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鶴間和幸 『世界史リブレット6 秦漢帝国へのアプローチ』

不思議なことに司馬遷の記述以外の情報をえることができると、司馬遷の文章のなかにも今までみえなかった世界が浮かびあがってきたのである。秦帝国の形成史の文章には多くの伝説が収録されているが、そこに東方の地の人々の反秦感情の叫びが聞こえてきた。それは国家ではなく地域に生きた古代の人びとの意識といえるものであった。(p.23)

こうした認識の理論枠の変化は歴史に限らずしばしばある。


「司馬遷の記述以外の情報をえることができると、司馬遷の文章のなかにも今までみえなかった世界が浮かびあがってきた」というのは、「自民党(テレビ)から流される情報以外の情報をえることができると、自民党(テレビ)から流される情報のなかにも今までみえなかった世界が浮かび上がってくる」なんて読み替えると、今の世の中にはちょうどいいのかもしれない。


皇帝の土木事業は、すべて統一の直後におこなわれたと考えてしまいがちだが、そうではない。鄭国渠という水利施設は秦王政の時代、咸陽城の拡張や馳道という道路網の整備事業は統一直後、長城や軍事道路の直道、阿房宮などの工事は前215年以降、対外戦争が始まってからの戦時体制下のことであった。(p.41)

この錯覚は特に指摘されない限り、漠然と信じられてしまうだろう。つまり、あたかも秦の大土木工事は15年の「統一」を成し遂げた時代になされたかのような錯覚に陥りがちだ。

理由は簡単で、教科書や本や年表などに書かれ、テレビなどマスメディアで紹介される「秦」は「統一」時代のものがほとんどだから、「秦」という王朝のイメージはその時代のものとして捉えられてしまうからだ。

逆に言えば、秦が統一帝国を形成する前のプロセスはあまり書かれたりしないために、人々の意識の中には現れないので、あたかもそんなものはなかったかのように扱われるというわけだ。こうして、「秦王朝が作ったもの」は、短絡的に「自分が知っている時代の秦帝国」のものだと結び付けられる。

実際には、秦王朝は統一帝国を形成する以前から存在しており、活発に活動を続けていたのだが、そうした事実は考慮に入らないために、このようになる。

最近の歴史修正主義や政府や自民党の広報などは、いうなれば、意図的に「秦王朝には統一時代の活動はなかった」とすることで「秦王朝は15年間で大事業をやった」と宣伝するのにも似ている



戦国時代は東北に流れた第二の可道をみれば、南方の楚を除く燕・趙・韓・魏・斉・秦の六国が国境として黄河を共有していたことがわかる。・・・(中略)・・・。黄河上流に位置し洪水の被害のなかった秦は、黄河の水を決壊させて魏の大梁を攻めたように、対東方六国の戦術に黄河を利用した。・・・(中略)・・・。司馬遷は400年も続いた黄河河床に泥土が堆積し、瓠子(こし)で決壊しながらも十分対応できない対策になげいている。秦漢帝国が関中や洛陽に拠点をおいた理由は、こうした東方の黄河下流の洪水を避けたからである。(p.66-67)


このことは本書を読んで初めて知った。西方にあり経済的にはおそらくそれほど豊かではなかったと思われる秦が他の王朝を倒すことができた理由の一つはここにあったのだろう。

本書の著者はブローデルの言う長期持続や変動局面のようなやや長い時間から歴史を見ており、興味深い。




私たちは起点となった秦漢帝国は、統一を完成させたのではなく、曲がりなりにも戦国の国家システムの延長上に統一システムを始めたにすぎないと考えたほうがよい。そうでなければ、その後2000年の王朝交代史は単調なものになってしまう。(p.85)

これも比較的長い時間軸で歴史を見ていることの事例。また、中国の王朝の統治のあり方と社会の構成を見ていく上で参考になるパースペクティブを与えてくれる見方だと思う。

例えば、地方政府と中央政府との関係は、戦国時代の王朝とそれを統一した王朝との関係を継承している。

後段の理由のつけ方は、ある意味では「事実」というより「要請」という印象を与えるが、その判断の背後には2000年もの長きにわたる歴史、それも中国のような広大な地域の歴史的展開が、そんなに単純な図式で語れるほど単純ではありえない、という仮定がある。これ自体、確かに仮定ではあるが、これまで人類は歴史を説明するための数々の図式が失敗してきたという「経験的事実」――これ自体、理論負荷されているが――を参照枠として持っているために、よほどひねくれていない限りは大抵の人に対して説得力を持ちうる仮定だと言える。

政治などについてばかり文章を書いていると、こういう込み入った――というほどでもないが――説明を使えない。これは私にとっては物足りない。大昔、政治以外のことを書いているときは、誰にも読まれなくてもよかったから、こういう当たり前すぎることを少し「くどく」書くのもやりやすかったが、今、メインブログで政治の話を書く場合、度を越えて読みにくいのは、さすがにまずい。だから、多少正確さを犠牲にしたり、砕いて書いているところがある。

そんなわけで、たまにはこういう文章読解の詳細も書かないと(力を使わないと)、だんだんかけなくなってくる気がする。


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而立会 訳、三潴正道 監訳 『必読!今、中国が面白い 中国が解る60編』
本書は、2006年の『人民日報』の記事からの翻訳である。

 日本の安倍晋三新首相が十月八日から九日にかけてわが国を訪問した。・・・(中略)・・・。彼は、日本が第二次世界大戦中に行った植民地支配と侵略行為が多くの国々、特にアジア諸国の国民に計り知れない損害と苦痛を与えたことを認め、且つ、日本が極東軍事裁判の判決を受け入れ、異議を唱えないことを表明した。
 ・・・(中略)・・・
 安倍首相は訪問中に、日本が嘗てアジア各国に計り知れない損害と苦痛を与え様々な傷跡を残したことについて、深い反省の念を表明し、且つこの立場が今後も変わらないこと、また日本は決して軍国主義を賛美しないしA級戦犯も美化しないことを表明した。彼は更に、日本は引き続き日中共同声明に従って台湾問題を処理する立場を変えておらず、一つの中国の政策を堅持し、「二つの中国」や「一つの中国・一つの台湾」を認めず、台湾独立を支持しないことを表明した。(p.8-10)



当時、日本のメディアは「戦略的互恵関係」という言葉ばかりをクローズアップしていたが、こうした側面はあまり伝えなかった。安倍が彼個人の意見に反する数々の約束を中国としてきたということについては、よく認識する必要がある。

私としては、安倍本人としては、長期的にはこれらを覆すつもりなのだろうと想像する。従って、当面の支持率向上のために行った措置だと解釈している。結局、自分の数々の判断ミスで支持率はこの後どんどん落ちるのだが。




湖北省は中国中部に位置し、公務員の賃金は高いとは言えない。一部の専門知識をもった裁判官はしばしば深セン・上海・広東など発展した沿海地域の高給・高位による一本釣りの対象となっており、裁判官の「東南飛」(東南部への流出)はますます増えている。(p.75)



賃金が地域で違うとこういうことが起こる。人は、賃金が高い職場には参入しようとし、賃金が低い職場からは退出しようとする

北海道の夕張市で給与30%をカットしたり、退職金も大幅削減したら職員がどんどん辞めたこともこれと同じ道理である。

ただ、高賃金で働くからといって労働のモチベーションが高いかどうかは別問題である。しばしばこのことが混同され、成果に応じて給与が上がるほうがモチベーションが上がると解釈されて、悲惨な給与体系が構築される(成果主義)。実際には、これは労働のモチベーションを極めて下げてしまう給与体系である。




特に注目に値するのは、同じ漢民族の姓であっても血縁上大きく二つに分かれている点で、武夷山の南嶺を境に、その南北間の血縁上の差異は大きく、南北の漢民族間の差異は少数民族との差異より大きい。(p.240)



中国社会は、南と北とがそれぞれ緩やかなクラスターを形成するネットワークだったということを示している。

また、これは「民族」なるものが血縁とはあまり関係ないということを、ある意味では示す資料でもある。

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斯波義信 『東洋叢書9 中国都市史』(その2)

要するに、水運の発達した中国といっても、じつは水系ごとに並び立つ“大地域”の集合なのである。大地域はそれぞれに土地利用率の高い下流部のコアをもち、水源に向かい分水界に行くほど利用効率のうすい辺縁部をもつ。本土をこうして区画すれば、「北中国」「北西中国」「長江上流」「長江中流」「長江下流」「東南沿海」「嶺南」「雲南・貴州」の八“大地域”が浮かび上がる。この操作は繁雑に見えるかもしれないが、行政都市のシステムと自然的・経済的都市のシステムとを一望のもとに、また相関させて見ていくステップとしては欠かせないのだ。煎じ詰めれば、行政都市といえどもその生態的なベースは、いま述べたような条件に根をおろしているのである。(p.96-97)



西域やチベット、モンゴルなどはここに入っていないが、水系による区分という考え方は、中国の歴史を考える上で有用な地域区分だと思われる。

以前思ったことだが、これと同じことはフランスにも当てはまる。あの地域も水系によってかなりの地域差があるし、歴史的変遷を見ても、水系は一つの地域的なまとまりを形成している。

もう少し具体的に言えば、ロワール川、セーヌ川、ローヌ川、ジロンド川といった川が、それぞれの地域の盛衰と密接に関わっているらしいというのが、旅行前の事前調査と実際に行ってみて感じたことだった。

また、後段の「行政都市」も水系に根があるというのは、本書の基本的なメッセージとして、中国の都市は行政によって作られた面はそれほど大きくなく、より「下から」の動きで作られたものだとする主張があると思うが、それと深く関わる認識だろう。




 以上から帰納して、中国の都市生態の特色といってもよい二点がある。一つは官紳区と商工区の二核並立の構図であり、もう一つは商工中心区の立地が交通の要道との関係で決まってくるという点である。(p.131)



中国の都市を見るにあたって、簡潔で有用な図式だと思われる。2点目については中国に限った現象ではなく、むしろ一般的な現象だと思われるが、中国の都市は、行政文書からの情報が多いために、従来、どうしても行政の面から見られてきたため、あえて強調しているのであろう。




 大型汽船に向いた港湾としては今でも香港がトップランクを占めているが、上海はかろうじてこれに次いだ。黄浦江・長江ともに沙泥がたまるので、浚渫の手が抜けないからである。ただし上海は人口が過密で産業に富み、内地の水運や商業の集まる揚子江デルタにもっとも間近な海港だった。一方、この一帯で沙泥をまぬがれていたすぐれた帆船港は寧波であり、唐代末から1000年あまりもその名を内外に知られていた。寧波から上海へという海港都市の盛衰劇は、帆船から汽船へのシフトとまさに並行していたのである。中国が19、20世紀はじめに海洋と内河の汽船に開いた港は、結局、90の条約港と開場場、そして25の補給港にのぼったが、その実、集中的な外国商社の進出や外資投下の対象となった港は、香港・上海・漢口・天津などのごく限られた数であった。(p.183-184)



寧波から上海へのシフトが水運の技術と結びついているとするのは興味深い。上海の歴史がそれほど古くないことは、このことを念頭に置くとよくわかる。

後段の、集中的な外国商社の進出や外資投下の対象となった港はごく限られていたという指摘は、まさにスケールフリーネットワークのモデル、とりわけBAモデルを想起させる。

形としてはたくさんのところが開かれても、実際に使い勝手の良さは違っている。ごく僅かであれ、近隣の港より頭一つだけでも抜き出ていれば、そこに商社や資本のアクセスが集中し、ひとたび商社や資本が集まり出すと、そこには情報なども集まるなど新たなメリットが生じ、さらにそこが有利になっていく、という形で上昇的なスパイラルが生じるというわけだ。

こうしてハブとなった港が香港・上海・漢口・天津だというわけだ。

この「ちょっとでも他よりよければ、そこが一人勝ち的に人気を得る」というのは、ネットショッピングならアマゾンとか検索エンジンならグーグルに見られる現象であり、また、「市場を自由化」すると、似たようなことが起こることが多い。いわゆる「格差拡大」というのは――どのようなものの格差であれ――こうしたパターンで整理できることが結構多い。




歴史学、地理学、経済学、社会人類学の角度から、すでにいくつかのすぐれた業績が積まれて、理論化も試みられ、時事問題としても脚光を浴びているにもかかわらず、鎮・市の位置づけや歴史的な展望がまだ定まっていないとすれば、それはどこに問題があるのだろうか。思うにその原因は、鎮・市の展開があまりに中国独自であって、裏返せば世界に比較のモデルを見出しにくいことに尽きるだろう。(p.269)



この問題を克服するには、従来型の都市の理論モデルとの違いを明確化し、中国都市の「独自性」があるとすれば、それは何であるのかを明確にすること、その上で、その「独自性」なるものを描き出すところからはじめるべきだろう。

本書は、その重要な試論であるとはいえそうだ。

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斯波義信 『東洋叢書9 中国都市史』(その1)

全体を知るという面では、都市行政史とこの都市集落史の流れをかみあわせて述べてゆかねばならないのである。(p.5)



大幅にはしょって引用したが、「中国都市史」を知る上では従来の研究にありがちだった都市行政史(公的制度とそれに関する歴史的展開)だけでは足りず、私的セクターの活動などの集落のありようについても同時に知らなければならない、といったことが書いてある。

日本で言えば、80年代頃から歴史学はアナール派などの影響のもとで社会史の研究が盛んになったが、これもある意味では政治史や経済史に対する補完的な役割というか、すべてが組み合わさらなければ、全体像が見えないという意味があったと思われる。そうした歴史研究一般の動向と並行する思想が本書にも流れている。




 唐朝300年弱の世のうち、繁栄と安定の日々はせいぜい100年たらずだった。しかし久々の統一と平和、制度の充実がさいわいして、社会経済は唐代のなかばから清代にいたる長い上昇の周期に向かった。そのいくつか考えられる駆動力のうち、筆頭にくるものは大運河効果だろう。八本の公路はおおむね河川に沿ってはいるが陸道のシステムで、飛脚と早馬の世界である。610年に完成した大運河は内陸水運時代の幕開けであった。東西方向の黄河、淮河、長江(揚子江)が今や南北につながり、華東そして淮河・長江から広東・広西以北にわたる“江南”(華東南部と江南を合わせて“東南”ともいう)が中国全土のなかでも経済効率の高い地域として浮上した。水運は陸運よりも10-20倍も安く、早く、安全で大量の輸送をもたらすからである。大運河の副産物として、それが通過する江蘇省の低地や沿海部で塩田がひらけ、これがやがて水田になり広域にわたる低地の干拓がうながされ、“東南”の物産として低地の米・塩、山地の茶・漆・藍が、華北の市場に向けて特産化した。当然に交通の要所や難所、人口の多い地域に交通業が育ち、これに同調して「客商」(遍歴商人)がその活動を広げた。唐代なかばには中国南北の人口配分が北に4.5、南に5.5になった。(p.27)



登録人口の分布は、漢のときに北方に9、南方に1の割合だったものが、後漢・三国から魏・晋・南北朝時代には北に7、南に3に変ったとされる(p.23)。これが唐代になると南方の方が人口が多い地域に変ったというわけだ。

この後、大きな流れとしてみると、都が長安から北京に移っていく。陸上交通が主体だった時代には内陸にあり、遊牧地帯と農耕地帯の中間にあった長安に地の利があった。大運河と水運の比重の大きさによって、長安の地の利は小さくなり、防衛の要望を満たしながら、南部の豊かな物資を手にすることができる北京が浮上したという流れを描くことができる。




 つぎに宗・元代の都市史において見落とせないのは、海港都市が成長をはじめたことであろう。東南海岸ぞいには漢代以来、広州が海港として知られてきたが、福建、浙江、江蘇、山東の沿海域を南北に往来する海上交通は長く不振であって、逆に内地の府州域・県城の大半が実際は内河の港市であったのと対照的であった。日本、朝鮮半島、あるいは遠く東南アジアにまでも渡る大型のジャンク船(200-500トン)が定期周航をするようになるのは、唐末からであって、広州以外に泉州、福州、温州、台州、寧波、定海県(舟山)、乍浦、かん浦鎮、青浦鎮、劉家港、上海鎮、海州、楚州、密州板橋鎮(膠州)が、宗-明代にかけてあるいは市舶務、あるいは市舶場の置かれる海港として登場したことは、画期的なことである。これは、大運河がその南端の杭州以南において山地で行く手をさえぎられ、海に向かって延伸してゆき(O.ラティモア)、これと軌を一にして海運がおこったと考えれば理解しやすい。(p.46-47)



上の引用文と繋げると概要が理解しやすい。

中国地域の中核部は、北から南へ、そして沿海部へと展開していった。

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李成市 『世界史リブレット7 東アジア文化圏の形成』

 1950年代から60年代にかけて、おりに触れ、日本人の世界史における現代アジアへの問題意識が希薄であることを訴えていた上原氏には、日本はアメリカの政治的従属下にあり、そのままでは戦後のアジア・アフリカ諸国と直接に向き合うことができず、これでは真に世界史を生きることができないと感じられていた。第一次世界大戦以後の世界秩序は、ヨーロッパ人が支配の対象としてつくりあげたヨーロッパ人の秩序(一体的世界)であり、これをアジア・アフリカ諸国と連帯して、その支配・従属の構造を否定し、構造転換をはたすことが現代の切実な課題であった。(p.38-39)



アメリカの従属下にあり、それ以外の世界にまともに向き合えていないというのは、50年が経った今でも妥当する。その意味では今でも同じ問題を抱えていると言える。

ただ、現代の問題について言えば、こうした戦後一貫して継続してきたレジームについて、「戦後レジームからの脱却」を謳う連中が、むしろより一層アメリカへの従属の度合いを深めようとしている点には注意すべきであろう。

それを「戦後レジームからの脱却」と言いながらやろうとしているワケだ。憲法9条を改正して、海外で自衛隊を使えるようにして、アメリカの都合の言うがままにその軍事力を使おうというのだから。

そうなれば、アメリカは自国民の犠牲を出さずに安上がりで世界を軍事的に統治できるし、日本は犠牲が多く出て財政支出も増えるが、アメリカからはより多くの「リップサービス」だけは受けられるようになるわけだ。

まさに「安倍こべ」である。対米従属という「戦後レジーム」の悪い面だけが拡大されることが、「戦後レジームからの脱却」とは全く笑わせる。




 漢字文化の伝播と受容は、中国との政治関係が大きな契機となっていたであろうが、あまり継続性のなかった中国との外交関係のみにかかわるのでなく、隣接する周辺諸国間の普段の重層的な交渉にかかわって、漢字文化が伝播し、受容された可能性を今後も追究してみる必要がある。(p.69)

すでに西嶋氏自身が指摘するように、冊封関係の設定とは、周辺諸民族の首長を中国王朝の国家秩序のなかに包含することによって、この秩序体系をその地域に拡延することであるから、冊封された首長たちは、その支配体制を自らも中国王朝に似せて整備しようとした。彼らは、中国から冊封を求めたのは、彼ら自身がその支配領域内において権威を確立しようとしただけでなく、さらに彼らの周辺にたいしても支配的地位をえようとしたためでもあった。それゆえ、冊封関係が、中国と周辺首長との関係として設定されることによって、またこれらの首長とその周辺との関係として拡延されることになる。(p.75-76)



このあたりは、本書が主張しようとしていたことのひとつを端的に表現しているところだろう。実証的な事例を交えて本論は展開されているので、かなり説得力がある。

ただ、本書の実証研究からの引用は、中国東北部から朝鮮半島がクローズアップされているために、西域やロシア、チベットにはなぜ漢字が朝鮮半島や日本、ベトナムほどには伝播しなかったかということについて、それほど説得的な議論は展開されていない。ここに僅かに不満があるが、本書のような小冊子にそこまで求めるのは行きすぎでもあろう。




「わが国の文化」「日本独自の文化」「日本固有の文化」「独自の民族文化」「日本文化の個性的性格」「日本独自の創造物」などといった用語に戸惑いを禁じえない。いうまでもなく、それらは近代日本において、仮想された「西洋」のまなざしのなかで発見され、創造されたものであった。(p.84)



最近30年以内のそれなりの社会科学的文献を一度でも読んだことがある人にとっては、これはあまりにも常識的な話なのだが、どうもそうでない人もいるらしい。

仮想された「西洋」のまなざしのなかで、というのは、仮想された「西洋」と仮想された「日本」とを比較して、前者に見当たらないが後者にだけは見つけられるものがあれば、それが「日本に固有の文化」とされる、ということだ。

仮想された「西洋」から見て、その「西洋」にはないが「日本」にあるとされるもの。もちろん、「西洋」だけでなく「中国」なども見た上で「日本に固有」かどうかが検証されるわけだが、実際には知れば知るほど「日本に固有」なんてものはないってことがわかってくる。ただ、あまり一般には広く知られていないために、あたかも「日本に固有」に見えるだけ。

この仕組みが分かれば、「伝統」と呼ばれるものの多くが、実は新しいというホブズボームらの主張が正しいことの理由も分かる。ある人が直接知っている時期から始まったのでない限り、外部から来たのではない「固有の文化」は、古くからあるものでなければならないから。

もちろん、こうしたイメージ形成には、メディアの働きや政治的支配層の都合など、いろんなことが絡んでいるから、これだけが要因だ、などと単純に割り切って言うことはできないが、ひとつの要素としては指摘できると思う。

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長廣敏雄 『雲岡日記 大戦中の仏教石窟調査』
著者である長廣氏は、大戦中に足掛け7年間、雲崗石窟の調査に携わった。そのときの日記。ある意味、この本は無味乾燥なメモの集積に過ぎない。

しかし、その中には、戦時中の日本社会の様子や日本が占領していた中国東北部などの様子が、当時の人の視点から描き出されている。美術史や考古学の発掘の調査記録であると同時に、この日記は戦時中の記録としての意味もある。本来は前者の目的で購入した本だが、読むと後者の側面が非常に興味深かった。

終戦から62年が経とうとしている中、核兵器保有論者が首相の座に居座るという異常な状態になっているが、そうした中にあって、既に絶版となっている本書の内容を人目に付きうるところにアップすることは無意味ではあるまい。

 悪いことに、日中戦争勃発の年(1937年)に、私が同人の一人であった「世界文化」誌グループの二十数人の同人が、治安維持法という悪法により、一斉検挙された。そのあふりを食って、私も要注意人物として警察のブラックリストに載せられたことを、友人から知らされた。いつ検挙されるか分からない情勢だった。
 したがって水野、長廣のコンビのうち、私は積極的に寄付金依頼などの対社会的行動がとれなくなった。これは出鼻を挫かれたことである。(p.14)



当時の言論状況がどのようなものであったかを垣間見ることができる。共謀罪が成立したら、それはこうした状況を復活させる布石となるだろう。




 皇帝は生き仏だ、という法果の宣言は、首都平城(大同)時代を通じて、ずっと北魏仏教の特色であった。この仏教思想は、南朝仏教とは正反対だった。南朝では「僧侶も国王に敬礼すべし」という国家権力者の強制は、仏教者の側の抵抗にあって実現しなかったからだ。つまり南朝では国家権力が弱かったのだ。ところが異民族国家の北魏では国家権力が圧倒的に強かった。仏教徒は国家権力にたより、また、それを利用した。
 要するに北魏では生き仏の皇帝の権力で仏寺、仏塔が建てられ、僧侶が集められた。仏教は一気に盛んとなったわけだ。(p.22-23)



一つ注意すべきは、「国家権力」の強さについては、他の勢力との相対的な関係として見なければならないということ。北魏の王朝の権力が南朝の王朝の権力より強かったかどうかは別問題である。当たり前のことではあるが、この叙述からはどうしてもこうしたことが連想されがちなので念のためメモ。

それはさておき、私がここを読んで即座に想起したのは、ラテン世界とビザンツ帝国との違いと類似しているということだった。

北魏はビザンツと同じで政治的権力が宗教勢力よりも強力だったために、宗教勢力を従えることができたが、南朝はラテン世界と同じでそれだけの強大な権力が存在しなかったので、宗教勢力が相応の独立性を持ちえた。

中国の経済はどちらかというと南の方が豊かだと思っているが、南北朝の時代にはまだ南はそれほど発展していなかったと思われる。その意味で歴史を通して近代に至るまで常に貧しい地域であり続けたアルプス以北の地域の状況と重なる。

貧しい地域において政治が十分に中央集権化されていない場合、宗教権力にも相応の自立する契機があった、そんな感じだろうか。




昭和十四年八月十七日の日記より。北京から大同に向かう途中、列車が通れない地域を歩いて通ったときの記述。

 北京到着の日から毎日、北京駅へ行き、北京から南口駅まで行き、そこの軍司令部に情況を聞いていた。要するに南口駅から渓谷の情報にある青龍橋駅まで約20キロ(だったと思う)を徒歩によって踏破するしか方法がないことが分かった。その徒歩連絡の軍の許可証はこの日(十七日)やっと手にすることができた。だが南口駅の軍司令部の下士官が言うには、「日没までに青龍橋まで歩行できない場合は、軍の営倉にぶちこむ」と。つまり、この区間は軍の作戦地域なのだ。八達嶺の山々には万里長城がうねうねしているし、どこから中国軍の便衣隊が奇襲して来るかも知れない、という次第のようだった。
 ・・・(中略)・・・
 着剣した、厳しい蒼黒い顔つきの兵隊が十メートルぐらい置きに立っている。両側の岩山から谷にかけては、何百メートルもムカデのように一列に並んだ中国人(徴発された農民かも知れない)が石運びをしていた。青ざめた顔に泥んこの衣服をまとっていた。黙々と突っ立ったまま、石を持った両手だけが動いているのだ。私は背筋がぞっとした。何日間、この強制労働は続くのだろう。占領軍と被占領地の農民。着剣の日本兵は、地獄の獄卒というところだ。(p.39-40)



力によって他人を従わせるのが日常茶飯事になっている状況。好ましいものではない。




昭和14年9月3日

蒙疆聨合自治政府の末端機構としての晋北政庁は、雲岡石仏寺保存計画をたてている。政府ができるまでの雲岡は、軍の管轄下で「石窟を破損するものは、銃殺に処す」などという物騒な制札が石仏寺の門前に厳然と建っていた。それが、政府成立後、軍の背景は依然強力ではあったものの、こうやって、雲岡の保存事業が進められることになった。(p.60)



軍隊なるものは、いつも力だけによって彼らの望む「秩序」を守ろうとする。そんなものは長く続かないのだが。それはともかく、この札もそうした軍隊なるものの姿勢をよく示していると言えよう。




昭和14年9月23日。

 晋北政府計画の雲岡村民の立ち退きは、あと一週間の期限をつけて、今日、村民たちに金を渡している。一戸当たり大体二百円ぐらいだが、調査班要員の農民は、大体いい方で、三百円以上だ。調査班要員の村民青年たちはいろいろとその話をして、多少興奮しているらしい。永年の間、この石窟石像と一体となって生活していたものが、幾百年の慣習を捨てて、去ってゆくのだから、動揺があるのもよく分かる。
 だが今のままの雑然とした石仏寺域では、なんといってもひどすぎる。仏教聖地とは言いにくい。この前庭が広い芝生に取り囲まれて、ほんとの清浄な霊地となる必要があるのだ。(p.70-71)



ここでの著者の立場は、侵略者側の人間が常に陥りがちな傲慢さを孕んでいる。また、考古学などの学術研究の持つ傲慢さがしばしば指摘されるが、まさにその事例でもある。

しかし、確かに石窟を保存する上では農民の家が石窟と完全に隣接しているような状態は望ましいものではなかろう。ここの選択は非常に難しい問題をはらんでいるとも言える。

以前、このブログで引用した本に書いてあった西安の立ち退きの事例(どんな事例かはブログの引用文だけではちょっと不明瞭だが)とも通じるものがあるが、雲崗の事例の方が正当性はあるような気もする。ただ、軍事力を間接的な背景とした上での収用というのは、やや酷に思える。




昭和17年(1942年)

 八月二十日(木曜)晴
 画家福田平八郎氏来る。大連商工会議所会頭の首藤氏といっしょである。
 首藤氏からいろいろと大陸経済の情況を聞く。世界戦争は結局、食糧戦争だという。北シナには物資がどんどん集まる、ということ。満州は北支から石炭や綿花を輸入しながら、その代わりの物資を返せないということ。冀東地区の共匪(共産軍)が蠢動すること。彼らは食糧票を発行していること、などなど。先日から私は、大陸進出に空虚な理念倒れのみを痛感していた。八紘一宇の精神主義に、なにがあるのか。(p.117)



やはり当時の人も同じ思いを感じていたのだと思われる。

右翼や軍国主義者には、因果関係を客観的に把握する方法論がいつも欠けている。だから、政策論を語るときに内容の裏づけを持って語ることが出来ない。半ば必然的に精神論に頼らざるを得なくなる。

安倍晋三が「政策」を全く語れないということは、偶然ではない。政治家になってから14~15年になるのだろうが、彼は政策よりもただただ権力を手中にすることとそれを行使することしか彼は念頭においてこなかったように見える。

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長廣敏雄 『雲岡と龍門――中国の石窟美術――』

 五胡十六国時代の野蛮で狂暴な北族の興亡史のさなかに、仏教は着実に中国の土壌のなかで根をひろげていった。上に述べた訳経の大事業のみならず、もっと実際的・政治的な力を偉大な仏教僧たちはふるった。それを国家の独裁者たちは大いに尊重したのである。(p.22)



雲崗や龍門の石窟も、こうした権力との結びつきが背景にある。仏教がイデオロギー面でどのように政治権力を補佐していたのか、興味があるところだ。キリスト教やイスラームについてはある程度知っているつもりだが、仏教の場合はどうだったのか?




北魏において、太武帝の排仏が446年にあった後、文成帝が452年に仏教復興の詔勅が発布された。

 勅命によって仏教が復興されると、当然、国家の要請による官寺が建立され、僧侶が統率された。宗教長官(道人統とよぶ)となった高僧は師賢であった。師賢はもとインドのカシュミール出身の外国僧、中国に渡っては涼州からきたということは、仏教復興時代の国都の仏教がどんなものかを、暗示している。さきに涼州からの大量移民についてのべたが、それとも関係するだろう。仏教美術においても、涼州系統の勢力、ひいては西域の勢力が否定できないだろう。(p.30)



初期の仏教美術はこうした傾向が強そうだ。私の知的経歴から言って、おそらく見るには、こうしたものからアプローチする方が馴染みやすそうだと思っている。

その意味では、洛陽の龍門石窟ではなく、大同の雲崗石窟に近々訪問することになったのは、半ば偶然とはいえ適切な選択だったかもしれない。




 皇帝が自分を仏像として作れと命令しているわけである。皇帝は生き仏として、現世に降臨したと自他ともに信じるのである。さきにあげた僧法果が、一般僧に命じて、皇帝を仏として礼拝せよとのべたのと同じ思想である。これは北魏仏教が南朝仏教とまったく異なる点である。そして仏像製作についても、この北魏的思想をみのがすことはできないだろう。(p.31)



この、皇帝を生き仏とみなすという教義は、上で私が発した疑問の一部をなす要素だろう。ただ、それが仏教の教義の展開の歴史の中で、どのように位置づけられるのかが私にとっては、ひとつの問題として残る。

北魏と南朝との仏教に対する姿勢の違いは支配の正当性の源泉が南朝には他にも多様にあった、ないしはより強力に訴えうる源泉があったということと関連しているのだろう。北魏にはそれが乏しかったと考えられる。支配層の武力は強力だっただろうが、武力・暴力では恒常的な支配を確立することは不可能だ。武力・暴力はあくまでも最後に残された手段でしかない。



 曇曜五窟はいずれも尊像のための石窟である。したがって、壁面を押しのけるほどの迫力ある大仏を掘り出すのが目的であって、石窟内の空間を建築的に――ちょうど寺院のように――造作することは、考えなかった。この点でバーミアンの35メートル、53メートル大仏石窟と酷似する。そしてインドの石窟寺院、たとえばナーシク石窟、バージヤ石窟などとはまったく異なっている。インドでは僧侶が住むことのできる僧房窟と、礼拝行事をおこなう塔廟窟が主体である。それは岩窟の建築にほかならない。石窟の外壁がすでに建築的な立派なファサードをそなえているのだ。
 曇曜五窟はそうではない。大仏だけを彫れば目的は達したようなものだ。明かり窓や門口は全然建築的意匠を無視している。それはおそらく内部をほったときの、残石を運びだすための排出口であろう。だからこそ、石窟の外観が、ちょうど砲弾で打ちぬいたように殺風景なのである。
 インドの石窟寺院では建築家的企画がありありとみとめられるが、曇曜五窟では彫刻家のみがその力量を発揮しているといってよい。(p.50)



雲崗石窟のうち、最も古いとされる第16窟から第20窟を曇曜五窟という。

私は実物をまだ見ていないが、本書などを読んだ限りでは、規模が大きく、装飾が周囲も含めて少ないという印象を受けている。仏像だけが命であって、それ以外の要素は捨て置かれているという印象がある。

実物を見たらどのように感じるだろうか。




 さて賓陽洞の外壁には石窟入口の左右に、金剛力士像がほってある。・・・(中略)・・・。いわゆる憤怒相で、外敵を追いはらう意気込み十分である。・・・(中略)・・・。
 こういう力の充実した彫像が六世紀初頭を代表するとおもわれる。完全に中国的な造形なのである。西方からの借りものは全然みられぬ。外面的なナチュラリズムもなく、遊戯的な衣文のたわむれもない。(p.143-144)



雲崗の初期の石窟は西方からの影響が極めて強いが、次第に中国の土着的な要素が大きくなっていく。龍門石窟になると西方から来た要素は直接には見られないものまで出てくる。

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梅森直之 編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』(その2)
第二部 アンダーソン事始 より

 ところで、とてもむずかしい話を聞いたあと、皆さんはどうしていますか。僕は、他人の迷惑も顧みず、そのへんにいる友人をつかまえて喫茶店へ連れ込み、とりあえず聞いた話の感想を、しゃべってみるようにしている。これは、結構いいですよ。しゃべっているうちに自分の考えがまとまってきて、「なるほどそうだったのか」と叫んだことも一度や二度ではない。(p.110-111)



非常によくわかる。研究成果を発表したときなどもその発表の場だけで終わらずに、もっと砕けた話ができる場をその後に設けると理解が進むという経験はよくあることだ。

また、この読書メモ用のブログ「アヴェスターにはこう書いている?」などもそうだが、こうやって文字にして書き出すことも同様の頭の整理になることがある。このブログの場合、必ずしも本文の文脈とは関係がなくても、単なる連想のメモなどでも記録しているが、意外と自分の頭を整理するには役立つことがある。




 問題は、本質主義と構築主義のどちらが、いかなる場面で、どのような「日本人」についての説明を与えてくれるかということだ。「日本人」について考えるうえで、僕たちの常識となっているのが本質主義であるということを、とりあえずは認めてよいと思う。僕たちは通常、「日本人」が「いる」とは考えるが、「作られる」とは考えないからである。しかしこの「常識」も、少し厳密に考えてゆくと、そこにはいろいろなほころびが見えてくる。
 たとえば文化的規定の場合。僕たちは、礼儀正しい外国人がいることも、わがままな日本人がいることも、個人的経験を通じてよく知っている。だからこの命題(※引用者注;「日本人とは、礼儀正しく和を重んじる(=主体性がなく自己主張ができない)人々である」という命題)については、容易に反証を挙げることができる。
 確かに個々人について見ると例外もあるが、やっぱり平均的な日本人についてはそう言えるのではと考えるあなた!平均的な日本人について語るためには、すでに日本人とは誰なのかがあらかじめ決められていなければなりません。つまりどのようにがんばっても、文化によって「日本人」を決めることはできないのである。なぜなら文化的規定とは、すでに存在している「日本人」の特徴を記述するものに過ぎないからだ。
 ・・・(中略)・・・。歴史もまた「日本人」を規定することはできない。なぜなら「日本人」が、歴史の範囲を規定しているのであって、その逆ではないからである。(p.116-117)



端的に文化的規定と歴史的規定の問題点を示している。

実際にはもう少し問題は込み入っていると私は考えるが、ナショナリズム研究についての文献も読んだことがなく、素朴にナショナリズムを信じている人に軽く説明する時には、このくらい単純化して割り切って話すことが必要だろう。その意味で参考になる。

「あまり厳密に言わないで、だいたいの日本人は●●だ」という論の場合でも、同じ論理で反駁できる。また、この議論のより極端な形式として「日本人は●●なのが国民性だ」という言説があるが、それも同じである。

しばしば、リアル世界でこの言説に異論を唱えても、ピンと来ない人が結構いる。その人たちの頭の中は「●●な日本人」しか想像せずに、それを母集団として考えているワケだ。だから、彼らの想像に任せる限りではどんなに頑張っても「日本人は●●な人」という答えになってしまうようである。彼らは頭の中で循環論法を使って、いわば自分を騙しているのだが、そのことに気づいていないらしい。まぁ、それにはそれなりの理由があって、そこが私とこの著者の割り切った物言いとの違いなのだと思うが、それを書いていると別のことができなくなるので今は割愛しとく。




自分と異なる考え方、行動の仕方をする誰かに出会うとき、僕たちのなかに、怒り、悲しみ、笑い、憎しみなどさまざまな感情が生まれる。そうした感情は、その相手が、なぜそのように考え、ふるまうのかを理解するための大切な第一歩である。
 しかし堅すぎるアイデンティティは、この一歩を押しとどめる。「なぜ?」。この感情の叫びに、本質主義はこう答える。「それはあいつが女(男、韓国人、中国人、日本人、黒人、白人、ムスリム、クリスチャン…)だからだ」。こうして僕たちは、誰かを理解したような気になり、そこで考えるのを止めてしまう。だから本質主義は、けっして誰かを深く理解することにはつながっていかない。「本質」とは、僕たちが「誰か」を理解する努力を放棄して引き返した場所に立てられた白旗のようなものだ。(p.125-126)



上で述べたことと関連するが、本質主義の立場は、「勝手に結論を先取りしている」のだから、他者を理解することに繋がらないのは当然である。




 日本の研究者は、これまで、みずからの社会をもっぱら西洋社会との対比においてとらえてきた。天皇制国家、タテ社会、恥の文化、超国家主義……。こうしたレッテルは、実のところ日本社会の特質を示すと言うよりも、日本と西洋とのあいだに存在する距離を測っているにすぎない。西洋としか比較しないので、僕たちは日本が、特殊な社会であると考えることに慣れきっている。もう少し、視野を広げてみれば、同じような問題に直面し、同じような解決をはかろうとしてもがいた世界中の多くの人々の経験が目に入ってくるというのに。(p.148-149)



そのとおり。




しかしながら、アンダーソンの研究が、そのような経済史的アプローチと異なる点は、かれがグローバル化を、カネやモノの動きとしてではなく、徹頭徹尾そこで生きるヒトの認識という次元からとらえようとしていることである。(p.162)



アンダーソンの思想の解説として非常に適切。




 一般的に信じられているように、ナショナリズムの時代が終わり、グローバリズムの時代が到来したのでない。グローバリズムは、つねにナショナリズムとともにあり、むしろその生成と発展を促してきた。アンダーソンはこのように主張する。(p.163)



個人的には、本書を読んで最もためになったのはこの点についての認識だった。




 これまで多くの比較研究は、それぞれの国や社会の特徴を明らかにするというよりも、当該の国や社会が、西洋の国や社会のあり方からどれほど逸脱しているかを実際に測ってきた。そしてその逸脱の程度を、時間軸を利用して序列化したものが、近代化論と呼ばれるものさしである。
 このものさしのからくりは、多様に存在する空間的な差異を、時間的な遅れとして、一元的に説明することにある。(p.174-175)



この解説者(梅森氏)は、割り切って分かりやすく示すのがうまい。この近代化論の説明もそのひとつだろう。




 ナショナリズムをアナーキズムが結びつけていたというこのテーゼは、きわめて大胆な問題提起である。なぜなら従来の思想史において、ナショナリズムとアナーキズムは、常に不倶戴天の敵であるかのように扱われてきたからだ。ナショナリストは、アナーキストを、しばしば自己中心的で統制のきかない観念的なテロリストとして非難してきた。一方アナーキストは、ナショナリズムを、個人の自由を抑圧し、他国への侵略を助長する偏狭で好戦的な教義であると主張してきた。
 たしかに国境で区切られた国の内部で起こった事件のみを眺めている限り、このような見解が導き出されるのもやむを得ないところがある。しかしながら、国と国のあいだから歴史を見直すと、まったく違った景色が見えてきますよとアンダーソンは言うのである。(p.177)



このあたりはアンダーソンの新しい本でしっかり読んでみたいところだ。




アンダーソンをめぐる14の対話 より

 国家というのは、1945年以後、さらに増えてきてはいます。しかし重要なのは、どの国も自国の領土をそれ以上広げることができなかったという点です。イスラエルはやったと思われるかもしれませんが、実際はできなかったのです。西岸地区を支配したにとどまり、イスラエルの一部として併合するには至っていないし、今後も多分できないと思います。なぜそうなのでしょうか。なぜいまの世界では領土を増やすことはできないのでしょうか。
 その答えはナショナリズムが、領土を神聖なものにしてきたからです。多くの人が、国の領土は、取引の対象にはならないということを当然のこととしてうけとめています。(p.212-213)



大変興味深い指摘。領土が神聖化されたために、それを巡る争いは激越なものとなる。勢力が強い側が制圧しても、それに対する抵抗はとてつもなく大きな反発となる。そうした傾向はあると思われ、それにナショナリズムが貢献しているのも確かだろう。

ただ、政府間の利害関係によっては、ある程度の取引はなされうると思う。問題は利害と理念(神聖化)が、ほぼ完全に同じ方向性を示しているときであろう。




 この分離独立のプロセスに最も脆弱なのは、古い帝国が、ネーションを装っているような国の場合です。イギリスがその一つの例です。スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを抱えていますから。ロシアもその明らかな実例です。中国とインドもそうです。これらの古く、巨大で、時代遅れの帝国は、岩や石ころをその内部に抱えていて、それらはいつの日か自立の道を歩むことを夢見ているというわけです。ヨーロッパでもそうだと思います。スペインなどでは、その一部が独立を目指すでしょう。それが平和裏に実現するか、暴力的に行われるか、予測はつきません。ただそれが起こることだけは確かです。(p.214-215)



中期的な世界情勢を考える場合には興味深い仮説。

特に中国は新疆やチベットなどが気になる。しかし、今のように高度な経済発展が続く間は分離はしないだろう。その「おこぼれ」が地方に回るからである。低成長の時代がいつかは来ると思うが、その時に危機がやってくるだろう。中国の場合、一人っ子政策のおかげで30年後くらいには人口のバランスが崩れて今の日本のようになる。中国の場合はだから、本格的にこの問題が出てくるのは20~30年後だろう。中国の場合は、その前に台湾の問題があるが、これはなかなか予測が難しい。当面は概ね現状維持だろうが。

スペインなども興味深い事例だし、トルコもクルド人の問題などがあって、この仮説の枠内に入るだろう。しかし、この仮説が余り当てはまりそうもない事例がある。イランだ。イラン古くから大帝国の一部であり続けてきたし、国内の言語や「民族」も相当多様だ。しかし、「イラン人」としての結束の方が遥かに強いと思われる。その意味で、万能の仮説ではないにせよ、興味深い仮説ではある。

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梅森直之 編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』(その1)
第一部 アンダーソン講義録 より

 第二次世界大戦後のアメリカの基本的な戦略構想は、基本的にイギリス、フランス、オランダなどのヨーロッパをアジアから追い出し、それをアメリカの全般的なヘゲモニーで置き換えるというものでした。ヨーロッパのどの国をとってみても、そんな大それた目標や能力を、有したものはなかったのです。それを試みた唯一の国が日本です。日本は、1942年から1945年にかけて、徐々に東南アジア全体の軍事的な占領を行いました。しかし、それを維持する能力を持たなかったのです。
 このことが意味するのは、当時アメリカで東南アジア研究のために作られたプログラムが、アメリカの植民地、すなわちフィリピンのみを対象とするものではなかったということです。
 ・・・(中略)・・・アメリカ人の場合は、冷戦状況のなかで、これらすべてを研究しようとしたのです。このことは、東南アジア研究が、なぜ日本とアメリカにおいて先駆的に開始されたのかという理由でもあります。この二つの国のみが、この地域全体を支配下に置くという帝国主義的野心を有していたからなのです。
 学生の視点に立った場合、こうした研究形態の最大の利点は、どこか一国だけについての授業をとろうとしても、それが許されなかったということでした。すなわち、授業はつねに比較を基に行われていました。・・・(中略)・・・。アメリカの帝国主義が、われわれ全員に、比較研究者となることを強いたのです。(p.27-28)



社会の状況が学問研究の形態や対象まで規定していく。




 われわれは、「純粋な」ナショナリズムというのが、きわめてまれなものであるということを認識する必要があります。
 皆さんは、科学の元素表をご存じでしょうか。ナショナリズムは、高い結合力を持つ元素のようなものです。そしてナショナリズムは通常、左派、中道、右派といった、より政治的な外観や思想と結びついています。その理由は、ナショナリズムというものが、定義上、グローバルなコンテクストにおけるネーションについて、何も語ることができないということにあります。ネーションそれ自身については、雄弁なのですがね。グローバルなコンテクストについて話す言葉を持っていないのです。したがって、ナショナリズムは、自らを取り囲む荒々しい世界と自らを結びつけるには、何らかの補足を必要とするのです。
 十九世紀最後の四半世紀において、国際的に主要となった左翼の流派というのは、今日われわれが知っているようなコミュニズムではなく、多様な形態のアナーキズムでありました。(p.86-87)



大変興味深い指摘。

ナショナリズムはグローバルな文脈におけるネイションについて語る言葉を持たない。

確かにそうかもしれない。

そして、ナショナリズムは様々な傾向の思想と結びつきうる。興味深いのは、アンダーソンが初期グローバル化の時代とする19世紀後半には、ナショナリズムは左翼、それもアナーキズムと結びついて国際的に広まったものがかなりあるという指摘だ。

ナショナリズムというと即座に右翼と発想しがちだが、必ずしもそうではない。これは今でもそうだろう。左派的な思想の人々――ここでは個人の人権の実現と保障を重視する傾向の人々を念頭においている――であっても、ナショナリズムをある程度擁護する人は結構いる。本当に愛国的なのは「愛国心」を法律に書き込もうとしている人ではないという方向の議論などなど。

まぁ、政治の言説について言えば、右翼的な言説ではナショナリズムの言説がより前面に出がちなのは確かだろうけれども。


また、思うに、いわゆる右翼とか国家主義者、国粋主義者の論理が簡単に破綻するのは、その自己中心性の強さ(いわゆる自民族中心主義的な傾向が強く、国の名前を入れ替えたときにも常に通用するような論理を構築できずに――簡単に主張の反証事例を出されて――自爆しがちなことなど)もさることながら、彼らの言説の大部分がナショナリズムの言葉になっているために、グローバルな問題について語る言葉が乏しく、そのせいで問題をグローバルなレベルで捉えることができないところに求めることもできそうだ。

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朱建栄 『中国 第三の革命 ポスト江沢民時代の読み方』(その2)

 縁故者だけを抜擢する人事、大衆の利益の無視、無謀な軍拡競争とアフガニスタン侵攻、そして特権階級の形成などで、国民の心はすでに離反していた。(p.81)



これは1991年、ソ連崩壊について、中国のある研究者が行った講義で述べられたことだそうだ。

2007年現在の安倍政権とそっくりである。

 縁故者だけを抜擢する人事(仲間内ばかりを厚遇する論功行賞の人事)、大衆の利益の無視(ホワイトカラーエグゼンプション、消費税増税、年金記録の不備を隠蔽し続けた、個人より「国家」を優先する様々な法案、等々)、無謀な対米追従による海外派兵のための憲法改正と集団自衛権の容認、実際のイラク派兵、そして特権階級の形成(ナントカ還元水など政治資金を好き勝手に使い放題なのに誰にも報告しなくて良い政治家、政府によって厚遇されて儲けを独占状態の一部企業)などで、国民の心はすでに離反していた。


って感じだろう。




「早く提携すれば、ルールのある競争と分業体制となり、相手の長所を直に観察しながら、自分の技術的優位を保てる。ルールのない競争が続けば、日本の優位はよりいっそう奪われてしまう」(p.221)



これは中国最大の家電メーカー海爾(ハイアール)と提携関係を結ぶことによってリーダーシップをとった三洋電機の井上敏前会長がかつて語った言葉だという。

ここで述べられた発想は基本的に正しく、日中の経済関係が相互の利益になりうる可能性は当面の間はあると思われる。

それを妨げている近年の日本の政治は、まさに没落へ向かっていると言えよう。かつて中国が文化大革命で内向きになっている間に、周辺諸国が急成長して取り残されてしまった状況と今の日本の状況は似たところがある。政治は経済の邪魔をしないでいるべきであり、それが外交の方針であるべきだ。その上で、内政面での労働環境と社会保障を再構築することが、今の政治に求められることである。

憲法改正や教育の国粋主義化、歴史修正主義による戦後責任の放棄といった、イデオロギー闘争に明け暮れているヒマなど本当はないのである。安倍をはじめとする自民党の右派・ネオコンが政権を握ることは、こうした点から見て有害以外の何物でもない。

安倍イラネ。さっさと辞めてくれ。

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朱建栄 『中国 第三の革命 ポスト江沢民時代の読み方』(その1)

 中国政治は今もなお一党独裁である。これは別の角度から見れば、中国のここ二十年の社会構造の変動をもたらしたのは近代ヨーロッパ方式の政治牽引ではなく、戦後の東アジア方式であることを裏づけている。経済の発展は社会構造・国民意識の革命的な変化をもたらしたうえで、必ず市民社会の形成および政治の民主化を促進していく。これは韓国、台湾、タイなどがたどった政治プロセスが証明したことである。(p.17)



これは2002年に出た本である。

半周辺的な地域に住んでいたり、その地域の国籍を持つ知識人の多くは、未だに近代化論のモデルを信じている。本書の著者もその一人であり、そのモデルの枠内で中国社会について位置づけている。

その点については私は意見が異なるのだが、中国政治は一党独裁のままでありながら、経済の発展によって徐々に民主化が進んでいく傾向があるという認識では一致している。

経済力が向上すれば、生活するために必要な所得を得ることが相対的に容易になると考えられる。また、生活のために働かなければならない労働時間も相対的に減る。そうした各人の生活における余力が、主に、余裕そのものと教育機会の拡大という2つのチャネルを通じて、政治的な参加機会を拡大すると私は見る。

教育程度が向上してリテラシーが向上することは、政治的なレトリックを読み取り、自らの意見を発信することに繋がる。そのような基礎的な潜在力が民衆に根付いていくと同時に、政治的な発言や行動を起こすだけの時間、労力、金銭といった様々な面での余力が、政治的行動(市民運動等)へと繋がっていく。

これは人々の持つ「権力」が増大することを意味する。行動する力、発言する力、批判する力、経済的な力、ネットワークを作り団結する力等々が社会的に高まる。これによって、国内の政治的な権力の重心が下方シフトする。これが民主化である。

この動きがある程度まで進み、機会が訪れたとき、制度面でも社会の実情に合わせた変化が(少しずつ)行われる。こうして制度面でもデモクラティックなものに近づいていく。

完全ではないにしても、こうした傾向は世界の様々な地域の歴史に見て取れるように思われる。著者は、ヨーロッパのモデルと東アジアのモデルは別物だと考えているが、私の考えではこれらの地域の「民主化」の進み方はそれほど違うものではない。ただ、民主的な政治体制を擁護するイデオロギーが――他の地域の理論的正当化の雛形となるようなイデオロギーが――最初に明確に定式化されたのは西欧だったというだけである。社会の変動はどちらも経済の向上が先行した。

さらに言えば、国際関係の観点から見ても、ある政治的領域の外部からの干渉を相対的に小さくするためにも、経済力が大きい方が有利である。金持ちの外国が貧乏な国の政府に内政干渉するのは、逆の場合よりも遥かに容易だから。いわゆる発展途上国では民主化があまりうまく行かず、いわゆる先進国では議会制デモクラシーがある程度機能する傾向があるのは、こうした要因も大きい。

そうした外圧を跳ね除ける(干渉されない)ためには、通常よりも大きな経済成長率で急成長する中で、国内の政治的対立を短期で収拾する必要があると思われる。NIESなどがある程度民主化に成功したとされるのは、そうした要因もあったのではないか。

話は変るが、往々にして、ナショナリズムを素朴に(当たり前のこととして)信じている人々は、こうした社会変動や国際政治についての考察や検証をしないで「国民性論」によって解釈しようとして、判断を誤っていることが多い。




 この十年余りの間、江沢民はいつも「保守的で、政治改革をしない」と批判された。彼は少なからぬミクロの問題の処理において反応と対応が硬直的でしばしば後手後手に回った。しかし角度を変えて見ると、マクロの面で経済の改革と発展の内外環境を整備し、政治・権力闘争と国民意識の混乱を回避したのはほかならぬ江沢民であって、それゆえに高度成長が持続した貴重な十年間が得られた。その間、中国の計画経済は「安楽死」し、経済規模は二・五倍になり、毛沢東時代より五、六倍大きくなった。この基礎があれば、二十一世紀の中国が相当思い切った政治・社会改革に踏み切っても大きな混乱を避けられるという見通しが立った。逆にこの基礎がなければ、仮に江沢民が幸運にも政治民主化を推進しえたところで、政治と社会の混乱、権力闘争は必ずいつか、どこかで起きたに違いない。(p.77)



江沢民の時代には「政治改革」はそれほどなされなかったが、「改革・開放」路線は着実に進み、経済力が増大したために、かえって、将来の政治改革の基礎が整ってきたと著者は見ている。概ね私も同じような見方だと言っていい。

ただ、中国経済の発展は「中国政府のマクロ経済政策が適切だったから」できたと捉えるのは、やや一面的というか積極的過ぎる見方ではないか。むしろ、90年代以降の中国の政治は、グローバルな経済環境の下における経済の発展要因を撹乱・阻害しなかった、という消極的な役割を果たしたに過ぎないのではないか。

中国の外部に、投資先を探している膨大なマネーがなければ、改革開放は意味をなさないし、中国の莫大な人口は潜在的な市場であり、それを幾らでも刺激できる状況であればこそ、市場原理の導入という方策によって、経済の好況が維持できる。完全雇用が成立する分野や地域が出てこれば、そこでは市場原理を最大限活用するだけで「自動的に」経済が活況を呈する。

需要が供給よりも大きな社会(完全雇用が実現している社会)では市場原理は有効である。日本のように需要が伸び悩み、供給できる能力の方が余っている社会では市場原理は、ほとんど逆効果しかもたらさない。日本から中国や成長著しいアジア諸国を見る場合には、このあたりの状況の相違を計算に入れなければならないというのが私見である。

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