アヴェスターにはこう書いている?
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天児慧 『中国・アジア・日本――大国化する「巨龍」は脅威か』

 そもそも近代における日中関係史において「日本=侵略=悪、中国=抵抗=正義」という図式があり、その枠組みから外れた独自の解釈に対してしばしば「反動」といったレッテルを貼る見方はおかしい。日本では少なくとも1910年の韓国併合以降、第二次世界大戦終結までのアジアへの関わりを、結果的には「侵略」として認識することが通説的になってきているが、明治維新以降の日本の近代史までも「侵略」的な面に重点をおいて解釈することには納得いかない。日本の近代史は他方で、アジアの近代化、アジアの革命運動を触発したことも事実である。挫折はしたが清朝末の康有為らの改革に対して伊藤博文ら明治維新新政府要人たちは懸命にそのノウハウを提供している。さらに「韓国併合」や「中国侵略」のお先棒を担いだとして厳しく非難されるようになった「アジア主義者」のなかには、宮崎滔天のような孫文革命に命をささげた人たちが少なくない。日中戦争が本格化するなかでも、石橋湛山(戦後の首相の一人)のようなリベラルな人が声高に「満州放棄論」を展開しているのである。(p.39-40)


中国や韓国が日本の教科書問題を批判するスタンスは、「日本=侵略=悪、中国=抵抗=正義」という図式に一面的に拘泥している。この批判は妥当である。

もちろん、そうだからといって、日本の教科書の「自慰史観」の妥当性が維持されるわけではないが。かなり高く評価しても、中韓の批判と同位対立でしかない。事実認識の問題としては中韓の批判には一理あるから、そもそも事実認識の問題としておかしい自慰史観よりは、中韓の立場の方が学問的に見ればマシだとさえ言える。

後半の天児氏の見解はそれなりに興味深い。ただ、若干弱い。康有為の改革に手を貸しても、それが成功したかどうかが問題であり、結果が残るのと残らないのとでは評価が大きく変わるからである。それは石橋湛山の「満州放棄論」も同様である。主張を展開することと、それを実現することとは異なり、かつての日本政府が石橋湛山の論を実行したなら、かなり大きく評価されるべきだが、そうした主張があったというだけではやや弱い。また、宮崎滔天が孫文の革命に参加したのは当時の日本政府の要請だったのか、という点も重要だ。政府の政治的な行為のレベルで革命を支援したのか、そうでなく単に国籍が日本である人が協力したのか、ということでは雲泥の差がある。(私はそれらがどうだったのか十分には知らない。)

つまり、「侵略」をしたとされる場合、その責任は日本政府に帰属され、政治的には日本国籍保有者が最終的に政府に責任を果たさせる政治的な義務を負う。それに対して、日本政府自体が、アジアの革命を支援してきたのか、そうでないのか、ということは、日本政府の功罪を勘案する際の判断材料となるだろう、ということだ。



 対中経済支援はODA以外のものを含めると、内訳は以下のように膨大なものになる。79年~2005年で円借款供与=約3兆円、79年~95年のエネルギー借款(三回)=1兆7000億円、79年~05年の無償資金供与=約1500億円、二回の「黒字還流借款」=2800億円、旧日本輸出入銀行の低利・長期返済の中国向け融資約3兆円で、総計約8兆1300億円、すなわち人民元高の現時点での単純元換算でも約5685億元にまで達する。(p.43)


かなりの協力であることは確かだが、日本政府の毎年の一般会計予算の10%の規模でしかない。そう考えると意外と少ない気もする。もちろん、古い時代と今では物価が違うから、もっと大きいわけだが。

しかし、多いか少ないかは別として、やはり中国政府には中国国内でこうした活動について、きちんと報告してほしいものだとは思う。

【追記 2008.2.17】

ODAなどに関しては、次のことを付け加えておきたい。

例えば、橋・空港などがODAなどによって作られたかどうか、ということは、日本国内を見ても知らない。実際、日本にも世界銀行からの融資を受けて作られたものがあるが、そのことを私たちは普通、知らないだろう。その意味では、しばしば、日本の反中右派は「中国政府は日本からのODAを宣伝しない」と騒ぐことがあるが、それは行きすぎていると言える。

ただ、外国に対するイメージというものは、かなりの程度、政府とメディアの報じ方によって影響されるものなので、ナショナリズムが暴発しにくくするためにも、中国政府は日本政府からの援助を、国内でもう少し強調した方が良い、というのが私の考えである。



 感情論からいえば、こうした傾向こそが自然であることがわかる。すなわち対日感情の基本的な枠組みは<感情悪化一辺倒>ではなく<感情の多様化>である。そしてステレオタイプ化されていた<対日イメージの流動化>である。この点では過去の日本(人)イメージと現在の日本(人)イメージの断絶の問題にぶつからざるをえない。つまり「日本の過去」の批判〔誤解もある〕をベースにして現在を非難するというネジレに気づき始めたともいえるのである。(p.66-67)


近年の中国における、日本に対するアンビヴァレントな感情をうまく整理している。

過去の悪いイメージと現在の良いイメージをどのように結びつけたらよいのか、中国側の多くの人びとの間には戸惑いのようなものがあるように思う。

中国ではナショナル・アイデンティティが妙に強く植えつけられているから、「中華民族」とか「中国人」という想像上の共同体と個体としての自己とが混同ないし一体化した理解がなされる傾向があると感じるのだが、それが上記のディレンマを助長していると思う。



 最近の目立った動向としては、海空軍力の強化が指摘できる。米国情報によるならば、たとえばキロ級新式潜水艦八艘をロシアから購入、国内でも新型「元」級を含む十四艘を建設中、さらに移動式弾道ミサイル唐風31号が他と潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)「巨波(JL)」二型を装備中といわれ、潜水艦攻撃能力は大幅にアップしている。(p.73)


台湾、南沙諸島、尖閣諸島といった海に中国の対外的な問題が多いことが、このような空海軍を強化する要因だろう。内陸のチベットや新疆はあまり武力的には大きくないだろうしハイテクでもないし。



 要するところ、「国連安保理常任理事国入り」それ自体は、国連加盟国のあいだのきわめてシビアな政治の問題であって、拠出金が多いとか、国際貢献がどの程度だといった問題とはまったく別種のものであり、米国さえもリアルに政治的にこの問題を考えていたことを日本はしっかりと認識しておくべきであった。言い換えるならば、もっとシビアでリアルな政治駆け引きをしない限り、この問題は突破できないということなのである。(p.170-171)


日本の外交には戦略がないことに最大の問題があるが、戦術的にも全くダメだ。ここ数年の常任理事国化の動きは、ネットなどで知りうる限りの情報では、明らかにうまくいかないということが素人でもわかる状態だった。

外務省がもっとしっかりすべきなんだがなぁ。政治家は確かに選挙された代表としてある程度のビジョンを持ち、それを示すべきだが、所詮は個人である。組織の力の方が本来は大きいはずであり、恒常性を持ちうる。組織としては、地域別にセクションを分けるよりも、課題や問題ごとに適切に分担するような、柔軟性が必要なのかもしれない。



ASEANは日本がもっと大きな役割を果たすことを、中国のプレゼンスが大きくなっている今こそ望んでいるのである。「東アジア共同体論議」についても、ASEANは中国のプレゼンスの増大に対してある種の不安を抱いている。このような局面において、日本が明確にイニシアティブをとることを望む声はASEANのなかに少なくない。
 しかし日中首脳の対談がなされないなかで、中国とASEANとの関係が深まり、また中国と韓国との関係が深まる。そこに日本のプレゼンスが示されない。対照的に、六カ国協議を見てもわかるとおり、中国のプレゼンスはますます大きくなっている。こうした状況が続けば、いずれASEAN諸国の日本への失望が表出するだろう。(p.173)


ASEANとの関係というのは、日本国内ではほとんど議論されることがない。そうしたことが議論されないことが本当はおかしいのではないか。そして、議論されないから、そうした諸国が何を望んでいるのかが見えない。上記の引用文ではASEAN諸国が日本のプレゼンスを求めているとされているが、日本の中にいるとそうしたことはまず見えない。そういう盲目の状態を続けるのは非常にまずい事だといわなければならない。



 アジアにおいて日本が重要なプレゼンスを継続するということは、実は米国の対日重視を継続させる鍵でもある。そういう捉え方が必要である。アジアに対して日本が重要な影響力を持っていれば、米国は日本に対して、いろいろな形で頼りにし、アジアで米国の意思をある程度日本を通して実現できる、そういった対日重視というものの維持が可能となるだろう。
 しかし、日中の対話がなされず、日本のアジアにおけるプレゼンスが低下していけば、もうこれは日本を頼っても仕方がないと考える。すると当然、アジアでもっとも影響力が強い中国と直接交渉するしかないという議論になっていく。(p.173-174)


同意見であり、日記編のブログに概ね同じ趣旨のことを書いたことがあると思う。複雑ネットワーク研究の知見から言っても、この分析は妥当である。アメリカから直接アクセスできないノードに対して日本を通してアクセスできるならば、アメリカにとって日本は重要なパートナーということになるが、そうしたものがないならば重要性は低くなる。

実際、既に日本は見限られる方向にあり、中国がアメリカの最大のパートナーとなる方向に次第に動きつつあると私は見ている。アメリカにとって中国と日本の「重み」に決定的な差がついたとき、日本の本格的な転落が始まり、中国は東アジアでの覇権をアメリカから部分的に受け継ぐだろう。かつてイギリスからアメリカに覇権が移ったように。(もっとも、次に来る秩序は一極的な覇権は成立せず、幾つかの「地域大国」が並立する多極的な秩序になるだろうから、イギリスからアメリカへの移行とは同じではないけれども。)

それを防ぐためには、アメリカに追従するのではなく、アメリカ以外の国々との関係を構築することが鍵になるのである。
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窪徳忠 『道教の神々』

中国本土の道教信仰の現状は、戦前と少しも変わりがなくなっているといっても差し支えない。
 とくに私の注意を惹いたのは、台湾との関係であった。東海岸地区とくに福建省では、台湾の人びとの寄附によって建てられた廟や道観が多い。湄州島頂上の約14メートルの高さの媽祖の石像は、台湾の人びとの寄附によって造られた。台湾から、土地公、清水祖師、媽祖、観音などの像を捧持して、それぞれの本廟に参詣し、霊力をつけてもらって帰る人たちがかなり多い。私は香港に行くたびに必ずそんな人たちに会う。信者の往来ばかりでなく、道士たちも互いに交流している。政治経済の面では緊張が伝えられるけれども、道教など宗教の面では、事情がかなり違うようで、大へん興味ふかく感ぜられる。(p.42)


本書の最初の版は1986年1月に出版されている。基本的にこうした民間レベルの交流は持続していたらしいことがわかり興味深い。それとも主に改革開放以後のことなのだろうか。



 媽祖と通称されている天上聖母(図54)は、福建省莆田県の林愿の六女で、生まれても口をきかないので黙と名づけられたが、道士がきて道を授けられ、それから神異をあらわした。ある日、機を織っていて急に気を失ったので、母が驚いてゆり起こしたら、難船した父や兄たち全部を助けようとしたのに、そんなことをするから長兄だけは救えなかったといったなどというのは、すべて後世のつくり話だというのが、李献璋の説である。
 かれによると、十世紀の後半ごろ、莆田県に吉凶禍福を予知できるすぐれたひとりの女巫がいた。かの女は、その霊力によって、すでに生前からかなり附近の人びとの人気を集めていたが、死後かの女を信じていた人びとの手によって廟に祀られた。これが、媽祖信仰の発生である。その後、かの女への信仰がしだいに附近に拡まるにつれて、その霊験力も附け加えられ、十一世紀の前半ごろにはかなり人びとの注意をひくようになった。
 それと同時に、林氏の娘などのつくり話がほしいままに附け加えられて、信仰が拡まりだした。莆田県地区には、船員や航海業者が多かったが、かれらはかれらなりの航海守護神をもっていた。ところが、かれらのなかに媽祖信仰者がふえるとともに、その守護神と媽祖とが合体して、ついに媽祖が航海守護神とされるようになった。それからは、ますます媽祖についての伝記や伝説の内容が豊富になり、十三世紀の後半ごろまでには中国の広い範囲に信仰が及ぶようになり、各地に媽祖廟が建てられた。
 福建の人びとが海外に発展するにつれて、媽祖信仰もアジア各地に伝播していったが、ことに前にのべた鄭和の上奏以後ますます信仰がさかんになった。媽祖の侍者として、こんにち必ずその左右に祀ってある千里眼や順風耳が考えだされたのも、鄭和以後のことである。現在、日本や台湾などの媽祖信仰はそのころ伝えられた名残りである。(p.231-234)


媽祖信仰の広がりは、まさに13世紀世界システムが形成される前後の時期であり、グローバルな規模でリージョナルな交易圏が連結していった後、それが崩れていくまでの時期に相当する。

この時期に福建省あたりの人びとが華僑として東南アジア各地に広がったようだが、その共同体と媽祖信仰の共同体は、ある程度重なるものと思われる。

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カッシーラー 『シンボル形式の哲学 第三巻 認識の現象学(下)』(その2)

最終的に確定し、変わることのない絶対的与件といった意味での事実性などといったものはありはしないのであり、われわれが事実と呼ぶものは、いつもすでになんらかの仕方で理論によって方向づけられており、ある種の概念体系に照らして見られ、それによって潜在的に規定されているにちがいないのだ。(p.244)


これも明確な「観察の理論負荷性」についての言及なのでメモしておく。



 独断的な経験論も独断的な合理論もいずれも、認識のこうした活動性、こうした純粋な過程(プロツェス)-性格を正当に扱いえないことによって挫折してしまう。両者ともに、認識の真の駆動力であり、認識そのものの運動の原理である両極性を否認することによって、この過程-性格を破棄してしまうのである。対立しあう二契機をたがいに関係づけ、思考によってそれらを媒介する代わりに、むしろ一方を他方に還元しようとするのでは、この両極性が消し去られてしまうのも当然である。経験論は、構成的概念を<所与>に解消させることによってこの還元をおこない、――合理論は、逆にそれぞれの所与そのものにおいて、それが概念的に規定されているその形式だけを取り出すことによってそれをおこなう。だが、いずれのばあいにも、物理学的認識の対象領域がその対置のうちではじめて真に構築される基本的対立項が水平化されてしまうことになるのだ。二つの事象の単なる同時発生が、真に実り豊かな相関性に代わって押し出されてくるのである。そうすることによって、概念の産出性、その真の創造性も同様に見のがされてしまう。というのも、概念と経験は、たがいに競いあうことによってのみ、内に秘めた力を発揮するものだからである。(p.253-254、本文で傍点の箇所は引用文で下線を付した)


経験論と合理論をいずれもある種の還元主義として捉えている点が興味深い。

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カッシーラー 『シンボル形式の哲学 第三巻 認識の現象学(下)』(その1)

概念は一つの方程式の端緒にすぎないのであり、その解決は特定の理念的対象領域の分析なり進展する経験によって与えられるだろうと期待される。この意味では、ある概念が、精密に<定義される>はるか以前に、つまり完全に、また最終的に定義される以前に、すでに認識の領域内で活動力をもち生産的であることもありうる。というのも、概念があらかじめ仮説的に先取りしているにちがいない新たな目標へ認識を差し向けることによって、認識ということのはらむ問題を早まって沈静させたりせず、認識を不断に流動状態にとどめ置くという、概念の負っている本質的な課題の一つが、まさしくそこにあるからである。ここでもまた、概念が抽象的なものであるどころか、むしろ予見的なものであることが明らかになる。概念は単にすでに知られていることを固定し、その一般的輪郭を確定するだけではなく、知られていないさまざまな新たな結合をつねに見張っているのだ。概念は、単に経験が提供する類似性や連関を受け容れるだけではなく、新たな結合を鋳造する。概念は、経験的直観の領域の内的組織や、論理的-理念的な対象領野の内的組織を明確に浮かび上がらせんがために、繰りかえし新たに試みられなければならない自由なデッサンなのである。(p.52-53、本文で傍点の箇所は引用文で下線を付した)



『シンボル形式の哲学』では、「表情」「直観」「概念」について3つの巻にわたって論じられる。第三巻は概念を主題としているのだが、上記引用文は、本書の基本となる「概念」についてのカッシーラーの考え方を最もよく表している箇所の一つだろう。

私にとっての概念も、カッシーラーとほぼ同じような位置づけになっていると思っている。

とりわけ、概念が予見的なものであって、概念を提示することによって、それが指示し、分析しようとする内容を予示する機能について言及している点が重要である。私の場合は、そのようにして概念によって示されることによって、そのようなものとして「事実」が成立するという、概念が「事実」を作るという側面をより強調するので、カッシーラーの概念観よりさらに一歩先に進めているのだが、カッシーラーは既に1929年までにはそれに似たことに気付いていたということにはやや驚きを感じる。というのは、このような概念の積極的で能動的な側面は、主に50年代後半から60年代の科学史・科学哲学の分野で「観察の理論負荷性」が議論されるようになったあたりから、ようやく表面化してきたと言えるからである。(例えば、N.R.ハンソンが『科学的発見のパターン』を出したのが1958年である。)

また、ここでのカッシーラーの叙述で特に優れていると思うのは、概念を「繰りかえし新たに試みらねなければならない自由なデッサン」と呼んでいる点である。概念を一度描いてしまったらそれで終わりとするのではなく、常に更新し続ける必要性を強調しているのは適切である。なぜならば、現実的に存在しているものと概念によって作り出す事実とは、決して一致しないからである。それは根本的に性質を異にするものであって、前者がポイエーシスによって認識されるのに対して、概念的な事実は事後的な観察による以外には形成されないからである。そして、認識が生きたものであり続けるためには、変転する現実の中でそれに続く観察をも常に更新し続けることが必要だからである。



「対象に対する表象の関係」が構成される純粋な意味カテゴリーの固有性と特殊な意味は、そのカテゴリーの根底になんらかの存在上の規定――それが因果関係にからむ諸規定であろうが、諸事物のあいだの同等性や類似性にからむ諸規定であろうが、<全体>と<部分>の関係であろうが――をしのびこませることによっては、とうてい理解されえないのだ。ここでは、所与の事物のなんらかの性質や、すでに眼前にあるなんらかの現実のイメージに遡るのではなく、むしろ<現実>一般の定立可能性の純粋な諸条件に遡ってゆかねばならないのである。そして、これらの諸条件に純粋概念がふくまれているからこそ、またそのかぎりにおいて、思考作用はこの概念のうちで、またこの概念の力を借りて、対象に関わり、おのれに対象的意味がそなわっていると主張もできるのである。われわれが概念を厳密な論理学的意味で命題関数として捉え、それによって定義してみると、このことがきわめて明瞭に見えてくる。こうした命題関数φ(x)を使って、概念の問題の捉え方のうちにも対象の問題の捉え方のうちにも生じてくる理論的対立のすべてをそれによって示し、この対立を簡単明瞭に表現することができる。つまり、一方の感覚論的な考え方においては、概念の機能も対象の機能も、この関数に代入される変数の値に目をとめ、この値を単純に並列することによって捉えられると信じられている。そこではφが、あたかもそれ自体一つのxであるかのように、あるいは、せいぜいx1+x2+x3…といったxの単純な総和であるかのように考えられている。ところが、他方の考え方は、命題関数において結合されている二つの契機を区別することから出発する。そこでは、概念はある自立的な論理的妥当性が認められるのに対して、対象にはある自立的な<超越的>実在性が認められ、そうすることによって対象が意識の<内在的>所与から厳しく切り離される。しかし、この考え方では結局のところ、概念と対象の両者は、関数φ(x)がいわば真二つに切り分けられることによってのみ確保されうると信じられていることになる。関数φに独特の<尊厳>が認められているだけではなく、それが一つの<絶対的>な存在、つまり孤立した無制約的な存在に祭りあげられているのである。けれども、まさしくこの関係がその意味と内実とをもつのは、ほかでもない、変数の個々の値がそれとの関係で規定可能になり、また現に規定されているとみなされる当の契機が、それによって際立たされることによる。むろん、関数φとその変数の値とがまったく異なる思考のタイプに属しており、したがってそれらがたがいに還元されえないということに変わりはないけれども、しかし、このようにたがいに還元されえないということは、それらがたがいに分離可能だということを意味するわけではない。こうして、たとえば<物>という統一体は、けっして個々の現象には、たとえば物の個別的で空間的な眺めには解消されないのであり、――むしろそれも、およそありうる眺めの総体とその結合の規則とによってはじめて規定可能なのである。個々の現象一つひとつが物を<表出して(レプレゼンツィーレン)>いるのだが、それら個々の現象がいつか物と本当に一致するなどということは起こりえない。その意味では、単なる<現象>が必然的におのれ自身を越えたところを指示し、<なにものか(エトヴァス)の現象>であるということは、<批判的>観念論にとっても通用する。しかし、このなにものか(エトヴァス)は、けっしてあらたな絶対者を、存在の上での形而上学存在を意味するわけではない。というのも、表示するものと表示されるもの、現前している(プレゼント)ものと再現前化〔=表出〕された(レプレゼンツィールト)ものとがたがいに同一ではないにしても、やはり後者はつねに前者との関係においてしか、また前者は後者との関係においてしか理解可能な意味を生み出さないからである。関数が個別的な値に<当てはまる>のは、それらがたがいに関数によって表現される結合のうちにあるかぎりにおいてでしかない。個別的でばらばらなものは、それ自体連関を顧慮してのみ存立しているのであり、その連関をなんらかのかたちの一般者として――一般者ということで<概念>の一般性を考えても、<対象>の一般性を考えてもかまわない――有しているのであるが、――同様に一般者は特殊者のもとでのみおのれを示すことができ、特殊者のための秩序や規則としてのみおのれを証示し確証することができるのである。(p.89-91、本文で傍点の箇所は引用文で下線を付した)


長い引用になったが、カッシーラーの「シンボル形式」の特質について理解する上で非常にわかりやすい箇所と思われたので記録しておいた。とりわけ、命題関数を用いた概念の説明は、わかりやすい。「使える」説明だと思われる。


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西村克仁 『日本は中国でどう教えられているのか』(その2)

中国人にとっての「南京大屠殺」は単なる歴史上の知識ではなく、「中華民族」としての意識や感情の部分、さらに言えば中国人にとっての「平和」についての概念にまで浸透していると感じる。
 これをどのような形であれ捻じ曲げるのは犠牲者と「中華民族」に対する冒涜であり、同時にそれは世界平和を乱す行為につながりかねない、ということがこの事件を語るときの大前提になっている。いわば、この事件に対する中国人の感覚は日本人にとってのヒロシマ・ナガサキへのそれに近い。(p.134-135)


この認識は本書から得た最も重要なものの一つである。

この文章によって、大多数の中国の人々の感覚がどのようなものであるかについて、ある程度、私の理解は深まったように思う。

あれほどの怒りと憎しみを中国の人々に感じさせている「南京大虐殺」(中国語では本文のように「南京大屠殺」とされることが多いらしい)が、彼らの「平和」の概念と通じているということは、ある意味、意外であると同時に、言われてみれば、多少納得できるとも言える。

実際に、南京事件について中国の人が語るときの憎悪の感情を直に感じたことがあるが、「平和」という観念は私にはちょっと思いつかなかった。
ただ、
  憎悪・屈辱→二度と繰り返されてはならない→戦争・侵略への反対
という論理をつうじてならば、それが「平和」の観念と結びつくことはありうるということに、本書を読んで気付いた。

もちろん、日本を敵視させることで、政権を掌握した中国共産党の支配の正当性を確保し、「中華民族」の団結を維持する機能も存在しており、日本の側から見ると、こちらの方が遥かに大きく見えるのは確かだ。

実際、私が「南京大虐殺から喚起される中国の人々の平和の概念」を理解したとは言っても、それを是認しているわけではない。部分的には是認できるが、あまりにもその平和の概念は受動的であり、攻撃に転じる要素が強すぎるからである。

すなわち、「二度と繰り返されてはならないこと」が、戦争や虐殺ということ自体なのではなく、「中国が」侵略・攻撃されること、「中国が」辱めを受けること、だけに限定されうるし、実際、そういう面があるように見受けられる。「中国が」攻撃しないこと、侵略しないこと、「他国民を」辱めないこと、は積極的には主張されていない。そのことと「日本軍」への憎悪が結びつくことは容易いことであり、「日本軍」の観念が漠然と「日本」を指すことはありうるし、実際に一部にはある。それは外部に敵を想定して「中華民族」を団結させている側面と完全に一致している。

この意味で、「南京事件に対する中国の平和主義」はあまりに不十分であり、私から見ると批判の対象である。しかし、彼らの多くが共有する観念が大枠としてこうしたものであり、当面の間、ここから抜け出すことは考えにくいということを理解することは非常に有益だ。これを手がかりにして今後の対応の仕方を考えることができるのだから。

このことと関連して、私がしばしば感じるのは、中国の人々の発想は、何につけてもあまりに「民族」単位だということだ。知識人の書いたものもそうだし、NHKスペシャルの「激流中国」のシリーズなどに出てくる中国人の発言を見てもそうだし、もっと庶民的なレベルでもそれを感じる。

民族単位で思考することは、容易に思考の飛躍を生じさせ、無用の混乱を生じさせる。また、個人間や企業間の問題を政治化する働きもある。そのほか様々な点で難点と欠点に満ちた発想である。彼らを支配する側の人間にとっては、人々を一つの単位として纏め上げる上で便利で有用なものだが。

だから、それとは別の見方があることを伝えることからはじめることが重要ではないか、という気がしている。「民族」概念を脱構築することや、もっとわかりやすい方向としては「個」の強調という方向である。恐らく、「個」の思想の比重が中国国内の思想的な風土の中に占める割合が大きくなれば、集団的なアイデンティティへの懐疑は生じていくだろうし、そこから「民族」の観念も組み直されていく可能性があると見ている。このような「中国の人々にとって」オルタナティブなパラダイムを提示し、理解するよう促すことが、相互理解を進めていくうえで役立つのではないだろうか。(これを大々的にやることは、思想や言論が統制されているので難しいが、中国国内でそうしたものを実現させることと並行して推進するという戦略があって良いと思う。)



 先述のように、古代における契丹人の遼朝や女真人の金朝、モンゴル人の元朝、満州人の清朝は、「中華民族」による王朝として語られている。一方、日本ではこうした非漢民族による王朝は漢民族を征服して成立し、伝統的中国王朝とは異なる性格をもった「征服王朝」として教えることがあるが、こうした概念は中国の教科書には登場しない。(p.145)



中国のこうした教育の仕方は、過去には「中華民族」というアイデンティティも存在したということが示せない限り、現在の共産党の立場を過去に持ち込むアナクロニズムと言える。日本の教え方もある意味では近代西欧の理論における民族観に立脚しているフシもあり、必ずしも妥当かどうかわからないが。



 言うまでもなく日本では、教育現場に軍事を持ち込むのはある種のタブーとされており、そうした姿勢が教科書表記にも表れているように思う。一方、中国では軍事とは祖国を守る重要な手段であり、そうしたことを理解させるのも教育の目的である。両国の軍事に対する考え方が表れており、非常に興味深い。(p.158-159)



歴史教科書の叙述で、日本では個別の戦役についての記述はほとんどないのに対して、中国の教科書では個別の戦役の戦力分析や戦術的なことまで詳細に記述されている。そのことを受けてのコメント。確かに「軍事はタブー」というのは、当たっているように思う。ただ、歴史教育自体が、極度に政治化されている中国を見習う必要はないだろう。

ただ、軍事という問題をどのように教育の場で扱うべきか、また、メディアの場で扱うべきか、といった問題は日本の社会にとってなかなか重要な問題ではあると思う。

バカバカしいネット右翼や自民党の国家主義的右派のような連中がいる中では、このことにはあまり触れないという方針の方が良いような気はする。日本のナショナリズムは権力者がそれに嵌っているというのが特徴の一つで、権力者がバカだと教育の場やメディアに介入しようとするというのが、ここ数年の流れを見ていてはっきりわかることなのだから。その辺を踏まえると、戦争や軍事は自国民に限らずに(←ポイント)被害者の視点を中心として描き、伝えるというのが、基本的な方向性であるべきではないだろうか。(より多面的な認識は、発展的な場面というかより専門性の高い領域で追求されるほうが良い。)




中国の中高生は原爆投下という事実は知っていても、日本人なら誰でも教えられる広島・長崎でおこった惨状はまず知らないと言ってよい。(p.161)

どうやら生徒たちは、軍部によりコントロールされた政府が、軍部の策定した戦争計画に則って戦争を遂行したという認識を持っているようだった。(p.163)

2003年の遼寧省では「抗日戦争勝利の歴史的意義を説明せよ」という問題が出題されているが、これに対する正解は「中国は近代以来の反侵略戦争に初めて完全な勝利をおさめ、ファシズムに対する戦争に重大な貢献をした」である。この正解文は教科書内容はもちろんのこと、中国人民抗日戦争記念館の展示室入り口の「前言」とも一致し、生徒たちはこうした歴史的評価を唯一のものとして暗記している。(p.163)


原爆の被害についての無理解はアメリカの方がひどいだろうが、こうしたことは国籍に関わらずもっと知られるべきことだろう。

1つ目の文は中国側の日本側への無理解の一例だが、2つ目の文は誤解の一例である。戦術的なレベルまで個別の戦役について教えるなら、指揮系統などのことも教えるのがフェアなやり方だろう。3つ目の文は評価的な歴史観を、試験という強力な手段を通して画一的に固定化するプロセスが簡潔に示されていたので引用した。



 彼ら彼女らの文章を読んでいてはっきりわかるのは、中国政府の見解同様「現在の日本」と「過去の日本」、さらに「一般の日本人民」と「右翼分子」は頭の中で分けられているということである。だからこそ政府が「過去の過ちを認め」れば、もっと友好な関係が築けるはずなのに何故?という純粋な感情が強く表現されているように感じる。(p.180-181)


これは現在の中国で多くの人が感じていることだろうと思う。日本でも同じように感じている人は結構多いだろう。

まぁ、日本だろうが中国だろうが、最初にあげられている区別がきちんとできていない馬鹿者はいるものだが、少なくとも政治家などの公的な立場にある人物がそういうバカなことをしなければ、それほど問題は大きくならないはずである。その意味で、日本の極右政治家(と、ついでに言えば、その支持者)の言動のレベルの低さが日中やアジアの国際関係を正常に保つ上で非常に邪魔になっていると言う事ができる。



日本に対しては「歴史を正視する」のかそうでないのか、といった二者択一的な考え方をもっているように思う。(p.196)


これも傾向としてはありそうだ。この点は明らかに中国側の考え方が偏狭だと言える。価値評価と事実認識を混同して教育し、その正解を一つに定めてしまうという中国の歴史教育のやり方と、日本軍による被害を情緒に訴える形で延々と教えることの2つの要素によってこの態度は養われているように思われる。

ただ、日本の極端な歴史修正主義者の存在も、中国側が柔軟な姿勢をとりにくい背景要因になりうるし、実際になっている可能性もあり、ここでも国家主義的右派は邪魔者になっている。

基本的には、日中の政治的な関係が改善されることで、この傾向は多少は弱まるだろうが、根本的には中国共産党の一党独裁に何らかの変化がなければ、本当の意味での改善にはならないように思う。その意味では中国の人々と対する(中国政府と対峙する)とき、短期的には中国側では、こうした見方をする人が多いということは所与の要素として捉えておき、その上で行為の選択肢を選んでいくというやり方にならざるを得ないだろう。



 古代史における「中華民族の拡大と発展」、近代史の「反帝国主義・反封建勢力との闘争」、現代史の「社会主義建設への模索」は、全て「中華民族の偉大なる復興」(第三章「アヘン戦争」参照)へとつながる物語であると言ってもいい。
 それが、彼ら彼女らが言う「正しい歴史」である。残念ながら、そこで語られる日本は現代部分に至ってもなお、「靖国」や「教科書問題」「防衛費の増額」といった中国に対する脅威として語られることが多く、戦後の日本がおこなった中国への友好努力についてはほとんど語られていない。(p.201)


中国における「正しい歴史」を極めて鋭く簡潔に表現している箇所。これが十分に相対化されるのは、今のままの状況ではまず無理であり、何らかの状況が大きく変わらなければ難しいだろう。

しかし、歴史観などというものは、本来異なっていようと共存することはできるのであり、それを政治問題化さえさせなければ、それほど面倒なことはではないとも思う。政治と絡まなければより客観的なレベルで議論を重ねることができるのだから。

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西村克仁 『日本は中国でどう教えられているのか』(その1)
本書は、日本の高校の歴史の教師が、中国の歴史教育の現場に半年間、参加・見学してきた際の見聞録である。歴史問題が外交問題にまで発展する関係にある日中関係だが、相手国の人々の認識を内在的に理解するチャンスはお互いにほとんどない。そうした中にあって、本書は非常に有益な手がかりを与えてくれる良書である。

全体として、私の数少ない中国への渡航経験に照らしても、かけ離れていないため、中国の人々の発想を理解する上で、本書はとても役立ちそうだと思っている。

とはいえ、このブログはきちんとした「書評」のブログではないので、いつもの通り「読書メモ」として思ったことや気付いたことを記録していくことにする。



 中国人民抗日戦争は、近代に中国が外敵の侵入に対して抵抗して以来、初めて完全な勝利を勝ち取った民族解放戦争である。中国人民抗日戦争の勝利は中華民族が衰退から復興へと向かう重大な転換点であり、中国共産党が全国の各民族人民を団結させ民族独立・人民解放の実現へ導き、新中国建設への重要な基礎となった。(p.33-34)


これは盧溝橋近くの中国人民抗日戦争記念館の展示室入り口にある「前言」の一部である。

私が本書から読み取った限りでは、中国の歴史教育とは、基本的に「現在の中国共産党に都合が良いか悪いか」を判断基準として、個々の歴史的事実について評価を行い、その評価と客観的事実とを混合して教え、各種の応用学習を通して内面化していくところに特徴がある。(その際に「高考」という大学入試に出題することで、事実の重要度をコントロールしていることも重要である。)

Max Weberを師と仰ぎ、Wertfreiheitを(批判しながらも、その正しい部分を受け入れて)歴史認識においても基本的な方法論としている私からすると、到底受け入れられない歴史観ではある。

しかし、この一文は上記のような性質を念頭に置くと、中国共産党にとって日本を特別の敵として扱うことが持つ意味を明らかにしていると思われる点で興味深い。

つまり、「日本」という外敵は、また、日中戦争という戦争は、中国にとって復興に向かうにあたって最初に倒された敵であり、その復興と解放を担った中国共産党の支配の正当性に結びつくものであることがわかる。南京事件などが強調されるのも当然、この文脈の中でのことであると考えていいだろう。

このように捉えると、「日本人としては」中国共産党に対して反感も湧くかもしれない。しかし、そのような感情は不要であり、客観的な認識を得るためには、その感情は括弧に入れるべきである。

むしろ、上記の認識は、逆に言えば、中国共産党が支配の正当性を容易に維持できるならば、共産党はこのような歴史問題にこだわる必要がないということでもある。また、複数政党制が実現すれば、早晩、上記のような一方的で一面的な認識は消えていく、ということでもある。(共産党以外の党派から見れば、日中戦争を重要視することが共産党の価値を増やすのだとすれば、それを否定する歴史観を提示するインセンティブが働くだろう。)さらに、より現実的な方向性としては、一党独裁の状態であっても、「現在の共産党の利害状況」を「日本を敵とする認識を薄れさせるほうが得策だ」という状態にしてしまえば、負の価値を強く付加された「日中戦争における日本」という認識は後退するということだ。

感情的になると単純な反発に走りがちになる。それはかえって問題の解決を難しくするということを知るべきだろう。



 今回、見学していた高三クラスの女子生徒と話をしていたとき、「広田弘毅は日本の歴史の授業ではどのように教えているのですか?」と尋ねられたことがある。中国の歴史教育が政治と密接に関わっていることを考えれば、A級戦犯と靖国神社は彼女にとっては常識の範疇なのであろう。
 翻って日本では、政治的問題と歴史教育が関連付けられることは稀である。広田弘毅や東条英機は高校の「日本史」で教えるが、中学で教えることはない。さらに彼らが靖国神社にA級戦犯として祀られているかどうかに関しては、高校でもとくに教える必要はない。おそらく知らない高校生が大半ではないだろうか。こうした知識の積み重ねが、歴史問題をますます複雑なものにしているように思える。(p.114-115)



中国の政治化された歴史教育に対して、日本では「政治的問題と歴史教育が関連付けられることは稀」である。確かにそうだ。ただ、思うに、日本の近現代史の場合、政治的な問題になりうる事柄についての言及や判断は極力避けるという形で、中国とは逆方向に政治的な、ある種の圧力が働いているというべきだろう。

確かに、大局的な歴史認識の中において、誰が靖国神社に祀られているかということは些細なことである。その意味で、教える必要はないとは言える。学校教育以外の場で、こうした問題と触れる機会が多い方が良いのかもしれないが、それができないなら、政治的に問題になりうることは触れないということも「特定の立場」だから、そのこと(政治的に問題でありうること)を明示した上で、教えるという選択肢は「あり」だろう。

著者が言うように、日中双方の過剰な価値付加が相互の理解を妨げている。中国は歴史を政治利用しすぎであり、一部の事実は「事実」でなく「信仰箇条」になっており、日本は歴史を政治から距離をとりすぎであり、それによって「無知」の状態を作っている。「信仰箇条」も「無知」もいずれも無知の一種であり、相手を知ることとは逆である。

(ただ、歴史教育としては、政治と距離をとることは、むしろ健全であり、この方向性を大きく変える必要はないだろう。ただ、問題によっては、この原則を柔軟に適用することが必要な場合がある、かもしれない、ということだ。)

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浜下武志 『香港――アジアのネットワーク都市』(その2)

 最も特徴的なことは、中国が香港を回復することは、大きく海への出口を確保することを意味している。1842年に香港がイギリスに割譲されて以来、香港は約20年ごとに大きな変化を示してきた。1860年代には新しい商社や銀行が香港に次々と拠点を構え、当初、三代までの総督が香港の経営に意欲を持たなかったことに比較して、香港が大きく拠点としての位置を示し始める
 このようなことにも支えられて、1880年代からは、中国人社会の人口が急増する。主には出稼ぎとして、商人や、あるいは都市雑業の労働に携わる人たちが広東から移動してきたのではあるが、香港が独自の社会的な構成を示し始めるのも1880年代からである。この過程で、これまで中国の南の出口として、明清時代を通して大きな役割を果たしてきた広州あるいは広東の位置が、香港にとって代わられることになった。
 対外貿易港ということのみならず、政治的な南の入り口・出口として、歴史的に東南アジアとのつながりを持ってきた広東は、香港にその海の出口をとって代わられることになった。その結果、中国は150年間にわたり、南の海への入り口を塞がれることになった。あるいは、香港を中継して華南に経済的なチャネルは通じてはいたが、香港を経由して、直接東アジアあるいは東南アジアに対してつながりをつくるという関係はできなかった。いわば間接的な形で香港を利用することになったわけである。(p.98-99)


19世紀後半の香港の位置づけを簡潔に記している。



 このような形で香港に接近するとき、香港は東シナ海と南シナ海を結ぶ接点にあることがわかる。歴史的に見て、この香港の役割は、むしろ広州が長い間果たしてきたものであった。広州においては、海岸を北上する沿海交易と、東シナ海をまたいで、マニラ、長崎と東南アジアとが行なう交易の、その中継地でもあった。中国歴代王朝のもとで、対外経済関係によって中央財政の財源を満たす直轄地として位置づけられ、そこには中央から直接派遣される役人によって関係が管理されてきた。このことは、いわゆる海禁政策といわれる閉鎖政策は、対外関係を閉じて交易を行なわないということでは決してなく、むしろ対外交易からの利益を中央が独占しようとする重商主義政策の現れであった。その下での中央の財政政策と南の経済状況とが競争したり、対立したり、衝突したりしてきたという歴史である。(p.106-107)


海禁政策は重商主義であったという認識は重要である。これは次のような叙述に見られる認識にもつながる。

 第二に、中国における北と南との相互関係を見ると、歴史的に政治・軍事・財政上で重要な関係は、北の草原と南の海からの影響であった。北の塞防と南の海防と呼びうる領域である。北と南の地域的差異によって、華夷秩序の王権の性格、地域の性格が形作られてきた。南海に門戸を開いて財力を得、北からの侵攻を防衛することで秩序を保つ。あるいは南を閉じることによって北に対抗するという、南北の相互関係も繰り返された。南北は同時に視野に入れておくべき問題であり、この側面からも中国の地域を考えることができるだろう。(p.128)





 (5)香港と半島部東南アジアや島嶼部東南アジアに対する後背地を見る。華南から香港を経由して移民が行なわれ、半島部から島嶼部東南アジアにかけて多くの華人街や華僑ネットワークを形作った。そこではモノやカネが移動し、華僑商人が活躍する場となり、外国資本も参加し、インド商人、イスラム商人も加わって、多角的な交易ネットワークを形作った。後にヨーロッパ諸国が植民地とした地域でもあったが、ヨーロッパ商人は歴史的な華僑や印僑のネットワークを利用していたのであり、シンガポールと香港を、ベンガル湾、南シナ海、東シナ海を中継する交易・金融センターとして形作った。(p.125)


ヨーロッパも新しいものを作ったというより、既存のネットワークを利用したにすぎないという認識は重要。



 ジャーディン・マセソン商会および香港上海銀行が百数十年余りにわたり、一貫して香港を中心としてアジアにおける経済活動を維持・拡大してきた秘密はどこにあるのであろうか。それは両者ともに、中国を中心とした東アジア・東南アジアの歴史的なアジア域内経済に密着して活動してきた点にあると考えられる。
 このことは近代以降のアジア経済が、西洋の登場によって、とりわけ工業化の衝撃によって開始されたのではないことを強く示唆している。この歴史的含意は、大英帝国経済の高揚期が産業革命以降の産業資本によってではなく、航運・金融・保険などのいわゆる“見えざる貿易(invisible trade)”によって担われたという議論とも対応して、アジア域経済圏が持つ歴史性と現在性とが改めて問われていることを意味している。香港の歴史的位置の検討を通して地域経済圏を構想すること、そしてその過程において近現代の日本経済の歩みをその中で検討する視点を、香港のタイパンの歴史は物語っているかのようである。(p.187)


引用文にあるタイパン(大班)とは、広東貿易時代の洋行の経営者を指し、ここではジャーディン・マセソン商会や香港上海銀行の経営者を指す。

一つ前の引用文ではヨーロッパの勢力が東アジアや東南アジアにやってきたとき、華僑などの既存のネットワークを利用したことが指摘されたが、これらの地域内部の資本もまた、同じく、この地域内のネットワークを利用していたわけである。

構造的な要因を利用しなければ、個々のアクターは強力である状態を維持することはできない。逆に言えば、強力なアクターというのは基本的にその背景に何らかの構造的な有利さを持っている、ということだ。日本が冷戦「構造」の下で繁栄したことは一つ前のエントリーで述べたとおり。

アメリカが現在、衰退に向かいつつあることも、中国やインドが勢いを増していることにも、背景となる構造的な要因がある。これらは一体の関係であろう。

ブレトン・ウッズ体制の崩壊から金融自由化への道が再び始まり、その前段階として人やモノや情報の移動が高まり、その力が加わったことで冷戦は崩れた。それによって市場が拡大し、自由化された金融の影響力は大きくになった。国内の消費市場が大きく、労働市場も労働力が安い地域が金融資本にとっては最も有力な投資先となる。世界システムの中核部ではその分、実物を生産する力が弱まり、足元から経済が崩れていく。一部の資本家や特権階級を除き、格差が広がり、賃金が下がる。技術移転が終了するまでは、中核地域の経済はそれなりの位置を占めることができるが、半周辺から上昇してきた勢力と経済的政治的軍事的な力が拮抗するようになったときには、摩擦が避けられないだろう。何らかの形での争いが起こる。上昇する勢力が勝つことが多いだろう。そうなれば上昇速度と下降速度が加速する。日本はヨーロッパのようにリージョナルなセーフティネットを築いていない分、没落も早いだろう。

日本の没落に関して言えば、より主要な要因としては、没落しつつあるアメリカと一体となっていることである。没落しつつあるアメリカは自国の勢力を維持するために、ジュニア・パートナーである日本を様々な形で利用するであろう。この傾向は80年代以降、強まる一方である。こちらの方が没落の要因としては大きいだろう。


生き残りをかけるならば、東アジアと東南アジアの金融の盟主となることが一つの道としてあったはずである。しかし、これは今から着手しても遅いかも知れない。あとは、中国の政治情勢がどうなるかということも重要な要因となっていくであろう。もし中国が、国内の情報統制をしなくても支配の正当性を維持できるような政治構造になれば、金だけでなく人も国境を越えやすくなるからだ。

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浜下武志 『香港――アジアのネットワーク都市』(その1)

 第二次世界大戦後、民族が国家によって分断されたり、あるいは民族が制度によって分断されるという事態を経験した主な諸国は、東西ドイツ・南北ベトナム・中国・南北朝鮮であった。・・・(中略)・・・。
 翻って、これを日本の問題として捉えてみると、日本に近接する大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・中国・香港・台湾が、すべてこの“分断状況”にあった地域であることは十分に銘記する必要があろう。そして、日本が戦後五十余年にわたって一貫して享受してきた経済発展も、この分断状況すなわち周辺地域の力の分断=削減と無関係ではなかったことにも十分に注目する必要があろう。(p.8)


国としての力の分断ないし削減というよりも、国内市場の分断=縮小という方が主要な効果がはっきりするだろう。

また、こうした周囲の分断状況を作っていた背景要因は冷戦構造であることにも注意すべきであり、私の考えでは、冷戦構造においてその「西側」の中心であったアメリカにとっての東側への「前線基地」であり「防波堤」としての地政学的な位置づけが日本にはあり、そのことには――日本を経済発展させることが共産化を阻止することになるという関係によって――経済発展を国際政治的に助長するする効果があった。

単に「国家」や「民族」の分裂という捉え方には意味があるが、それだけでは認識を誤ることになる。




 日本は太平洋航路を明治初期に開設するが、明治10年代までには、たとえば香港航路などは一時中止となっていて、必ずしもこの海運業は出発から順調な動きを見せたわけではない。むしろ香港のカリフォルニア移民が1840年代以降、急速に増大し、この移民によって交易が拡大した。
 またカリフォルニアへの移民は当時のネヴァダの銀鉱や金鉱への労働力として、また鉄道敷設の労働力として移動したのであり、カリフォルニアから中国へは銀が持ち込まれた。こうして香港とカリフォルニアは移民、交易、送金のルートとして新たな繋がりを見せ始めた。とりわけ広東省台山県のアメリカ移民の歴史は古く、カリフォルニア貿易を担う商人、商店が香港の南北行に多く出現した。
 この香港・カリフォルニア関係の緊密化が、日本の太平洋航路の登場の直接間接の背景となっている。日本のいわゆる近代化政策は、決して日本がまず独自に始めたのではなく、その背景には、香港あるいは清国の対外関係の中で登場してきたさまざまな貿易、移民、金融のチャネルを、日本も追う形で進められてきたといっても過言ではない。(p.39-40)


日本の状況を理解する際にも、日本のことばかりにクローズアップしていても、うまく捉えることはできない。この香港・カリフォルニア関係の間での日本という位置づけは、そのことの良い例である。

ちなみに、現在の中国には、ファーストフードのチェーン店で「李先生 美国加州牛肉面大王」というのがある。美国とはアメリカであり、加州というのはカリフォルニア州である。牛肉面の面は日本の漢字では「麺」である。そんなわけで、李さん=アメリカカリフォルニア州の牛肉麺大王の店ってことになるのだろうか。

私は中国でこのチェーン店を見るとき、「なんで加州なんだ?」と不思議に思っていたのだが、中国の移民がカリフォルニア州に多く行っており、関係が深かったという本書の叙述から、この「李先生」もそういう移民の(子孫の)一人として、アメリカで財をなしてチェーン店を始めたのかな、と想像している。実際にどうなのかはよくわからんけど。



 1902年の日英同盟は、日本が不平等条約を撤廃し、その下で初めて西洋と結んだ対等条約であると理解されている。しかし、これをイギリス側から見ると、清仏戦争後のフランスがベトナムを拠点に雲南と華南へ勢力を拡張することに対抗しつつ、1898年に香港新界を租借して清朝と条約を結び、華南に対する足場を築いたという経過を前提として、初めて日本との条約が存在したのであって、いわば華南・香港地域をめぐる勢力関係の文脈を中心としていると言えよう。(p.45-46)


日英同盟は国際関係の中では英露の勢力争いの文脈から、東側からロシアを挟み撃ちにする形で覇権の一部を移譲されたと語られることが多いと思う――実際、この後、東アジアと東南アジアへの帝国主義的な拡張政策が行われていく――が、イギリスは同時に華南でフランスとも対峙していたことを強調したのが本文の叙述になると思う。

どちらかというとロシアの方が要因として大きいとは思うが、華南の方でもイギリスは勢力を争いをしていたということも絡めて理解する方がよさそうではある。



 ここに示された香港領事の報告は、開港以降の日本の香港に対する商業的進出の失敗を述べている。1860年代以降、三井銀行、三菱郵船、さらには半官半民の商事会社である広業商会が進出しながらも、次々と撤退した理由を、香港における清商の強勢に求めている。つまり商権が清商に独占されているという事態である。さらに、その清商が日本の商人を飛び越えて日本国内の製造業者と直結して買付けを行ない、日本商人より安価に購入している事態を発見し、もし現状を放置したならば、商権のみならず通商の利益を獲得できないと嘆じている。そして「国益を外人に摂取されている」とすら述べている。
 いま仮に前後の脈絡を抜いて、この一文を明治前半期のものという条件のみで見たならば、ここにいう国益とは西洋に対して主張されるべき日本の国益であり、外国とは西洋商人を指していたと思われる。とりわけ十九世紀末に至る条約改正交渉の過程で主張された基本的内容であったと言えるであろう。しかしここでは、国益は清国に対して主張されているのであり、外人とは清国商人を意味しているのである。
 ここに見られる同時代人の中国認識は、ややもすれば日本の直線的な拡張像に陥りがちな現在の日本近代史像あるいは対中国関係史像とは異なり、香港を介した中国の日本に対する商業的圧力を強調するものとなっている。この点は、近代日中経済関係史の理解についてのみならず、日本の近代化を西洋化として方向づけた動機が対中国関係の中から生じたのではないかという、近代化の「動機」を理解するための手かがりを与えてくれるだろう。そしてさらに、アジアとヨーロッパとの関係が、アジア内部の関係を媒介として形作られているというアジア内部の紐帯の存在に留意せねばならないことも示していよう。(p.78-79)


当時の日本で目指すべきモデルとして西欧のモデルが用いられたことは確かだろうが、日本は単独で自律的に存在しているものではないのだから、日本が組み込まれた周辺との関係が西欧化を目指す中でも様々なレベルで影響していたであろうことは想像に難くない。

なお、清の商人に日本の商人が負けて香港の市場から撤退を余儀なくされるような状態だったという認識は、「西洋化に成功したとされる日本」と「西洋化に失敗したとされる中国」を単純に明暗を分けて論じる、後の時代の経済力を過去に持ち込んでしまうことで生じた単純な論じ方に対して批判的になるきっかけを与える事例ではある。

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王柯 『多民族国家 中国』

 世界にかつて複数の古代文化があった。しかし中華文化を除けば、ほとんどの古代文化は消滅した。これらの消滅した文化に比べ、中華文化は今日もまだ旺盛な生命力をもつだけではなく、その地理的空間もかつての「中原」から、十数倍にも拡大した。つまり、中華文化は長い歴史のなかで次第に衰退したのではなく、逆にますます周辺の人々を引き込み、勢いを伸ばしてきたのであった。しかしこの基本的な事実に関して、特に中国以外において多くの研究者は完全に目をつむり、中華が夷狄に対して差別的・搾取的であると一方的に批判してきた。確かに、そのような議論は「市場」をもっているが、しかし歴史的に見れば、その議論は全く説得力をもたない。
 歴史上においてなぜ周辺の人々が数多く中華文化に引き込まれたのか。いままでの研究は、中華文化が強い影響力と求心力をもつと述べることにとどまり、なぜ強い影響力と求心力をもっているのか、という核心的な問題に答えなかった。中華文化が勢いを保ってきた理由は、歴史上において周辺の人々が次から次へと中華文化に引き込まれたことにあった。そして歴史上において周辺の人々が数多く中華文化に引き込まれた理由は、「中華文化」が結局後に「中国」地域に入ってきた異民族出身者によって作られたという性質によるものであった。(p.22)


「中華」というアイデンティティには、他者に対して排除する場合と他者を取り込む場合とがあることはよく指摘されるし、このブログでも以前、少し触れた。

上記の引用文の最初の段落の指摘(「中華文化」が他の古代文明とは違って古代から続いていること、そのことを研究者が無視していること)はなかなか面白い。

前者は「中華文化」の自己同一性が維持されていることを前提している点で疑義がある。王朝の継起と文化の継承とが混同されているフシもある。が、今はその問題は掘り下げない。

後段は「中華」のようなアイデンティティが外部から来た他者によって作られたということであり、その外部からの侵略者が中原を支配するために、その住民の中にある意味では取り込まれる必要があったために、中華アイデンティティは他者を取り込むことができるイデオロギーになった、ということらしい。

確かにそういう面はあるかも知れない。しかし、どのようなアイデンティティであっても、実は排除と取り込みの二面は必ず持つのである。その意味で、中華のアイデンティティに特有の要素というのは実はそれほど多くない。むしろ、より重要なのはイデオロギーの面ではなく、支配の体制であろう。中国では古くから大帝国が幾つもできているが、その広大な領域への支配が現実的に可能だったことが、「異民族」を取り込む必要性を生じさせ、それに合わせて支配の正当性を確保できる理論構成が考えられたのではなかろうか。




 「中華」が一つの用語として出現したのは、南北朝の時代(439-589)であった。それは、「中国」と「華夏」との複合語であり、本来「中国」という地域と同地域の農業社会を基礎に誕生した政治文化、という二つの要素を備える共同体の概念であった。(p.42)


歴史的事実としてメモしておく。




 中央政府は1950年から52年までに八つの防疫と医療チームを直接派遣したが、各地方政府もあわせると40の医療チームを少数民族地域に派遣し、「少数民族」を対象に無料で診療をおこない、51年の1年間に、内モンゴル、青海、新疆だけでも118の病院、衛生院を建設した。(p.62)


先日中国に行ってきた際、内モンゴルのフフホト(呼和浩特)の近くに住んでいる人と話をした。そのとき、ガイドブックでフフホトのページを見ながらいろいろ話したのだが、そのとき、フフホト市の地図を見ていて妙に病院が多いな、と気付いた。そのことの理由はどうやら、この中国の少数民族政策の一環なのではないか、と思い始めた。

近い将来、フフホトにも行ってくるつもりなので、その際には、この仮説を検証できたら面白いと思っている。




 帝国主義による周辺の少数民族地域への侵略は、チベットのように単に現地をみずからの影響下に入れる目的に基づくものばかりでなく、雲南のように中国内地に進出する足がかりを作るためのものもあった。しかしいずれにせよ、各帝国主義国家が競って中国に進出する近代に、周辺の少数民族地域が、中国を帝国主義の直接侵略から守る障壁や緩衝地的役割を果たしたのは確かである。(p.126)


こうした障壁や緩衝地帯となるというパターンは恐らく中国以外でも結構あったのではないだろうか。今後、注目してチェックしてみたい。



 近代国民国家の理論は、事実上民族の独立を煽り、一民族一国家という国家体制に正当性を与えるシステムである。そのため、中国の近代史上で民族が独立して自分の民族国家を建設する動きがあっても不思議なことではなかった。しかしそれと同時に指摘すべきは、その多くの場合、民族独立運動が大国政治の道具にされてきたという事実である。そして、国民国家の理論を唱えてきた欧米諸国は、事実上いずれも多民族国家のままなのである。(p.140)


独立運動だけでなく、複数の政治勢力が一国の中で争っている状況は、容易に大国の介入を許す傾向がある。また、欧米で国民国家の理論が作られたにも関わらず、そして、その理論を受け入れることを他の地域にも促してきたにもかかわらず、「一民族一国家」となっていないと批判している。

しかし、国際政治上のあるいは世界経済におけいて、その国の勢力が大きければ大きいほど、「多民族」であっても統合が維持しやすいと認識する必要があるだろう。個人レベルで見ても、それだけその国の国籍をもつことのメリットが大きくなるからであり、また、よりマクロに見ても他国からの干渉を受けにくい、干渉への抵抗力も高いからである。

さらに、ヘゲモニーを握るほど一つの国が強力になれば、そこは人種の坩堝と化す。歴史的に見て、オランダ、イギリス、アメリカのいずれも他の地域から多くの移民を受け入れて「自由」を売り物にした。デカルトがオランダに住んだのも偶然ではないし、ナチス・ドイツから多くの亡命者が出たとき、多くの知識人や著名人がイギリスやアメリカに行ったのも偶然ではない。

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ポール・R・シーリィ 『あなたもいままでの10倍速く本が読める 常識を覆す速読術「フォトリーディング」』

 能動的で、目的意識を持ち、探究心にあふれ、集中している――それが最高のリーディングです。(p.44)

 あまりに多くの人たちが、行く先の定まらないまま旅に出てしまいます。どこへ行きたいのかわからないまま、「本を読む」という旅を始めてしまうのです。
 読んでいるものから何も得るものがないとき、私は自分にこう質問します。
 「目的は何だ?」
 そんなときはいつも決まって、答が出てきません。目的がないと、本を読むことは、受身の活動になります。目的なしにテレビを眺めているのと同じで、多くの場合、時間の無駄となってしまうのです。
 目的を持つことは、結果的に、時間をうまく使うことになります。(p.65)

 何かを読むときは、その都度、必ず目的を明確にしましょう。この習慣は集中力を高めます。目的をはっきりさせると、脳は効率よく働きはじめます。(p.66)

学習とは、積極的な活動です。そして活動こそが才能の原動力になります。受け身になったとき、私たちの才能は輝きをなくしてしまうのです。
 テレビは、私たちを受け身にします。テレビは私たちを、ひたすら待機させます。(p.233)

 優れた読み手は、目的意識を持ち、常に著者に質問を投げかけます。そして読書の間、絶えず高い集中力を維持します。(p.233)



くどいほど同じ内容を引用したが、上で主張されているようなことは、フォトリーディングのような速読であろうと精読であろうと、どちらの読み方をするにしても大切なことである。

確かに、あてもなく読んだり、旅に出たりして、そこで「意外な出来事」が起こるということは確かにあり、目的の明確化がすべてではないとは思うが、私のように多読を続けていると忘れがちなことなので、自戒の意味もこめて記録しておきたい。

目的を明確にすることによって、集中した状態で、能動的に学習することができる。能動的だから質問が絶えず出てくる。上記の諸要素は全て繋がっている。こうありたいものだ。




さて、「学習とは、積極的な活動です。そして活動こそが才能の原動力になります。受け身になったとき、私たちの才能は輝きをなくしてしまうのです」と著者は言うが、このことは政治の場で教育が語られるときに、いつも置き去りにされる点である。

例えば、先日の東国原知事の「徴兵制」発言も――反発を受けて撤回したにせよ――集団的な行動を強制することで、上からの命令に従順に従うタイプの「学習」をさせ、それによって「道徳観」なるものが改善されるという筋道になっていた。

教育再生会議でも、基本的に「徳育」という名で道徳教育をしようとしているらしいが、そこでは、「教育」とはナショナル・アイデンティティを強化するための「規範」を押し付ける(刷り込む)ことである、と考えられているフシがある。

こうした「上から(強制的に)与える」類の「教育」は、学習者の「積極的な活動」ではありえない。これならむしろ、「ゆとり教育」の方が、上記のような国家主義者・新保守主義者たちの道徳強制的「教育」論よりはまだマシであろう。

しかし、ゆとり教育に欠けているのは次の点である。

すなわち、ゆとり教育では、上から教えることを詰め込んでいくとによって、生徒たちが受け身になる危険を回避するために詰め込む量や時間を減らす。確かにそのことによって、生徒たちを解放することにはなったかも知れない。しかし、単に重圧から解き放つだけの解放libertyでは、まだ積極的・能動的な意欲を喚起することはできない、という点である。

解放すなわちlibertyとは「~からの自由」であって、能動的・積極的な「~への自由」すなわちfreedomではない。積極的・能動的な「~への自由」には、常に目指すべき方向性が明確になっていることが必要であり、端的に言えば、目的が明確であることが望ましいわけである。だから、子どもに本当に良い教育を受けさせたいと思うならば、子ども達に無理のない形で、自ら目的を設定するように促すような環境を整える必要がある。

学ぼうとする意欲や目的。それは人間同士の関係から生まれる。教師と生徒との関係が学習の場では大きな人間関係であり、もちろん子ども達同士の関係も重要であり、また、親子の関係も捨ててはおけない。それに対して、生徒が一人で自発的に明確な目標を設定して学習することは、ごく例外的な事例や限定的な問題を除けばないだろう。(このような現象が、何もせずに広範に見られるなら、学校など不要である…。)だから、こうした人間同士の関係性を深める学習機会を積極的に設けることが必要であり、また、それを阻害する環境を取り除くことが必要である。

このような観点から見ると、教師と子どもの人間関係を強化するために、教師1人あたりが受け持つ生徒数を減らすこと(つまり、教師の数を増やして1クラスあたりの生徒数を減らすこと)は望ましい方向だと言える。

また、生徒同士にコミュニケーションを促す授業の形式、例えば、グループで学習し、その中で教えあったり、グループに特定の課題を与え、それを自分たちで調べてまとめたことを発表させたりする、というような授業のやり方の導入など、自由な授業形式を教師が選択できることも望ましいだろう。現場や教育学関係の場には、こうした事例は多くある。学校内部の指揮系統のヒエラルヒーを強化するのではなく、学校内での教師同士の情報共有のための時間的労力的なゆとりや、(成果主義ではなく)平等で安定的な待遇などといったことも、十分とはいえなくても望ましい方向だと言える。

さらに、親と子の関係もかなり重要であることも教育に関係する学問の研究ですでに明らかになっている。例えば、親に経済力がなく、子どもを高校に行かせられるかどうかということすら怪しい状態では、親自身が子どもの教育の成果に対する期待が低くなりがちである。親から期待されなければ、子どもも期待に応えようという意欲も湧かない。(一般論としては、過剰な期待も困りものだが、貧困世帯では期待の低さの方が問題であろう。)こういった具合でマイナス方向のスパイラルに陥ったり、また、親自身の教育水準が低いと、親の価値観の問題として勉強に対する価値付けが低くなる傾向が見られ、その低い評価が子どもの勉強への意味づけを阻害したりする。このあたりの話は、この研究なんかが詳しい

親と子の関係に学校や教師が直に介入するのは問題があるとしても、多少なりとも親を啓蒙するような活動を、学校の人的資源を用いて行うことも考えるに値するのではないか。そして、こうした課外活動的な事をするには、現状では、親だけでなく教師にとって時間が足りなすぎる。忙しすぎるのだ。それを(教師や学校に配置されるカウンセラーの人員増などで)軽減することが必要になる。

もちろん、より具体的な提言が必要だが、必要条件として、教育の現場に関わる人間の数をある程度増やし、彼らの共同的かつ協同的な関係性を確保できるような労働環境を、望ましい条件として描くことができる。もちろん、もっと積極的な要素も必要になるのだが。

と、まぁ、本の内容を少し離れて長々と書いてきたのだが、ここで私が言いたいことは次のことである。

「徴兵制」や「道徳教育」は強制的・強権的な思想に基づく。
「ゆとり教育」はliberty(~からの自由)の思想に基づく。
必要なのはfreedom(~への自由)の思想に基づく教育である。


こんなところだ。

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荻野純一、伊藤まみ、柳木昭信、久米美由紀、邸景一 『広州・マカオ・広東省 中国近代史の足跡をたどる』

 大航海時代にスペインとともに世界の海を制覇したポルトガルは、ともすれば武力を背景に世界制覇をしたと思われがちである。しかし、実際にはアステカ帝国やインカ帝国を滅ぼしたスペインとは、かなり違った形での世界進出であった。あくまで平和的な手段での交易を求め、武力は最終手段に過ぎなかった。
 ・・・(中略)・・・。大航海時代も内陸深く進攻したスペインに対して、ポルトガルはあくまで交易に必要な港を確保することに主眼を置いた海外進出であった。・・・(中略)・・・。
 だから、進出先でもいたって控えめである。マレー半島のマラッカには未だにポルトガル人居住区が残っており、ポルトガル人の子孫がひっそりと暮らしている。マレー半島では宗主権をオランダ、続いてイギリスに奪われた国の末裔だからと最初は思った。しかし、マカオを何度か訪れてみて、これはポルトガル人の国民性にあるではないのかという気がしてきた。中国への返還直前でもマカオに住むポルトガル人が、植民地の支配者としてわがもの顔に振る舞っていたわけではなく、地元に驚くほど同化していた。中国系の住民が経済的にも力をつけるようになった数十年前以前に、ユニオン・ジャックの旗の下でイギリス人が闊歩していた香港とは対照的な光景であった。(p.146-147)


確かに、相対的にはポルトガルの進出は平和的だったと言えるのかも知れない。ただ、それをもってあまり美化しすぎることには注意が必要だろう。

なお、「国民性」なる怪しげな性質に因果帰属するのは明らかに不当だろう。例えば、400年前の「ポルトガル人」と現在の「ポルトガル人」に同じ性質を帰することが仮にできたとしても、それを具体化してみると驚くほど貧困な内容にならざるを得ないはずである。さらに言えば、4000年前の「ポルトガル人」(そんな奴はいないが)はどうなんだ?って話にもなる。

つまり、「ポルトガル人」が持つ特定の性質としての「国民性」が歴史の途中から現れたものだとすれば、それはいつなのか?って話になる。国民国家としてのポルトガルが成立したとき?それはいつなのか?そういう時代区分的な話になると、ある程度の定説があっても、論争は絶えないはずだ。その理由の一つは何をもって「ポルトガル」なり「国民国家」が成立したと見なすかによって区分する時期や性質が変わってしまうからだ。その上、こうした規定によって「ポルトガル人の国民性」なるものの内容についても、人によって(依拠する「理論」によって)別々の性質が挙げられることになる。

まぁ、細かい議論はここでするつもりはないが、一つ言えることは、一部の(結構多いか?)人たちによって「国民性」が原因であると説明されることは、ほぼ間違いなく「もっと経験的なレベルで観察や測定が可能な現象に引き落として説明できる」ということだ。そのために必要な知識を持たない人たちが「国民性」という言葉を使って説明をごまかすのである。(この言葉を使わなくても、例えば、「中国人は●●だ」とか「韓国人は▲▲だ」というような性格規定をして、それをもって物事の説明するのは同じことである。基本的に、この場合の●●や▲▲は「国民性」と言い換え可能だからだ。)

ちなみに、これが「ごまかし」であるのは、ある現象を「国民性」で説明した場合、ある「国民」がその「国民性」をもつ原因の説明も必要なのに、その言葉で説明を終えてしまうからである。これは「地面が濡れている」という現象を説明するときに、その原因を「雨が降ったから」と説明し、どうして雨が降ったのか?と問うた場合に、それを「雨の神様が降らせた」と説明するようなものだ。つまり、因果系列による説明に対して「性質の異なる概念」を挟んで説明したことにしてしまっているのである。(「地面が濡れている」←「雨が降った」←「雨の神様が降らせた」という系列の左の矢印と右の矢印では原理的に異なる種類の説明なのに、それを混在させて説明したことにしてしまっているワケである。「国民性」をつかって何かを説明するというのは、これと同じようなものである。)



 十七世紀にマカオに事務所を携えたイギリス東インド会社は、十八世紀中頃になってカーサ庭園の敷地を借り、ここに船荷監督委員会本部を設けた。広州のファクトリーが前線部隊とすれば、ここが東インド会社の対中貿易の前線司令部になっていた。
 ところで、当時のポルトガル本国はすでに事実上、イギリス傘下の国であった。ポルトガルにとって隣国スペインの度重なる干渉を排除してくれたのは、いつもイギリス軍であった。しかし、その見返りは重かった。十七世紀後半以降のポルトガルは経済的にイギリスの属国のようになってしまう。それを決定づけたのが、1807年のフランス・ナポレオン軍のポルトガル侵攻であった。ポルトガル王室はイギリス海軍に護衛されてブラジルに遷都する。それまで文字通りドル箱としてポルトガルの命脈を保ち続けていたブラジルで採掘した金は、これを契機にして、そのほとんどがイギリスへと流れていくようになる。七つの海を支配したイギリス経済を支えた金本位制は、このブラジルから運ばれてくる金があったから可能になったという指摘すらある。(p.173-176)



私は、ポルトガルにはこれまであまり注目してこなかったので、ブラジルの金にもあまり注目したことはなかった。A.G.フランクがインドは金を飲み込む坩堝だというようなことを言っていたが、それと繋がっているように思われる。


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加藤博 『イスラーム世界の危機と改革』

 バーブ教徒の反乱は、イラン民衆の不満を背景とした広範な政治運動であったが、最後には、異端的な宗教運動として終わった。これにたいして、民衆の不満や反発をイラン民族主義の高揚として収斂させた政治運動と評価され、それゆえに、現在の近代イラン史研究において、イラン民族主義運動の起点として位置づけられているのが、1891年から翌年にかけてのタバコ・ボイコット運動である。
 1890年、シャー(国王)は、イギリス人にたいし期間を50年として、すでに大衆嗜好品となっていた水ぎせるにかんする一切の専売権を与えた。この事実が伝わるや、バーザール商人やウラマーを中心に、一般民衆を巻き込んだ全国的な反対運動が発生した。その結果、シャーは、九カ月後、この利権賦与を撤回せざるをえなくなる。
 このタバコ・ボイコット運動は、イスラームの宗教指導者であるウラマーが主導的な役割をはたしたこと、伝統的なバーザール商人が運動の主体となった点などにおいて、1979年のホメイニー師を指導者とするイラン・イスラーム革命にまで続く、イランの政治運動の一つの原型をつくった。
 もっとも、この運動によって実現したタバコ専売の利権撤回によって、事態が改善されたわけではなかった。逆に、この利権撤回がイランの列強にたいする一層の従属化をもたらした。利権の回収にあたって、イラン政府は多額の借款を受け入れたが、それが契機となって、イラン財政が事実上、イギリスの支配下におかれることになったからである。こうして、対外的にはイギリスとロシアのいいなりになり、対内的には専制支配を強めるカージャール朝にたいして批判が高まった。(p.60-62)


 逆説的な帰結が導かれた点は興味深い。政府間の力関係が大きく違う場合、どのように転んでも強い側は事を有利に運ぶことができる傾向がある。



 前近代のイスラーム世界における経済の繁栄は、高度な灌漑技術によって可能となった農業の高い生産性のほか、この世界がアジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸の要に位置していたという地理的優位から、当時存在していたいくつもの交易圏の結節点として機能したことによってもたらされた。・・・(中略)・・・。
 また、イスラーム世界において、基幹交易路はメッカ、メディナへの巡礼路でもあった。そのため、イスラーム世界の政治権力は経済的のみならず、宗教的な意味からも交易路の治安に意を用いなければならなかった。こうして形成された広大な流通空間があったればこそ、後述するような、イスラーム教徒の網の目のように張りめぐらされたネットワークも可能となったのである。
 つまり、イスラーム社会は高度に都市型の社会であった。前近代をつうじて、支配階層は都市に居住しつづけた。そのため、各地の地域社会は、経済的にも政治的にも求心力のある都市を核にして形成された。
 しかし、このことは同時に、イスラーム世界に、歴史的事件に左右されやすいという構造的な脆弱さをもたらすことにもなった。というのは、農耕、牧畜は気候の変化、塩害などの長期的・突発的な自然条件の破局を除けば、少なくとも短中期的には、その経済活動を大きな破綻なしに継続しうるのにたいして、交易の盛衰は、それが狭い経済生活をこえた政治事情など、広範な生活諸条件に立脚しているがゆえに、容易に歴史的事件の勃発によって左右されるからである。
 実際、イスラーム世界の歴史をつうじて、交易路の変化と王朝、都市の盛衰とのあいだに高い相関性を観察できる。王朝の中心地の移動は基幹交易路の変化をもたらすのみならず、技術、文化の根こそぎの移植をさえ意味した。たとえば、1517年、オスマン帝国がマムルーク朝を滅亡させ、エジプトを征服したさい、それまでのカイロの繁栄を支えていた多くの職人、文化人、芸人がイスタンブルに連れていかれ、技術とイスラーム文化の粋がオスマン帝国の首都に移植された。(p.69-72)


高度に発達した都市のネットワークによってイスラーム世界は成り立っていた(いる)というところまでは、まぁ、常識というところだろう。(ムスリムを「砂漠の民」などと呼ぶのは、この地域についてほどんと何も知らない人だろう。)むしろ、面白いのは、都市のネットワークによって成り立っているがゆえに、ある種の脆弱性があったという指摘である。

ハブの状態が変わることによって、ネットワークには大きな影響が及ぶ。その意味での不安定さはあると言えそうだ。ただ、時と場合によっては、それはダイナミズムの源泉でもあるのではないか、という気もする。

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