。世界が完全に非神秘的であれば、それは完全な盲目と狂気の世界であろう


ヴィジョンという言葉をブログでは私は滅多に使わないが、かなり重視しているものである。この言葉は、数年前、各種の政策科学を勉強し始めた頃、盛んに使っていた言葉である。言葉は使わなくなったが思っていることは同じだ。何をなすべきか、何が良いことなのか、そういうことについてのヴィジョンがあるかないか、ということは極めて重大事だと考えているわけだ。(少し前のある議論で「展望があるかどうか」ということを書いたのは、このような持論に発している。)

上の方で世論の状態について少し書いたが、まさに今の世論にはヴィジョンが必要であると考えている。明確な方向性を示すヴィジョンを誰かが示し、ある程度の割合の人々がそれをはっきりと支持するような社会になれば、生き残る見込みも増えるだろう。今の日本の社会にはヴィジョンがない。そして、ヴィジョンなきところでは、人間は死ぬ。
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C.G.ユング 『結合の神秘 Ⅱ』(その2)

変容を引き起こすという事実があるからこそほかならぬ心理療法は、まず第一にこの間の問題に取り組んでいるのである。とりわけ意識化は、人格を変化させる重要な手段として心理療法上の諸原理の一つをなしている。変化が好都合な方向に展開した場合、それは改善と評価される。それも患者自身の発言にもとづいてそう評価されるのである。改善は第一には心的な健康状態のことを指しているが、第二には道徳的な改善をも含意している。改善かどうかの判断は、このような価値評価がそれと気づかれないかたちで世界観的先入見の領域に移行してゆくに従って困難の度を増すか、まったく不可能になる。この領域では客観的な考量は恣意による決定の前に引き退がらなくてはならないからである。改善か否かの決定は例外なく極めてデリケートな問題で、そのため骨の折れる考量と比較によるよりも素朴な先入見による方が比べものにならないほど容易に決着がつく。先入見の田畑をせっせと耕している「恐るべき単純化主義者」にとっては考量と比較の努力は侮辱以外の何ものでもないのである。(p.215、本文で傍点の箇所には下線を付した。)


これは心理療法やそれが道徳の領域に踏み込む場合に限らず、広い意味での社会的な問題にはいつも当てはまることのように思われる。先入見の田畑を耕している「恐るべき単純化主義者」というのはどこにでもいるもので、実際、誰もがあらゆる事柄を客観的に調べるなんてことは労力的に不可能である以上、こうした者が現れることは不可避的でさえある。

私が最近闘っている「恐るべき単純化主義」の一形態は、「行政の無駄遣い」論である。財政の全体のあり方について調べることなく、彼らの場合、先入見の田畑を耕してくれるマスコミの断片的な情報から、一気に全体判断にまで飛躍してしまう。

確かに、行政は歳出を完璧に役立つように行なうべきではあるが、そこに一点の付け入る隙もないような使い方をすることは不可能である。(民間企業だってそうだろう?)完全な潔癖さを求めるのもいいが、それが「重箱の隅」でしかない可能性も考慮すべきなのである。もし重箱の隅でしかなかったとすれば、それは「論点そらし」でしかないことに気づくべきなのである。

だから、それをはっきり知るために、むしろ全体的な構造を把握することが必要であり、そのためには、様々な分野の予算について「骨の折れる」分析をしなければならないはずなのである。(私は数年前に――完全にとは言わないまでも――、一度やっている。今、繰り返す余力はないが、次に余力ができたときには再度取り組みたいと思っているところだ。)



 「生きた理念」はつねに完全で、ヌミノースな性質をそなえている。人間による定式化は何も付け加えることができないし、何も取り去ることができない。元型は自律的だからである。問題はただ、人間が元型の豊かさに心を捉えられるか否かである。それを多少なりとも定式化することができるとすれば、それはむしろ、それを意識に統合し、それについて前以上に分別をもって語り、その意味をある程度合理的に説明するということである。しかしそれを定式化できる人間が、自らの感動を定式化できない人間よりもそれを多く、あるいは完全な仕方で所有しているわけではない。知的定式化は、原初の体験の記憶が消え去りそうなときに、あるいは原初の体験の非合理性が意識にとってあまりにも捉えがたいものに映ずるときに、はじめて重要になる。それはひとつの補助手段にすぎず、決して本質的なものではない。(p.327)


ヌミノースとは、宗教的信仰の対象であるヌーメン(神性・精霊)が備える、畏怖させるとともに魅惑する非合理的な性質を表す言葉である。ただ、ここでは元型の話題を離れてもう少し広く一般化したところで思いつくことを書いてみる。ここの叙述は、元型に限ったことではなく、ポイエーシスによってシステムが生成・成立することと、そのシステムを記述することとの関係をかなりよく捉えていると思うからである。

ここで定式化が二次的なものでしかないということは重要である。ポイエーシスそのものにそれが付け加えることはない。(殴られた痛みは、そのパンチがどのくらいの威力だったかを書き記すことによっては何らの変化もこうむらない、みたいなこと。)ただ、一般化した文脈の中におくと、「定式化すること」の有用性や意味についてはユングの評価をそのまま使うと、やや過小評価することになると思う。

実際、定式化をどのように行なうかということは、その定式化をどのように受け取るかということに重要な役割を果たし、それによって行為の方向を変えることがありうるからだ。その意味で、ポイエーシスそのものには変化を与えないが、システムが変容するときにはそれなりの効果を果たしうる。こうした認識がより多く生じるのは、ポイエーシスが一段落して落ち着いたときが多いだろうという意味では、ユングの言うとおりだとは思うが、行為主体が複数いるシステムの場合、それは他人の行為を変化させるという形を通して、発話者や定式化を受け入れた人の行為に間接的に作用しうるのではないか。

ユングの場合、ここでは元型が扱われており、それは心理療法の場を想定しているだろうから、アクターは患者と医者の関係が主として想定されているから、上の捉え方で十分なのだろうが、社会システムを考察対象としている私としては、ユングの定式化では不十分に感じられる。


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C.G.ユング 『結合の神秘 Ⅱ』(その1)

投影はつねに間接的な意識化である。それが間接的であるのは意識の側からある抑制がはたらくからである。しかもその抑制はつねに、真の経験の代わりをつとめ、それによって真の経験の成立を妨げるようなもろもろの(伝統的・因習的な種類の)観念による抑制である。(p.117)


なるほど。



 永遠の諸像の生きいきとした現存のみが、心にあの尊厳を与えることができる。つまり、自らの心をあくまでも保持すること、そして自らの心のもとにありつづけるのは意味があると信ずること、人間になるほどそういうこともありうるのだと思わせ、また倫理的にそう決断させるところのあの尊厳である。自らの心のもとにありつづけるときにのみ人は悟る、葛藤は自らに属するのだということ、この分裂は自らの苦悩に満ちた宝であって他人を攻撃することによってこの宝を手放してはならないということ、そして運命が責任を要求してくるとすればそれは己れ自らに対する責任であることを。かくして人は自らの心の価値を認める。なぜなら無価値なものに対して責任が生ずるなどということはありえないからである。しかし人間が自分自身の価値を失うと、彼は飢えた盗賊に、狼やライオンやありとあらゆる猛獣になる。これらの猛獣を錬金術師たちは、混沌(つまり投影された無意識)の黒い水が王を呑み込んでしまうや発動する食欲〔欲望〕の象徴として用いている。(p.139)


責任というものは、よくわかるようで実はよくわからない言葉である。以前からずっとそう思っていた。無価値なものに対して責任が生ずることはありえないというのは、この問題を考える上で参考になりそうだ。

責任というのは、それを責める人々の間の大まかに共有される認識のあり方に関わると私は考えるが、その際、共有される認識において「価値あるとされるもの」がかかわっていると言えそうだ。もっと詳しい議論は機会があれば書くことにする。(ちなみに、私は、主としてウェーバーの責任倫理とのかかわりでこの問題を追及している。だから、その問題を論じる際に、じっくり展開したいと考えている。)



一般に、それについて観念を持ちえないでいる事柄についてことばを通じて観念を持つと、観念と事柄が外見上一致して見えるものである。加えて、自分の知らない二つの異なる事柄は区別できないということもある。(p.144)


象徴を扱ってきたユングならではの慧眼である。

前者の現象は日常でもよく目にする機会がある。よく知らない事柄についての議論であるほど、ある言葉を事実そのものと思い込む傾向。例えば、政界や行政と何かの業者らとの間の「癒着」。これについては言葉によって伝えられる以上のことは、一般の人々はほとんど知らないはずだが、実際のところは「癒着」として語られるネガティブな側面以外のこともありうる。しかし、「癒着」として(のみ)語られることによって、そうした関係を構築することがあたかもすべて悪い行為であるかのように捉えられる、という現象などもその一例である。よく知らない事柄ほど言葉が「事実」だと思われやすい。

また、哲学上の論争でも、実念論(概念実在説)の立場が支持を得られたのは、神学的な領域での議論ばかりが残っている時代のものだった。神学的な対象の多くは日常的な経験において観念を持つことが難しいものが多いので、実念論が優位になりうる領域である。もっとも、普遍論争は教会政治上の背景もあったはずであり、単にこうした観点だけで説明するのは適切ではないだろう。



 心理学的な「対立の統一」は、この事象の現象学を内に含む一種の直観概念である。それは、定義によればわれわれの概念能力を超えるとされるところの何ものかに対して説明上設けられた仮説ではない。というのもわれわれが「意識と無意識が統一される」という場合、われわれはそれによって同時に「それは思い浮かべることの不可能な事象である」といっているのである。なぜなら無意識は意識されないものであって、それゆえそれは把握することも思い浮かべることもできないからである。対立の統一は意識超越的な事象であって、原理的に科学的解明の及ばないところにある。(p.160)


観察者による記述が不可能なポイエーシスの領域について、ユングはしばしば言及する。しかし、ユングも言い表そうとすることを感じ取ってはいるが、適切に言い表せないと感じている。優れた思想家の著述には、こうした洞察がしばしば見られる。

20世紀前半頃の思想家にはしばしばこれが見られる。ベルクソンやカッシーラーは特に優れている。フッサールやハイデガーも幾らかは見て取っているところがあるようにも思われるが、彼らはそれに成功していない。特にハイデガーの方が失敗の度合いが大きいというのが私の現時点での評価である。また、20世紀後半の思想家はむしろこの点でベルクソンらに遥かに及ばないような気がする。


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竹森俊平 『1997年――世界を変えた金融危機』(その4)

IMFに対する「左」の立場からの批判者は、最終的には「国際資本取引の規制」に解決を求める。これに対して「経済自由主義」を信奉する「右」の立場の者は、「国際資本取引の規制」ではなくて「自生的な秩序」による解決法を模索する。

 現代と遜色がないほど「国際資本取引」が発展していた19世紀後半から第1次大戦にかけての時代に、国際資本取引の安全性はほとんど民間のイニシアティブだけで維持されていた。政府が今後、介入を強化するとしても、それは「民」による「自生的な秩序」を置換するのではなくて、それを支援する性格を持った介入であるべきだ。つまり、「自生的な秩序」の法的な援護を目指すのである。これが「右」の提示した方針であった。
 ・・・(中略)・・・

 IMFのような第三者からの救援資金の投入を「ベイル・アウト」というのに対して、「再交渉」の方式は、当事者(つまり貸し手)の救援(返済の猶予はそのような性格を持つ)によって問題の解決を図るので、「ベイル・イン」と呼ばれる。IMF改革もしくはIMFに代わる国際金融システムの安全装置を模索するならば、この韓国における「ベイル・イン」の成功を教訓とするべきだ。「ベイル・イン」の方式を、多くの債権者が関わる一般的な国際貸借にも適用できるようにするのである。これが、「右」の立場からの発想であった。
 この発想はまもなく具体化する。主権国家が借り入れ主体である債務(ソブリン・デット)について、「ベイル・イン」を一般化するための提案が出されたのである。しかも、提案は二つ出された。
 一つはIMFのアン・クルーガー筆頭副事務理事が2001年11月26日に発表したIMFの改革案である。IMFはこれを、「ソブリン・デット・リストラクチュアリング・メカニズム(SDRM)」という長い名前で呼ぶ。これは「国際破産法廷を創設すると同時に、債務国の問題がいつ国際破産法廷の裁定にかけられるかとか、債務国と債権者が債務の名目をどれだけ削減するかといった問題に対し、IMFに強力な仲裁機能を付与する提案」(テーラー)であった。しかし、アメリカ財務省はSDRMに反対する。・・・(中略)・・・。

 そこでテーラーは、著名な国際金融学者バリー・アイケングリーンなどの研究をもとに、「ベイル・イン」を一般化するための別個の提案をした。すなわち、「集団交渉条項(Collective Actions Clause――CAC)」である。CACとは、主要な債権者と債務国との間の再交渉により新条件が決まれば、その新条件を再交渉に参加しなかった他の債権者にも自動的に適用することを、あらかじめ債務契約が結ばれる段階で契約の定款に明記する方式である。もちろん、この狙いは「フリーライド問題」の防止だ。(p.188-193)


右と左と言っているが、これらの立場は矛盾するものではないだろう。国際資本取引を規制しながらも「右」のような「自生的秩序」の法的援護は可能だから。少なくとも、右の立場からは国際資本取引の規制は受け入れにくいかもしれないが、左の立場から右の提案を受け入れるのはそれほど困難では内容に思われる。

また、「現代と遜色がないほど「国際資本取引」が発展していた19世紀後半から第1次大戦にかけての時代に、国際資本取引の安全性はほとんど民間のイニシアティブだけで維持されていた」という指摘は興味深い。これはそうなのかもしれない。しかし、逆に言えば、100年も持たなかったのである。ブレトンウッズ体制という左のやり方も30年ほどしか続かなかったが、世界経済の規模は新しい時代の方が大きいだろうから単純に期間だけで優劣の比較はできない。

ブレトンウッズ体制ほど強力な資本取引の規制は今後は難しいとすれば、それよりは弱い規制と「自生的な秩序」の法的な援護の良い組み合わせを模索するというのが妥当なところなのではないだろうか。

ただ、CACという解決法を著者などは高く評価しているように見えるが、大口の債務者が小口の債務者よりも有利になる仕組みだから、それによるバイアスや不利益が生じる可能性などは過去の事例に照らすとどうなのだろう?という疑問が私としては残るところだ。



しかし日本の場合の「不確実性」は、足の速い国際資本の破壊力によるものではなく、純粋に国内要因としてわれわれの前に姿を現した。外部からの統制、監督を十分に受けない行政、官僚組織の欠陥など、高度成長の恩恵でこれまでは闇に隠れていたものが、ひとたびバブルが崩壊し平均成長率が1パーセント台にまで下がると、次から次へと明るみに出る。どこまで問題が発展するのか、暗闇はどこまで広がっていくのか、自民党の政治家はおろか、首相にさえそれは掴めない。国内政治の「不確実性のブラック・ホール」が、われわれの前にぽっかりと開いたのがこの時代である。(p.204)


大まかに言って、本書の著者の立場は金融業界にとって都合の良いことを是とする立場である。したがって、「国際資本の破壊力」が日本の「不確実性」であっては都合が悪いのである。そういう中で「官僚組織」が悪者として選ばれている典型的なパターンの議論である。これは特に90年代以降になってから繰り返し財界寄りの立場から発せられてきたものだ。

あまりにステレオタイプ化されているのだが、既に多くの人には常識として刷り込まれているから、こうした言説を目にしても違和感を感じるどころか是認する人も多いことだろう。

しかし、70年代以降の金融や経済の変化に対応できなかったことの原因としてこの要因を取り上げるのはあまり妥当とはいえない。というか、日本の行政組織の問題はあるのだが、それは「官僚組織の欠陥」のような普遍的な現象とは違うところに要因がある。すなわち、70年代にブレトンウッズ体制が崩壊した際に、オイルショックなども重なって、世界中でスタグフレーションの嵐が吹き荒れた。その際、日本だけが奇跡的にその被害を免れた。したがって、欧米諸国はその時代に政治や行政の構造や行動原理(行動を決定する基準)を変えなければならなかった。金融に対しても考え方がどんどん変わっていった。経済学の学説が劇的に変化したのを見てもそれは分かるだろう。それに対して、日本は70年代と80年代にむしろ黄金期を迎えていたために、欧米の動きとは違った動きになっていた。だから、90年代になって急に欧米と同じ土俵の上での政策判断を迫られてもそれのための準備がなかった、大まかに言えばそういうことである。政治家についてもそれは言えるだろう。シュムペーターはかつて「資本主義はその成功のゆえに終焉を迎える」としたが、それと同じように、ある時期に成功していることによって、かえってその後の時期に急に情勢が変化した場合には遅れを取るということがあるのである。

組織論というか、ある「組織の性質」として捉えると、正しい見方から逸脱することが往々にしてある。それは日本の経済発展を日本の国内要因だけで説明しようとしてきた19世紀から1970年代までの日本の経済史が間違いだらけなのと同じである。組織の失敗は組織の内部要因だけでなく、組織がどのような状況に置かれているのかという観点からも考えなければならない。

一度この見方を身につけてしまえば、世間一般に言われている官僚悪者論の多くが、いかに瑣末な議論であるかが分かるようになるだろう。そして、そうした瑣末な議論に拘っているうちに、本来解決すべき問題を解決する時機を失うのである。だから、私に言わせると、官僚の悪さよりも、下手をすると官僚に世の中(生活)が良くならない責任を押し付けようとしている世論やそのように誘導している連中こそが戦犯だということになるのである。

しかし、その際、私は前者に対しては、次の言葉を付け加えるのを忘れないようにしたいとは思っている。

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書23:34)と。



「同時に量的緩和をするなら」という条件をアメリカ政府が為替介入について出したので、日銀も量的緩和に踏み切ったというわけである。(p.216)


この前後2ページくらいの箇所は大変興味深いところである。03年度に行なわれた33兆円という史上空前の為替介入や、その後の輸出主導型の経済回復もまた、アメリカ政府の許しを得て行なわれたということが当事者の証言つきで書かれている。



 第三に、「減税」を前面に押し出すことにより大統領選挙が有利に戦える。そもそも「減税」を経済プログラムの目玉とした初めての大統領はレーガンであり、それまでの共和党の経済プログラムの中心は「均衡財政」であった。しかるに、中心となるプログラムを「均衡財政」から「減税」に変更したことによる政治効果は目覚しかった。1933年のルーズヴェルト大統領から1980年のカーター大統領までの期間では、共和党の大統領はアイゼンハワー、ニクソン(フォード)と実質的には2人しか選出されなかったのに、レーガン大統領以降はクリントン大統領を除いて、すべて共和党の大統領が選挙で勝っているからである。(p.225)


共和党の大統領がかつては2人しかいなかったがレーガン以降は続出しているというのは、興味深い事実だが、恐らく「減税」だけの問題ではないだろう。それ以前はブレトンウッズ的な世界であり、福祉国家的でケインズ主義的な考え方がある程度通用していたが、その後70年代以降、スタグフレーションへの対応ができない中でケインズ主義への疑いが深まったということに象徴されるような状況の変化もある。

実際、現在進行中の大統領選挙でも争点は、イラク戦争であり、経済政策であり、医療保険であるとされている。争点は税金ではないし、むしろ、どの争点も歳出増大と関連がある。イラク戦争をするが福祉には金を使わない共和党か、イラク戦争からは撤退するが福祉などに金を使う民主党かという話だろう。大雑把に言えば。


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竹森俊平 『1997年――世界を変えた金融危機』(その3)

重要なのは、世界全体として「貯蓄」が「投資」を上回る傾向があれば不況圧力を生む原因になるという点だ。しかるに、97年から98年にかけての極東での金融危機は、まさにそのような傾向を発生させた。なぜかといえば、日本や東アジアの多くの国々の投資行動が、この事件をきっかけに慎重になったからだ。つまり、これらの国は、「不確実性のもとでは人々は最悪のシナリオを考えて行動する」というエルスバークの原理通りに行動した。投資を減らして同時に貯蓄を増やしたのである。(p.146)


97年の金融危機を境にして、東南アジア諸国などで投資が減り貯蓄が増えた。本書の説明では主としてそれはこうした心理的な問題として語られている。私としては、不確実性の認識のために心理(投資性向や貯蓄性向)に変化が生じた面もあるにせよ、個々の経済主体の資産状態の変化などももう少し考慮して説明してもらいたいという感じがする。単に不確実性を認識するようになったから心理に変化が生じたという説明は、現実の投資家や企業の行動を説明するにはあまりに単純すぎるからだ。現実にはもっと様々な要因を判断に組み入れているはず。



 以上の点を総合すれば、バブルに対して中央銀行が取るべき行動指針ははっきりする。
「もしバブル崩壊の反動による景気後退が訪れたときには、その影響を打ち消し、望むらくは次の経済拡大期までの円滑な推移を図る」
 これである。(p.155-156)


本文のこと直後に引用されているグリーンスパン氏の「バブルそれ自体ではなく、バブルの結果に対応する」という言葉は、この方針を端的に言い表している。

この方針については、本書を読んで、なるほどと思わされる点が多かった。しかし、本書は、主として金融市場の安定的な運営のために必要なことに視野が限定されており、それ以外の点でどのようなデメリットがありうるかという点についての言及はほとんどないのは気になるところだ。



 日本の場合、景気回復は輸出主導の性格がとりわけ強かった。小峰隆夫(2006)は、GDP成長率の要因別寄与度を測るという、経済白書などで行なわれる通常の計算の代わりに、日本の「総需要成長率」が「内需寄与度」と「輸出寄与度」の二つにどう分解されるかという興味深い計算を行なっている。「いざなぎ景気」を超えたとされる日本の景気拡大の始まったのは02年だが、それ以降についてこの分解を行なうと、いかに日本の景気回復が輸出に牽引されたものであったかが明らかになる。つまり、こうである。

(2002年)総需要成長率1.4%、内需寄与度0.3%、輸出寄与度1.1%
(2003年)総需要成長率2.4%、内需寄与度1.3%、輸出寄与度1.0%
(2004年)総需要成長率2.3%、内需寄与度1.3%、輸出寄与度1.0%
(2005年)総需要成長率3.5%、内需寄与度2.4%、輸出寄与度1.1%

 景気拡大の始まった2002年の総需要成長のうち、なんと80パーセントは輸出で、他の年も04年までは輸出の寄与度は5割前後に上り、05年になってようやく内需が総需要成長の中心となっている。「失われた10年」からの脱却の局面がこれだけ輸出に依存したものであったことを考えれば、なぜ政府が日銀の協力のもとに03年度に円高阻止のための33兆円にも及ぶ歴史上類例のない為替介入をしたかが理解できる。(p.169-170)


興味深いデータ。総需要成長率という概念についての詳しい説明はないが、参照文献についての指示があるのでそちらにあたってみようと思う。



 ともかく21世紀初めの世界経済を考えると、中国を含む多くの東アジア新興工業国がドルに対する固定為替制度を取っており、それに加えて日本までがドルに対する為替レートの安定化を図り、積極的な為替介入を行なったので、時ならず巨大な「ドル圏」が誕生することになった。それを英フィナンシャル・タイムズのコメンテーター、マーティン・ウォルフは、「連銀が世界の約半分の中央銀行になった」という言葉で表現している。
 時ならぬ巨大な「ドル圏」の誕生は、連銀の金融緩和の効果を増幅し、全世界に広めることに役立った。実際、今回のように、一中央銀行による金融緩和が全世界的な景気拡大につながったという例もめずらしい。歴史を振り返って、そのような例を他に求めるならば、それはすべて世界的な規模で固定相場制が成立していてた時代のものだが、2003年の世界の半分での「ドル圏」の形成も一種の固定相場制と考えられる。かくして東アジア通貨危機を経験した5カ国、同時期に国内の金融危機を経験した日本、通貨危機をまったく経験しなかった中国は、いずれもアメリカの消費の盛り上がりの恩恵を受ける。
 しかし、その後の各国の成長経路には違いがある。つまり、日本や東アジア5カ国は、病み上がりで、しかも「ナイトの不確実性」のもとでの悲観主義というトラウマを引きずった状態であったために、その好況にもいまひとつ力強さが欠けていたのに対して、トラウマを一切持たずにアメリカの消費盛り上がりの恩恵を受けた中国の好況はまさに爆発的だった。もしかしたら97年の東アジア通貨危機の持つ最大の経済的意味は、東アジアにおける中国の地位を強化したことかもしれない。2007年5月14日のフィナンシャル・タイムズの社説も、「通貨危機は、アジアの新興国の経済モデルの変化、すなわち先進国への『最終製品』の輸出という過去のパターンから、『部品』や観光を含めた『サービス』の中国への輸出という現在のパターンへの変化を意味した」と評価する。(p.171-172)


妥当な認識だと思われる。日本と中国とアメリカの相互依存的な経済構造もこの「ドル圏」なしにはあれほどうまくいかなかっただろう。そして、それは中国に最も有利に作用した。


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竹森俊平 『1997年――世界を変えた金融危機』(その2)

 グリーンスパン議長は、ナイトのオリジナルな議論を忠実に紹介している。つまり、経済における不確実性には、「その確率分布を推測できる不確実性(これをナイトは「リスク」と呼ぶ)と、「その確率分布を推測することが不可能な不確実性(これをナイトは「真の不確実性」と呼ぶ)という二種類がある。(p.79-80)


本書のキーコンセプトについての説明。

ただ、こうした区別は「経済における不確実性」に限った話ではないはずであり、社会科学のうち政策科学のような未来への提言を含まざるを得ない分野では、常に関わってくる問題であろう。



 こうして見ると、「不確実性」を前にしての二つのタイプの行動方針をわれわれは考慮するべきだということになる。第一のタイプは、「不確実性」を前にして人々が実際にとる行動である。第二のタイプは、「不確実性」を前にして政策担当者が取るべき行動である。東アジア通貨危機をきっかけにして、われわれの前にぽっかりと「不確実性」のブラック・ホールが開いた1997年以降、われわれはこの二つのタイプの行動方針の調整に苦労してきた。それは、第一のタイプ(人々の行動)があまりに悲観的になる時は、第二のタイプ(政府の行動)はとりわけ積極的になる必要があるといった調整なのだが、それについても後ほど詳しく論じる。(p.105)


ここも本書の議論の中でかなり重要な箇所である。ここで述べられる調整のあり方が本書の主要な主張になっていると言ってもいいくらいである。

個々の経済主体がとる行動と政策担当者(政府)が取るべき行動とは異なっているのに、デモクラシーの下で主権者である民衆は、個々の経済主体がとる行動を政府にも当てはめてしまうので、政府が取るべき行動を理解せず、政府が取るべき行動を政府が取ることができず、悪い結果に繋がりやすくなってしまう、ということだ。

政府に対して「こんなことは民間なら通用しない」と言ってみたり、政府の財政を家計にたとえたりして説明するとき、ほとんどの場合、よほど意識的に避けない限り、この誤りを犯す危険性は高い。

これは金融の領域に関わらず、財政についても当てはまると私は考えている。

まず、本書がこのことを取り上げて言うのは、金融機関が破綻しかけて金融システムにダメージが及ぶ可能性がある場合には、最後の貸し手(政府など)が積極的に公的資金を投入する必要があるということを主張する。しかし、それは必要なことなのに不人気であり、なかなかそれができないため、かえって危険性が増してしまっているというのである。

次に、私がメインブログやこのブログでもしばしば主張している「累進課税による増税」という議論もこの範疇に含まれると思われる。というのも、それは財政の機能を高めるために行なうのであり、財政が積極的な活動をする余地がない現状を変えることを目的としているからである(★注1)。だから、実際にはやるべきなのだが、人々はそれを理解していないので不人気であり、そのことが現実の危険度を高めているという構造は同じである。これについては、今はあまり時間がないので詳論しない。

(★注1)「無駄をなくしてから増税すべきだ」という意見はありうるだろうが、それは幾つかの理由から現状では支持し得ない。その一つを言えば、無駄と言われるものが生じるのは、無駄を生もうとして生じているのではなく、既にあるシステムの流れの中で生じているのであるから、現行のシステムの流れを変えれば生じなくなることが多いと見るからである。(オートポイエーシス的なシステム論の認識枠組みを使わなければ、このことは見えにくいかもしれないが。)



ようするにここでの主張のポイントは、①危機的な状況におけるリスクの認識の急激な高まりが投資家や金融機関の心理を萎縮させた、②彼らが損失回避のための防衛行動を取ったことで資産価格のさらなる下落が生まれた、③それがさらにリスクの認識を一層高めて防衛行動を呼んだ、という①、②、③が繰り返される悪循環が生じたということである。安全第一を考えて個々の主体が取る防衛策が、市場全体を通して見れば、かえって危機と危険の増加につながる。これは金融システムの抱える本質的な脆弱性である。(p.130)


1997年の一連の金融危機についての説明。

この時の危機に限らず、バブルが崩壊するときなどは、常にこの脆弱性が顔を出すといってよいだろう。

 東アジア通貨危機やロシアの債務不履行のような突発的なイベントによって危機認識が高まり、市場から流動性が消えてなくなるという事態に、一体、どのように対応したらよいのだろうか。こういった時こそ、流動性(現金)を供給する能力を持った中央銀行の役割が重要になる。それがカバレロたちの研究の結論である。そもそも、先に紹介したバジョットの古典的な議論も明らかにしているように、中央銀行にあたえられた重要な使命は、流動性の危機に対して「最後の貸し手」として流動性をふんだんに市場に供給することである。しかも、バジョットに言わせれば、このような場合、中央銀行は流動性を惜しむことなく市場に供給しなければならない。
 ・・・(中略)・・・。つまり、「最後の貸し手」がいることによって「システム的な危機」が発生した場合の流動性の心配が薄れるために、金融機関は「通常の危機」の際に流動性を市場に供給するようになる。この結果、「通常の危機」への市場の対応は改善し、「通常の危機」が「システム的な危機」に発展することも防げる。(p.139-140)



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竹森俊平 『1997年――世界を変えた金融危機』(その1)

 しかし、中央銀行が「最後の貸し手」として、どれだけ効果のある行動がとれるかは、状況に依存する。たとえば、ある国の企業や金融機関がすべて自国通貨建ての債務をもっているならば、自国通貨を自由に発行することができる中央銀行は「最後の貸し手」の機能を十全に発揮できる。しかし、企業や金融機関の抱えている債務が外国通貨建て(たとえばドル建て)のものである場合には、中央銀行の救済能力には限界がある。韓国の中央銀行にドルの発行はできないから。その場合、中央銀行の保有する外貨(ドル)準備が「最後の貸し手」として貸し出せる限界となる。(p.39)


この点では日本は一応、安全な方だと言えよう。



 こういう戦略的な発想を19世紀の経済学者は持っていた。ところが、第2次大戦後から為替レートの固定相場制が続いた1970年代まで、いわゆるブレトンウッズ体制の下での経済学には戦略的な発想が欠けていたようである。なぜ、そうなったかというと、それは一つには、この時期は「固定相場制」の維持という絶対的目標を達成するために、金融、とくに国際資本取引に対する規制が厳しくて、それが結果的に平穏な金融市場を作り出していたという事情があったためである。
 それともう一つ、経済学内部の事情もあったのではないかと思われる。つまり、経済予測の手法が急速に進歩したのがこの時期だ。経済予測の進歩は、完全雇用や低インフレを目指した経済政策を容易にしたが、マイナス面もあった。つまり、経済予測を困難にするような状況を無視して、問題を単純化するという悪しき傾向を経済学に生んだのである。とくに、経済予測を困難にするという理由で「複数均衡」は無視された。しかるに経済を理解するために、無視できない「複数均衡」は厳然として存在する。たとえば、銀行は「取り付け騒ぎ」が生じない「良い均衡」に置かれる時もあれば、「取り付け騒ぎ」が生じて破綻する「悪い均衡」に置かれる時もある。どちらの均衡に置かれるかは、市場心理に依存し、経済モデルで予測することは不可能だ。しかし「予測」をあくまでも経済学の第一の目的とするならば、「良い」、「悪い」という「複数均衡」のことは忘れて、「良い均衡」だけが存在するという前提で研究を進めなければならない。
 しかし、1973年にブレトンウッズ体制が最終的に崩壊し、主要国の変動相場制への移行と同時に、国際資本取引の自由化が進むと、経済学の傾向もがらりと変わる。それ以降、国際資本市場は時に大きな動揺をきたすようになり、「取り付け騒ぎ」や金融機関の経営破綻を経済分析の上で無視することも難しくなる。そうなった時に、国際資本取引が活発で市場が時に動揺をきたした19世紀の経済学者の考え方が、新たな注目を浴びたというわけである。(p.42-43)


この部分は、本書で一番共感できたところかもしれない。

ブレトンウッズ体制の下とそうでない状況(20世紀前半以前と73年以後)とで経済学の様相が変わった理由について2つのことが言われているが、私の見解では基本的には第一の理由が主たるものであると考える。なぜなら、第二の経済学の内部の事情というもの自体が第一の実社会の動きを反映したものだと言えるからだ。つまり、ブレトンウッズ体制→経済学における経済予測の手法の進歩(流行)という因果関係があると見る。

この文のもう一つのポイントはブレトンウッズ体制の下で展開された経済学は、経済予測に都合の悪いものを無視したという指摘である。幾つかの社会科学の分野を見回してみると、経済学という分野は本当に偏狭だという印象を受ける。仮定を厳しく置きすぎる傾向があるのだ。その動機として見えることの一つが、数式で表現できるようにするためだったりする、というのが私が思っていたことである。そして、数式で表現されるということと上で書かれている予測ということは――完全な対応関係とは言わずとも――深く関わっていると思われるので、上の部分を読んでその通りだと思ったわけである。

本書のキーワードは「ナイトの不確実性」(確率分布が推測できない不確実性のこと)なんだが、それに類するような不確実性は他の社会科学の分野だけでなく自然科学の分野でも30~40年くらい前から注目されてきたことであって(例えば、オートポイエーシスやカオス理論や複雑系などに関連する問題系はその代表だろう。これらも一挙に広まったのは80年代頃だろうが。)、この程度のことが今頃、新書で主題として扱われているという時点で経済学は他の学問の動向と比べて、「思考の枠組み」が相当古いと言ってよいのではないかと思っている。

まぁ、それはさておき、この箇所で最も私が共感したのは、ブレトンウッズ以前の19世紀の経済学から今の経済学は学ぶことがある、注目する理由がある、という点である。社会の状況(経済の状況)が似ているから、似た状況下で考えられたことには某か参考になるものがあるということである。

これは経済学に限らず言えそうであり、私もこの考えが強くなっていたところだった。例えば、このブログでも先日取り上げた神野直彦氏などはシュムペーターの財政社会学を重視している。また、先日雑誌で特集が組まれたマックス・ウェーバーについても姜尚中の批評を紹介したが、それも同じことである。「金融や資本取引の自由化」は「政治と経済の結びつきが深まること」と表裏一体であると私は捉えるが、こうした結びつきはまさにブレトンウッズ時代の経済学が捨象してきたことであると同時に、それ以前の時代には論じられてきたことなのだから。

ちなみに、金融自由化と政治経済の結びつきが深まるのは、次のような理由による。金融が自由化された世界の中で、ある国の政府が生き残る(有利な位置を獲得・維持する)ためには、自国の企業を生かさなければならず、そのために機会がある毎に自国の企業に有利なルールを設定しようとする誘因が働く。また、各企業はグローバルな競争での生き残りのために、あらゆるリソースを動員することを余儀なくされるが、その際、当然のこととして政治的なリソースも最大限に活用される。それは上述の政府の意向とも合致するため、政府はグローバル企業のエージェントとなる。これはほとんど不可避的である。経済は経済で独立した活動ではないし、政治・外交もそれだけで独立した活動ではないのだから。(むしろ、こうした区分は学問が専門分化していく過程で、それぞれの分野の分析を容易にするために恣意的に分けられたものである。)

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C.G.ユング 『結合の神秘Ⅰ』

錬金術師たちはごく少数の例外を除いて、自分たちが心の構造を白日にさらしているとは露知らず、あくまでも物質の変化を解明していると思い込んでいたので、心理学的なまなざしや感受性にわずらわされることなく、彼らの心の背景にある諸事象、意識的人間なら恐れしりごみするような諸事象のヴェールをはいだのである。(p.20-21)


ユングがなぜ錬金術の言説を研究対象にしているのか、その理由がよくわかる一節である。

ユングの場合、こうして錬金術師によって描き出されたものは、物質の変化ではなく心の構造が反映したものだと考えているようだが、ある意味では錬金術師達の描き出したものというのは、「観察の理論負荷性」の議論によっても捉えられるように思う。

ユングとの違いは、文化に関わらず人間に普遍的に備わったものから来ているのか、そうでないのか、という点であろう。もちろん、ユングはこの対比では普遍主義の立場に立ち、理論負荷性の議論は歴史主義的な立場に立つものである。



最近ではさらに、伝統的な誤謬に生物学的ないしは唯物論的と自称する見解が加わって、心の軽視に拍車をかけている。この新たな見解は、今日までのところ、人間を動物の群以上には、そして人間の諸動機を空腹、権力衝動、性衝動以上には理解してこなかった。何十万、何百万という数としての人間のことしか頭になく、むろんその場合問題となるのはもはや、その群は誰に属するか、その群にどこで牧草を食べさせるか、子牛は十分産まれるか、それに応じた量の牛乳や肉が生産できるかということでしかない。膨大な数を前にしては、個についてのどんな思考も色褪せてしまう。というのも統計はあらゆる一回性、個性というものを消し去るからである。かくも大きな力と、かくも大きな惨めさとを前にしては、個人はそもそも存在することすら遠慮したくなる。しかし、真の生命の担い手は個人である。人生の幸福を感じうるのはただ個人のみであり、徳を、責任を、あらゆる倫理性をもつことができるのもただ個人のみである。群や国家はそのようなものは何ひとつもたない。個別存在である人間のみが生きており、これに反して国家は、群を分類し整理するためのシステム、単なる機械にすぎない。すなわち、人間的事象を個別的人間を差し引いて巨大な数としてしか考えず、こうして自分を一原子にしてしまう者は、自ら盗人、盗賊と化しているのだ。集合的思考という癩に感染し、「全体主義国家」という名の病める牛舎にとらわれた囚人と化しているのだ。現代という時代は、「猛毒の悪意」arsenicalis malignitasによって人間が自己自身の存在に到達することを妨げる「生の、卑俗な硫黄」をたっぷり含み、たっぷり産み出している。(p.208-209)


本書は1955年に出版されたものだから、この批判は当時始まった冷戦の東側世界の共産主義的な全体主義に対するものであろう。

しかし、面白いことに、共産主義とは無関係に、現代の日本の国家主義に対する批判にもなっているように思われる。少なくとも政府や与党の「お偉方」のものの考え方に対する批判として的中する内容が極めて多いと言える。

個よりも全体(としての国家)を優先する考え方に対する批判である。とりわけ興味深いのは、「人生の幸福を感じうるのはただ個人のみであり、徳を、責任を、あらゆる倫理性をもつことができるのもただ個人のみである。群や国家はそのようなものは何ひとつもたない。」という指摘である。

これは少し前に流行った(?)「品格ある国家(国家の品格)」とか「美しい国」といった言説に対して投げかけることができるものである。


また、前段の「問題となるのはもはや、その群は誰に属するか、その群にどこで牧草を食べさせるか、子牛は十分産まれるか、それに応じた量の牛乳や肉が生産できるかということでしかない。」といった指摘なども、少子高齢化社会だとか合計特殊出生率がどうしたという議論、さらには社会保障費が増えていくとかその種の議論に対する批判としての力を持っている。

もちろん、統計的なデータを用いて政策を作っていくことは重要なことであり、必要不可欠だといっても良い。しかし、その際、支配者の視点だけで見ると個々の人々が生きていることは忘れ去られがちである。そうではない普通の生活者の視点がそこに入り込み、普通の人・相対的に弱い者の生活を生かすものとして計画されなければならない。

私はそう考えているのだが、私の立場から見ると、ユングの批判は支配者の立場からの視点――これだけが先行すると全体主義ないし国家主義的になる――に対する補完的なものとしての有効性を失っていない。


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C.G.ユング 『元型論』
「元型――とくにアニマ概念をめぐって」 より。

 さて、宗教的なイメージは、歴史が証明しているように、暗示や情動を引き起こす最強の力をもっている。私が宗教的イメージという中には、もちろんすべての「集団表象」、すなわち宗教史に出てくるものや、またおよそ主義と名のつくものすべてが含まれている。主義というのは歴史上では宗派と言われていたものの現代的な変種にすぎない。いかなる宗教的理念も持たないという信念に忠実な人はいるかもしれない。しかし[その社会の]支配的な「集団表象」を何一つもたないことは人間でなくなることであり、そのようなことはありえない。ある人が唯物論、無神論、共産主義、社会主義、自由主義、主知主義、実存主義等々をもっていることは、まさしくその人が無害ではないことを証明するものである。彼はどのみちどこかで、公然とにせよひそかにせよ、なんらかの上位理念に取り憑かれているのである。(p.87)


ユングは心理学者だけあって、捉え方が内面的な傾きがあるが、私の考えもこれに近いところがある。

主義も宗派もある特定の思想を共有する人間のネットワークを前提するから、その意味で同列のものである。このネットワークにおいて共有されているイデオロギーが、宗教であれば教理であり、そうでなければ何らかの主義として名づけることができる。

一つの見方を言えば、今の日本ではナショナリズムとネオリベラリズムは、かなり深く浸透していると言うことができる。いずれも明文化された形では部分否定されるが、より無意識的なところでは無防備に受け入れられているところがある。明示されたときに否定されるから、それはマジョリティではないかもしれないが、これらのイズムが根深く根付いているという点ではマジョリティを形成していると見る。

さらに言えば、意識化されたところでは、これらのイズムに激しく反対している人もまた、かなりの程度、この観念を共有しており、だからこそそれに対して強く批判せざるを得ない面もあるのだろう。



「心の本質についての理論的考察」 より。

無意識によってわれわれにもたらされる元型的イメージを、われわれは元型それ自体と混同してはならない。元型的イメージはさまざまに変形されており、それ自体の具象的な形をもたない基本型から生じたものである。この基本型は一定の形式要因と一定の原理的な意味を持っているのが特徴だが、しかしそれらについてはおおよそのことが分かるにすぎない。元型それ自体は類心的な動因であり、いわば心のスペクトルの不可視の紫外線部に属している。(p.346、本文の傍点部には引用文では下線を付した。)


「元型それ自体」というのは、イデアや物自体(Ding an sich)を想起させる表現だが、心的システムの作動と深く関わるものだと捉えられる点の方が興味深い。心的システムを作動させ、それが作動することによって心的イメージが構成素として産出されると捉えれば、オートポイエーシスにも通じるように思われる。

作動のあり方を振り返ってみてみれば、それは「形式」があることになるだろうし、作動によって産出されたものを見れば、それが「内容」ということになるだろう。

ユングの理論も――もっと観察者的かと思ったがやはり臨床の場で作られてきた理論だけあってか――意外とオートポイエーシス・システム論によって解釈ができる部分はありそうだ。次の箇所も同じように捉えられる。

元型は観察したり経験したりする中ではじめて姿を現わす、つまり元型はイメージを配列することによってその存在を明かすのであるが、配列はそのつど無意識的に行なわれ、それゆえわれわれはそれをいつも後になってはじめて知ることができるのである。(p.364、本文の傍点部には引用文では下線を付した。)


元型それ自体は、元型的イメージが「配列され」た「後になってはじめて知ることができ」る。元型それ自体は、この配列する働き(作動)である、と。

こんなところだろうか。

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春山昇華 『サブプライム問題とは何か アメリカ帝国の終焉』(その3)

 アメリカの不動産価格と世界経済の関係を述べるには、最初に第2次世界大戦後の「アメリカを中心として構築された世界経済の構造」を理解する必要がある。
 アメリカ以外の好景気は、常にアメリカの貿易赤字(=輸入超過、つまり日欧の輸出ブーム)のおかげであった。戦後、アメリカは市場を開放して、外国の貿易品を受け入れる自由貿易体制を採用していた。その背景には、戦後の国際社会で、アメリカが自由主義陣営の覇権を維持して、社会主義大国ソ連と対抗する必要があったからだ。覇権維持のために、アメリカは国内の消費者や企業が欲しがるものを、日本や欧州、アジアといった子分に作らせて物を買った。一方では、防衛や金融の仕組みなどを押さえ、親分(宗主国)として振舞うという主従関係を築いたのだ。
 こういう「もちつもたれつ」の主従関係は、ローマ帝国、大英帝国、そしてアメリカ帝国に共通する姿である。進んで他国の商品を輸入(=自国市場の開放)するということは、それとひきかえに何か重要なものを得るためなのだ。そこには国際政治を考える上で戦略的に重要な判断がある。戦後のアメリカは内需主導の経済政策を戦略の中心に据えたのだ。
 一方、日欧が戦後、内需中心の経済運営を経験したことは一度もない。内需主導経済を採用する政治的理由が存在しないからだ。(p.181-182)


この構造は日本やヨーロッパではアメリカと比べて「消費者が冷遇されている」ことと深く関わっている。アメリカは日本や西欧を共産化されないために経済発展させなければならず、そのためにそれらの地域に物を作らせて、それをアメリカが買うという構造にしなければならなかった。

例えば、西欧に対するマーシャル・プランはまさにそうした復興策だったし、日本についても1ドル360円という円安の固定レートに設定され続けたことは、この流れに沿ったものだった。日本が戦後の「高度経済成長」が可能だったのは、こうした世界経済の構造があったからであると理解しなければならない。

この構造が失われれば、当然、こうした構造によって支持されていた状態は維持できなくなる。それが90年代以降の経済の低迷であり世界の中でのプレゼンスの低下である。自国に有利な世界の構造を作っていかない限り、そうしたプレゼンスの向上はありえない。もっとも、私はそんな無理をする必要はないと思ってもいるが。

80年代頃からしばしばアメリカから日本に「内需拡大」をしろという命令が来ていた。90年代のバブル崩壊後は、それにしたがって日本はアメリカに630兆円の公共投資を行なうことを約束した。90年代の景気対策として行なわれた公共事業はアメリカの要求でもあったことは一応頭の片隅においてもいいと思っている。

あの時代の公共事業が内容的にあまり深く考えられたものではなく、かなり場当たり的に、しかも、中央政府が地方政府を半強制的に動員して行なわせたという性格の一部は、こうしたところに由来すると私は考えている。

なんか話がそれてしまった感じもあるが、引用文にある世界経済の構造についての理解は概ね正しく、今の日本の状況もこの構造が変わったことからかなりの程度説明できる、ということが言いたかったこと。

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春山昇華 『サブプライム問題とは何か アメリカ帝国の終焉』(その2)

 自己資本規制と金融技術の発達によって、住宅ローン・ビジネスのルールは大きく変わってしまった。証券会社は、証券化の材料として住宅ローンをたくさん集める必要がある。住宅ローン・ブローカーは契約を取れば取るほど手数料で潤う。唯一借り手のリスクを吟味していた銀行のリスク監視のモラルは消えた――何が起こるかは誰の目にも明らかであった。契約したローンはどうせ売ってしまうのだ。
 こうして、誰でも良いから住宅ローンを契約させる仕組みができあがった。(p.70)


アメリカ国内におけるサブプライム問題の構図。



 サブプライム問題を金融界の側から見たとき、避けて通れないのが証券化という金融技術である。ここからは、証券化という手法が何を生み出し、何を失わせたのか、その背景について説明していきたい。
 最近は、あらゆるものを証券化して投資商品に仕立てるのが、証券会社の優先的な業務となっている。それほど証券化は利幅が大きいのだ。アメリカで証券化の流れを研究している人に最近会ったのだが、「将来受け取れる配当の流れが予想できるものは、何でも証券化できる。特許権、映画制作など、資金を投入して何かを作って収入が入るなら、すべて証券化が可能だ」と豪語していた。
 証券化のもたらした一番のインパクトは、所有と経営の分離である。たとえば近年注目されている不動産投資信託(リート)もそうだ。
 かつては、不動産に投資してリターンを享受するには、直接不動産を保有して経営するしか方法がなかった。不動産に投資したい人は、不動産を経営する能力がなければ不動産で儲けることはできなかった。
 だが、不動産投資信託であれば、ファンドの投資家は不動産経営をする必要がない。ファンドがプロを雇って不動産経営を任せるから、投資家は安心して不動産のリターンだけを享受できるのだ。
 また通常の不動産投資は、物件を買うために大きな金額が必要だ。しかし、不動産投資信託では、単に小さな持分権を所有するだけ。嫌になったらいつでもやめられる。つまり不動産経営と心中する必要はない。また、1口が数十万円程度と、小分けにされている分、不動産そのものよりも売買がしやすい(流動性の確保)。証券化が持ち込んだ所有と経営の分離は、資金を呼び込む打ち出の小槌だった。(p.133-134)


所有と経営の分離というのは、数年前にテレビをにぎわした言葉「物言う株主」の出現ということとも関連が深いということは想起していいだろう。そして、この所有と経営の分離は、労働分配率が低いこととも絡んでいる。

証券化の効果を、一言で言うと、「流動性を高める」に尽きるのではないか。

そして、こうして高められた流動性は、行き場のない状態になっている。流動性過剰(=金あまり)の状態である。それがバブルだ。だから、証券化が発達してきて以降、世界中のどこかにバブルが常に存在してきた。

日本のバブル崩壊はその序曲のようなものだろうし、97~98年の東南アジアに発する連鎖的な金融危機、00年のITバブル崩壊、そして、07年のサブプライムであり、次は中国が危ないとも言われている。

こうした流動性過剰の状態では、大量の流動性を保有しているアクターが有利な状況になる。流動性は国境をいとも簡単に越えるようになっているから、企業や労働者を簡単に見捨てて飛び去ることもできる。(実際には大きな企業、特にブランドになった企業を捨てるのは簡単ではないが。)弱いものほど不利になり、強いものほど有利になる状況になっている。そして、弱い者のうちでは、投資家にとって「うまみのある弱者」だけがトリクルダウン効果を享受できる。しかし、うまみがなくなれば捨てられるだけだ。

こうした過剰な流動性に対して国際的な規制をかける必要があるのではないか。そうした動きはないのか?G7やサミットなどでそうした話題が本格的に話される日はまだ来ないのか?破滅的な大恐慌が起きるか、大戦争が起きない限り、人類は反省できないのだろうか?

いや。人類というより政治や経済の指導的な立場の人間達の決断の問題だと考えるならば、彼らの置かれる状況を操作することで、彼らを動かすことができるはずである。それは何か?それが反グローバリゼーション、反新自由主義の側にとっての今後の課題であろう。


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春山昇華 『サブプライム問題とは何か アメリカ帝国の終焉』(その1)

つまり、日本は大陸欧州は、世界の中で『消費者が冷遇されている国』とも言える。特に日本では、市場価格以下の安い金利で企業に資金を貸し出した。反面、消費者には市場価格とくらべて割高な金利でしか資金を貸し出さない。だから企業は資金を借りようとし、消費者は貯蓄せざるを得ないような位置に追い込まれた側面がある。(p.31-32)



これは「国」の問題というよりも世界経済の構造の中で捉えたほうがいいのだが、こうした金利政策が採られてきたことが、日本の経済の構造を深く規定しているというのは事実だろう。



 アメリカで歴史上最大の住宅バブルが発生したのは、国内要因だけではない。世界的なお金のだぶつき現象も原因だ。00年以降に起きた「お金のだぶつき」は、「短期的な経済サイクルんの変化」と、「長期的な世界構造の変化」の2つの要因が同時に重なって生じたためだ。
 まず、短期的な要因は00年のITバブル崩壊だった。90年代後半のITブーム時はコンピューターや携帯電話などIT製品が無限に成長するとの期待があり、そのチャンスを逃すまいと世界中の企業経営者が生産設備の拡張に走った。お金はいくらあっても足りないと思われていた。だが、ITバブルは崩壊。世界の景気は後退し、世界中の工場が止まった。新規の開発計画も撤回され、人員削減が実施された。資金需要が一気になくなったのだ。世界中のIT資金が不要と宣告され、一転して「投資先がなくなった=金余り」になった。
 一方、長期的な視点では、少し前に歴史的な世界構造の変化があった(図7)。89年のベルリンの壁の崩壊(社会主義国の資本主義化)と、92年の小平の南巡講話(改革開放路線の強化を訴え、今日の社会主義自由経済発展のきっかけになった)だ。15年ほど前に起きた2つの大きな事件は、小さく囲い込まれていた経済圏の壁を取り払った。その結果、大規模で安価な土地・労働力を備えた生産工場が世界の各所で誕生した。中でも中国は世界の工場と称されるほどになった(図8)。
 世界中で工場が建設され、設備投資は増加した。製品の供給能力は飛躍的に高くなった。つまり、より少ない資金量で、より多くの供給能力が作り出されるようになったのだ。
 過去の経済成長と比較して、資金効率は劇的に改善した。資金効率が上がれば、必要な資金は少なくて済む。その結果、お金を借りる人間も少なくなり、金利は上がるどころか、むしろ下がってしまった。また、安い人件費やコストで大量生産が可能になったため、モノの価格は上がらなくなった。
 こうした短期・長期的な要因により、お金のだぶつきは発生した。使い道のない余剰資金は、別の行き場を探す。その資金はアメリカの不動産へと向かったのだ。(p.40-44)


概ね同意見だ。

ここで「お金のだぶつき」の要因として説明されている長期的な要因は、グローバル化とよばれている現象の極めて重要な構成要素である。

この前提としてさらに私が重視するのはブレトン・ウッズ体制の崩壊である。これ以後、資本や投資の自由化が一気に進んだ。それを前提とした上で東西の政治的な壁が崩れたことで、労働市場が一挙に拡大した。

自由に移動できる資本に対して、労働者は同じレベルで移動することができない。土地に根ざして生活せざるをえない。したがって、資本家(投資家)と労働者の力関係に根本的な変化が生じた。

つまり、ブレトンウッズ体制の崩壊に始まる金融自由化と、その政治的対応物であった冷戦構造の崩壊による労働市場の拡大が組み合わさることによって、投資家(資本家)は労働者を選ぶことができるようになった。その選択肢が増えたのである。ここに資本の優位が確立し、比較的安価でありながらも、最低限の品質をクリアできるだけの質の労働を提供できる労働者たちは生活が向上することになるが、彼らよりも賃金が高い労働者の賃金水準は低下傾向(頭打ち)となる。言うまでもなく、前者の代表格は中国やインドであり、後者は日本や韓国や欧米の労働者である。

以上の論では、話を単純化するために投資家と労働者という二分法で語ってきたが、実際にはそれらを媒介するものとして企業がある。グローバルな企業と非グローバルな企業とで同様の差が生じる。前者は相対的に優位になり後者は不利になる。生き残りのために地域密着という戦術を強制され、そこで縮小均衡するしかない。

本来ならば、ここに「パッチを充てる」のが政府の仕事であるはずだと私は考える。しかし、政府は強大な力を持った資本のエージェントと化し、資本家たちの言いなりになる傾向が強くなっているのが現状である。日本や韓国はそれが特に著しい事例だと言えるだろう。日本の場合、分配するためのパイがそもそも小さい、すなわち「小さな政府」であるために、分配の機能を果たせていないのが問題であると考える。

(日本では「分配の元手」が他の欧米諸国と比べて小さいということは否定できない事実であるが、それを見ないようにする新自由主義的な言説がリベラルの中にも横行しているのは由々しきことである。元手が小さいから、警察や消防などの――直接生活の改善に役立つわけではない消極的な――事務にかかる、いわば「固定的経費」の割合が高くなり、結果的に福祉国家的な体制は築けなくなる。それは当然のことなのだが、それをあたかも新発見であるかのように言いふらす言説が出てきているのは気がかりだ。)

生活がよくならない、苦しいことの理由は主としてこうした世界経済的な要因に起因する。政府がそれ相応の働きをしないことが、それを促進する二次的要因になっている。こういう図式なのである。

これを解決するには二つのルートからのアプローチが必要であると考える。

一つはグローバルな資本移動に対する規制である。どこまでやってもいたちごっこという面はあるだろうが、やはり必要だと思う。これが止まらない限り、世界のどこかでバブルが膨れ上がりながら、そうでない地域では停滞が続き、数年毎にバブルがはじけて大混乱、ということは繰り返されるだろう。

こうやって資本移動を規制することができれば、投資家(資本家)と経営者と労働者の関係を再構築することができるようになるのではないか。こうした労働を通じた配分のパイプを太くすることは重要だ。

もう一つは、働いていない人たちを守るルートであり、それこそ行財政の力を使って行なわれる再配分の強化である。その際、ケインズが提唱したような国際的な再配分の強化と一国レベルでの再配分の強化の両方を組み合わせるのが望ましいだろう。

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神野直彦 『財政のしくみがわかる本』(その6)

 政府が大幅な財政赤字を出して、財政赤字の解消あるいは財政再建が問題になっている、ということを、新聞などで目にするでしょう。この財政赤字の問題を考える場合に重要な点は、これまでもお話してきましたが、政府は企業でも家計でもなく、いずれの経済主体でもないということです。そのことを認識して考えなければなりません。
 企業が借金をしている意味と家計が借金をしている意味とがちがうように、政府が借金している意味も、企業が借金をしている意味と家計が借金をしている意味とは、まったくちがっています。政府はいま大きな借金をかかえているといっていますが、政府は誰から借金をしているのでしょうか。政府は国民から借金をしているのです。
 4章で述べたように、いま日本の一般会計歳出予算では、四分の一を国債費(つまり政府がした借金返し)に支出しています。この借金返しは、誰に返しているのかといえば、国民に返しているのです。なぜなら、政府は国民から借金をしているからです。政府は国民から借金をして、また国民に借金を返しているのです。つまり、国民は借金をしているけれど、誰に借金をしているのかといえば、国民に借金をしているのです。家計にたとえれば、家族のなかで借金をしているようなものです。お父さんがお母さんから借金をしていたり、子どもがお父さんから借金をしている状態と考えればいいと思います。
 そうだとすると、日本は国家破産をするとよくいわれますが、この国家破産とはどういう状況かといえば、一家が借金をして首つり自殺をするような状態ではないことがわかるはずです。
 ただし、政府が借金をするときに、国民から借金をするのではない場合があります。それを「外国債」といいますが、外国から借金をする場合です。外国から借金をするとどうなるかというと、日本の国は借金をしたときには外国からお金が入ってきます。外国から国民所得が入ってきて、日本の国民所得は増えます。しかし、借金を返すときにはどうなるかというと、外国へお金が出ていくので、国民所得はそれだけ減ることになります。家計が銀行から借金をしているようなもので、外からお金を借りるけれど、返すときには外にお金が出ていくことになります。
 しかし、幸いなことに日本は外国債を発行していません。借金はすべて「内国債」です。・・・(中略)・・・。
 しかし、内国債を発行しすぎて国家破産したという例は、人間の歴史のなかでは一つもありません。第二次大戦中、日本はいまよりもっと多くの借金をかかえていました。しかし、それで破産はしませんでした。どういうふうに返したのかといえば、戦後インフレーションがおこったため、借金は事実上意味がなくなったのです。もう一つは、一回かぎりの財産税という巨額の税金をかけて、償還してしまいました。
 ・・・(中略)・・・。
 国家の借金は、家計の借金や企業の借金とちがって、返そうと思えばいつでも返すことができるのです。たとえば、日本政府が明日、借金を返そうと思えば、明日返すことができます。なぜなら、税率100%の国債保有税という税金をかければいいわけです。つまり、いま国債をもっている人に、国債をもっている額だけの税金を納めるという法律を成立させれば、一日で償還できてしまうのです。
 このことを恐れているのが、国債をもっている人たちです。国債をもっていない人々は心配する必要はありませんが、インフレーションになれば生活が混乱してしまいます。
 これまでの歴史からいえば、政府はお札を発行することができますから、インフレをつくってしまえば、いつでも解消できます。したがって、私たちが財政赤字について心配すべきことは、国家破産がおきることではありません。重要な点は、国債を多く発行することによって、金利が上がったり、インフレーションがおきたりという経済的な混乱をうまくコントロールすることです。

借金をしていることで何が問題なのか

 国家破産をする必要がないからといって、政府が借金をすることは問題がないのでしょうか。いえ、問題はあります。それは何かといえば、現在日本では予算の四分の一にものぼる巨額な金額を借金返しに使っているということです。
 くりかえすようですが、国民の生活を支えたり、国民の経済を支えたりする公共サービスを出していくことが財政の使命なのです。ところが、借金返しにお金が使われてしまうと、国民の生活を支える公共サービスや、企業が生産活動をおこなうための前提条件をつくりだす、という財政本来のやるべき仕事ができなくなってしまうのです。
 ・・・(中略)・・・。
 だから、私たちが考えなければいけないのは、財政そのもの収支を合わせるということではありません。財政の収支を合わなくする背後には、かならず経済的な危機か社会的な危機があるのです。そういう経済的な危機や社会的な危機を、財政を使って解消することが必要なのです。ところが、財政が借金返しに追われて、危機を解消するという本来の使命を果たせなくなるということが大きな問題なのです。
 もう一つ、大きな問題があります。それは4章でもお話しした、財政の大きな任務である所得再配分に反することです。・・・(中略)・・・。
 ところが、財政の借金が大きくなると、財政がこの所得再分配の機能を果たせないどころか、逆再分配の機能をもってしまうということです。なぜなら、国債をもっているのはお金持ちの階層です。したがって、国民からとりたてた税金を、国債の借金返しに使えば、一般の国民から税金をとって豊かな人々にお金を配分してしまうという現象になるのです。
 現在日本でおこなわれようとしている、財政再建のために消費税を増税しようという政策は、この典型です。なぜなら、消費税は負担が逆進的で、貧しい人に負担が大きく、豊かな人に負担が小さいからです。税金で貧しい人々に負担を求め、国債をもっている豊かな人々にお金を配分するということになるわけです。(p.131-137)



◆「国家破産とはどういう状況かといえば、一家が借金をして首つり自殺をするような状態ではない」というのは、同様にして、政府の財政破綻は、企業の倒産ともまったく違う。しかし、こうしたことの意味をはっきり認識している人は少ないのではないだろうか。ただ、何となく危機感を煽られている人が多いように見える。だから解決への処方箋も誤るのだろう。(私の友人にも国家公務員や地方公務員がいるが、彼ら自身でさえ、それを理解していないようだから苦笑するほかない。)

◆「国家の借金は、家計の借金や企業の借金とちがって、返そうと思えばいつでも返すことができるのです」というのも、以前から神野氏は言っていたことだが、たしかに理論的にはそのとおりなのだが、政治的には抵抗が大きいから、そんなに簡単にできるわけじゃないということは押さえておく必要がある。

むしろ、インフレが意図的というよりは半ば成り行きでできてしまうことで返済されるという可能性の方が高いだろう。しかし、インフレになれば弱者ほど厳しい状況に追い込まれる。とりわけ困るのは年金生活者だろう。

◆財政が果たすべき役割とは何かということをはっきり自覚していれば、「増税」という言葉が今ほど悪いイメージで捉えられることはなくなるだろう。逆に言えば、「増税」という言葉がほとんどそのまま「悪」の同義語のように捉えられるような(←やや強調した)、そういう考えが世論に蔓延しているような状態では、財政がまともに機能する素地はない。

「増税反対で歳出を削減しろ」というのが今の基調だろう。リベラルな人は福祉や教育を重視する傾向があるが、それだと「増税反対だが福祉は手厚くしろ」ということになるのだが、それは突き詰めれば「増税はせず、『無駄な』歳出を削減して福祉に回せ」という論になるだろう。しかし、『無駄な』歳出を削減するという場合の「無駄」の基準は明示されず、何でもご都合主義で適用されていくことは明白である。そして、ある分野を削減したら数年後に社会的な問題が起きて、ニュースになり、それが騒がれる。しかし、その騒動の原因が歳出削減にあるなんてことは、ほとんどの人には気づかれない、ということの繰りかえし。。。これこそ、神野氏が言う「社会的危機」であり、それを解消するのが財政の役割なのだが、こうした主張では社会的危機は解消どころか拡大してしまうことになる。新自由主義のイデオロギーが人々の常識の中に根強く根付いてしまっている現状があるから、それはもっと悪い方向に進んでいくことになるのだが、そうした悪夢のようなシナリオについて語るのはやめよう。

むしろ、増税とは、財政の機能を高める行為であると積極的に理解出来れば、増税によって「社会的危機」を解消する道が開けるのである。ただ、税制だけに特化して論じると、何が解決すべき問題なのかが曖昧になるから、それを明示した方が良いということは、今後、議論をしていく際には注意することにしようと思う。

ただ、この際にももう一つ障壁が入念に準備されている。これも90年代以降、ネオリベのイデオロギーを一般に普及させる際に使われた常套手段だが、「官僚への不信」である。一般企業だろうが行政だろうが、根掘り葉掘り徹底的に調べ上げれば、不正の一つや二つは簡単に出てくるだろう。それでよいと言うわけではないが、本当に解決すべき問題が何なのかということを放置し、それをむしろ意識に登らないようにさせた上で、こうした一つ一つは取るに足りない問題ばかりを糾弾するような風潮が蔓延していること自体が問題である。その意味で、やはり「少数派」である増税派の私としては、このポイントをはっきりと意識させるような議論を展開していく必要があるらしい、ということが、このエントリーを書いていてはっきりしてきた。

(問題は、こうした問題はあまりに多く、ワンフレーズで言い当てることができるものではないということだ。そうした本質的な要素は幾つかあるが、それを指摘しても、一般にはピンとこないらしい、という経験がある。そのジレンマをどう解決するか。)

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神野直彦 『財政のしくみがわかる本』(その5)

 つまり、財政が借金をしてもいいという基準が二つ出てきているのです。一つは、前にお話しした資本的経費など、あとの世代に利益をもたらすような使い道だったら、借金をしてもいいという「使い道基準」です。もう一つが、今お話しした、不況のときに借金をして、好況のときに黒字にしましょうという「景気基準」(景気の状況にあわせて借金をしたり黒字にしたりする)です。(p.130-131)


たしか、先日のニュースでは、地方自治体に赤字地方債の発行を当面の間許すことになりそうな情勢になっていたはずだ。これはまさに上記の「使い道基準」を守らなくするということに他ならない。もし増税をしないで状況を改善するならば、本来であれば交付税を増額して、赤字国債という形で管理した方がいいはずである。

自治体には事実上、歳入の自治も歳出の自治も十分にないのだから、そこに赤字地方債を許してしまうと取り返しのつかないことになりかねない。財政についてイメージでしか捉えられず、家計や企業と同じような発想でしか見られない一般庶民や頭の悪い政治家には、こうしたニュースの重大さは認識されない。

背景にあるものの一つは財務省による自治体への責任の押し付けである。政治家も自治体なんてどうでもいいと思っているフシがある。ところが、自治体というのは、福祉や教育関係の事務のほとんどを請け負っている下請け業者みたいなもんだ。日本の場合。ここに赤字がたまるとどうなるかは長期的には火を見るより明らかなんだが、反対の声は全然聞こえない。絶望的とはこのことを言うのだろう。。。

さて、私は増税論者だが、増税を主張する根拠の一つは、上記の「景気基準」と深く関係がある。90年代に債務が急増したことはよく知られているが、当時は明らかに不況だった。その意味で財政出動すること自体は正当な行為だったはずである。

ところが、その間に世界経済の構造が変化して、金融グローバル化が急激に進んできたため、大まかに言えば「金融の世界」と「経営・労働の世界」とを繋ぐパイプが極めて細くなった。そのため後者の世界には金が回らず、前者の世界では使い道のない金がバブルを生み出しながらクルクル回っているという状況を作ってきた。(中国など新興市場に資金は流れて、それらの地域では労働条件も改善されているとは言えるが。)

日本について言えば、そういう「金融の世界」にアクセスできる人間の資産は急激に増えているはずで、突出した金持ちが以前より増えている。それに対して「金融の世界」にアクセスできない一般庶民は全般的に所得が低下傾向にある。つまり、前者の世界では好景気、後者の世界では不景気という状況になった。それが主として小泉の登場前後から急激に進んできた事態だろう。小泉はその流れに乗っただけにすぎない。

一つの国と言う範囲で経済を見たときには好況と不況が並存している状況が続いてきた。そして、単に数字上で比較してみると、「金融の世界」のプラスが「経営・労働の世界」のマイナスより少しだけ大きいと言う状態が続いてきた。それが2000年代の「好景気」の内容である。

余談だが、財政というのは、そうした状況を是正する2大チャンネルの一つだと私は考えている。一つは労働法制と労使関係であり、もう一つが財政による所得再配分である。前者の話は今は措く。後者はそこで累進的に課税を行なって国内の金のめぐりをよくする役目を担うべきであったのである。

話を戻すと、そのような「格差是正」のほかにも、90年代の不況の際の赤字を、好況である「金融の世界」の住人達が返済する必要があるのである。しかし、2000年代になっても未だにプライマリ・バランスが赤字が続いている。全体として好況であれば、これは必ず黒字にしておかないとおかしい。つまり、好況時に税額が足りないのはおかしいのだ。不況時に膨れ上がった一時的な公共事業はすでにもとの水準に戻っているはずで、社会保障は人口構成によって必要額が変わるから、90年代より増えていても削れという話にはならない。こういう状況であれば、当然、90年代の赤字を増税で賄わなければならない。当たり前の話なのである。

だから、今こそ累進課税であり資産課税の重課が必要なのである。ところが実際には消費税だ。消費税を増税して借金返済というのは、たしかに借金は減るだろうが現状に逆行する面がある。「経営・労働の世界」から「金融の世界」へと金を流すことになるからだ。なぜなら国債を持っている人の多くは「金融の世界」の住人だから。(しかし、サブプライム問題によって、再度不況になる可能性があり、それには注意が必要だ。しかし、「金融の世界」の住人からはもっとしっかり税を取れるしくみにならないと話にならんという点は変わらない。)

なかなかこうしたことが一般の理解を得られないというのは困ったことである。その意味からも、本書のようなわかりやすい本はその点でも多くの人に読まれるべきだ。

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神野直彦 『財政のしくみがわかる本』(その4)

私たちは財政でどんな支出をしようとし、どういう税を負担しようとするのか、何を基準にして決めているのでしょうか。いえ、決めるべきかを考えてみましょう。
 財政で支出するということは、国民がそのサービスをただで受けとることを意味します。たしかに国民は税という負担をして、支出をまかなっているのですが、企業や家計が経済を決めるときの原理である市場とちがって、サービスが提供されるとお金が動くということはありません。サービスは一方的にもらいます。
 そのかわり、税も一方的に払うというしくみをつくっているわけです。それはなぜかというと、サービスをただで配るためです。どうしてサービスをただで配らなければならないのかといえば、前にも説明しましたが、そのサービスを国民に必要に応じて配らなければならないからです。赤ちゃんは働くことがなくても、ただでサービスが提供されなければなりません。どんな高齢者も、あるいはどんな障害者も、ただでサービスをもらわなければなりません。そのために、財政で支出をするのです。
 もちろん、国民がその負担をしなければならないので、サービス全体にかかる費用を国民全体で負担しあっています。しかし、受けた人が費用を直接負担しない、というしくみにしています。
 そのことは、市場で財とサービスを配分すると、どんなことになるかを考えればよくわかります。市場で財とサービスを提供すれば、お金持ちには多くのサービスが行くことになり、貧乏な人にはまったく行かないことになってしまうからです。・・・(中略)・・・。
 ところが、働きたくても働けない人がたくさんいます。・・・(中略)・・・。
つまり、社会を維持していくには市場原理だけではうまくいきません。
 そこで私たちは家族や共同体をつくって生活しているのだということは、前にもお話したとおりです。・・・(中略)・・・。
 社会のなかに市場原理で動かない、家族のようなしくみがあるから生きていけるのです。・・・(中略)・・・。
 政府はみんなでお金を出しあって支えることによって、必要に応じて財とサービスを配るためにつくったのが財政というしくみなのです。つまり、購買力に応じて配られる市場と必要に応じて配られる財政というように、経済は二つに分かれているのです。

ニーズとウォンツ

 私たちは、どういうものを歳出、つまり財政の支出によって配ればいいのでしょうか。それはその社会で必要に応じて配られなければならないサービスかどうか、ということを基準に決めることになります。つまり、高齢者でも赤ちゃんでも病人でも、必要な人に配っていくサービスなのかどうかということです。
 こういうサービスで満たされる欲求のことを、私たちは「ニーズ」(基本的欲求)と呼んでいます。これは、それが欠けると人間が生存するのが困難になってしまう欲求をさしています。つまり、欠けると生きていけないので、そこが埋められなければならない欲求なのです。
 人間はもう一つの欲求をもっています。必要不可欠なニーズが埋めあわされたとしても、なお膨大にふくれあがっていく「ウォンツ」(欲望)がそれです。
 私たちの社会では、ニーズは財政にまかせ、ウォンツは市場にまかせるということが原則になります。なぜならウォンツ、生存に必要不可欠なものを超えるような欲望は、購買力に応じて配ってかまわないからです。(p.113-117)


この基本的な考え方が徹底的には理解されていないという現状は問題だろう。今の日本では財政の分野に市場原理の発想を持ち込むことがあまりに多すぎるのだ。

ニーズとウォンツに関しては、私としては多少、考え方に違いがあるが、まぁ、その批判は今はやめておく。

ただ、例えば、医療費の負担に関して「すべて公費負担にするべきだ(つまり、個人の支払いはゼロでいい)」と誰かが言い出せば、市場原理主義的な立場からは「モラルハザードがおきる」という類の反論が返ってくることがある。

しかし、医療費がただになったからといって、具合が悪くもないのに病院に行く馬鹿がいるだろうか?レントゲン撮ってほしがったり、いくらでも沢山注射してもらったりする馬鹿がいるか?微妙に「調子が変かも?」と思ったときにすぐに病院に行って検査してもらう人は増えるかもしれないが、それで予防できればそっちの方が安上がりだろう。

モラルハザード論の多くは、上記の図式で言えばすべての欲求をウォンツであると仮定しないと成り立たないものが多いと私は思っている。しかし、病院に行きたいかどうかはニーズという側面の方が遥かに強いだろうということは上の例を見てもらえばわかるだろう。そういう意味で、次々と自己負担が増えていく医療費というのも、かなり大きな問題を孕んでいると言わざるを得ない。

ここでは医療費を取り上げたが、似たようなことはいくらでもある。ここでは、神野氏的な区分も認識を明晰にするための理念型として役立ちうる、ということをちょっと言ってみたかっただけである。



 スウェーデンの中学校の教科書では、子どもたちに、財政の選択について、つぎのような見解を紹介しています。『あなた自身の社会――スウェーデンの中学教科書』(アーネ・リンドクウィスト、ヤン・ウェステル著、川上邦夫訳、新評社)によっています。
 一つめの見解は、「減税をしよう。そうすれば人々の選択の自由を拡大することになるからだ」というものです。
 二つめは、「減税はぜったいにだめだ。私たちが減税に反対するのは、より多くの保育園、よりよい給食、障害者にも使いやすい街づくりをすることを意味しているのだ」という意見です。
 三つめは、「私たちは、減税はしないけれども、料金の引き上げをしよう。そうすれば、電気や水道を浪費している人よりも、電気や水を節約している人のほうが少なく支払うことになるので、公正だからだ。バス、保育園などは料金にしたほうがいい」という意見です。
 四つめは、「そんなことをしたら、ぜったいにだめだ。子どもたちや高齢者はどうするのだ。料金を引き上げるくらいなら増税しよう。それが高齢者や子どものいる家族にとってベストだ」という意見です。
 そして、「税か料金か、あなたはこの四つの意見のうちどれに賛成しますか」と問いかけ、子どもたちに議論させるようになっています。
 この教科書は、子どもたちに、
 ①財政でまかなうのをやめよう。
 ②これまでどおり、財政でまかなおう。
 ③財政でまかなうけれど、料金引き上げでまかなおう。
 ④財政でまかない、増税でまかなおう。
のどの方針でやろうかと聞いているのです。(p.117-119)


日本の政治家にも読んでもらいたいものだ。

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神野直彦 『財政のしくみがわかる本』(その3)

 「日本の直間比率は高すぎる」とか「もっと直間比率を是正すべきだ」という議論をよく耳にすることがあると思います。こうした議論の前提には、直接税が経済的な力に応じた課税であるということがあります。つまり、直間比率が高いということは、経済的な努力に応じて課税される応能原則にもとづく税金のウェイトの高い租税制度だと考えています。
 そうだとすれば、直間比率が高い租税制度は、お金持ちの負担が大きくなる租税制度だといえます。そこで「経済活性化にいかがなものか」とか「直間比率を是正しろ」という議論がおこってきます。
 ただ先ほども述べたように、日本の直間比率が高いのは個人の所得税が高いためではありません。法人税のウェイトが高く、法人税は転嫁するかしないかわからないのです。さらに、所得税は抜け穴が多く、経済的な力に応じて累進的に課税しているとはいいがたいので、直間比率が高いからといって、是正する必要があるのかどうかは、慎重に議論する必要があるのです。(p.87-88)


もし直間比率が形式的には高いとしても、実質的に応能的ではないのであれば、そうした形式を理由にして「直間比率を是正しろ」とは言えない、ということ。そのとおりである。

法人税については、前に引用したとおり、負担が転嫁するという実証研究があるというのことが、この主張の正当性を強化するものである。

また、応能的な課税をしたからといって、「経済活性化にとって悪影響がある」とか、「勤労意欲が下がる」というわけではない。

応能的な課税で所得格差を是正したほうが国内市場の消費性向が高まり、国内需要が伸びるので、需要不足(供給過剰)の経済状態においては所得は平等性が高いほうが経済的に効率的である。(日本は自動車業界の業績を見てもわかるとおり、供給の方が国内需要よりも上回っていて、国内市場が冷え込んでいるため、輸出に頼っている。)その上、輸出に頼るよりも国内市場の安定を保つ方が、経済の安定的な運営にとっても好ましいことは言うまでもない。もちろん、その他の側面も考慮すべきことはあるが、経済が活性化しないとア・プリオリに決められるものではない。

むしろ、上記のような主張は新古典派経済学の市場原理のモデルでは需要と供給は一致すると前提しており、それが現実と乖離していることを考慮していないから出てくる主張である――むしろ、それを知りながら自分の業界にとって都合の良いことを主張している――と考えるべきだろう。



 使途別分類についても、戦前と戦後をくらべる円グラフを描いてみましょう(図4・4)。これを見ると、第二次大戦後の日本政府は、ほとんど人件費と物件費に使っていないことがわかります。現在の一般会計の予算は80兆円ですが、人件費と物件費に使っているお金は全体の9%程度しかなく、政府がほとんど人件費を使っていないことがよくわかります。
 ところが、第二次大戦前の日本、あるいは他の国を見ると、そんなことはなくて、政府がいろいろなサービスをつくっています。戦前は、だいたい40%を人件費や物件費で使っています。ただし、人件費と物件費の大部分は防衛費でした。兵隊の給料と戦車などの武器・弾薬でした。
 このことは戦後も変わりありません。戦後の人件費は5%程度ですが、そのうちの約三分の一以上が自衛隊員の給料です。日本はほとんど公務員がいない社会だということがわかるでしょう。物件費の多くも自衛隊の対潜哨戒機や潜水艦を買うためのお金です。実質的な経費では、防衛費が大きなウェイトをしめています。(p.101-102)


武器を買うのには妙に金をつぎ込みながら、それを無視して福祉や教育などの分野には金を使わないというのが、日本の財政の特徴である。福祉や教育を強化するには人手がいるということにはあまり気づかない人が多いらしい。福祉のサービスも形式上は「民間」にやらせているし、介護なども「保険」でやっている。それを行政がやったら何か悪いのか?福祉の人手不足が一挙に解決されると思うのだが。それだけ公務員(としての福祉従事者)を増やせばね。

消防士や警察官のような福祉の専門職を増やすべきなのだ。その人件費を確保する分の増税をすべきであり、それこそが「小さすぎる政府」を抜本的に変えることの一部なのだ。ところがリベラルでさえ日本を「大きな政府」だと言って、増税を忌避した上で「無駄を削れ」という。無駄な公共事業などを削れという声は、単に公共事業で終わるものではない。新自由主義やネオコンの勢力にとっては、それは大変利用価値がある言説であり、悪いことに彼らは普通の人よりも遥かに権力をもっている。だから、いろいろなルートを通って――とりわけ地方交付税の削減という、一般受けしそうなルートが重要だろう――「しっかりと」教育や福祉を追い詰めている。だから生活保護を受けないようにする自治体も現れ、「おにぎり食べたい」といって死ぬ人が出るのだ。

「増税が嫌だから」という理由が根底にある中で、その負担を押し付ける先として――本来ならば、その機能を拡充することによって問題を解決することができるはずのものである――公務員(官僚)や行政を選んで叩いている――その上で、格差に対応すべきだとか福祉や教育が足りねぇ、と言う、もっともではあるが無理な注文をする人もいる――という世論が主流であるという時点で、既に「この国は終わっている」というのが私の大雑把な認識だ。

(私に言わせれば、私が未だ選挙権があるかどうかという頃(90年代)に、増税なしどころか減税しながら国債を増発して――目には見えていないだろうが――実際には利益を得てきた、私よりも年上の世代には官僚批判や行政批判をする資格などないと考えている。国債増発で利益を受けてきたのは主に現在40代以上の世代、特に団塊の世代以上の世代だろう。彼らに急いで課税して、90年代に彼らが受けた恩恵の分を負担してもらわなければならない。あまり世代論を持ち込むべきではないとも思うが、事実上、90年代の恩恵は今の10代や20代前半の若者にはあまり関係のない負担なのだから――公共事業だから資本的投資なので一応関係あるのだが――あえて言ってみた。)

そして、私も、もともと激しく公務員(行政)批判をしていたが、それをどんなに巧みにやってみたところで現実の社会の動きの中ではネオリベに加担することにしかならないことに気づいた時点で、私はそれを封印することにした。極力、内在的かつ客観的に状況を理解した上で批判を行ない、そのうち具体的に実行可能な提案だけを選んで実際に行政に伝えればいい、そういう考えだ。ウェブ上では、右も左もネオリベに加担している議論を論駁するのが先だと考えている。したがって、私本人は官僚に対して必ずしも同情的なわけではない。「ウェブ上では」否定的な批判を控えているだけである。

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神野直彦 『財政のしくみがわかる本』(その2)

 租税は、三つの要素が成り立っていないと、租税とはいいません。
 一つは強制性です。強制的に貨幣が調達されるという意味です。・・・(中略)・・・。
 二つめは無償性です。つまり、租税では何の対価もなく、反対給付は何もありません。市場社会ではお金が流れれば、かならず反対にものが流れたり、少なくとも利子をつけてお金が流れたりするのですが、返ってくるものがないというのが二番めの条件になります。
 三つめは収入性です。国家の活動を営むためにお金を調達するということです。つまり、何かをするための収入となるということです。強制的に、しかも何の対価もなくお金をとられるけれども、収入を目的にしていない場合には、租税とはいいません。交通違反で罰金をとられたという場合には、罰金は収入を目的にしていないので、租税ではありません。
 反対給付の請求権をもつものも、租税ではありません。このお金を払ったのだから何かものをくださいというのが反対給付の請求権です。私たちが市役所へ行って、「住民票をください」と言えば、手数料をとられます。こうした手数料を支払えば、かならず住民票が返ってくるので、これは租税ではありません。(p.55-56)


この箇所は結構ツボだった。確かに財政学の教科書などには、無味乾燥にこの三つの原則は書いてあるのは、よく目にしていたが、最近の税に関する議論を聞いていると、「払っているのに何もしてくれない」と言わんばかりの主張が今の日本では主流になっているからである。租税とはもともと、それを払ったからと言って、それに対する反対給付を求めることはできないものなのである。だから、上述のような議論は、そもそも「租税とは何ぞや」の基本を押さえていないワケだ。

もちろん、トータルで見れば、払った分は某かの形で、誰かに返ってくる。しかし、払った人が受けられるというものではない。だから、自分が税金を払ったのに自分には何の反対給付もないといって腹を立てたり、自分は給付がないのにあいつらだけ私腹を肥やしているのはずるい、と言わんばかりの議論は、そもそも根本からして間違っているわけだ。

右派による生活保護に対する非難などは、まさにこうした発想の極端な発露だが、左派やリベラルも、同じ発想に流れているという点は押さえておくべきだろう。私から見て、恐ろしいのは、多くの人々が、そうした発想は、いわゆる「市場原理主義」のヴァリアントである――同時に、租税についての認識としておかしい――ことを自覚していないらしいことである。

「払っているのに何もしてくれない」だとか「こんなに無駄遣いしている」という類の言説では、租税の支払いとそれに基づく政府の活動は市場原理とは異なる原理で動くべきものであるということは事実上否定されており、政府の活動も市場原理と同様の動きをしなければならない、と(無意識的に)前提している。つまり、「あらゆる領域で市場原理を活用すべき」という前提に立っているという点で市場原理主義の一種と言うことができるのだ。



法人税は、法人が価格に転嫁しているという考え方もあり、じっさいに転嫁している、それどころか過剰に転嫁しているということも実証されています。さらに間接税も、デフレつまり価格が下がっているときには消費者に転嫁できるとはかぎりません。(p.63)


一応、事実として押さえておこう。



所得税を経済的な力に応じた公平な税金にするための条件が、三つあります。
 一つは累進性です。豊かな人はより高い税率を、貧しい人は低い税率を、という原則です。
 累進税率については、単純累進と超過累進の二とおりがあって、単純累進にすると、税を引いた手取りの所得に逆転現象がおきます。・・・(中略)・・・。
 1887(明治20)年に日本が最初に所得税を入れたときには、単純累進でした。税率は1~3%の五段階で、非常に低い税率だったので単純累進でやりました。
 しかし、通常の場合には、逆転現象がおきないために超過累進でやっています。・・・(中略)・・・。
 二つめは差別性です。額に汗して働いた所得には軽く、財産をもっていることによって得た所得には重く課税する、という原則です。
 ・・・(中略)・・・。
 差別性の方法には二つあります。
 一つは現在、日本でやっているような、給与所得に対しては、特別な控除、つまり給与所得控除を設ける方法です。現在では給与所得控除は「減価償却部分だ」とか「必要経費部分だ」と説明されています。基本的な税の考え方からは、給与所得には軽く、資産所得には重くという原則をつらぬくために、「同じ所得でも税金を負担する力はちがう」ということから設けられた制度だということを、忘れないようにすることです。
 もう一つの方法は、ネット・ウェルス・タックス(net wealth tax・純資産税)です。同じ税率をかけますが、財産所得に特別な税金をかける財産課税とセットで考えて、財産所得に重く課税するという方法です。しかし、現在の日本では、ネット・ウェルス・タックスは設けられていません。
 三つめは、最低生活費免除の原則です。人が最低限度生きていくための生活費だけは、免税にしましょうという原則です。このために日本では基礎控除を入れています。課税最低限では、基礎控除のほかに配偶者控除、もう一部廃止しましたが配偶者特別控除、子どもたちに扶養家族控除を設けています。
 日本の考え方では、標準世帯では子ども二人を前提にしているので、基礎控除38万円、配偶者控除38万円、それに38万円の扶養家族控除の子ども二人分、これを課税最低限といっています。いまは出生率1.29で、子ども二人はいませんが、依然として二人を課税最低限にしています。
 所得税の考え方からいえば、そういう控除をしたうえで、すべての所得を合算して累進課税をかけて、お金持ちには高い税負担をしてもらっています。
 ところが、じっさいには日本の所得税は累進的にはなっておらず、ほとんど比例的になっています。それはなぜかというと、お金持ちの所得は給与所得ではなくて、利子所得や配当所得、不動産所得などの資産所得が多いのですが、日本の所得税ではこうした資産所得の多くについて、分離課税といって累進税率の適用除外にしているからです。・・・(中略)・・・。
 日本の所得税に関する問題点は、すべての所得を集めて累進税率をかけないで、あまりにも多くの所得を分離課税していることです。多くのヨーロッパ諸国では金融所得も累進課税をしています。日本の場合は分離しているために、応能的に課税できる唯一といえるほど重要な所得税が、お金持ちに多くの負担を強いていないという問題点があるのです。(p.64-69)


私は所得税には結構うるさい。平均的な水準と比べると、かなり詳しい方だと思っている。そんなこともあって、本書のこの部分は本当にうなづきながら読んだものだ。強いて言えば、ピンク色にした明治時代の話は知らなかった(笑)。本筋と関係ないけどな。

政府の税調の報告書が毎年11月頃に出るのだが、それらの政府や政治の場における議論の中で、不思議なほど触れられないことがある。それが上記の差別性の考え方である。下線を付したように、給与所得控除は、必要経費として説明されることが多い。私もそう思っていたところがある。

ただ、神野氏がここで差別性のために給与所得控除が設けられているということを力説しているには訳があると思う。それは所得税の増税の際に給与所得控除を小さくすることで増税しようと言う思惑を、一部の人々が抱いているからではないかと思う。

その人々が所得税を増税しようとする際の「屁理屈」こそが、「給与所得控除は必要経費」という説なのだ。あまり気にしていない人も多いだろうが、給与所得控除の金額と言うのは結構でかい。(サラリーマンは自分の源泉徴収票を見てみるといい。)実は「必要経費」として説明しようとすると不合理なほど控除額が大きいのだ。どう考えても、サラリーマンやっていて1年間でこんなに必要経費がかかるわけがない。だから、この論理で押し通されると、給与所得控除は維持できないだろうと私は思っている。

しかし、神野氏の言うように、給与所得控除は実は差別性の原理に基づいて、資産課税より軽課するための措置であるという理解に立てば、この控除を維持することは妥当だと言える根拠になる。むしろ、今はかつては考えられないほどの大金持ちが登場している時代なのだから、増税する場合には、資産課税を重課することを優先すべきなのだから。

だからこそ、私はこのことをブログ上にメモしている。数年後、必ずこの議論は出てくるだろうと見ている。消費税の増税に隠れて一緒に法案が提出されるのではないか。そうなったときに誰かが必ずこのエントリーを「給与所得控除」で検索をかけて見つけてくれるに違いないと考えて、「未来への手紙」としてここに残したつもりだ。

そして、日本の現状は神野氏も指摘するとおり、資産課税を比例税率かそれに近いやり方にして軽課しているという現状がある。そうした中で資産課税は保護しながら、給与所得控除を削るのは、明らかに金持ち優遇を強めることになる。金持ちがずるいと言っているのではない。財政の所得再配分機能を果たすためには累進性が高いことが必要なのだが、そのための税金は主として法人税と所得税なのである。どちらも税率がフラット化され続けてきた経緯があり、累進的な税としての機能を喪失しかけている。それに追い討ちをかければ、所得再分配機能は破綻する。つまり、長期的に、社会の統合が崩れてくる、そういう問題なのだ。金持ちはずるいとかそういう感情的なレベルの議論ではない。


さて、課税最低限のところも、表現は婉曲だがその議論のインプリケーションとしては、なかなか面白いものがある。出生率1.29なのに標準世帯を子ども2人にしているという指摘は何を意味するか?扶養控除を引き上げるべきだという議論に繋がる、というのが私の見方だ。確かに、標準世帯を4人家族にしているのは今や不自然かもしれない。一考の価値があると思う。

しかし、私としては扶養控除はむしろ一部撤廃してよいという考えだ。一見逆行するように聞こえるかもしれないがそうではない。子どもの扶養に関しては扶養控除をやめて、その分、児童手当の拡充という形で給付するほうがいいからだ。特定扶養控除も廃止して同様の措置をとればいい。つまり、それ以上の年齢(22歳より上)の扶養家族についてのみ、扶養控除を適用すればいい。

なぜか?

簡単なことだ。扶養控除という形で子どもの扶養の費用を非課税にするというやり方では、もともと扶養控除がなくても非課税であるほとの低所得世帯には何の恩恵もないからだ。逆に、年収数千万円ある家庭では扶養控除による恩恵は累進税率に応じて高まる。つまり、税率5%の人と税率40%の人では同じ控除額でも、税額に現れる金額は8倍の相違(単純計算で19,000円と152,000円)がある。これも逆進的な構造になっているのだ。児童手当を年齢と金額の両面で拡充するようなものであれば、こうしたおかしなことは解消される。


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神野直彦 『財政のしくみがわかる本』(その1)

 政府の経済は、ほかの経済とちがうところがあります。家計の経済は家計の構成員が決定し、家計の構成員のためにおこなわれる経済ですし、企業の経済も企業の構成員が決定して企業の構成員のためにおこなわれる経済です。ところが、政府は構成員が社会全体なので、企業や家計をすべて含んだ経済をまとめるために行なわれる経済なのです。つまり、政府はミクロの経済主体であると同時に、マクロの経済主体でもあるということです。(p.14-15)


財政に関する俗論の誤りの多くは、家計や企業とのアナロジーで財政をとらえることによって、ここで言われているところのマクロの経済主体である点を無視してしまうところから生じている。マクロの経済主体であるという考えを、考慮に入れるか入れないか、という違いはきわめて大きな違いをもたらす。

企業や家計の経済が活発であるとき(好況時)は財政の活動は不活性でよく、逆に企業や家計の経済が活発でないとき(不況時)は、財政がそれらを作動させる働きをする必要がある場合がある。そうしたマクロ経済の調整をするという役割があることによって、企業や家計とは全く異なった性格をもつようになるのである。

財政がマクロの経済主体であるというところからは、さらに重要な帰結が得られるが、このブログでは、それは本文の関連箇所へのコメントとして述べることにする。



 1920年代、世界全体が不況になりました。日本でもイギリスでも、郵便局のほうが安全だからと、銀行から郵便局に預金が流れていきました。すると、日本でもイギリスでも、銀行業界が「郵便貯金の金利を引き下げろ」という要求をしました。
 労働者の力が強かったイギリスでは、その要求は門前払いされました。ところが、日本では銀行業界の言いなりになって、郵便貯金の金利を引き下げました。時代が移って1980年代、また郵便貯金にお金が集まってくると、銀行業界は「郵便局を民営化しろ」と言ってきました。そうするとまたも銀行業界の言いなりになって、日本は民営化するのです。
 1920年代も80年代も、日本の政府は、「民主主義はどうなるのか」ということは考えませんでした。最近では「地方債にしても市場の統制が重要なのだ。市場に統制してもらったほうがいい」と、ものごとの原点をとりちがえています。民主主義が崩れてしまうことが目に見えているのにです。
 市場では、人々は購買力に応じて発言力をもっているので、金持ちの言いなりになることになるからです。
「それは民主主義ではない」と言わなくてはいけないのに、マスコミも国民もいっせいに、「市場の声に逆らわないことがいいことだ」と言っていることに、私は民主主義の危機を感じています。(p.22-23)


「市場の統制」というレトリック(「競争がないとモラルハザードがおこる」というバージョンもある)に基づいて行なわれることは、結局のところ、市場への支配力が強い者(金持ち)の発言力の影響下に置くことにすぎないという現実を見事に言い当てている。



民間の経済主体である家計や企業では、入りが決まって出はあとから決めるという原則で動き、財政はそれとは反対の原則で動くことになります。それだからこそ、市場経済と財政とから成り立っている国民経済の動きを、財政が事実上コントロールすることができると考えられているのです。(p.35-36)


財政学をちょっとでもかじった人間なら誰でも知っている「量入制出」と「量出制入」という原則について。

しかし、思うに、なぜこのように異なる原則で運用されるべきなのかを説明した記述はあまり見かけない。私としては、本書のこの箇所の説明でもまだ説明が足りないと感じている。

私は、財政が「量出制入」の原則に基づくのは、最低生活保障が行政の最も基本的な仕事だからだと考える。絶対に必要なことをするから、まず、なすべきことが決まるべきなのであり、それに続いて、必要なだけの歳入を確保しなければならない、という順序で決まるのである。

付け加えれば、行政が最低生活保障をするものであるということは、上述のように財政がマクロ経済主体であることと表裏一体である。企業や家計は、その経済主体本体と個々の構成員との生活を成り立たせるように機能する。財政の場合は、そのマクロ経済主体としての財政にとっての構成員は、全国民ということになるのである。そして、ミニマム保障は、個人の側から見れば人権、特に生存権の問題であると考えてよかろう。



予算の審議について。

 日本の場合にはわずか二カ月で審議が終わり、めったに四月を越えて審議が延びるということはありません。アメリカはしばしば半年ぐらい越えます。それは、予算案を編成している過程で、国民のさまざまな利害が盛り込まれるからです。日本の予算政治の特色は、予算編成過程で国民が各省庁に陳情・請願行動をして、この長いあいだにさまざまな要求が盛りこまれることです。(p.44)


公開性の低いところで予算が決まるのはデモクラシーの機能としてはよろしくないというべきだろう。原則としては国会審議の比重を増やすべきだということはできそうだ。ただ、今の国会は選挙制度の影響であまり多様な価値観が反映されないようになっているので、その点が克服されないといけないが。比例代表制を基本とするような、多様な価値観を反映しやすい選挙制度になっていれば、国会審議をしっかりやるべきだと言えるのだが…。

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