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ニクラス・ルーマン 『システム理論のパラダイム転換――N.ルーマン日本講演集――』

 自己準拠的システムの理論は、システムに関する分化をただ自己準拠Selbstreferenzfをとおしてのみ現わすことが可能であるということを主張している。基本的な意味で自己準拠とは、システムが成り立っている要素がシステム自身によって生産され、また再生産されるということをのべているのである。ひとつのシステムの要素の基礎的領野にかんするこの自己準拠の本性は「自動創作」Auto poiesisとよばれる。その際要素とは、システムの他の要素と他の要素を越えて自己自身の実在条件に関係するものにほかならない。だからシステムとはシステムの要素の構成のこのような領野での回帰的に閉じた体系なのである。「生命」はそれ自身閉じた再生産の諸連関の保持として定義されるし、またすべて開かれた周界領域というものはこのことを前提としている。(p.10)


ルーマンの「システム」についての捉え方が、極めて簡潔に表現されている箇所と思われたのでメモしておく。

このシステムが閉じたものでありながら開いている、ということがミソになってくるものと私は見ている。

ただ、ルーマンの理論(残念ながら、私はあまり詳しくない)でよくわからないのは、彼がなぜ「分化」に拘るか、ということである。「分化」なんていう概念を導入する必要は全くないと思うのだが。まぁ、これは将来、ルーマンをもっとしっかり読むときのための課題として残しておこうと思う。



 私は、「社会」を有意味なコミュニケーションの、そのつどもっとも包括的なシステムと理解している。すなわち社会は人間から成り立っているのではなく、もっぱらコミュニケーションによって成りたっている。人間は肉体的様態と精神的様態で社会システムの周界Umweltの一部を形成する。勿論、だからといってこの周界なくしては、コミュニケーションがまったく不可能であることは疑う余地がない。
 同様に重要なのが第二点である。すなわち社会は一つの自足的なgeschlossenコミュニケーションシステムであり、このコミュニケーションシステムは、コミュニケーションがコミュニケーションを引き出すという仕方で自己を再生産する。このシステムはあらゆるコミュニケーションを包含するとともに、コミュニケーションだけを包含する。またこのコミュニケーションシステムはシステムを構成している諸要素そのものを作り出す。その意味でこのシステムは最近よくいわれる自己準拠的システム、あるいは自動製作的autopoietischシステムである。
 自足性Geschlossenheitは、ここでは開放性の反対語[すなわち閉鎖性]としてではなく、まったく逆に開放性の前提条件として理解されるべきである。(p.95-96、本文で傍点の箇所は引用文では下線を付した。)


こちらの方が上の箇所よりさらに分かりやすく、表現も適切かもしれない。

思うに、ここで述べられている「コミュニケーション」という言葉を静止したイメージで(観察者的に)捉えてしまうと、ルーマンの社会システムは理解出来ないだろう。ある周界の地点から他の周界の地点につながっていく、つながりの動作ないし作動そのものとして、そして、その連鎖が継続している限りにおいて、社会が持続している捉え方である。

ルーマンの考えをそのまま使うかどうかは別としても、こうした作動の局面に着目しなければうまく説明できない現象はある。その一つのパラダイムを与えたという意味では、ルーマンの理論にも歴史的(学説史的)な意味はあったと言えるかも知れない。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

安田雪 『ネットワーク分析 何が行為を決定するか』(その2)

 構造同値の関係にある人々は、他者から見れば相互に代替可能であるため、したがって自分と構造同値である人々の資質や特性のうちで、他者にとって魅力的に見えるであろうものを模倣したり追随したりする傾向があると指摘しているのです。
 バートの研究が示唆しているのは、直接的な結合関係やコミュニケーションが存在しない人々のあいだでも、媒介する第三者を通じて、ネットワークの連鎖が態度の変容をもたらすことがありうるということです。つあんがりが直接見えない部分にも影響を与えあうメカニズムが存在することを指摘したのは、ネットワーク分析がコミュニケーション研究とは異なった視点をもつためです。ネットワーク分析ならではの研究成果と言えるでしょう。(p.156)


「構造同値」の関係について本書で展開される議論は、かなり興味深い内容を含んでいた。本書から得た最も大きな収穫はこの概念に関するものであった。

シンクロニシティだとか、あるいは古い言葉だが「時代精神」といった議論なども、一部はこの構造同値の概念を用いて説明できるものもあるのではないかという気がする。これらも直接結合はないノードが、(第三者を通じて)同じように振舞うという現象である点では同じである。(シンクロニシティの場合は第三者は想定されていないかも知れないが、視点を変えれば恐らく第三者を発見することは可能であると見る。)



 図21は、日本と米国の産業について、1985年のネットワーク優位の程度をX軸に、利益率でみた産業の市場成果をY軸にとった図です。産業間ネットワーク内で不利な位置を占めている産業の利益率は明らかに低く、有利な位置を占めている産業の利益率は、相対的に高い傾向が認められます。産業の業種や規模を一切考慮せず、ネットワーク特性のみに注目しているだけなのです。それにもかかわらず、これほどの差が生じています。
 ・・・(中略)・・・。
 従来の経済学の考え方である特定の財に対しての「需要と供給」の概念に加えて、ネットワークの連鎖までを視野に入れて分析を行なっている点が、ネットワーク分析を市場に適用するときの独特の特徴です。新古典派の経済学では、特定の財やサービスを必要としている人と、それを供給できる人との関係が価格を決定するとされ、いわば消費者と供給者の関係のみに焦点がおかれてきたわけです。それに対して、ネットワーク分析の視点は、供給者と消費者のあいだの関係のみに注目するのではなく、さらに、供給者間の関係消費者間の関係までをも考慮に入れている点が大切なのです。それが、市場をネットワークとしてとらえる試みの新しさであり強さです。(p.177-179、本文でゴシック体表記の部分には下線を付した。)


この説明は、新古典派だけでなく、経済学全般が見落としがちなポイントを的確に突いていると思われる。すなわち、経済学では消費者間の関係や供給者間の関係が無視されている。

上の引用文にある「構造同値」もこうした関係の一つである。構造同値であれば、それらのノードには競合関係・競争関係が生じやすいが、そうでなければ、ノードが複数あっても競合関係・競争関係にはならない、といったことが、こうした関係から導き出される。



 第二に、日米の取引慣行の比較においてしばしば指摘される、「日本の取引関係がパーソナルな性格をもち、安定して長期的に継続される傾向」は、日本においては産業の集中度が高く、集中度の高い産業が相互に取引の相手産業にマイナスの影響を与えあっているという事実から説明することができます。
 この傾向を、それぞれの国の国民性や文化的要因から説明する立場もあります。しかし、これは、日本の産業構造の特性から生じた合理的な選択であるとする解釈のほうが妥当だと思われます。市場集中度が高く、生産に必要な原・燃料の購入先も、自らの生産する製品やサービスの販売先の数も限定されている日本では、取引は長期的にならざるをえないのです。安定した長期的取引は、売り手と買い手のあいだにパーソナルな関係を育みます。(p.194、本文でゴシック体表記の部分には下線を付した。)


いわゆる「文化」とか「国民性」と呼ばれるものは基本的にこうした社会的な構造から規定されて形成された慣習にすぎないと考えるべきだというのが私の持論でもあり、著者の考え方と同じである。

例えば、日本に「固有の文化」だとか、「日本人の国民性」だとか、こういう「しょうもないこと」を言う輩は結構多いが、それが何らかの固有のものであると考えるのは誤りである。同じように「伝統」とされるものの多くが大した歴史を持たないことは様々な歴史研究が実証しているとおりである。

社会関係が変われば、それに応じて生活様式や人の行動様式も変わらざるを得ず、また、そうやって生活や行動の様式が変われば社会の構造的な関係も「ジョジョに奇妙に」変わっていくのである。その仕組みを見ることができない輩が、「固有の文化」とか「国民性」などという実体化をしてしまうワケだ。そんなわけで、私は、これらの言葉を、無批判的に使った時点で「恥」だと思っているくらいだ。



 しかし、世界システム論と従属論には、どの国がどの位置を占めているのかを客観的に示すことができないという問題があったのです。すなわち、個々の国々について、その国が中心の位置にいるのか、周辺的な位置にいるのか、準周辺的な位置にいるのか、を客観的に割り振ることができなかったのです。(p.198)


世界システム論に対する批判としては、比較的スジがいいものである。ウォーラーステインが言っていたとおりの分類にはならないだろうが、本書でこれに続いて示されているネットワーク分析の研究者による分類が可能であったのと同じように、指標さえあれば分類は可能である。

なお、私見では歴史社会学理論としてのウォーラーステインらの世界システム論に対しては、前のエントリーで引用したような問題点も指摘されるべきだと考えている。すなわち、資本主義世界経済としての近代世界システムの生成と消滅について、世界システム論の枠組みでは語ることができないということである。

生成についてはウォーラーステイン自身、比較的初期の頃から説明しようと試みているが、十分うまく言ったとはいえない。そして、それ以上に問題なのは、90年代になってからのウォーラーステインの議論であり、特に、現在が別のシステムへの移行期であるとし、そこでカオス理論的な表象を用いながら、システムの以降を抽象的かつ曖昧に述べ続けたことである。このことは世界システム論の枠組みによって世界システムの消滅は語れないことを意味しているというのが私の見方である。

生成よりも消滅が問題なのは、このような理論では、未来に向けての運動(行動)の指針を人々に与えることができないからである。つまり、どちらも状態の把握が出来ていない点では同じだが、生成の局面は説明できなくても、それは既に過ぎ去ったことだからいいが、消滅の局面はこれからどのようになるのかという予測を含んでおり、このような未来への見通しを与えることは、マクロな理論が果たすべき一つの役割だと思うからである。

私としては、こうした欠陥を補うものとして、オートポイエーシスや複雑ネットワーク研究に期待しているところである。

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安田雪 『ネットワーク分析 何が行為を決定するか』(その1)

 ここで述べたいのは、人脈を活用するということにまとわりついていた、どことなくアンフェアで、「自らの努力で得るべきものを他者に依存して獲得した」というような暗黙の印象を、「ネットワーキング」という言葉は吹き飛ばしてしまったということです。「人脈を活用する」といったときに連想される、どこか冷徹で否定的で計算高いイメージが、「ネットワークを活用する」と表現されることによって、自由で明るくかつポジティブな感じに変わってしまうのです。その最大の理由は、「ネットワーク」を、何かそこから得る資産としてのみ扱うのではなく、そこに自分も何らかの付加価値を付け足すことができる、他者から自分が与えられると同時に、他者に自分も与えるのであるという点を強調したことです。(p.38-39、本文でゴシック体表記の部分を強調した。)


政治の世界でネガティブなイメージがつけられてしまった「派閥」という「ネットワーク」がある。一般的なイメージでは、これを壊すことは良いことだとされているフシがある。しかし、仮にそれを壊しても、政治家を繋ぐ社会的なネットワークは常に必要であり、逆に、社会的なネットワークがないとすれば、政治というものは成り立ちえない。

したがって、派閥を壊したら別の政治家ネットワークができるだけだということを十分に承知した上で、適切な手を打たなければならない。ところが、世間では単にイメージが悪いというだけでそれを否定しようとするだけになっている。ネットワーク分析なり複雑ネットワーク研究なり、そうした基本的なパラダイムをもっていれば、世の中に跋扈している「派閥批判」の多くが欺瞞に満ちたものであることがわかると思うのだが。

私の見立てでは、派閥が壊れて政治家がアトム化されていくと、その後に現れるのは、今、様々なところで設立されている「議連」によるネットワークである。そして、議連というのは、建前上は政策なり個別的イシューによって集まっていることになっているが、実際は、政治化同士の人脈に基づいて形成されている面が強いと思う。そして、政界に多くの人脈を持つ者とは誰かといえば、世襲議員(二世・三世議員)であり、そうした活動のための資金力があるのは誰かといえば、これも同じく世襲議員に有利ではないかと想定している。したがって、派閥を解体した後に現れる政治家の秩序は、形式上は「議連政治」であり、その内実は世襲議員が権力の中枢を握る体制ということになる。こうした公算が高いと見ている。

もっとも、派閥がどうしたという話は、自民党内部の話だから、自民党が政権から降りれば、その影響力は非常に小さなものになるが、仮にそうだとしても、下野した後に再度政権の座に戻る可能性はありうるし、政界再編があった場合にも、派閥の力が弱ければ議連のような人脈が単位になりやすく、議連が単位になるならば、その中枢を握っている世襲議員は有利な位置におかれることになる。こうした傾向の弊害を考えに入れると、単純にイメージが悪いものを叩くだけではダメだということになる。

差し迫った案件ではないので、この問題については、今は雑駁なメモだけにしておく。



 さらに、ネットワーキングという行為においては、行為する人、すなわち、強く力のある人が、行為をおこなったまさにその結果として、自分をバルネラブルな立場においてしまうという、二つ目のパラドックスがあります。何らかの行為をすればするほど、その人は危ない状況に身をさらすことになるということを、金子はボランティアを論じつつ、「困っている人を見過ごせばそれですむところを、あえて自分から関わりあいになることで、自分をあやうくする」「情報を出せば出すほど、文句をつけられたり、非難されたり、面倒なことを頼まれたりする」と表現しています。(p.39-40)


個人的な経験からよくわかる事態だ。あまりにもぴったり嵌りすぎているくらいだ。このパラドックスを回避する完全な方法があるなら是非使いたいと思うのだが…。



 両者の明らかな違いは、そのアプローチにあります。ネットワーク分析は、行為者の行為の決定要因を、その行為を取り囲むネットワークに求めるため、構造が安定したネットワークについての分析には威力を発揮します。ところが、ネットワークの生成と崩壊の過程については、十分に説明することができないのです。・・・(中略)・・・。
 一方、ネットワーキングについての議論は、ネットワークの生成とその機能については活発な議論を展開しますが、生成され安定したネットワークの構造についての議論を十分にしているとは言えません。それは、生成されたネットワークの機能がすべて、ネットワークを構成する個々の行為者の意識(他人を拘束するな、対立を容認せよ、やわらかに連結せよ……などなど)に依存しているとしてしまうためです。ネットワーク分析の視点は、ネットワーキングによって作り出されたネットワークの内部構造を把握し、その機能を考えるためには有効なものであると考えられます。一方、ネットワーキング論は、ネットワークの生成・崩壊といったネットワークの動的側面を考察するためには非常に有効だと言えるでしょう。(p.41-42、本文でゴシック体表記の部分には下線を付した。)


本書は約10年前(1997年)のものなので、ネットワーク研究の進展の度合いから言えば、今とはかなり様子が違っていると思われる。実際、本書の議論の多くは、構造主義的すぎるきらいがある。しかし、この2つの議論の対比は、問題の整理としては役立つものを含んでいる。

私の場合、この生成や消滅の問題を解決するのはオートポイエーシスに求めたいと思っている。ネットワークの生成・消滅はオートポイエーシスで説明し、それが構造を形成するところもこれで説明できると考えている。しかし、このシステム論の言語は「一般向けの言葉」ではないと私は考える。したがって、それを他者に伝達する際には、言語を変換しなければならず、そのときには複雑ネットワーク研究におけるネットワークを観察したり、性質を記述するための用語が役立つのではないかという見通しをもっている。そういう関係のものとして捉えている。


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『現代思想 総特集 マックス・ウェーバー』(2007年11月臨時増刊)(その2)
三島憲一 「多様な近代の多様な交錯」 より

「自由」は、マルクスも指摘するとおり、フランス革命以前は「特権」を意味した。つまり、自分の狩猟区で狩りをする支配者の特権である。(p.25)



この「自由」は、まさに「新自由主義」のイデオロギーによって実現される「自由」である。少なくとも、それと極めて近いものである。新自由主義のイデオローグ(小泉純一郎や竹中平蔵など)が、人々に訴えるときには、これとは異なる、フランス革命以後の【自由】を語って広範な支持を得ようとするが、実際にもたらされるのは、まさにこのフランス革命以前の「自由」である。

すなわち、グローバルな資本家が、自分の「狩猟区」で労働者や消費者という獲物を狩る特権である。狩猟をする領主以外の者は、ある者(安く買い叩かれる労働者など)は「狩られる動物」でしかなく、またある者(リストラされる労働者や社会福祉の削減によって生活の困窮がもたらされる人々、さらには、交渉上、不利な立場におかれるため経営が悪化する中小企業の経営者)は、その狩猟区から排除されて生きる術を奪われる。



野口雅弘 「信条倫理化する<保守> ウェーバーとマンハイムを手がかりにして」 より

 ウェーバーの『支配の社会学』には、権力の獲得を最大の目的とし、プログラム(綱領)にこだわらない「主義なし(gesinnungslos)」政党や、あるいは名望家政党と並んで、「プログラム政党」、ないし「世界観政党」という概念が出てくる(WuG 669/456)。これは現代の政党研究においても用いられ、「プラグマティズム政党」の対極にあって、現実的可能性や権力への接近性よりも原理、原則の純粋性を優先するタイプの政党であり、ウェーバーの信条倫理とつながるものである。したがって通常この語は、極左政党や原理主義政党に対して適用され、保守主義の政党と結びつくことはなかった。
 しかし冷戦の終焉以後、こうした「プログラム化」の傾向が進んでいるのはむしろ<保守>の側である。アメリカの「ネオコン」にしても、日本の「構造改革」にしても、ある特定の原理を明確に定立することが目立っている。こうした傾向は「革新」という自らに先行する勢力の不在という事態と密接に結びついており、そうであるから非妥協的で、強硬な姿勢がともなわれることになる。(p.123-124)


ようやくこうした傾向が行き詰まりを示しつつある、というのが日本やアメリカの政治情勢の現状というところだろう。日本では原理主義的な色彩が強かった小泉と安倍の両政権から福田政権に変わり、福田を総裁とする自民党は「権力の獲得を最大の目的とし、プログラム(綱領)にこだわらない「主義なし(gesinnungslos)」政党」という、これまで続いてきた(そして、90年代前半の下野以降、いっそう顕著になった)自民党の基本的なスタンスに戻りつつある。もっとも、この方向で落ち着くかどうかは分からないが、差し当たり、一つの臨界点に達したことは間違いない。

今の日本の場合、自民党と民主党は「主義なし」政党に近い。それが二大勢力をなしているという状況である。いずれも権力を握ることを至上の目的としており、その勢力が拮抗してきたから、常に政局沙汰になるわけだ。しかし、そんな誰が権力を握るかなんていう二次的なことには一般庶民は関心などない。政治が何をしようとしているのかが、有権者から見て分かりにくいのは、こうした「主義なし」政党による二大政党化が進んだ状況と関係があるのだろう。

ただ、その基調の一つとしては、やはり引用文で指摘されているような「プログラム政党」化というものはあり、その原理主義的ないし信条倫理的な性格は消えてはいない。その点には有権者として警戒が必要である。なにせ、信条倫理というのは、その人が正しい(価値がある)と信じることをすることがよいことであり、その結果生じたことには責任を負わない(神のみぞ知る)という代物なのだから。



野口雅弘 「信条倫理化する<保守> ウェーバーとマンハイムを手がかりにして」 より

まず、野口氏は、マンハイムの「保守」の概念を次のように説明する。

マンハイムは、初期ロマン主義に由来する「反省」概念を、さまざまな政治的立場が乱立し、争いあうワイマール時代の政治状況を意識しながら、他の立場との対比において、とりわけ「進歩」を唱える運動に直面して、それとの緊張関係のなかで自らの立場性をとらえ返すという意味で用いているのである。(p.119)


他に幾つかの説明を経た上で、次のように性格を規定する。

 こうして保守主義は、思弁的、抽象的、あるいは急進的な革命運動に対抗し、それを「反省」することで成立するものであるから、具体的で、現実的で、そしてモデレートな態度を特徴とすることになる。(p.120)


ところが、上で引用したように、ポスト冷戦時代の<保守>政党はプログラム政党化(世界観政党化)しており、それはかつての保守とは異なっていることが指摘される。

その上で次のような指摘があるのだが、なかなか興味深いものがある。

もちろん冷戦の終焉以後の世界においても、政治的な対立がなくなったわけではない。しかしここでの<保守>の闘争は、カール・シュミット的な意味での「闘争」ではない。「友・敵の区別の存在しない世界にあっても、おそらくはたいそう興味深い、さまざまな対立やコントラストはあるであろう。ありとあらゆる競争や駆け引きもあるかもしれない。しかしそこには、それを根拠にして、人が命を犠牲にすることを要求されるような、そうした対立は原理的にありえない」。『政治的なものの概念』の有名な箇所において、シュミットはこのように述べているが、「悪の枢軸」「抵抗勢力」「ごろつき」、あるいは「社会のくず」などとレッテル貼りされた、あまりに非対称的な相手といくら戦っても、それによって「命」は脅かされないし、また闘争をくぐることで自らのあり方に深刻な修正、つまりリフレクションが生じるわけではない。「プログラム化」が他者の顔色を見ることの拒否であり、したがって相互作用の切断を意味するとすれば、そこには保守主義を成り立たしめていた反省の契機は存在しえないのである。(p.124)


付け加えれば、自民党や自称「保守」の人々が、しばしば目の敵にする「日教組」なんかも、この類のものであろう。「革新」勢力がなくなったために、「保守」の側は、逆に自らの存在を維持できなくなってしまい、見せ掛けの「敵」をつくったり、「原理主義」に向かう契機となっている。なお、革新勢力なしに保守主義勢力が自らを維持できない理由は、現状の社会における「本当の問題」に対処する術がないからである、というのが私の見るところである。



野口雅弘 「信条倫理化する<保守> ウェーバーとマンハイムを手がかりにして」 より

 Gesinnungsethikの訳語としては、脇圭平訳の『職業としての政治』においてなど、一般に「心情倫理」が用いられることが多い。しかしGesinnungsは、当然一定の強い情念がともなわれるとはいえ、「心情」としてしまうと、ミスリーディングである。ちなみに、英語でも訳語は一定しておらず、ethic of conviction, ethic of single-minded conviction, ethic of ultimate ends などが用いられている。ただいずれにしても、「心情」というよりは「信条」に近い。このことはgesinnungslosの英語訳として通常用いられる語がunprincipled であることからも裏付けることができよう。(p.131)


野口氏が心情倫理ではなく信条倫理という訳語を用いる理由の説明だが、なかなか説得力がある。私としては、今まで一般的な用法にならって「心情倫理」を用いてきたのだが、微妙に迷いもあるにせよ、今後は私も信条倫理という用語を使おうかという気になってきた。

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『現代思想 総特集 マックス・ウェーバー』(2007年11月臨時増刊)(その1)
姜尚中 「ウェーバーの可能性」より

 最後に、資本主義です。かつて大塚史学があり、そしてゾンバルトとかテンニースとかの資本主義起源論争がありました。一言で言うと、大塚史学では、産業資本主義というのは、賤民資本主義とは違う、つまり、軍事に寄生したり、政治に寄生したりするというような、金融資本に寄生したものではなくて、物を生産する、そこにエートスの根拠を置きました。これがウェーバーが言っていた資本主義だということです。
 これはそうなんだろうけど、ウェーバーが言っているのは、今の我々の時代にはその資本主義というのは影も形もなくて、まさしくゾンバルトがいうような意味で賤民資本主義なわけです。グローバリズムの中で、それが雛形になっている。これは、どう考えたらよいのか。
 つまり、資本主義の起源において、明らかな逸脱形態か、あるいは大塚さんの言葉で言うと前期資本だったものが、今は地球的規模の資本主義の本物になっているということです。だから、今の金融サービスを中心とする資本主義の価値構造は、ウェーバーを通じてどう説明できるのか。
 起源論争においては、明らかにそういう資本主義をウェーバーは、近代産業資本主義とは違うものとしてカテゴライズしたけれども、今はそれが主流になってしまっている。それに対抗するために何があるのか。国家の役割と機能が変質して、分かりやすい形で国家が資本のエージェントになっている。そうすると、もう守るものがない。今のナショナリズムは国民無きナショナリズムだから、これほど分かりやすいものはありません。(p.17-18)


ウェーバーによれば「近代西欧」以外の時代と地域には、「近代産業資本主義」は自生的に生まれなかったとされる。しかし、「資本主義」というものは、それ以外の時代と地域にもあったとされ、それらにも様々なタイプがあるとされる。それらの違いを、分かりやすく少し噛み砕くと、近代資本主義が「産業」資本主義であって、「農業」資本主義や「商業」資本主義や「金融」資本主義のようなものではないことであると考えられたということだ。しかも、その「産業」が政治や軍事に寄生していないところに一つのポイントがある。(ウェーバーのテクストでは、「家産官僚制」と「近代官僚制」の違いといった概念的な区別や、「計算可能性」や「合理性」などの用語を使って、これらのことが――直接的および間接的に――巧みに説明される。)

だから、ウェーバーや大塚久雄の考えでは、「近代産業資本」が未だ発達していなかった、別のタイプの資本主義から、近代西欧だけが、技術的には(「効率性」や「透明性」のような点では)、「より優れたもの」と彼らには考えられている「近代産業資本主義」が成立したことになる。

彼らの議論では、資本主義は、こうやって展開ないし発展してきたとされている。しかし、姜尚中が言うにはは、今の資本主義は彼らが言った資本主義ではない。つまり、ウェーバーや大塚が近代以前の時代、また、西欧以外の地域にあった資本主義の一形態である賤民資本主義が現代のグローバルな資本主義の姿であるという。そして、これを分析するときに、ウェーバーの議論は何か示唆しうるものを含むのではないか――この判断の背景には、近代西欧資本主義以外の資本主義にも論及したものがあることが背景にあるだろう――というのである。

このように言われてみれば、確かに、分析のための概念的な準拠枠を持ってくることくらいはできそうだ、という感じがする。(そのまま使えるわけではないが。)その点で参考になった。私の見るところでは、この点で最も重要なテクストは恐らく『古代農業事情』だろう、という見通しだ。それを補完するものとして「支配の社会学」とか「支配の諸類型」として訳出されている『経済と社会』の政治社会学的な草稿は役立つのではないか。

姜尚中の次の言葉は、こうした試みに対して後押しするものであり、私も同感である。

市場のグローバル化というのは自然発生的なものではなく、政治的なプロジェクトです。これを経済学で説明しようとするからおかしいのです。
 そういう点では、むしろウェーバーの方が見方としては肯定的なものを引き出せる面があります。そういうところがウェーバーの可能性です。ウェーバーというのは全てがトルソーだったんですね。一つとして完成されていない。厳密な解釈をやっていても始まらない。むしろトルソーから今起きている事柄をどれだけ引っ張ってきて、そこに付加し、考えていけるかがウェーバーの意味です。
 ウェーバーは非常に使い道がある。もう一度ウェーバー・ルネッサンスが来ると思いますね。(p.19)



私の場合は、次のように考える。

政治と経済は分離すべきだと考えられているし、学問分野もそのように分かれているのだが、現実はこれらの関係は深まっている。資本を活用できる人間が、政府を利用して自らの利益を最大化しようとしており、デモクラシーが制度としては存在していながらも、政府の決定は選挙民よりも資本家の意向を尊重するようになっている。

逆に、資本家や政府が選挙民をコントロールするためのイデオロギーとしてのナショナリズムが宣伝され、これは民衆側の現状への不満と不安から求められる一種の救済願望とも結びつき、両者はさまざまな色合いをなしながらも混合している。しかし、その混合されたものの方向性を主導する力についてはメディアを握っている資本家や政府の意向が反映されやすく、彼らは「国民」を守ることは考えていない。したがって、そのナショナリズムは姜尚中が言うように「国民無きナショナリズム」になる。

もし、このような状況であれば、単に経済現象だけを研究対象とした経済学には、現状の問題点を指摘する能力があるはずもない。政治や経済など分野に囚われずに状況を分析できる分析枠組みが必要である。

概ね以上のような認識だ。

さて、ここでウェーバーに目を向けてみよう。ウェーバーの中では経済史、政治学、社会学と言ったものが渾然となっているところがある。当時はまだ現在のようにディシプリン(個別的専門科学)としての社会科学が固まっていなかったから。しかし、逆に、そうであるからこそ、ウェーバーの利用価値はあるのではないか。

私の場合は、今のところ、こうした枠組みの一つとして「複雑ネットワーク研究」に着目しているのだが、ウェーバーも某かの着想を与えてくれる可能性がある。

この雑誌の特集もそうだが、ここ数ヶ月の間にウェーバー関係の研究書が、次々と出版されている。一時期ぱったりとウェーバー関係の出版が止んだ感があったのだが、数年ぶりに復活という感じだ。ここから姜尚中が言うように、ウェーバー・ルネッサンスが起こり、それが現状の打開に何らかの示唆を与えるものになればいいと思う。

ただ、一言釘を刺しておけば、ウェーバーを基本的な枠組みとして現状の変革を訴えるのは難しいだろう。ウェーバーの論理は歴史社会学的であって、その概念の多くは、基本的には「既に起こった出来事を整理するため」に考えられたものである。私見では、そうした概念からは現状を変革するための着想は生まれにくい傾向がある。したがって、まずは現状の認識を深めるという作業が必要であり、それを理論化して人々に訴えるときに、ウェーバーを利用するという手順が必要であろう。


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興梠 一郎 『中国激流 13億のゆくえ』(その3)

 こうした動き[引用者注;県レベル以下の人民代表大会、つまり地方議会議員で「党派推薦」以外の「自薦候補」が増加していること]は、同年[引用者注;2003年]前半に行なわれた広東省深セン市の人民代表選挙でも見られた。深センと北京の共通点は、住宅所有者集団(業主群体という)の出現である。彼らが積極的に政治参加する背景には、改革がもたらした「住宅」という私有財産の誕生がある。
 かつて住宅は、職場が提供するもので個人で購入する必要はなかったが、いまは違う。1998年に住宅の市場化が始まると、人々は住宅という財産を所有することになった。自分で購入すれば、当然ながら権利意識が発生する。
 都市の民主化要求は、こうした切実な利益と関係しており、もはや抽象的なスローガンではない。この選挙に、天通苑、銀地家園、水清木華園、朝陽園、大西洋新城、望京新城など、団地住民の代表が数多く立候補したのは、権利意識の高まりを物語っている。(p.165-166)


興味深い現象である。この延長上で私有財産として認められるものの範囲が広がれば(特に土地)、それに応じて民主化要求が「持てる者」の間で高まっていく可能性がある。昨年施行された物権法も一種の所有権の拡大をもたらすものだとされているから、数年後には多少の変化が見られる可能性がある。

共産党の独裁がどこまで民主化を受け入れ、それを許容していけるのか、ソフトランディングはどこまで可能なのか、中期的には興味深い問題だ。もちろん、決定的なところは譲る意図はないのは明白だが、長い間の運動の高まりと世代交代は、意思決定の変化にまで繋がる可能性がないわけではない。

2007年後半からのアメリカ発の不況が世界経済の構造を変える可能性があると私は考えるが、その中で中国がどのような位置を占めるのか、ということも民主化や独裁との関係で重要な要因となるだろう。そして、中国の経済力や財政の健全性と深くかかわるものとしての高齢社会化がある。これらがどのような絡み合いを織り成していくかが、中国国内的な政治と経済の布置を大きく左右するだろうし、その国内要因は何らかの形で国際関係にも影響を与えるに違いない。



 1980年代の民主化運動は、「天安門事件」が示すように知識人と大学生が主体だったが、いまは「草の根」である。(p.179)


この変化は記憶しておくべきだ。



 この体制で中国は市場経済化が可能なのか。民間企業が自由に発展する土壌がないまま、はたして市場経済が成立するのだろうか。そうした根本的問題が解決されていない。「改革」を真の改革にするには、市場経済に見合った政治体制が必要である。それは法治に裏付けられた民主政治である。(p.219)


ここに述べられているスタンスは本書に一貫した主張である。

しかし、私はこの主張には懐疑的である。まず、「民間企業が自由に発展する土壌」として法治が確立していることや、政治や行政による恣意的な介入がないことが、それなりの重要性があることは確かだが、それは絶対的なものではないし、さらに言えば、デモクラシーの体制がこれらを保障するわけでもない。

さらにダメ押しすれば、本書で「市場経済」や「民主政治」と言われる場合、いわゆる「西欧近代」をモデルとしていることは明白である。そして、それは単なる社会の理論上のモデルではなく、規範として用いているのではないだろうか。やや戯画化して描き出せば筆者の言っていることは次のようになりはしないか。中国は欧米のような「市場経済」を成立させるべきであり、それを達成するためには欧米のような「民主政治」の体制がなければならない。

これは客観的な事実についての記述ではなく、著者の考える「べき論」である。しかし、著者はこれが著者の考えに基づく「べき論」であることを明示していない。あたかもそれが事実であるかのごとく書いている。私はこれはWertfreiheitの原則に完全に違反した、非常に不誠実な叙述であると見る。

もちろん、このように民主的な政治体制と市場経済という私達の多くにとって馴染みやすいシステムが中国で実現することは、少なくとも、見慣れない「一党独裁的だが市場経済は機能しており、経済力も高い」といった状態になるよりは、「安心感がある」とは言えるだろう。しかし、それが不可能であるという理由はない。

法治が不十分であることは、「透明な市場」は実現できないだろうが、ブローデル的な意味での「資本主義」には適しているのであり、ブローデル的な「資本主義」も広い意味では(非ブローデル的な、常識的な用語法における)市場を活用するのであるとすれば、上記のような体制が成り立ちえない理由はないことになる。これに付け加えて、ドイツやイタリアで戦前にナチズムやファシズムが出現したとき、それらの地域では「市場経済」は機能しなかったのだろうか?と言っておく。

私はこうしたことが「望ましい」と言っているのではない。論理的にも現実的にも、将来的にこうした展開になることが排除される必然性はない、と言っているだけであり、様々な可能性がある中で、本書の著者はその可能性を特定の社会モデルに限定し、それを実現することを悪い意味で――すなわち、『職業としての学問』でウェーバーが批判したような意味で(但し、尾高訳の岩波文庫ではここは決定的に誤訳されているが…)――「事実をもって語らしめる」という仕方で要請している点に違和感を覚える、と言っているだけである。



 中国市場に「攻め入る側」に立つ日本では、「十三億の市場」という期待感から「飛躍する中国」というイメージが主流である。だが、産業基盤も脆弱なまま「迎え撃つ側」に立つ発展途上国から見れば、まったく異なる現実に見えるはずだ。(p.238)



一つ上の引用文に関する箇所では、本書のスタンスを批判したが、こちらの箇所は本書の考え方の中でも重要なものである。異なった立場の側からも物事を見る、ということは必要である。

ただ、中国の経済発展に関する悲観論も、日本の側から見ると願望を投影していたりする。すなわち、日本の国粋主義的なグループから見れば、中国がこのまま経済成長を遂げて日本の力を超えてしまう前に、「自滅してほしい」という結論になるのは目に見えている。国粋主義的右派の中国崩壊論は基本的にこの願望を継承している。そうした議論に多いと思われるのは、大局を見ていないということである。指摘は割愛するが、本書もしばしばこうした失敗をしていたと思われた。

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興梠 一郎 『中国激流 13億のゆくえ』(その2)

 中央政府は、経済全体に大きな打撃を与えるバブル崩壊を警戒しているが、地方政府は投資を拡大すればGDP(国内総生産)数値が上がり、役人の昇進にもつながるため指示にしたがわない。リスクの高い過剰な投資の背景には、こうした地方政府の「政治的衝動」があるため、中央政府による完全なコントロールは難しい。
 もっとも、根底には中央政府自身が「経済成長は最大の政治任務」としてきたため、地方政府の指導者が数字合わせをするという一面もあり、その意味で政治システム全体の問題なのだ。(p.130)


政治システム全体の問題に帰するあたりはやや強引な論の進め方である。しかし、地方政府と中央政府の「利害」の相違があり、それが一つの懸念材料であるとする点は理解できる。しかし、中央政府と地方政府のこうした緊張関係は、日本にもあるしどこにでもある。制度やおかれた状況によって、その対立や緊張の現れ方は違うが。

例えば、日本の場合、90年代の財政赤字の拡大がとめられなかった大きな背景として、中央政府があまりにも簡単に地方政府を動員できる体制であるという「政治システム全体の問題」があったわけだし、小泉内閣以後、財政再建を新自由主義的な手法で行なおうとする際には、それをそのままひっくり返したやり方をしている。どちらにしても地方政府にほとんど自律性がなく、中央政府が、権限だけでなく財源を用いてコントロールできる体制が、日本のリスク要因の一つであり、見事なまでにそれが悪い方に出続けている、というのが、ここ15~20年ほどの状況である。

中国の場合、バブルは中国政府の改革開放政策と世界経済の金融グローバル化との整合性が根底にあるのだから、上記引用文のように、国内的な政治体制だけを問題視するならば、問題の捉え方として不十分であるといわざるを得ない。



 農村は人口では大半を占めるが、収入が少なく消費できない。消費レベルを示す「社会消費財小売額」に占める割合は、毎年減っている。2002年で見ると、農村は人口の61%を占めるが、同小売額では37%だ。人口の39%を占める都市は、逆に小売額の63%を占める。農村の家電普及率を見ても、都市と15年の格差がある。(p.150)



1月24日のasahi.comによると、2007年の中国の小売額総額の伸びは16.8%。投資などと比べると伸びは小さいが、それでもかなりのものだ。この内訳はどのようなものなのか、大変興味がある。

ちなみに、上記の引用文の内容から判断すると、農村の一人当たりの消費は37/61≒0.6に対して、都市の消費は63/39≒1.6という比率になるから、農村:都市≒1:2.7 くらいということになる。比較の単位は違うが、日本の都道府県別の消費税額の比率(最低の沖縄県:最高の東京都)は1:2くらいだったと思う。



 北京大学の林毅夫教授は、「地域格差は国有企業改革と関連している」と指摘する。
 東部は製造業、中部は農業、西部は天然資源である。国有企業を援助するため、政府は農産物や資源の価格を低く抑えてきた。農産物価格を抑えれば、都市部の労働者の支出は減り、企業も賃金を抑えられる。資源の価格を抑えれば、企業の生産コストは下がる。中西部の貧しい地域が、工業化のために豊かな東部を支えてきたというわけだ。(p.151)


基本的な構図が簡潔に示されている。西部大開発などで対策をしているという説もあるが、それほどの効果はない(西安などの大都市が潤うだけ)という声もある。

ただ、それほどの大都市ではないところにも、若くてもそれなりの所得を持つ人びとがいた(中国に行ったときに会った)ことから考えて、不十分ながらもそれなりの効果はあるのではないか、という気がしている。

最近半年ほど中国についてはいろいろ読んできたが、経済に関しては、まだ、あまり手がついていない。これから読めれば読みたいところだ。
興梠 一郎 『中国激流 13億のゆくえ』(その1)

 中国の農村問題を考えるとき、農業では十分な収入を得られないために都市部に大挙して流れ込んでくる農民の境遇を無視することはできない。彼らは「民工(ミンゴン)」と呼ばれる。「改革開放政策」は当初、集団化されていた農地を農民に請け負わせることから始まった。ところが最近では都市化が進むなか、土地を手放して農業戸籍から非農業戸籍(いわゆる都市戸籍)に変わるケースが増えているのである。農業部(部は省庁に相当)の調査によれば、現在9800万人の農民が出稼ぎに出ている。出稼ぎ労働者は、産業労働者の三割を占めるまでになっており、農民一人当たりの年収に占める出稼ぎ収入の割合も四割に達している。これは、農村経済の工業への依存度が高まっており、経済成長が止まれば、農村にまで大きな影響をもたらすというリスクもはらんでいるということである。(p.25-26)


都市の景気が悪化した際に、真っ先に打撃を受けるのがこうした出稼ぎ労働者であろう。それは彼らの仕送りを生活の足しにしている農村の家計に波及する。その上、中国では農村は社会的セーフティネットの整備が特に遅れている。こうした意味での脆弱性は確かにあると言うことができる。

しかし、私は差し当たり、中国の経済発展に関してはやや楽観的な見方をしている。確かに、現在はアメリカ発の不況が世界を覆う可能性があるなど、様々なリスクの要因はあるのだが、仮に世界不況になったとしても中国は(中国政府が望むような「民族資本」の台頭ができるかどうかではなく)地域としては、そうした経済の収縮局面でも相対的に優位に立てる可能性があると考える。

(そもそも世界的な不況、経済の収縮局面にあっても、世界の一部の地域では経済成長を維持するという事例はあり、むしろそれが普通ではないかと考える。17世紀のオランダがそうであったし、また、なにより1970年代の日本がそうだった。)

楽観するに当たって、具体的な根拠が十分あるわけではないが――そもそも、どういう形で世界経済が展開するかということすらわからないのだから、具体的な根拠で答えられるわけがない――一言で言えば、世界における中国が製造業の拠点としての位置を占めているのではないか、と思うからである。金融のトラブルがあっても、生活必需品は需要がなくなるわけではなく、それを安く大量に作ることができる地域にとっては、金融のトラブルというのは相対的には有利な状況でさえあり「うる」。



 また、中央政府が中規模以上の建設会社12社に対して行なった調査では、2001年末の時点で支払われていない工事代金は97.91億元あり、うち地方政府が未払いのものは50%にも達していた。2002~2003年は地方の指導者が交代したので、さらに政府プロジェクトが行なわれたはずである。未払いがもっと増えている可能性がある。
 これを受けて中央政府は2003年12月、通達を発し、「地方政府主導の工事が未払いの主な原因だ」と指摘した。ここでいう「工事」とは、地方政府の最高権力者が任期中に進める「形象工程」(業績作りのためのイメージアップ工事)のことである。彼らの目的は、業績をあげて出世することにある。高層ビルや高速道路などは、中央から指導者が視察に来たとき、繁栄していると「一目で」わかるので、イメージアップに最適だ。GDP(国内総生産)の数値が上がれば、中央への大抜擢も夢ではない。結局、そうした行為を助長する政治体制のあり方が、資金の流れを歪めているのである。(p.30-31)


「形象工程」というのは分かるような気がする。中国のどこの都市に行っても、どこか(他の都市)でみたようなデザインのビルが立ち並んでいるのを目にするのだが、このことなども関係があるのではないだろうか。



 日本から中国経済を見るとき、忘れてはならない二つのポイントがある。ひとつは、外から見る中国像には、フィルターがかかっているという点。もうひとつは、中国経済は今でも政治支配の経済であるという点である。
 海外の中国論は、総じて中国における中国論より楽観的で、中国がすぐにでも先進国を追い抜くかのように報じている。これは、中国を有望なマーケットと期待しているからである。特に日本では、近年の「中国特需」もそうした期待を増幅してきた。(p.126)


中国を有望なマーケットと見ている人びとが、中国の経済を楽観的に見るというのは、確かにそうだろう。しかし、それが単なる願望にすぎないか、それとも現実を反映している面がどの程度あるか、と考えれば、既に中国にはかなりの購買力がある所得階層の人びとがいる。日本の人びととそれほど遜色ない金額の月収を得ている人も結構いる。そんな人びとが5000万人いるとすれば、それだけで既にヨーロッパの大国並みの消費市場があるという計算になる。その上、消費拡大の潜在的な余地も大きいとは言える。

私としては、中国の経済を決める大きな要因は、本書が注目する農村もさることながら、アメリカであると思う。

さて、上記の引用文では「中国経済は今でも政治支配の経済」であるとされている。確かにそうした側面はあるだろう。こうした認識は本書を通じて何度も語られるのだが、これが問題だとされる際、対比されているのは、「純粋な市場経済のモデル」である。それを考えに入れると、この議論は、理想的に機能するように作られたモデルを一方で思い描き、その状態を目指すべき理想であるとしているところがある。

しかし、政治の介入がなくなることはありえない。政治の経済支配をやめて純粋な市場経済に移行すべきというメッセージを本書は発していると思うが、むしろ、政治による経済支配のやり方を変えるという選択肢もあるのであり、その線で考える方がリアリティもあるし、うまくいくと思うのだが。

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ウィリアム・ジェイムズ 『多元的宇宙』(その2)

 たとえば、運動は、もともと暗いはっきりしない感覚であって、その本来のかたちは多分、めまいの現象の中に、もっともよく保存されているであろう。めまいにおいて我々は、運動があるということ、それが激しかったり早かったりすること、こちらの方向かあちらの方向かを向いていること、警告的であったり胸をわるくするものであることを、多少とも漠然と感じる。しかしめまいを感じている人間は、次第に、彼の感じている運動を、彼のほんとうの位置や、他のものの位置に関係づけることを覚え、遂にはそれを知性化して、よろめかずに歩くようになる。数学的な精神も、同様に、それなりのやり方で、運動を組織してこれに論理的な定義を与える。運動は今や「相つぐ時点において、相つぐ空間点をしめること」と考えられる。このような定義によって、我々は、感覚の混乱したわたくし性から、完全にのがれるのである。しかし我々は同時に感覚的な実在からもにげてしまうのではないか。運動は、それが何であろうとも、たしかに静的なものではない。けれども我々が今えた定義は、絶対的に静的なものである。この定義は空間点と時間点とのあいだの一対一の対応関係を与えるが、この関係自身も点と同様、固定されたものである。それは無限に指定可能な位置を与えてくれるが、しかし物体がどうやって一つの位置から他の位置にうつるのかについては、黙っている。物体は、もちろん、運動によってうつるのである。しかしこの指定された位置は、いかに多数であろうとも、運動の要素をふくまない。そこでゼノンは、彼の議論においてこの位置しか問題にしなかったので、我々の知性は、運動を非実在として否定する、と結論せざるをえなかったのである。ここで主知主義は、先程私がのべたように、経験を、わかりやすくするどころか、わかりにくくしている。(p.174-175)


感覚的な経験としての「運動」、すなわち「自らが『運動している』という感覚を伴う運動」と、数学などの知性的な操作によって得られる「運動の定義」、すなわち「自らの運動ではなく、他者の運動を観察することを通して記述された運動」とを対比しながら、ジェイムズの言う知性主義が、前者の経験をむしろ見えにくくしてしまうことを大変分かりやすく対比的に描き出している。

いったんジェイムズの思想の内側に入り、彼が見ているものを読者自身が読み取ったならば、見誤りようのない明快な叙述であり、私には真似ができないと感心するのだが、何と驚いたことに、訳者あとがきを読むと、上記の翻訳をした訳者本人が、このことを理解していないことがわかってビックルを一気飲みした。

訳者曰く、

 運動の数学的な定義が静的なものであるとする指摘(175頁)も奇妙なものである。点が固定されたものだからということが、この指摘の根拠らしい。しかし、数学的モデルにおいては、点の集合と点の集合との間の関係によって動と静とが定義される。つまり、時点tと動点xとの対応をx=f(t)であらわす時、fが(少なくともtのある区間に対し)恒常関数である場合、動点xは静止しているといわれ、さもない場合、運動しているといわれるのである。だから、このモデルにおいては、ただ一個の時点を指定して、この時点においてxは運動しているか、静止の状態にあるか、と問うことには、そもそも意味がないのである。(p.273)



だそうだ。

まず、「点が固定されたものだからということが、この指摘の根拠らしい」と訳者は言っているが、私が見落としていないとすれば、ジェイムズはそんなことはどこにも書いていない。まぁ、それは措いてよい。訳者の見解がおかしい最大のポイントは、太字にしておいたところなのだから。

訳者の反論としての主張は「数学的モデルにおいては、点の集合と点の集合との間の関係によって動と静とが定義される」のだから、数学的モデルも「動」の要素を含んでいるということなのだろう。

訳者の主張で一番おかしい点は、「運動の定義」(「暗いはっきりしない感覚」である)「運動」とは別のものであるという、まさにジェイムズが指摘している要点を全く理解していないことである。つまり、「静止しているといわれる」ことは「静止している」ことではないし、「運動しているといわれる」ことは「運動している」ことではないのに、それを無視して(気づかずに)定義の問題に終始しているのがおかしいのである。そして、ジェイムズが言っているのは、「運動の定義」にばかりこだわっていると、感覚される「運動」はむしろ見えなくなってしまう、ということなのである。

そもそも数学的なモデルでの運動や静止というもの自体が、運動体の外から観察し、観察した後で後付けで構築されるものであって、その「数学的なモデル」自体が運動するわけではない。描かれた数学的なモデルの中で動点が動くことを、時間的に後から再現的に見るにすぎない。

この翻訳が出版されたのは1961年なのだが、50年代頃のジェイムズに対する理解というのは、この程度だったんだなぁ、と驚いた。訳者(吉田夏彦氏)は、ジェイムズの専門家ではないと明示しているが、恐らく分析哲学系の研究をしていたんだろう、と想像できる。(検索したらやっぱりそれっぽい雰囲気が濃厚のようだ。)反論のパターンがその系列に属するから。しかし、死後50年も経って、こういう状況だということは、ジェイムズという人は、生前は相当、人々からの無理解に悩まされたことだろうと想像する。

ついでに、と言ってはナンだが、私からの訳者への批判にダメ押しをする形で、ジェイムズのテクストを引用する。

この事物[引用者注;具体的な事物]の知性的なとりあつかいは、後向きのつぎはぎ細工、死後の解剖であって、我々にとって便利な順序にしたがうことができる。もしそれをのぞむなら、事物を自己矛盾的にみせることさえできる。しかし事物が内部でものごとをおこなっている観点にたってみると、これらの後向きで、互いに争っている諸概念が、すべて調和するようになる。ある人間の性格の中心、すなわち、ベルクソンのいわゆるその人間の生の躍動(エラン・ヴィタル)の中に、共感をもって生きてみよ、そうすればただちに生の躍動を外からみている人びとが、これをかくもさまざまなやり方で理解している所以をみてとることができるであろう。・・・(中略)・・・。
 同様にして、ある人間の哲学的ヴィジョンの中心に身をおいてみれば、彼にものをかかせたりいわせたりしている、さまざまなものすべてを一時に理解することができる。しかし外側にたっていて、死後解剖の方法にしたがい、個々の文句をあれこれとりあげてはつぎはいで、彼の哲学を再建しようとするなら、もちろん失敗する。(p.200-201)


数学的モデルってのは「事物の知性的なとりあつかい」の一種で、内部で行なっている観点に立つっていうのが「暗いはっきりしない感覚」を経験することだ。そうやってジェイムズの「哲学的ヴィジョンの中心に身を」おけば、簡単に分かることだと思うんだがなぁ。

余談だが、最後の部分は私がかなりの関心を抱いて追求してきたマックス・ウェーバー研究の状況を思い起こさせる。例えば、論争(?)のあった、羽入辰郎のウェーバー批判などはまさに死後解剖に等しく、折原浩の内在的な理解の試みの方が遥かに実り豊かである。

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ウィリアム・ジェイムズ 『多元的宇宙』(その1)

こういう理性主義的な絵画にくらべれば、私の奉ずる多元論的な経験論はみじめな外観しか示さない。それは、にごって混乱し無骨なものである。くっきりした輪郭にもかけていれば、絵画的な気高さもほとんどない。諸君の中で古典的な実在構成になれている人が、この多元的経験論を最初にみた場合、まったくこれを軽蔑しきって、そんな考えはわざわざ口に出して反対するにもおよばないと、いわぬばかりに肩をすぼめたとしても、無理はない。しかし、ある体系の値打ちを知るためには、しばらくの間その体系と一緒に時間をすごしてみなくてはならない。もう少しこの哲学に親しんでみれば、私の提出するプログラムに対して諸君がはじめに感じた驚きはやわらげられるかもしれない。(p.36)



太字にした「ある体系の値打ちを知るためには、しばらくの間その体系と一緒に時間をすごしてみなくてはならない」というのは、まさに同感である。私がマックス・ウェーバーの著作を読みふけっていた頃、ウェーバーから学んだことの一つはまさにこうした姿勢であった。ウェーバーの言葉で言えば、Sachlichkeitということになるだろう。対象に就くことで、その対象を内在的に理解しようと試みるとでも言おうか。

インターネットが普及し始めて比較的早い時期から私はウェブ上に自分の考えなどを綴ってきたが、ここ数年はブログの普及によって、誰もが発言をすることができ、それに対してコメントをつけたりすることができるようになった。そうした中でわかったことのひとつは、上記のような姿勢で他者の言説を理解している人間がいかに少ないか、ということである。

ブログのコメント欄などに批判になっていない非難をして難癖をつけるようなものはよく目にするし、ブログ自体の発言が誰かの発言を批判するものである場合にも、同じことが言える。私としては今年は、積極的に運動的な発言をするよりも、より冷静で「一歩引いた」立場から叙述するスタンスに戻れたら戻りたいと思っている。その意味で、テクスト批判の初歩の初歩である、上記のジェイムズの姿勢をできる限り堅持していくのが良いと思っている。

ちなみに、ジェイムズ自身の発言についてみても、ジェイムズの根本的経験論のビジョンというものは、観察者による後ろ向きの観察によって得られるものではなく、むしろ、そうすればするほど見えにくくなるものだから、読者(聞き手)はジェイムズの言うように、彼の見ているものを彼の立ち位置に立とうとすることによって見て取らなければならない。彼が見ているものは、一言で説明するだけではなかなか伝わらない類のものであるだけに、どうしても聞き手に上記のような姿勢を要求せざるを得ない面もあるように思う。



 スピノザは、最初の偉大な絶対主義者であった。彼の神に近づくことは不可能であるということは、一般にみとめられている。無限者デアルカギリニオイテの神は、神が人間精神ヲ構成スルカギリニオイテそれであるところのものとは異なっている。スピノザの哲学は、カギリニオイテということばでつくられているといわれてきたが、これは正しい。接続詞や前置詞や、副詞が、実際すべての哲学において主要な役割を演じてきた。そうして現代の観念論においては、“as”ということばや“qua”[訳注・いずれも「としての」という意味。]ということばが、形而上学的な統一を現象的な多様性と調和させるという重任をになっている。(p.37、本文で傍点の箇所は引用文では下線を付した。以下同様。)



確かにスピノザの哲学には「カギリニオイテ」が頻出していたと思う。それがある種のごまかしであることを鋭く突いている。今年のうちに、スピノザの著作を何冊かまとめて読もうと思っているので、そのときに頭の片隅にこの指摘を置いておこうと思う。



 このもっともひどい極端さにおいてしかものを考えないという習慣は、ウェルズ氏が、そのすばらしい小冊子“New worlds for old”において、社会主義に対する近頃の反対につきのべていることを、思い出させる。人間の心においてもっともありふれた欠点は、すべてのものを黒か白かにわりきってみようという傾向、即ち、中間段階をみわけることができないということである。そこで批評家達は、まず社会主義について極端な、ほとんど不可能な定義を引出すのである。社会主義は財産をほろぼす、社会主義は家庭をほろぼす等々。ウェルズ氏はつづけてこういう。この方法はいつも同じものである。社会主義者がのぞましいものとして要請するものを、無制限に欲求せられるものだと仮定する――ここで社会主義者のかわりに多元論者とよんでも同じことがいえる――、社会主義者がする提案はみな偏執狂によって実行されるのだと想像する、こうやってできた社会主義の未来図を気持ちのさだまらない、単純な心の持ち主にさし示して次のようにいう「これが社会主義だ。そうだ!そうだ!あなたにはこんなものはいらない!」――これが多元論だ、といっても同じことになる。(p.63)


この連続講義が出版されたのは1909年のことである。つまり、今からほぼ100年前である。ジェイムズの言いたい本旨とは少しだけずれるが、社会主義なり社会民主主義に反対する人間の論法が全く進歩していないことに驚かされる(笑)。

ただ、それを笑ってもいられない。ここでジェイムズが指摘している「人間の心においてもっともありふれた欠点」は、確かに今でも「ありふれたもの」であるようだからだ。それは右も左もなく妥当する。

例えば、「反ネオリベ」の側の「ネオリベ批判」にも同じことが言える部分があったりする。例えば、「ネオリベ」がどのように格差や貧困化をもたらすのかについて、その経路を分析することがないものは批判とはいえないだろう。また、ある人物の言説にネオリベを支持したり側面支援したりする可能性がある要素があるというだけで、新自由主義者呼ばわりするのも同じ。私の用語法ではそういうものは「批判」とは呼ばないのだが、反ネオリベの立場でもネオリベを批判していない(批判になっていない)ことは多々ある。(もちろん、小泉が首相の座を去り、その弊害が明らかになってきたことを背景に徐々に表面化してきた「ポピュリズム批判」の潮流についても同じである。)

今の世論やマスメディアの論調は、格差が広がっている事実を直視し、貧困化の象徴であるワーキングプアやネットカフェ難民などについてようやく取り上げてきている。そうした追い風の中だからこそ、安易に「反ネオリベ」を叫ぶのではなく、より深い切り口で問題を抉り出す必要があるのではないか。(先日メインブログに書いた累進課税推奨論は、私なりのそうした言説の一つの序論である。)

「批判になっていない反ネオリベ言説」は、反ネオリベ陣営にとって逆風が吹いている時には、それでも意味があったと思う。ただそれだけの行為でさえ、反対者がいるということを示すことができ、そのこと自体が十分意味がある行為だから。なぜなら、それは他の疑問に思っているが逆風のため声を上げられない人々に対するエンパワメントになるからである。

しかし、逆風が弱まりむしろ順風になった今こそ、庶民や理論家は、それを具体化する方法を考え、実現する方向に進めるべきであり、抽象的なレベルでとどまるべきではないと思う。

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吉川幸次郎、三好達治 『新唐詩選』

 ところで、このみじかい詩の底には、中国の詩に常に有力な、二つの感情が流れている。ひとつは、さっきのべた推移の感覚である。推移する万物のひとつとして、人間の生命も、刻刻に推移し、老いに近づいて行く。悲哀の詩はそこから生まれる。歓楽の詩もまたそこから生まれる。天地の推移は悠久であるのに反し、人間の生命は有限である。有限の時間の中を推移する生命は、その推移を重々しくせねばならぬ。推移を重々しくする道、それは推移の刻刻を、充実した重量のある時間とすることである。歓楽はその道である。富、栄誉もまた、その道である。
 もうひとつは、人間は不完全であるのに対し、自然は完全であるとする感情である。自然、ことに山川草木は、常に秩序と調和にみち、適当な行為を適当な時期に示し得る。春ともなれば、江は碧に、山は青く、花は然えつつ、そのエネルギーを十分に発散する。人間はそうはゆかない。おのれは政治家として、おのれのエネルギーを、人人に対する善意として、はたらきかけたいのに、そののぞみはいつまでも達せられない。人間も自然の一物である以上、自然のごとく秩序と調和にみちた世界を作り得るはずである。いな、人間は、自然のうちでも、最も能動的な、万物の霊長である以上、秩序と調和とを、自然の本来以上におしすすめ得るはずである。しかし実際は、そうはゆかない。能動的であるだけに、そうはゆかない。秩序と調和の源泉でありその典型である自然。その自然の選手たる地位を与えられながら、秩序と調和を失いがちな人間。両者はかくて阻隔する。この阻隔に対する悲しみ、それはひとり杜甫の詩のみならず、中国の詩のおおむねの奥を流れる普遍な感情の、また一つである。(p.7-8)


中国の詩を読む上で参考になる捉え方の枠組みである。



 杜甫が人間の心情の美しさを歌う詩人であり、李白が人間の行為の美しさを歌う詩人であるとすれば、王維は主として自然の美しさを歌う詩人である。(p.120)


それぞれの詩人に簡潔で的確なイメージを与えている。



 唐詩に限らないが、中国の詩には大きな空間長大な距離感の歌いこめられたものが多い。詩の表面にでなくともそれが背後にとり入れられて余情となっているものが甚だ多い。十中八九の詩が、そういう茫漠とした天地の寂寥感となにがしか繋がっている、密接に、親密に、殆んど修辞上の常識のような形になって繋がっているといってもいいであろうか。(p.206)


詩に限らず、山水画などもこうした感じのものが多いような気がする。



 これも唐詩に限らないが、中国の詩はいったいに、情を抒べるに当って最も景を叙するに力をつくす詩風である。(p.207)


この点は詩に限らず、中国の文化には、景というか形にこだわるところがあるように思う。

例えば、現在でも、景観のよさが売りであるような観光地に行くと、岩や鍾乳洞などの形を別の動物や龍などになぞらえて名前をつけていたりするのをよく目にする。このことも、詩に表れているような考え方と通じていると思う。

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