アヴェスターにはこう書いている?
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カッシーラー 『シンボル形式の哲学 第三巻 認識の現象学(上)』

ある意識内容がおのれ自身を表現するだけではなく、ある他の内容をも表現しようとするばあい、あるいはそれが直接現前していないような内容の「代理」をしようと試みるばあいにはじめて、意識全体の諸項間にある相関関係――つまり、その続きぐあいが間接的なものになればなるほど、ある項を誤って別の項とみなしたり、「それをとりちがえ」たりすることにもなりかねないようなそうした相関関係――が生じてくるのである。してみれば、こうした現象は単純な感覚の領域にではなく、判断の領域に属するものなのだ。そして、むろん判断は――たとえなんらかの感性的な所与を単に肯定したり確認したりするだけに甘んじているように思われるそのもっとも単純な形式においてさえ――、それがもはや単純な現実存在の圏域にではなく、記号の圏域に生きているというまさにそのことによって、感性的所与とは区別される。われわれは、判断に身をゆだねるやいなや、事物そのものではなく、その代理のシンボルを操作するあの「抽象的」思考の呪縛下にふたたび身を置くことになる。(p.21、本文で傍点の箇所は引用文で下線を付した)



ポイエーシスにおける感覚と反省的な観察者の認識との相違をかなりいいところまで捉えている。ここで「感性的所与」を受け取っている認識作用そのものに、動的で生成的な性格があることを正しく捉え、さらにカッシーラーが「判断」の領域に対応する観察者の認識が、その「感性的所与」を受け取っているシステムの作動の帰結のひとつとして現れているという関係を明確に示しているならば、かなりの程度(完全にとは言わないが)、私の認識論と重なるのではないだろうか。



 ここでもまた知覚の病理学は、空間の純粋な現象学がゆきつくもっとも重要な成果の一つを裏づけてくれる。というのも、空間の現象学もまた単なる行動空間と純粋な表示空間とが違うということを、繰り返し意識させられているからである。(p.472)



この行動空間と表示空間という概念は、利用価値がありそうだ。(カッシーラーがここで使っている意味とは同じでないとしても。)今後、この概念を取り入れることを検討したい。

ただ、この引用文の箇所からもわかることは、カッシーラーはどちらかというと具体的でフィジカルなレベルよりも、セマンティカルな、意味論的なものに価値を置いているように思う。アプローチの向きと出発点が私の今の立場とは逆なのだと思う。

恐らくこれはカッシーラーが(観念・思考という方向での一元論への志向が強い)マールブルク学派から出ていることや、当時のドイツの哲学(認識論)の言論空間(実証的な科学が扱ってしまう「行為」よりも、意識や観念・主観性のようなものに関心がもたれた)の中で過ごしていたことによるのだろう。

だから、行為というかシステムの作動が見えにくいのだろう。しかし、20世紀半ばまでの哲学者のうちで、(ベルクソンに次いで?)カッシーラーはもっともこの点をうまく捉えている者の一人だと思う。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

増田直紀、今野紀雄 『複雑ネットワークの科学』

 実は、ミルグラムは心理学者として6次の隔たりの他にもうひとつ大きな成果を世に残した。それは「服従の心理」についてである。彼は、人が権威からの命令に容易に服従してしまうことを実験的に示した。実験のデザインはやや衝撃的だ。図2.8のように、自由意志で集められた被験者(b)は、指示を与える実験者(a)とサクラの生徒(c)と共に部屋に入る。被験者は、実験者とサクラがつるんでいることは知らない。被験者は、単語を覚える簡単な課題を生徒にやらせる。ここまでは何ともないが、被験者は、生徒が間違えると電気ショックを与えるように指示される。罰の強さは15~450ボルトで調節できて、生徒が誤答するたびに徐々に強くすることになっている。450ボルトは命が危ないレベルで、そこに到達する前に被験者は「本当にいいのですか?」、「もうやめましょう」などと実験者にいう。ところが、「大丈夫です。何か起こったときの責任は私にありますから」という実験者の言質によって、生徒が悶絶するのを片目に被験者の多くが450ボルトまで出してしまう。ここで、実験者が権威あるミルグラム大学教授のお墨つきをもらった人物だといことがミソだ。ミルグラムは、役割を交代する、実験者を2人にするなど色々な対照実験も行った。興味深いことに、ただの人が実験者の役割になったり、権威ある人が罰を受ける立場になったりすると服従効果は激減する。
 本当は、サクラは痛がる演技をしているだけで電気ショックを受けてはいない。それにしても、この実験結果は、人間が本質的に権威に弱いことを示すものとして注目された。権威とは、社会的地位の高い人や上司、先生、親など上下関係が規定されているときの命令する側ということだ。
 研究の背景には第二次世界大戦のナチスによるユダヤ人迫害、ベトナム戦争などがある。この実験は通称アイヒマン実験と呼ばれている。アドルフ・アイヒマンは、ナチスが行ったユダヤ人600万人虐殺の総責任者だ。ミルグラムは、戦争中の兵士の多くは上から命令されたことをただやっている、という心理状態にあるらしいことに注目した。権威の命令によって人はどれだけでも残虐になれる、という人間の恐ろしい側面を照らし出したわけだ。(p.30-31)



有名な実験だが、多くの人にとって知る価値があると思うので、記録しておきたい。

この実験からは、例えば、南京事件や沖縄の集団自決のようなケースにおいて、公的な命令であるかどうかに関わらず、兵士にとっての上官や一般市民にとっての軍人のような「権威ある者によって指示されたこと」は行われやすいという論理的な帰結が得られる(★注)。

つまり、例えば、手榴弾などを渡された沖縄の住民にしても、「軍隊という権威ある(逆らいがたい)集団に属し、さらに、武器を持ち、その合法的行使さえも可能であるという事実によって、優越的な地位にある人間」から命令ないし指示されたことには、「服従の心理」が働きやすい、といういうことである。

もちろん、公式な文書での命令が残っているかないかに関わらず――むしろ、沖縄の住民側に対して事実上の心理的プレッシャーがあったかどうかが問題――である。これはむしろ、文書資料ではなく、証言によって「確からしさ」が決まることである。

さらに付け加えると、歴史学は文書(や物理的な証拠)だけを史料とするものではないだろう。例えば、中央アジアの伝承文学などは文章ではなく、口頭で伝承されているものであるが――もちろん、すでに今は研究の結果、テクストになっているけれども――歴史学の史料として使われる。歴史学者はそれらを聞き取り、復元・再構成し、それらの文学がどの時代のどういった事柄を反映しているのかを確定したりしている。


(★注) なお、この点を否定したい者は、アイヒマン実験を別個の実験的ないし実証的な根拠に基づいて批判することで、自らの主張を基礎付ける事実を提示した上で、歴史的に何が起こったのかという事実を明示し、その「確からしさ」が私の提示した論理の「確からしさ」よりも上回ることを示すべきであろう。

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『世界』2007年11月号(その2)
田岡俊次 「「給油をやめると日米同盟は危うい」は本当か?」より

まず、安倍の辞任についての見方は「なるほど」という感じである。

 だが、この意味不明の辞任声明も「私がいることが」の後に「公明党との関係上」という語句を挿入すると論旨がつながる。公明党の姿勢こそが、11月1日に期限切れとなる通称「テロ対策特別措置法」(01年11月2日制定、当初は二年の時限立法、三回延長した)を延長するにしても、あるいは別個に洋上給油を可能とする新法を作るにしても決定的重要性を持っているのだ。
 ・・・(中略)・・・。衆議院では480議席中、自民305、公明31議席だから三分の二を得るには公明党の賛成(あるいは欠席)が不可欠となり、同党は「嬉しくないキャスティング・ヴォート」を握らされそうな立場に立っていた。
 ・・・(中略)・・・
 安倍氏が辞任する前日、9月11日夜10時から二時間余、都内のホテルで与謝野馨官房長官、麻生太郎自民党幹事長、北川雄一公明党幹事長らが、洋上給油を可能とする新法について協議したが、公明党側はそれが参議院で否決された場合、衆議院での再可決には協力しがたい、との態度を示したようだ。・・・(中略)・・・。安倍氏は米、英などアフガニスタン攻撃への参戦国(およびその後の「国際治安支援部隊」参加国の一部)からの洋上給油継続の要請と、与野党逆転の参議院との板挟みとなり、頼みの綱の公明党も再可決に難色を示したため、もはや「詰み」の形成に陥っていた。生来小心で緊張すると神経性下痢に悩まされる安倍氏は、この絶望的状況の中で体調がさらに悪化し、国会の大臣席に長時間座ることに耐え難い症状となり、ついに突如「投了」を宣言したもののようだ。(p.154-155)



安倍がまともな政治家だったら、公明党を説得するためにあらゆる手段を講じるところだろうが、彼の知的レベルと困難に立ち向かう能力の低さでは、それは適わなかったということだろう。(それだけの交渉術があるとすれば、あれほど強行採決の連続などせずに、もっとスマートに法案を成立させられたはずなのである。強行採決の連続は交渉力やオルタナティブを構想する力が極めて弱いことを示している。)

なお、下痢で大臣席に座っていられなくなったという話は面白いが、体調悪化はとってつけた理由と思われる。




 日本の補給艦が引揚げた場合、「米国人の対日感情は悪化し、日本は国際社会から孤立、日米同盟も危うくなる」と外務省や自民党、一部の新聞は説いてきた。従来も在日米軍に対する「思いやり予算」の削減などの論議が出るたび、対米追従主義者は同じことを唱えてきたが、これは「お布施をしないと地獄に落ちる」というオウム真理教のお告げに似ている。(p.157-158)



根拠のない脅しによって人を半強制的に誘導しようとする点は完全に共通である。この比喩は非常に優れているので、利用価値があると思う。




 ③ブッシュ政権は「ユニラテラリズム(独善的姿勢)で、孤立化を招いた」と民主党から非難されている。米国人のほとんどが無関心な日本の給油活動が法律の期限終了で中止になったことを騒ぎ立てれば「孤立化」を裏付け選挙に不利だ。米政府がイラクからの各国軍の撤退を非難したことがないのもそのためだ。(p.159)



日本国内(特に、国会やマスメディア)で行われる外交に関する議論では、こうした他国の状況への配慮が多くの場合、omitされる。




 ⑤米国が僅か35億円程度の話で日米同盟をやめ、横須賀、佐世保などの基地使用権と、年間2200億円の日本からの補助金を失うとは思えない。冷戦の終了で海外基地の必要性は減じたとはいえ、米国が西太平洋、インド洋での制海権を確保するためには、日本の二つの港とそれに付随する厚木、岩国飛行場は手放せない。英国は1704年、スペイン継承戦争で奪取したジブラルタルを、スペインと悶着を続けつつなお支配し、米国は1898年の米西戦争で得たキューバのグアンタナモ港をなお保持している。敵対してでも軍港は確保したいのだが、もちろん同盟関係を保ち、友好的に使えればはるかに好都合だ。日本は基地従業員の人件費や、光熱水道費など約2200億円を「思いやり予算」で出すほか、基地内の建設費、周辺対策費、民有地の地代、国有地の推定地代を含むと、米軍への財政支援は年間で計約6500億円に達する。こんな気前の良い同盟国は他にない。もし35億円の燃料の件で日本と対立するなら、まるで毎年1億円の利益を得ている取引相手と50万円の問題で争い、取引をやめるような形になる。(p.159)



日本にとってはこうした基地とその周辺の費用を提供しているという事実は、アメリカとの外交カードとして使えるのだが、日本政府にはそうした積極的な意思はないようだ。国会が自民党一党支配から脱すると、このあたりの変化も出てくる可能性がある。例えば、政府=自民党という立場では国内事情を盾にしてアメリカと交渉するのは難しいが、国内の対立をうまく利用すれば、交渉に持ち込むことも可能だからである。




伊勢崎賢治 「日本は「美しい誤解」を生かせ」より

今でも日本は「大義」を議論しませんね。当のアメリカでは、今でも大変大きな政局になって中間選挙でブッシュさんは負けたのに。
 これは情けない。なぜかというと、軍事作戦の「大義」にかかわらず軍を出すのは、いわゆる「発展途上国」です。・・・(中略)・・・。失礼な言い方になりますが、彼らにとって「大義」はあまり関係なく、経済的なインセンティブによって派兵します。日本は経済大国でありながら「大義」が議論できない希な国です。(p.166)



この理由の一つは、国内での議論積み重ねがないからだろう。憲法の法律論で、軍事作戦に参加することは、否定されていることももちろん影響している。しかし、日本の支配層がこれまでアメリカとの関係を徹底的に重んじてきたという事実は、決して捨象できない現実である。そうした圧力が議論を抑圧した面もある。

こうした支配層の特性のせいで、庶民の側に対して重要な事実が隠蔽され、それによって世論が形成されてしまうのである。そのような権力と直結し、情動的に操作された世論(彼らの「利益=大義」を議論せず押し付ける側)と対抗するには、「利益とは別の大義」を語る側は法律を盾に取るという形で防戦するしかないという状態なのだと思う。

従って、俗に「憲法9条があるから軍事や防衛について議論ができない」というのは誤りであり、権力者側の利害と結びついた側が、そうでない議論をできないようにしているために、法律論という選択肢しか残されなくなってしまっているわけである。

この状況を変える方法は、情報を隠蔽できないようにすることである。権力を分散させること(一党支配を終わらせること)や情報公開の仕組みを整えることなどが考えられる。もちろん、左派は知的に法律論以外のフィールドでも議論を戦わせられないかどうか、模索することもあってよいだろう。




 はじめにお話ししたように、SSRというのはアメリカにとって、世界テロ戦争の根幹の土台です。そこで日本は、アメリカ自身も含めて他の同盟国ではできないことをやった。それが武装解除です。ドイツにもイギリスにも不可能だったでしょう。それはなぜか。
 「美しい誤解」と言った人がいます。日本はアフガニスタンで美しい誤解をされていたから、武装解除に成功した。
 アフガン人は誰も自衛隊のインド洋上活動について知りません。
・・・(中略)・・・
 それが「美しい誤解」だったわけです。日本は軍事的な関与はしていない、銃で脅して武装解除をするのではない。日本は中立な立場でアフガニスタンのことを考えている。だからこそ私たちは抵抗勢力に対して、武装解除されて新政権に組み込まれることの安心感を説得できた。(p.166)



こうした「美しい誤解」を嘘ではない形で実行することが、平和的な国際貢献であろう。

平和主義を掲げた外交とは、本来こうしたものであるはずであり、今後の日本の外交は、こうした方向性を基本に構築していくべきだと私は考える。

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『世界』2007年11月号(その1)
国正武重 「崩壊の危機が始まった自民党」より

小泉、安倍両政権下の2001年から2007年までの生活負担増は総額8兆8000億円(消費税率換算で3%)といわれ、家庭の台所を直撃した。(p.74)



このことは銘記すべきである。




石黒一憲 「グローバリゼーションに対抗するための法的視座」より

 私は、グローバリズムとかグローバライゼイションといった言葉を、好まない。それが、市場原理万能や経済効率偏重の新古典派経済学「的」な装いの下に、その実、諸国との関係での米国の強烈な国益願望(外向きの米国の顔)を“隠蔽”するための、人々の錯覚をうまく利用した、曖昧かつ戦略的な言葉だからである。(p.100)



確かにその通りかもしれない。しかし、否定的なニュアンスをこめて使われる新自由主義(ネオリベラリズム)という言葉でさえ、「効率性」や「競争」といった点に焦点化されるために、アメリカの存在を隠してしまうことがあり、その意味で、グローバリズムと同列ということになりそうだ。いずれにしても、こうした隠蔽作用には注意が必要だ。

同様の指摘はやはりこの論考でも行われている。

 市場原理万能主義のバックにある新古典派経済学は、資源“配分”の効率性ばかりを強調し、“分配”の問題について、多くを語らない。それゆえ、すべてが「米国への富の“再分配”工作」で動いているという、いわゆるグローバリズムの実態が、都合よく隠蔽されがちとなる。そこを直視し、突き破ることが、グローバリズムに対抗するための経済社会の在り方を考える上での、基本的な前提となるはずである。(p.104)






西谷修 「市場経済というフィクション 持続可能な生存の場から競争のアリーナへ」より

共産主義国家の「民主化」と謳われたこの出来事を通して起こったのは、実は政治的「民主化」というより、政治体制の崩壊のさなかでの国家資産の「民営化」だったといってよい。いや、態よく「民営化」と訳される“privatization”をもっと直截に訳すなら、社会的資産総体の「私物化」といったほうがよいだろう。(p.106)



privatizationの訳語の当て方は確かに使えそうだ。「民営化」が「私物化」であることを明示することは、私的な所有者が現れることを隠蔽する「民営化」という言葉の弊害を取り除けるだろう。

東側世界の崩壊が政治的なもの帰結より経済的な帰結をもたらしたものだという点も重要である。もともと東側世界というのは概ね、世界システムの半周辺に相当するのであり、冷戦崩壊時にもその地位は変わらなかったのだから、デモクラシーが十分に機能する条件はあまり揃っていないと考えるべきである。システムの外部からの干渉があるところでは、デモクラシーは機能・形成しにくいのである。




雨宮処凛 「ロストジェネレーションの仕組まれた生きづらさ 「95年ショック」と強要される「自分探し」」より

この国の経済が力を失った時、それまでタブーとされてきた政治と宗教がにわかに輝き始めた。経済成長の時代に生きた親世代が忌み嫌うものにしか私たちを受け止めてくれるものはない気がした。
 だって、学校で教えられてきたことは全部嘘だったのだ。・・・(中略)・・・。だからこそ、「学校では教えてくれない」靖国史観はすんなりと私の心に浸透した。教育に裏切られた者達が、「隠された歴史」でその傷を癒した。・・・(中略)・・・
 どこにも属さないフリーターだった私は、だからこそ「国家」という共同体に一瞬で帰属できた。不安定で貧乏だった私は、自分についてせめて幸福だと思えることが「先進国である日本に生まれた」ことくらいしかなかった。(p.134)



95年はオウム真理教の地下鉄サリン事件があった年である。雨宮はそのオウム信者たちを見て、羨ましいと思ったという。彼らが「生きる意味」を持っているから。。。右翼団体に彼女が心を引かれたのも同じである。

これは雨宮と「概ね」同世代である私にとっても実感としてわかる。引用した箇所以外でも、当時の時代精神のようなものはひしひしと伝わってきたし、私の知の遍歴は、実存主義から始まるのだが、それもこうした時代の雰囲気を反映していたのだということをはっきり自覚できた。

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佐藤優と山口二郎の対談 「なぜ安倍政権はメルトダウンしたか 露呈した権力中枢の空白」
これは『世界』の2007年11月号に掲載された対談である。

山口 「国土」という発想は、小泉時代に決定的になくなりましたね。宮内義彦オリックス会長、規制改革・民間開放推進会議議長が、公然と「北海道の人口は多すぎる。200万いれば十分だ」と発言したことがあります。北海道という広い島に隅々まで人間が住んでいるから行政コストがかかる、人がいれば学校も警察も消防も病院も置かなければいけない。彼らは「経営」という言葉が好きですが、国土経営の効率を考えれば、北海道は札幌周辺だけに200万の人間がいるくらいでちょうどいいというわけです。(p.59)



新自由主義のイデオロギーは、国境を越えて自由に移動する資本の立場から語られる。資本の立場から見れば「国土」などというものは、ある意味では不要なのである。資本が活動できる基礎となる市場を整えることと、市場での活動を大資本にとって有利な状態に保つこと、これを法律を用いて確保することだけが政府には求められる。それ以外の分野はすべて縮小・廃止というのが新自由主義の発想である。

まさに小泉の時代は、このイデオロギーが幅を利かせ、繰り返し、その必要性と有効性がメディアを通じて流されることによって、人々の中に常識として染み込んでしまった。

ただ、山口が言うように「国土」という発想が完全になくなったわけではない。それは国家主義的な言説の中で観念的なものとして補完される。実態的なものではなく想像上の「国家」の中では「美しい国」として語られるわけである。リアリティはないが。

そして、あまりにも安倍の言説にはリアリティ欠如がひどかったので、「視聴者=有権者」も「引いて」しまったというのが実情だろう。

福田内閣になってから、自民党への支持を回復するために、保守本流的な「地方重視」がパッチワーク的に導入されそうな気配もあるが(実際は、財界と一体化している自民党は新自由主義を当面は捨てられない)、それは小泉・安倍内閣のときよりはリアリティを持って「国土」を捉えることに繋がるだろう。それは政党支持率にも多少の影響を与えるものと思われる。自民党に下野してほしい私にとっては複雑なところだ。なぜならば、新自由主義からゆっくりとではあれ舵を切りつつあるのだとすれば、それは今までよりは望ましいとは言える。しかし、自民党政権が続く限り、決して日本政治の危機は去らないからだ。


山口 政党助成金が入っているから、幹事長や経理局長という党の中枢部には逆らえない。さらに小泉時代に、小泉という人気者にぶら下がることによってラクして選挙に勝てるというか、風が起こったら自分自身はたいしたことなくても自民党が公認というだけで選挙に勝てるという、非常に幸運な思いをした。そうすると個々人の政治家がどんどん脆弱化し、非常に同調主義が強まる。その結果、一元化、集中化が進んでいるというのが実態なのです。
 自立した力のある政治家が活発に議論して党の意思を形成し、そこで話し合って決めたことを協力して推進していくという、本来想定していた一元化ではなくて、個々の政治家が非常に無力化してリーダーにぶら下がるという消極的な動機で同調主義になって一元化していくという現象がいま起こっている。権力集中、一元化のハコモノをつくったけれど、その中は空っぽだったといことが今回明らかになりました。(p.60-61)



この件に関しては、やや違う角度からではあるが、「今回」よりも前に私も指摘したことがある。

この現象は小泉以降の総裁選でも見ることができる。安倍のときも福田のときも、一極へと雪崩現象が起こった。他方、民主党についても、小沢一郎が党内をある程度掌握できているのは、これと似た状態があると思われる。

二大政党制というか小選挙区制では、各政党の僅かな違いが議席の違いに大きく結びつく。僅かでも失点を避けなければならないという意識は自民であれ民主であれ相当強いだろう。そうした点も、執行部には逆らわない、という中央集権化を進める一因ではなかろうか。その結果、公共的な議論は失われ、政治は市場化していく。二大政党制イデオロギーから脱却し、小選挙区制を廃止すべきである。思うに、比例代表にするのが一番わかりやすい上に多元性を確保できるのではないだろうか。




佐藤 しかし、「人生いろいろ」では許されない領域が政治にはある。国家の基本的な役割や枠組みをきちんと思想的に、「大きな物語」として描くことは、有識者の仕事です。(p.62)



一昔前に流行った、「大きな物語」は終わったとする言説に対し、佐藤優のこの発言は注目に値する。佐藤は最近、このことをよく語っているようだが、私もそれには賛成である。

しかし、論壇の議論の水準が政治の影響によって低下しているのではないかという気もしている。日本の場合、地政学的な重要性が低下しているのだから、一国レベルでそれを挽回し尽くすことはまず不可能だと私は考える。しかし、悪化する中でもまだマシなものを選べるように、様々な可能性を考えることは必要である。しかし、そうした試み自体が、あまりなかったように思う。

保守系・右翼系の思想というのは、実際上、社会科学的な検討に耐えられない代物であり続けている。少なくとも日本語で書かれてきたテクストについてはこれは確実である。中道的リベラリズムの思想は、根本的な刷新は行われていない。古いままの教義がそのまま現在も流通している。そもそもリベラリズムは抑圧からの解放の思想であり、それ自体は建設的な思想ではない。

構築的で建設的でありえたのは左翼系の思想であるはずだった。しかし、左翼思想はマルクス主義の決定的な退潮以後、ナショナリズムとの対抗の関係からもあろうが、「国家」という表象を相対化する方向に向かい、その表象の力を無効にすることに尽力してきた面がある。その意味で、佐藤優が言うような、いわば国家的なビジョンとしての「大きな物語」を構築する方向には向かわなかった

これは日本に限ったことではない。ブレトン・ウッズ体制が崩壊し、金融を含めたグローバル化が70年代以降、段階的に進んでいく過程において、右派の言説ではナショナリズムが高まりを見せる中、それに対抗するナショナリズム批判の研究が進んだ。また、資本の猛威が戦前のように動き始めたこともあるのだろうが、特に90年代以降、反帝国主義的言説も復活してきたように思われる。ポストコロニアル・スタディーズなどもこうした流れの中で出てきたものと思う。しかし、これらの思想には、「国家」を中核に置くものはなかったのではないだろうか。少なくとも「国家」を否定する言説としての性格が強かった。これには一定の価値や意義があると思うので、一概に否定しようとは思わない。しかし、ナショナリズムやコロニアリズムに抵抗するのに精一杯になっている間に、重要な知性が政治を「革新する」方向に向かわなかった。

まとめよう。

知性の欠けた右翼言説は保守主義として権力に擦り寄るだけで、すでにある権力を超えるものを構想できなかったし、できていない。少なくとも日本では、今後も当面はできないだろう。中道的リベラリズムは――ウォーラーステインに終焉を宣言されてしまったが――従来の100年以上前の思想のままだった(「哲学」の世界ではある程度の刷新はあったが、それは他の世界にはあまり波及しなかった)。マルクス主義を失った左翼は国家や植民地主義・帝国主義といった権力の危険性と闘うのが精一杯だった。これは日本だけの現象ではない。(右派のヘタレぶりは日本はひどいものだが。アメリカのネオコンも馬鹿だとは思うが、馬鹿は馬鹿なりに、それなりに手を次々に打っている点が日本や他の国々とは異なっている。)

しかし、日本のような地政学的重要性が低下している地域では生き残るために相応の戦略が必要であり、佐藤優はその点を突いていると思うのだ。最近、私も次は何を研究しようか迷っていたのだが、佐藤優の発言を読んで、この方向で模索するのは悪くないかもしれないと思い始めたところだ。

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毛里和子 『日中関係 戦後から新時代へ』(その2)

 1971~72年の米中交渉では、周恩来もキッシンジャーもニクソンもきわめて率直だ。とくに米中のリーダーが語る赤裸々な対日戦略や日本像が興味深い。
 周はキッシンジャーに対日警戒が必要だと切々と訴える。・・・(中略)・・・
 これに対しキッシンジャーは、米軍の存在が日本の軍事力強化への抑止弁になり、日米安保条約はまさにそのためにあるとくり返す。いわゆる「瓶のふた」論である。彼は、在日米軍の撤退を求める周にこう答える。「私が大学で教えていた理論からすれば、我々が日本から撤退して日本に再武装を許し、太平洋の向う側で日本と中国に互いの力のバランスの崩し合いをさせる、というのは筋の通ったことかも知れません。でもこれは我々の政策ではありません。日本が大々的に再軍備をすればやすやすと1930年代の政策をくり返すでしょう」(七月九日)。
 翌年二月ニクソンも・・・(中略)・・・「[しかし]保障はできませんが、われわれは日本に対してきわめて強力な影響力を行使できるし、われわれの政策で、日本に、朝鮮や台湾に対する冒険をさせないようにできると確信しています」と述べた(1972年2月22、23日。W.バー編・2003)。



アメリカにとっての日米同盟(日米安保条約)の意味は興味深い。日本の軍事力増強をさせないために米軍を置いておくという意図が当時からあったということ。90年代以降、米軍再編に伴う米軍の相対的な撤退とともに日本に再軍備の要求を出していることと対応している。

また、アメリカが日本をコントロールできると考えており、実際にそれを行ってきたことにも注目してよい。アメリカが日本にとってどのようなパートナーなのか、よく考える必要がある。アメリカの都合で日本を利用しようとする意図は常にアメリカには存在する。日本政府に、それに対抗する戦略があるかどうかが問題であり、それをもたなければならない。




 他方中国にとっても、日本がOECDの開発援助委員会(DAC)諸国中最大の援助国であり続けている。・・・(中略)・・・
 日本の圧倒的シェア(42%)は、80~90年代半ばまでの中国近代化建設で果たした日本の役割が決して小さくなかったことを如実に示している。ちなみに同時期の米国政府の対中借款は、1件、2300万ドル、全体に占めるシェアは0.1%にすぎず、順位にして20位である。(p.114-116)



この点は重要であり、日本側がもっと主張してよいことかもしれない。79年から95年6月までの累計についての日本のシェアは41.91%であり、他国を圧倒している。ドイツ、9.86%。フランス、8.42%、スペイン、7.89%。イタリア、6.98%と続くからだ。これら4カ国を合わせた以上の割合を日本一国で占めている。




 内外ダブル・スタンダードが崩れてくるのは、新ナショナリズムが公然と主張され始めてからである。
 とくに戦後半世紀たった90年代半ばが転機となった。衆議院で「戦後50周年決議」の動きが始まると、自民党保守派議員の間で「歴史の見直し」の動きが活発になる。(p.170)



内外ダブル・スタンダードとは、国外に向けては反省とお詫びを表明しつつ、国内に向けてはA級戦犯も戦争の犠牲者だった、とか、太平洋戦争は侵略戦争ではなかった、といった主張がなされていた状況を指している。

自民党保守派が歴史修正に動き出した時期は大変興味深い。この時期の直前まで、自民党は下野しており、党内の極右勢力が政権与党としての責任を無視してやりたい放題、言いたい放題を言える状況になっていたと推察する。その上、政権にようやく復帰したと思ったら党内のリベラル派が村山談話などを出して、反省の論理を従来よりも強く主張したから、それへの反発が高まり、歴史修正主義が党内でも保守的な傾向の人々には支持されやすかった(反対されにくかった)という状況が想像される。

そして、再び政権を取った自民党は、メディアを通して世論操作も行えるようになり、それが続けられた結果、(さらにインターネットの普及という要因などもあるが)近年の過激で虚妄に満ちたナショナリズム言説が大量生産されるようになったのではなかろうか。

唯一の原因とは言わないが、現在の日本のナショナリズムが政界で特に顕著になっていることの理由は、こうした点に求めることができそうである。

(2015.1.18一部訂正)




台湾問題問いアキレス腱を抱える中国からすれば、米国との同盟関係を強めている日本が拒否権をもつ常任理事国となり、国際社会で中国と並ぶというシナリオは避けたいからである。(p.199)



日本の常任理事国化に中国が反対する理由の一つ。




龐によれば、戦前は脱亜入欧、戦後は脱亜入米で、日本はアジア・アイデンティティを喪失した。「多数の日本人は自分たちはアジアに住んでいるとは考えているが、自分が“アジア人”だと考えているとは限らない」(龐中英・2005、同2004)。



アジア・アイデンティティというもの自体、オリエンタリズムの所産であるから、それを「喪失した」とは私は考えない。もともとそんなものはなかったからだ。

しかし、その後の龐中英(ほうちゅうえい)の言葉は、確かに私自身にも思い当たる節があり、ギクリとさせられた。

もちろん、アジア人というカテゴリーもオリエンタリズムであり、そうした観念を抱くことがないこと自体にはそれほど問題はないと思っている。しかし、もし中国やその他の「東アジアや東南アジアの諸国」の人々の多くが「アジア人」という意識を形成しているとした場合、そこに日本の人々が加わっているという意識がないとすれば、それは問題でありうる。

また、それ以上に懸念すべきは、上記のような「アジア人」意識は実際には形成されていないとしても、日本の人々が「彼ら」としての「アジア人」に対して「われわれ」としての「日本人=欧米世界の一員?」という意識――ちなみに、これは冷戦時代の思考(「日本=西側=欧米の一員」という発想)でもある――からオリエンタリズム的な見下した姿勢を周辺諸国に対して持っているとしたら、どうだろうか?いや、実際にそうした見方が広く見られるのではないか?

現実の社会が各国の「追い上げ」によって、もはやそれを許さない状況になりつつあるところに、多くの素朴な(すなわち批判的でない)人間が、過激なナショナリズム言説に賛成し、国際社会では通用しない「内側の論理」を対外的にまで主張してしまっている要因があるのではなかろうか。

龐中英の言葉は、私から見ればオリエンタリズムの枠内にあり、その意味で私の思考の枠組みとは異なっており、彼の言葉には首肯できないところがあるが、その内実においては、日本の言論状況を鋭く指摘する良い言葉だと思う。




 だが一番大きな問題は、将来において中国がアジアの中の一員としてアジアとともに歩む、という保証があるわけではない点である。すでに述べたように、経済の急成長で大国化してきた中国では、超大国化をめざすラディカルな民族主義が大衆レベルで歓迎されている。経済力はグローバルだし、核を含む軍事力は着々と整備されている。これまで東アジアの国々を自らの“周辺”としてしか見てこなかった中国が、「周辺を地域に上昇させ、中国を地域の中に融合せしめ、地域と中国を融合させ、自分と周辺を区別しない伝統的な中華思想から脱し、[二国間の]“善隣友好”から“地域融合”政策に発展させる」(龐中英・2004)ことができるだろうか。(p.214)



日本の多くの人々がこの点を懸念していることだろう。確かに尤もである。私もこうした懸念がないわけではない。しかし、それが現実のものになるのは20年程度は先のことだろう。アメリカがヘゲモニーを持つようになったのも、19世紀の半ばから急速に経済発展した延長上で、20世紀前半の「三十年戦争」(1914年からの第一次世界大戦から1945年までの第二次世界大戦)を経た後のことである。それと同じように、ヘゲモニーを握るまでには長い年月がかかる。

中国がヘゲモニー国家となるかどうかさえ今では未定だが、アメリカが中国との関係を重要視するメッセージを発したことは、歴史におけるヘゲモニー移転の図式と一致している。しかし、中国は一人っ子政策の影響で30年後には人口構成が今の日本のような高齢化を急速に迎えることになる。移民を受け入れなければ、経済発展には限界がある。しかし、政治の改革の速度は遅く、ヘゲモニー国家に伴う自由主義は当面実現しそうもない。

そうしたこともあって、日本や他国を大きく凌駕したそのとき、中国のヘゲモニーは崩れる方向に向かうと私は見ている。その意味で、覇権の拡大だけに注目してもダメで、いかに経済発展の突出ぶりを適度に抑えながら、敵対関係にならないようにするかが重要だと考える。この辺についてのもう少し細かい点は別の機会に別の箇所で述べようと思っている。

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毛里和子 『日中関係 戦後から新時代へ』(その1)

 これらの諸国(引用者注;東南アジア諸国)への賠償はほとんどの場合、日本政府が賠償額に相当する生産物ないしサービスを日本の企業から調達し、それを相手国に提供する形をとった。つまり賠償には、戦後で与えた被害への償いというより、これを通じて日本の経済復興を実現し、他方で相手国の経済発展に間接的に寄与しようという狙いがあった。賠償する相手の東南アジア諸国は、日本にとってあくまで「市場」だったのである。その際、相手国の独裁政権と賠償にあたった日本企業との癒着が生まれた点も問題として指摘しておかなければならない。(p.12)



戦後責任の観点からも、戦後の日本の経済復興という観点からも、これは基本となる認識である。その際、東南アジアに市場が向かった要因として次の指摘は興味深い。

 きびしい冷戦の中、西側はソ連・中国などに戦略物資の禁輸措置をとった。1949年にはココムが成立、翌年12月には米国政府は「対中国戦略物資禁輸措置」を決め、日本はそれに同調した。・・・(中略)・・・
 日本の対中輸出制限は、カナダに次いできびしかった。中国大陸との経済関係を求める声は日本国内では強かったが、政府がそれを抑えたのは、工業力をもつ日本が中国などに近づくことを阻み、西側の同盟国として日本を確保しておきたい米国の戦略があったからである。米国も日本政府も、50年代から経済の主な進出先を大陸ではなく東南アジアに向けるようになる。(p.36)



こうして反共の防波堤として位置づけられることによって、日本の経済力は急速に発展していったのである。冷戦崩壊後の日本の経済の低迷は、この防波堤がなくなったことにより、日本の地政学的な重要性が低下したために起きた現象としての側面が強い。

85年のプラザ合意までは恒常的に円は安い水準に固定されていたために、日本の生産物は輸出に有利になっていた。これは今で言えば、人件費が安い中国の製品が有利な地位にあり、他国から工業生産を奪う形で「世界の工場」となっていることに相当する。円が高くなり、製造業などで「高度な技術を要する製品」以外のものは安い労働力によって作られる方がいいのだから、日本の立場(製造業の優位による高い経済的地位)がなくなっていくわけである。

この事態に一国レベルで対処するいかなる方策も、決定的にこの流れを転換させることはできないであろう。その意味で、日本が90年代以降経済的に低迷するのは半ば必然的であった。ただ、問題は、そこで政策を誤ったことである。アメリカの要望を次々と受け入れ、利用されるだけ利用されて捨てられようとしているのが、昨今の流れである。

財政赤字でさえ、アメリカが貿易摩擦を解消するために430兆円の公共投資をせよと日本政府に言ってきたことにまともに応えてしまった(しかも、その後、さらに200兆円ほど追加する約束までした!)ために、内容が熟慮されない公共投資が連発されたことの帰結ともいえる(★注)。それによって「公共事業」というもの自体への不信感が高まってしまい、日本政府は、政策のオプションを一つ失った状態が続いている。

ヒラリー・クリントンが先日、「米中関係は今世紀で最も重要な二国間関係」という趣旨の発言をしたが、この発言は日本の没落・切捨てと中国の台頭・優遇を如実に示していると思われる。

(★注)91年から2000年の投資規模430兆円を約束し、その後95年から2004年で630兆円に増額するよう改訂された。





 だが、対米協調か対米自立か、日米安保による安全保障か非武装中立かというような、日本の行き方や外交をめぐって国論が二分状況にあったことは、必ずしもすべてマイナスだったわけではなく、むしろ経済関係の一定の進展に見られるように、中国とのある種のきずなをつくりだし、この間の二国間関係を一種独特のものにした。(p.47-48)



この箇所は、多元的で重層的に外交を行っていたことの事例であり、今後の外交を考える上で示唆的なものを含んでいると思われる。

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上杉隆 『官邸崩壊 安倍政権迷走の一年』(その2)

 安倍政権では、当初から一部の記者が安倍側近と手を結んで、政権プランを決めているという話が流れていた。とりわけ、フジテレビ、産経新聞、夕刊フジのフジサンケイグループは安倍政権の「特務機関」とさえ言われた。安倍政権は間違いなく彼らで動いている部分があると、政治記者の多くが感じる。中でも、産経新聞の阿比留瑠比石橋文登の両記者の食い込みは群を抜いていた。
 阿比留は安倍との関係を隠すどころか、自身のブログで誇らしげに語っている。安倍との親密さを謳い、そのブログをまとめた本の出版記念パーティーには安倍官邸の錚々たるメンバーが参集した。紙面に載せられないような内容も、ブログで堂々と公表している。民主党のような勢力を蛇蝎のごとく嫌っている。ブログにも頻繁に民主党への攻撃がエントリーされる。代わりに安倍に対しては驚くほどの共感を表明している。阿比留は、偏ることを恐れない。もはや他の記者とは違う世界に存在している。ペンの力で安倍政権を支えるという、政治的使命を抱いた「運動家」なのだ。(p.156-157)



ま、以上のことは周知のことだが、「特務機関」ってのが面白い表現だったのでメモしておく。




 4月23日、安倍首相は、翌年に日本で開催されるサミットの首脳会談の場所として、北海道洞爺湖の「ザ・ウィンザーホテル洞爺リゾート&スパ」を選んだ。この日まで安倍は、記者会見などで、国民に繰り返し訴え続けた。「私の決断」でサミット会場を決めます、というものである。
 ある意味、これほど滑稽な「決断」はなかった。この時期、一年後のサミット会場がどこになるのか、という関心を抱く者はごく少数であった。それはマスコミなど一部の者の興味対象に過ぎない。だが、その記者たちですら、安倍が「決断」を大仰に繰り返せば繰り返すほど醒めていくのであった。大した決意もいらない「決断」を押付けられることで、却って、何か裏があるのではないか、という疑念まで想起させてしまうのである。
 表向きの決定理由は、開催費用を少しでも抑えるために、比較的警備のしやすいこの会場を選んだということになっている。ほとんど困難の伴わない安倍の決断が、鑑定を通じて盛んに喧伝されるが、実際は、すでに記したように警察庁長官の漆間厳の強い意向によって決まっていたのだ。
 この美しいホテルは数年前まで廃墟と化していた。前のオーナーが経営破たんし、営業停止に追い込まれたからだ。ホテルに向かう一本道の道路も立ち入り禁止となった。高価な調度品は、警備も雇えないことからそのまま放置され、若者たちや不良グループが忍び込んでは、カネ目のものを盗み出していった。地元では近づく者もおらず、ただただ荒れ放題であった。
 2000年、セコムグループがその「廃墟」を約60億円で買い取った時でさえ、地元住民は好奇の目で眺めるばかりだった。あまりに高価な買い物であったのだ。
 警備会社最大手のセコムには、数多くの警察OBが天下っている。さらにマスコミの中には、安倍とセコムの親密な関係を疑い続ける者もいた。北海道の土地を調査するジャーナリストも現れた。こうした情報が噂されるのと並行するように、まるで英断と言わんばかりに安倍が「決断」という言葉を使う回数も増すのであった。(p.172-173)



「警察庁長官の漆間」が「警察庁OBが天下っているセコムグループが買い取ったホテル」でサミットをやることに「決断」していたってわけだ。で、安倍とセコムのは関係は?




 就任前、「闘う政治家」を標榜して、自らの変革に乗り出した安倍だったが、政治権力闘争のあまりの激しさに、一旦は「曖昧戦略」に避難するのであった。
 だが、そうやっても側近らの不祥事は一向に止まず、内閣支持率は続落する。果たして、何をやっても同じだ、と気付いた時、安倍は、驚くほど頑固な独自路線を邁進することに決めたのである。実際、彼は頑迷な政治家であった。一度物事を決したときの安倍からは、父にあったような優柔不断は消え、替わりに、祖父の持つ頑迷固陋が宿るのである。(p.199)



こうして強行採決の連続が行われ、日本の民主主義は踏みにじられたわけだが、結局は、デモクラシーによって審判を受けることになったわけだ。

ただ、父の優柔不断と祖父の頑迷固陋とが対比されているが、実際のところ、安倍晋三の場合は、これらは対比されるべきものではない。安倍晋三の場合、いずれの態度も、単に、判断力がないことを示しているだけだからだ。

優柔不断については、「判断力がないため選択ができない」だけである。何が良い選択かわからないから判断を停止するわけだ。頑迷固陋については、「決めたこと」というより「欲求のままに」振舞うだけのことだ。目標実現のために何が必要なのかといったことについて、その都度、局面に応じて判断を下しながら進むのではなく、単に目標に向かって、判断を停止したまま直進するだけであり、誰でもできることだ。しかも、安倍には郵政解散によって前任者から衆院の圧倒的な議席が与えられていたのだから。




 小泉訪朝前の2001年、北朝鮮の核開発疑惑が取り沙汰され、再びミサイルが発射されようとしていた時のこと。安倍は、内輪の会合などで、北朝鮮についての感想を求められるときまって次のような言葉を吐いた。
 「北朝鮮なんて、ぺんぺん草一本生えないようにしてやるぜえ」
 「北なんてどうってことねぇよ、日本の力を見せつけてやるぜ」

 そして、北朝鮮が暴挙に及ぶたびに、「ふざけんじゃねーよ」と叫ぶのであった。
 安倍には得体の知れないモノに対して、第三者に強い姿勢を見せることで、自らの恐れを隠すという習性があった。
 2002年9月、小泉と共に訪朝して戻ってくると、こうした科白は一切、安倍の口から上ることはなくなった。現地の実態を知って、本当に恐れがなくなったのだ。(p.228-229)



要するに、上記のような仕方で虚勢を張るということは、小心者・臆病者だということである。

もう一点、興味深いのは、安倍が北朝鮮を恐れなくなったらしいということだ。そうだとすれば、それは安倍は北朝鮮は脅威ではないと悟ったということだろう。

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上杉隆 『官邸崩壊 安倍政権迷走の一年』(その1)

 危機意識の欠如、それはこの政権を覆う共通の空気であった。損失を最小限に食い止めるため、即座に手を打つという戦略が採用されることはまずない。誰もが早々と自分とは無関係であると結論付け、第三者の余裕で事の成り行きを見守る。成功に対しては異常なまでに執着するが、失敗が迫り来るとそろって目を瞑る。そして危機が直前まで来た時になって、ようやくその重要性に気付くのだ。もちろんその時には手遅れである。(p.94)



「成功に対しては異常なまでに執着するが、失敗が迫り来るとそろって目を瞑る」という姿勢が、安倍政権を担ったメンバーに見られる傾向だという。実は、(結論から書くと)、これは組織内(組織間)に競争原理を導入するとよく見られる現象であると思う。

もう少し詳しく、微妙に異なる光を当てながら書いてみる。

先ほど、別の本についてのエントリーで「人間は他人の行動を解釈するとき、おしなべてその根本的な性格特徴を過大評価し、状況や背景の重要性を過小評価する」傾向があるという点を引用したが、本書の上記の部分も、この傾向に沿って書かれている。

よって、以上の引用文の内容を、状況・文脈に配慮して少し捉えなおしてみよう。

メンバー個々人の個性の問題もさることながら、チーム安倍(官邸)のメンバーは従来の派閥による推薦による人事とは異なり、組織の後ろ盾がないのだから、彼ら自身の実績や安倍との関係の近さによってしか、自らの地位の安定を得られないことに着目すべきだろう。

小泉政権でも「派閥人事」はなかった(少なかった?)が、安倍政権との違いは露骨な論功行賞の有無だろう。安倍政権の場合、バックボーンとしての組織(派閥)がないだけでなく、安倍の好き嫌いで処遇が決まることがはっきりしている。だから、「チーム安倍」を含む安倍政権の要職にいた者たちは、安倍との関係に常に目を向ける必要があった。その結果、「実績」を上げる(守る)ために、「成功に対しては異常なまでに執着するが、失敗が迫り来るとそろって目を瞑る」ことになるわけだ。

このように考えると、「派閥人事」を行わずに「論功行賞人事」を行ったことが、政権運営の失敗の背景にあると言えるのではなかろうか。(これを政治の世界以外にも通じるように一般化すると最初に述べた結論になるわけである。)




世耕が本を出版したことについて次の記述はかなりウケた。

 ジャーナリストという第三者が書くからこそ、謎に満ちていた彼の評価は上がるのだ。だが、自ら2度にわたって、自身の仕事を自画自賛したことで、広報関係者の間での世耕の株価は一挙に暴落する。一夜にして「切れ者」から「愚か者」になったのだ。(p.143)



なお、「ジャーナリストという第三者が書くからこそ、謎に満ちていた彼の評価は上がるのだ」というのは、鋭い指摘だと思う。




次は、安倍政権はブッシュ政権からもあまり評価されていなかったという話。

 就任前は、前首相の小泉以上に「親米」と見られていた安倍だが、初訪米を見る限り、案外そうでもなさそうである。受け入れ側のブッシュ米政権の空気が微妙に変わる。新しい日本の政権への不信感は日に日に高まっていた。
 不信のきっかけは、就任直後の所信表明演説にあった。米政府関係者の間では次のような疑念が広まる。
 「戦後レジームからの脱却」というフレーズを最初に聞いた時はぎょっとした。それは米国を中心とする現在の国際社会への「挑戦」と受け取られかねない。本人は無意識に使っているのだろう。だが、それが文字通りならば、サンフランシスコ講和条約以降の戦後体制の否定を意味し、米国からすれば絶対に許されない話になってしまう――。
 安倍夫妻の宿泊したワシントンの迎賓館に向かうデモ隊が、小規模ながらも存在したことは、これまでの日米関係との明らかな違いを示している。それは、米政府がこの新しい日本のリーダーに大きな敬意を払っていない証左でもあった。(p.144-145)


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マルコム・グラッドウェル 『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』(その3)

 ゴアがつくりあげたもの、それを手短に言えば、組織のどこかで生まれた新たな発想なり、情報なりが速やかに行き渡る――個人から個人へ、あるいはグループの一部からグループ全体へと一気に伝わる――のを容易にする機構だということにつきる。それが150の法則を採用することの利点だ。そうすることで互いに結ばれた記憶や仲間うちのプレッシャーをうまく利用できるわけだ。
 ・・・(中略)・・・
 会社を一体化させるために――社の特殊な方針を従業員全体に行き渡らせるために――ゴアではむしろ、なかば独立した小さな部分に分割する必要に迫られた。これは感染のパラドックスだ。感染的な運動を生み出すには、まず最初に小さな運動体をたくさんつくらなければならない場合が往々にしてあるということだ。(p.257-258、本文ではゴシック体の部分をブログでは強調。)



150の法則とは、大体150人までのグループであれば、「規範なしでも同じ目標を達成することができる」(p.244)という経験則(本書では脳の情報処理能力の限界によっても基礎付けようとしているが)である。集団が、この規模より小さければ、集団としてのまとまりを維持できるが、これより大きくなると、共同で作業する機会が少なくなり、互いに疎遠になり、緊密な仲間意識が薄れていく、という。

そして、本書によれば、このような集団の規模も、大きな変化を引き起こす微妙な状況因子の一つだというわけだ。

AbEndや自Endなどの運動に関わるブロガーの人数も調べてみたいものだ。もしかしたら、150を超えたら別のTBPを作ってもいいっていう意味になるかもしれない。。。




 つまるところティッピング・ポイントとは、わたしたち人間には変革への潜在能力と知的活動の力があることを、あらためて確認することにほかならない。あなたの周囲の世界を眺めてほしい。それは向上する余地のない、がんじがらめの場所に見えるかもしれない。だが、そうではない。ちょっと正しい場所を押してやれば、傾くのだ。(p.346-347、本文ではゴシック体の部分をブログでは強調。)



本書の締めくくりの言葉である。「正しい場所を押してやれば、傾く」というメッセージは非常に重みがある。「ティッピング・ポイント」というのは、希望を与えうる言葉であるわけだ。

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マルコム・グラッドウェル 『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』(その2)

ようするに、破傷風の予防の機運を一気に広めるには、新しい追加の情報を雨あられと振りかけても無駄だということだ。
 必要なのは、情報提示の仕方にさりげなく、だが有意義な変更を加えることなのだ。
 学生たちにはまず破傷風菌についての知識を与えなければならない。それに地図と診療時間についての情報が付加されると、パンフレットは抽象的な医療的知識――ふだん学校で受けているアカデミックな授業と本質的な違いはない――から、実践的かつ個人的な医療アドバイスへと変化する。そして、ひとたびアドバイスが実践的かつ個人的なものになると、それは記憶に粘るのである。(p.137、本文ではゴシック体の部分をブログでは強調。)



これはブログでも同じだろう。しばしば政治系のブログでは署名を呼びかけたりしているが、その際には、情報提示の仕方が重要だということ。

理論的な面で言うと、本書のこの部分は「粘りの要素」について述べている部分である。普通、初歩的な「複雑ネットワーク研究」の啓蒙書では、ネットワークをつなぐリンクの性質やノード自体の性質はあまり問われない。本書はそうした点にまである程度踏み込んでいるのが特徴である。

例えば、ある知識が広まる場合の「広まり方」に注目する。本書の場合、広まる知識の性質にも配慮している点が、多くの啓蒙書との違いであり、かつ、実践的なところだと思う。




 ニューヨークに生じた変化は漸進的なものではなかった。ニューヨークの犯罪伝染病の流れを変える役割をはたしたのは、明らかにそれとは違う何かだった。
 この「何か」の候補としてもっとも興味深いのは、割れた窓と呼ばれる理論だろう。この「割れた窓」理論は、犯罪学者のジェームズ・Q・ウィルソンとジョージ・ケリングが発案したものである。ウィルソンとケリングは、犯罪は無秩序の不可避的な結果だと主張した。割れたまま修理されていない窓のそばを通りがかった人は、誰も気にしていないし、誰も責任をとっていないと思うだろう。まもなくほかの窓も割れる。すると無法状態の雰囲気がたちまちそのビルから向かいの通りへと伝わり、ここではなんでも許されるという信号を発しはじめる。
 都市においては、たとえば落書きや風紀の乱れ、あつかましい物乞いなど、比較的些細な問題のすべてが割れた窓と等価であり、より深刻な犯罪の呼び水になると二人の犯罪学者は書いている。(p.194、本文ではゴシック体の部分をブログでは強調。)



一般的に言って、これこそ規制緩和が引き起こす犯罪や不正、秩序の混乱の原因ではなかろうか。

例えば、ホリエモンや村上ファンドなどのインサイダー取引にしてもそうではないか。また、賞味期限切れの商品を売っていたという類のニュースも異様に多いのもそうだ。

市場が「事前規制型」から「事後監視型」に変わることによって、小さな脱法・違法行為が増えたのではないか?それらが増えたからこそ、経済犯罪がやたらと増えたのではないか?

もちろん、規制緩和が競争を激化させ、それが個々のアクターに負荷をかける(無理をさせられる)という圧力も要因としては極めて大きいと思うし、よく指摘されるところだ。しかし、「規制緩和」を行うことによって開かれた可能性は脱法・違法行為の方向へも開かれる。それらの多くは些細なものに違いない。しかし、それが常態化することによって、どんどん秩序が崩れていくのではないか?

近年の「政治とカネ」の問題の続発にしてもそうである。企業献金などの「規制緩和」がなされたことが、この問題の激化を促しているのではないかと疑っている。これは企業だけでなく、その他の団体にも波及する。

個人的には、このように、規制緩和批判や新自由主義批判にネットワーク理論を使えるのではないかという着想は、本書から得た大きな収穫であった。



 わたしたちが性格とは統一された包括的なものだと思い込むのは、人が頭のなかで情報処理するときに、一種の死角のようなものがあるからである。こういう傾向を心理学者は、「根本的属性認識錯誤(ファンダメンタル・アトリビューション・エラー)」(FAE)と呼んでいる。このおもしろい言い回しは、人間は他人の行動を解釈するとき、おしなべてその根本的な性格特徴を過大評価し、状況や背景の重要性を過小評価するということを意味している。わたしたちはつねに出来事を状況的(コンテキスチュアル)に解釈しないで、素因的(ディスポジショナル)に解釈しようとするのだ。(p.218、本文ではゴシック体の部分をブログでは強調。)



この部分は認識論的に興味がひかれた箇所。心理学でもこうした知見があるのか、と。

これは「本質主義」と「構築主義」が対比される場合の、「本質主義」の認識の性質を的確に捉えている。逆に言えば、本質主義的な認識というのは、ごく素朴なものであって、「根本的属性認識錯誤」に対して無批判的なものであることを示している。ここが私が関心を引かれた点である。

また、私の認識論的な立場の一つは、「文脈主義」と呼べるが、上記の訳語で「状況的」の原語はどうやらcontextualのようだから、直訳すれば「文脈的」ってことになる。その意味で、文脈主義は、本質主義が陥りがちな「根本的属性認識錯誤」に対して批判的な認識のあり方だと言える。これはまさに私がこの立場をとる所以でもある。




 従来の素因がすべてという考え方――つまり暴力行為の原因をいつも「社会病質人格」や「超自我の欠陥」、あるいは欲求充足の遅延不能や遺伝子に潜む悪に求める考え方――は、結局のところ、犯罪に関して受け身の最たるものでしかない。
 なるほど、いったん犯罪者を捕まえれば、こういう考え方も更正させる役には立つかもしれない。抗鬱剤の投与とか、精神療法を受けさせるとか、社会復帰の便宜を与えるとか……。しかし、当人が最初に起こす犯罪を防ぐ手だてにはほとんどならない。犯罪の伝染に対する古風な考え方に従えば、おのずと防御的な手段をめぐらすほうに向かう。ドアにもう一つの鍵をつけ、強盗の意欲を削げば、ひょっとすると隣のドアに回ってくれるかもしれない。犯罪者を長く拘束しておけば、それだけ危害を加えられる機会は少なくなる。郊外に引越しして、できるだけ犯罪者との距離を保つ……。
 しかし、背景の重要性を理解し、環境の比較的小さな特定の要素がティッピング・ポイントの役割をはたすということがわかれば、このような犯罪に対する敗北主義は転倒するだろう。環境のなかのティッピング・ポイントは変えることができる。割れた窓を修理し、落書きを消せば、最初の犯罪を誘発するシグナルを変えることができるのだ。犯罪は理解するだけのものではなくなる。防ぐことができるようになる。ここにはもっと幅広い可能性があるのだ。(p.226、本文ではゴシック体の部分をブログでは強調。)



これは極めて有益な考え方だ。本書の言う「背景の力」を理解することは、背景の力に働きかけることを可能にする。そして、背景を変えることで、犯罪などの凶事を予防することができる。

通常の社会科学の場合、この背景の力が漸進的に作用する場面を想定する。本書がそれと違うのは、極めて些細なものが、強力な作用を及ぼしうることを明らかにしたことである。もちろん、社会科学的な分析も有効ではあるが、それがすべてではない。ネットワーク理論の方が有効な場面も多々あるということだ。(ニューヨークの犯罪を劇的に減少させるのに、地下鉄の落書きをなくすること(また、上で引用した「割れた窓」をなくすこと)――極めて些細なことに見える!――が効果的だったというのが、本書の事例の一つだが、これは非常に印象的な事例である。)

この引用文に示された知見は、非常に役立ちそうである。

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マルコム・グラッドウェル 『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』(その1)

 これら三つの特徴――第一は感染的ということ、第二は小さな原因が大きな結果をもたらすこと、第三は変化が徐々にではなく劇的に生じるということは、小学校での麻疹の蔓延や冬のインフルエンザの伝染の仕方と同じ原理に基づいている。この三つの特徴のうち、第三の特徴――すなわち感染の勢いはある劇的な瞬間に上昇したり下降したりすることがありうるという考え――がもっとも重要である。というのも、この第三の特徴こそが最初の二つの特徴を意味あるものにし、現代における変革がなぜこのようなかたちで生じるのか、その理解を深めてくれるものだからである。
 なんらかの感染現象において、すべてが一気に変化する劇的な瞬間を、本書ではティッピング・ポイントと呼んでいる。(p.19-20、本文ではゴシック体の部分をブログでは強調。)



これまで複雑ネットワーク研究についての本は多少読んできたが、本書はジャーナリストが書いたものであることと、理論的というよりも実践的な観点から書かれている点に特徴がある。本書が特に強調するのは――本書の原著が「ティッピング・ポイント」であることからもわかるように――上で引用したティッピング・ポイントにおいて劇的な変化が起こるという事実である。そして、そのような急激な変化が起こるために何がどのように働いているのかを明らかにしている。

邦訳書の書名からも想像できるように、マーケティングにも使えることはもちろんだが、「政治ブログ」も書いている身としては、政治ブログが有効にメッセージを伝えるための方法論としても読むことができる。少なくとも非常に参考になる内容を含んでいる。その意味で、自Endキャンペーンに参加しているブロガーのみなさんには紹介したい一冊ではある。




 わたしたちは直感的に、生活環境と社会問題は徐々に改善されたり、悪化したりすると思っている。しかし、時としてそれは予想を裏切る。ティッピング・ポイントに達すると、学校はあっというまに生徒を管理する力を失い、家庭生活は一気に崩壊することがあるのだ。(p.25)



学級崩壊などもそうした事例なのだと想起させられるが、「官邸崩壊」も似たようなもんだろう。




「毎日低価格!」などという無意味な貼り紙で消費者をだまそうとする販売戦略に一定の歯止めがかかっているのは、なぜなのか?
 その答えは、消費者の大半が価格を注意深く見ていないにもかかわらず、ごく少数の人はそれを厳正にチェックし、もし適正でないと判断すれば、それなりの行動を起こすということを、どんな店長も心得ているからである。あまりに誇大広告を出しすぎる店があれば、商事改善協会に苦情を申し立て、友人や知人にあの店では買うなと言いふらす人々がいる。こういう人が市場を公正にしているのである。この種のグループが確認されてから10年くらいの歳月がたっているが、経済学者たちはこういう人々を把握するために様々な努力を払ってきた。別名「価格自警団」とも言う。しかし、市場通(マーケット・メイヴン)という呼称の方が一般的になっている。
 ・・・(中略)・・・
 ところで、メイヴンで重要なことは、彼らが受け身の情報収集家ではないという点である。ただたんにコーヒーをどうやったら安く買えるかということに執着しているのではない。彼らを特異な存在にしているのは、どうすれば良い買い物ができるかがわかったら、それを他人に教えたがっているというところなのである。(p.87-89、本文ではゴシック体の部分をブログでは強調。)



本書では、口コミで伝染が起こる際に、コネクター、メイヴン(通人)、セールスマンという3つの種類の人が媒介するとしているのだが、これはメイヴンについて述べている箇所の一つ。

このあたりの記述を読んですぐに想起したのは、「政治ブロガー」や市民運動家の存在である。

彼らに対しては一部の人から「プロ市民」などという揶揄の言葉が作られて、そうしたレッテルが貼られることがある。しかし、ネットワーク理論に基づく本書の枠組みで見るならば、そうした「プロ市民」こそが、政治に最低限の公正さを維持させている貴重な人々だということになる。

上の引用文を言い換えてみよう。

「成長を実感に!」などという無意味な貼り紙で有権者をだまそうとする政党の広報戦略に一定の歯止めがかかっているのは、なぜなのか?
 その答えは、有権者の大半が政治を注意深く見ていないにもかかわらず、ごく少数の人はそれを厳正にチェックし、もし適正でないと判断すれば、それなりの行動を起こすということを、どんな政党幹部も心得ているからである。あまりに誇大広告を出しすぎる政党があれば、選挙管理委員会や裁判所に苦情を申し立て、友人や知人にあの政党には投票するなと言いふらす人々がいる。こういう人が政治を公正にしているのである。
 ・・・(中略)・・・
 彼らを特異な存在にしているのは、どうすれば良い(政治的)選択ができるかがわかったら、それを他人に教えたがっているというところなのである。



むしろ、上記のような活動を揶揄するような輩にこそ、問題があるといわなければなるまい。

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豊下楢彦 『集団的自衛権とは何か』(その4)

 さて、マッカーサーは、占領を円滑に遂行するうえで昭和天皇の「権威」を利用するために、天皇制の維持に執念を燃やした訳であった。しかし、天皇制を残すことについて国際社会の了解を取りつけるためには、日本の非武装が不可欠の前提となった。この意味で、憲法九条と一条は“ワンセット”として位置づけられたのである。しかし実は軍事的なレベルで見ると、マッカーサーにあっては日本の非武装は沖縄の米軍支配と表裏の関係にあった。例えば、憲法施行から一ヵ月後の1947年6月、マッカーサーは外国人記者に対し、「沖縄諸島は、我々の天然の国境である」「沖縄に米国の空軍を置くことは日本にとって重大な意義があり、明らかに日本の安全に対する保障となろう」と述べた。さらに翌年二月、来日したワシントンの要人達に対し、沖縄を要塞化すれば「日本の本土に軍隊を維持することなく、外部の侵略に対し日本の安全性を確保することができる」と主張して、彼らの日本再軍備論を批判したのである(古関彰一『「平和国家」日本の再検討』)。

 その後、日本は再軍備の道を歩むことになったが、マッカーサー発言に鮮明に示されているように、実は憲法九条は沖縄の犠牲のうえに成り立ってきたのである。同じく、安保体制が、在日米軍基地の75%近くを、狭い沖縄に押し付けて維持されてきたことも周知のところである。すでに見たように安倍首相は安保体制について、米軍は日本を守るために「血を流す」のに、日本は米国のために「血を流す」体制になっていないと「片務性」を強調するが、こうした認識は、沖縄の歴史と現実を捨象したうえに成り立っている、と断ぜざるを得ない。(p.225-226)

日本の非武装・憲法九条と沖縄との深い関係については、本書によって目を開かされた思いがする。


 さらに沖縄は、新たな安全保障の枠組みを形成していくための前提をなす、北東アジアの信頼醸成を促していく上で、最もふさわしい拠点となり得るであろう。歴史認識問題や教科書問題がたえず軋轢を生み出している状況において、沖縄が歩んできた独自の歴史は、それらの問題を克服していくうえで沖縄に重要な役割を与えるはずなのである。なぜなら、沖縄の歴史は、朝鮮半島や中国のそれと重なり合う体験を経ているからである。(p.230)

大変興味深い指摘だ。


 そもそも、あれこれの国を「仮想敵」と設定して軍拡競争で勝ち抜こうという発想それ自体が、「テロの時代」以前の発想なのである。(p.235)

一理ある。そして、「敵の敵は友」という考え方も、この発想の一類型に過ぎない。

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豊下楢彦 『集団的自衛権とは何か』(その3)

例えば、軍事アナリストの小川和久は、2005年の著作『日本の戦争力』において、次のような分析を展開している。彼はまず在日米軍基地の実態について、神奈川県鶴見や佐世保などの燃料備蓄量をあげて、日本が「ペンタゴン(国防総省)最大のオイルターミナル」であること、佐世保の弾薬庫が「地球の半分をエリアに米海軍が置く最大の陸上弾薬庫」であること、あるいは嘉手納の弾薬庫を管理する米空軍中隊が「米軍で最大の弾薬整備中隊」であること、そして「世界最大最強の艦隊である米第七艦隊は、ほかならぬ日本がその全存在を支えている」ことなどを明らかにする。
 その上で在日米軍と自衛隊との関係について、「日本に展開するアメリカの空軍、海軍、海兵隊の航空機(戦闘機や攻撃機)のうち防空任務についているものは一機もありません」「在日米軍基地をテロやゲリラの攻撃から守るのは陸上自衛隊です」と指摘し、さらに海上自衛隊は日本のシーレーンを防衛しているだけではなく、「補給物資を運び込む米軍のシーレーンをも守っている」ことを強調するのである。
 つまり、小川の分析に従えば、在日米軍とその基地は、日本の防衛のためにあるのではなく、世界の半分をカバーする米軍の戦略展開のための最大拠点であり、むしろ自衛隊が米軍基地の防衛にあたっているのである。(p.119-120)



大雑把に言えば、在日米軍は、日本を守らず、日本を拠点として自衛隊を活用しながら活動しているってことになる。




問題は憲法改正だけではない。「第二のアーミテージ報告」では、日本がミサイル防衛に関する「特別予算」を増額することを「勧告」している。当面する計画を達成するだけでも、優に一兆円を突破すると言われる。PAC-3で「全土防衛」を行うためには、約500ヵ所に配備が必要とされており、その総額はかつて試算された30兆円をはるかに越えるであろう。文字通り「国家財政破綻してPAC-3残る」という事態である。
 ・・・(中略)・・・。たしかに、1980年代以来、ミサイル防衛の開発のために軍需産業などに投ぜられた約980億ドル(約11兆円)の“回収先”として、日本ほど相応しい国はないであろう。(p.131)



私もミサイル防衛は金食い虫であり、意味がないと何度も言ってきたとおりである。




ある「脅威」に対抗するために、米国が“手段”として利用した主体が新たな「脅威」として登場するという、「脅威の再生産」の構造にこそ、問題の本質があるのである。
 以上のような議論に対して直ちに加えられるであろう批判は、「敵の敵は友」という戦略・戦術はパワー・ポリティクスの常識ではないか、というものであろう。しかし、こうした批判は重大な誤りをはらんでいる。なぜなら、18世紀や19世紀のヨーロッパ国際政治の文脈においてならば成り立ったであろう戦略・戦術を、不安定きわまりない中東地域の独裁者であり侵略者である指導者に適用すれば、いかに破滅的な事態が生じることになるか、すでに事実が証明しているからである。(p.159)



この分析自体は目新しいものではない。アメリカは後に自国にとっての脅威となる相手を自ら育ててきたのだ。イラクやアルカイダがまさにそれであることは周知の事実だろう。

この分析と集団的自衛権とが深くかかわっているという指摘は、本書が示す重要な分析である。集団的自衛権は「敵」をどのように認識・識別するかということに関わる問題だからである。なぜなら集団的自衛権は「共通の敵」を前提する概念だからだ。

そして、アメリカは「敵の敵は友」の論理で次々と新たな脅威を再生産しながら、次々と敵と味方を変えていく。これは終わりのないプロセスのように思える。そのアメリカの「同盟国」である日本は、アメリカとは別個の独自の「敵を識別する能力や意思」を持たない。したがって、そのような日本が集団的自衛権の行使を認めることは、このアメリカによる「脅威の再生産」の構造の中に完全に取り込まれる(再生産に加担する)ことを意味する。自主的な判断ができない日本政府は、振り回されるだけ振り回された挙句、次々と負担を要請されることになる。そして、そこから脱出することも難しいだろう。

これが法的なレベルというよりも(国際)政治的なレベルにおける、日本が集団的自衛権を行使できることの問題点である。

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豊下楢彦 『集団的自衛権とは何か』(その2)

さしあたり指摘できることは、クリントン政権の時代に「ならず者国家」と言われる概念が“登場”して以来の経緯をみるならば、これら諸国の最大の問題関心は「体制の生き残り」であって、自爆テロも辞さないテロ組織とは、その行動様式を根本的に異にしている、ということである。(p.46)



「敵」の脅威を意思と能力という二つの側面から見た場合に、「土着的テロリズム」とは違い、「失う国」を持たないアルカイダのようなテロリストにあっては破壊活動を展開することが自己目的であり、その意味で意思についてはきわめて明確である。従って、破壊の手段さえ獲得できるならば、自滅をも覚悟して直ちに攻撃にうって出るのである。要するにここでは、いかに大きな破壊力をもった軍事的能力を獲得できるかが決定的な問題なのである。
 これに対し主権国家の場合は、いかに「ならず者国家」とか「悪の枢軸」といったレッテルを貼られた国家であっても、テロリストとは違い、最重要の課題は「体制の生き残り」にある。従って、獲得される軍事的能力はあくまで、「体制の生き残り」のための手段なのである。北朝鮮がミサイル開発や核開発について、常に「自衛の手段」と主張していることは、過激なレトリックは別として、事の本質を示しているのである。とすれば、北朝鮮のミサイル攻撃の可能性が議論される場合には、いかなる意思に基づいたものであるかが、「体制の生き残り」という課題との関係で突き詰められる必要があろう。(p.205-206)



非合理であり、何をするか、いつ暴走するかわからない、という誤解へと誤導されがちな「ならず者国家」について、その政権の関心が「体制の生き残り」にあるという端的な指摘は全く妥当なものであり、かつ、きわめて重要な認識であるといえる。同時に、そうした曲がりなりにも「国家」と呼ばれる政治主体とアルカイダなどのテロ組織では行動原理が異なっているという指摘も重要である。

この認識は本書を通して何度も繰り返し出てくる。「ならず者国家」や「テロ支援国家」などと言われるものと、アルカイダなどの「テロ組織」とは、異なった目的を持ち、異なった行動原理に基づいて活動しているので、それらに対する対応の仕方も異なるはずなのに、それらが混同されていることに対して本書は繰り返し批判しているのだが、この認識が広く世論に共有されることは重要であろう。




 つまり、サマワで自衛隊を守っている外国軍(英豪軍)が攻撃され時に、集団的自衛権を行使できないがために自衛隊は事態を“傍観”しているといったことが果たして許されるのか、という議論である。しかし、ここには大きな“落とし穴”がある。なぜなら、イラク特措法案の提出にあたっては、「非戦闘地域」に派遣される自衛隊が外国軍に守られるであろうといった事態については、具体的な説明も議論も全くなされなかったからである。仮に継続的かつ長期的に外国軍によって防衛されねばならないような地域であれば、直ちに自衛隊を撤収させるのが同法の基本的な趣旨のはずであった。現地における“既成事実”を背景に、根拠法を“飛び越えた”ところで議論が展開されることの重大な危険性が、改めて指摘されねばならない。(p.101-102)



そのとおりだ。




 バルマー=トーマスは結論として、「根本的な誤りは、英国が払った軍事、政治、財政的な犠牲にもかかわらず、ブッシュ政権に対していかなる重要な意味においても影響力を行使できなかったことである」と断じた。つまり、欧米の関係改善でも、中東和平問題でも、イラク戦争の展開それ自体についても何ら影響力を発揮できなかった、というのである(Victor Bulmer-Thomas, "Blair's Foreign Policy and its Possible Successor(s)", Chatham House, December 2006)。いみじくもラムズフェルドが指摘したように、「イギリス抜き」でも戦争を遂行できるとの確信にたっていたブッシュ政権の路線を、「軍事貢献」によって修正させるといったことは、そもそも無理な相談であった。
 先に見たように安倍首相は、日本が集団的自衛権を行使できるようになれば、米国に対して発言権を確保でき、日米関係は「圧倒的に対等」になるとの“期待”を抱いているようである。しかし、ブレア外交の顛末を見るとき、それが“幻想”以外の何ものでもないことは明らかであろう。イラク戦争における英軍の死者は150人を数えた。日本が「軍事貢献」によってブッシュ政権に発言権を確保するためには、この何倍の戦死者が必要なのであろうか。(p.111、本文の傍点は下線に変換してある。)



安倍のような幻想を抱く人間は、ネットで政治を論じる連中の中には結構いるが、まともな判断力を欠いているとしか言いようがない。

他国に影響力を与えられるかどうかは、政治的なコンテクストによって決まる。軍事力によって援助することが、相手国の存亡にかかわるような場面ならば、安倍のような議論も成り立つだろう。しかし、相手はアメリカである。アメリカ政府が存亡の危機に立つという状況は軍事的な場面においては当面ありえない。例えば、相手が弱小国であり、かつその国に敵対する国が多く、さらに、その国に対して差し迫った軍事的危機が存在するような場合ならば、安倍のような議論も成り立つが、日米同盟はそうした場面とはほとんど無縁である。

アメリカに対して影響力を行使したければ、別の領域でアメリカの困難に対処できる点はないかを模索することである。

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豊下楢彦 『集団的自衛権とは何か』(その1)

 そもそも集団的自衛権の問題は、武力行使の領域にかかわる、すぐれて軍事レベルの問題である。だからこそ、日本の“頭越し”に北朝鮮が米国にミサイル攻撃をかけるという軍事的「最悪シナリオ」も想定されるのである。しかしそこでは、何のために北朝鮮が米国を攻撃するのか、という政治レベルの根本的な問題は一切問われることはない。従って当然のことながら、日本の“頭越し”に北朝鮮と米国が和解するという政治的「最悪シナリオ」が進行する場合には、ただ狼狽する以外にはないのである。このように、憲法九条をめぐっては、政治外交戦略ではなく、集団的自衛権の問題だけが、“突出”して議論されている。その結果、「米国に向かうミサイルを日本が撃ち落さないのはクレージーだ」(ローレス米国防副次官)という米国の“恫喝”をうけて憲法を改正することが、「自主憲法」の制定であり、米国によって「押し付けられた」憲法からの脱却であるという、アクロバットのような捻じれた論理に至るのである。(p.)



日本でありがちな議論を的確に描出している。政治レベルの問題は不問に付され、それをごまかす為に「ならず者国家」の非合理性が捏造されるワケだ。

私もこの点について問題だと考えていたので、以前、メインブログの「武力万能主義を超えて」というエントリー「武力だけで問題解決できるのか?」という問いかけを繰り返し発することで、「既に攻撃された場面」しか想定しない「9条改憲派≒集団的自衛権行使論者」を、上記の引用文で言うところの「政治レベル」の場面に引き出すべきだと提案したことがある。




1972年10月14日、政府(田中角栄内閣)は参議院決算委員会に対し、社会党の水口宏之議員によるかねてからの質問に応える形で、集団的自衛権に関する政府見解として、以下のような「資料」を提出した。
 ・・・(中略)・・・
 これが集団的自衛権について、いわゆる「国際法上保有、憲法上行使不可」という、今日にまで至る政府解釈の「原点」なのである。当時、水口が集団的自衛権に関する政府解釈を執拗に追及した背景には、1969年11月の佐藤・ニクソン共同声明において「韓国・台湾条項」が導入されたことが挙げられる。1964年以来、米国は当時の南ベトナム政府の「要請」により集団的自衛権を行使するとの口実でベトナム戦争に突入していったが、事態が泥沼化するなかで、韓国やオーストラリアなどに派兵を求めていたのである。
 右の共同声明は、韓国・台湾有事に際して米国が自衛隊に軍事的協力を求めてくるのではないか、という危惧を高めるものであった。ベトナム戦争の泥沼化に加えて、集団的自衛権がきわめてダーティなイメージを国民世論に与えている状況において、政府としても第九条を前面に掲げて集団的自衛権の行使を明確に否定する必要があったのである。ちなみに、韓国は集団的自衛権を行使して南ベトナムに32万人をこえる兵力を派遣し、五千人以上の戦死者を出した。(p.5-7)



集団的自衛権という口実がどのように使われたかということについての事例。戦端を開く口実として使われ、さらに、「援軍」を増やすことで、「戦闘すなわち被害」を拡大させたのである。




以下は、2004年3月3日の参議院の憲法調査会における、京大教授で国際法学者の浅田雅彦参考人の答弁の引用である。

「権利を保持するということとそれから権利を行使するということ、権利を保持する能力と権利を行使する能力というのを峻別するというのは、法律学でいえばもう言わば常識でありまして、(中略)国際法においてもこれは同様であろうというふうに思います」「具体的な例を申し上げますと、……例えば永世中立という考え方があります。これは、主権国家であれば他国と同盟を結ぶということは権利として当然認められておるわけですけれども、しかしながら永世中立国は、自らは他国と同盟を結ばないという選択を行って、永世中立という制度はそれを自己に義務付けたわけであります」(p.11、下線は本文では傍点だった)



日本の憲法九条や「集団的自衛権は保持するが行使できない」という考えもこれと同じである。

安倍は「権利があっても行使できない」という状況を「禁治産者」にたとえたが、これでいけば、同盟する権利を保持しながら永世中立を堅持するスイスなどの国は、さしずめ「禁治産者の国家」ということになるであろう。(p.12-13)



永世中立という制度の事例はわかりやすいので、上記のレトリックと論理は、安倍的な屁理屈に対して何となく違和感を感じているような「普通の人」(政治に特段の関心があるわけではない人)に説明する際に使えるだろう。




 次いで、個別的自衛権に関する三要件、つまり「我が国に対する武力攻撃が発生したこと、この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、それから、実力行使の程度が必要限度にとどまるべきこと」を再確認したうえで、集団的自衛権をめぐる政府解釈の核心について次のように説明した。

「お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません

(p.14-15、下線は本文では傍点)



これも安倍晋三らの集団的自衛権行使容認の根拠を否定するもの。

自衛権を行使する際に日本政府は、満たすべき3つの要件を課しており、集団的自衛権はその条件を満たさないために「必要最小限度を超える」と言われ、行使できないわけだ。

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保坂展人 『年金を問う 本当の「危機」はどこにあるのか』

 すでに見てきたように、「膨大な積立金」を国家資金として管理・運用し、「生産力の増強と戦費調達に役立つ」と軍部を説得したのだから、戦時中の年金制度はすぐに支払いが生じない積立方式でしか出発できなかったのだ。
 しかし、戦後数年間のハイパーインフレで貨幣価値が急落すると年金制度が積立方式を維持することができなくなった。そこで、事実上の賦課方式に移行していくことになる。(p.17)



一見、「福祉政策」と「軍事」とは相容れないように見えるかもしれないが、年金制度という事例も、実はこれらが密接に補完しあうことがあるということの一つの事例をなしている。




 アメリカでは、特別な国債で年金積立金を全額運用している。国内株式市場に投資したり、外国債・外国株を買うというリスクは負っていない。政治リスクを排除して、中立的な受託者(トラスティー)によって厳格に管理されている。市場万能で何でもありと思われるアメリカでも、社会保障基金に手をつけたら大変だという原則は貫かれている。(p.56)



今や、日本ほどネオリベラリズムというイデオロギーが常識として人々の間に染み込んでしまった地域はないだろう。日本の言論空間はネオリベ・イデオロギーに汚染されていると表現してもいいくらいだ。

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